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第12回1000字小説バトル
Entry31

くのいち

作者 : 一之江
Website : http://www05.u-page.so-net.ne.jp/qd5/s-kumiko/
文字数 : 1000
 北春日部駅の改札を早足で抜ける。ヒールの音も高らかに電話ボ
ックスに入る。呼び出し音1回で相手は出た。
「遅かったな」と尊大な男の声。
「すみません」と、わたしはつい言ってしまう。
「で、無事仕掛けたのか」
「それが」と、わたしは言い淀む。男は黙っている。仕方なく言葉
をつなぐ。
「できませんでした。今夜のところは」
「意味がわからんな」
「実は気づかれたようで」
「私にも解るように説明してくれんか」
 予想通りの嫌味に歯を食いしばりながらも、わたしは答えを探す。
「いえ支社長、気づかれる気配を察したものですから。危険を冒す
必要はないと判断いたしまして。そもそも隣の支社などうちの敵で
はないのですから、今さらそんな小細工など……」
「急須猫を噛む」
「は?」
「急須猫を噛む。知らんかね」
「いえ。存じております」
「そういうことだ。君はまだ修行が足りんようだ。自分が私に意見
できる立場にいるとでも思っておるのかね」
 わたしは下唇を噛みしめる。こんな男相手に、不調な携帯でやっ
きになって確認の電話をしようとした自分が悔やまれる。やつの目
の前だったのに。待てよ。さてはあれで気づかれたか。
「もういい。君の話になど興味はない」
 そう言うと男は電話を切った。
 ボックスから出ると冷たい風がわたしをなぶった。どうしてこん
なところにいるんだろう。逃げたのか。このわたしが。追いつめら
れる恐怖からわたしは電車を降りて駅の外まで来てしまったのか。
そしてやつは追ってこなかった。
 むなしい。
 わたしは銀鼠色をした「ブルックスブラザーズ」のジャケットの
ポケットから名刺入れを取り出す。中から1枚抜き出してその肩書
を読む。支社長代理。何が「代理」だ。「代理」って何だ。
 こんなもの。目にもの見せてくれる。馬鹿におしでないよ。
 わたしは2本の指でそれを挟み、数メートル離れたところにある
花壇の柔らかそうな土に狙いをつけて、風がやんだその瞬間に、熟
練された妙技でしゅっと飛ばす。名刺は土に当たりぱたっと倒れる。
 わたしは呆然と立ち尽くす。
 角が丸かった。
 晴れ渡った夜空に星が散らばっていた。これからどうする。もう
上りの電車などないだろう。タクシーか。それともどこかに。
 寒い。わたしは銀鼠色のジャケットの襟をかきあわせて、窮鼠猫
を噛む、と呟く。わたしの猫の尊大な声を思い出す。噛むのは無理
でもせめて何か、誰か。夜風がまたぴゅうと吹いた。星が流れる。






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