第7回1000字小説バトル
Entry26
知らない誰かに連れられて、知らないどこかの町に行ったことが ある。僕は小学校3年生で、阪神タイガースの帽子をかぶって体の 割に大きな黒いランドセルを背負っていた。町はオレンジ色の夕焼 けに包まれて、薄い膜がかかったみたいにぼんやりとしていた。電 柱に貼られたパン屋のビラを見て、犬がワンワンと吠えていた。遠 くで電車がガタンゴトンと音を立てて走っていた。 知らない誰かは表情ひとつ変えずに、川にかかった鉄橋をじっと 見ていた。 「おじさんはだれなの?」 僕は聞いてみた。けれど彼はなにも答えず、薄くなった頭を掻い ていた。しばらくして僕のほうを見たけれど、すぐに顔をそむけた。 ちょっとだけ見えた彼の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。夕 日がまぶしかったのかもしれない。 彼の髪の毛はもうほとんど無かったけれど、白いひげはふさふさ していた。僕は彼を白ひげと呼ぶことにした。 鉄橋を眺めて目を細めていた白ひげは、ポケットからミカンを取 り出して言った。 「食うか?」 僕が首を振ると、白ひげは一人でミカンを食べた。 河原に座って、白ひげは僕にいろんなことを話した。阪神タイガ ースが好きなこと、ミカンの栽培をやっていること、台風で大きな 被害にあって、それが原因で奥さんと分かれたこと、そのとき、生 まれたばかりの赤ん坊とも分かれてしまったこと、その赤ん坊と僕 がなんとなく似ていて、つい僕に声をかけてしまったこと。 「僕の前のお父さんも、僕が赤ん坊のときにいなくなっちゃったん だ」 僕がそう言うと、白ひげは泣きそうな顔で笑った。 夕日が落ちてきた。薄暗い景色の中に、電車の窓が明るく浮かび 上がっていた。 「もう帰らなきゃ。お母さんが心配する」 僕は立ち上がった。 白ひげはとても悲しそうな顔をした。 楽しそうな家族の笑い声が、どこか遠くから聞こえてきた。 白ひげと僕は、家から少し離れたところで分かれた。分かれ際に、 白ひげは僕にミカンを一つくれた。僕は礼を言ってそれをランドセ ルにしまいこんだ。玄関のところで振り返ると、白ひげはまだ同じ 場所に立って、ミカンを食べながら僕のほうを見ていた。 今でも秋になると、僕はあの日のことを思い出す。オレンジ色の 夕日、遠くの電車、ミカンの匂い。 僕は庭に生えているミカンの木から、ミカンを一つもいだ。ミカ ンはちょっとすっぱくて、僕は久しぶりに泣きそうになった。
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