第11回1000字小説バトル
Entry19
腕時計の針は、もうすぐ明日の時刻を指そうとしていた。 「まいったなぁ」 背広姿の剣持祐介は、腕時計を一瞥するなりあきらめに似た呟き を発した。 「走るか……」 片手に書類の詰まったバッグを抱え、薄暗い路地を猛然と駆け抜 ける。腹の出具合が、少々気になってはいるが、未だ三十に達して いない年齢と昔とった杵柄――彼は、元陸上の短距離走者だ――を たよりに全力疾走している。が、ものの百メートルたらずで、ずる ずると後退していった。 「ハァハァハァ」 彼が、走っているのには理由がある。 今日は、妻との三年目の結婚記念日なのである。しかし、日々忙 しい職務に追われる彼は、ここ一ヶ月、妻とろくに会話もかわして いない状態だった。 せめて、今日くらいは!との願いもむなしく、深夜に及ぶ残業に なってしまった。 そういうわけで彼は、走った。生れてきた中で、もっとも真剣に 走った。 タクシーでも捕まえれば、もっと早く帰れるんじゃ、ないか?と 考える人も居るかも知れないが、待つ時間がもどかしく感じ、走っ たのだ。 もっと、早く! もっと、早く! もっと、早く! 死に物狂いで走った彼が、帰宅したのは、深夜一時をまわった頃 だった。 「た、ただいま」 鍵を開け、ドアを開ける。 そこに、妻の姿はなく、一通の書置きが書いてあった。 『仕事と結婚したアナタには、ついていけません。実家に戻ります』 その横には、離婚届が、寂しげに置かれてあった。 「なっ!何だってんだよ」 祐介は、ヒステリックに叫んだ。「俺は、お前の為に頑張ってき たんだ!それを、何だよ!」 誰も居ない部屋に鞄を投げつける。 ドンッ!という嫌な響きが、祐介に冷静さを取り戻させた。 「料理が……」 テーブルの上には、冷めて汗をかいているシャンパンと豪華な料 理が、二組手付かずで置かれてあった。 「涼子のやつ……待っててくれたのか?」 自分のしてきた仕打ち――忙しい仕事が原因だが――を祐介は、 思い出した。 ふいに、『頑張って』 聞きなれた声が、耳に響く。 『頑張って』 昔の、陸上をやっていた頃の事が、走馬灯のように駆け巡る。 スランプに陥ったときに彼を励ましてくれたのが、あの声だった。 「そうだ。涼子は、いつもそばに居てくれたじゃ、ないか」 祐介は、立ち上がった。そして、埃を被ってあった古いシューズ を取り出した。 そして、家を飛び出した。 祐介の頭には、走る事しかなかった。彼女を迎えに行く事しか、 考えていなかった。 断られたときは、キッパリと諦めよう。自分のしてきた報いだか らしかたがない。 それでも、諦められない。 死に物狂いで走った祐介が、涼子の実家についたのは、午前三時 を過ぎた頃だった。 玄関には、驚いた顔の妻が居る。祐介は、とびっきり優しく笑っ た。 「……帰ろう」
![]()
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。