第12回1000字小説バトル
Entry9
精霊飛蝗と書いてショウリョウバッタと読む。尖った頭がナイフ のようなこのバッタは、片手に収まるほど小さいのがオスで、その 倍くらいある大きいのがメスである。メスは太くて長いうしろ脚で 跳躍し、オスはパチパチと乾いた音をたててとぶ。 これは精霊飛蝗という漢字表記を知らなかった頃の話なのだが、 私にはこのバッタについてある思い出がある。 夏も終わりのある日の午後。少年の私はいつものように網と虫か ごを持って近くの荒れ地で虫捕りをしていた。その日は風もなくよ く晴れていたが、おかしなことにショウリョウバッタ、それも何故 かオスばかりが捕れるのだった。私はその大きさゆえにオスを無価 値と見なしていたのだが、その日はとりあえず虫かごに抛り込んで おいた。そしてまた一匹、ショウリョウバッタが捕まった…が今度 は大きい。メスだ。 しかしそれをつかんで私は失望した。そのメスはカマキリにでも 襲われたのか、深く傷を負い、片方のうしろ脚も失われていたのだ。 私はその不完全な姿や慣れているはずの有機質の匂いに不快感を覚 えた。すると予期せずメスの口から赤紫の汁が滲み出た。私は驚き、 その昆虫を足もとに叩きつけてしまった。メスは狂ったように五本 の脚をもがいた。口の中が酸っぱくなった。背すじが寒くなり、思 わず身震いした。たまらず私は酸っぱい唾をその生きものに吐くと、 その上へ大きな石を抱えあげ、手を離した。 「どっ」という低く鈍い音。そこからは「ぐしゃ」という湿った 音もかすかに聞き分けられた。おそるおそる石を裏返してみると、 それまで生き延びてきたバッタもあえなく圧死していた。破裂した 腹からは黄透明の体液と絵の具状の灰色の内臓がとび出し、葱色の 肢体や破れた翅とまみれていた。唯一のうしろ脚は痙攣し、むなし く空を蹴り続けた。その様子に私は狼狽し、あわててかき集めた砂 で死骸を隠した。しかしなお私の不安は拭えなかった。私は再び石 を被せると、押さえた両手でゆっくりと、ねじり込むように石を回 した。この個体の存在そのものを擦り消してしまえと思った。 その時、にわかに強い雨が私を打った。夕立だ。頭上にはいつの まにか黒雲が垂れこめ、辺りは薄暗くなっていた。閃光が走り、一 瞬おいて雷鳴が響き渡った。不意をつかれた私は怒られているよう な気持になった。「帰ろう…」と私はつぶやいた。虫かごのオスた ちは雨の中で息を殺したようにじっとしていた。
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