第9回1000字小説バトル
Entry6
男は向かいの席に座ってすぐ、弁当をつかいはじめた。見ないよう にしていても匂いは流れてきて、意識が弁当に集中してしまう。私 は苦痛に耐えかねて、腕を組んで目をつぶった。 鼻まで塞ぐ訳にもいかず、すぐと落着かない目を開けて、窓外に顔 をねじ向けた。 車窓に写る、通路を挟んだ隣のボックス席の老人がそんな私を凝視 しているようだが、それは気にしすぎかも知れない。 「学生さん」男が唐突に言った。「食べさるかね」 「頂きます」即答したことを恥じて、私は口を結んだ。男は弁当で はなく、飴玉を幾つか載せた手の平を私に向かって突き出していた。 男の手は膏でくろぐろと汚れていたが、私は仕方なく一つとって口 に入れた。微かにたばこの匂いがした。複雑な思いで飴玉を口中に 転がしている私を男は何事か考え込むように眺めていた。 「なあ、あんたさん」 「はい」 「わしらは在所のもんだけをの」 「はい」 「あすこら辺のもんは大概今頃は町の工場まで出稼ぎにいくもんだ をの」 「はあ」 「あすこはひとづかいがきつい荒くでわしらみたような歳のもんで も若い衆と同じにや らされる」 「はあ」 「今日は半年振りに休みがとれた。女房の葬式なのさ」 男は湿った咳を二つ三つした。私は話の唐突さに黙り込んだ。男は 続けた。 「女房は死産で死んだ。・・女房が死んだのに、弁当が旨い。本当 なら、飯も喉を通らんというとこじゃないのか」 私を見ていた男の視線は段々下がり、今では自分の膝に向かって話 をしてる。 「考えてみれば、飯を食う為にだけ、ずっと生きてきたんだからな。 女房が死んでも飯を喰う、親が死んでも喰う、子供が死んでも、… ひょっとしたら俺自身が死んでも、どこかで相変わらず飯を食い続 けていくような気がする。」 いつのまにか、男の言葉から訛りが消えていた。 私は、自分の今の激烈ともいいたい空腹を考えた。口中の飴玉は噛 み砕かれて消滅していた。 私は口を開こうとした。 「そうとも。人間は他人の屍肉を喰らって永らえているのだからね」 しわがれた声。振返らずとも、窓に先刻の老人が立ち上がり、ゆっ くり歩み去るのが写って見える。私は開きかけた口をそのままに、 茫然とそれを眺めていた。 私は男と顔を見合わせた。そして、もう一度自分の空腹に思いを馳 せた。 「そうです。僕は死にそうに腹が減っています。」父母を殺して以 来、誰かに自分の空腹を打ち明けたのは、初めてだった。 静かに涙が流れた。
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