| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 黒い鳩 | 改生起あさと | 1000 |
| 2 | 死神のテニスボール | 俊 | 999 |
| 3 | ピグモン | 岡嶋一人 | 984 |
| 4 | (作者の希望により掲載を終了いたしました) | ||
| 5 | ヒミツ | Momo | 1000 |
| 6 | 雨宿り | ひろ猫 | 958 |
| 7 | Holiday | 川辻晶美 | 967 |
| 8 | I wana be your dog | 小林知恵 | - |
| 9 | 19,2000 | 穂積行人 | 約1000 |
| 10 | 密室者はかく語りき | 工藤裕也 | 995 |
| 11 | 雪の慕情 | 並木たけひ | 982 |
| 12 | 清瀬博士のインターネット診察ファイル | 清瀬博士 | 972 |
| 13 | 熊 ★ | 三月 | 961 |
| 14 | 狂気 | Sagi | 999 |
| 15 | 赤い雨の少女 | 村田秀人 | 835 |
| 16 | わな | 百内亜津治 | 573 |
| 17 | いい男 | 佐藤ゆーき | 990 |
| 18 | 自殺願望の男 | keii | - |
| 19 | RUN | 綾部正斗 | 987 |
| 20 | 後悔 | 逢澤透明 | 1000 |
| 21 | 或る夜の体験 | 岡田聡次郎 | 675 |
| 22 | 白と黒 | Default | 991 |
| 23 | 彼-その1 | matthew | 999 |
| 24 | ハンディキャップ | うめぼし | 982 |
| 25 | それは詭弁というものだ。 | 吾心 | 878 |
| 26 | 夢の記憶 | 紅 樹 | 797 |
| 27 | 若者の就職難におけるジレンマ | DIPSY | 990 |
| 28 | ハザリ | 紺詠志 | 1000 |
| 29 | 昇天 | Yamac | 998 |
| 30 | 祈り | 埜間夏太 | 1000 |
| 31 | コーヒー | おーぎや | 956 |
| 32 | 前回までのあらすじ | ぶおまる | 734 |
| 33 | 変身 | サトコフ | 999 |
| 34 | ぶれーき | 羽那沖権八 | 777 |
| 35 | オオワライタケ | 浅間伸 | 966 |
| 36 | ネガティブ | 冬至 | 995 |
| 37 | 上着と鈴 | 鮭二 | 1000 |
| 38 | (作者希望により削除) | - | - |
| 39 | あおいろのおはなし | しろ | 501 |
| 40 | 羽田君の本当 | 川島ケイ | 954 |
| 41 | 赤の陰謀 | akoh | 1000 |
| 42 | 誰か、あたしとやらない? | TAKUTO | 1000 |
| 43 | 誘い | 千秋 桜 | 988 |
| 44 | 奥様は魔女J型 | ヒモロギ | 1000 |
| 45 | 洗脳 | 越冬こあら | 1000 |
| 46 | 河原の二重唱 | 一之江 | 1000 |
| 47 | 切符がない | ファゼーロ | 995 |
| 48 | ケモノ | リツコ | 720 |
| 49 | 恋愛事始め | アベタツヤ | 992 |
あさとのいい話しNO・1 「黒い鳩」 第1話 「黒い虹」 黒い虹の見える空。今日は鳥が一匹、その空を飛んでた。黒いハト だった。他のハトに比べ醜かった。 「なんで君はその空を飛んでいるんだい?」僕が言う。 黒いハト「ハトだから」 僕「あっそっか!」「でも?なんで空は黒いの?虹まで黒いよ」 黒いハト「私はね。黒いのよ!そんなことより、その事をちゃんと 聞いてよ」 僕「なんで黒いの?ハトさん!」 黒いハト「それでいいんだよ」「なんで黒いか知りたい?」 僕「早く言ってよ」 ハト「……実は………歪みが起きたんだ……空全体に……」 僕「空全体?歪み…」「君にだけかい?他のハトは何にもなってな いのに…」「どうゆうことだい?」 ハト「そのとき…私だけ、あれを見てしまったの…」 「そう…あれも黒かった。とても綺麗で私は見惚れてたの…」 「とっても綺麗だった」 地震が起る・ゴゴゴゴゴゴッゴゴゴゴゴゴゴッ ハト「いやだわ!あいつが来るわっ!早く逃げるのよ!」「早くっ」 僕はまだその怖さを知らなかった…僕はその地震の起きた、はるか 遠くの光景にハトがまだその怖さを知らないときのようにただ美し さに見惚れていたのだった…… 第1話 END あさとのいい話しNO・1 「黒い鳩」 前回のあらすじ 僕とハトがに黒い虹について話していた。そ のとき地震と共にあいつが現れたのだった…… 第2話 「黒い鳩の正体」 ゴゴゴゴゴゴゴゴッゴゴゴゴッゴ………地震は続いている ハト「早く逃げないといけないってば」「なにしてるんだ君」 僕「………… なんて綺麗なんだ 」 ハト「もう私はだまされない」 ゴゴゴゴゴゴゴッゴゴッゴ ドンドンドンドンッ… 迫る音 だんだん近づいてくる ドンドンドンドンッ ハト「やばいっ」 僕を連れて逃げようとする ハト「君、僕より遥かに大きいよ重くてもてない」「早く逃げない と行けないってゆうのに…」 迫る音がもう直接、耳に聞こえている。もう山の響いた音ととゆう より山の声に囲まれたような強い音である。 急に慌てたような視線でハトを見つめてこう言った 「さっきまで綺麗だったのにあれはなんだっ!綺麗どころか黒く薄 汚れた霧みたいなのが見える……」 僕「そうかっ!ぼくが綺麗だと思って見てたのはあいつの姿自体で なくて黒く染まっていく虹だったんだ」「それにこんなに雨も降っ て……」 雨がひどく荒れている ビュンビュン ビュンビュン 僕の肩に雨があたった… 肩が黒く染まったように見えた 僕「イヤー――ッ熱い熱いよーー」 ハト「君もやけどしてしまったか…… そのうち体全身がやけど になってくるんだ」「私は5日まえに雨に濡れてこうなった」 「はじめは羽にふっと触れただけだったのに…」 僕「虹が黒いのはなんでか分かってきたぞ」「虹に灰がかぶさって るんだ…だけどなんの大量の灰なんだ…?」 ハト「私は近くで見たわけじゃないんだけど、灰というより何か生 きてるような…動いてるように見えたんだけど……」 「きっと生き物が虹に付着してるのよ」 僕「君は、はぐれたって言ったけど仲間と今一緒にいるよね」「多 分わからないと思うけど仲間は何か知らないのかな?」 ハトの仲間「オレたちはすまないが何も知らないんだ」「でも、虹 がかかる前は空に沢山のコウモリが慌ただしかったのは知ってる」 近くの僕の友達「コウモリはこの前、探険に行った比叡山に居たじ ゃない」「そのコウモリたちじゃないのかな?」僕に言う 僕「確かあそこは昔から妙な噂が有ったよね…」 ハトの仲間「山が空を黒くする…山の深くでそのとき青い光が生み 出される…」 ハト「山は自然のものではない…………………か」 第2話 END ※この物語他あさとシリーズは1人に送られる、又はいろんな人が 読んでいます。 改生起あさと このページの購読は無料ですが、あさとに返事を書いてあげてくださ い。あさとはあまりに感想が返ってこないと仕事に疲れてしんでしま います。栄養は返信メールですので元気をあげてください。宜しくお 願いします。 スタッフ一同
ある日の夕方公園で、テニスボールが飛んできた。投げ返そうと そっちを見ると、死神がいた。死神は歯をかちかち鳴らして言った。 「へこむくらい、握りしめろ」 ボールは結構固かった。指に力をこめると少しへこんだ。カチッ と音がした。 「それはお前の魂のスイッチだ」 「は?」 「押してる間は生きてられる。離せば死ぬ。そしてお前は連れて かれる。OK?」 「OKじゃないな」 「いやいや、いいから。握力のある間が余生だ。心残りがあればそ の間にな」 死神は消えた。ばかばかしいので手を開いた。ボールはてんてんと 転がった。死神がまた現れた。風がふき、ボールはもう少し動いた。 二人でしばらくそれを見ていた。 「死なないな・・・」 「・・・死なないな」 「どうしてかな・・・」 「・・・俺に聞くの?」 また風がふいた。なにか悲しい感じがした。二人とも黙っていた。 黙ったままベンチに座り、夕日を見ていた。ボールは微妙に動いた。 「あの・・・何でテニスボールなの?」 「野球の硬球は硬すぎるし、ゴムボールは柔らかすぎる、テニスの ボールはその点絶妙のバランスだって説明書にはあった」 「そういう事じゃないんだけど・・・説明書?どこで買ったの?」 「通販で買った。ノルマきつくてな。殺したら楽かと思って」 「殺したら?」 日が沈む。ボールは動く。頭の中でも脳が動き、口が開いた。 「君は死神だよね。つまり死を司る」 「まあ、そうだね」 「で、そのボールのせいで俺は死ぬとこだった訳だ。これはつまり ボールをよこした君が殺すってことだ」 「うん、まあね」 「なんか話がおかしくない?」 「え?」 「殺すと死ぬは違うから、君の職権を超えてるってことだよ。多分 そのボールは、不良品でさえないぜ」 「・・・ハメられた?」 「そうだね。地道にいけってことだ。ノルマがあるのなら」 「これを誰かに握らせてくれないか?」 「同じ事だよ。法律で言う殺人教唆にあたる」 「訴えてやろうかな。高かったし」 「ノルマは?金は?」 日はすでに沈みきっていた。死神は黙って僕の手にテニスボールを ねじこみ、消えた。やはり、少し悲しかった。テニスボールの蛍光 色が、夕闇に浮き上がってみえた。 その日以来僕は、頭の悪い観念的存在というものについて考える ようになった。ボールは、靴箱の上に健在だ。それを見るたびに、 彼は訴訟を起こしているだろうか、やるなら物証にこれが必要なは ずだが、と思う。未だに取りにくる気配は無い。
中島は内装会社の営業マンとして勤務していた。その日は社屋の 改装を予定している食品会社に売り込みに来た。最近、成績が芳し くなく、ここで大きな仕事を取らないと彼自身の進退も考えなけれ ばならないところまできている。 「丸高内装の中島と申します」 と対応に出た男性に名刺を差し出すと、 「私、畑野と申します。只今、部長が参りますがそれまでの間、私 がお聞きします」と話し始めた。 部長と言う人物が現れるまでの間、中島は畑野とかなり打ち解け て話をした。好感触だった。見積さえあえば、全フロアの改装を任 せても言いという。30分ほどして部長がやってきた。 「いやあ、どうもどうも、お待たせしちゃって」 中島は立ち上がって、 「いえ、こちらこそお忙しい時にお伺いいたしまして。中島と申し ます」と名刺を差し出した。すると、部長は「あれっ」というよう な顔をしたかと思ったら、今度は怪訝そうな表情になり名刺と中島 の顔を見比べながら、 「つまらないことをお伺いしますが、中島さんひょっとして『西町 小学校』の卒業じゃありませんか?」 「えっ、はあ、そうですが」 「やはり、そうでしたか。私ですよ。坂口ですよ。憶えていらっし ゃらないかなあ」 しばらく考えてから「ああ、坂口さん」と、営業マンの調子良さで 言ったものの本当は覚えてなどいなかった。 「部長、お知り合いですか」 畑野が坂口部長にそう聞いたとたん、坂口部長の顔色が変わった。 「ああ、どうもそのようだ。畑野君、お帰り頂きなさい」 「はあ?」 「帰って貰えと言ってるんだ。時間の無駄だ」 坂口部長は「失礼するよ」と言って出て行ってしまった。 追い出された格好の中島は、一生懸命昔の記憶をたどってみたが、 坂口と言う人物がどうしても思い出せない。何が彼をあんなに怒ら せてしまったのか。 もやもやしたまま、一日の仕事を終えて自宅に帰った中島は押入 れの奥から卒業アルバムを引っ張り出して、名前から坂口を探した。 その人物はすぐに見つかった。写真を見て中島は全てを悟った。 一度も同じクラスになったことはなかったが、気の弱いやつで、 いつもおどおどしていた。皆で口々に囃し立てた。 「おい、あれやってみな」 いやがるあいつに無理やりやらせたものだ。やらないとみんなで苛 めた。当時、流行っていたテレビに出てくる怪獣の真似を。あいつ の名前なんか知らなかった。 皆、ピグモンと呼んでいたから。
「誰だろう」 美野子は首を傾げた。 彼女の手に握られているのはシャープペンシル。 夕食の後、郵便受けに入っていた、と母から渡された白い封筒の中 身がそれだった。 なんの添え書きもなく、ただシャープペンシルが一本。 封筒には「みや」という二文字が書かれているだけで、差出人の名 前はない。 プレゼントというわけでもなさそうだ。 かなり年季も入っているし、コンビニで買える一般的な形のもので ある。 実際、似たようなものを美野子も持っていたことがあった。 「変なの」 呟いてペンケースにそれをしまうと、美野子は布団に潜り込んだ。 冬休みというのはイベントが多い。 睡眠はとれる時にとっておいた方がいいのだ。 布団に入って小一時間。 美野子は何度目かの寝返りを打った。 どうしても眠りにつくための身体の位置が決まらないのだ。 もどかしさが不意に込み上げて、美野子は上半身を起こした。 そのまま枕元のランプをつける。 眠れないのを例の妙な届け物のせいにすることにして、彼女はペン ケースを開いた。 机から封筒も取り出して眺める。 切手も住所もないのだから、差出人は自分で届けに来たのに違いな い。 「みや」と彼女が呼ばれていたのは中学生の頃だ。 仲の良かった友達は誰も、美野子の通う進学校には受からなかった。 親の説得に負け、結局友達と違う道を選んだ彼女は今、新しい「み ぃ」という名前で呼ばれていた。 あの頃の友達…? 美野子は3年前に思いを馳せた。 蘇る思い出はみな、子供じみていて、同時に眩しかった。 小さなヒミツを共有することで友情を確信していたあの頃…。 「…!」 心当たりがあった。 シャープペンシルが届けられた理由、それは…。 はやる心に震える手で部品ごとにバラバラにして、軸を覗き込む。 「やっぱり…」 そこには細く丸められた紙切れが入っていた。 あの頃、仲間はみんなこのタイプのシャープペンシルを使っていた。 それは、授業中に落とした振りをして、こういう風に手紙を交換す るためだったのだ。 美野子は紙切れを取り出すと、丁寧にそれを広げた。 【みや、こんな風に手紙を書いてごめん。リエだよ。覚えてる?こ れを読んでいるなら、ヒミツの手紙覚えてるんだね。あの頃からず っと好きだったタカに告白して、振られちゃいました。そしたらな んか、他の誰でもなく、みやに会いたくなったの。よかったら電話 して】 メッセージに携帯の番号が添えられていた。 美野子は、なぜ自分が泣いているのか分からなかった。
夜明け前、わたしは一人民家の軒先で雨宿りをしていた。夕べは すっかり飲み明かしてしまい、アパートへ帰る道すがらであった。 五月といえども明け方は冷え込み、雨に濡れた指先はほのかに赤み がかっている。向かいの酒屋の軒先には、雨にぬれぬように身を細 め、膝の上にツギだらけの毛布を掛けた男が座っていた。男は時折 物憂い表情をこちらに向けるのだが、わたしはそのたびに下を向い たり時計を見たりとその視線から逃れようとした。 自分の腰から上ほどもある新聞の束を抱え、雨の中をその少年は 元気に走ってきた。はっ、はっ、と白い息を吐きながら水色の雨合 羽を着た少年は、大事そうに新聞を抱き「おはようさん」と無言で 白い歯を見せた。少し気恥ずかしいがわたしも「おはようさん」と 微笑み返す。 そのとき、向かいの男が声をかけた。 「坊主、何か恵んでくれんか。おじさんはこの通り足が悪いんじゃ」 少年は足を止め、困ったような表情をして男の前で立ち止まった。 無言の時間がしばし流れ、やがて少年はポケットに手をつっこみ何 やら男の前にさしだした。それは三つか四つのキャンディーだった。 少年は恥ずかしそうに顔を赤らめ、丁寧に男の膝にそれを置いた。 男はちょっと苦笑いをすると「ありがとうよ。よし、おじさんも 坊主にええもんやろう」と言って、紙袋の中から小さな素焼きのオ カリナを出した。見たこともない形のものに、少年は怪訝そうに首 をかしげた。「ええか坊主、これは楽器や。きれえな音がするんや でえ」と言うと、男は少しもったいぶってそのオカリナを吹き始め た。ほーっというさびしげな音色が、誰もいない雨の小路に静かに 響き渡った。聞き覚えのない曲だったが、わたしはその音色に心を 奪われた。おそらくは、男の創った曲なのであろう。吹き終わると 男は無雑作な手つきで、オカリナの自分が口をつけたところをツギ だらけの毛布にこすり付けると「ほれ」と少年に手渡した。それを 大事そうに受け取った少年はからだの前で妙な手振りをすると、に こっと笑ってまた元気に走っていった。 少年は耳が聞こえなかった。少年のいったあとには、あんなにも 大事そうに抱えていた新聞が一部、さみしそうに水たまりに浮かん でいた。いつのまにか雨は上がり、雲間からは五月の暖かい日差し がわずかながらこの小路にさし込んでいた。 (注釈) 本文中に二度ずつ使われている“表情”と“小路”についてですが、 “表情”は“かお”と“小路”は“こみち”と読んで下さい。コメ ントではないのですが、ルビのふり方が分からなかったもので追記 させていただきました。
はじめのうち、香里がシャワーを浴びているのかと思った。まど ろみから醒めきらない身体を反転させて、隣のベッドを見ると、彼 女は肩まですっぽりと毛布を被り、まだ深い眠りの中にいた。 ずきっと、一瞬胸に痛みが走り、ため息がそれに続く。雨音から 少しでも遠ざかりたくて、私は毛布を耳元まで引き寄せた。 「ダイビングは無理ね」ぐっすりと眠っているかのように見えた香 里は、すでに目を覚ましていて、さっさと起き上がってミニ・バー に立つと、電気ポットで湯を沸かし始めた。私はもう一度眠ってし まおうと、きつく目を閉じる。夢の中に逃げ込んでいるうちに、南 国の太陽が雨雲を追い払い、目覚める頃には、惚れ惚れするような 青空が空を彩っているのに違いない。 「このぶんじゃ、一日中降るわよ」香里の冷静な言葉に、はかない 希望も打ち砕かれた。わたしはぐずる小学生のようにのろのろとベ ッドから出ると、ソファの背に首をもたげて座った。 「飲みなさいよ」まんべんなく窓に張り付いた水滴を恨めしく見つ めていた私の前に、湯気の立つ紅茶が差し出された。 「スコールよ」私はあきらめきれずに呟く。 「まさか」香里はテラスの窓を開け、真剣な眼差しで確かめるよう に海を見る。強い風と共に、横なぐりの雨が、部屋の中まで入り込 み、並べて置かれた二人分のダイビング器材を濡らした。香里の視 線を追って窓の外に目をやると、空と地平線の境すら区別のつかな い、波打つ海が広がっていた。それはぽっかりと宙に浮いた、ただ の灰色の空間のようにも見えた。「やっぱり無理ね」香里の声は、 思いのほか明るい。 短い休暇の最終日。この島近海にしか生息を確認されていない、 ヘブン・バタフライ・フィッシュを観る為の早朝ダイビングは、フ イになってしまった。 お互いの結婚以来、ようやく実現した女同士の気ままな旅。明日 にはこの部屋も引き払う。それでも、香里の口元には、かすかな笑 みさえ浮かんでいる。 「亭主たちへの言い訳になるじゃない」 「何が?」 「もう一度、この島へ来る理由が出来たじゃないの」 七色の背鰭を持つという、幻の大魚。長年の夢だった対面の時。 この旅最大の目的は、果たすことのできないまま終わりそうだ。 口にした紅茶の思いもかけない渋みに、二人して顔を顰めたことを きっかけに、目を合わせて笑った。 恵みの雨が、降り続いている。
静かな夜中の三時。最近夜中に目が覚める。会社に入社してもう 三年がたつ、未だに信じられない事は人生というものがこんなにく だらない事の繰り返しなのかという事だ。 『毎日嫌な事を我慢する。誰かが我慢したから、それに合わせて君 も我慢すべきだ。いいから君は目をつぶって言う事を聞けばいい。 右を向く事が正しいのではなく、右を向けといった事に条件反射の ようにしたがった事が正しいのだ。そんな機械のような生活の中に 自分なりに理由を作り、会社の出した目標に対して達成感を見つけ なければならない。』 布団から抜け出し煙草に火をつける。大きく吸い込んで大きく吐 く。深呼吸のようにそれを繰り返し、興奮した脳を落ち着かせる。 落ち着こうと努力をするのだ。私は落ち着こうとつれば落ち着ける ものだと信じている。要は信じる事が大切なのだ。それでも毎日不 安で夜中に目が覚める事には心身ともにダメージが大きかった。 『就業中は利益を追求し常に会社のために行動し、そのケアをかね て就業後は社員同士のコミニケーションも大切だ。酔った振りをし 話す事で鬱憤を晴らし。次の日からまた何事もなかったかの用に振 る舞う。ストレスは体によくないからため込まない事。上手に発散 し、円滑に仕事を進められるようにするのが望ましい』 鞄から取り出した白い封筒には退職届けと書かれた黒い文字があ る。これが私のストレスの上手い発散の仕方なのだ。私はこれを持 ち歩く事でいつでもここから開放されるのだと簡易的に感情をコン トロールするようにしている。 暗いワンルームの部屋は静かで時が止まってるように見えるのに 時計の針だけが確実に時を刻んでしまう。それはちょっとした恐怖 で、確実に私はこの世界に参加していて、やはり同じように変化し ていくという証のようだった。その生々しさが恐くて私はボリュー ムを絞って音楽をかけて牛乳を冷蔵庫から取り出し一気に飲み干す。 そう言えば私は牛乳が嫌いだった。白い封筒をもう一度眺め、冴え た頭をそのままに布団に入る。布団を頭までかぶり息を殺す。 会社を辞めたければ辞めればいい。波一つたたない空気を恐いと 思えば音楽をかけて波を起こせばいい。消えない不安はどうすれば いいのかまだ解らないが、応急処置として消えないものはそのまま でいいと信じる事だ。 飲み干したコップのそこには白い私の嫌いだった牛乳が薄く幕を 張っていた。
2000年1月1日、午前0時15分、地元の駅に僕たちはいた。 駅の構内に向かって降りる階段の上で自転車にまたがった僕、その 後ろの小さなバス停のベンチに隆史と加奈子。 「ねえ、なんで年越し早々こんなところに呼び出されなきゃなんな い訳?あたし圭ちゃんと初詣に行く約束してるんだけど」 「洋介はさあ、今、ここで何かを表現したい訳さ。付き合ってやろ うぜ」 僕は自転車のタイヤ越しに階下を覗き込む。24段、こうやって みると相当高く見える。 「なにするつもりなのよ、ねえ、洋介!」 僕は寒さに震えながら膨れている加奈子に振り返って叫ぶ。 「ここを自転車で駆け下りるんだよ」 しばらくしてから加奈子があきれ顔で問い返す。 「そんな事して何になる訳?」 僕はそれには答えなかった。無言で自転車をベンチの横まで押し ていく。 「第一危ないじゃない、頭でも打ったら死ぬわよ」 「心配すんな、死ぬときは俺が看取ってやるから」 大きなあくびをしながら隆史が続けた。僕はスタート地点に着く。 「何だってミレニアムにこんな事に付き合わなきゃなんないのよ。 ミレニアムよ、ミレニアム!」 「おまえさあ、その言葉の意味解ってるのか?」 「圭ちゃんに教えてもらったもん、ドイツ語で2000って意味で しょ」 「…そのアホな彼とはもういい加減別れたら?」 「なんでよー」 僕は呼吸を整えてペダルに足をかけた。 「行くぞ!」 一気にこぎ出す。自転車はすぐにトップスピードに到達する。風 が刺すようだ。頬と手が痛い。階段が迫る。僕はわくわくしていた。 自転車は少し空を切って一瞬浮き上がり、そのまま3段目まで飛ん だ。前輪が階段に落ちたときに衝撃が手と足からはい上がって肩か ら上空に突き抜けていく。がたがたた、と階段を滑り落ちる。しば らくはそのまま降りれたが前輪が変な角度で段を蹴った時、後輪が 浮き上がり、視界が普通なら見えないような連続した断面となり、 背中と肘に激痛が走ったとき僕は自分が転がり落ちた事に気づいた。 頭も打ったようだ 加奈子が階段を駆け下りてきた。 「ねえ、大丈夫?」 「死んだか?」 隆史が階段の上から覗き込んでいる。 僕は寝転がったまま乾いた冬の夜空に大きく叫んだ。 「ア、ハッピーニューイヤー!」 加奈子が隆史を振り返ってあきれ顔で言う。 「洋介ってつくづく自己完結型人間よね」 「おまえ、その言葉の意味解ってるのか?」 頭の悪い僕たちの2000年はこうして幕を開けた。
「し、死んでるっ!」 川島は浴室を覗いて思わず叫んだ。後から来た響子はその光景に 口を手で押さえ、嗚咽を漏らした。 聡美はパーティーの時に着ていたドレスのままで、水で充たされ たバスタブに浸かっていた。大量の出血のせいか、浴槽はまるで血 の海と化していた。 「これは大変な事になったな・・・」 橋口が漏らした。川島はその言葉を聞き、確かにこのパーティー が聡美の新たな旅立ちを祝うために開かれたものだった事を思うと やりきれない気持になっていた。 「さ、聡美っ!」 芳江は浴室に飛び込むと浴槽から聡美の身体を起こし、抱擁しな がら悲鳴にも似た泣き声を上げた。 「おい!警察が来るまでは勝手な事はしない方が」 終わりまで言いかけた橋口を響子が制した。 「芳江と聡美は、高校の頃からの親友だったのよ。警察には申し 訳ないけど、少しの間あのままで居させてあげて」 川島も橋口の方を見ながら響子の言葉に肯いた。 橋口は二人の表情に鼻から大きく息を吐くと、泣き声の反響する 浴室の方を見つめた。 「ところでフロントに連絡は?」 響子が言った。部屋にいる人間は顔を見合わせた。 「それじゃ、俺が行ってくるよ」 入口の側にいた北村が部屋を飛び出した。 気持の落ち着かなくなった川島は内ポケットから煙草を取り出す と、橋口に勧めた。二人はひとつのライターで火を分け合い、大き く煙を吸いこんだ。 それから20分もしないうちにホテルに警察が・・・ねえ、こん なもの読んで楽しい? 私はちっとも楽しくないわ。大体こんな殺風景な話を好むなんて、 あなたも相当つまらない人なのね。 もっと楽しい話をしましょうよ。例えば、明日の事とか。 ああ、あなたみたいな人に明日の事を聞いても「明日も今日と変 わらない」とか言うのかしら? うふふ。 それじゃ、私の話を聞かせてあげましょうか? 私はね、田舎町 の資産家の娘なの。この年まで一度も働いた事がないから、あなた みたいな人のつらさは想像でしか言えないわ。 恋。恋も何回かしたわ。 最初の恋は12、3歳の頃だったかしら? 相手は2歳年上の、 とても背の高い人だったの。・・・ 疲労が溜まっている時に本など読んではいけない。200頁ほど の分量のうち、3分の2がこの女の話に変わっていた。 犯行は北村と芳江の不倫のもつれによるものだったが、隙を見て は僕の手に取る本に現れるこの女の正体はいまだに謎である。
椿の枝さえ凍えた今日未明、私しは息を引きとりました。 陽光が反射して漆塗りの棺に入れられて、赤く紅葉した南天、黄 色い菊、青紫の桔梗、病気で小さくなった私しの身体は、色とりど りの花々に埋められて綺麗に寝かされております。棺の横には、近 所のお友達、稀にしか会わない親戚、愛しい息子たち、そして、泣 き崩れるおっとう、ああおっとうよ泣かないで、私しはおっとうが 心配でなりませんで、心持ちの弱い人でして私しがいなければ何も できないのです。この葬式の多忙のさ中、誰も彼の喘息の持病を心 配することはできないでしょう。 皆が焼香をあげて、葬式の退屈に飽きた子供たちがはしゃぎ出す 頃、幼少を知っている近所の若い青年たちが筋肉を軋ませながら、 私しの入れられた棺を軽々持ち上げて外に運び出しまして、そのと き暗い曇り空からは霰雪が降ってきまして、雪が黒い棺に降りかか って私しの頬からは涙を流したような滴が一筋垂れました。樫や椎 の雑木林が遠くに見える畦道を抜けて、奇妙な葬列は続いていきま した。めいめいが最後の別れを終えますと、木組みにとめられた縄 で棺を吊り降ろしまして、重く湿った土が鈍い音を立てながらかけ られていきました。頼りになる息子に成長した冬也に抱きかかえら れて、おっとうは激しく咽び泣きまして、遠い血縁の親戚の人たち も涙を浮かべずにはいられませんでした。 これから独り身になったおっとうは、私しが死にましたら後妻を 貰って下さいねとお願いしたとき、貰うものか、愛しているのはお 前だけだと、私しに言ってくれましたね、きっと本当に貴方は再婚 しないでしょう。ああ、その貴方のやさしさが、おっとう自身を不 幸にするでしょう。 私しには時間が残されてありませんで、もうすぐに、行かなけれ ばなりません。天空からのお迎え、――私しを愛くるしく育てて下 さった両親が、もうすでに私しを迎えにやって来る時頃です。 「まア、黄色い蝶々が、お空に昇っていくよ」 「綺麗だあね。あの黄色い蝶々は、亡くなった奥さん生まれ変わ りなのよ」 「うちのおっとうも、何かに生まれ変わってるうん」 「そうかもしれないわね」 「ふふっ、まアの髪に止まったあ」 「ふふっ、ほんとうに綺麗ね」 「まアに、おめでたいことがあるのかもしれんなあ」 「そうだあね」 奥さんを亡くした夫と、未だ十尺ほど離れたところで、おりんと その子供は、早春の空を見上げていた。
『あ〜〜、今日は暇だな・・・・・・』私はいつものように、パソコンの 前に座っている。 そう、私は、インターネット専門の精神科医である。 患者『すいませ〜ん!せんせ〜〜い。いますかぁ〜〜!』 どうやら患者のようだ。『はいはい、いますよ〜(笑)、ところで 今日はどうしました?』 患者『あの〜、実は僕、チャットの中の彼女に・・・・・・』−−−−5 時間後、−−−−−−−− 『ふぁ〜〜あ、今日も疲れたなぁ〜、帰るとするか』 ーーーーーーピンポ〜ン、玄関のベルを鳴らす。『はぁ〜〜い』妻の声だ。 『あなたぁ〜、とりあえずおふろに入りますか?それとも、お食事 ?』妻の笑顔は最高だ。 『じゃ、おふろにするか。お前も一緒に入らない?』『え〜っ!、 はずかしいわぁ〜』 と言いながらも顔は笑っている。私は、妻の洋服を強引に脱がせは じめる・・・・・・。 『だ、だめよぉ、』その時、『ただいま〜〜』『だれ?』 『いやだ〜、わたしよ〜、パパの娘じゃな〜い。忘れたのぉ〜。そ れより、パパとママなにしてんのよ。(笑)』 『いや、これはだな・・・・・・その・・・・・・』『アヤシイな〜(笑)』 『あやしくなんか無いよ〜、ねっ、ママ〜〜?』 『・・・・・・』『あれ?ママ?・・・・・・』『そういえばさ、パパって、リ アルでなにしてる人?あとぉ、どこに住んでる人なのかなぁ?』 『パパは精神科医に決まってるでしょ!(笑)』『だからぁ〜、そ うじゃなくってさぁ、ホントのホント、リアルの事だってばぁ ((爆))』 (えっ?リアル?そういえば、俺って・・・・・・・。俺って誰だっけ?) 『ん?パパ?レスが・・・・・・落ちるね〜〜』娘さんが退出しました。 清瀬博士『いかがでしたか?これは典型的なチャットジャンキーで すが・・・・・・え? 私は違う?そんなにインターネットにはまっていない、と?フフフ フフ、フが五つ、確かにこれはインターネット上の話です。しかし、 皆さんには関係無い話といい切れるでしょうか。そもそも人間とは、 知らず知らずのうちに色々な役を演じて生きているものです。彼の 場合、ちょっと現実とサイバー世界の区別がつかなくなってしまっ たに過ぎません。 皆さんもくれぐれもパソコンのやりすぎにはお気おつけくださいね 〜。それでは、また会いましょう。 おっと、忘れてた、 ところで今のあなたは、ホントのあなたですか? それとも・・・・・・』
これが最後だと決めていた。 昨日の初雪のせいで、まっさらの白布を敷き詰めたかのような斜 面に、勝治はいた。河原と、あと一月もすれば凍りつく小川を挟ん で反対側に、その熊はいた。 勝治は両の手の猟銃を構えなおした。吐息がゆっくりと左手へ流 れた。 数ヶ月前から、普段は出るはずもない山道にまでこの熊が出現し だした。熊を討つことのできる人間は年々少なくなっていった。こ れで何頭目か。五十までは数えていたが、自分の年を越えてしまっ たあとはもう止めてしまった。 雪があらゆる音を吸ってしまっていた。雲が空を覆い尽くしては いたが、あたりは明るかった。ときおり何かの加減か、ガサガサと 物音がした。熊は探し物でもするように、ゆっくりと首を回した。 妻はとうにいない。ある日突然ふっつりといなくなった。勝治は 一人だ。一人で生きてゆける年齢ではもはやないと思った。もう、 命を切り売りするような仕事は止めようと決めた。暖かいところへ 行こう。もっと暖かく、熊のいない――。 妻は、いなくなった。そのころ二歳だった、息子をつれて。もう、 十年も前のことだ。 勝治は銃口を熊に向け、瞳を傾け照準を合わせた。熊は、勝治の 瞳と銃口を結ぶ直線上で雪のにおいを嗅ぐようにかがんでいた。 眉間――眉間だ。勝治の口から白い息がこぼれた。 熊はすっくと立ち上がり、こちらを見たかに思えた。 銃声が静寂を食い破った。 熊は前のめりに倒れた。雪がまるで土煙のように舞った。眼の覚 めるような赤さで、雪に血がにじんだ。 勝治はやせた一本の木に手をついた。皮を剥ぐ気力はまるでなか った。帰ろう――吐息が白く、胸に残った。 下ろされた銃口から、煙が消えた。 勝治は、見た。一頭の仔熊がやってきて、崩れ落ちた熊のもとへ、 おそるおそる近づいていく。 母熊であった。人々を襲ったのは、神経の過敏さによるものであ った。 『ぱぁぱ?』 柔らかい息子の頬。つたない言葉で呼ぶ声。 震える指で、勝治は弾を込め直した。仔熊は母熊に鼻をすり寄せ、 不思議そうに首を傾げた。 こもったような金属音は、引き金を引けばいつでも弾が飛び出る という合図だ。この寒さで勝治は汗をかいていた。そして、震えて いた。震えた指が、銃口をどこへ向けたろうか。 銃声は明るく暗い白と黒だけの世界に、長々と余韻を残して、消 えた。
壁に飛び散る鮮血。争いの跡。体中を朱に染め、仰向けに転がる 死体。殺人現場の情景として特筆する点があるとすれば、それは死 体の額だけがきれいに拭われ、業務用と思しきスタンプで『1』と 記されていたということだ。 到着した刑事たちは真剣な面持ちで現場に入って行く。ベテラン の刑事でも眼を背けたくなる凄惨な死体に、刑事研修中の渡辺は思 わずトイレに駆け込んで朝食のスクランブルエッグを見事に再現し てしまった。最悪の出会い。そう、これが渡辺とヤツ――連続殺人 鬼スタンパー――との戦いの始まりであった。 渡辺が正式に刑事となった翌日、河原の仮設トイレの脇で撲殺さ れた被害者が見つかった。額には『3』のスタンプ。先週末には『 2』の死体が首都高速の高架下で発見されたばかりだった。いずれ も物取りの様子はなく、これらの被害者を繋ぐ事実も見つからない。 何より連続するスタンプの番号が担当する刑事たちの焦燥感を煽っ ていた。 捜査に東奔西走する渡辺。しかし努力も空しく被害者の数は増え ていった。高層ビルの屋上、体育用具室、歩道橋・・・。ヤツはま さに神出鬼没だった。極秘であった額のスタンプの情報もどこから か露出し、マスコミは連続殺人鬼の存在(スタンパーと名付けたの は彼らだった)と警察の無能さを連日トップで伝えていた。警察の 体制強化にも関わらず、死体のカウンタは着実にインクリメントさ れていった。 「ナベさん」 死体に顔を歪めた藤田が声を絞り出す。いつしか渡辺にも部下が つくようになり、髪には白いものが多く混じるようになっていた。 「今回も――」 「ヤツだ。この『101』ってのが俺たちを嘲笑ってやがる」 うす曇の空を見上げ、渡辺はコートのポケットを探る。取り出し た煙草を咥え背中を丸めて火をつけた。ゆっくりと煙を吐き出す。 「でも百人目のガイシャが見つかってから、もう十何年も経ってる んですよ」 藤田の言葉に渡辺は鋭く噛みついた。 「だからなんだ、え。キリがいいからってヤツが終りにしてくれて たってのか?」 「そんな――」 「上の奴らも上の奴らだ。俺が何度言っても耳を貸そうとはしなか った。ヤツは脅迫観念に取り憑かれてるんだぞ。狂ってるんだ。人 を殺るってことをライフワークだと勘違いしてる。だから――」 死体を見下ろしながら渡辺は言葉を継いだ。 「――続くさ、これからもな」 その眼差しはまるで愛おしいものを見るかのように優しかった。
「綺麗な雨」窓の外に降る赤い雨を見て、摩耶は、そっと呟く。 不思議な少女だった。授業中、わたしは、教壇から彼女の横顔にし ばらく見とれた。 数年前から日本全国に降り出した赤い雨。見る人の気持ちを暗くす る血のような色だった。摩耶だけが、この雨を美しいと言う。 わたしの知る限り、この雨に好意を持つ人は他にいない。担任教師 として何度か話したことがあるが、どこか現実離れしていた。 「どうしてこの雨は赤いのかしら」 いつだったか、摩耶がきいてきたことがある。 「雨の中に微量の鉄分が含まれてるらしい。それが日の光に反射し て真っ赤に見えるんだ。何故そうなったのかは、わからないけどね」 「何だ鉄なの」 「何だと思っていたの」 摩耶は小首を傾げた。 「わかんないけど、この世の雨とは思えないの」 「先生、どうかしたのですか」 最前列の座席から、生徒が声をかけ、わたしはハッと我に返った。 摩耶の視線は、降り止まぬ雨に注がれたままだった。 数日後の放課後、その摩耶が死んだ。 その日は朝からずっと赤い雨が降っていた。 帰途、駅へ向かうわたしの眼前で、横断歩道を渡る彼女は、信号無 視の乗用車に跳ねられたのである。その小柄な体が一瞬宙に浮き、 路面に叩きつけられた。 おどろいて駆け寄ったわたしには、彼女がすでに虫の息であること がわかった。携帯電話を取り出して、救急車を呼んだ。 あっと言う間に大勢の野次馬が集まった。 額から流れる多量の血が、赤い雨に洗われて、流されていく。 「摩耶、しっかりしろ」 わたしは、薄目を開く摩耶の耳元で空し呼び続けた。 すると血の気の失せた唇が弱々しく動いた。何かを言おうとしてい る。わたしはその言葉を聞き漏らすまいと、彼女の口元に耳を近づ けた。 「綺麗だね」 と、摩耶は言っていた。 その目はアスファルトの路面に流れる赤い雨と混ざり合った自分の 血に向けられていた。 わたしは頷くしかなかった。 頷きながら、不覚にも微笑んでしまった。 やがて、摩耶は静かに目を閉じた。遠くから救急車のサイレンの音 が近づいてきた。
ある寒い冬の午後。凍てつく太陽がこの暗い小さな建物の窓から 見えている。湿った空気に混じる臭気がやや不快だ。そう、ここは 公衆トイレなのだ。 立って用を足していると、後ろで物音がする。だれか来たな。お っ、ちょうど真横まで来てこっちを覗いているぞ。不謹慎な奴だ。 「あ、君ぃ、大きいねえ」 (無視) 「ちょっと君、もっとよく見せなさいよ、あらっ、こんにちわして るわねえ」 (無視) 「あんた、一体何歳なのよお」 (無視) 「ねえ、ひょっとして、男性経験少ないんでしょう」 (無視) 「やっぱりだわ」 あまり無視していたのが良くなかったのだろうか。あれ以来、こ こに暮らして2ヶ月目になる。暮らしているというよりか、閉じ込 められている、監禁されているといったほうが正しい。ここは公衆 トイレなどではなく、奴らの罠として建てられた物だったのだ。毎 晩十数人の男たちがここへやって来る。そして…。 【ニュース速報】 ○○県××市内の空地に建てられたバラック小屋から男性の死体が 見つかった。この建物をトイレだと勘違いしたトラックの運転手 (34)が警察に連絡した。死体は死後10日程経っていると見られ る。死因は餓死。近所の人の目撃情報によると、毎晩この建物に多 数の男性が出入りしていた模様。同建物内には死んだ男性が書いた と思われる手記が残っており、県警では男性の身元とあわせて調べ ている。
僕は女の子にもてたことがない。顔は悪くないと思うし、国立大 学だって出てる。スキーは二級を持ってるいるし、週に三日は五キ ロのランニングを行っている。仕事は医療機器メーカーの営業で給 料も申し分ない。でも僕は女の子にもてたことがない。その現実は 僕から自信を奪い、まわりに気を遣ってばかりいる卑屈な男にして いた。つまりはもてない悪循環に陥っていたのだと思う。 確かに女の子にもてないくらいでおおげさなと言われるかもしれ ない。でも僕は本当はもっともてるはずだと信じていたし、今の自 分の人生は僕の本来の人生ではないとさえ思っていた。それにどん な人生が僕の本来の人生だったとしても、二十代前半の男にとって 究極的に女の子にもてたいという以上の望みがあるのだろうか。 とにかくそうやって僕はどんどん自分の理想の僕からかけ離れて いって、時には自分に絶望して暗い部屋の中で涙を流すこともあっ た。そして酒の量が増えていった。 酒を飲んだ時、僕は少しだけ卑屈な自分から逃れて堂々としてい られることが出来た。でも僕はその開放感のために調子に乗ってま わりの人たちを傷付けることになった。そういうことは大抵僕のお ぼろげな記憶の中で起こっていたが、そのために次の日僕は自己嫌 悪と頭痛と吐き気の中で一層深い絶望感に襲われて何度も死のうと 思った。でも僕には死ぬ勇気もなかった。 嫌いな自分から逃げようとして余計に自分を嫌いになり、またそ れから逃れるために僕は走った。しんどい思いをして自分の体を追 い込むことで自分に対するいらいらを忘れようとした。毎回五キロ のタイムを測って少しづつその設定を上げていった。 でもその自己嫌悪と絶望から逃れるというネガティブな目的の為 のランニングは、またも僕を調子に乗せて僕を誇らしい気分にさせ ていた。学生の頃ならいざ知らず、社会人になってまでこんなにし んどい思いをして自分を追い込むことが出来る僕はやはりただ者で はないと思う。こんな人知れず汗を流している僕の姿を見たら僕に 惚れない女の子はいないだろうと思う。でも世の中には僕よりずっ と努力している男が数えきれない程いるだろうし、僕が行っている ことも単なる自己満足にしか過ぎなくて、僕の理想の自分にも他の どこにも辿り着かない それでも僕がいつもこれだけ自分を律することが出来たなら、僕 はもっとましな男になれるのではないだろうか。
ユキオは随分やつれた顔であたしのところにやってきた。 「俺さあ、もう死ぬかもしれない。何か、明日になったら死んでい るんじゃないかとか思うようになったら、段々生きていることに未 練が無くなってきちゃったよ。」 ユキオが突然そんな事を言うので、私は少し焦った。 「あんた、何言ってるのよ。死んだら何もかも終わりじゃない。そ んな馬鹿な考えしてないで、ね?」 「否、生きていることなんて結構意味無いのかもよ。」 「そんなこと言わないで。あたしユキオの為なら何でもするから。 ね、お願い。お金なの?それとも誰かに追われてるの?」 ユキオの顔が少し緩んだ。 「そんな物騒な事はない。俺は多少の恨みは買っているのかもしれ ないけど、殺されるほどのことはしてないよ。只、人生に光が見え ないって言うのかな、そんな感じで、死にたい気分なんだ。」 「誰だって、いつかは死ぬんだからさ、もうチョット頑張ってみな よ。あたしができることだったら、何でも言って。いつだって助け てあげるから」 「・・・ありがとう。なんか元気出てきた。」その割にユキオの顔 は青ざめていた。 その後私たちは一緒に寝て、次の日のお昼にユキオはバイトがあ ると言って帰っていった。 「お前さ、俺みたいな奴と結婚しちゃだめだぞ。」 私は頷いた。 それっきり、ユキオは私のところに現われなかった。 葬式でユキオの亡骸を見たときは顔をグチャグチャにして泣いた けど、一年たった今では、もうユキオの思い出も、面影も、あの温 もりも全て忘れてしまっていた。私は今自殺願望の男と付き合って いる。
腕時計の針は、もうすぐ明日の時刻を指そうとしていた。 「まいったなぁ」 背広姿の剣持祐介は、腕時計を一瞥するなりあきらめに似た呟き を発した。 「走るか……」 片手に書類の詰まったバッグを抱え、薄暗い路地を猛然と駆け抜 ける。腹の出具合が、少々気になってはいるが、未だ三十に達して いない年齢と昔とった杵柄――彼は、元陸上の短距離走者だ――を たよりに全力疾走している。が、ものの百メートルたらずで、ずる ずると後退していった。 「ハァハァハァ」 彼が、走っているのには理由がある。 今日は、妻との三年目の結婚記念日なのである。しかし、日々忙 しい職務に追われる彼は、ここ一ヶ月、妻とろくに会話もかわして いない状態だった。 せめて、今日くらいは!との願いもむなしく、深夜に及ぶ残業に なってしまった。 そういうわけで彼は、走った。生れてきた中で、もっとも真剣に 走った。 タクシーでも捕まえれば、もっと早く帰れるんじゃ、ないか?と 考える人も居るかも知れないが、待つ時間がもどかしく感じ、走っ たのだ。 もっと、早く! もっと、早く! もっと、早く! 死に物狂いで走った彼が、帰宅したのは、深夜一時をまわった頃 だった。 「た、ただいま」 鍵を開け、ドアを開ける。 そこに、妻の姿はなく、一通の書置きが書いてあった。 『仕事と結婚したアナタには、ついていけません。実家に戻ります』 その横には、離婚届が、寂しげに置かれてあった。 「なっ!何だってんだよ」 祐介は、ヒステリックに叫んだ。「俺は、お前の為に頑張ってき たんだ!それを、何だよ!」 誰も居ない部屋に鞄を投げつける。 ドンッ!という嫌な響きが、祐介に冷静さを取り戻させた。 「料理が……」 テーブルの上には、冷めて汗をかいているシャンパンと豪華な料 理が、二組手付かずで置かれてあった。 「涼子のやつ……待っててくれたのか?」 自分のしてきた仕打ち――忙しい仕事が原因だが――を祐介は、 思い出した。 ふいに、『頑張って』 聞きなれた声が、耳に響く。 『頑張って』 昔の、陸上をやっていた頃の事が、走馬灯のように駆け巡る。 スランプに陥ったときに彼を励ましてくれたのが、あの声だった。 「そうだ。涼子は、いつもそばに居てくれたじゃ、ないか」 祐介は、立ち上がった。そして、埃を被ってあった古いシューズ を取り出した。 そして、家を飛び出した。 祐介の頭には、走る事しかなかった。彼女を迎えに行く事しか、 考えていなかった。 断られたときは、キッパリと諦めよう。自分のしてきた報いだか らしかたがない。 それでも、諦められない。 死に物狂いで走った祐介が、涼子の実家についたのは、午前三時 を過ぎた頃だった。 玄関には、驚いた顔の妻が居る。祐介は、とびっきり優しく笑っ た。 「……帰ろう」
ある朝、ふと妻と娘を殺そうと思いついた。 私は台所に行き包丁を取り出して、リビングで楽しげにおしゃべ りしている彼女たちを刺し殺した。狙いを首に絞ったおかげであっ さりと事は終わった。 血まみれのパジャマを背広に着替え、平静を装っていつも通りに 会社へ出かけた。 会社に到着すると後輩の美樹ちゃんに声をかけられた。 「奥さんとお嬢さん、お元気ですか?」 なんと答えればよいのか。私は一瞬、戸惑った。 しかし、私は気をとりなおし「ええ元気ですよ」と答える。 そのまま一日やり過ごし、家に帰る。そこには青白くなって横た わる妻と娘がいる。 そこに電話がかかってくる。妻の友人から「奥さんいます?」と。 冷静に私は「元気ですよ」と答える。「いまちょっと出かけてるん です」 けれども私はひとりぼっちに耐えられない。 死体を車に積み込んで私は海に行く。暗く波音をたてながら、粘 るように沈黙する海へ。 私は妻と娘を連れ、海へと落下する。 「奥さんとお嬢さん、お元気ですか?」 美樹ちゃんは質問を繰り返している。 私は戸惑いを隠せないまま「ええ元気ですよ」と答える。 すると職場に電話がかかってくる。 警察から「奥さんと娘さんの死体が自宅で発見されました。死亡 推定時刻は今朝6時……」 私はさっき「元気ですよ」と答えたばかりだ。職場の者たちは私 が嘘をついたと知るだろう。きっと私が殺したというだろう。 ふと見ると美樹ちゃんの目がおびえている。職場の人間全員がこ ちらを向いている。 私は立ち上がる。 そして思わず叫んでしまう。 「そうだ、俺だ!俺だ! 俺がやったんだ! 俺は嘘つきだ!」 「奥さんとお嬢さん、お元気ですか?」 にこやかに美樹ちゃんは質問を繰り返している。 私は美樹ちゃんの官能的な、かたちのよい小さな唇を眺めながら、 懺悔する。 「実はもう死んでいるのです。妻と娘は私が殺したのです」 すると美樹ちゃんはとても慈悲深い顔になり、 「そう、そうなの。かわいそうな人ね」 といって私を包み込む。 私は思い出す。 海沿いのラベンダー畑に、妻と娘を連れて行ったときのこと。 いちめんの紫の花のなか、娘が楽しそうに走りまわっている。妻 は笑い、私はその横顔ときらきらと輝く海を眺めてタバコを吸って いる。 海風に長い髪をなびかせて妻がつぶやく。 「ああ、すごくいい風」 なんと私は馬鹿なのだろう。 こんなことなら殺さなければよかったのに。
俺は深夜だと言うのに机に向かっていた。来年の大学受験に向け てだ。BGMのラジオからはつまらない事で笑い合うディスクジョ ッキーの声が聞こえている。 ふぅと俺は軽くため息をついた。ラジオからは先程のディスクジ ョッキーに代わって最近の流行歌が流れている。俺はラジオに耳を 傾ける。 ・・・何だか妙だ。音楽のバックに声がかすかに聞こえる。気に なった俺はボリュウムのツマミを大きく回した。 音楽に混じる声をスピーカーに耳を近づけ、よく聞くと・・・ 「我々は地球へ先に潜入している仲間達と合流し、ただ今より総 攻撃を開始する。場所は、コモロ町32。X軸385 Y軸527 の地点だ。諸君、健闘を祈る」 それきりその声は聞こえなくなり、純粋な音楽が流れ始めた。 (総攻撃? 何の事だ? それに・・・コモロ町・・・32・・・ って俺の家じゃないか!!) 不意に階下から怒鳴る声がした。 「ミツオー!! ラジオがうるさくって眠れないじゃないか!!」 父親の声だ。 そうだ。こんな、どうでもいい事を考えている場合ではない。勉 強だ。勉強。 と、再び机に向かうと耳元で羽音がする。ブーンと・・・蚊だ。 しかも、今まで気がつかなかったのか、5、6匹かそれ以上いるの ではないだろうか? 俺は腕に止まった蚊を2、3匹平手で叩き、あとは面倒くさくな ってそのままにしておいた。 「まったくもう、うるさいやつらだ」 ラジオからはまだ、音楽が流れていた。 バックにはまた、かすかに声が・・・ 「我、敵の猛反撃に遭い、2名即死、1名重傷。これより退却を 開始する!!」
神の創りし世界は、いまだ白と黒であった。 白き騎士は神に仕えていた。 黒き騎士は神に仕えていた。 しかし、白き騎士は、黒き騎士を忌み嫌っていた。なぜなら、彼 は白くなかったから。 彼にとって、それほどまでに正当な理由は他になかった。 しかし、黒き騎士は、白き騎士を忌み嫌っていた。なぜなら、彼 は黒くなかったから。 彼にとって、それほどまでに正当な理由は他になかった。 白き騎士は神に訴えた。 「私は黒き者の存在を許す事ができません。なぜなら、彼は白くな いからです」 黒き騎士は神に訴えた。 「私は白き者の存在を許す事ができません。なぜなら、彼は黒くな いからです」 それを聞いた神は騎士たちに告げた。 「それならば戦いなさい。旗をかかげ、自らの存在を賭して戦うの です」 こうして、白き騎士と黒き騎士は果てしない戦いを始めた。 二人の騎士は昼夜を通して戦った。 昼は白の騎士が強く、夜は黒の騎士が強かった。 白い騎士の剣が、黒い騎士の盾に白い傷をつけた。 黒い騎士の剣が、白い騎士の盾に黒い傷をつけた。 白い騎士の剣が、黒い騎士の鎧に白い傷をつけた。 黒い騎士の剣が、白い騎士の鎧に黒い傷をつけた。 そして、幾千、幾億もの昼と夜が繰り返された。 やがて、白き騎士は黒い傷によって灰色になってしまった。 「私は黒を嫌ったゆえに黒を取り込んでしまった」 やがて、黒き騎士は白い傷によって灰色になってしまった。 「私は白を嫌ったゆえに白を取り込んでしまった」 もはや、どちらが白で、どちらが黒なのかわからなかった。 二人の灰色の騎士はとても嘆き悲しんだ。 それを見て、神は言った。 「何を嘆き悲しむのです。もはや貴方たちは白くもなく、黒くもな い。お互いにいがみあう理由がなくなったのです。憎しみを捨て去 ることができるではないですか」 灰色の騎士は言った。 「ああ、神よ」 灰色の騎士は言った。 「貴方は我々の戦いが何をもたらすかを知っていらしたのですね」 灰色の騎士は言った。 「たしかに、私たちにはお互い憎みあう理由はなくなりました」 灰色の騎士は言った。 「だが、私たちの心には以前とは比べ物にならぬほどの憎しみが芽 生えてしまったのです」 そうして、灰色の騎士は、二ふりの剣で神を刺し殺した。 黄昏の角笛は深く悲しく響きわたり、騎士たちは鎧を脱ぎ捨てた。 神々の時代は終わりを告げ、人間たちの時代がやってきた。
私は、シベリアの大地に敷かれた鉄のレールのように冷たくて、 表面にびっしりと露をつけたガラスのコップを指先で持った。だけ どその中で半分くらいに減ったアイスティーを飲もうとはしなかっ た。ただ、コップをテーブルから3センチほど浮かせてゆらゆらと 揺らした。 「僕のような人間にとって、君のような女の子がどんなに大切な存 在なのか、どうしたらそれをうまく説明できるんだろうな」と彼は 言った。 私はコップを持つ指先の力を少し緩めた。中空3センチの高さに 浮かんだアイスティーのコップは、ことりという音とともにテーブ ルの上に落ちた。私の手からは何もかもがすべり落ちていき、あと には空っぽの手だけが残される。ため息も、絶望も、後悔も、果た されなかった約束も、手に入れられるはずだった愛も、かすかなあ きらめの航跡を残しながら、私には触れることのできない彼方へ、 私の知らない場所へ、遠く遠く離れていく。 彼がテーブルの向こうで話していた。でも彼の話す言葉は、この 堅牢な渋谷の街の中で私の脳裏に何の影も形作ることができず、メ キシコの沙漠のまっただ中で干からびた白骨のように、からからに なる。からからになる。 「炎天下で溶け出したアスファルトみたいに、それがぐにゃりと曲 がるんだぜ。見たことないでしょう? 六本木の店でもこのまえ実 演してたよ。君にぜひ一回見せてあげたいよ。ねえ、今度一緒に見 に行こうよ」 彼は有名百貨店の跡取り息子で、アルファロメオに乗っていて、 慶応の3年生で、金を持っていた。服装のセンスは良くも悪くもな い。でも顔は良くなかった。すでに腰のまわりに脂肪のクッション をまとい始めていた。だけど、彼は金を持っていた。 私はコップから手を放し、舌をちろりと出して指先を舐めた。そ して少し上目使いで「ねえ、どこかへ連れて行ってよ」と言った。 彼の顔に、待ってましたという表示が出るのがわかった。喫茶店 のテーブルを立ち、レジで支払いをして、プラスチックの要塞のよ うな渋谷の街を歩きながら車が駐めてある場所に向かう間も、彼は ずっと意味をなさない話を続けた。私は、スタイルが良く、美人で、 服装のセンスも抜群だ。だけど裕福ではない。私は所沢で親と同居 する普通の短大生だ。でも私はスタイルが良くて美人なのだ。 彼はほんとうによく話した。彼の言葉、意味をなさない言葉。不 細工で太った彼の言葉。 だけど、彼は私に何でも買ってくれる。
周りの部員は気を使ってくれたのだろうか、大会直後に行われた ミーティングをボイコットして帰る和樹を咎める者は誰一人として いなかった。 インターハイへの出場権をかけた柔道の県大会。和樹にとっては 三度目であり、最後のチャンスであったが、結局和樹は三年連続し て決勝で同じ相手に敗れた。 脱力感に襲われ、駅まで歩く気力も無かった和樹は会場前にずら りと並んだタクシーのうちの一台に乗り込み、初老の運転手に行き 先だけを告げると、流れる景色をただひたすら眺めていた。 「いい試合だったぞ、和樹」 人をどやす事と叫ぶ事しか能が無いと思っていた顧問の鈴木が、 畳の上から戻ってくる和樹を励ます。 二年前、最初の対決では開始直後にあっさりと畳に叩き付けられ た。 その敗戦の悔しさをばねに猛練習を積み重ねて挑んだ昨年も、ま るで前回のリプレイのような見事な負けっぷりだった。 そして今回、和樹は過去二回の敗戦がまるで嘘であったかのよう に、終始優勢に試合を運んだ。 観客席からは和樹に対する声援が沸き起こる。判官贔屓とはまさ にこの事なのだろう。 しかし、健闘むなしく和樹の体は終了間際に宙を舞った。 「なーに、結果が全てじゃない。試合内容ではお前の方が勝ってい たさ」 控え室へと戻ると、鈴木は汗でじめじめとした背中をぽんと叩い た。 「それに、ハンディキャップもあったしな」 「そうですよ、主将。その手さえ怪我してなかったら、最初の背負 いで間違いなく一本でしたよ」 頭からタオルを被り、微動だにしない和樹を試合に負けたにもか かわらず他の部員がその健闘を称え、次々と励ました。 右手の包帯さえなければ、と。 ―ハンディキャップ……か そう噛み締めるように呟くと、和樹は右手に巻かれた包帯を眺めた。 「お客さん、怪我かい?」 信号待ちの間、運転手がルームミラー越しに和樹を一瞥すると、 眉間の皺をより一層深めた。 「それじゃあ満足のいく結果が出なかったろうに」 満足のいく結果? 果たしてそんな物はあったのだろうか。包帯 などを巻いた時点で、きっと自分は負けていたのだ。 「まぁ、ハンディキャップを乗り越えてこそ、真の勝者といえるん だろねぇ」 信号が変わり、窓に映る景色が再び流れ出した。 和樹は窓から視線を落とし、右の拳を思い切り握り締める。 痛みなど全く感じないはずなのに、真の敗者の目からは涙がとめど なく流れてきた。
「ハンドパワーとか言っていた手品師がいたろ。あれってやっぱり 有ると思うんよ。いやいやそんな怪しげなものじゃなくて。 例えばな、テレビとかあるだろ。昔はちょっと映りが悪くてもこ の手でパンと叩けば、ちゃんと直ったもんよ。ラジオでも洗濯機で も叩けば直るの。これこそがハンドパワーさ。 でもな、最近の機械ときたらマイコン内蔵だとかファジーだとか 知らんけど、叩いても直らんようになってきた。パソコンとかいう やつは、ちょっと衝撃を与えたりしようもんなら、ハードディスク だか何だかが壊れるとか言ってもう。頭はよくなったのか知らんが、 軟弱と言うか、何と言うか。そんなのは頭でっかちと言うんよ。昔 は頑丈にできてたもんよ。 人間もそう。昔はな、悪い事をしたガキがいたら、先生でも近所 の頑固じいさんでも、頭をパンっと叩いて悪いものは悪いと教えた もんだ。家でも何か悪いことをしたら、親爺に叩かれる。おふくろ に『言うことを聞かないとお父さんに言いつけるよ』なんて言われ たら、恐くて恐くてちゃんということを聞いたよ。親には逆らえな かったもんなぁ。だから親爺や先生が恐くて悪いことはできなかっ たもんさ。 それを今は、やれ体罰だやれ暴力はいけないだとか騒いで、ガキ どもをしかる事もできんようになった。ガキどもは叩いてやらない と分からないの。悪いものは悪いと、頭をパンと叩いてやらないと。 誰も叩いてやらないから、自分だけ偉くなったような気がして、親 や先生の言うことを聞かなくなってしまったんよ。昔は先生が竹刀 を持ってたって体罰だなんて言わなかったぞ。 昔に比べて頭はよくなったのか知らないけど、過保護に育てられ て軟弱な奴ばっかりになって。知識ばっかり有っても駄目なの。物 事の善悪を見極める事ができなきゃ。それこそ頭でっかちと言うも のだ。 だから見てみろ、訳の分からん犯罪や、変な宗教に走る奴が増え てきたろ。ああいう奴等は叩いてやらないと解らないの、頭をパン て。ああお金を取られた、ああ詐欺に引っ掛かったって騒いでから じゃ、もう遅いの。」 そう言いながらヒゲ面の老人は、今日も信者の頭を叩く。
夢を見た。 シダが生い茂り、松のような木がそそり立つ森。 その間で、静かに草を食む巨体。 背中に生える幾枚もの剣盤。 それは、おそらく太古の記憶。 いまはもう失われた世界の風景。 草原を活歩する二本足の猛獣。 その小さな目は油断なく獲物を探り、鋭い牙と爪はあわれな犠牲 者の息の根を止めんと待ち構えている。 そして、空には三角の凧を思わせる影が舞い、足元では鼠のよう な小さなけものが、辺りをうかがいつつ走り抜ける。 周り中緑に覆われているのに、不思議と広さを感じる。 何にも束縛されない自由な空間。 足があればどこまででも走り、翼があればどこまででも飛んで行 ける。 まるで、周りの空気までが自分の一部になったようだ。 それは、身体全体で「観ている」風景。 ふと目が覚めた。枕もとのスタンドがぼんやりと光を放っている。 頭の脇がごろごろしている。何かが当たっているのだ。 僕は、二、三度目を瞬かせると、それの正体を確かめようとスタ ンドの光ににかざしてみた。 それは、尖った岩そっくりの恐竜のかけらだった。 今日、納戸の整理をしていたら見つかったもので、僕の小さい頃 の一番の宝物だった。 僕が自分で見つけてほりだしたもので、小 さい頃はテーブルにおいてはよく眺めていたものだ。 思わず懐かしくなって、ベッドのサイドテーブルに置いておいた のだが、なにかのはずみに落ちてきたのか。 昔は、それを見ていると、なにか別のものが見えるような気がし ていた。 ふいに、隣で寝ている妻が寝返りをうった。 起こしてしまったのかもしれない。 僕は、牙をサイドテーブルに戻すと、スタンドのスイッチを切っ た。 一瞬であたりは闇に包まれる。だが、カーテンごしの月明かりと 規則正しい妻の寝息が心を落ち着かせてくれる。 僕は、そっと目を閉じた。 きっと、宝物はたくさんあるのだ。 少なくとも歳の数ほどは。思い出すことさえできれば。
“怪奇!!双子美人姉妹の溺死体が海岸に打ち上げられる!” 「何だこのタイトルは!」 丸めた雑誌で頭を叩かれた新人の加藤が振り向くと、そこには三 期先輩の吉本が険しい表情で立っていた。 「昨日の事件の雑誌に載せる記事ですよ」 叩かれた頭を掻きながら加藤は言った。 「そんな事は分かってんだよ!俺が言ってるのは“双子美人姉妹” っていうのは何だ!って言ってるんだよ」 そう言うと吉本は、また加藤の頭を叩きつけた。 「何か問題ありますか?警察は双子だと言ってたし、生前の顔写真 は叶姉妹に似た美人でしたよ」 「かー!だからおまえは駄目なんだよ!双子は確かに警察発表で事 実だろうけど、美人かどうかはおまえの基準だろう。そんなものを タイトルにつけるな!しかも叶姉妹に似て美人とはどういうことだ !大体おまえは女の趣味が悪いんだよ!叶姉妹が美人だって言って るのは本人たちと三流マスコミだけだぞ!」 「それを言ったらうちなんか四流じゃないですか…」 「やかましゃ!」 また頭を叩かれた加藤だが今のは自業自得だ。 「俺達の雑誌が売れるには、まずはタイトルのインパクトが大事な んだよ。コンビニで何気なく見て、おっ!と思わせないと駄目なん だ。そして今回の様な意外性のある事件の時は、奇をてらったタイ トルをつけなくちゃいけない。いまどき美人姉妹が死んだなんて書 いても誰も見向きゃしないんだよ!」 入社して一年になる加藤だが、書いた記事が雑誌に掲載されたこと は一度もない。やる気はあるのだが、人の心をつかむ文章というの が、どういうことか理解できずにいるのだ。 「じゃあ吉本さんならどういうタイトルをつけるのか教えてくださ いよ」 「お!三期先輩の俺にそんな事聞くの。おまえも偉くなったね〜。 俺が新人の頃は先輩を神と崇めていたけどね。まぁおまえみたいな センスなしには手本が必要かもな」 吉本は高笑いをしながら、デスクの上に置いてあった紙切れにペン を滑らせた。 「ほらよ。俺ならこんなタイトルをつけるね。もうちっと勉強しな 〜」 それだけ言うと吉本は、雑誌をぶんぶん振り回しながら自分のデス クへと戻っていった。 「あの野郎。人を散々馬鹿にしやがって、いつか見返してやる」 加藤は吉本が書いた紙切れにそっと手を伸ばした。 “チョーウケル!叶シスターばりの双子シスターが海でデッドでカ ンジー!” 加藤は紙切れを握り締めながら呟いた。 「女子高生向けの雑誌なんて書くもんじゃねーな」
もはや冬である。休日の午後、私はデパートの、屋上なかよし広 場のベンチに腰かけて、アイスキャンデーをなめていた。吹きすさ ぶ木枯らしのなかにあって、ひとなめするたびに、全身に寒気が走 った。 屋上なかよし広場は、ひどく閑散としていた。ヒト気といえば、 バイトとおぼしきアイス屋の青年と、この私のみ。ところどころペ ンキのはげた遊具が、風にうたれて小さな悲鳴をあげる。この風景 もまた、私を寒々とさせ、それに木枯らしとアイスの冷たさが加わ った三つ巴により、この身をふるわせるに至るのだ。これが私の趣 味である。 やがてその趣味も終わった。アイスが、棒だけになってしまった のだ。しかしその時、私は棒に奇妙な文字を見た。『ハザリ』の三 文字。 私は困惑した。ハザリ、これはいったいどういう意味なのだろう か。アイスの棒であることから、クジの結果のひとつだと推測され るのだが、ハズレなのかアタリなのか、よくわからない。私はベン チを立ってアイス屋に向かった。 「こんなものが出てきたんだが」 声をかけると、カウンターに頬づえをついていた青年は、雑誌か ら目をはなして、ちらと棒を見た。 「なんすか。あ、ハザリですね」 それっきり、目を雑誌に戻してしまった。私はいささかイラだっ た。 「ハザリとはなんだね」 雑誌に目を向けけたまま、応じた。 「ハザリはハザリですよ。それ、ハザってます」 よくわからない。私は多少の期待をこめてたずねた。 「もう一本もらえるのかね」 ふたたび青年は雑誌から目をはなし、困ったような顔をした。 「いえ、それはアタリの場合です。クジのルール、知ってますよね ?」 困るのは私の方である。 「ではこれは、ハズレと同じではないのかね」 青年はようやく雑誌をたたむと、おっくうげに頬づえをはなした。 「やだなあオジサン、ハザリはハザリ。アタリとハズレの中間、み たいなかんじっすね」 私は棒をにぎり、『ハザリ』の三文字を見つめながら、ベンチに 戻った。もう一本もらえるわけではない、が、ハズレというわけで もない。少なくともアタリではないのだから、残念がるべきなのか もしれないが、それにはハズレであってほしい。ハザリでは、よろ こぶことも残念がることもできないではないか。 しかし私はこのハザった棒を手ばなすことができなかった。寒々 とした木枯らしとベンチから見る風景、それにハザリが加わった三 つ巴に、この身をふるわせていたからである。
その男は首を吊って死んだ。保険金で債権者に償いをする以外に方 法がなかったからだ。これまでの努力は何だったのか…。死ぬ寸前 まで、男はおのれの人生を呪っていた。 「そうか、会社が倒産して仕方なく首を吊ったか。不運じゃの」 閻魔大王は、男に顔を近づけるとニタリと笑った。閻魔の吐く息は 硫黄の匂いがする。男は思わず顔をそむけた。 「可哀想じゃが地獄行きだな」 閻魔の言葉に男は驚いた。正直に懸命に働いてきたのに、そんなは ずはない。 「なぜです?地獄に堕ちるような覚えはありません」 「なんじゃ、知らんのか?自殺した者は無条件に地獄行きなんじゃ よ。自殺は最大の罪じゃでの」 そんな馬鹿な。男はあまりの理不尽さに声もなかった。 「とまあ、昨日まではそうだったんじゃが…」 歯ぐきをむき出しにしてニタニタ笑いながら閻魔は続けた。 「何しろ昨今の不況じゃ、そういう人間が多くてのう。基準を変更 したんじゃよ。お前のような人間は自殺ではなく事故死扱いにしよ うとな」 「で、では私は…」 「そう、お前がその適用第一号という訳じゃ。天国に行ってよい」 男はその場に座り込み、安堵のあまり泣き出した。運が良かった。 一日早く死んでいたら地獄行きだったのだ。 「ところで、どうやって天国に行くつもりかの?」 閻魔はさらに顔を近づけて、男に問うた。閻魔の皮膚には無数の老 人斑が浮き出ている。 「どうやってと言われても…」 「本来、天国に行く資格のある者には背中に翼が生えるんじゃよ。 天使の絵によく描かれるようにな」 男は思わず自分の背に手を回したが、そんなものは生えていない。 「何しろ特例じゃでな、お前の背中に翼はない。天国に飛んでいく 訳にはいかんのじゃ。で、どうやって天国に行く?ん?」 どうすれば良いのか、男にわかるわけがない。 「ヒャ、ヒャ、心配するな。ちゃんと考えてある。飛んで行けぬの なら、天国から引っぱり上げてもらえば良いのじゃ」 閻魔の合図で男の前に一本の縄が出現した。縄の先ははるか上空に 消えて見えない。どうやら天国まで延びているらしい。 「この縄をお前の首に巻き付けて、と。それ、上げろ!」 男の体は猛烈な勢いで上空へと引っぱり上げられた。縄が喉仏に鋭 く食い込む。 「く、苦しい。天国までどのくらいかかるんですか?」 男は吊り上げられながら、はるか足下になった閻魔大王に向かって 叫んだ。 「そうじゃのう、天国まで十万億土。時間にして16億8千万年ほ どかの」 閻魔大王はけく、けく、けくと笑った。
払い転がされた仏像を、五平はそっと抱き上げ黙ってもう一度小萩 の腕に預けた。 小萩は我知らずその小さな仏像を固く抱きしめた。 素朴な様子のそれは、五平が一心に彫ったものである。 五平は今から死にに行く。 たとえ当人が必ず功成り名遂げて戻るつもりだと言おうと、満足な 武具すら持たない雑兵が、万に一つの希もないように小萩には思え た。 肩を掴む五平の指の力の強さが、きっと帰ってくる証のようでもあ り、今生の別れのしるしのようでもあるのだった。 あばら屋の片隅を浄め、仏像を置いた。 穏やかなその姿と対峙していると自然に手を合わせていた。 五平の姿が脳裏に浮かんでくる。全身に刀傷を受け粗末な鎧を紅に 染めて倒れている姿である。 それならばまだいい。敵方につかまり拷問を受け、指を一本ずつ切 り落とされていく五平の姿。五平の悲痛な叫び声が聞こえる。 いったい人間というものはどこまでも残酷になれるものである。小 萩はそのことをよく知っていた。幼い頃に村が焼き討ちにされ狼藉 された記憶は、あの世の地獄絵図よりも余程地獄であった。怒号と 命乞いの声、飛び散る血や肉片、悲鳴、鳴咽、恐怖… 小萩は合わせた手に額を揉み込むように固く身を縮め、声を漏らす まいと耐えた。五平が受けているであろう肉体的苦痛に比べただ座 って祈るだけの自分は何という安穏さだろう。 こんなところでべんべんと祈りを捧げているよりは戦場の五平の元 へ走り五平が死ぬなら自分も一緒に死ぬべきではないのか。 けれど、小萩は怖かった。死ぬことにもまして、現実の地獄絵図が 恐ろしくてならなかった。五平や自分が、いやたとえ敵方でも人の 姿をしたものが、切り裂かれえぐられ嬲られるということが気が違 う程に恐ろしかった。 小萩はうずくまった姿勢のまま、いつまでも動かなかった。 小萩の懐かしい五平は死にかけていた。 小萩の心情を思うと筆者が書くのをためらう程、無残な仕打ちを受 けて地に倒れ伏している。 このまま死んでいくことの、なんと寒い位にさむしいことだろう。 五平は小萩を想った。 小萩は、−五平を想ってくれているだろうか。五平が死にゆくまさ にこの時に。 (祈っている。あの仏像に。儂のことを。) それは確信というより、五平にとっては単純に事実である気がした。 五平の口元から血泡が漏れた。「小萩」 朝の清潔な光りはこのあばら屋にも隔てなくその温もりを注ぎ込ん でいた。 小萩は一昼夜、身じろぎもしなかった体を起こした。
「たまにはうまいコーヒーが飲みたいなあ」 朝のコーヒーを飲みながら健一は呟いた。 菜美はコーヒーなんて飲まないから、健一の気持ちがよくわから ない。確かにサイフォンなんかを使うと味が違うのかもしれない。 健一がかばんを手に取り、新聞を小脇に抱えて出勤してしまうと、 菜美は台所の片付けを始めたした。さっさと片付けて、パソコンの 前に座り、スイッチをいれる。 最近はインターネットに凝り始めた。コーヒーをキーワードにし てネット上を検索してみる。 「サルでもおいしいコーヒー講座」 「これがほんとのうまいコーヒーの飲み方」 「コーヒーの歴史」 いろいろなホームページがあるものだ。インチキまがいのものま である。 「このコーヒーを飲んでからというもの、仕事もしないのに出世街 道まっしぐら、いままでリストラにおびえていた自分が嘘のようで す(28才会社員)」 「コーヒー豆枕を愛用してます。この枕だとぐっすり眠れるんです。 不眠症だったのが嘘のようです。冷え性にも効くみたい(24才OL)」 「おいしいインスタントコーヒー1年分プレゼント」 そうそう、インターネット懸賞に応募してみよう。菜美は、検索 キーワードに「懸賞」を追加してみた。 「おいしいコーヒー豆1年分プレゼント」 「電動式ミルとネル布プレゼント」 「高級ティカップと銀食器プレゼント」 どうやらプレゼントだけでおいしいコーヒーが飲めそうだ。菜美 は片っ端から応募した。いままでもいろいろ当ててるだけに自信は ある。 ぽつりぽつりと景品が届き始めた。ネル布は手入れが面倒だけど、 菜美は手間を惜しまなかった。ミルは、手動式の方が良い味でそう だけど、電動式の方がおいしいコーヒーになるらしい。 健一がめずらしく早く帰ってきたから、夕食後にさっそくコーヒ ーを淹れてみた。きっとびっくりするに違いない、菜美はわくわく しながら、それでいて何食わぬ顔でコーヒーを差し出した。 健一は、夕刊を読みながらコーヒーをすすった。 朝飲んでるコーヒーとも違うし、会社で飲んでるだろうまずいコ ーヒーとも違う。サルでもおいしいコーヒー講座で勉強した成果が、 今まさに健一が飲んでるコーヒーだった。 健一は、菜美が飲んでいるレモンティに視線を落とすと、夕刊を たたみながら呟いた。 「たまにはうまいコーヒーが飲みたいなあ」
郁美は孤児だった。 8人兄弟の末っ子として育てられた彼女は、叔父であるイトー人 に見出され、プリマドンナとしての才能を開花させる。なかでもラ イバル蝶野・ゲルマニョン・加代子との鼻メガネ対決や、インドか らの留学生で、じつは黒い肌の人であるシンジケート・純とのノミ ニケーションを経て、少女から大人のオンナに脱皮するサナ江。 しかし、順風満帆かと思われたそんな小学生日本一周自転車旅行 にも、次々と災難が降りかかった。自分をかばってマンホールに落 ちた実弟の死。軽い人違いから起きたツタンカーメンの呪い。密室 トリックの謎などあまりにも悲惨な、事件と呼ぶには大げさすぎる ちょっとしたアクシデント(ポロリ!? 含む)を乗り越え、ついに ヨーヨーチャンピオンとなった彼に訪れたのは、理不尽とも思える ほどに唐突なスーパーカーおばあちゃんとの別れである。 「スーパーカーおばあちゃん、死なないで」 「ごめん、かんち」 「あたしかんちじゃないわ」 (振り向きざま)「かーんち!!」(ここで主題歌フェイド・イン) 去って行く彼女を前になかば呆然と、しっかり笑って手を振る昌 子に、ついに縁談話が!!! 「おはようございます」 「おはよう」 そんなサラリーマン人生も、はや30年。11人いたみんなも全員 合格し、タラという子供も生まれ一家は今日も大忙しの大賑わい。 思い返してみればたくさんの人たちとのちいさな第二次肝油ショッ クに巻きこまれ、ジェームスよし子の頬にきらめく一粒の涙。 「これじゃまるで恋愛詐欺師じゃねぇか。たしかに恋愛じゃなかっ たさ。おまけに詐欺師ではないにしてもさ」 そんな晩年の彼女の名ゼリフに、我ながら見習うことの多い人生 であった。 かしこ
いつものようにKの部屋を開けると、そこにいるはずのKはいな くて、Kのいるはずのベッドには、初めて見るポットがあった。 Kはついに念願叶い、ポットに変身したのだ、僕はそう思うこと にした。Kは近頃、自分は今まであまりにも人に迷惑をかけすぎた から、これからは少しでも人の役に立つ仕事をしたい、ボランチア 精神だよチミ、みたいなことを、昨夜言ってたのだ。 さすがは神様。ポットはまさにそんな仕事であると、僭越ながら、 僕もそう思います。 ベッド上のポット(旧姓K)は光を失っていた。一目瞭然、プラ グが刺さっていない。神の御心によって生まれしポットも、やはり 人工の火がなければイカンとは、なんとも不遜な事実である。 持った感じ、しっかりと水は貯蔵されているようで、プラグもす ぐそばにあるし、アア新たな生命の始まりよ、とプラグをカチリと 差し込んでやる。 プラグを差されたポットは、「沸騰中」というランプを灯し、し ばしの沈黙後、勢い良くシュゴオオオと音を立て始めた。 友人の夢が今叶っている、そういった感動に一人悦に入っている と、あろう事かポットであるKは不意に熱湯を吐き出し、ウワッチ ィ、僕の膝は一瞬にして熱湯地獄と化してしまった。さすがはK、 センチな感情などいらねえ、これからポットとして真摯に生きてや るんだ、そんな君の熱い決意を感じたよ。 人型であった頃のKがお気に入りであった「成り上がり」タオル で、びしょびしょになったジーンズを拭いてから、そこらへんにあ るコップを熱湯で洗って、そこらへんにあるショーチューをお湯割 りで頂くことにした。うまい。酒と相思相愛のKが暖めたお湯で割 ったものである。まずかろうワケがない。 ポットになったKには不要であろうと、適当に冷蔵庫を物色し、 どこから拝借したのか、身分不相応な生ハムとカニ缶を発見したの で、お湯割りのつまみにムシャムシャといただく。ポットのKはそ の様子を、全くの無表情で眺めていて、さすがにポット様となると、 卑しき人間の持つ嫉妬心なんてのは既に卓越し、精神はもはや沙羅 双樹の世界であることよ、と僕に思わせるものだ。 次第に夜も更けて、ではそろそろおいとましますか、Kにまた来 るよを告げて、それから寂しい思いをしないようにと、テレビは付 けたまま、電気も付けっぱなしにして部屋を出た。外は結構寒かっ たが、3杯のお湯割りで暖まった体が無敵であるのは言うまでも なし。
「自動車いや、車両というものが、なぜここまで発達し利用される ようになったか、君たちは分かるか?」 広いが薄暗い部屋の中、長い机の一番上座に座った男が場の人々 を見渡す。 「内燃機関の発明、でしょう」 禿げた男が素気なく答える。 「違う!」 「石油の発見ですか?」 白髪混じりの女がおずおず尋ねた。 「そんなことではない! 全ての鍵は、ブレーキだ!」 「ブレーキ?」 人々は顔を見合わせる。 「車両は、ブレーキが存在するからこそ、走ることができる!」 上座の男は、資料の表示されているスクリーンを叩く。 「ブレーキの存在なくしては、自転車一つ満足に走らせることはで きない! ブレーキのない車両は、自殺装置そのもの。何の価値も ないのだ!」 「そ、そうですか?」 彼の剣幕に少々たじろぎつつ、禿げた男は額とも頭とも付かない 部分をハンカチで拭く。 「人類の歴史一つ取っても、疫病や飢饉、はたまた戦争などのブレ ーキがかかったからこそ文明の発達があったとも言えるのだ!」 「それは言い過ぎでは?」 「言い過ぎなものか、日本がいい例だ。大東亜戦争の敗戦、米軍に よる占領という大きなブレーキが働いたからこそ、事故も起こさず に急成長を行えたのだ! もしもあのまま帝国主義が突き進んでい たらどうなった? 植民地の維持能力があの政府に、軍部にあった と思うか?」 ばんっ、と上座の男は机を叩く。 「それだけではない! 学校には必ず落ちこぼれがおり、会社には ヘマをする社員がおり、一週間にも日曜日というものがある!」 彼は鋭い目で人々を見渡した。その視線を真っ直ぐ受け止められ る者は、一人としていなかった。 「我々の命運を握るのは、人類普遍の発展法則、ブレーキに他なら ないのだ!」 会議室はしん、と静まり返る。 上座の男は、カラフルなサンプルの中から、白い一つを取った。 「ドロップには引き続きハッカも入れる!」
く、苦しい…めまいがひどい…吐き気もする… 何でこんなに苦しいんだろう…そうだった…こいつを喰ったから だ…このオオワライタケと呼ばれる毒キノコを喰ったからだ…ちょ っとした好奇心からこんな苦しい思いをするなんて… 大体なんで俺はこんな森の中にいるんだ? そうだ…俺は松茸を 捜しにこの森に入ったんだ…松茸は高く売れると聞いたから…だけ ど…あてずっぽうに入った森なんかに松茸なんか生えているわけな いだろ… 持ってきた物はこの「食べられるキノコ、食べられないキノコ」 という図鑑だけだ…松茸を実際に見たことが無いからな…しかし… あのときオオワライタケを発見しなければ…いやっ発見してもいい のだが…オオワライタケは食べられないって書いてあったのにどう して喰ったんだ? この図鑑の説明には「激しい興奮、幻覚、めまい、などの症状が 出る」と記されていたのに…俺はこの幻覚という文字に興味を持ち… どんな幻覚が見られるのだろうかと思い喰ったんだが…幻覚なんて 見えやしねえ…見えるのは木だけだ…もっとぶっ飛んだ物が見える と思ったのに… あと…名前だ…オオワライタケなんていうくらいなんだからさぞ かしいい気持ちになれると思ったのに…笑いなんて全然こみ上げて 来ねえ、こみ上げて来るのは胃液だけだ… と、とにかくこの森を出なけりゃ危ないかも知れない…どうやら 俺は中毒になったようだ…病院へ行ってそれなりの治療を受けねば… ああ…だけどどっちへ行けばこの森を出られるのか分からなくな ってしまった…こっちだったような…あっちだったような…ちくし ょう何か目印を付けてくれば良かった…ハアハア…とにかく歩こう… ハアハア…本当にこっちでいいのか?…分からないが歩くしかな いようだ…ハアハア…く、苦しい…ハアハア…駄目だ…歩けなくな って来やがった…目の前が暗くなってきた…ハアハア…まだ午後1 時だってのにこんなに暗いなんて目がおかしくなりやがった…ハア ハア…駄目だ…ひとまず座ろう… ハアハア…馬鹿なことをしたもんだ…松茸がどこに生えてるかも 知らないのに森に入って…しかも喰えないって書いてあるのにオオ ワライタケなんて喰って…ハアハア…つくづく自分がいやになるよ… ハアハア…ハアハア…もしかして俺は死ぬのか…ハアハア…こんな とこで死ぬのか…ハハッこんな最後か! ハハッワハハハハハハ
空が暗い。これが世界の終わりだといっても過言ではない。身を 屈めようか。誰かが見てるかもしれない。なにか恥ずかしい。恥ず かしさのあまり死ぬこともあるのだろうか。そこまで僕は恥ずかし くないのだが。 部屋から見える空のことだ。窓を開けると見える空のことだ。夜 のような空のことだ。僕は一日じゅう黙っていたわけじゃない。僕 に責められる理由はない。今日はたまたま部屋にいるだけの話だ。 仕事の後で、疲れて、テレビさえも僕を疲れさせる。静かな環境は 僕に何かを呼び覚ませてくれるような気がしていた。そして、僕は 何もすることがなくなって、窓を開けて、空を見たのだ。すると、 空が暗かったのだ。真昼だというのに。 僕はネガティブな気分になっていた。動けば動くほど深みにはま るような気がしていた。腕を少し上げるだけで、突然、部屋の壁を 突き破って飛び込んでくる自動車に跳ねられるんじゃないかと考え ていた。それはそれで面白くはあったが、良く考えるとつまらない ことだった。 僕は自分の気分にうんざりした。汚染されていた。肌の色が変わ っていくような気がした。肌がとても深い緑色に変色していき、観 葉植物かなんかになってしまうような気がした。そしたら、急に太 陽が恋しくなった。僕は窓に向かって首を伸ばした。酸素を吸うの が当たり前となったいまでは、自分にとって価値ある栄養を新しく 見つけなければならない必要を感じていた。 僕はメラメラと燃える太陽を想像した。火竜のようなコロナの竜 巻を想像した。黄色く輝く炎に焼けこげる自分の眼を想像した。イ カロスの墜落を想像した。マルスの荷車を引く哀れな人間を想像し た。神話の世界が現実に目の前で繰り広げられたら、それはなんと 滑稽な光景になることだろう。こいつはちょっとした皮肉だ。僕は あんなものにかかわりあいたくない。明るい世界、英雄たちのはば たいていた世界、それを肯定的な意味でとらえることは、もはやで きない。皮肉は現代の産物だとどこかで聞いた。皮肉には誰もが負 ける。「くだらない」 それにしても、なぜこんなに空は暗いのだろう。雨は降らず、雲 ひとつない、晴天の空。なのに暗い。僕にだけそう見えているのか もしれない。まあそれもいいだろう。僕は部屋で座っているだけな のだ。空が暗かろうと、世界が終わりに近づいていようと、僕は僕 自身がその気にならなければ、ここを一歩も動くつもりはないのだ から。
「ねえ、ほんと誰でもいいんだから」と女は言った。終電の時刻が 近づくと、小部屋の空気は重苦しさを増した。 じゃんけん、と男のひとりが呟いた。 「じゃんけん、アミダ、ダーツ、ババヌキ……いつまでそんなこと をしたら気が済むのかしら」 女がぐるりと見渡すと、どの男も視線を逸らした。私はざらりと したあごを撫でる。透明に。できるだけ透明になることだけを考え て私はあごを撫でていた。 「ちょっと、あなた」 私は慌てて立ち上がる。 「みなさん、夜食は何に?」 「あなたでいいわ。ね、わたしと、いいわよね」 「いえ、私は新人ですし、その、不器用ですから」 「大丈夫よ。ちゃんと教えてあげるから」 そう言って女は上着を羽織った。上品なグレーの上着。「洋服の 青山」では決してお目にかかれない色だった。そして、軽く肩を揺 らすとそれはぴったりと女の体に吸い付いた。私が一瞬、女の上半 身に視線を奪われたのを男たちは見逃さない。じゃあそういうこと で、まあそういうことだな、ああ初めからそうしておけばよかった んだ。そして私は女と二人きりになる。 私はネクタイを絞り、「コナカ」で買ったネイビーブルーの上着 を羽織った。それを見て女が微かに頬を緩める。「わたしの言う通 りにして」。 夜が明ければ、裸の王様が誰よりも早く出社してパソコンを立ち 上げる。そこには裸の王様をさらに裸の王様たらしめる情報が送り 込まれている。いつものように王様が満足げな笑みを浮かべると、 いつもと違ってそこには女がいる。王様は動揺する。もしかしたら 自分は裸なんじゃないかと動揺する。女がすかさず上着を脱ぐ。王 様はたまらなくそれが欲しくなる。女は王様をまんまと小部屋に誘 い込む。 「あなたはそれを扉の隙間から見ているの。わたしがされているこ とをちゃんと見ているのよ。いい? 慌てちゃだめよ」 そして二人の動きが止まり、私は背後に忍び寄る。王様の首に鈴 をつけるのだ。 「どう? ちゃんとできそう?」 私は女の唇を眺めていた。きっと乾くことを知らない唇なのだろ うと思った。 「じゃあ、ちょっとリハーサルしてみるわね」 私は小部屋を出て扉をわずかに開き片目を押し付ける。女は気怠 るく尻をテーブルにのせると、ゆっくりと上品な色の上着を脱ぎ、 丁寧に畳んだ。その瞬間私と女の視線が交差する。 やがて上着がごく微かに震え始める頃、私は右手をポケットの奥 深いところに忍ばせ、そっと鈴を握り締めた。
みんながみている空っていうのは、 ほんとうのところ海なのです。 だから空といわれている上の海は青いのです。 だから空といわれている上の海は人が住んでいるのです。 その人たちが下をみて海といっているのが、 実はわたしたちにとっての空といわれている上の海なのです。 はなしをまとめてみると、 {わたしたちが空といっている上の海}= {上のひとたちが海といっているもの} さらにはなしをすすめると、 わたしたちが海といっているものは、 下のひとたちが空といっているものなのです。 つまり、人間は青いものにはさまれて何重にもなっているのです。 その青いものが液体であったり気体であったりするから、 わたしたちは混乱して海だとか空だとかいう名前で区別してしま っているのです。 これでは、いつまでたってもわたしたちは真理に近づけません。 これからは海や空と呼ばないで、 “下のあお”とか“上のあお”とか言わないといけない時代に入って きているのではないでしょうか。 過去の偉大なる学者たちはその発見をないしょにしていました。 でもそろそろ明かさないといけない時期に、地球は入ってきていると 思います。 地球という呼び方もへんです。 “青球”のほうが真理です。
幼馴染みの羽田くんは、魔王です。何かと評判の悪い魔族を統べ る王。日本で言えば総理大臣のようなもので、とても、位が高いの です。けれど普段の彼は、とても気さくでおっちょこちょいで、私 たちの間では、ちょっとした人気者なんです。 そんな彼でもやっぱり悩みはあるようで、この間みんなで食事を しているとき、彼は何も話さずに、ただ黙々とキウイを食べていま した。心配になって彼に声をかけてみると、彼は震える声でこう言 いました。 「オレ、地球を滅ぼそうかと思ってる」 彼が魔王だと分かってはいましたが、それでも驚きました。そし て、どうしようかということになり、その場にいた5人に多数決を とってみました。3対2で賛成多数でした。 今日は地球最後の日です。昔あったいろいろなこと、そして、こ れから起こるはずだったたくさんのことは、もうすぐ、消えて無く なってしまいます。 むかし羽田くんと一緒に埋めたタイムカプセルは、結局掘り起こ されることのないままに、消えてしまいます。 ドアの方で何かが落ちる音がしました。郵便受けを覗くと、一枚 の紙切れが入っていました。 『羽田は遂に地球を滅ぼした』 紙切れをゴミ箱に放り投げ、私は大急ぎで自転車を駆りました。 羽田くんの部屋の呼び鈴を押すと、ビール片手に羽田くんが現れ ました。 「やあ。上がりなよ」 そう言って彼は部屋の中へと戻りました。私はそのまま玄関に立 っていました。 「地球、滅ぼすんじゃないの?」 羽田くんは空っぽになった缶を机に置いて、冷蔵庫から新しい缶 ビールを取り出しました。 「滅ぼしたよ」 「滅んでないじゃない」 羽田くんは缶ビールの蓋を開け、ぐいっとあおりました。 「いや、だから、オレの気持ちの中で」 私は何も言わず羽田くんを見つめました。羽田くんはすねた子供 みたいに唇を尖らせました。 羽田くんは手を伸ばし、冷蔵庫の上にある地球儀を掴みました。 そして窓を開け、思いきり外に放り投げました。地球儀は空中で爆 発し、粉々に砕け散りました。 破片がぱらぱらと白々しい音を立てました。 羽田くんは私の表情を窺うように、ちらりと振り返りました。 タイムカプセルの中に、羽田くんは「一生の誓いだ」と言って、 小さな紙切れを入れました。そこに書いてあった言葉を、今でも覚 えています。 ウソはつかない。
「逃げましょう! ここは危険よ」 彼女が言った。恐れおののいて。 「どうして危険なんだ」 「今説明したでしょう。さっきの会話を傍受した秘密組織が私たち を殺しにくるの!」 彼女は一種異様な興奮状態に陥り、自分を見失い混乱していたの である。俺はそれをなだめようと必死だった。 「だから、それは大げさなんじゃないか」 「なにが大げさなもんですか。あいつらは私たちの国をのっとろう と密かに画策しているに違いないんだから」 「どうしてそうなるんだよ」 「あなたも理解力のない人ね。いいわ。私一人で逃げるから、あな たは一人で死んで」 状況が状況であるから、ひどい言葉だがこの際見逃そう。 「ちょっと待ってくれ。もう一回だけ、説明してくれないか」 なりふり構わず彼女にすがりつき、懇願する。憐憫の情を表すこ とを期待したのである。果たして。 「いいわ。ただし一回だけよ。一回説明したら、私はここから逃げ るからね」 「ああ、ありがとう」 冷静なフリをして、すっかり彼女のペースにはまっているような 気もするが……いや、俺は自分のペースで、彼女をしっかりと制御 しているはずである。 「じゃあどこから説明すればいいの?」 「それじゃあどうして国がのっとられると考えるのか、から」 「だからそれは、農薬シャワーを浴びせた食物を私たちに食べさせ て死を誘発させているから……」 「確かそれが密かな陰謀だと」 心の内のみで嘲笑する。彼女は、日本の農業の現状を俺以上に知 らないらしい。 「ええ、陰謀よ」 彼女は小さく言う。警戒を怠ってはいない証拠である。 「だけど最初の話題を思い出せよ。一体どうしてこんな展開になっ たんだ?」 「それはあなたが原因でしょ。オレンジのポストハーベスト問題な んか持ち出してきて」 おっしゃる通り。俺はすっかり忘れていた。彼女、憤慨しつつも 案外冷静でもある。これはうかうかしていたら言いくるめられかね ない。気をつけよう。 「いや、確かに言ったよ。でもその話自体脇道にそれてたんじゃな いか。本道は別だよ」 「だからそれも全部あなたがずらしたんじゃないの。私の質問にち っともまともに答えようとしないでさあ」 ごもっとも……ん? 危うい。術中にはまるところであった。 「いいや。ミカンとOrangeが違うってところはちゃんと答え た」 「それと最初の質問は違うでしょ。私が知りたかったのは、リンゴ とAppleは同じなのかどうかってことよ!」 「知るかよっ」
玄関に出ると、カメラが廻っていた。 「裕子ちゃん。来ちゃいました。へへへへ…」 マイクを持った男優の伊加瀬泰三さんが、鼻の下を伸ばしながら 喋っている。 「えぇーっ。どうしたんですかぁ?」 やっと掃除が終わった部屋をカメラに見せながら、私は当惑した 風を装った。 「げへっ。裕子ちゃん、遊びに来てって言ってたから、来ちゃった んですよねぇ。入っていいでしょ。ねっねっ」 ずかずかと上がり込む伊加瀬さんを、ちょっと押さえながら、私 は甘えた声を出した。 「えぇーっ、ダメですよーそんな突然。電話ぐらいして下さいよぉ。 掃除もしてないんだからぁ」 「えっ、綺麗じゃないですかぁ。さすが女の子だなぁ」 伊加瀬さんは、寝室へ直行すると、引出しを物色し始めた。 「あっ! だめですよぉ。そんなとこ開けちゃぁ」 探し出した私のパンティを、伊加瀬さんから取り上げると、私は 身体の後ろに隠した。 「おっと。そんなことする娘は、オシオキだぞぉー」 何の脈絡もあったもんじゃないけど、それから私は裸にされ、ち ょっと自慢の胸をレロレロされ少し感じながら、文字通り、足の先 まで舐めまわされた。 伊加瀬さんはテクニックも凄いから、いつも本気になっちゃう。 それに長い。だから、とーっても疲れて、終わったらぐったり。 撮影が終わって、スタッフも皆帰ったのに、伊加瀬さんは残って いた。 「裕子ちゃん。どうだった?」 「えっ? どうって、良かったわよ」 「ほんと?」 伊加瀬は目を輝かせ、それから沈んだ声でポツリといった。 「最近、女優さんが、ボクとの共演を嫌がってねぇ。自信無くして たんだ」 「そう…」 「裕子ちゃんがいうんなら、間違いないや。…それじゃ帰るね。又 しようね」 「えぇ。それじゃ、さよなら」「それじゃ」 玄関で見送った私は、ベッドへ直行。おやすみなさい。 伊加瀬さんとの撮影が終わると、2・3日はいつもこう。どうし ても身体が火照っちゃう。乳首やあそこがちょっと擦れるだけで、 ズキン・ビビッてなっちゃう。…したくなる。 でも伊加瀬さんの後の人って大変だろうな、なんてね。下手でも いいけど、早いのはダメ。何度も出来るんなら…まぁ、ね。でもそ ういうのって、いないのよねぇ。若い子なら…ねっ。(えへっ) きっと他の女優さんもそうなんじゃないかな。彼氏のいる女優さ んなんか大変よ。だって彼氏、持たないと思うもの。ちょっと深刻 よ。 私はまた、友達を増やしに街へ出た。
あのね恵子、聞いてよ。耳の調子がおかしかったから交換センター に行ってきたの。恋に落ちたのはそのときよ。彼、あの日が初日だっ たんですって。「どうなさいましたか?」っていう声が、そういえば どこかかすれてたのは、そのせいかもね。 「なんだか右耳の調子がおかしいの。耳鳴りみたいな雑音がするのよ」 っていったら、「ちょっと見せていただきますか?」って、彼の手が わたしの耳元に伸びたの。……うん、まあ、そりゃあね、彼がそうし たのは当然かもしれないけど。でも、わかんないかしら……ばーん、 と運命を感じちゃったのよ。 恵子、このあいだはごめんなさい。やっぱりあたしが間違ってたわ。 ……ええ。だってね、彼、すっごくいい声していると思ってたの。た まらない香りもする、って。でもね、そうなの、今日、目を取り替え てもらったのよ。そしたら、もう信じられないくらいダサい人で…… うん、男を見る目も機能アップしたみたいなのよね。もう最低。心機 一転やりなおしよ。ま、だから次に替えるところは決まりだけどね。 だって、次の相手のためにも新しくなくっちゃ。でしょう? いまな ら機能も二倍アップですって。ねえ、恵子もあたしと一緒にやらない?
斎藤芳江、魔女名ステュアート・ファーラーの語るところによれば 「違うのよ。そこらの団地妻なんかとは価値観が」 手掴みでステーキを貪る魔女はファミレス中の注目の的だ。彼女は 視線に気づくとやおら立ち上がり、狩れるもんなら狩ってみろよグギ ギと怒鳴りだし、首をグリングリン回しながら手元のサラダを投げ散 らかして周囲を威嚇した。 私はどうにか彼女をなだめて用件を切り出す。 「それであのう、私も魔女のお仲間に入れて欲しいんです」 魔女は血走った眼を細め、それは素晴らしいわグゲゲと笑った。 「あんたはただの団地妻で終わる人じゃないと思ってた。連中ときた らまるでくだらなくって、ワタシいつか連中にリガチュアの呪いをか けてやろうと思ってんの。あ、ここはワタシが」 彼女はレジにタロットカードを一枚置き、「カードで」と言い放っ た。 「とにかく価値観が違うの」 ステュアートの計らいで、私の入会式と仲間内の新年会を兼ねた夜 会(サバト)が催されることになった。場所は団地のはす向かいの公民 館。 魔女のお歴々に挨拶をしてまわった後、入会の儀式として黒山羊の 剥製の尻に口づけをした。古ぼけた剥製の臀部は禿げていて、変色し た口紅がこびり付いていた。 儀式の後、ステュアートが一人の老魔女を紹介した。 「こちら、夜会長の中西すゑさん。魔女名イザベル」 「初めまして、すゑさん」 「ギッ」 本名で呼んだのが気に障ったらしく老魔女は邪眼で私を睨みすえた が、新入りだからどうか大目に、とステュアートがとりなしてくれた。 彼女は先輩魔女の前では決してグゲゲと笑ったりしない。サラダも撒 き散らさない。 「とりあえず、当分イザベルさんの使い魔として励んでもらいます」 イザベルは口から黄色い泡を吹き出しながら怒鳴った。 「アタシはまじないの材料が御入用なんだよ。血石、琥珀にヒキガエ ル、それと処女の経血、今すぐ持ってきなっ」 逃げるように外へ出た。他の魔女たちが私を笑う。 宝石なんか持っていないし、ヒキガエルがそこらにいたとしても気 持ち悪くてつかめない。団地妻には蛙なんてつかめない。 こんな筈じゃあなかったのに。こんなことなら団地も公民館も崩れ てしまえばと呪詛をこめてはみたけれど、使い魔ふぜいに魔術が使え るはずもなく、犬の遠吠えが止んだ以外周りはなんら変わりがない。 せめて自分が処女だったらよかったのにと思ったが、それこそ魔術で どうなるものでもなかった。
日曜日の朝、目を覚ますと妻がベランダで洗濯をしていた。珍し く、タライと洗濯板を用いて、極彩色の物体をザブザブと洗ってい た。 「何を洗ってるんだい」 「あら、起きたの。これ、あなたの脳味噌よ。昨夜ずいぶん落ち込 んで、『死んでやるー』とか騒いでたでしょう。布団に入ってから もうなされてたから、変なシミにならないうちに洗っておこうと思 って。」 「そうか」そんな事が出来るのか。初耳だ。世の中便利に成ったも のだ。納得し、居間の卓袱台の定位置に坐る。そう言えば何だか頭 が軽いような気がする。ちょっと振ってみる。 朝食をすませて、湯飲みに茶を注ぐ。ふぅーふぅーずー。という 事は、私は今、脳味噌無しで動いているのか。日常の簡単な動作や 会話は、いちいち脳味噌にお伺いをたてなくても、筋肉の辺の神経 か何かが適当に制御するんだな、きっと。ずずー。新聞を取る。ん、 何だか文字が怪しいぞ。見出しの文字を読んでみる。「首…、…… 自……を21世…に実…」そうか。難しい漢字を読むには脳味噌が 必要なんだなあ。ひとしきり感慨にふける。感心してたら、眠くな ってきた。 「あなた、起きて下さいな」肩を揺すられ、うたた寝から覚めた。 「急いで乾かしたから、少し湿っぽいところがあったけど、とりあ えず戻しておきましたからね、脳味噌。私、ちょっと買い物に行っ てきますから。あなた午後から出掛けるって言ってなかった?」そ う言うと妻は出て行った。 私は卓袱台の定位置で、洗いたての脳味噌の感触を楽しんでいた。 ぬるくなった茶を啜る。ずー。そうだ、さっきの新聞の見出しが読 めるようになったか試してみよう。「首…、…発自…化を21世… に実施」まだ所々判らない漢字がある。きっとまだ少し湿っぽいか らに違いない。こめかみの辺りを叩いてみる。経過時間と乾燥具合 と漢字判読能力の相関関係を調べてみると面白そうだな。その時、 電話がなった。 「はい、もしもし」 「あああ。課長、まだうちに居たのお。アタシもう30分も待って るんだからあ。早く来てよお」聞き覚えのある声だ。同じ課の女性 に違いないが、なんだか妙になれなれしいなあ。と考えているうち に電話は切れた。私は受話器を置いて、相手の女性の名前を思い出 そうとした。ずずー。 駅前の喫茶店で、相原 由紀は携帯電話をテーブルに置くと、ま たファッション雑誌を眺め始めた。隣の客は朝刊を読んでいた。 「首相、原発自由化を21世紀に実施」
病院からの帰り道、風にのせられてきた歌声に足をとめて、冴子 は河原を見下ろす。銀髪の老女の後ろ姿が目に入る。と、不意に医 者の言葉が頭を過った。 完治の見込みはありません。 仕方ない、と下唇を噛む。すると、老女がこちらを振り返って上 品な微笑を見せた。 「どうですか」 「え」 「ご一緒に」 大声のあと、老女は冴子を手招きした。戸惑いながらも奇妙な引 力を感じて土手を駆け下り、老女の前に立つ。 楽しげに微笑みながら、老女は銀色の水筒から焦茶の液体を蓋に 注ぐ。やわらかに湯気が立つ。手渡され、その微笑みに促されて口 許に運ぶ。喉に流し込む。熱く苦かった。 「ブルーマウンテンNo.1」と言ってから、老女は「おいしいで しょ」と畳み掛ける。 「おいしい」と、冴子は答える。 「主人がね、好きだったの」 ご主人は、と言いそうになって、「だった」という過去形に野暮 な質問だと思い至り、冴子は言葉を呑み込んだ。そして、なぜ自分 が声を掛けられたのかを不思議に感じながらも素直に納得した。シ ンパシイ、と冴子は思った。 「じゃあ、蛙の合唱ね」 老女は空になった蓋を冴子から受け取って、きゅきゅと本体にね じ込みながら、呟くように言った。 老女は歌い始めた。冴子は慌て、そして追った。僅かな時間、澄 んだ声の輪唱が静かな空気を震わせた。 「よかった」と、終わって老女が言った。 「そうですね」と、微笑んで冴子が言った。 「そうでしょ」 老女は満足したように、大きく息を吐いて続けた。 「今日はいい日。誰かね、来るといいなと思ってたの。一緒に歌い たいと思ってくれる人がね、来てくれたらって」 それはあなたの思い込みです、と言いたい気持ちが冴子を苦笑さ せた。が、間違いでもないと思う自分も確かにいた。 「きれいな声だもの、聴衆もきっと喜んでる」と老女は屈託ない。 「聴衆?」と怪訝そうな顔で冴子は訊ねる。 「ええ、魚がね、聞いてる」 「魚、いるんですか」 「いますよ。出来がいいとね、跳ねます」 老女は水面に目を向けた。冴子も視線をそちらへ移した。細い金 の糸が幾層にも重なったような輝きに目を細める。 「花」と、老女は冴子の顔をまっすぐに見つめて言った。 「花」と、冴子もくり返した。 春のうららの、にはまだ少し早いけれど、と思いながら冴子は老 女の声に合わせて歌う。老女はごく自然に低音のパートをこなして ゆく。 今日はいい日、と冴子は思った。 ぱしゃっと、魚が、跳ねた。
今日も男はベッドの上で一日を過ごした.会社を辞めた末のひき こもり生活.布団にくるまれ,ただ何となく時間を費やしていくの である.眠くなればそのまま眠ればいい.ベッドを出るのは食事と 排泄の時ぐらいであった. 男は孤独だった.彼女も友人もいなかった.しかしまた,この孤 独は居心地がよかった.時々寂しさに襲われることはあっても,し なければならないことなど何もなかったから. 男が生きるよすがは,眠りの時に見る夢であった.夢には家族や 昔の友人,またかつて親しかった,そして好意をよせていた女が出 てきた.夢の中で男は幸せだった.少なくとも孤独ではなかった. それらの夢はどれも過去の幸福にしがみついたものばかりではあっ たが. その夜,男は寝つけないでいた.男はコップに水をくみ,睡眠薬 の小さな容器を手にした.こんな時はいつも薬を飲むのである.男 はなぜか残っている錠剤全部を出してみた.ちょうど片手におさま る量だった.男はそれを当たり前のように口に含み,水で喉に流し 込んだ.錠剤は驚くほど簡単に体の中へ入っていった.それは何ら 勇気を必要としない,気まぐれの行為だった.男はただぐっすり眠 り,夢を見たかっただけだ.そのために死ぬかどうかなど,どうで もよいことであった.男には自殺する理由などなかったが,生きて いく理由もまたなかったのである. 男は嵐の中を走っていた.凍えるように寒く,打ちつける雨が痛 かった.男はある場所に向かっていたのだが,そこがどこかは分か らなかった.地面はぬかるみ,なかなか進めずにいた.なんとかた どり着けば,そこは小さな無人駅だった.プラットホームには大勢 の人が並び,列車に乗り込んでいるところだった.乗り口の傍らで は車掌が切符を切っていた.男は列の最後に並んだ.しかし,男に は切符がなかった.それを知った車掌は無愛想に乗車を断り,自分 は列車に乗ると扉を閉めた.発車のベルが鳴り,列車は嵐の中へ消 えていった.男はひとりプラットホームに残された.絶望的だった. 男は目を覚ました.寝汗と吐き気,喉の渇きで最悪の気分だった. 男は飲み残しの水を飲み干した.薄暗い部屋には閉めきったカーテ ンの隙間から光が差し込んでいた.男はカーテンを開けると眩しさ のあまり目を覆った.ようやく見えるようになれば,それはいちめ んの青空の下に広がったいつもと変わらぬ風景だった.男は少し青 空を憎んだ.
この間、友人のところから(アナクマ)を一頭、頂いてきた。い や、正確にいうと、勝手に私に付いてきたのだ。 友人は、占いを生業としていて、ちょっとした恋愛がらみを見て もらったら、(アナクマ)を引いてしまったのがきっかけだった。 (アナクマ)は毎日、毎日、同じことを言う。 「あんさん、だめでっせ。そんなしょうもない色恋してたら」 「しょせん、あんさんも同じレベルやいうことですなあ」 うるさいと思うのだが、なかなかイタイところをつかれているよ うで、反論しようがない。無視しようと思っても、これまたイタイ ところなので、耳に入り込んでくる。ほとほと困って、(アナクマ) に聞いてみた。 「それじゃあ、あたしはどうしたら、シアワセになれるの?」 (アナクマ)はちょっと難しい顔をしたかと思ったら、へらへら 笑いながら言った。 「そりゃあ、あんさん、わてとあれこれしたほうがよろしいがな」 ばかばかしくて呆気にとられた。 あれから、まだ(アナクマ)は側にいる。 毎日毎日、へらへら笑って同じことを言う。 どうしたものかと思いながらも、まだ追い出せていない。
そこらかしこでセックスする光景はもちろん見慣れてるけど、そ れを見ると僕もしたくなるから少しイヤだ。 父が大学生の兄に電話で話している内容を傍受してやった。僕の モニターには父と兄の顔が映っていた。 「21世紀、人間は本能に回帰しセックスを素直に受け入れること に成功した。昔は『恋愛』っていってセックスをみだらなことと考 えていた時代があったらしいが、それが20世紀後半。21世紀前 半から『性の解放』が始まって、60年代に完全に解放された。こ れが大筋だ。ここは大事なとこだぞ。絶対試験にも出るから。きち んと言えるようにしておくこと」 父は有名な歴史のマスター、兄は今年インターカレッジのマスタ ー取得試験らしい。父とも兄とも仲良くないが、いたずらしてるう ちに珍しい言葉を聞いた。 「恋愛」っていう言葉を初めて聞いた。もちろんミドルスクールの 教科書なんかには載ってない。 今日もトモコと一緒に帰ることにした。一緒に帰りたかったから。 友達は「お前、変な奴」っていうけど、気持ちの問題だからどう しようもないじゃん。 校門の横で先生たちが「アフターファイブ」のセックスしてて「さ よなら」って言ってきた。僕もしたくなったけど、トモコにいうの はやめておいた。どうせ昨日もしたんだし。トモコもそんな感じだ った。 3日前に「恋愛」についてとうとう読んだんだ、若者向け流行R OMで。父はこんなROM僕が読んでると知ったら、すごい剣幕で 怒るだろうな。「兄を見習って勉強しろ」って。 「『恋愛』っていうんだって。昔20世紀の終わり頃、そんな感情 を『恋愛』って言ってすごく流行った時代があったらしいんだ。胸 がドキドキするらしいよ、これから流行るかもって」 そう言うとトモコは 「恋愛?っていうの。20世紀の人の言葉?」 「うん」 こんな感情だれにもわかんないだろうな、と思いつつ僕の右手が 自然にトモコの左手に触れたとき、嬉しいやら恥ずかしいやら。こ れから流行るんだったら、東のニューヨーク辺りではもう流行って るのかな? 「恋愛」って詳しくはわからないけど、もしこういうのが「恋愛」 っていうなら全然悪くはないと思う。うん、悪くない。 ポケットの中にトモコの手をさそって握ると、トモコも強く握り 返してきた。恥ずかしそうな顔をしてた気がした。セックスの時も 見せない顔をした。それが嬉しかった。 明日もこうして一緒に帰ろう。
第11回作品受け付け───12月13日〜1月15日迄(終了)
作品発表──────── 1月16日〜
人気投票受付け───── 1月16日〜2月5日迄
結果発表──────── 2月6日
第11回1000字バトルチャンピオン
三月さん作『熊』に決定です。
三月さん、おめでとうございます!!
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 熊(三月) | 5 |
| ハザリ(紺詠志) | 4 |
| 変身(サトコフ) | 2 |
| 19,2000(穂積行人) | 2 |
| 河原の二重奏(一之江) | 2 |
| 洗脳(越冬こあら) | 2 |
| 上着と鈴(鮭二) | 2 |
| わな(百内亜津治) | 1 |
| 前回までのあらすじ(ぶおまる) | 1 |
| それは詭弁というものだ。(吾心) | 1 |
| ぶれーき(羽那沖権八) | 1 |
| 或る夜の体験(岡田聡次郎) | 1 |
| 昇天(Yamac) | 1 |
| 後悔(逢澤透明) | 1 |
| 切符がない(ファゼーロ) | 1 |
●熊(三月)
●ハザリ(紺詠志)
●変身(サトコフ)
●19,2000(穂積行人)
●河原の二重唱(一之江)
●洗脳(越冬こあら)
●上着と鈴(鮭二)
●わな(百内亜津治)
●前回までのあらすじ(ぶおまる)
●それは詭弁というものだ。(吾心)
●ぶれーき(羽那沖権八)
●或る夜の体験(岡田聡次郎)
●昇天(Yamac)
●後悔(逢澤透明)
●切符がない(ファゼーロ)
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