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第9回1000字小説バトル
Entry18

黒い街の記憶

作者 : 河村純
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文字数 : 989
 八歳になったばかりの頃、母に連れられて汽車に乗った。
 父は一緒ではなかった。母と二人だけで出かけたことは、それま
での私の記憶には無い。
 母は終始、無言で切符を買い、空いている席を見つけて私を窓際
に座らせた。どこか物憂い、操り人形のようなぎこちない動作で、
やり残した仕事を片付けているようだった。
“何処へ行くの?”という私の問いかけが、宙に浮かんで、やがて
消えた。私は汽車の窓を開け、風が上半身を叩いて行く微かな痛み
を、何故か寂しく感じながら、外の景色を楽しんでいるふりを装っ
ていた。
 なんだか、理由の分からない涙が私の頬を伝った。

 不意に、後ろの方で、男の野太い声が響いた。
「奥さん。この席に座らせてもらってもいいですかね。へへへ」
 その粗暴な男は、母に猥雑な言葉を浴びせ続けた。かなり酒に酔
っているようだった。母が、我慢しているのは解かった。その時突
然に、
「迷惑です。あっちに行ってください」
 母は、毅然としてそう言い放ち、男を見据えた。私は驚いて母を
見た。今まで見たことのない、私の知らない母の姿がそこにあった。 

 終着駅で汽車を降りた。街の風景が異様だった。目の前に広がる
建物が、みなどす黒く汚れている。この街には、たくさんの工場が
あって、人々はそこで生活の糧を得ているのだと母は言った。陽は
西に傾いていて、駅前に佇んでいる私たちの影が、駅舎の壁に吸い
込まれて消えた。
「映画を見ようか」
 母は独り言のように呟いた。
「うん!」
 私はその場に不似合いなほど元気よく返事をした。駅前の映画館
に、古めかしいフランス映画の看板がかかっていた。
 つまらない映画だった。しかし母は、涙ぐんだり、ときにはのけ
ぞったりしながら、最後まで夢中でスクリーンに見入った。その姿
態からは、一人のあどけない少女のような愛らしさが、艶やかに匂
い立っていた。
 映画館を出て、すでに薄暗くなったこの黒い街を母と二人で歩い
た。
「立木のおじさんのうちへ行こうね」
 恋人にささやくように、母は媚態を含んだ声で、私に行き先を告
げた。冷たい風のせいか、私の身体は小刻みに震えていた。
 明日から、父と別れて、この街で母と二人きりで暮らすことにな
るのだということ。そのことをぼんやりとではあったが、しかし重
々しく私の運命として受け入れざるを得ないのだと、私は思った…。






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