第11回1000字小説バトル
Entry23
私は、シベリアの大地に敷かれた鉄のレールのように冷たくて、 表面にびっしりと露をつけたガラスのコップを指先で持った。だけ どその中で半分くらいに減ったアイスティーを飲もうとはしなかっ た。ただ、コップをテーブルから3センチほど浮かせてゆらゆらと 揺らした。 「僕のような人間にとって、君のような女の子がどんなに大切な存 在なのか、どうしたらそれをうまく説明できるんだろうな」と彼は 言った。 私はコップを持つ指先の力を少し緩めた。中空3センチの高さに 浮かんだアイスティーのコップは、ことりという音とともにテーブ ルの上に落ちた。私の手からは何もかもがすべり落ちていき、あと には空っぽの手だけが残される。ため息も、絶望も、後悔も、果た されなかった約束も、手に入れられるはずだった愛も、かすかなあ きらめの航跡を残しながら、私には触れることのできない彼方へ、 私の知らない場所へ、遠く遠く離れていく。 彼がテーブルの向こうで話していた。でも彼の話す言葉は、この 堅牢な渋谷の街の中で私の脳裏に何の影も形作ることができず、メ キシコの沙漠のまっただ中で干からびた白骨のように、からからに なる。からからになる。 「炎天下で溶け出したアスファルトみたいに、それがぐにゃりと曲 がるんだぜ。見たことないでしょう? 六本木の店でもこのまえ実 演してたよ。君にぜひ一回見せてあげたいよ。ねえ、今度一緒に見 に行こうよ」 彼は有名百貨店の跡取り息子で、アルファロメオに乗っていて、 慶応の3年生で、金を持っていた。服装のセンスは良くも悪くもな い。でも顔は良くなかった。すでに腰のまわりに脂肪のクッション をまとい始めていた。だけど、彼は金を持っていた。 私はコップから手を放し、舌をちろりと出して指先を舐めた。そ して少し上目使いで「ねえ、どこかへ連れて行ってよ」と言った。 彼の顔に、待ってましたという表示が出るのがわかった。喫茶店 のテーブルを立ち、レジで支払いをして、プラスチックの要塞のよ うな渋谷の街を歩きながら車が駐めてある場所に向かう間も、彼は ずっと意味をなさない話を続けた。私は、スタイルが良く、美人で、 服装のセンスも抜群だ。だけど裕福ではない。私は所沢で親と同居 する普通の短大生だ。でも私はスタイルが良くて美人なのだ。 彼はほんとうによく話した。彼の言葉、意味をなさない言葉。不 細工で太った彼の言葉。 だけど、彼は私に何でも買ってくれる。
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