第7回1000字小説バトル
Entry31
困った男がいた。自称、小説家である。 その男が3杯目のホッピーを飲み干して言うには、若い頃、どこ かの雑誌の新人賞で、最終選考まで残ったらしい。 「それはつまり、文壇に片足を突っ込んだも同然、ということだね」 と言って、男は4杯目を注文する。 しかし、男の小説はその後一度たりとも世間の目に触れたことは ない。片足作家である。 それでも、男は自信に満ち溢れている。 「いいかい、小説家の仕事は、ただひたすら小説を書くことなんだ。 売れる売れないは俺の知ったことじゃない」 なるほど。疑念を差し挟む余地はない。あんたは小説家だ。じゃ あ、がんばってね。 立ち上がろうとする私の袖を男は離そうとしない。 「少し困った事があるんだ」男の眉がぴくと動く。「じつはね、悪 い事をしないと、小説が書けないんだよ」 「はあ、じつに、困った事態です」 10坪ほどの店内に、男たちの熱い息が渦巻いている。 「でも誤解しちゃいけないよ。悪い事をしないと書けないのであっ て、悪い事を題材に書いているわけじゃない」 それにしても、どうして深刻な顔とホッピーは似合わないんだろ う。 「下着泥棒だよ」いよいよ困りました。「でも、下着泥棒の話じゃ ない。そういうことだ」 自称ではない、この男の本質を言い表す言葉は何だろう? 「片 足作家」は一般的な肩書とは言えない。それに、いまどき片足くら いじゃベストセラーにはなれない。 「昨夜も、文覚上人が那智の滝に打たれている場面で、ぱったりと 筆が止まってしまったんだ」 それで、急いで外に出て、目に付いた下着を手当たり次第に盗ん だらしい。 「まあ、お陰さまで、その後の執筆は順調だったけどね」 お陰さま、とは一体何だ。私は溶けかかった氷を噛みしめ、亡き 母の言葉を思い出す。深く考え過ぎるといい事はない。うん、そう だ。水っぽくなったチューハイを一気に呷り、私は立ち上がった。 すると、男は急に悟った顔をして、私の手から伝票をひったくっ た。 「盗んだブラも有縁、酒場で隣り合うも有縁。まあ、いいじゃない か。俺におごらせてくれ」 「そんな、初対面の方にとんでもない」たかだか2千円の飲み代で 下着泥棒の友達にはなりたくない。「それに、そんな善いことをし たら、書けなくなりませんか?」 「気にしなくていい。書けなくなったら、下着を盗むまでさ」 白髪まじりの前髪をさっとかきあげると、男は爽やかに微笑んだ。
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