インディーズバトルマガジン QBOOKS

第8回1000字小説バトル
Entry28

電話の向こう

作者 : 一之江
Website : http://www05.u-page.so-net.ne.jp/qd5/s-kumiko/
文字数 : 1000
 何してたの? で始まるあの人の電話も、無機的なブザー音のわ
ずか後で切れる。その一瞬に、ああできればこの機械の向こう側、
その姿のすぐ近くに、気の遠くなるほど込合った線をひゅっと辿っ
てあちら側に行けたらと、それは何度も思うことだけど、今日は何
かその思いが強かったのか、はっと気づいたときには、いつも名前
だけは聞いていた、小さな私鉄の駅にいた。
 この前の逢瀬のときと同じスーツの後ろ姿を、息を呑んでしばら
く眺め、しかしその背中がどんどん小さくなってゆくのに、こんな
突っ立っている場合じゃないと、とにかく追うことだと、後をつけ
る。店じまいを始めた商店街の中をゆく。スポーツ新聞を持つ右手
を少し大袈裟に振り回して歩くあの人の左右に傾げる肩に、ただ息
をつめて視線を合わせ、いつの間にか履いていたヨットブルーのサ
ンダルのコルク製の分厚い底が、アスファルトにぶつかる音を聞き
取られないようにと、そっと歩く。シャッターが閉まりかけたスー
パーに入る。スーパーに入る。プラスチック製の籠を掴む無造作で
滑らかな手の動きに、胸を突かれる。中まで追う意気地はない。何
を言いつけられたのか、なめこなのか、脱脂綿なのか、ゴミ袋なの
か、そんなことは知りたくない。
 店を出て迷いもせずに歩いてゆく。ふと追うことに疑問を感じて
立ち止まる。それでも、ここまで来たからには、ともはや引き返せ
ない気持ちを抱いて、そのまま後をつけてゆく。住宅街に入る。小
さな明かりの点る販売機の前で立ち止まる。マイルドセブン、マイ
ルドセブンでしょ。無機的なブザー音。目を逸らせば、あそこか、
と何の意志の作用も待たずに足はそちらの方へと吸い寄せられて、
すばやく夜風を切る勢いで体は前方へ傾く姿勢で、息をきらしなが
らただ進めば、目の前はもうドアで、ここまで来たらしかたないと、
何やらわからぬ納得をして、チャイムのボタンを押す。それで出て
きた女に何を言うつもりなのかと、あっと思ったときには手後れで、
チャイムが鳴る。
 そのチャイムを中で聞いたのに我に返り、あわててドアを開けれ
ば、疲れた顔のあの人が、当然のようにそこにいる。ただいま、と
いう抑揚のない声に、あの電話の向こうの甘ったるいやさしい声を
もう聞くことはないのだろうかと、何か約束を破られたような気も
するが、責めるあてなどないことに、いつものように気づかされ、
それでもその度にため息をつくことは、やめられない。






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