第8回1000字小説バトル
Entry2
私が覚えている最初の思い出、つまり私にとって最も古い記憶は、 両親のことでも兄弟のことでもなく、その頃すでに年老いていた祖 母の思い出である。 祖母は早くに夫を亡くした独り身で、私の両親が共働きであった こともあり、私は生まれてからずっと祖母にあずけられていた。 ある日のこと、つまりはこれが私にとっての最初の記憶なわけで あるが、祖母が私に絵本を買ってきた。絵本といってもきれいな表 紙の有名な絵本作家が描いたものではない。ボール紙に流行りのア ニメの登場人物がかいてある数百円の安物だった。 その内容はよく覚えていない。ただそこに、小さい鹿のような動 物が草むらから顔をぬっと突き出し、僕に向かっておどけるような 笑顔を差し出している絵があったことだけ、鮮明に覚えている。 祖母は、ページもろくにめくれない僕にその絵を見せ、「ほれ、 シカや。シカとゆうてみ」と、いつものぶっきらぼうな言い方をし て僕にそれがシカであることを教えようとした。 「シカや。ほらゆうてみ」 僕はまねをした。 「チぃか」 「ちがうて、シ、カ!」 「チぃか!」 「よう見とくんやで、口を見るんやで。ええか。シ、カ」 「んん、チィィかあ!!」 「声が大きなってるだけや」 結局、私はうまく「シカ」と言えず、祖母はあきれてしまい、 それでも私は何度も何度も、しか、しか、と小声で練習していた。 * 小学校に上がってすぐに、半年ほど寝たきりだった祖母が他界し た。葬式が終わった後に、姉からこんなものが祖母のタンスから出 てきたと一冊の絵本を渡された。 ぺらぺらページをめくると見覚えのある笑顔に出くわした。 「あ、シカ」と私が反応すると姉は 「なに言うてんねん。鹿やないで。よう見てみいな」と戒めた。 もういちど、そのページをよく眺めてみると笑顔の横に吹き出し があり、 「ぼくは いたずらするけど さびしがりやで ほんとはやさしい バンビの バンバン」 と書いてあった。 バンビ。 「でも、おばあちゃん、鹿っていうとったで」 「ああ、おばあちゃん、字、よう読まんかったからなあ、てきとー にいうとってんやろ」 僕はもう一度、確かめた。 醤油のしみがついていた。 横でテレビを見ていた母が言った。 「おばあちゃん、おまえのために買うたんや。字読まれへんのに。 大事にせなあかんで」 僕は黙ってうなづいた。 そして、そいつを指差しながら、小さな声で、 「しか」 と言った。
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