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第7回1000字小説バトル
Entry36

鳥類園夕景

作者 : 一之江
Website : http://www05.u-page.so-net.ne.jp/qd5/s-kumiko/
文字数 : 1000
 手洗いから戻る途中、観察舎の陰で屈み込んでキスしている若者
たちを見かけて、擁子は慌てて視線を逸らした。夕暮れ時には相応
しいような気がして笑みを漏らす。何というか、首の角度や膝の曲
げ具合に行為に対する熱心さが表れていて、その切なく可憐しい感
じに打たれた。
 妙に気恥ずかしい気分のままに、池の岸にいる夫の背中を見つめ
ながら近寄る。夫は双眼鏡の中の世界に夢中で、自分の接近にも気
づかないように見える。
 並んで静かに問いかける。
「何が見えるの」
「鴨のね、親子がいる」
「そう」
「かわいいよ」
 夫は双眼鏡から目を離すと擁子に微笑みかけ、覗くように目で合
図する。
 レンズの中に鴨の行列がいた。葦の茂みに寄り添うようにしてゆ
っくり前に進んでいる。それぞれの尻から緩やかな波がうねってい
る。思わず口元が綻びる。な、と夫が耳元で囁く。擁子は小さく頷
く。
 かわいい、と呟いてふっと寂しくなった。ただ無心のうちに列を
作って水面を滑っている鴨たちをじっと見つめるレンズの中の両目
が、じんわりと熱を帯びてくる。喉に少し傷みを感じる。夫にこの
顔を見せたくない。腰をいよいよ屈ませて、鳥の姿に夢中になって
いる体を装う。
 ジッポの火が点るときの油の匂いがする。パチンと金属同士がぶ
つかる軽やかな音が響いた。鳥たちの鳴声だけの静けさの中に、自
分と夫との微妙な距離を感じる。
「だめよ、けむいわ」
 擁子は双眼鏡から離した目を手の甲でこすりながら、夫に笑って
訴える。
「ごめん、これだけはやめられないな。残念ながら」
 夫は煙を深く吸う。携帯用の灰皿に灰を落とす。擁子は夫の顔を
見て、この人も老けたと思う。
 再び夫は双眼鏡を覗く。擁子はその横で、夕闇に溶け込みそうに
なりながら微かに姿を認められる鴨の親子に視線を合わせる。
「キス見ちゃった」
 秘密を打ち明けるように囁く。
「いつ」
 夫は姿勢を変えずに低い声で訊く。
「さっき、トイレから戻ってくる途中」
「観察舎のところか」
「そう。なぜ?」
「その前に俺が通ったときもしてたよ」
 擁子は俯いて笑い声をたてる。夫も鼻で笑う。
「いいもんだな」
 レンズから目を離して夫が柔らかな笑顔で言う。
「してみようか」
「私なんかでいいの?」
 夫の顔が僅かに歪む。擁子は少し悲しくなる。
「馬鹿」
 擁子の手を温かな大きな手が握る。その手を強く握り返す。夕闇
が濃くなる。鳥たちが鳴きながらどこか寝床へ向かって飛び立って
いった。






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