インディーズバトルマガジン QBOOKS

第9回1000字小説バトル
Entry3

作者 : 夏蜜柑
Website : http://y7.net/u/natsumikan.html
文字数 : 993
 「また来てるんですか?」
 店に入るなり私がしかめ面をしたので、マスターがきょとんとし
ている。
 今日も客は少ない。ぼさぼさの髪に無精ひげ、見るからに不潔そ
うな年齢不詳の男が一人、こちらに背を向けて座っている。
「ひえーっ、何よあの灰皿。見てるだけで気持ち悪くなりそう」
「綾ちゃん、驚いてないで換えてあげたら」
 カウンターの中から、マスターが苦笑いを浮かべていう。
「嫌ですよ。むこうからいってくるまで、ほっとけばいいんです」
 店の奥の暗がりに位置する場所。そこが「アイツ」の指定席だっ
た。「アイツ」は私が近づいたって見向きもしない。野球帽の庇の
下の「アイツ」の目は、いつだってテーブルの上に注がれたままな
のだ。そして、途切れることのない煙草。
「ヘビースモーカーって、大っ嫌い」
 私は小声でいった。
「ほかにすることないのかしら。毎日毎日うちの店に入り浸って煙
草吸ってさあ」
 実家からの仕送りとバイト代を合わせても、生活費はかつかつ。
やりたいことは山ほどあるのに時間もお金もない貧乏学生の気持ち
なんか、「アイツ」にはわかんないだろう。
「もう1か月くらいになるかな」
 突然マスターがいった。「よく続くよね、ほんと」
 人のいいマスターは、ニコニコしながら頓珍漢なことをいった。
「昨日、綾ちゃんが帰った後でね」
 エプロンで濡れた手をふき、マスターがレジの下の引き出しから
封筒を取り出した。
「彼が、これを売りつけていったんだ」
 私はおもわず眉をつり上げていた。
「信じられない、マスターってば。いったい何を買わされたんです?」
 マスターはにっこりして、封筒から二枚の紙切れを取り出し、私
の前に差し出した。
「〈劇団アホウドリ〉? 何これ」
「芝居のチケットだよ」
 私はわけがわからず、マスターの顔を見た。
「はじめて役を貰ったといってたよ。いったいどんな役なんだろう
ねえ」
 そういって、マスターはそっと奥の席に視線を移した。「アイツ」
はさっきと同じだらしない姿勢で、煙草を咥えては煙を吐いている。
マスターが思い出したようにいった。
「彼、1か月前まで煙草を吸ったことがなかったんだってさ」
 数秒の沈黙の後で、私は大きく溜息をついた。そしてカウンター
の上に積んであった灰皿を乱暴に掴んだ。
「しょうがないな、もう」
 マスターが密かに笑いを噛み殺していたが、私は無視して、紫色
の煙が渦巻く「アイツ」の指定席へと向かった。






インディーズバトルマガジン QBOOKS
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。