第9回1000字小説バトル
Entry29
姉さんは、髪が黒くて色は白くてすらりと細くて、まるで狐のよ うに綺麗だったけど、失恋してからなんだかちょっと崩れちゃって、 日がな一日部屋に閉じこもっては立川文庫の忍者小説ばかり読んで いる。 「さっちゃん、ちょっといらっしゃい」 「なあに姉さん。わたし今、遅刻しそうなんだけど」 「あのね、今夜は中秋の名月なの。だから撒き菱に気をつけなさい」 崩れた姉さんは崩れたコトを言い放ち、そのくせ端正な顔つきで ふふふと笑った。 「忍者に化かされないように、下を向いて歩くのよ。撒き菱を撒か れるから」 「よくわからないけど、月が出てるならきっと大丈夫よ。明るいも の」 「月夜の撒き菱、よ」 「え?」 「昔の諺よ。忍者は月明かりの晩にあえて撒き菱を撒くって意味。 追手が綺麗な月に見惚れている間にパラパラ撒くのよ」 奇妙な話だったけど、崩れていたけど、遅刻しそうだったけど、 私にはなんとなく意味がわかった。 塾の帰りは独りの夜道。電灯のまばらな路では言われるまでもな く足元に注意が向く。 「月夜の撒き菱、月夜の撒き菱」 念仏のように唱えながら歩を速めた。いまだ見上げていない空の 上、名月は本当に私を照らしているのだろうか。 「月夜のマキビシ、月夜のマキビシ」 後ろから誰かがついて来るような気がしたけれど、うつむいた私 の頬を手裏剣がかすっていったかもしれなかったけれど、姉さんを ふった男が黒装束で印を結んで立っているかもしれなかったけれど、 私はひたすら下を向いて歩いた。べつに涙をこぼしたかったからじ ゃない。マキビシを見つけたらひらりと身をかわせるように。マキ ビシの毒がまわって崩れてしまわないように。 「ツキヨノマキビシツキヨノマキビシ」 そのうち、綺麗なパンプスや可愛いサンダルが大して綺麗でも可 愛くもない足とセットで視界に入ってくるようになった。賑やかな 商店街の通りに出たらしい。 濁ったネオンの明かりの下、市松模様のタイルの上、マキビシの 代わりに千円札が落ちていた。他の通行人は気づいていない。厚底 のソールを踏み台にすれば地面から飛び立てると信じている人達に 見えるわけがない。 私にしか見えない千円で、姉さんにケーキのお土産を買った。 嬉しそうにショートケーキをつつく姉さんの白い頬はとてもよく 月に映える。 「上にのっかってる尖った赤いやつ、血だらけの撒き菱みたいなの、 あなたにあげる」 白い姉さんが苺をくれた。私は一口に頬張ってみせた。
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