| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 救世主 | 杉原久郎 | 1000 |
| 2 | 遺書 | 松岡純平 | 695 |
| 3 | 超有名三者対談 | 長井ミゲル | 891 |
| 4 | (作者の希望により掲載を終了いたしました) | ||
| 5 | OH MY GOD | 岡嶋一人 | 993 |
| 6 | 娘が連れて来た男 | しょーじ | 988 |
| 7 | 食べたらおいしいロータスの実 | ニコ | 947 |
| 8 | 英雄 | 佐藤ゆーき | 954 |
| 9 | 精霊飛蝗の思い出 | ファゼーロ | 996 |
| 10 | 君に伝えたいこと | 百内亜津治 | 998 |
| 11 | 夢へ | Default | 1000 |
| 12 | モギ町 | 川島ケイ | 1000 |
| 13 | 彼女のアイランド | 川辻晶美 | 1000 |
| 14 | くだらない私 | うめぼし | 963 |
| 15 | 霧 | 仏 | 1000 |
| 16 | 永遠に・・・ | 緒方省吾 | 1000 |
| 17 | (作者希望により削除) | - | - |
| 18 | 必ず当たる予言 | Momo | 981 |
| 19 | 蒸発 ★ | 越冬こあら | 999 |
| 20 | 屋上庭園の「君」 | 更羽 | 953 |
| 21 | 千字本格推理小説「出口のない迷宮」 | 逢澤透明 | 1000 |
| 22 | 洗剤 | 羽那沖権八 | 999 |
| 23 | 悔悟 | 鮭二 | 1000 |
| 24 | 夜を跨ぐ | oshifumi | 992 |
| 25 | 鬼 | 吾心 | 997 |
| 26 | 湖 | 小石川ももこ | 998 |
| 27 | 窓 | 岡田聡次郎 | 996 |
| 28 | 大好物 | 紅緋蒼紫 | 990 |
| 29 | 恋愛 | akoh | 985 |
| 30 | 千文字聖書(特約) | スベスベマンジュウガニ | 998 |
| 31 | くのいち | 一之江 | 1000 |
| 32 | 警官殺し | 藤次 | 1000 |
| 33 | 星のお伽ばなし | 蛮人S | 1000 |
じっと見つめている。蛍光燈の灯りにてらてらと妖しく輝く体には まるで無数の目玉が埋まっているみたいだ。この世の果ての秘境か ら来たというこの客が部屋に居着いてからもう三ヶ月になる。最初、 僕はその貪欲さと完璧なまでに狂暴なその顔に興味を感じた。いや 力を感じたのだ。 暫くすると客はその図々しい本性を発揮し出した。それは特に旺盛 な食欲に現れた。僕はその力に狂喜した。いつしか客はこの部屋の 新しい主人となり、僕は主人の飽くことのない食欲を満たす為に少 しずつ自分の時間が減っていくのを感じた。付き合いが減るにした がってまず友達が消えていった。そして遂に彼女も僕が変わったと 言い残して去った。 勝利を確信した主人はもう屍肉を食べなくなっていた。生きた肉の 生け贄を僕に要求し、さらにその生け贄達を最高の状態に保つよう 僕に戒律を課した。彼は僕の行動を二十四時間監視することによっ て、他にもいろいろな戒律を設けた。僕は彼と同じ食べ物肉を口に 入れることを止めた。彼の目の前で一人快楽に耽ることもできなく なった。いまでは誰も訪ねてくることのないこの部屋で、ただ彼の 為に鼠を飼育するのが僕の生活となっていた。そして今日会社から 免職の通知が届いた。 殉教者は水槽の中へその右手を入れた。次第に薄れ行く意識の中で、 血で赤く染まった水の中にただの人食い魚を見た。
薄明かりの差し込む窓辺にあの人は現れません。僕の耳には悲しき 調べは流れ込んできません。空はあくまで青く静けさを湛えていま す。この世に生を授かり今日まで僕なりに精一杯生きてきました。 しかし片時もこの妄想めいたものから放たれた試しはありません。 いやこれは妄想なんて大層なものではない事も分っています。これ は認識の上にしっかりと立つあまりにも分りきった事実です。なぜ 僕は天才ではないのだろうか。僕がそうである限りこれははっきり とし過ぎた事実です。なぜなら宿命という言葉は彼らにだけ使う事 が許されているのだから。僕は父母をいや誰をもうらむ者ではない。 それはもっと違う何かであり、そうあらねばならぬのだから。はじ めからそれを授かっていない僕にはおよそ知る由もない事なのだか ら。天才は自ずから自らを、そしてその地平を知り苦悩するもので あるらしいです。僕にはその限界というものがおよそ見えません。 この世で凡才が夢を見るときほど楽しく、それでいて悲しいほど滑 稽に見えるものはありません。僕はその醜い姿を晒しつづける事が もうできなくなりました。恍惚たるべく苦悩するときに自分の顔に 浮かぶ卑しい薄笑いに気づいてしまったのです。結局僕は誰にも心 のうちを打ち明ける事ができませんでした。見渡せば皆があの恐ろ しい薄笑いを浮かべ苦悩し、夢を語っているではないか。誰が理解 するというのだ。傷を舐めあい。だがそれもそして何もかももうす ぐ消え去る。苦悩ではないのだ。ただの煩悩だ。ああこの最後の一 瞬にさえも僕には全てが、ペンを握る手、風の音、影の色、全てを はっきりと把握できる。 ごめんなさい。僕はどうしようもない凡人でした。
S「や、どうもどうも」 I「お久しぶり」 Y「おひさ。どうだい、調子は?」 S「ぼちぼちだね。いくら僕が有名人でも、こう長く不景気が続く とね」 I「おや、君もですか。私も最近苦しくてね」 Y「実際の所、我々ほど有名で、肖像画が多く印刷されている人間 もいないと思うがね」 S「その割には、生活は楽にならないねぇ。どうしてだろ」 I「ところで、その件の肖像画だけど、どうして君だけカメラ目線 なんですか?」 S「へへ、僕は誰かさんみたいにボケーッとしてませんからね。口 まで半開きに開いちゃって、カッコ悪い」 I「違う違う、あれは口を開いてるんじゃなくて、ヒゲの影なんで すよ。そんな事言ったら君の肖画、なんですかあの襟? ラガー マンじゃあるまいし、思いっ切りたてちゃって、最初に見たときは むち打ちかと思いましたよ」 S「あれはあれでいいんだよ! 「襟を正す」って言うだろ? あ んたみたいに前だけちょろっと折る方が中途半端でみっともないよ」 Y「いい加減にしないか、二人とも。見苦しいぞ」 I「そういえば、あなたの肖像画は和服ですね」 Y「うむ。やはり、和服は日本人の魂であろう」 S「ケッ、古くせぇ」 Y「なに?」 S「古くさいって言ったんだよ、このヒヒじじぃ!」 Y「き、貴様、日本の伝統文化を愚弄する気か?」 S「和服の悪口を言ってるんじゃなくて、お前がかっこわるいって 言ってるんだよ! 眉間にイボなんかつけちゃって、千政夫かっつ ーの!」 I「ちがうぞ、千政夫はイボじゃなくてホクロだ!」 Y「いや、そんな問題じゃなくて」 S「だいたい、前から思ってたけど、お前、車だん吉に似てるぞ! 川島なおみと「おまけコーナー」でもやってろっての!」 Y「うわ、それは言っちゃ駄目だろ、このむち打ち野郎!」 S「あほか、むち打ち違うっちゅーねん!」 I「こらこら! ケンカしてる場合じゃないぞ! もうすぐ新しい 仲間が増えるっていうのに」 S「なに、マジ?」 Y「誰だ?」 I「いや、それが、人じゃないらしいんだけど。沖縄の朱里城って 知ってますか、諭吉さん、漱石君?」
「もう1回やらせて、師匠」 「こら、何度言ったらわかるんだ。師匠と呼ぶな、師匠と」 「わかったわよ。ねえ、良いでしょ。もう一回だけ」 「もう1回、もう1回って、これで4回目だぞ」 「4回でも5回でも良いじゃない。お願い、ねっ」 「仏の顔も3度までというのを知ってるか」 「あら、知ってるわよ、そのくらい。でも師匠は仏じゃないもの」 「当たり前だ。勝手に仏になんかされちゃあ困る。まあ、仕方がな い。本当にもう一度だけだぞ。今度失敗したら2度とチャンスはな いと思えよ」 「わかりました、師匠」 「その師匠と言うのをやめろと言ってるのに、私にはちゃんと……」 「じゃあ、行ってきまーす」 「ああ、おい、待て。慌てるな」 「なんか、まだお話が?」 「うむ、いいか、これまでの失敗を反省したか?」 「反省って?」 「何で失敗したのかということだよ」 「何でって、言われても困っちゃうな。私は一生懸命に考えて、一 番やりやすい方法でやってるんだけどな」 「やりやすい方法?」 「うん、簡単で楽な方法」 「そんなことを言ってるから何度も失敗するんだ」 「だって、あんまり難しいことやったら、私判らなくなっちゃうも の」 「ばかもーん、お前には自覚がたらんのだ。自分の仕事を何だと思 ってるんだ」 「あら、ちゃんと判ってますよ」 「ちゃんと判ってるんなら、楽することばかり考えてないでまじめ にやれ」 「だいたい、今使ってる接着剤が弱過ぎるのよねえ。ちょっと時間 経つとすぐに はがれちゃうんだもの。他の皆も言ってますよ。前に使ってた『ベ ッタリンコ バージョン3.2』はもっと強力だったって」 「確かにな。だが、あれは人体に悪影響があることが判ったんだ。 今の『クッツーク バージョン1.0』はそれが緩和されている」 「悪影響って?」 「あれを、あまり使用すると思考回路に異常をきたす恐れがあった んだ。『クッツ ーク』も、多少その傾向はあるが、格段に改善されている」 「そのかわり、接着力が弱くなったって訳?」 「まあ、そういうことだ。だが、他の連中も同じものを使ってるん だ。お前だけ じゃないんだから、接着剤のせいにするな」 「はーい」 「判ったら、早くいけ。いいかくれぐれも失敗するなよ」 「了解、行ってきまーす」 「おいおい、忘れ物だ。弓と矢を忘れちゃあ仕事にならんだろうが」 「OH MY GOD!」 「こら、私を頼るな」 「行ってきまーす」 「まったく、最近の天使は質が落ちたもんだ」
「お父さん、文恵さんを僕にください」 うららかな日曜日、文恵が家に連れて来た青年は、そう言って丁 寧に頭を下げた。 青年、寺田悟は、小ざっぱりとしたスーツ姿にきちんと整えた頭 髪、そしてなにより爽やかな顔つきと、颯爽とした身のこなしをし ていたので、文恵の両親共にこの若者に好感を持ったのだった。 父親である達夫は咳払いをひとつし、威厳を込めて尋ねた。 「君は仕事は何をしているのかね?」 娘をやることはやぶさかでないのだが、念のため確認しておきた い必須事項である。 悟は快活に答えた。 「はい、今、失業中なんです」 胸をそらし、堂々として、悪びれる様子は微塵もない。 達夫はきょとんとした。あまりにも意外な答えだったからである。 いったい職を失った男が、結婚の許可を得に挨拶に来るものだろう か。今、一人娘を手放さんとするこの父親には、それが理解できな かった。 横に座る妻の早苗としばし顔を見合わせた後、達夫は、悟の斜め 後ろで正座している我が子に訊ねた。 「文恵、お前は、その....いいのか...?」 文恵は目を伏せ、薄い笑みを頬に浮かべあいまいに頷くだけであ る。 「失業中ではありますが」 悟が凛とした姿勢で声を張り上げた。 「文恵さんが働いてくれるって言うから大丈夫です!」 スカッと言い切った。 屈託のない、じつに朗らかな声色であった。その調子で悟はさら に続ける。 「借金取りに追われる身ですが、文恵さんが貯金の500万円使っ ていいって言ってくれてますし、いざとなったら風俗店でも働いて くれるって言うんです。あとはお父さんから持参金を一千万円もも らえれば全て解決するんです。だからぜひ文恵さんを僕に...」 悟がそこまで言った時、達夫はドンとテーブルを叩き、やにわに 立ち上がった。 「君はうちの文恵を『金づる』としか見ていないのかっ!」 部屋中に達夫の胴間声が響きわたった。彼の目は血走り、身体は ぶるぶると震えている。今にも目の前の非常識、かつ無礼きわまり ない男に掴みかかりそうな勢いである。端で見ている早苗は顔面蒼 白となり、若い二人に目で「謝りなさい」と懸命に合図を送った。 「そんな、お父さん、めっそうもない」 悟は初めて動揺を見せると、正座したまま、ずいと身体の向きを 変え、仁王立ちの達夫を正視した。そして誠意あふれるまなざしで 訴えた。 「ちゃんと『性欲のはけ口』としても見てますとも!」
隆之が手錠を拾ってきた。 「それどうしたの」 貴子は紙コップにお酒と氷を足した。 「そこの公園に落ちてたんだ」 「仕事もしないで昼間から公園なんて、ほんと浮浪者か隠居した老 人ね」 「まだ21だぜ。それよりこれ何に使るか考えない?」 隆之はだいぶ酔っている。さっきから手錠から目を離さない、拾っ てきた手錠を指で摘まんだり自分の手首に当てては荒いため息を吐 いている。 「俺とおまえにつけようか」 「みんな変な目で見るわよ」 「でも、いつでも一緒にいられるぜ」 「誰も私達を引き離す事はできないのね」 「そうだよ、それが例え神様だって」 でも貴子はなんだか不安が隠せないようだ 「私性格悪いわよ」 「そんな事気にしないよ。おまえ奇麗だし、だいいちそのすこしひ ねくれた所がかわいいんだよ」 「でも、そんなのつけちゃったらトイレいけないわ」 「俺もついていくよ」 「一緒にするの?」 「俺、見てるよ貴子がしている所」 「恥ずかしいよ」 「そう?俺、平気だよ」 「友達に会う時は?」 「俺も行く」 「仕事は?」 「辞めちゃなよ」 「生きていけないわ」 「じゃあ、二人で小説家になろうよ、それなら二人がつながってい てもできる」 「私の事好き?」 「世界で一番好き」 「どこが好き?」 「目も鼻も口も」 「もし私が向かいのマンションから飛び降りると言ったらどうする の?」 「僕も飛び降りるよ」 貴子は「痛いわよ」と言うとそれを見て隆之は白目をむいて死ぬ真 似をして貴子を笑わせた。貴子は最後の一口を紙コップから飲み込 んで隆之にキスをした。 「解ったわ」 貴子は隆之から手錠を取り上げると隆之の左手首に掛けた。 「愛してるよ、貴子」 「私もよ」 貴子は隆之の胸に顔を埋めるともう片方の手錠をベッドの策に勢い よくはめた。貴子はそれと同時に隆之から離れふらふらしながらも 部屋を出て扉を閉めるとその扉を思いっきり蹴った。 「なにのんきな事言ってんのよ」 貴子は急いで部屋を離れて駅に向かった。 隆之が鍵をポケットに持っているのを貴子は知っていた。 「もううんざりよ」 あのお酒と煙草とカビの匂いのするアパートを思い出すだけでも気 が狂いそうだった。 馬鹿にするなよ 私に虫歯になりそうな甘い言葉を吐くやつも それを見て笑う奴等も 何の能もない私を馬鹿にするなよ 貴子は煙草を一本吸って、街へ向かう電車に乗り込んだ。
僕は子供の頃から英雄に憧れていた。選ばれた人間になりたかっ た。今とは違うエキサイティングな世界に放り込まれて冒険をして みたかった。そして最後は世界中の人々から拍手を送られたかった。 でも今の僕はつまらない現実の中で、つまらない毎日を過ごして いる。二十四歳にもなって心のどこかで自分はいつかは英雄になれ ると信じながら、現実から目を背け、今の自分がやりたいことも見 つからずにだらだらと生きていた。 そんなある日の朝、僕は轟音と共に目が覚めた。あまりに凄い音 だったが、僕の部屋の中はいつも通りだったし、外も静かだったの でそれは夢の中で聞いた音ではなかったのかと思った。僕は布団か ら抜け出し思い切って窓を開けてみた。そこは瓦礫の山と化し、あ ちこちで煙りが上がっている。 次に僕はテレビをつけてみた。今にも崩れ落ちそうなスタジオで いつもは冷静な美人キャスターがパニック寸前になりながら原稿を 読み上げている。 「先程世界各国が正体不明の軍隊から攻撃を受けました。トーキョ ーの上空には空飛ぶ円盤が飛び交っています。総理ならびに政府関 係者は、この状況を救えるのはキョウト在住のサイトウタケシ氏し かいないとの統一した見解を示し、タケシ氏には至急国会議事堂ま で来ていただくように呼びかけを行っていますが、通信手段の断絶 のため今だコンタクトはとれていない模様です。サイトウタケシさ ん、見ていましたらすぐに国会議事堂までおこし下さ・・・」 そこで画面は真っ暗になった。ちなみにサイトウタケシというの は僕のことだ。僕はついに英雄になれる。すぐに顔を洗って歯を磨 いて、一張羅のスーツに着替えて、外に出た。外には誰もいない。 駅まで辿り着いたが、やっぱり誰もいないし、電車が走っている気 配もない。 僕は途方に暮れたが、僕は英雄だと自分に言い聞かせとにかく国 道を東京の方に向かって歩き出した。でもいくら歩いても車も通り かからないし、誰にも会わない。何日も何日も。 そして僕はついに力つきて倒れてしまった。僕の存在を誰にも知 られることもなく。こんなことならもっと体力をつけておくんだっ た。サバイバルの勉強をしておくんだった。それが僕がこの世で最 後に考えたことだった。 僕は英雄になりたかった。でも僕は英雄になる準備をしていなか ったから世界は滅びてしまった。
精霊飛蝗と書いてショウリョウバッタと読む。尖った頭がナイフ のようなこのバッタは、片手に収まるほど小さいのがオスで、その 倍くらいある大きいのがメスである。メスは太くて長いうしろ脚で 跳躍し、オスはパチパチと乾いた音をたててとぶ。 これは精霊飛蝗という漢字表記を知らなかった頃の話なのだが、 私にはこのバッタについてある思い出がある。 夏も終わりのある日の午後。少年の私はいつものように網と虫か ごを持って近くの荒れ地で虫捕りをしていた。その日は風もなくよ く晴れていたが、おかしなことにショウリョウバッタ、それも何故 かオスばかりが捕れるのだった。私はその大きさゆえにオスを無価 値と見なしていたのだが、その日はとりあえず虫かごに抛り込んで おいた。そしてまた一匹、ショウリョウバッタが捕まった…が今度 は大きい。メスだ。 しかしそれをつかんで私は失望した。そのメスはカマキリにでも 襲われたのか、深く傷を負い、片方のうしろ脚も失われていたのだ。 私はその不完全な姿や慣れているはずの有機質の匂いに不快感を覚 えた。すると予期せずメスの口から赤紫の汁が滲み出た。私は驚き、 その昆虫を足もとに叩きつけてしまった。メスは狂ったように五本 の脚をもがいた。口の中が酸っぱくなった。背すじが寒くなり、思 わず身震いした。たまらず私は酸っぱい唾をその生きものに吐くと、 その上へ大きな石を抱えあげ、手を離した。 「どっ」という低く鈍い音。そこからは「ぐしゃ」という湿った 音もかすかに聞き分けられた。おそるおそる石を裏返してみると、 それまで生き延びてきたバッタもあえなく圧死していた。破裂した 腹からは黄透明の体液と絵の具状の灰色の内臓がとび出し、葱色の 肢体や破れた翅とまみれていた。唯一のうしろ脚は痙攣し、むなし く空を蹴り続けた。その様子に私は狼狽し、あわててかき集めた砂 で死骸を隠した。しかしなお私の不安は拭えなかった。私は再び石 を被せると、押さえた両手でゆっくりと、ねじり込むように石を回 した。この個体の存在そのものを擦り消してしまえと思った。 その時、にわかに強い雨が私を打った。夕立だ。頭上にはいつの まにか黒雲が垂れこめ、辺りは薄暗くなっていた。閃光が走り、一 瞬おいて雷鳴が響き渡った。不意をつかれた私は怒られているよう な気持になった。「帰ろう…」と私はつぶやいた。虫かごのオスた ちは雨の中で息を殺したようにじっとしていた。
どうしてかって訊かれたって、そんなことを答えられるくらいな らこんなにぼくは悩んだりしないはずだ。それというのも君のこと をちょっとしたはずみで思い出してしまうと、胸が張り裂けそうと いうよりか、とにかくせつなくて何だか全身に弱い電気がビリビリ と通って動きが一時停止してしまうみたいだからだ。とたんにぼく の思考もやろうとしていたこともみんなことごとく吹き飛んでしま って、後に残ったのは夢の中を漂う君の笑顔だけで本当にどうにも できなくて苦しくなってしまう。 そんなぼくの気持ちを知ったときから、いつも君は淡いやさしさ を持って答えてきてくれたと思う。まるでやわらかな陽光がこの地 に生きるすべての動植物にむけるまなざしのように。それらの陽光 は長い冬で凍りついたぼくの心を解かし、生気をみなぎらせ、張り 裂けた胸やしびれた全身を修復し、さらに生きる楽しさや美しさや 崇高さなんかを鮮明に照らし出してきたのだ。そしてそれらの喜び のイメージをぼくははっきりと意識することができるようになった ほどだ。同時にぼくと君の心がとても堅く結ばれているということ も、ずっとそうあって それから、ぼくは静かにそしてゆっくりと君の中へ入っていった。 ぼくの胸にあふれてこぼれそうなほど多くのこの思いを、しっかり としっかりと君の奥へ伝えていったのだ。ぼくは必死になって君と 初めて会った時のことを考えていた。思い出すだけで全身からやさ しさのほとばしるあの日の面影や残像やイメージのことを。そして それはぼくの胸の中にいっぱいにあふれるほどになったために、こ うやって君の中にまた還元されるのだ、ということも。 そう、ぼくは決めたんだ。君に襲いかかろうとするどんな外敵か らも、君のやさしさを守り抜くことを。この荒れ狂う外気の中にあ って、ぼくはいつまでもいつまでもあたたかく君を包み込む、大き くて丈夫な家のようでありたい。その中できっと君は安心していつ も笑って楽しそうに暮らしていけるだろう。こうして君を守りつづ けられたら……。 ぼくはぼんやりとそんなことを考えながら、この君や君に属する あらゆるものを絶対失ってなるものか、とこっそりつぶやいた。そ してこの決意が、ぼくの心にじっくりとしみわたるのを感じながら、 しだいに夢の中に引きこまれるような不思議な感覚がぼくを満たし 始めていた。
販売機で切符を買った美穂がクルリとまわるように振り向く。シ ャンプーの香りをほのかに漂わせて、茶色がかった髪がふわりと宙 に舞った。 「ありがと、克也。ここでいいよ」 「え、ホームまで送るよ」 「いい、湿っぽくなりそうだから。そーいうのの苦手だしね」 形のよい唇を弓のように曲げて、美穂は微笑んだ。 「そっか」 駅の窓から見える街路樹はまだ芽を出していない。春というには まだまだ寒さが強いのだろう。そのせいもあってか、休みだという のに駅構内に人気はなかった。 克也は白いジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。 「東京は寒いらしいから、風邪ひかないように。あったかくしろよ な」 「ありがと、でも」美穂がクスクス笑う。 「克也のはやりすぎじゃない? 綿菓子みたいよ」 「そうかな」 克也は、すこし傷ついた、といった顔をして自分の服装に目を落 としていたが、不意にニヤリと笑って言った。 「でも、あったかいんだ。これ」 少し芝居がかった調子で克也はジャンパーをひろげる。下にはク リーム色のセーターが着込まれていた。胸には赤い筆記体で「Mi ho」とワンポイントのロゴが入っている。 「あ、それ」 美穂の瞳が驚きで大きくなる。 「へへ、美穂ブランドのセーター。第一号」 「一年の時の、まだ持っててくれたんだ」 「もちろん。世界的デザイナー芦川美穂先生じきじきの作品ですか ら」 「バカ」 美穂が笑う。 「……がんばれよな。応援してる」 「うん、克也も」 美穂はすこしうつむく。 「それじゃあ、そろそろ行くね」 美穂が置いてあったスポーツバックを肩にかけて、改札口の方へ 歩きだす。 「……」 去っていく美穂の後ろ姿に克也は思わず腕をあげる。しかし、途 中でその手をとめ、強くコブシを握りしめた。 「美穂!」 美穂が立ち止まる。 「三年間、いろいろあったけど楽しかった。俺……美穂に会えてよ かった」 「湿っぽいのは苦手だって言ったのに、もう」少し困ったような表 情を浮かべて美穂が振り返った。「でも……」 美穂は克也の前へやってきて立ち止まる。そして、小さく微笑ん だ。 「私も楽しかった。克也に会えてよかったと思う」 そして、美穂はついと背伸びをして、唇を克也のそれと重ねた。 「美穂」 克也は思わず美穂を抱きしめる。美穂の肩からどさりとスポーツ バックが落ちた。 応える美穂もやさしく克也の背中に手をまわす。そして、克也の 耳元でささやくように言った。 「さようなら……克也」
ふわふわと風に揺れるモギ畑を背に、だんごっ鼻のゴロジが座っ ていた。目の前では、赤ら顔のサンスケが頬を膨らませている。 「20は少なすぎんかなあ」 「んなもんっさ」 ゴロジは譲らなかった。右腕のもげたマニャマン人形なんて20 でも高すぎるぐらいだ。モギ無しのサンスケのために欲しくもない 人形を買ってあげている。文句を言われる筋合はない。ゴロジはモ ギ畑から20本のモギを引き抜いた。 しょっぽりと肩をすくめて帰っていくサンスケには目もくれず、 ゴロジはモギ畑に寝転んだ。モギのぽよぽよとした弾力が、ゴロジ は大好きだった。 「ゴーロジくん」 声のする方に目をやると、長い髪のカノコが立っていた。 「あい、ちょっと待ってんさい」 ゴロジはモギをたくさん引き抜いて、袋に詰め込んだ。初めての デートだからモギに糸目はつけない。モギがあれば何だって買える し、何だってできるのだ。 「私ねえ、他の町な行ってみたあんだあ」 ハタオの店で、1杯70のハルジルを飲みながらカノコが言った。 「オトチャンもオカチャンも行っちゃダメなあて言うけど、ゴロジ くんと一緒なら大丈夫だやねえ」 ゴロジは他の町になんて行ったことがなかったし怖い噂も聞いて いたけど、さらさらの髪のカノコの前で、かっこ悪いところは見せ られない。 「ええよ。一緒に行かんさい」 愛はモギじゃあ買えん。オトサンに何度も聞かされた。 ゴロジはドキドキしてたけど、隣町に行ってみて拍子抜けした。 歩いてる人だって走ってる車だって、いつもゴロジが目にしている ものとそんなに変わらないのだ。ちょっとスピードが速いだけだ。 喫茶店に入り、コウヒーというやつを飲んでみた。苦かった。 コウヒーは2杯で700もした。隣町の物価の高さにびっくりし たけど、ゴロジは慌てず落ち着いて、モギを一本ずつ袋から取り出 してレジに並べていった。 「700円です」 「ええ、分かってんさよう。だかあ700本モギを」 ゴロジをにらみつける店員の目はコリキの刃のように冷たくて鋭 くて、勇気を振り絞ってにらみ返してみてもはね返されるだけだっ た。 ゴロジはカノコを抱え上げ、ドアを押し開け外に出た。そして後 ろも振り返らずに、息せき切ってひた走る。愛はモギじゃあ買えん けど、コウヒーもモギじゃあ買えんのだ。帰ったらオトサンに教え てあげよう。オトサンの反応を思い浮かべると楽しみで、ひた走る ゴロジのだんごっ鼻がヒクヒクなった。
「あの」電車の中で、見知らぬ少年に突然声をかけられた。「エル ーセラ島へ行かれますか?」 「え?」私は少年の前に立ち、カリブのガイドブックを読んでいる ところだった。バハマに住む友人夫婦を訪ね、三日後、日本を発つ ことになっている。 「行くつもりだけど」首都ナッソーからセスナで三十分。エルーセ ラは淡いピンク色の砂浜が有名な島だ。 私の答えに、少年が目を輝かせて言った。 「あの島の砂を、少しでいいんです、持って帰ってきてもらえませ んか?」 一体、何に使うつもりなのか。けれど、それは聞かないことにし て、帰国後、会う約束をして別れた。面識のない人間に、そこまで する義理もないが、断れなかったのはきっと、長い髪を金色に染め た少年の眼差しがあまりにも真剣で、丁寧な口調の中に切羽詰った ものを感じたからだろう。 一ヶ月後、地下鉄のホームで少年にピンク・サンドを詰めた小瓶 を手渡した。熱帯の温度を確かめるかのように、彼は瓶を指先でそ っと擦りながら言った。 「何かお礼をしたいんですけど」 「いいのよ」本当のところ、バハマからの日帰りツアーでも結構な 値段なので、迷ったのだが、少年との約束に後押しされた。けれど、 神秘的な美しいビーチは、高額な代金を払って行くだけの価値は十 分にあった。私がそう言うと、少年はほっとしたように頬を緩め、 何度も頭を下げながら去っていった。 半年ほど経った頃だろうか。ある小さな葬祭場の前で、私は立ち 止まった。ちょうど出棺の時間らしく、歩道にまで人が溢れ出して いる。仕方なく一通りの儀式が終わるのを遠巻きに眺めながら待っ ていると、ピンク地のジャワ更紗が掛けられた棺が運び出された。 葬儀には不釣合いな艶やかさだが、おそらく故人が生前好きだった 色なのだろう。参列者の年齢層からすると、亡くなったのは若い女 性のようだ。そうと判った途端、他人のこととはいえ、胸が締めつ けられる思いがした。そして、別れを告げる長いクラクションを響 かせながら霊柩車が走り出した時、ひときわ激しく泣きじゃくりな がら、一歩車道に踏み出したのは、紛れもなく、あの少年だった。 故人が少年の恋人なのか姉妹なのか、知る由もないけれど、遥か カリブの海から運ばれた、煌くピンクの砂は、棺の中で彼女と共に 永い眠りにつくのに違いない。私は心の中で合掌し、足早にその場 を去りながら、亡き人には、読経の声さえも波の音に聞こえるのか もしれない、と思った。
数ヶ月前、彼がバイトを辞めてから、私達は以前と比べて会う機 会が少なくなった。今日こうして会うのは実に一ヶ月ぶりの事だっ た。 「最近どう?」 「べぇつに」 相変わらずの素っ気無い返事が妙に懐かしい。彼はコップの底に 僅かに溜まっていたルビー色をした液体を一気に飲み干した。 繁華街から少し離れた場所にあるカクテルバー。彼と始めて夜を 共にした日、ホテルの前にちょっとした背伸びのつもりで立ち寄っ たのがこの店だった。それ以降、お互いの部屋以外で夜を共にする 時は、必ずといっていいほどこの店にきている。 「そうだっけ?」 とぼけた振りをして彼は新たにカクテルを注文する。つられるよ うに私もマスターにこの店オリジナルのカクテルを注文した。 「ねえ、知ってる? このカクテル、イルカとのキスの味がするん だって」 彼の目の前で手に持った琥珀色の液体をゆらゆらと揺らしてみる。 「お前、イルカとキスした事あんのか?」 「ないけどぉ」 私が何を言っても返ってくるの素っ気無い返事だけ。彼にとって 私の話はくだらなすぎるのだろうか、何を言っても興味を示してく れない。彼にとっては退屈なやりとりかもしれない。それでもいい、 彼が側にさえいてくれれば…… 「ねえ、知ってる? この店って閉店するとユーレイが出るんだっ て、何でもその人がマスターの昔の恋人だった人らしいんだって」 「見た事あんの?」 「ううん」 「じゃあマスターに聞いたの?」 「ううん、ただの噂」 彼は呆れ顔でポケットから煙草を取り出し、一本くわえると「く だらない噂を真に受けるんじゃねーよ」と言って頭をぽんと軽くは たいた。 「あれ、マルボロやめたの」 「まぁな」 「ふーん。ねぇ、知ってる? 煙草の銘柄をよく変える人って。女 の人の趣味もよく変わるらしいよ」 「関係ないよ」 「そっか……そうだよね」 今回だけはいつもの素っ気無い態度が妙に嬉しかった。 「……じゃあ、これ知ってる? あなたが店長の娘さんに手を出し て、バイト、クビにされたって噂が流れてるんだけど……今でもそ の娘と付き合ってるだなんて、くだらない話でしょ?」 私自身が推すくだらない話だというのに、いつものような素っ気 無い返事が返ってこない。その口からはかわりに青い煙が吐き捨て られた。 私の話が初めて彼の興味を引いたのに、もう彼の側にはいられな 気がした。
私たちは三番線のホームで最終電車を待っていた。正確に言えば、 待っているのは私だけで、ぐでんぐでんに酔っ払った彼女には、電 車を待っているという自覚はなさそうだ。 「ほら、しっかりなよぉ。寝ちゃだめよぉ」 ベンチに寝そべってしまった彼女の頬をぺしぺしと叩きながら、 もし彼女が本当に寝てしまったらどうしようと思った。彼女は彼女 で 「あれぇ、いま何時ぃ?」 とか言いながら、腕時計をしているほうとは反対の腕を見ている。 私が彼女を眠らせまいと四苦八苦していると、アナウンスが鳴り、 電車が来るのかと思えば、濃霧のため最終電車はしばらく遅れると のこと。電車に乗せてしまえば、後は終点まで放っておけばいいだ けなのに。私は膝の上に乗っかった彼女の頭をゆらゆらと揺らしな がら、大きなため息を吐いた。 「ごめんねぇ…。ごめんねぇ…」 「ホントに寝ちゃだめだからね。寝たら置いてくからね」 「だ、だいじょうぶぅ…」 彼女が薄目を開けてニタリと笑った。酔っ払いの微笑み以外の何 でもなかった。 絶えず話し掛けていたのにも関わらず、彼女からの返事はなくな ってしまった。代わりに大きな寝息だけをホームに響かせる。 私は途方に暮れて、ホームを見回した。いつのまにか周囲には濃 い霧が漂っていた。私たちと同じく電車を待っている人影が、まば らだが確認できた。田舎の駅ではなく、仮にも街の繁華街にある駅 だし、最終電車に乗る乗客が私たちだけのはずがない。電車が来て も彼女が目覚めなかったら、いや、目覚めても歩けそうにないし、 誰かに声を掛けて手伝ってもらうしかないだろう。 再びアナウンスが鳴って電車の通過を報せ、しばらくすると回送 電車が通過していった。続けて、もう一本電車がやって来た。その 電車は私たちの目の前に停まり、プシューと扉を開けた。すると、 霧の中で電車を待っていた人影がぞろぞろと動いて、電車に吸い込 まれていく。 「ほら起きて。電車来ちゃったよ」 私は彼女を叩き起こして、意識のはっきりしない彼女を半ば引き ずるようにして電車に乗り込んだ。 「ああ、私のバックぅ…」 彼女が呟く。ベンチに置き忘れたバックを取りに行こうとした私 の背後で、最終電車のドアが無情に閉まった。 「えっ、ちょっと待ってよ」 私の声は霧に虚しく吸い込まれいく。そしてそのまま、私を残し たまま最終電車は走り去っていった。 呆然とする私の頭上で、最終電車到着のアナウンスが鳴った。
嵐の翌日だった。 彼は独りでそこにいた。 そして私も独りだった。 彼は「テト」と言う名前であるらしい。 どうやら翼を痛めているであろう彼は私に、そのおぼつかない飛 び方で、やっとの思いで、こう尋ねてきた。 「何処か休む場所は、在りませんか」と。そして「もう、だめなん で…」と続けた。 私は生物が嫌いだった。 もう何年も言葉を誰かに伝えたことはない。にもかかわらず、何 故そこで私は彼の問に言葉を返したのかわからない。単なる同情心 かもしれないし、私自身、どこかであきらめたところがあったから かもしれない。嬉しかったのかもしれない。 「ここから1日ぐらい飛んだところに、誰も住んでいない島がある よ。そこで羽を休めるがいい」 今にも力尽きてしまいそうな彼に、私は何をしてやることもでき ない。唯、言葉をかけ、道を示してやることぐらいしか、できない。 翌日、彼はその島にかろうじてたどり着いていた。 「アール」と呼ばれているそのちっぽけな島はのそりと動き、彼 に声をかける。 「これからどうするんだい」 その会話に私は、そっと耳を傾ける。私には、その彼らの声がはっ きりと聞こえる。 「もう…飛べないんだ…それにたった独りだし」 「そうか…なら僕と一緒に旅をしないか。僕も…僕も独りなんだ」 彼らは私にも声をかけてきた。あなたも一緒に旅をしませんか? と。 私は彼らがうらやましかった。そしてその申し出はとても嬉しか った。だが、私の心は晴れない。彼らはそれの意味するところを、 果たして理解しているのだろうか。 「でも…いいのかい?私と旅をする、ということは…」 私が口を開くとアールはまたのそり、と動いた。笑みを浮かべ、 少しはにかんで 「いいんです…」と。テトも、 「僕も彼も独りなんです。どうせなら、誰かと一緒のほうがいい…」 そして彼らは何も言わず、何を迷う事も無く、唯、私にその傷つ いた体を重ねた。 今、私は独りで無くなった。 私は彼らを自らの一部分で暖かく包み込み、彼らをそっと飲み込 んだ。それはゆっくりと、優しく、生まれた手の赤ん坊をあやすか のように、けれど冷たい、深い、真っ暗な私の中へ。 そして彼らは流れて行く。私の存在するところは、何処にでも行 くことができる。ずっとみんなで。遥か彼方まで、ゆっくりと、流 れて行く。 以前、独りの人間が私をみながらこうつぶやいた。 「海で死ぬことができたら、ズ−っと海と一緒に旅ができるね」と。
あの日……。 見上げると薄汚れたコンクリート壁と錆びた鉄の非常階段が空に 向かって伸びていた。 「ここかぁ」 私は生き物の気配のない通路で必要以上に明るい声を出した。 「行こうよ」 どこかぎこちない動きで桜子が私を促す。 「そうだね」 私達は階段を上り始めた。 この「的中率100%の予言者」の噂を聞きつけてきたのは桜子だ った。 占い師とどう違うのかは知らないけれど、面白そうなので行って みることにしたのだった。 階段を上り終えた先にある安っぽいアルミのドアを叩くと、白装 束の男が現れた。 「入りなさい」 促されるままに私達は彼の後に続いた。 部屋の中は畳敷きで祭壇やらロウソクやらを想像していた私は少 し意表を突かれた。 「あの……」 予言を聞きに来た、と言おうとすると、彼は静かにするように、 と合図した。 大人しく出された座布団に座って彼の一挙手一投足を見守る。 男は私達と向き合って座ると、まずは桜子を、それから私を穴の 空くほどみつめた。 決まり悪くなるほどじっと……。 それから、やおら立ち上がると奥の文机に向かって毛筆を執り、 さらさらと何やら書き始めた。 「どうぞ」 それぞれに1枚ずつ和紙に書かれた「予言」を渡してくれる。 「お代は?」 桜子が尋ねると、男はにっこりとした。 「お志で結構です」 予言の相場なんて見当もつかなかった私は財布の中に五百円玉を みつけて、これでいいかな、と思った。 ちらりと桜子を見ると、彼女は財布からお札を一枚抜き取ってい るところだった。 慌てて私も千円札を取り出して、彼に手渡した。 寂れた路地に戻って紙を開くと、そこには「青い鳥が人生を変え る」と書かれていた。 そして桜子はいくら頼んでも彼女の予言がなんだったのか、教え てはくれなかった。 あれから10年。高校生だった私と桜子も大学を出てOLになり、 同じ頃に寿退社を果たした。 就職した会社の社章は青くて、鳥のような形をしていた。 今の夫に初めて誘われたデートは、彼の友達が出演した「青い鳥」 のミュージカルだった。 とりあえず予言は当たったのだろう、と思っていた。 今の今まで。 生暖かい血が首筋を伝う。事故に遭ったのだ。久々の桜子とのド ライブ。桜子のブルーバード。青い鳥。 思わず笑うと、隣で彼女の声がした。 「まさかあの予言が当たるなんて」 ああ、彼女の予言は何だったんだろう……。
早期依願退職制度という名のリストラについて、全体説明を受け た後、部長に呼ばれ、持って廻った慰労の言葉を頂戴した。つまり はそういう事かと午後は、早退した。 早春と呼ぶに値する事象は何もない暦の上だけの昼下がり、コン クリート舗装の坂道を登りつつ、会社人間であった半生を思った。 様々なものを犠牲にして、仕事にしがみついてきた。ここで放り出 されても潰しが効かない。将来の不安が目の前に白く広がり始めた 時、左の靴が音を立てて落下した。何が起きたのか理解する前に、 落下した靴の上に靴下が被さり、右の靴、靴下、鞄、コート、背広、 ワイシャツが歩行速度に合わせて、順々に落下していった。体が先 端から消滅し、私は蒸発を果たした。 妻は、知ったかぶりのテレビが低く語り続ける部屋で昼食後のひ とときを紅茶していた。しばらく休んで、昼食の片付けとアイロン 掛けを済ませ、夕方の街に青い篭を下げて、買い物に出掛ける。夕 食を支度して、帰宅した息子と食べる。明朝、一晩家を空けた私の 所在を明らかにしようと会社に電話を入れ、その後、友人や親戚に 連絡し、早ければその日の夕方、遅くても一両日中に警察に連絡。 事件や事故との関連が調査され、所持品と衣類の一部が遺失物とし て発見される。蒸発した事がそれと認識されるのは一、二ヶ月たっ た頃だろう。元来、生活力のある妻の事だから、半年もすれば全て の状況を受け入れ、息子と暮らしてくだろう。 開け放した窓からセミの声が聞こえる。それは後姿の夏と同じく 力が欠けている。妻は、プラスチックで作ったような殺風景な事務 所の机で、中年の男から書類の説明を受けていた。 「所定の期間が経過しましたので、この書類に捺印頂いて、こちら から警察に申請致します。手続きが完了すれば、御主人は捜査依頼 が提出された日時に溯って、変死という扱いになりますので、保険 金と死亡年月日からの利息を合わせてお支払い致します」 差し出された書類をしばらく眺めた後、「主人は、生きています」 と妻は捺印を拒んだ。 「しかし、それでは保険金はお支払い出来ませんが……」 力が欠けたセミの声。 「生きています」と涙。 この涙が核となり、私は時間を溯り、体は凝固し始めた。 早春とは名ばかりのコンクリート舗装の坂道に下着姿で立ってい た。会社人間から会社を取っても人間は残る。生きるのに必要なの は生きる事だけだ。散乱した衣類を拾い集めながらそう考えた。
日が傾いて、そろそろ文字が読みづらい、と思いはじめたときだ った。 「こんにちは」 「……こんにちは」 うかつに返事をした自分を、我に返って、馬鹿、と内心ののしっ た。 ここは某デパートの屋上庭園である。温かかった日差しもそろそ ろ温度を失いはじめ、人気が絶えて静かだった。早く引き上げれば よかったか、と思いながら目を上げれば、それなりに人の良さそう なオニイサンだ。 「ここ、座ってもいいですか」 嫌です、とも言えない。あと二ページ繰ったら、何気なく席を立 とうと決めて、目を合わせずに頷いた。 一ページ目を繰ったところで、「人を待っているので」とでも言 えば良かったと気がついた。遅かった。 ページとページの間に、重い、中身入りの紙コップが置かれ、ぐ らりと傾いだそれをわたしは支えてしまった。ココアだった。 目を上げると再び目の前に立った人が、屈めた身体を伸ばすとこ ろだった。伸ばすなりこちらの目を見て言った。 「お芝居の練習です。付き合ってください。ぼくはそれなりに!!」 突然入ったセリフの、声量に身がすくんでココアが揺れた。鳩が 翼を軋ませて、何羽も夕日の中へ飛び立った。その瞬間に、どこか 別の世界へ来てしまったような気がした。 セリフに入ったときから、こちらには背が向けられている。わた しはただ、唖然としていた。 「……彼女を愛していたのに」 声のトーンを落し、足下を見つめる。 「何がいけなかったんだ?答えてくれ」 ……わたしはいつのまにか、俯いていた。 「それなり、なんて、言うからだよ」 ぽつりと答えた自分の声は、ココアの湯気にやわらかく湿ってい た。 「馬鹿だね、君も」 微笑いながら顔を上げる。 彼も、夕日を反面に貼りつけて微笑っていた。 「君に言われたくないね……君こそ、言葉を選んだ後、ちゃんと告 げてしまうがいいよ。ずっとずっと、悩んでいるのは馬鹿みたいだ」 わたしは、微笑っている顔の下で、じっと目を閉じていた。 「告げられるものならね」 はは、と彼は笑った。 「そこが弱い。そこが駄目だ。駄目だよ……」 ひょい、と、ココアをとり返していく。 「人生はもっと素晴らしい。努力をするべきさ。わかるかい?君は、 もっと……」 夕日が、最後に強い光を残して消えた。 わたしはページの間にしおりを挟んで、立ち上がった。
名探偵、空地小五郎。 彼は今、古い洋館の地下二階を弟子の小囃子少年と共に歩いてい た。 「コバヤシ君、今なにか聞こえなかったかい?」 空地は少年に声をかけた。 「いいえ、聞こえませんでしたけど」 その廊下で二人は耳をすませた。 「し、しまった!」 突然、空地は叫び、廊下の突き当たりの部屋へ向かって駆け出し た。 「ま、まってくださいよ、空地先生!」 小囃子少年も後を追う。 空地は突き当たりのドアを開いて部屋へ入る。力一杯引っ張った のでドアは勢いよく壁にぶつかって跳ね返り、やはり勢いよく走っ てきた小囃子少年の鼻と衝突した。 「アイタ!」 小囃子少年は尻餅をついた。ちょっと間抜けなのだ。少年はヨロ ヨロと立ち上がり、ぶつかったために閉まったドアを開けた。 「あ!」 部屋の中では、空地が血まみれの男を抱きかかえていた。男の首 はざっくりと割れ、血が噴き出している。 「コバヤシ君、救急車をたのむ」 「はい!」 小囃子少年は急いで回れ右をし、部屋から出ていった。しかしす ぐに戻ってきた。顔には困惑と驚きが入り乱れている。 「先生、この部屋に出入口はあるのでしょうか?」 「いや、ないな。見ての通り壁も天井も床もコンクリートでできて いる。窓もない。君の立っているドア以外に出入りする場所はない。 どうしてそんなことを訊くんだ」 「だって廊下の先も行き止まりなんですよ!」 「なんだと?」 「ドアも階段もないんです! 我々には出口がないんです」 小囃子少年は泣きそうになるのを必死に堪えていた。 「ハメられたな」 「え?」 「犯人の罠に引っかかったようだ。ここは完全な密室だ。密室に我 々は閉じこめられられたのだ」 「そんな、なぜそんなことを。犯人はいったい誰なのでしょう?」 「作者だよ。作者が男を殺したのだ。推理小説を書くために、我々 を閉じこめ、男を殺したのだ。この小説のタイトルをよく見てみろ」 「まさかそんな……でも、おかしいじゃないでしょうか」 「どこがおかしいのだね?」 「タイトルからすると作者は本格推理をやろうとしています。その 作者が『作者が犯人だ』などという解決法を採るでしょうか? 本 格推理なら、ちゃんと登場人物のだれかを犯人にするのではないで しょうか……あ! まさか犯人は」 と小囃子少年は空地の顔を見た。 「今頃、わかったのかい? コバヤシ君。だが、この事件は迷宮入 りなのだよ」 「え? どうして?」 「字数がここで千字になるからだよ」
高校帰りの千世さんは、スーパーの洗剤の棚の前で足を止めた。 「?」 色とりどりの洗濯用洗剤の箱が並ぶ中に、洗剤名も、メーカー名 もない白無地の箱があった。 「ミスプリ、かしらねぇ」 千世さんは、つ、と近寄ってその箱をよく見る。 明らかに洗濯用洗剤のものと分かる直方体の箱。材質はボール紙 で、表面は白くつるつるしていた。 手に取ってみたが、重さも普通の洗剤と変わらない。振ってみる と、中でサラサラ音がした。 「洗剤、よねぇ? 品名くらいあるはずだけど?」 だが、千世さんがどれだけ確認しても箱は白一色で、文字はおろ か数字一つ書かれていない。 「バーコードもなし、か」 文字らしいものといえば、スーパーで貼り付けた小さな値段のシ ールだけだった。 「百四十三円かぁ。税込み百五十円ねぇ」 いつも買っている洗剤と、その白無地の箱の洗剤とを見比べる。 「……ま、安いし試してみよっか」 千世さんは白無地の箱をかごに入れた。 数日後。 「ねえ、おねーちゃん!」 居間でテレビを見ていた千世さんのところに妹がやってきた。乾 いた洗濯物が入ったかごを持っている。 「どーしたの、ももちゃん?」 「どーしたもこーしたも、ひどい仕上がりだよ?」 「あら、そう?」 「ほらぁ」 妹は白い靴下を一枚差し出す。 確かに、泥汚れも脂汚れも何となく落ちておらず、すっきり白く なっていない。それどころか別の服から色移りしたらしく、ほんの り青い。加えて、繊維が縮んで固くなっている。 「本当ねぇ。でももう一度洗うなんて真っ平ごめんだし……」 千世さんは靴下をかごに戻す。 「ま、お父さんとお母さんは洗濯機もない場所にいるんだから、気 にしないことねぇ」 「目下パオ暮らし中の人類学者と一緒にされても困るんだけどなぁ」 「あら、職業に貴賎はないわよぉ」 「いや、そーゆー話じゃないんだけど。それに貴賎があるとしたら 学者って割と上の方な気も……」 「ふふ。ごめんね、次は気をつけて洗うから」 千世さんは、にっこり微笑んで座椅子から立ち上がった。 「しまうの手伝うわよ、ももちゃん」 「うん、お願い。でもなにが悪かったのかなぁ。洗わない方がよか ったくらいだよね」 「そうねぇ、なにが悪かったのかしらねぇ」 『――は、新酵素の働きで汚れを分解、従来の洗剤よりも、ぐーん と洗浄力がアップしています……』 消し忘れたテレビに、新製品の洗剤のカラフルな箱と、従来の洗 剤の白無地の箱が映っていた。
職安を出てしばらく歩くと男に肩を叩かれた。 「お困りでしょう?」実直そうな眼鏡をかけている。「大変な時代 です」 私はコートのポケットに左手を入れる。まるい小石を握り締める と、だんだん気持ちが落ち着いてくる。 「私、片桐と申します」と言って男は名刺を差し出した。 「奇遇です」 「え?」男はややあって頬を緩めた。「なるほど、そうなんですか、 片桐さん」 「片桐」は私の名前ではなく小石の名前だった。 「便宜的に、私がカタキリ、あなたがカタギリ、という呼び方でど うでしょう?」 私は曖昧に頷きポケットの片桐をそっと撫でた。 「立ち話もなんですから」と言ってカタキリは私の背中を押した。 マイクロバスに30人くらいの男女がぎっしり詰め込まれている。 カタキリは弁当とビールを配りながら指折り頭数を数え、よっしゃ、 と気を吐いた。 「ちょっと」と言って私はカタキリの袖をつかむ。「飯場と宗教だ ったら固くお断りします」 カタキリは穏やかな表情で人差し指を立てた。「悪い話ではあり ません」 マイクロバスが走り出すとカタキリは私の隣りに腰を下ろし、弁 当を広げた。 「大変な時代です。役所も効率と競争を求められています」 カタキリの名刺には、Kという地方都市の名前が刷り込まれてい た。 「県全体で、まるでお話にならないくらい有資格者が不足している のです。私どもは少なくともF市にだけは負けるわけにはいきませ ん」 バスは首都高を猛烈なスピードで駆け抜けていく。 「研修です」と言ってカタキリは眼鏡のレンズを丁寧に拭いた。 「寝ていても構いません。ただその場所にいていただければいいの です」 私は片桐を握り締めて目を閉じた。すぐに寝たきりの老母の姿が 浮かび上がる。その姿を追い払おうとするほどに、干乾びた体と饐 えた臭いが纏わり付いてくる。目を開けると道の彼方に白い山並み がぼんやりと見えてきた。 「K市はあの山の向こうですか?」 「もっともっと向こうです」 バスは車体を震わせるほどのスピードで追い越し車線を走ってい たが、私にはまだ物足りなかった。 「急がないといけません」と言ってカタキリはため息を吐いた。 「否応なしに4月から始まってしまうのです」 「もっと急いでもらえませんか」 もっと早く、もっと遠くへ。私はバスのスピードに願いを込めた。 そろそろオムツが気持ち悪いんだけどねえ、と老母が恨めしそう な顔を私に向ける。私は片桐を握り直し、顔を背けた。
いつの間にか眠っていたらしい。丸くなっていたソファの前にあ るテレビが、深夜の通販番組を映している。 主人はどこに行ったのだろう。彼はさっきまで、夢中でくだらな いテレビ番組を見ていたのに、その姿が見えない。時計の針は二時 過ぎを回っている。明日も仕事があるからと、私を残して寝室に向 かったのかもしれない。 足を伸ばす。背伸びをする。部屋には壁際に立ててある電球燈だ けが点いている。又消し忘れだろうか。それとも私がいることを気 遣ってわざと点けていったのだろうか。 廊下に出、奥の寝室に向かう。部屋の扉はわずかに開いていた。 足で隙間を広げ、入りこむ。 生臭いにおいが鼻を突いた。主人を呼んでみる。返事がない。ナ イトテーブルに手を掛け、ベッドの上を覗く。 血まみれの手が見えた。思わず私は目を見開いた。再び主人を呼 んでみる。反応はない。主人に近付く。青ざめ、凍り付いた顔。そ れとは正反対に新鮮な血が、ベッドと絨毯に流れ落ちている。 さっき部屋に入った時気付かなかったのは、この部屋が暗かった からだ。ようやく眼が慣れてきて、そうした惨状が分かった。何が あったのだろう。私は部屋を出、明るい廊下で息をついた。玄関の 扉が開いている。強盗だろうか。それとも主人に恨みのある何者か が復讐を果たしたのだろうか。冷静にそんなことを考えている自分 が恐ろしくなった。 足元を見ると、血で濡れている。さっき主人の部屋に入った時付 いたのだろう。手も同じだった。 思わず、私はそれを舐めた。予想外に、それは、甘かった。両手 を吸うように、私はその血を味わった。 ふらふらと、再び寝室に戻った。ベッドに乗っているのは、いつ も私を可愛がってくれ、愛してくれた主人ではなく、食欲の対象の ように、私には思えた。地面の血だまりに顔をつけ、舌でそれを飲 み尽くした。シーツを伝ってベッドに乗りあがり、傷跡も新しく、 まだ暖かい主人の腹からはみ出た内臓に、顔を埋めた。マンション の下にサイレンが近付き、止まった。 「うわあっ! な、な、なんなんだ?!こいつ……」 「こいつの主人じゃねえのか、ガイ者は……。恐ろしいやつだな。 早く追っ払えよ」 警察に保護された、血まみれのナイフを手にした錯乱者の証言と、 玄関から点々と続く血の跡を不審に思った近所住民の通報により、 駈けつけた二人の警官は、被害者の内臓を貪る、朱に染まった白猫 の姿を目にした。
昔々ある所にお爺さんとお婆さんがすんでおりました。お爺さん とお婆さんは、頭巾をいつも被っていました。その頭巾は、被ると 他の動物の言葉が分かる不思議な頭巾です。 ある日お爺さんはいつものように山で芝刈りをしていると、竹薮 の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。行ってみるとお爺 さんの手のひらに載ってしまうような小さな女の子の赤ちゃんが、 竹の根元で泣いていました。かわいそうに思ったお爺さんは家に連 れて帰ることにしました。 またある日お婆さんはいつものように川で洗濯をしていると、桃 箱に乗せられた男の赤ちゃんが流れてきました。お婆さんの手のひ らに載ってしまうような小さな赤ちゃんです。かわいそうに思った おばあさんは家に連れて帰ることにしました。 子供達は大事に大事に育てられ二人とも元気にすくすく育ちまし たが、十年経ってもお爺さんのひざぐらいの大きさにしかなりませ んでした。 ある日子供達がお外の遊びから帰ってくると、お爺さんとお婆さ んに言いました。 「今日ね、僕たちと同じくらいの子とおともだちになったよ。その 子ね、舟で川から流れてきたんだって」 「どんなお舟? 」お婆さんがききました。 「うーんとね、お爺さんの御椀くらいの舟。それとね御侍さんみた いに刀も持ってるんだよ」 「どんな刀? 」 「お婆さんが御裁縫する時の針くらいの大きさかな。悪いことばか りする恐い鬼を退治に来たんだって」 「あらあら」お婆さんは少し困ったような顔をしました。すると今 度はお爺さんがききました。 「その鬼というのはどんな悪いことをしたのじゃ」 「うーん、わかんない」 「じゃあ、どうして退治されなきゃならないのじゃ」 「わかんない」 「いいかい、人は見た目で判断しちゃいけない。恐い顔をした人で も優しい心の持ち主は居るのじゃからな。それに悪いこともしてい ないのに悪い人と決めつけちゃかわいそうじゃよ。いいね、わかっ たね」 「はーい」子供達は元気に返事をして自分の部屋に行きました。 「かわいいもんじゃのう。婆さんや」 「本当にねえ」 「何が鬼だって、あんなかわいい子供達を捨てる奴の方がよっぽど 鬼だろうに」 「それより、頭巾をちゃんとしておいてくださいな。あの子達のお ともだちが来るかもしれませんよ」 「そうだな。頭巾が無ければ、もうあの子達と話ができなくなるか もしれないからな」 そう言いながらお爺さんは、頭巾を注意深く被り直しました。
衝撃は、たえがいたほどにむずかゆく、私の体を貫いた。私は我 を失いかけた。それほどに、水の大地は私の心を魅了した。眼下に 広がる、その青緑に沈む湖は。 遥か上方の太陽でさえ、ここは発見できまい。幻想にも近い、神 聖すぎる場所。美しすぎる水のうねり。私はなぜ、このような聖地 に行きついてしまったのだろう。一度おりたったら、もう抜け出す 事はできないと、よくわかっているのに。 水面に、巨大な影が蠢いた。何だろう、あの大きな塊は。こんな に高い所からでも、はっきりと形の見える巨大な生き物。 私は目を凝らし、その何体かの影をおった。まるで、時の流れな ど存在しないかのように、彼らはゆったりと旋回している。時に沈 み、消えたかと思うと、魚特有の輝きを発しながら水面に現れる。 「鮫だよ」 私の視線に気づいたのか、彼は静かに呟いた。 「なぜ湖に」 「湖にも鮫はいる。ゆっくりだが、着実に増えている」 私は視線を影たちに戻した。衝撃は、今や恐怖に変容している。鮫 …そうか、ジンベイザメだ。 「それでもやるのか? 」 不思議な事に、私は頷いていた。湖が私に頷かせたのだ。すでに身 も心もとりつかれてしまったのだろう。見れば、湖は静かに微笑ん でいる。 愛おしさに体が震えた。私は、引きよせられるように、青緑へと 突入した。 うまく、鮫たちのいない所に体が抱きとめられた。暖かかった。 せき止められて久しい水は、今まで体験した事のないほどぞっとす るぬくもりを有していた。 水中の激しい流れにもがいたものの、抵抗感もなく、私は深く深 く沈んだ。安堵と恐怖、そして極度の興奮。それは欲情に近かった。 巨大な影が、相変わらずゆったりと前方から近づいてきた。私は 動けなかった。呼吸が水でふさがれ、恐怖に心臓を破裂させながら、 その到来を待った。 見開いた目の前で、瞳を持たない鮫は、ゆっくりと私の横を通り すぎた。その様を見つめ、私は意味のない涙を流した。 それは鮫ではなかった。ゆらゆらと水中に漂う人の骨。以前生き ていた誰か。そしてそれを守るかのように群がる無数の小魚。なる ほど、この魚の大群が、鮫の形に見えていたんだ。薄れゆく意識の 中で、私はかすかにそれだけを悟った。 死体が、いや、鮫が、何事もなかったかのように、遠く離れて行 く。だが、私はもう寂しさも恐怖も感じない。これから私も鮫にな る。暖かい、何てここは懐かしいんだろう。 湖は静かに微笑んでいる。
草木も眠る丑三つ時とはよく言うが、この頃は人間だけは起きて いて、テレビを見ていたり、バイクを走らせたり、仕事をしていた りする。俺はと言うと机に向かっている。大学受験が間近に迫って いる。 「ふぁぁ」 あくびをしながら時計に目をやると3時を回っていた。 「ようし、もう一息だ」 と再び机の上に視線を落とし、ペンを手に持った時だった。不意 に窓がコツコツと音を立て始めた。出鼻をくじかれた思いがしたが、 そのまま無視して勉強を続けていると、その音は鳴りやまず気が散 って仕方がない。 俺は不機嫌に椅子から立ち、カーテンを開けた。すると、窓の外 にはタケシが立っていた。彼は口をぱくぱくさせながら、楽しそう な顔をしてこっちに手招きをしている。窓を開けてその声を聞くと 「早くこっちに来いよ。楽しい事、たくさんあるぜ」 さらに楽しそうな顔をし、早口に言った。 何だか、こんな時間まで勉強をしている自分がバカらしくなって きた。窓のすぐ向こうに楽しい世界があると言うのに、俺は何をや っていると言うのだ。 俺は、タケシの元へと外に飛び出した。すると・・・落下する様 な感覚がした。いや、感覚ではなく、実際に落ちているのだ。 そうだった。そういえば、ここはマンションの15階だったんだ。 タケシ? タケシ・・・! そういえばタケシは幼稚園、小学校 と同級生であり家が近所だと言う事もあり、ほとんど毎日一緒に遊 んでいた。中学校の時、お互いに別々の友達が出来、次第に会う事 すらなくなっていった。 中学3年の時だった。朝、登校するとただならぬ雰囲気がそこに はあった。正門の前には見慣れぬパトカーが停車していたし、朝礼 が始まる時刻になっても担任はしばらく来なかった。 1時間程遅れて来た担任は 「今から体育館で臨時の集会を行う」 落ち着かない表情でそう言った。 集会で俺が知った事実とは・・・ 昨晩、タケシが、校舎の屋上から飛び降り自殺をしたのだった。 いつからかは分からないが、タケシはいじめの対象となっていたの だ。その時の俺は 「ふーん」 と、息を鳴らし、数週間後にはタケシがこの世に存在していた事 を忘れていった。 忘れていた思い出が走馬灯の様に巡った。 「あの時のタケシが・・・何故・・・?」 アスファルトで出来た、冷たい地面に急接近する俺の頭の上でタ ケシの声がした。 「どうして、あの時、助けてくれなかったんだ」
有坂は広範な知識を持っているくせに、その全てに何の価値も無 いと考えている。いつも持ち歩くピラミッド型の宝石をいじりなが ら雑多な知識を披露した後で、「こんなの知ってても何にもならん」 と必ず口にするのだ。 その有坂は僕を侮蔑していた。知識と機知とを織り込んだ弁舌で 僕を貶めるのだが、奴の話を聞いていると、ある種の快感を覚える。 その日もまた、会社近くの食堂――『中華風ラーメン』と、よく 考えると変な幟の立つ――で昼食を共にしている。有坂は卵とハム しか入っていない五目チャーハン、僕は好物の納豆定食だ。くたび れた本棚には数年前のジャンプやチャンピオンが積み重なり、隅に 置かれた小さなテレビは映像を二重に映し出している。どこかの野 菜のダイオキシンがどうのと、物知り顔のキャスターがわめいてい た。 奴はちらりとテレビに目をやり、次いでその三白眼で僕を凝視し た。 「納豆は好きか?」 脈絡の無い問いはいつものことだ。僕は糸を引く箸先を舐めて軽 くうなずいた。 「チーズやヨーグルトも好きだろう」問いでは無く断定だったが、 どちらも好物だから僕は何も言わなかった。有坂は呆れたように首 を振り、再び僕を睨む。 「君はグリーンピースの賛助会員とか言いながらクジラも好物だっ たな。社内環境保護委員なぞをやりながら車を乗回し、電気は夜中 まで使いっ放し。ゴミの分別もしなければ、飢民たちに同情しつつ 飽食する。そのクセ、はした金を募金に入れては自己満足に浸る… …まさしく人間だな」 流石にムッと来て反論しようとしたが、考えて見れば言われた通 りだった。排気ガスも電力の浪費も、飢えた難民たちの件も、気に しながらも「その代価は払ってるさ」――と。 そんな僕を蔑む――いや、人類を軽蔑する眼差しで、有坂は冷笑 を浮かべた。 「【人間】である君らには、きっとあれも好物に違いない」 指し示す先には、いたずらに危機感を煽るだけで何の救いももた らさないドキュメンタリー。アップで映し出された蒼いはずの地球 は灰色掛かり、紫色に澱んで見えた。 腐敗した胎児――生まれ出ることなく、透明な子宮でうずくまる ――その幻影に僕は喉を鳴らした。 美味そうに思えて…… 「地球に優しい、などというくだらんコピーがあるが、優しかった のは地球の方さ。だが、それも終わりだ」嬉しそうに語る有坂は、 左手で例の宝石を玩んでいた。 「彼女の慈愛は底をついたのさ」
その日は、圭吾と弥生、二人の同棲一周年の記念日であった。豪 華な食卓、幻想的なキャンドルライト、赤くきらめくワイングラス に、弥生はそっと口付けする。 「実はね、私、圭吾に隠してたことがあるの。今日は、それを打ち 明けるわ」 「知ってるさ」 弥生は少しむっとする。 「なによ。それはまあ、こんな豪華な食事、今まで作ったりしなか ったから、一目見て怪しいとは思うかもしれないけど、もうちょっ と雰囲気に合わせてくれたっていいじゃない」 「ごめん。だけど安心していいよ。どんなことを聞いたって、僕の 気持ちは変わらないから。『あなたの幸せが、私の幸せ』さ」 「何それ。誰かの引用?」 「まあね」 「またそんな返事する」弥生は再びワインで唇を妖艶に潤し「それ とも、私の隠し事がそんなに気になるの?」 圭吾はニッと笑って、小さくうなずいた。弥生もつられて、少し 笑った。そして、いつも通りの落ちついた口調で打ち明けた。 「私ね、人を殺したの。圭吾と付き合う前の恋人。別れ話が喧嘩に なって、気がついたら、テーブルの角に頭をぶつけてそれきっり。 分かってくれるでしょう、私、ただ必死だったの。殺す気なんてな かったわ」 今度はグッとワインを飲み込み、弥生は圭吾を、不確かな目つき で見つめた。 「話したら、なんだかすっきりしちゃった。これでも、今までずい ぶんつらかったのよ。鋭い針が、抜けず刺さらず心をチクチクと痛 めつづけていたの。それに耐えられたのは、圭吾、あなたがいてく れたからよ」 「うれしいよ」 「でもね」弥生はグラスをそっとテーブルの上に置き、「それでも まだ、警察の影に怯えなきゃいけない。そんなのは嫌なの。だから ね、圭吾、私の身代わりになって。お願い」 悠久か、あるいはほんの刹那か、沈黙があり、圭吾はおもむろに ワインを口にすると、静かに、ゆっくりとうなずいた。 抱擁。圭吾に絡み付くほの白い手。そっとほどき、無言で外の暗 闇へと溶け行く。寸毫の名残惜しさも見せずに閉まる重い扉。部屋 の中には黒い靄。弥生一人が薄明かり。 キャンドルライトに照らし出される電話。弥生は受話器を手に取 って、慣れた手つきで番号を押した。呼出音が部屋の中にかすかに 漏れて、三度目、 「もしもし、幸秀? 弥生よ。大成功。一年間苦労したけど、これ で幸秀と何の気兼ねもなく付き合えるんだもの、楽なものだと思わ なきゃ。うん、私、今とっても幸せよ」
神なんていうと世間では全知全能唯我独尊武芸百般なイメージだ が、実際は色々と制約が多い。例えば、神たる者は六六六年の任期 中に最低三回の奇跡の顕現が義務付けられているのだが、先任が鎌 倉時代に神風を吹かせてからこっち、つまり僕の代になってからは 全く奇跡を起こしていない。このままじゃリコールだ。たいへんだ。 僕は渋々街へ出た。 公園のベンチ、一人ゲームボーイに興じている子供を見つけた。 「子供。お前に奇跡を起こしてやろう」 「おっさん誰? やばい人?」 「神である」 「へー。すっげ」 全然すげくなさそうな口調であしらわれた。子供はゲームに夢中。 「お前の望みを叶えてやる。将来の夢などあるか?」 「傷痍軍人」 勇ましい戦争に憧れる子供心はわかるが、傷痍軍人とはいささか 飛躍がある。 「だって、従軍したってゆう証拠が欲しいじゃん」 「なーる。いわゆる『大人はわかってくれない』みたいな?」 「違うけど。まあ、ばかな大人の考える子供の文脈としてはそんな ところかな」 子供は初めて液晶から僕の顔へと視線を移した。 「子供。その願い聞き受けた」 電光石火で子供の右腕をとらえ、ビクトル逆十字固めにもってい く。パキンと軽快な音がする。転げ回る子供。よほど嬉しかったか。 ここに奇跡がまたひとつ。 「うむ。神はこれを見て、良しとされた」 しかし公安はそれを良しとせず、十月三十一日十七時八分、神は 身柄を拘束された。 取り調べを受けた。 「名前は?」 こわもての刑事が迫る。 「Y・H・W・Hです」 「なんて読むんだ」 「わかりません」 小突かれた。 余罪が沢山あるということで、僕は刑に服さねばならないらしい。 十戒のひとつとして犯していないのに、不思議な話だ。 「何年ほど服役しますか?」 「そんなことはまだわからん」 刑事が答える。 「いつから刑務所に入りますか?」 「もうすぐだよ。自業自得だ」 「刑務所では毎朝起床のラッパが鳴り響きますか?」 「鳴り響かねえよそんなもん」 悪魔は得てして真実を語らない。つまりはラッパが鳴り響くとい うこと。毎朝、毎朝。第七の看守が第七のラッパを吹き鳴らす投獄 七日目の朝、七人の天使がやってきて七つの鉢に盛られた神の怒り を地上に注ぐのだろう。そこでようやくこの世界は僕のものとなり、 永遠となる。 黙示録の成就に想いを馳せつつ、取調室の僕は甘辛いかつ丼をふ はふは頬張った。口の中では、肉と卵とごはんとラッパのハーモニ ー。
北春日部駅の改札を早足で抜ける。ヒールの音も高らかに電話ボ ックスに入る。呼び出し音1回で相手は出た。 「遅かったな」と尊大な男の声。 「すみません」と、わたしはつい言ってしまう。 「で、無事仕掛けたのか」 「それが」と、わたしは言い淀む。男は黙っている。仕方なく言葉 をつなぐ。 「できませんでした。今夜のところは」 「意味がわからんな」 「実は気づかれたようで」 「私にも解るように説明してくれんか」 予想通りの嫌味に歯を食いしばりながらも、わたしは答えを探す。 「いえ支社長、気づかれる気配を察したものですから。危険を冒す 必要はないと判断いたしまして。そもそも隣の支社などうちの敵で はないのですから、今さらそんな小細工など……」 「急須猫を噛む」 「は?」 「急須猫を噛む。知らんかね」 「いえ。存じております」 「そういうことだ。君はまだ修行が足りんようだ。自分が私に意見 できる立場にいるとでも思っておるのかね」 わたしは下唇を噛みしめる。こんな男相手に、不調な携帯でやっ きになって確認の電話をしようとした自分が悔やまれる。やつの目 の前だったのに。待てよ。さてはあれで気づかれたか。 「もういい。君の話になど興味はない」 そう言うと男は電話を切った。 ボックスから出ると冷たい風がわたしをなぶった。どうしてこん なところにいるんだろう。逃げたのか。このわたしが。追いつめら れる恐怖からわたしは電車を降りて駅の外まで来てしまったのか。 そしてやつは追ってこなかった。 むなしい。 わたしは銀鼠色をした「ブルックスブラザーズ」のジャケットの ポケットから名刺入れを取り出す。中から1枚抜き出してその肩書 を読む。支社長代理。何が「代理」だ。「代理」って何だ。 こんなもの。目にもの見せてくれる。馬鹿におしでないよ。 わたしは2本の指でそれを挟み、数メートル離れたところにある 花壇の柔らかそうな土に狙いをつけて、風がやんだその瞬間に、熟 練された妙技でしゅっと飛ばす。名刺は土に当たりぱたっと倒れる。 わたしは呆然と立ち尽くす。 角が丸かった。 晴れ渡った夜空に星が散らばっていた。これからどうする。もう 上りの電車などないだろう。タクシーか。それともどこかに。 寒い。わたしは銀鼠色のジャケットの襟をかきあわせて、窮鼠猫 を噛む、と呟く。わたしの猫の尊大な声を思い出す。噛むのは無理 でもせめて何か、誰か。夜風がまたぴゅうと吹いた。星が流れる。
前田高光の顔がフェイドアウトし、テロップが流れ始めた。 『乱舞の果て』は何度みてもいい。フィルムの中で高光は十五人の 警官を殺す。それも最高にクールなやり方で。俺はビデオを止め、 窓のカーテンを引き開けた。部屋の中に強烈な朝日が差し込む。そ の光が、高光のような男になる日が来たことを俺に告げていた。 電柱に凭れて煙草をふかす。国道を挟んだ対岸、陣崎署の正門を 出入りする警官達。できるだけ傲慢そうな奴がいい。そいつの腹に アーミーナイフを突き立てるのだ。警官殺し――明日の新聞は俺の ことを書き立てるだろう。そして、俺の写真を見た高光はこう言う のだ。見ろよ、こいつを。俺と同じ目の色をしてやがる。 突然のざわめきに俺は我に返った。署の正面階段を騒がしい一団 が降りてくる。その中にはテレビカメラを担いでいる男もいた。俺 は国道を渡り、煙草に火を点けながら彼等が近づくのを待った。集 団の中から声が上がった。 「署長、今の御気分はいかがですか」 記者達に囲まれ、制帽しか見えない男の上機嫌な声が答えた。 「たまにはこういうのも悪くないな」 沸き起こるおもねるような笑い。――大きな事件が片づいて記者 会見でもしてきたところか。ちょうどいい。奴をこいつらの前で殺 してやる。そうすれば、一時間後には血塗れのナイフを手にした俺 の姿が全国に流れる。 門を出て来た一団を追い、背後から近づく。かき分けた人垣の間 から紺色の制服がのぞく。がっしりした肩、広く平らな背中。ナイ フを抜き出しながら、俺は最後の一歩を勢いよく踏み出した。次の 瞬間、ナイフは根元近くまで制服の背中に飲み込まれていた。男は 声も発しないまま前のめりに倒れた。溢れ出す悲鳴。倒れた男と俺 を残し、人の輪が大きく広がった。まるで俺達にだけにスポットラ イトが当たっているかのようだった。 怒号を上げ飛びかかってくる警官達。あっという間に組み伏せら れた俺に、シャッター音が降り注ぐ。地面に押しつけられながらも、 俺は顔を上げて記者達のカメラを、――いや、その向こうにいるは ずの高光を見つめた。『乱舞の果て』で彼が見せた不遜な笑みを真 似ながら。 手錠を打たれ、乱暴に引きずり立たされる。そのとき、女性記者 がテレビカメラに向かって喚く言葉が、ざわめきの中、不意に、明 瞭に耳へ届いた。 「大変なことが起きました。俳優の前田高光さんが暴漢に刺されま した。前田さんは、今日、一日署長として、ここ陣崎署に――」
「シリウスは、月と惑星を除けば夜空で一番明るい星です」 この日、雪空の下プラネタリウムを訪れる酔狂な客は、髪の長い 娘が一人きりだった。スライド挿入。 「この青い星シリウス、赤いベテルギウス、そして白いプロキオン を結ぶ形を、冬の大三角形と呼びます」 さほど広くない上映室は、僕と彼女の教室のようだ。瞳に映る、 青い光がここからも見てとれる。神秘的な輝きだ。 思い切って問いかけてみる。 「何か、リクエスト御座いますか?」 娘はまっすぐ僕を見ると、思いがけない事を言うのだった。 「今晩、私を置いて頂けますか? この星で……どこにも行き場が ないのです」 部屋に女性を招くのは久しぶりだ。僕がコーヒーを入れようとす ると、娘は素早く立ち上がり、いやに念入りに自分で作ってくれた。 そして娘は、自分は二十億年の時を経てシリウスBから来た王女 なのだと真顔で言うのであった。笑いを抑え、頷いて見せる。 「あなたはお話を聞いてくれそうだったから……星に詳しそうだっ たから……分かっていただけますね」 この、僕に関して何か突拍子もない勘違いをしている奇矯な娘の、 しかし澄んだ瞳に僕はもう、魅入られていたのである。 (かつてシリウスBは、生命を育む美しい星でした) 王女はお伽話を囁き続ける。 (精神文明が進んだ、心正しい人の国でした。 これと言って資源はないけれど、ただ宝石だけは 沢山採れたので国は豊かでした。 ルビーとか、サファイアとか……) 唇が塞がれる間だけ、囁きが途切れる。 (でもある年、赤い星が王国に野心を傾ける。 彼らの策謀で私達は星を追われ、シリウスは 生命を拒む星へ変わっていった…… 私達は想うところの星に向け宇宙へ散った。 私が目指したのは、そう、この星の太陽。 冬の夜空に明るく輝く、王家の守護神。 二十億年、ただ まっすぐに この星を めざし…… 理由の分からぬ頭痛で目を覚ますと、もう昼前だった。いつの間 にか眠りに落ちていたらしい。 隣にいる筈の娘は見当たらない。彼女とそのバッグは勿論、机に 置いた僕の財布、引き出しからは通帳、印鑑、ついでにタバコまで も消えていた。 (なんて手際の良いお姫様だろう) コーヒーでも沸かそうと流しに立った時、昨夜のカップの皿に青 い小石を見つけた。 大粒の、サファイアに似た石だった。 (まさか、ね?) 手にとってかざすと、石はあの娘の瞳に似た、深い輝きでそっと 応えるのだった。
第12回作品受け付け───2月10日〜2月29日
作品発表──────── 3月1日〜
人気投票受付け───── 3月1日〜3月29日
結果発表──────── 4月2日
第12回1000字バトルチャンピオン
越冬こあらさん作『蒸発』に決定です。
越冬こあらさん、おめでとうございます!!
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 蒸発(越冬こあら) | 3 |
| 星のお伽ばなし(蛮人S) | 2 |
| くのいち(一之江) | 2 |
| 悔悟(鮭二) | 2 |
| 彼女のアイランド(川辻晶美) | 2 |
| 娘が連れて来た男(しょーじ) | 1 |
| 湖(小石川ももこ) | 1 |
| 必ず当たる予言(Momo) | 1 |
| 千文字聖書(特約)(スベスベマンジュウガニ) | 1 |
●蒸発(越冬こあら)
●星のお伽ばなし(蛮人S)
●くのいち(一之江)
●悔悟(鮭二)
●彼女のアイランド(川辻晶美)
●娘が連れて来た男(しょーじ)
●湖(小石川ももこ)
●必ず当たる予言(Momo)
●千文字聖書(特約)(スベスベマンジュウガニ)
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