第10回1000字小説バトル
Entry20
大理石の丘を一息で登りきると、そこには美しい湖があった。水 はまったくの透明で、やはり大理石でできている湖底を、寸分もに ごらすことなく見ることができるほどだった。風も、波もない。す べては静寂に包まれていたのである。 私は湖畔にしゃがみ、水を飲もうとそっと口を水面につけた。し なやかな円を描くように波紋が広がっていった。ふっと目で追う。 水面に映っていた何者かの姿がゆらゆらと揺れた。顔を上げる。 ! そこには殺意丸出しの生物がこちらを見据えるようにたたず んでいたのである。大きな男だった。 逃げねば! そう思うより早く、私の足は丘の上めがけて動いて いた。なぜ丘の上かは分からない。きっと本能的なものなのだ。そ して気づくと、私は切り立った崖の上に立っていた。一旦深呼吸し 男はどうしたか見ると、変わらずこちらを見据えていた。隙をうか がっていたのである。そう、今のように立ち止まっている時を。 男の手が飛んでくる。遠まわしに見ていた時は分からなかったが、 男の手はかなり大きかった。私など手のひらで簡単に押しつぶされ てしまうだろう。それほどの体格差だったのだ。男の手が間近に迫 る。そして、 パッ。 ドンッ! スーッ。 間一髪で、羽を広げて飛び立ったのである。またも空振りした男 の様子を振り向き見ると、呆気に取られていた。私が飛ぶなどとは 考えていなかったようだ。もっとも、そう長くは飛べないのだが。 前を向きなおすと、そこは不覚にも、左右に逃げ場のない深い谷 の中だった。水が長い間かけて浸食し、ここまで深くしたのであろ う。それを証明するように、一筋の川が流れていた。川の水は黄土 色で、無気味に光る水面は、私が力尽きるのを心待ちにしているよ うであった。しかし。こんなところで終わってたまるか。 少し行くと谷の左側の崖に隙間が見つかった。旋回し光差す隙間 へと身を投じる。 こともなくするりと抜けて、明るい平原に出る。 思わず笑みがこぼれた。平原一面、色とりどりの花で一杯だった のである。そろそろ限界でもあったし、私は花畑に降り立った。優 しい匂いが鼻をくすぐった。 右側は、樹齢数百年を数えようかというほどの立派な木々が、空 に向かってまっすぐに伸びて薄暗かった。それもあってか、花畑の 美しさがいっそう映えた。 うっとりと、幻想の世界に浸っていた。 「ごめん、ゴキブリ」 私の魂が、私の亡骸持って、そう言う男を見ていた。
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