第8回1000字小説バトル
Entry21
ぼくがその泉のことを知ったのは、いつだったろう。 十七歳になっていた。恵まれた環境。優しい両親、信頼のおける 友人、美しい恋人。 それでも。 ふと考える。狂気とは何なのか、と、正気とは。 ぼくが、例えばぼくが、十人中九人の者に狂人とみなされたのな ら、ぼくはぼく自身がいくら言い張ったとしても狂人に他ならない。 現在のこの幸せも、十人中九人の者が認めるからであり、彼らがす べて消えさったとき、ぼくは果たしてどうなってしまうのだろう? ぼくがぼく自身であり、他の誰でもないということを、彼らがい ないところでぼくは証明できるだろうか……? ぼくはぼくという 「個」の真実を知りたい。人々に認識されなくなったときのぼく。 そのとき残ったものはいったい何なのだろうか、と。 けれどそれを知るためには、ぼくという人間の他、誰もいないと ころ……世界の果て、海の只中の小島にでもいくしかない。両親、 友人、恋人を捨てて。 ――――狂泉。昔、中国にあったという泉。その水を飲んだ国の 民はみな発狂したという。ただ一人、王のみが井戸水をのみ正気を 保った。しかし、狂った心に正しい心は歪んで見え、人々は口々に 叫んだのだ。「――――王が発狂した……!」と。 誰に否定できたろう? 王自身に、それが成し得たとでも? 十人中九人どころではない。 自分以外のすべての者が、おまえは狂人だと指差すのだ。彼らが狂 人なのか? 己が狂人なのか? 誰に責められよう……? 狂泉に 走った王を。王は泉に走りより、ひとすくいの水を飲んだ。それを 発狂したと形容するのは、ぼくら後世の人間だ。民は、王が正気に もどったと喝采したに違いない。 誰に言うことができるだろう? 彼らが狂っていた、と。本当に 王が狂っていたのかもしれない。民は正気だったのかも知れない。 ぼくらの、現在の世界は狂っているのかもしれない。ただ……ぼく らがこれを正しいと思い込んでいるだけで。 それを確かめる術は? ああ、そんなものは、どこにもないのだ。ぼくが本当の自分自身 を知るために、この恵まれた環境を捨てることができないように。 「もし」本当に、自分が消えてしまったら、「もし」本当にこの 世界が狂気だったら。 そのことを知る勇気がないぼくには、狂泉に口をつけることなど 出来やしない。 ぼくの庭には永遠に口をつけることのない泉がある。
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