第14回1000字小説バトル
Entry3
桜が舞っていた。 南風が吹き、一枚の花びらが目の前を過ぎた。それは小さな光の 結晶のように光っては消えて、緩やかに足元に落ちたが、目の前に また新しい結晶が流れて行く。煙草を付けて顔を上げると、そこに は真っ白い光の河が流れていた。それは点々とはしているけれど、 視界の許す限りに、光っては消えて流れていた。 団地近くの公園のには休日の朝という事もあってか、他にベンチ に座る人はおろか、散歩をする人すらいない。プロペラ機の音が丸 い空に広がって、白くて暖かすぎる春の日差しが肌を焼く。土の音 と、空気の音が、聞こえないはずのリズムを刻む。まるで、普段は 聞こえなくても認識している心臓の音のように耳の奥にジーンと伝 わって来る。 そんな光景を見ていたら、思い出に浸る年ではないのだが、この 公園での記憶が自然と何も無い今の時間を埋め始めた。ここは幼い 頃の遊び場−隠れて煙草を吸った場所−彼女との散歩コース−そう、 幼なじみの彼女との散歩コース。幼い頃から体が悪く遠出ができず、 僕といつもここに散歩に来ては缶コーヒーを飲んでいた。いつか、 桜の終わり頃彼女とここに来て、一枚一枚流れるように始まった雄 大で、静かすぎる春の川を見た事を覚えている。彼女の、静かにそ れを見る黒曜石の様な瞳は、何故か悲しそうにしていた。彼女は何 かをつぶやくと、一人で立ち上がって何処かへ消えてしまった。 思い出は夢となって、春の綿雲のように広がってゆく。 目を覚ますと、ベンチの上でビール缶を抱えたまま寝ていて、時 計を見ると昼近くなっていた。いい気分で桜を見ていたはずだった が、なぜかひどく切ない夢を見た気がして、ホームシックにかかっ たような気分になっていた。始めは、アルコールと、あまり普段見 る事のない光の舞台が感傷的にさせているのだろうと思ったが、言 葉には到底できない映像が春曇りの中の景色のように喉元に押し迫 っていて、何かを思い出したい事に気が付いた。 桜は再び流れ出した柔らかい南風にのり、白い河になっていた。 帰ろう。結局映像が何なのか思い出せないままだったが、それが 哀しい思い出であると言う事はなんとなくわかった。多分その時見 ていた夢は2年前に他界した彼女の事だろう、そうえいば今日の日 によく似ている。立ち上がり、歩きはじめた時、ふと彼女の声が聞 こえたような気がした。「あのね…」 春の幻。振り向くと最後の一枚がひらひらと舞っていた。
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