| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 雪は白く、空は青い。 | 池野諭 | 727 |
| 2 | 瀕死のカラス | 田中接 | 988 |
| 3 | 花見 | 猪子雲 | 1000 |
| 4 | 夏休みの憂鬱 | ニコ | 832 |
| 5 | 桜、浪爛と。 | ABSOLUTE"AZ"ZERO | 960 |
| 6 | 遅れ咲き | aoye | 999 |
| 7 | いっつ そう くーる | あーとまん | 990 |
| 8 | 海に願いを | 有香 | 892 |
| 9 | 破壊する男 | TAKA | 614 |
| 10 | 幸せを作る壷 | ドングリ | - |
| 11 | 殿様 | 小倉人 | 987 |
| 12 | 柱 | 仏 | 1000 |
| 13 | 雨と恋と雨と | 三谷昇子 | 955 |
| 14 | 砂が降る | 厚篠孝介 | 976 |
| 15 | Rubber Duck | ヒディ | 981 |
| 16 | 鮫 | ぱんち | 990 |
| 17 | 春風邪 | うめぼし | 975 |
| 18 | 変身 | 杉原久郎 | 1000 |
| 19 | ドレクセル | カサドラ・カノ | 965 |
| 20 | 魔法のぼうし | 越冬こあら | 1000字 |
| 21 | 吸血鬼 | Yamac | 1000 |
| 22 | おかまのシゲルちゃん | 鳳めぐみ | 998 |
| 23 | 暗証番号 | 太郎丸 | 1000 |
| 24 | 堕天使と雪 | Default | 1000 |
| 25 | 知的好奇心の代償だよとアンドレイ・チカチロは笑った。 | 心 | 981 |
| 26 | はじめに想いありき | 逢澤透明 | 1000 |
| 27 | おもいでいっぱい。 | 3104 | 976 |
| 28 | 安全基準 | 羽那沖権八 | 961 |
| 29 | 殺人シミュレーター | アースワーム | 978 |
| 30 | Welcome Home ★ | 川辻 晶美 | 1000 |
| 31 | 1 | akoh | 1000 |
| 32 | ちんぽくん | 一之江 | 1000 |
| 33 | もういない | 更羽 | 998 |
| 34 | ED | 鮭二 | 1000 |
| 35 | 幸福論 | DIPSY | 790 |
| 36 | もっくん未熟者 | 蛮人S | 1000 |
| 37 | 角のジミーがいなくなった | Momo | 1000 |
| 38 | パゲ山考 | 俊 | 1000 |
最後に雪を見たのがいつだったのか、僕には記憶がない。 君に出会うまでは、本当の雪なんて見ていなかったのかもしれない。 君に出会った瞬間、僕の心の風景は真白だった。 どんな遮りもない、ただひたすらの白だった。 僕は怖かった、この手で君を汚すのがどうしようもなく怖かったん だ。 戸惑っている僕を見て、君は言ったね。 「曇りなき空などないの、純粋なものなどないの。そこにはいろい ろなものが混ざり合って、そうしてそれがそこにあるの。それを純 粋だと、曇りがないと思うのは、あなたがまだそのものに触れてい ないからなの。手にとって深く見れば、そこに様々な色が見えてく るわ、音が聞こえてくるわ。そして、それをあなたは愛せるように なるの。怖がらなくても大丈夫。あなたの色が私を染めるの、私の 色があなたを染めるわ。どんな色になったって後悔はしないわ、だ ってこの空も、あの山も、川のせせらぎも、こんなに美しいんだか ら・・・」 最後に雪を見たのがいつだったのか、僕には記憶がない。 君に出会うまでは、本当の雪なんて見ていなかったのかもしれない。 僕はただ、そのイメージを浮かべていただけなんだ。 雪が白いと、ただ勝手に決めつけて、そこに立っていただけなんだ。 僕は今、しっかりと雪を踏みしめて、大きくのびをした。 そして、僕は初めて雪が白いんだと思った。 涙がでた。 君は僕の手をそっとにぎり、「大丈夫?」と言った。 僕は君の手をしっかりにぎり、「大丈夫」と答えた。 君がそっと微笑む、「さあ、いこう」そう言って僕は大きく息を吸 い込んだ。 君は目を輝かして、僕を見た。「うん」 僕達は歩き始めた、しっかりと大地を蹴って、 心の中でもう一度「大丈夫」、そう繰り返して空を見上げた。 そこには眩しいくらいの青い空があった。
カラスはじっとしていた。光が、金の鱗粉をさらりとまぶしたみ たいに体に落ちた。私はカラスのまぶたの、丸みに沿って光沢を帯 びた様子に眼を移した。閉じられたものと思い込んでいたまぶたは、 実は開いているのではないか。そのようにも見えた。 「なぜ確かめなかったの」 Bの声には予期しない非難の調子がこもってい、私は訝った。も しカラスのまぶたが開いていたのであれば、伏せてあげなければ、 とでも、Bは言うのだろうか。 「まだ生きてたのかもしれないでしょ」 Bの眼に、挑みかかるような光が宿った。 なるほど。もしカラスがまだ生きていたのなら、救命に向けてし かるべき処置をとるべきであった。Bはそのままに放置した私を責 めているのだ。 いかにも、私は見つけたときから、カラスは死んだものと決めこ んでいた。面前の死という状態は、強く私に訴えた。何でもいい、 頭に言葉を巡らせて、平静の心持を取り戻したかった。 そのように言っては、少しく大袈裟であろうか。さよう、いま一 度顧みるに、私はむしろ平静であった。ある時、道端にぼろ雑巾を 見つけ、近づいてみると、半ば猫に噛みちぎられたスズメだった。 それがスズメの死骸であると認識したとき、私は思わず跳び上がっ て、百メートルほども駆けた。そのときの悪寒の感触までありあり と思い出されることと比べると、カラスの死骸が私に与えた衝撃は、 全くもっておとなしいものであった。やはりカラスの体には、何の 損傷も見当たらなかったことが、私にとって大きい。 だが、こうも考えられないか。スズメの死骸を見て跳び上がった 経験をもつ私は、再び同様の無残さに触れることには耐えられなか った。私の網膜が小動物の、羽のむしりとられたみじめな跡や、は み出した内臓のぬめりにさらされるといった事態は、何としても避 けねばならぬ。そんなわけで、私はカラスの体に損傷のないことを 願っていたから、裏返して検めてみたりはしなかった。私は観察も そこそこに電柱の陰を離れた。 「でも知らなかったの?」 Bの問いかけに、私はしばしの省察から引き戻された。「カラス の目玉って、すごく高く売れるんだ。ネックレスにしたりするんだ って。死んでからしばらくは措いたほうが色に深みが出てくるんだ けど、でもまぶたが開いてるとすぐに腐食が始まっちゃうから、死 んだらすぐに伏せてあげないと」 Bはいたずらっぽい笑みを浮かべている。
桜が舞っていた。 南風が吹き、一枚の花びらが目の前を過ぎた。それは小さな光の 結晶のように光っては消えて、緩やかに足元に落ちたが、目の前に また新しい結晶が流れて行く。煙草を付けて顔を上げると、そこに は真っ白い光の河が流れていた。それは点々とはしているけれど、 視界の許す限りに、光っては消えて流れていた。 団地近くの公園のには休日の朝という事もあってか、他にベンチ に座る人はおろか、散歩をする人すらいない。プロペラ機の音が丸 い空に広がって、白くて暖かすぎる春の日差しが肌を焼く。土の音 と、空気の音が、聞こえないはずのリズムを刻む。まるで、普段は 聞こえなくても認識している心臓の音のように耳の奥にジーンと伝 わって来る。 そんな光景を見ていたら、思い出に浸る年ではないのだが、この 公園での記憶が自然と何も無い今の時間を埋め始めた。ここは幼い 頃の遊び場−隠れて煙草を吸った場所−彼女との散歩コース−そう、 幼なじみの彼女との散歩コース。幼い頃から体が悪く遠出ができず、 僕といつもここに散歩に来ては缶コーヒーを飲んでいた。いつか、 桜の終わり頃彼女とここに来て、一枚一枚流れるように始まった雄 大で、静かすぎる春の川を見た事を覚えている。彼女の、静かにそ れを見る黒曜石の様な瞳は、何故か悲しそうにしていた。彼女は何 かをつぶやくと、一人で立ち上がって何処かへ消えてしまった。 思い出は夢となって、春の綿雲のように広がってゆく。 目を覚ますと、ベンチの上でビール缶を抱えたまま寝ていて、時 計を見ると昼近くなっていた。いい気分で桜を見ていたはずだった が、なぜかひどく切ない夢を見た気がして、ホームシックにかかっ たような気分になっていた。始めは、アルコールと、あまり普段見 る事のない光の舞台が感傷的にさせているのだろうと思ったが、言 葉には到底できない映像が春曇りの中の景色のように喉元に押し迫 っていて、何かを思い出したい事に気が付いた。 桜は再び流れ出した柔らかい南風にのり、白い河になっていた。 帰ろう。結局映像が何なのか思い出せないままだったが、それが 哀しい思い出であると言う事はなんとなくわかった。多分その時見 ていた夢は2年前に他界した彼女の事だろう、そうえいば今日の日 によく似ている。立ち上がり、歩きはじめた時、ふと彼女の声が聞 こえたような気がした。「あのね…」 春の幻。振り向くと最後の一枚がひらひらと舞っていた。
太一は真っ黒に日焼けした手足を投げ出して風通しの良い縁側に 寝転がっていた。太陽が傾く午後5時、虫の声が早い秋の訪れを知 らせる夏休み最後の日。 「この子は一日中ご飯もろくに食べないでこんなとことに寝転がっ て。宿題は終わったの?」 母は洗濯物取り込むと太一の隣でたたみ始めた。 「うーん」 太一は薄っすらと目を開けるとまだ昼間みたいな明るさに目がやら れてまた目を閉じた。 「今日せっかく健一君が遊びにきてくれたのに、どうして遊ばなか ったのよ。夏休みの間あんなに毎日遊んでいたのに。」 太一は黙ったままだった。 「残念がってたわよ、夏休み最後の日だったのに」 確かに健一は残念そうだった。健一とは今日も遊ぶ約束をしていた のだ。なのに太一は理由も無く断ってしまったのだ。健一は最初そ この縁側にしばらく座ってゲームボーイをやっていたがしばらくし て「明日学校でね」といって帰ってしまった。 この夏休みに太一は健一といろんな冒険をした。駅前に新しくで きたコンビニに行ったり、川に泳ぎに行ったり、僕はプールで50 メートルを泳ぎきることができるようになった。健一が犬を飼い始 めたのでまだ小犬のその犬を連れて草むらに探検に行って基地も作 った、穴を掘っていたらきしめんみたいな虫が出て来て二人で冷や 汗をかいたんだ。それら一つ一つの黄金の時間たちは言葉にすると 数行でしか表わせず、なんだか色褪せた物になった。 「宿題はきちんとやっておきなさいよ。来年から中学生なんだから しっかりしないとね」 母は洗濯物を持って部屋を出た。一瞬洗濯物から太陽の臭いがした。 太一は寝返りを打って一冊のノートに手を伸ばした。「夏休みの 日記」と書かれたそのノートはどこをめくっても白紙だったが文字 の変わりにコオロギがリンリンと鳴きながら出て来た。 「たいちー夕飯の用意手伝ってちょうだい」 母が台所で叫ぶ声が聞こえる。太一はコオロギを軽く握ると外に投 げた。 「そんなに急ぐなよ。いずれ夏はきちんと終わるんだから」 太一はゆっくりとおきあがって台所に向かった
そのとき、彼女が僕に向かって云った最後の言葉が最高に傑作だった。 「狂ってる」こんなにも面白い台詞を、僕は今まで聴いたことがない。 正直云って、彼女にユーモアのセンスがあるとは考えてもみなかった。 僕は涙を流して笑いながら、蒼ざめた不健康な細面の美貌を覗き込む。 君が狂っていたなんて、一緒に暮らしていた間は全く気づかなかった。 やれやれだ。僕たちは今まで何をしてきたんだろうな。嫌な気分だよ。 僕の好物を作ってくれたことも、楽しく祝った君の誕生日も幻覚かい? 長くて綺麗な黒髪を神経質に右手でかきあげるその癖も狂ってるから? 何処までも深く澄んだ夜空色の瞳が、そんな危険な色だったなんてね。 僕は君のことを隅々まで知り尽くしているつもりになっていたんだよ。 でも、結局は何ひとつ解ってはいなかった。まさか狂っていたとはね。 僕だって、この世界で自分が正気だなんて、少しも思ってやしないさ。 そんなに恨みがましい視線で僕を見るのは、頼むから止めてくれよな。 確かに、君を理解することは出来なかったけれど、僕のせいじゃない。 不可抗力と言い切るつもりはない。でも限りなく不可能に近いと思う。 一昨日の深夜、僕たちの時間は、灼き切れるように終わってしまった。 よくある話だろう。三年も一緒にいれば些細なことから綻びが生ずる。 言葉の擦れ違いが断続的な沈黙を産み、致命的な距離を育ててしまう。 抱き寄せた身体は温かさではなく、絶対零度の冷たさで僕を拒否した。 そう、僕を受け入れてくれなかったのは、他の誰でもなくて君だった。 震えながら僕の言葉を拒んで、僕の生き方を聴き慣れた声で否定した。 君は二十歳のときに付き合っていた男に騙されて泣いたと云ってたね。 ポール・ニザンのようにドラスティックな人生を君は送っていたんだ。 その頃の僕と云えば、ただ呼吸を繰り返しているだけの毎日だったよ。 ごめん。今日は荷物を取りに来ただけなのに、長い話をしてしまった。 コーヒー、美味しかったよ。ちゃんと煎れられるようになったんだな。 このマグカップは要らないから置いていくよ。よかったら使ってくれ。 さて、そろそろ行くとするかな。もう二度と会わないつもりだからさ。 寂しそうな表情をするのは間違ってるぜ。きっと向こう岸で逢えるよ。 かつては婚約者だった屍体に手を振り、男は静かに部屋の扉を閉めた。
葉桜を撫でながら吹く風が心地良い5月の日曜日、その日は彼の 7回目の誕生日であった。母の望むままに、少年は自宅での祝いに 友人たちを誘った。 己の誕生日を祝うのになぜ自分が友人を招くのか―。 そんな瑣末な疑問が、この少年の素直さを抑圧していた。 正午近く、プレゼントを手にした友人たちが彼の家を訪れた。座 敷の準備がまだだったので、来客たちは家の前でボール遊びを始め た。少年は輪に入らず塀に背を凭せ、水族館のペンギンを見るよう な眼で、路上ではしゃぐ子供らを見ていた。これまでにない数の友 人たちが自分の誕生日に集まり、笑顔で戯れていた。 僕が呼んだから来ただけのことだ、別に僕の誕生日を祝いたいか らじゃない―。 彼は努めて冷めた眼で事態を傍観していた。頬の筋肉が綻みそう になると、唇を噛んでそれを堪えた。 田圃越しに、古い線路が見えた。短い列車が、不意にカーブの影 から現れ、まるで少年に合図をするかのように短く汽笛を鳴らして 走り過ぎた。ボール遊びをする友人たちの手が、その音で止まった。 瞬間、彼は道に落ちたボールを拾うと、畦道を線路に向かって走り 出した。 雑草を無精髭のように蓄えた盛り土を駆け上がり、赤銅色の古ぼ けたレールに立って振り向くと、来客たちは口々に彼の名を叫びな がら、突然駆け出した「主人」の後を、懸命に追い駆けていた。 今日という日は、僕のものだ! 少年の全身を快感が駆け抜け、血液は真っ赤に輝いた。線路の反 対側は雑木林になっていた。そこは未だ侵さざる領域であったが、 溢れるエネルギーは、彼をその中に駆けさせた。緑の葉のそよぐ音 と彼の名を呼ぶ声が、林の中で一体となって響き渡った。ボールを 落としたことすら知らず、彼はその賛美歌に酔った。 雑木林を抜けると、蝶形の花の紅紫色が、眩しい光とともに突然 視界を覆った。その瞬間、彼の足は急に止まった。しかしそれまで の彼の激しい動を静に転じさせたのは、休耕の畑に満ちた蓮華草で も、眩しすぎる太陽でもなかった。彼の視線の先には満開の桜が、 5月の空の下、梢を揺らして立っていたのである。 汗を拭うことすら忘れ、彼は桜に見とれていた。誰も見たことの ない、とっておきの無垢な笑顔で。 彼は無邪気に振り返った。そして気がついた。追ってきた筈の友 人たちの姿も、声すらも、すでに無いことに…。 彼はもう一度振り返った。遅れて咲いた桜だけが、音もなく、揺 れていた。
朝の4時ごろ。急に目が覚めた。ぼーっとした中で、なんとなく 昔のことを思い出していた。 それは少し太陽がぎらつく初夏の朝のことだった。僕はいつもど おり隆をさそって、小学校へと向かっていた。初めは小学生らしく 愉快なことを言いあっていたが、彼は急に黙り込むと思い出したよ うに喋り出した。 「そういえばさ、ゴキブリってカッコよくない?」 と、隆は自信ありげにこう言った。僕は意味が判らなかった。どう してと訊ねたら、彼は僕から視線をそらして前を真っ直ぐに見つめ ながら語った。 「タフだし、どこでも生きていけるしね。外見もサイコー。鈍く黒 光りするボディに、2本の触角。六本の足はスピーディに動くこと もできれば、垂直な壁にさえも上ることができる。しかも、僕達に も持ってない羽をもってて、空を飛ぶことだってできるんだ。そう さ。あいつは虫の忍者なんだ」 「―そうかなぁ」 僕は思わず訝しげに考え込んでしまった。何度過去をほじくり返 しても、あれがそんなにホメられる奴だとは思えなかった。と言う か本能的に気持ち悪いとさえ感じている。こそこそ隅を這いまわっ てはご飯の残りをあさり、放っておくといつのまにか「プチゴキ」 まで歩き廻ってたりする始末だ。お母さんなんかは、見つけるとす ぐにスリッパを持って追いかけ廻して、必殺の一撃を繰り出すと満 足げにニタリと笑って素早く死体を片付ける。うーん、いつも優し いうちのお母さんをあそこまで変えさせるんだから、良い奴ではな いと思うんだけどなあ。やっぱり隆は変な奴だ。 僕が立ち止まって考え込んでいると、隆がひょいと僕の顔を覗き こんできた。不思議そうにこっちを覗うその顔を見て、僕は我に返 った。 (いいや、学校へ行こう。) そう思うと、 「うん、僕もカッコイイと思うよ」 と、にんまりとした作り笑いで言った。隆もそれに気を良くしたの か、満面の笑みを浮かべて「だろー」とまた得意げに言って先に歩 いて行った。そして僕達は学校へ行った。 あの頃を振り返ってみると、改めて「隆はカッコよかったな」と しみじみと感じる。となりで大いびきをかいて寝るとどのような女 房と、鏡の向こうで少し禿げ上がった自分の頭を交互に眺めても、 何で自分がこんな風になったのか判らない。あのとき、作り笑いを してなければ少しは変わったのかな。という思いが少し心を掠めた けど…。 (いいや。) 僕はまた布団をかぶり直すと、すぐ眠りについた。
冬は、少し寂しい。 夏の間、あれほどまでににぎわっていた砂浜は、冬になると急に 広くなる。それでも駐車場には、ときおり内陸ナンバーの車が停ま ったりもする。 どうどうどうどう。渦巻いているのは波か風か。 一体どこから聞こえてくるのか。 恋人の肩に頭を預けて、そんなことに思いをはせるのもいいじゃ ない。冬は、少し寂しいけど、それなりにロマンチック。 ある夜、えらく広い駐車場に、一台の乗用車が停まった。 出てきたのは1組の若い男女。仲良さそうに、並んで歩いてくる。 男がちょっと立ち止まると、女に何か告げた。彼女は、ちょっと 戸惑ったあと、彼の頭を軽く小突いて背を向けて、早足で彼から離 れた。彼は、女に向かって悪ぃ、というと、彼女に背を向けて、お もむろに立ち小便をはじめた。 女の方は、彼の傍にいるわけにもいかず、すたすたと歩いてくる。 迷いの無い足取り。彼女は一人で歩いてくる。目の前に、視界い っぱいに広がる私に向かって。 まるで羽でも生えてるみたいに。 近づくほどに広がる視界。彼女の視界を私が満たす。 波打ち際に近づいて、ぎりぎり水のかからないところで立ち止ま り、真っ直ぐ私に向き直る。 強い瞳。瞳の中に、まだ飛ばぬ鳥の翼。 私は彼女に語り掛けてみる。ねえ、あなたは。 どうどうどうどう。 彼女は、誰ともなしに呟いた。 「私、映画を創りたい」 どうどうどうどう。 どうどう。 彼女の思考を一瞬、私が満たしたのが分かった。彼女が望んでそ うしているのが分かった。 彼女は、一人で歩ける女だ。自分だけの世界を持つ、自分のため の夢を持つ。 男はやがて捨てられるだろう、と私は思った。 そのときは、彼自身が望んでそうするのだろう。 彼女がくるりと向きを変えた。そのまま、今度は私に背を向けて、 すたすたと歩き出す。向かう先は、彼のもと。 彼はちょうど事が済んだところで、背後からわっと彼女に驚かさ れて。驚き隠しに抱きついた。 彼女は彼に本当に心地良さそうに包まれていて。 私は、やがてはばたく娘の翼と、今は彼女を護る暖かい息子の腕 に、声なき声を送った。 どうどう、どうどうどう。
少年「あんたね、破壊は悪いものだって決め付けてるけどさ......。 破壊だって創造の一部なんだよ。考えてみてよ。紙をつくるには木 を切らなきゃいけないだろ?」 医師「キミのする破壊活動の悪いところは他人の迷惑になるところ だよ。つまりそれが問題なんだ」 この少年、破壊癖をもっている。つまり、なんでも破壊してしま うのである。そのきっかけは、彼が子供のとき、アルミの空き缶を 壊してできたガラクタを母親が「あら、きれいね」と芸術と勘違い して彼を誉めたことにあると思われる。 彼は今までに公共物破壊をはじめ、人間関係をも破壊し、このた び、ついに人間に危害を加えたため、精神科医師の診断をうける運 びとなった。 医師「キミを診断するのに、サンプルが必要だ。さて、ここに普通 のリビングルームに似たてた部屋を用意した。テレビもソファーも ある。キミに1時間やる。好きなように破壊してくれ。この部屋に あるものはなんでもだ。わたしはビデオモニターでキミを見ている。 ビデオは壊さないでくれよ」 少年はそう言われて、その仮部屋に監禁された。 医師は、横の部屋でビデオモニターに見入る。10分。20分。 少年はソファに座ってから、なんの動きも起こさない。 そして1時間が過ぎた。部屋の中のものはそのまま、なにも壊され ていない。 医師「おいおい。困るじゃないか。傾向を見たいんだよ。好きなよ うに壊していいんだって」 少年「もう壊したよ」 医師「壊した、ってなにを?わたしはずっとモニターで見てたんだ よ」 少年「壊したものがわからないの?」 医師「壊したもの?そんなものなんてないじゃないか」 少年「あるよ。・・・あんたの計画」
僕の腕時計が23時の時を表示している。ここに入ってから、も う3時間くらいが経過していたのか。小奇麗な飲み屋のテーブルに 空のビールジョッキを飲めない僕に対して自慢げに誇示するかのよ うに並べて、僕の向かい側には真っ赤な顔をした友人が自慢話をし ている。延々と3時間こいつの自慢話を聞かされてきた訳だ。 なんだかんだ話は盛り上がっていく、他の友人の不幸な事故の話に なった時「世の中には幸せな奴と不幸せな奴が居る、不幸な奴1人 で2,3人は幸せになれるんだ。俺?俺は大丈夫、お前がいるから な。」・・あーそうかい、このふざけた宴もやっと終わりに近づて くれた。店を出る時レジに立つと友人はいかにもものすごい偶然の ように自分の財布に札が入ってない事に驚いている。そして急にひ どく酔った振りをする。ああ・・またか、・・仕方なく僕は友人の ぶんも立て替えてやる事にした。最初から僕に奢らせるつもりでい たのだから会計が済ん 満足げな表情に、この貸しは返って来る事はないんでろうと覚悟し た・・。手を振る陽気な友人と別れて、帰路に着く。 薄暗い街頭の立ち並ぶ商店街を抜ける途中、歩きながら、さっきの 友人の言葉を思い出していた。突然転んだ、足元をひっかけたらし く、うつ伏せの状態になり、顔面を強打した。うめき声をあげると 前歯が1本抜けている事に気づく、折れた前歯を探そうと思ったが、 足元にひっかかった障害物にぶつかった。 奇妙な形をした壷が転がっている。 転んだ衝撃で少し欠けてしまったようだった。 投げ飛ばしてやろうと右手で拾い上げたが壷に何か文字が書いてあ るのに気づいた。そこには「幸せを作る壷、賽銭せれたし」と書い てある。ふざけやがって!叩き割ってやろうかと右手を振り上げた が、思いとどまった。何か直感がして、おもむろにさきほど友人か らもらった小銭を壷の中に入れた。 翌日、欠けた歯の痛みをこらえながら壷を探しにきた。壷は昨日の 場所に置いてあり。壷の中を覗きこむとそこには小銭が消えていた。 無意識に右足が出て壷を踏み潰した。破片が顔に当たり頬がすこし 切れた。 壷の残骸の中には紙切れが混ざっていた。 横には抜けた前歯が転がっていた。
時勢に押し流されるまま、清市も浪人ににまでその身分を落とし ていた。妻子は今、京に住んでいる。稼ぎのない男のもとにとどま る家族などないのは、当然のことだと自分に言い聞かせると、ふっ と笑いがこみ上げた。最後に城に上がったときに貰った、わずかな 金子が底をつくと、行きつけの飲み屋でも嫌な顔をされるようにな った。 「お侍様、剣術を指南してくだされ、指南してくだされ」 道ばたに腰を下ろしていた清市のもとに乳飲み子が集まってきた。 疲れて険しい顔つきではあったが、その奥にある清市の優しい目を 子供は見逃さなかった。 「童、侍にでもなるのか?」 ゆっくりと腰をあげると、側にあった竹の切れ端をつかみ、久々に 柳生一刀流の構えを見せた。わぁと子供が叫ぶ。軽く二三回振ると さらに歓声は高まった。上段の構え、腕を大きく振り上げると腋の 下の傷が痛んだ。この腕を上げる動作をすると必ずこの場所が痛む。 そして痛むのは腋の肉ばかりではなかった。 あの戦ではおもいのほか今川の槍組に苦戦した。馬を失い腋に傷 を負うと、本陣の方に下がるしか道はないように思え、わずかに残 った十数名の手勢をかき集めると撤退をはじめた。累々と横たわる 屍を越えて旗印の近くまで来ると、様子がおかしいことに気がつい て身を潜めた。甲冑の継ぎ目からにじむ血を左手で押さながら、身 を潜めた雑木林の隙間から見た空には、うっすらと煙が漂っていた。 河原のほうから100余りの今川の騎馬隊がこちらに向かって来る のが見える。槍の先にはグッショリと赤い血のついた白い包みがく くられていた。その瞬間、息がつまる。こちらの存在に気づかない 一団は清市のすぐ間近に迫った。そしてそのまま通り過ぎた。それ が殿様を見た最後だった。体の力が抜けてしばらく動けなかった。 清市に足軽大将の田平が声を恐る恐るかけたのは、それからどのく らい後だっただろうか。 殿様にはお世継ぎがいなかったため、そのままお家はお取りつぶ しになり、清市はじめ多くの家来が食いぶちを失った。清市には新 しい主へ仕える話もあったが、全て断り屋敷の裏で畑を打ち始めた。 あの藪でのことが頭からはなれなかったのだ。しばらく考え込む日 々が続き、そして酒に溺れた。 すっかり金峰山の頂にまで日は傾き、朝同様の黄金色を平野一帯 に降り注いでいた。夕日に片頬を染め、振るえる鬢をなでつけなが ら清市は叫んだ。「殿様ー好きだー」
浮いているというのは酷く気分を落ち着かせなくさせる。例えば、 前を歩いている女の子が持っている赤い風船など、私を苛々させる には十分に浮いていた。空を飛ぶ乗り物、更には水面に浮かんでい る物さえ、私にとっては不安という抽象的概念の対象だった。 風船が急に浮力を失い、まるで事切れたモヤシのようにヘナヘナ と落ちていった。風船はまだ膨らんでいて、ガスが抜けてしまった 訳でもないのに、どうして浮かばなくなってしまったのだろうと、 女の子は不思議がった。私にとっては不思議なことでもなんでもな い。空に浮いている物が地に落ち、水に浮かんでいる物が沈んでい くのは、当たり前のことに他ならないのだから。 先月、大規模な飛行機事故があった。たまたま私の頭上を通過し ていったジャンボ機が急に原因不明の操縦不能に陥り、結局何処か の山に墜落した。乗員乗客は全員死亡だった。 先週、近所の川で小学生が溺れて死んだ。緩やかな流れにぷかぷ かと浮き沈みする小学生をたまたま私が見かけて、沈んだかと思っ たら二度と浮かび上がってこなかった。 そして昨日、私の目の前を飛んでいたカラスが落ちた。幸い死に はしなかったが、翼が折れてしまって飛べなくなった。 「比重って知ってるでしょ。比重の軽い物が比重の重い物の中にあ ると浮くんだよ。重力よりも浮力のほうが大きくなるからさ」 彼は得意げに言った。じゃあ飛行機はどうして飛ぶの、私は尋ね た。 「あれは翼による揚力だよ。空気の流れはね、速いほど圧力が低く なるんだ。飛行機の翼は上と下で空気の流れに差が生じるように設 計されてて、発生する圧力差で浮いているのさ」 物知りな彼の説明でも私は納得できなかった。そもそも翼があれ ば飛ぶという安易な考えが、人間の傲慢さを物語っているようで気 分が悪かった。 彼の提案で、私たちは航空博物館などという地味な場所に行くこ とになった。私は入って三分で気分が悪くなり、しかし、彼はそれ に気付く様子もなく人間の傲慢さを熱く語ってくれた。 彼が飲み物を買いに行っている間、私は大理石で作られた大きな 柱に寄り掛かっていた。神話によれば神でさえ地に落ちるというの に、どうして人間が落ちないのか不思議だった。重力の影響を受け ている以上、何かに支えられていないと落ちるはずなのに。 ホールのほうで爆弾が炸裂したような音が響いた。おおかた、彼 でも落ちたのだろうと、私は冷たい柱に頬擦りした。
その日は、雨が降っていた。 上着のフードをかぶれば、気にならない程度の雨だった。すぐにや むものと思っていた。だから傘なんて、持たずに家を出た。友人の Yとの待ち合わせがあるので、渋谷へ向かっていた。井の頭線に乗 り換えるの為、下北沢で電車を降りた。ホームで電車を待つ。ホー ムの向こうの、線路沿いの道路を行きかう人々をみた。傘をさして いる人は、ほとんどなく、家を出た時よりも、雨は小ぶりになった ようだ。 渋谷で電車を降りた。何故、こんなに渋谷に人が集まるのだろう か。改札までに、随分時間がかかった。隣にいた女子高校生らが、 「こういう駅をあと何箇所かつくればいいんだよ。そしたら人が分 散するのに」 と言った。わかるような、わからないような理論だと思った。改札 を抜け、階段を降りる。いつも騒がしい駅だが、今日は一層騒がし かった。騒音のような、まばらに地面に向かって鳴る音楽。周りを 見渡した。その音楽は、空から強く打ちつける雨音だった。うかつ だった。井の頭線に乗っているあいだに、天候が変わっていた。ま るで、子供がだだをこねるように、突然に、激しく。困った、待ち 合わせの場所まで、結構距離がある。アイツは、単に金がかかると いう理由だけで、携帯電話を持っていない。傘を買う気にはなれず、 地下通路を歩く事にした。 地下通路の入り口まで、すこし距離が あるので、フードをかぶりなおして、走った。10歩ぐらい走れば、 イケる。待ち合わせの時間に少し遅れていたので、大股で走った。 屋根のあるところにつく、最後の一歩。そして、着地。………のは ずだった。雨で地面が濡れている事など、考えもしなかった。右足 のかかとが地面に着地した瞬間、ギュムッと、鈍い音と共に、体は 後ろに傾いた。マズいと思ったが既に遅かった。次の瞬間、頭を階 段の角で強打し、仰向けのまま、頭を打ち続けながら、階段を滑り 降りた。遠くで女の人の、キャーという悲鳴が聞こえた。景色がぼ やけ、歪んでいく。自然に目が閉じた。 目を開けたら、僕は病院にいた。随分ハデに転んだにもかかわ らず、怪我は頭を少し縫う程度ですんだ。今日で病院に来て3日目。 窓の外を見ると、今日も雨だった。僕の隣には、ひとりの看護婦が いる。彼女の右手は今、僕の左手とからみあっている。怪我の代償、 ともいうべきか。たった3日で、偶然にも、恋におちてしまった。 今日も、雨が降っている。
ある日、空から砂が降ってくるようになりました。雪の様に白い 砂がアスファルトの上にうっすらと積もり、車が通る度に巻き上げ られて、砂は隅へとたまり、そしてまた空から砂が降ってきました。 誰もが驚いて空を見上げています。みんな面白いことが起きるも んだと笑っています。 けれど10日も経つと笑い事では無くなってきました。砂は毎日 降りつづけ、地面を覆い尽くしてしまいました。畑も田んぼも砂に 埋まってしまい、作物が取れなくなりました。湖が砂に埋まって水 道が止まってしまいました。屋根に砂が積もって潰されてしまう家 もあります。ショベルカーが毎日動いて砂を取り除いていますが、 砂は後から後から降ってきます。世界中が砂漠になっていきます。 電車が止まり、危険なので原子力発電所も止まりました。あれほ ど明るかった街が暗闇に沈んでしまいました。月の明かりが全てを 呑みこんでゆく砂を青く照らしています。 食料が無くなりました。水もない人々は乾き、餓えています。海 の魚もあっという間に捕り尽されてしまいました。 だれもなぜ砂が降ってくるのか分かりませんでした。科学者達は ただ困っています。 空に原爆を打ってみた国もありました。レーザーで空を打った国も ありました。人工衛星で地球を調べた国も、みんなで祈った国あり ました。 砂は車でもビルでも工場、平原、山、軍事基地、犬小屋、研究所、 学校、お墓、すべてを呑みんでいきました。餓死した人の死体も砂 の底へと埋まって、私達の街を砂の中へ押し込んで行きます。 砂は私達の文明をあざ笑っています。高速で移動し、地球を壊せる 爆弾を持ち、クローンを作れた私達の文明はただの砂に成す術があ りません。 砂は文明ばかりではなく、私達の思いや感情まで砂の中に閉じ込 めてしまいます。火山の爆発に一瞬で閉じ込められた町がローマ帝 国にはありましたけれど、私達も同じです。こうして砂漠になって しまった街を歩いると、この下に当然だった昨日までの毎日がある のかと思い、私は砂にのけ者にされたんじゃないかと、そんな気が します。砂の下ではあの時と変わらない毎日が今日も繰り返されて いるんじゃないか、そんな気になります。 街はなくなり、砂だけになりました。砂は降っています。砂は空 も欲しがっているのでしょうか? 変わらないのは月だけです。月を守ってやりたいと思いました。 砂はまだ降っています……
黒い影は新幹線の通路を後ろの方から歩いてきて、すっと僕の一 つ前の席に座った。すらりとした後姿と長い黒髪だけが、ちらっと 見え、美人かな、一人なのかな、顔が見えないのが残念、などとぼ うっと考えていた。 新幹線の窓の外は、家々がまだらとなり、田んぼが平野に点々と ちらばった風景へと変わっていた。遠く秩父の山々は、まだ雪はな いものの、秋の終わりを感じさせていた。長野に近づくにつれ、そ れらがどんどんと迫ってくるようだった。 ふと見ると、彼女が前の席でかばんから何かを取り出している。 ついつい席と席の隙間からそっと見てしまうが、かばんの中を覗き こむ彼女の横顔が、ちらっと見えるだけだ。 そのうち探していたものを見つけたらしく、かばんを閉めた。そ して、その取り出したものを窓ぶちにそっとおくのが窓と席の合間 から見えた。 2匹の小さな黄色いおもちゃのアヒルだ。よく、お風呂の中で子 供が浮かばせて遊ぶ、ゴムのやつだ。そのつがいは丁寧に窓の外を 向いて並べられていた。 一人じゃないだろう。別れた彼氏との思い出。今から会いに行く 恋人とのサイン。亡くなった旦那の形見。それとも、ただのお気に 入りのペット。何だろうか。 隙間から見える、黄色いアヒルが窓の中にきれいに反射し、写っ ていた。その後ろに彼女の顔、どんな顔なのだろうか、どういう表 情でそのアヒルを見ているのだろうか。じっと覗くが、何もわから ない。 想像をめぐらして見る。彼女の思い出を覗いて見る。どういうス トーリーがこの2匹のアヒルに隠されているのだろうか。 声をかけてみたくなる。 「何か特別な想いがあるのですか」 長い間外を眺めていると、新幹線のスピード感に麻痺してくる。 過ぎて行く風景が全部同じ様に見えてくる。あのシーンも、このシ ーンも、ついさっき見たような気がしてくる。小さな家々が並んで いたり、田園風景が流れたり、雑居ビルがちょこちょこと立ってい たり。 繰り返し、全部通りすぎていく。確認している暇なんかない。一 瞬しかない。 2匹のアヒルがじっと外を眺めていた。 いつしか新幹線のスピードが落ちてきた。 高崎を知らせるアナウンスが日本語と英語で流れる。 ホームがゆっくりと窓の外を通り過ぎて行き、停車した。 すぐに彼女は通路を出口に向かって歩いていた。後姿しか見えな かった。 あとには、ゴムのアヒルが2匹残されていた。
「鮫、そう鮫だ!」 私は無性に鮫が食いたくなった。まだ間に合う。私は魚屋へと車を 飛ばした。ちょうど魚屋の親父が店じまいの準備をしているところ だった。私は息を切らせて走りながら叫んだ。 「おやじ! 鮫くれ、鮫!」 親父はそんな私を無視して店を閉めようとした。ちょっとムッとし た私は言い方を変えてみた。 「おやじ! 傘、傘忘れてる!」 するとおやじはこっちを振り向いてニッコリと微笑むと 「あいよ、鮫ね。今日の鮫は生きがいいよ」 と相変わらずの毒舌ぶりである。 と、その時! 「爆発まであと1分です」 しまった、時間がないっ! 1時間後 私は大きな鮫を抱えて厨房へと飛び込んだ。鮫をまな板にのせ、 包丁を手にとった。 鮫はまだ生きていた。 私は魚をさばいた事なんてなかったが、思い付くまま適当にやって みた。とりあえず一刻も早く鮫が食いたかった。なにを作ろうかな んて考えもせず、とにかくその大きな鮫をさばいた。私の体は返り 血で真っ赤になっていた。 「先生、時間がありません!」 「わかっている」 私は黙々と続けた。 「容態が急変しました! 危険な状態です!」 そんな声が飛び交う中で私は一心に集中して鮫をさばいた。 2時間後、とりあえず船盛りみたいなのが何とか完成した。 鮫はまだ生きていた。 「ふう、完成じゃ」 「やりましたね、博士」 助手の佐々木君は疲労を隠せない満面の笑みで笑いかけた。 「うむ、ではスイッチを入れるぞ!」 「スイッチ、オン!」 それはゆっくりと動き出した。そしてゆっくりと立ち上がり私にこ う言った。 「オハヨウゴザイマス、ゴシュジンサマ」 私は目の前が真っ暗になった。 「し、失敗じゃぁ」 私はがっくりと膝を落として切望にうちひしがれながら泣いた。助 手の吉川君と抱き合って泣いた。実に三日三晩泣いた。 ちょうどその時、遠くで花火の音がした。 「夏ですなぁ」 隣のじいさんがランニング姿でうちわ扇ぎしながら話しかけてきた。 (はっ、そうか夏か!) 私は船盛りになった鮫を抱えて大急ぎで車を飛ばした。海だ、海へ 行くんだ。頼むから死なないでくれよう。私は神に祈った。もう鮫 なんか食いたくなかった。というよりむしろ、愛していた。こんな に切ない気持ちは初めてだった。私は海に着くとその巨大な大海原 へと鮫を投げ捨てた。 「もう捕まるんじゃないぞー」 私は涙が止まらなかった。すべてが美しく見えた。水平線からちょ うど日が昇ってきた。 鮫はまだ生きていた。
通学途中の沿道につつじの花が咲き乱れる頃、私は必ず風邪をひ く。 「きっと春があなたを引き止めようとしてるのよ」 春に好かれるなんて、素敵な事じゃない。と、ハンドルを片手に 母は呑気に言うが、助手席のリクライニングを全開に倒してウンウ ン唸る私にとっては、苦しいだけで全然素敵な事じゃない。 漏れる溜息が唇を焦がすほどの熱を持っているくせに、体は寒く てガタガタと振るえている。まるで網膜に蜘蛛が住み着いたように 瞼の裏が疼き、悲しくもないのに涙があふれてくる。 早く家に帰って、ゆっくりとベッドに体を沈めたい。 車から伝わる振動が脳を揺さぶり、こめかみをグイグイと締め付 け、私の憂鬱に拍車をかけた。 私は授業中に倒れ、保健室に運ばれた。学校から連絡を受けた母 が学校まで車を飛ばして私を迎えに来た……らしいが、私はその事 を知らない。授業中徐々に気分が悪くなり、手のひらからシャーペ ンがポトリとこぼれ落ちた所までは覚えているのだが、気づいた時 には既に車に乗っていた。 たかが風邪だ、と思うと気が楽なのだが、こうも気分が悪いと、 毎年の事とはいえ、さすがに不安になる。事実、風邪が原因で命を 落とす事だって珍しい事ではないのだ。あのシャーペンのように、 私もポトリと落ちてしまうのではないのか。去年の事があってか、 体の弱さが気持ちまで弱くする。 「母さん、私死んじゃうかも……」 家に着き、ベッドに潜り込むなり私はそう母に告げた。母は一瞬 目を丸くし、その後大声を上げて笑い出した。 「ただの風邪でバカなこと言わないの。薬を取ってくるから、おと なしく寝てなさいよ」 「でも、お父さんは……」 「怒るわよ」 私の言葉をぴしゃりと遮ると、部屋を出て行った。 父さんは去年、私たちを残して春とどこかへ行ってしまった。今 年の春に引き止められた私を夏は迎えに来ず、代りに父さんが迎え に来るかも知れない。 部屋の戻ってきた母の手には水と風邪薬、そしていつものように 一片のつつじの花があった。 「早く春とお別れしなさい」 あなたまで連れて行かれてたまるものですか。母の呟きに私は力 無く頷くと、つつじの花を手にとった。 ―ごめんね、私もう行かなくちゃ。 今年最後の春との別れのキス。しなびた花びらをくずかごに投げ 捨て、再び布団に潜り込む。そんな私の額を夏子という名の母の温 かな手がやさしく包み込んだ。
時を重ねるにしたがって、時間は次第にその速度を増していく。そ れにつれて空間はその姿を湾曲させる。それはあくまで規則正しい 運動で僕の視覚で感じる世界の形態を溶かしていく。色彩や明暗は 少しづつ混ざり合い、黒に征服されていく。音は切れ目を失い壊れ たラジオのような雑音がひっきりなしに流れている。僕も自分の体 をその形のまま維持することがだんだん困難になっていき、崩れ落 ちる肉体を異様に敏感になっている感覚神経全てで自覚している。 不思議と恐くない。むき出しになり鋭敏になった感覚は時間を感じ つつ、世界との一体感を持って崩壊していくからだ。時間は僕を突 きぬけるように感じられ、それ以外のものは感じることができなく なってきている。今度は僕の感覚が失われつつあるのか、それとも 感じることができるものが無くなりつつあるのか、それすらもどう でも良くなってきている。空間は闇に覆われ、上も下も無い深海の 底にいるようだ。ついに時間もその速さを極限まで高め全てを破壊 した挙げ句、自らの存在すら失っていく。僕はついに感覚を失い、 そして僕という存在自体も消え失せていく。 その時僕は君のことを想った。 時間も空間も運動を停止し、何もかもが消え失せたその世界の最後 の瞬間に彼は私のことを想った。無限の闇の中で彼の思念だけが残 った。思念はその居場所である肉体の存在を失い、時間も空間も存 在を失ったそこで、形も色も無く物理的な運動もしていなかった。 ただ思念だけがその存在を知覚することができた。いや思念にとっ て思念だけが世界の全てであった。そして彼の思念に残った最後の 印象である私の映像が思念そのものであった。それは彼の一部であ り、彼の全てとなり、彼のものではなくなっていた。時間が失われ た世界の永遠の一瞬、今ははそれを暫くとしよう。暫くして、彼の 思念は、いや私という一個の思念はゆっくりと運動を開始した。ま ず私という思念は私の外部にある闇を知覚した。その事により私は 存在を獲得し、それにつれて時間が再び運動を開始した。無の中か ら少しづつ色彩が現れてきた。それはコーヒーの中に落ちたクリー ムのように広がっていき、やがてそれは立体を形作っていった。私 という思念は次第に概念的なものから物理的な体を整え出した。私 の感覚は戻り眩し過ぎる光を感じた。風を体に感じた。そこはいつ もの世界だった。ただ彼だけが消えて、そこに存在したのはまさし く私だった。
僕らがその情報を頼りにして、その急な流れの川の上流についた のは午後を少し回ったぐらいだった。僕らはそこで情報が教えてく れた通りの大きな裂け岩を見つけることができた。岩の裂け目には 一本の木が川の方向に伸びていた。僕らはそこで彼女を見つけた。 その大木のしなだれた枝の一本で首を吊って死んでいたのは、か つてドレクセルと呼ばれていた僕の知り合いの女の子だった。 女の子は何かの事故でつまずいて引っ掛かってしまったようにみ えた。女の子はレインコートのフードをうまく利用して首を吊って いたのだ。しかし、僕らの仲間の誰もが彼女が自殺したということ を確信していた。 どんな風にして彼女はこの不安定なところに身を持ち込めたのだ ろう、それよりもこの木の枝がよく彼女の体を持ちこたえられたこ とが不思議だよ、と彼女のかつての友達が話し合っていた。 確かに、少しの加減で彼女の死体を吊った木の枝はもう折れそう なほどしなっていたのだ。女の子の体は川に伸びた枝の先に滑って いて、つま先はもう川の水面に触れていた。 僕らはゴムボートを二隻用意していた。 僕らは彼女の体を捕まえるため、さらに上流からゴムボートをだ した。最初のボートがでて一人が大きく背伸びをして彼女を捕まえ ようと手を伸ばした。ボートは川の流れによって強く右に傾き、彼 女の体から大きくそれた。つかまえそこなった一人は彼女の体を悲 しそうに見送りながら流れの向こう側へと消えていった。 もう一隻のボートには僕が乗ることになった。なるべくボートを 右に保ちながら、彼女から離れないように注意した。僕は立ち上が り彼女の体を捕まえるために大きく手を拡げた。今度はうまくボー トは彼女のすぐ脇へと流れていった。彼女のレインコートの裾がす うーっとボートの脇にカーテンのように触れた。彼女を捕まえよう と身構えたとき、川面に突き出していた岩がボートに接触して、ボ ートが大きく右へ旋回した。その直前に僕の人差し指が彼女の太も もをかすっていた。 ボートが急流を下り、彼女が首を吊った木は遠ざかっていった。 彼女の姿を僕は黙って振り返るしかなかった。彼女の体は風の計測 器のように、ゆるく回転をしていた。枯れた枝はそれでも彼女を離 そうとしなかった。 僕らはそうしてかつてドレクセルと呼ばれていた女の子に見送ら れていったのだった。
工場長は魔法使いでありました。工場では夏には団扇、冬には湯 たんぽを生産しておりました。生産工程は同種の工場と類似してお りましたが、最終工程が異なっておりました。工場長は製品のひと つひとつに少しだけ魔法をお掛けになりました。少しだけの魔法に よって、団扇は他の団扇より少し涼しく、湯たんぽは他の湯たんぽ より少し暖かく仕上がりました。このような魔法の使用は魔人協会 の厳しく禁じるところでしたので、工場長はそれら製品の宣伝を一 切為さりませんでした。しかし、製品の評判は口コミだけで湖面の 小さな波紋のように広がって、大いに売れ行きを伸ばしました。 もはや街の住民は全員、団扇と湯たんぽを常備しており、暑さ寒 さを恐れなくなりました。従って、もう誰も団扇も湯たんぽも購入 する必要がなくなりました。工場には余剰製品の山が出来、工場長 は工員の皆さんに給料を支払う事すら出来なくなりました。 そこで、工場長は新製品の開発を決意されました。今や暑さ寒さ から救われた街の住民に新たなる幸福をもたらす刺激をもった製品 として、工場長は魔法の帽子の生産及び販売を決断されました。魔 法グッズの販売は魔人協会の目に触れ易く、危険な行為でしたから、 どの魔法使いも行なっておりませんでした。魔法の帽子の生産及び 販売は、その点を逆手にとった、工場長の大胆な賭けでありました。 また、「全ての人に幸福を与える」というコンセプトを持った、か ぶるだけで魔法が使い放題になるという魔法の帽子は、いわば工場 長のライフワークと位置付ける事の出来る製品でした。 魔法の帽子は、大きな津波が人々を圧倒するように爆発的に売れ ました。街の住民は先を争って魔法の帽子を購入し、思い思いの魔 法を使いまくりました。全ての事が全ての人の思い通りに成りまし た。工員の皆さんもやっともらった給料で魔法の帽子を購入し、思 い思いの夢を叶えました。街中の人が幸福へのエスカレーターに乗 りました。街中の人は幸福になったでしょうか。 一ヶ月後、工場長はしかし、街中の人が捨てた魔法の帽子の大き な山の前におられました。後ろからやってきた魔人協会の会長は、 無言のままで工場長の全ての魔力を剥奪していかれました。工場長 は魔法の使えない只の工場長になられてしまいました。そして、街 の全ての住民と同様に普通に暮らす事になられました。工場長が次 の新製品の開発を決意されたのは、半年後の事でした。
彼女は自分の性格が嫌いだった。幼い頃両親に愛されなかった為 か、自信が持てずいつもくよくよと悩んでいた。人に傷つけられて は悩み、人を傷つけては悩み、そのつど自己嫌悪が黒い染みのよう に広がっていった。いっそ死んでしまえばどんなに楽だろう。彼女 がそう思わない日は一日たりとなかった。 ある夜、彼女の夢に吸血鬼が現れた。黒いマント、白い肌、赤い 唇、そして鋭い犬歯。絵に描いたような吸血鬼である。はまりすぎ たその姿で、彼女はすぐ夢だと気づいた。 夢の中で吸血鬼が語りかける。 「君の血を吸わせて欲しい。その代わり、誰にも負けない強い身体 と心を、君に与えよう」 どうせ夢だという気安さと、自分なんかどうなっても構わないとい う自虐心から、彼女は首肯した。 目覚めた時、彼女は思った。 「なんてくだらない夢を…、私って本当にダメね」 そうやって常に自分を否定するのが彼女の癖だった。 夜明けまでまだ間がある。何気なく首筋に手をやって彼女は愕然 とした。この2つの傷は?そして、この感触は……血?まさか? 慌ててベッドサイドの手鏡を引き寄せたが、鏡の中には何も映って いない。そういえば、聞いたことがある。吸血鬼は鏡に映らないの だと…。 彼女は悲鳴とともに跳ね起き、救いを求めて家の外へ走り出た。 中天の満月が皓として路上を照らしている。昼間とまごうばかり の明るさだ。月光のなかに大男が一人立っていた。振り乱れた髪、 耳まで裂けた口、太い牙。狼男だ。 彼女は驚いて立ち尽くす。狼男なんているわけない。が、すぐに 気付いた。 自分だって…、もはや人間ではない…。 狼男は唸り声をあげ襲いかかってきた。彼女は振り下ろされた腕 をとっさに左腕で弾き、右肘を相手の鎖骨に叩きつけた。 「どうしてこんなことができるの?これも吸血鬼の力なの?」 ちらっとそう思ったが、今はそれどころではない。狼男は一瞬たじ ろいだが、すぐまた掴みかかってきた。彼女はその腕をかいくぐり、 相手の膝裏に足刀を蹴り込む。膝から落ちたところを、鞭を振る勢 いで左の回し蹴りを後頭部に叩きつけた。常人なら一瞬で悶絶した だろう。だが、狼男は平然と起きあがる。 死闘だった。 拳と拳がぶつかり合い、臑と臑がはじけ合う。両者の体に無数の傷 が増えていく。いつ果てるともしれない闘いが続く。だがついに、 彼女の右貫手が狼男の左目を深々と抉った。ひるんだ所をさらに左 の貫手が右の目を…。たまらず狼男は背を向けて逃げ出した。 彼女はその背に向かって、圧倒的な開放感と共に叫んだ。 「たかが狼男風情が!誇り高き吸血鬼様をなめんじゃないわよ!」 夢の中の吸血鬼は約束を守ったようだ。
窓際の、前から二番目の席に座っているシゲルちゃんが好きだ。 シゲルちゃんはおかまだと言われている。 この中学の裏手の、赤い瓦屋根の家に住んでいるのだが、シゲル ちゃんの家には三センチくらいのぶあつい板で出来た看板がかかっ ている。 「八柳流家元 生け花指南 花材はこちらでご用意いたします」 と、黒く太い墨書きの文字が書いてあるやつだ。 シゲルちゃんは決して、今喜んでクラスの女子が回し読みしてい るJUNEマンガに出てくるような美形ではない。 足は短い。太っている。上着の丈が少し短くて、ぽっこりしたお 尻がよくわかる。前髪はいつも長くしていて、細すぎる目を隠そう としている。 歩くときに、妙にくねくねと腰を振って前に進む。その“くねく ね”がおかまっぽいのだ。他には別におかまっぽいところはないけ れど、みんな喜んで“おかま、おかま”とシゲルちゃんをからかう。 シゲルちゃんは真っ赤になるけれど、なんにも言わない。 でも、ドンくさくはないのだ。なぜか短距離走をすると勝って帰 ってくる。今年の運動会でみんなびっくりした。誰もシゲルちゃん がそんなに速く走れるとは思わなかったからだ。予選も本戦も決勝 戦も、前につんのめるようにしてパタパタと走ってゆき、陸上部の 男の子と互角で競り合って勝ってしまったのだ。 走り終わったあとで、陸上部の顧問のひょろりと背の高い若林先 生に話しかけられていた。何を話していたのかわからないけれど、 シゲルちゃんはその後も少年ジャンプをごろごろして読んでばかり いる美術部から動かなかった。 「みぃちゃん何してるの? ぼんやりして」 「えっ」 私は慌てた。振り向くと学級委員の千絵ちゃんだった。 「ねね、クリスマス、どうする? 誰かにプレゼントあげる? 」 「んん〜? 」 その後、千絵ちゃんは現在片思い中のバスケ部の先輩のことを思 いっきり話して帰っていった。 (プレゼント、かあ) シゲルちゃんにもあげたいけど……あんまり話したこともないし、 なんかびっくりされて、かえって避けられちゃったりしそうだ。 その時、チャイムが鳴って、先生が入ってきた。起立、礼、と掛 け声にあわせて頭を上げ下げし、座った。 ……今考えるのはやめとこう。 でもきっと、あげたりしないんだろうな。 遠くから、見ていたいから。 私は、斜め後ろの席からシゲルちゃんを盗み見た。 シゲルちゃんの背中は、あいかわらず丸かった。
薄い小さな紙の文字は、判読し難かった。 『し』だと思うが『レ』にも『L』にも『V』にも見える。 せっかく手に入れた暗証番号も、2桁の数字が書かれていると思 ったが、こんなモノが書かれているとは…。 単純に数値化するなら、50音表に番号を割り当て、『し』なら 32。『「レ(れ)』なら94だろう。 いろは順なら…、『れ』が17で、『し』は42…。 LやVもローマ数字だと考えれば、50と5だし、順番に数える と…、12と22。 だが、奴の性格からみて、ローマ数字やいろはは多分使わない。 すると、32か94だな。 俺は銀行に行こうとして気がついた。携帯…? 「ボクの預金は、2千万位かな」 貴之が、酔った時に漏らした言葉で、一気に酔いの覚めた俺は、 大きくなった自分の心臓の音が聞かれるんじゃないかと思った。 以前の飲み会での、銀行の暗証番号の話を思い出したのだ。 「俺は、誕生日」 「私も誕生日だけど、彼氏のね」 「僕のは、電話番号」 みんな似たり寄ったりだった。貴之以外は…。 「ボクのは、ゼロゼロの後にねぇ。…秘密。でも、忘れない様にメ モ付けてるの」 奴のキャッシュカードを盗んじまえば、大金が手に入る。金持ち の奴には、大して影響はない。 自分で学費を稼いでいる俺には、大きな誘惑だ。 奴のキャッシュカードとそのメモさえ手に入れば、卒業までは働 かなくても、遊んでいられる。 「今日は泊まれよ」 俺は飲み会が終わりかけた時、奴をアパートに誘った。 散々飲ませ、寝入った奴のポケットから財布を抜き取り、気づか れない様に隠した。 財布に入っていたら決行する。 昼近くになって起き出した奴を送り出すと、俺は奴の財布を調べ た。…キャッシュカードと小さな紙片があった。 奴が盗難届を出す前に、銀行へ行かねば…。 0032 エラー 0094 エラー 0033 … 俺は銀行から駆け出した。 携帯の『し』は3を2回だが、それでも無かった。俺は財布から 金を抜き取ると、公園のゴミ箱に捨てた。 「この前、キャッシュカード落として使われたんだけど、暗証番号 ね、解読されなかったんだぁ」 「解読?」 俺は他人事の様に聞いた。 「そう。紙に『し』って書いておいたんだけど、実は裏から見るん だよね」 「う、裏?」 「そう。裏から見ると『し』じゃなくて『つ』になるの。もう変え ちゃったから教えるけど、「あかさた」で4番目、「たちつ」で3 番目、だから43なの」
空をおおう冬の雲の色に染められて、街は灰色だった。 そんな街をさまよう一人の男がいた。 長く乱れた髪の毛に、その表情を窺い知ることはできない。だら しなく着崩したスーツの横腹を手でおさえながら、男は街を歩く。 不思議な事に街行く人々は、汚い風体の彼とすれちがっても、嫌 悪の表情を浮べることがなかった。ただ、彼をよけて通り過ぎる。 まるで、彼が存在が嘘であると言わんばかりに。 しばらくして、男は寂れたビルの立ち並ぶ一角で立ちどまった。 そして、ビルの隙間にできた細い路地を見つめる。 「ここか……」 疲れたようなかすれた声でそう呟くと、男はその路地へと足を踏 みいれた。 しばらく行くと、幾人かの少年の声が男の耳に飛びこんできた。 「なあ、いいじゃんよ」 「イイとこ連れてってやるからさ」 そして、下卑た笑い声。 路地の奥は四方をビルに囲まれた小さな空き地となっていた。 土の地面が露出したその空き地の隅で、OL風の若い女が、若い 少年たちに囲まれている。どうやら、彼らが先ほどの声の主らしい。 女は少年たちの誘いを断っているようだが、その拒絶はあまりに も弱々しかった。 男は無造作ともいえる歩調で少年たちに近づいていった。 やがて、少年たちの一人が男に気付き、男の歩みを遮るように立 ちはだかる。 「ここは俺らの貸し切りだ、おっさん。失せな」 少年の言葉に男はしばらく沈黙していたが、不意に 「……初雪か」 そう漏らした。 少年は怪訝な顔をして空を仰ぐ。しかし、空は雲におおわれてい るものの、雪がふる気配はない。 「あ? 雪なんか降って――」 言葉を途中で切るように男の拳が飛び、少年の鳩尾をとらえた。 少年は目を見開き、屈みこむような姿勢のまま地面に倒れ、痛みに 悶える。 「この野郎!」 ほかの少年たちは逆上し、男に襲いかかってきた。 「……これは罪」 男はそう呟き、すこし口元を歪めた。 数分後、男は左手を横腹にあてて、ビルを背に地面に座りこんで いた。 勝負は一瞬だった。 少年たちは逃げ去った。女は男の傍へとやって来てしきりに礼を 言っていたが、いくら話しかけても男が無反応だったので、やがて どこかへと消えた。 「これは罰……くっ、くくっ」 男は嗚咽するかのように低く笑い、腕で右ひざを抱え込んだ。そ して、うなだれるようにこうべを垂れる。 曇った空から小さい空き地へと、ひとひらの雪が舞い降りた。 男は静かにその瞳を閉じる。
『求人求ム。 女性限定。16〜25才。 p.m8:00〜。時間の融通が、きく方。 なお、なるべく好奇心と言うものを持ち合わせていない方 時給相談。履歴書不要。面接のみで判断。 電話→0120−45678910 』 私は失業中だった。もう少し厳密に言うと、もう1ヵ月位仕事は疎 か、何もしなかった。 生きる事に不可欠な事柄以外。本当に何もしなかった。 それでも私は、1ヵ月程生きていた。 生きる事に不可欠な事柄以外せずに。 ......そんな事を考えながら、また1週間たった。 これで1ヵ月と1週間も、もった。と思った矢先の事だった。 新聞ハ読ンデイタ。 ソレが、災いヲ読(呼)ンダのかハ、分カらナイ。 ただ、 私は、『なるべく好奇心と言うものを持ち合わせていない方』の言 葉にひどく惹かれた。そしてその他の不信感は、驚くほど 頭に入らなかった。気付くべきだったのに。 それが、好奇心だという事を。 私はさっそく、当たり前の様に電話をし、面接をする事になった。 そこは何かを必死で補ってる様な、閉校させられた小学校だった。 5−3。3階で1番の暗闇の教室を示していた。 例え不穏な空気で包まれていたとしても今の私の(好奇心)に 敵うものでは、なかった。 知りたかった。その先に何があるのか。(好奇心) きっとそれは、私を変えてくれるものであるとさえ考えていた。 いや、そう崇拝していた。 生きていても、何もしないという事は、文字通りの意味しか持たな い。好奇心を持っていないものなどないと思った。でも私は、 持っていない。何もしていないのだから。 私は。 だから、この条件にあうのは、私だけだと確信していた。 男ハ教卓の近くに、昔からそこにある物の様に、立っていた。 p.m8:00。今にも凍え死にしそうな月が、そこにはいた。 そんな夜。 男の独断と性的興奮を高めるにしかすぎない面接が実行された。 ナイフが。 溢れだしてきタ。 男のそれは、再起不能な歓喜に満ちていた。 「僕はネ、こんな所にノコノコやって来る女は嫌いでネ。知的好奇 心?ソ−だネ知りたいっていう願望は一番効くんダヨ。デも、 知りたいンなラ、もっと新聞を読むべきだったネ。知らナイ? 今巷で流行ってる......」.....ニヤニヤ アア。生きる事ダケを見てればよかっタ。何をしなく テモ 生 き テ 男は。インポテンツの様だった。 でもそんな事は、私の知りたかった(好奇心)事柄ではない。
A「ミーム」 B「……ゲ」 A「ミーム」 B「……ブ」 A「……」 B「……」 A「ミ」 B「……」 A「ミ」 B「シ?」 A「ミ」 B「キ?」 A「ミ!」 B「ミ?」 A「ミ! ミ!」 B「ミ?」 A「ミ、ミ、ミ!」 B「……ミ、ミ、ミ!」 A「ミー、ミー、ミー!」 B「ミー、ミー、ミー!」 A「ミー!」 B「ミー!」 A「ム!」 B「ミー!」 A「……」 B「……」 A「ム」 B「……」 A「ム」 B「グ?」 A「……ム!」 B「ム?」 A「ム! ム!」 B「ム?」 A「ム!!!!!」 B「ム!」 A「ム!! ム!」 B「ム、ム」 A「ムー! ムー! ムー! ムー!」 B「ムー! ムー! ムー! ムー!」 A「ムー! ムー! ムー! ムー!!」 B「ムー! ムー! ムー! ムー!!」 A「ム?」 B「ムム?」 A「ムー」 B「ムー?」 A「ムー」 B「ムー、ムー」 A「ムー、ムー」 B「ムー、ムー」 A「ミー、ミー、ミー」 B「ムー、……ミー、ミー、ミー」 A「ミー、ミー、ミー!!」 B「ミー、ミー、ミー!!」 A「ミー、ム」 B「ミー……??」 A「ミー」 B「ミー」 A「ム」 B「グ」 A「……」 B「……」 A「ミー」 B「ミー」 A「ム」 B「……ム?」 A「ム!」 B「ム!」 A「ミー」 B「ミー」 A「ム!」 B「ム!」 A「ミー、ム」 B「ミー、…ム」 A「ミー、ム」 B「ミー、ム?」 A「ミーム!」 B「ミ、ミ、ミー……ミーム!」 A「ミーム!」 B「ミーム!」 A「ミーム!」 B「ミーム!」 A「ミーム! ミーム! ミーム!」 B「ミーム! ミーム! ミーム!」 A「……」 B「……」 A「……」 B「ミーム!」 A「ミーム」 * 「ときどき思うんだ」 「なにを?」 「もしコトバのない世界に生まれたら、僕たちは出会えなかったの かも知れないって……、そう思わないか」 「まさか、出会えるよ」 「ホントに?」 「ホント」 「でも、コトバがないんだよ」 「作ればいいじゃん」 「え?」 「作ればいいじゃん。コトバでもなんでも」 「そんなことできるかなあ」 「出来るよ」 「そうかなあ?」 「出来るって」 「どうやって作るんだよ?」 「んー、わたしが声を出すから真似すればいいよ」 「ふーん」 「ミーム」 「え?」 「真似しなよほら」 「なんだよミームって」 「いいじゃん。ほら真似して。ミーム」 「わけわかんないなあ」 「いいから、ほら、ミーム!」 「ミーム!」 「ミー!」 「ミー!」 「アハハ、おっかしい」 「……あのさあ」 「なに?」 「コトバなんてホントは……いらないのかも、しれないな」
真っ白い建物で三階建て。夏の天気の良い日、遠くから見ると、 青い空と実にマッチしていた。入道雲があるともっといいかもしれ ない。 僕らの学校は高台にあった。景色をさえぎるものは何もない。遠 くまで見ることができるんだ。 夏の夜、こっそり高台に上がると、遠くで行われている花火大会 を確認することができる。遠すぎて打ち上げられる花火の音は僕ら の耳には届かない。 一瞬で消えてしまう色鮮やかな花びら。 僕らは花火を見つめながら言った。 「おっ、上がった。ヒューッ、ドッカーン。」 もちろん花火には、僕らの声は聞こえていなかったと思う。でも、 こっちからは見えていたんだ。おそらくパッと消える瞬間に、僕ら が見ていたことに気づいてくれたと思う。 きっと。 冬の夕方、西日に照らされている学校は実に格好良かった。東の 空にまん丸のお月様があるともっと良いかもしれない。 こっそり屋上に上がると遠くの白い山々を見ることができる。小 さくだけれど。遠すぎて山の寒さは僕らの肌には届かない。 真っ白な雪肌。 先生は、白い雪山を見ながら言った。 「この学校はスゴイね。筑波山だけでなくあんな遠くの山まで見え るんだね」 その年にこの学校へ来たばかりの先生には珍しかったかもしれな い。でも僕らは、一年生の頃から見慣れていた景色だったので、ち っとも驚くことではなかった。 春に高台の下から校舎を見上げると、斜面の芝の緑が、一層その 白さを引き立てた。 写生会になるとみんな高台を降りて下のグランドから、緑の芝、 青い空、白い校舎をいろいろな角度から自由に描いた。 夢中で真っ白い校舎を見続けたんだ。 きっと真っ白い校舎は、細かいところをたくさん見られて恥ずか しかったと思う。 秋になると斜面の緑色の芝は次第に色あせてくる。そんな季節は、 赤トンボが斜面の主役になるんだ。 土曜の午後、高台の下のグランドでよく野球をやった。斜面が赤 トンボであふれる中、僕らはボールを追っかけた。山口先生のノッ クのボールは、真っ白い校舎と重なるほど高く飛ぶ。そして、赤ト ンボは斜面を自由に飛び回る。 真っ白い校舎で三階建て。 僕らは六年間、その校舎で学んだ。卒業する時、斜面の一角にタ イムカプセルを埋めたんだ。そこから見上げる真っ白い校舎は、も のすごく大きかった。 作文、写生会の絵、みんなで撮った写真。 僕らが50歳になったとき、それを開けることになっている。
「へえ、これが世界最強の衝突安全ボディか」 四谷京作は、車の白いボディを押してみる。 「お気に召しましたでしょうか?」 明らかな営業スマイルを浮かべ、ディーラーはカタログを手渡し た。 「この『ゴリアテ』は、乗員の安全を第一に考えて設計されていま す」 「見た目は確かに頑丈そうだなぁ」 「はい。圧縮鋼を使用したキャビンは、従来の車両と比べて強度が 七倍です。更に、衝撃吸収シートと全面エアバックで、乗員は完璧 に守られます」 「ふーん」 四谷がカタログの仕様の欄を見ると、『安全基準』の項目にAが 七つ並んでいた。 「えーと、Aが七つってことは――」 「最大法定速度――つまり、時速八〇キロでの正面、側面、背面、 オフセット衝突、その全てにおいて乗員が軽傷すらも負わない安全 性能ですよ」 「大したもんだなぁ……でも、ガードレールが突き刺さる、なんて 事故もあるそうだけど?」 「車体内部に戦車の跳弾構造を模したセラミック骨材が仕込まれて いますので、よほどの事がない限り、乗員に突き刺さることはあり ません」 「なるほど」 車のドアを開け、四谷はシートに座ってみる。 外見よりも内部は少々狭めだが、それがかえって重厚で堅牢な印 象を与える。 「思ったより、座り心地のいい椅子だなぁ」 「はい。シートの衝撃吸収素材『アバドン』は、事故の衝撃吸収だ けでなく、座る際の腰の負担も軽減します」 「ほお」 四谷は四点式シートベルトを締める。衝突時には、両肩を押さえ てくれるのがよく分かる。無論、緊急時のベルトカッターも用意さ れていた。 「ぶつけてみたいな」 「それはご勘弁を」 「冗談、冗談」 ハンドルをぽん、と叩く。 「確かに、ドライバーの安全を第一に考えた素晴らしい車だ」 「はい、ゴリアテに乗っている限り、事故死も怪我も、あり得ませ ん。これが、二十一世紀の車の形ですよ。単なる移動手段で死や怪 我のリスクに怯えるなんて、ばかばかしい話ですからね」 「うん」 四谷はディーラに頷いた。 「買わせて貰おう。ちょっと高いが、安全のためなら安いもんだ」 「あれ? 四谷はどうした?」 会社の同僚が空のデスクを不思議そうに見る。 「自動車事故で病院です」 パソコンを操作しながら、OLは素気なく答える。 「ええっ? け、怪我は重いのか!?」 「四谷さんは全く無傷だったけど、轢かれた歩行者が重傷ですって よ」
「これが殺人シミュレーター」です、と男は言った。ヒロシの目の 前にあるのは、何本ものコードが接続されているゴーグルや手袋だ った。いかにもよくありそうなバーチャルリアリティの機械と言っ たところだ。 「では早速始めましょうか」ヒロシは男の指示に従ってゴーグルや 手袋をはめ、真っ暗な部屋の中に入った。ヒロシがつけた機器類は 少し重かったが、電源が入るとそんなことは全く気にならなくなっ た。あまりにも現実そっくりの映像が映し出されていたからだ。 「場所の設定はどこにしましょうか? 学校、大都会、オフィスな ど、いろいろありますが…」 「じゃあ学校がいい」 すぐに学校の映像が映し出された。どの学校にもある平凡な教室 の中だ。どうやら授業中らしい。50代ぐらい禿げた教師が、国語 を教えている。ヒロシは1番後ろの席に座っていた。 ヒロシはいきなり立ちあがり、隣に座っていた男子生徒を刺した。 ブスッ…。手にしたナイフが生徒の腹に突き刺さり、恐怖で歪んだ 表情をして床に倒れた。女子生徒の悲鳴が聞こえてきた。ヒロシは 興奮した。みんなが自分を恐れ、注目している。お前らの命はオレ が握っているんだ…。 止めに入った教師や男子生徒を次々と刺し、逃げようとする女子 生徒も容赦無く刺した。 ハァハァ… 「どうでしたか。殺人シミュレーターは?」 「凄いシミュレーターだ…」 「そうでしょう。我が社が全力を上げて開発したものですから…」 「でも、何か物足りない。所詮バーチャルなものはやっぱりバーチ ャルなんですよ…」 「でしたらもっと現実的な体験ができるゲームがありますが…」 ヒロシは隣の部屋へ連れていかれた。何も無い部屋の中に、一人 の少年がいた。年齢は同じくらい。無表情な顔をしている。 「何のゲームだ?」ヒロシが男に尋ねようとした瞬間、突然ドアが 閉められ、カギがかけられた。と同時に、その無表情な少年は、ポ ケットからナイフを取り出した。 「お、おい、どういうことだ? や、やめろよ。オレは何も持って ないんだぞ。卑怯じゃないか」少年は何も言わずに近づいて来くる と、まるでロボットのように何のためらいも無くナイフを突き出し た。 「うぁ…」ヒロシは倒れた。激しい痛みと共に意識が遠のいていく。 「オレ…は…死にたく…ない…」薄れていく意識の中で、ヒロシが 見たものは、彼の血で染まったナイフを持った、ヒロシ自身だった。
今日も子供たちがやってきて、金網越しに僕を見る。期待に満ち た顔が一瞬で驚きの表情に変わる。いつものことだ。子供は正直で、 そして残酷だ。その後の落胆を隠しもせずに、不満を口にし、ある いは泣き出しそうになりながら去って行く。チガウ、アンナノジャ ナイ。若いカップルが僕の姿を笑う。ヤダ、ナニコレ? それらが蔑みの言葉だということは、長い年月を経て理解できる ようになってしまった。いつだって僕は彼らに失望しか与えること ができない。最初の頃は傷つきもしたけれど、今はもう、すっかり 慣れてしまった。 遠い昔、ずっと昔、海に棲んでいた頃、僕の側には家族が居て、 仲間が居て、可愛い恋人も居た。僕は海面近くをのんびりと泳ぐの が好きだった。太陽の光で暖められた海水は僕の身体をやさしく包 んだ。 ここに連れてこられた前後の記憶ははっきりしない。気がつくと 僕はこの、巨大な温室の一角にある小さなプールに居た。大きな僕 の身体にはあまりにも狭すぎる海。それでも泳ぎを忘れないよう、 一日に何度も往復するのが日課となった。いつの日か、大海へ戻る 日のために。けれど、そんな日は永遠にやってこないことを、いつ しか僕は悟った。最近はプールを一往復するのも億劫になってしま った。身体がやけに重い。うっかりすると意識を失いかける。 またカップルがやってきた。ワア、マダイキテタンダ。そう言っ た女性の顔に、微かに見覚えがあった。誰だろう。前にも来たこと があるんだろうか。いや、ここのところ記憶もあやふやだから、勘 違いかもしれない。まあ、いい。考えるもの疲れた。眠ってしまお うかと思ったけれど、その前に女性の顔を確かめる。彼女は楽しそ うに微笑んでいた。それを見て、僕の心も和んだ。ここへ来て初め て僕は幸せな気分になり、そっと眼を閉じた。 眼瞼の裏にママの姿が浮かんだ。恋人の顔も見えた。僕は陽の射 し込む大海原で、仲間たちと戯れながら、ゆったりと泳ぎ始めた。 「ねえあなた、この前実家に帰った時、近くの植物園に行ったでし ょ。あそこのジュゴン、死んだんですって」 「ああ、君が子供の頃、人魚が来たって聞いて一番乗りで見に行っ たら、あんまり想像と違うんで、すごいショック受けたってやつね」 「かわいそうに」 「二十年以上も前だろう。長生きの方なのかな?」 「さあ」 あの時泣き出した私を宥めた母の言葉が甦る。 よく見てごらん。生き物はみんな、美しいんだから。
あるとき、世界各国の『1』による会議が開かれた。会議といっ ても、愚痴の言い合いに終始するという、いたってくだらないもの であった。 他を制してまず口を開いたのはアメリカの1であった。 「まったく失礼するぜ。俺の名前は、あんた、犬の鳴き声じゃない か。ただ吠えるだけで、むこうさん、芸になりやがる。 『2−1=?』『ワン!』 本当は違うのだ。あんた、分かってくれよ、犬の、あの下劣な鳴 き声などと一緒にされるこの気持ちを。あんなのと一緒にされるの は俺のプライドが許さないのだ。頼むから、もう勘弁してくれ」 「おまえさんはまだいいさ。俺なんかは、なんてったってギャグと 一緒だ。そのうえおまえさんほど名を知られているというわけでも ない。分かるかい、それがどういうことか。俺の運命は、今後ずっ とそのギャグとともにあるということさ。 『読み方は、アインです。いや、違う違う。イとンの間をのばした らギャグになっちゃうでしょう』 ちぇっ。2のやつは、なんだかかっこいいのによう。なんてった ってツヴァイだよ。『ヴァ』だ『ヴァ』」 これは、いつでも赤ら顔のドイツの1の言葉である。 つづいては、言葉にくせのある中国の1。 「私アタマにきてるアル。なにがってアナタたち分かってるアルで しょう。そんなにニヤニヤして、私怒るアルよ。それとも本当に知 らないアルか。なら言うアル。私1のくせに、「アル」ばっかり言っ てるアル。それが頭にきてるアルね。自分で自分を許せないアルよ。 ……まだ分からないアルか。私の名前「イー」、2の名前「アル」 いうアルよ。嗚呼、つくづく嫌になってくるアル」 「皆さん大変なんですね。それに比べると、僕の悩みなんて全然た いしたことはないのですが……。まあ順番ですので言わせていただ きます。私のは、字面ですね。「いち」ですよ。見栄えの悪いこと このうえない。ONEさんなんて、なんだかこじゃれてていいじゃ ないですか。EINEさんはなんだか気品が感じられるし、一さん には一本筋の通った力強さがあるし……と、この程度でした。すい ません、すいません、くだらないことなんです。お願いですから怒 らないでください」 トリをつとめた日本の煮え切らない態度が災いして、会議は自然、 シリキレトンボ。甚だ歯切れの悪い幕切れになったとかならないと か。第一、こんな集まりを会議というのかどうか……いや、そもそ も、こんな会議、あったのかどうかすら……
また途中で寝られちゃった。 あたしは彼の小芋みたいなお肉を見下ろす。のったりと呑気そう にしちゃって。 人の気も知らないで。頭来る。まったくもう! 噛んでやる! 「いてっ、いってえよお」 吃驚して、あたしは慌てて口からそいつを出して彼の顔を見上げ た。だけど寝息が聞こえるだけ。まさか。 「お嬢さんね、乱暴はよくないよ」 喋ってるのはそいつだった。 「ほんっと嫌われるよ。できればこの前みたいのがいいんだけど。 ソフトクリーム舐めるみたいにぺろぺろって。あれ最高よかった。 ちょっと腕っていうかお口がにぶ……」 「うるさい」 あたしはそいつの首根っこを掴んだ。 「あんたねえ、ちょっと、そんなお喋りする元気があるんだったら、 もっと他のことに気を遣えないの?」 そいつはぽかんと小さな口をあけて、あたしを見上げる。ああも う、馬鹿にして。 「あのねえ、たまあによ。たまにしか会えないのに、何なのよ、こ のざまは」 「あは、すみません。まあその、ちょっと中だるみっていうか飽き ちゃったっていうか」 「何ですって」 「あ、いえいえ、ちょっと疲れ気味で。その気はあるんだけど、う ーん、気持ちに体が追いつかないっていうのかなあ」 「何よ」 あたしはそいつの首根っこをぎゅっと握りしめた。ぐえっと小さ な口が湿っぽい息を吐く。ちょっと気の毒になって、あたしは手の 力を緩める。 「ああもう、乱暴なんだからあ。減点減点」 そいつは首を左右に軽く振りながら、小さく叫ぶ。 「何よ、減点って」 「何って、もうお役に立てないってことだよ、お嬢さんの。へへん だ」 何よこいつ! かまうものか。もう思いっきりぎゅっとぎゅっと。 「ああああ、そおいうう感じかなああ。いいねえ、その力の兼ね合 いい」 え、このくらい? 思わずあたしは力を加減する。 「なあんちゃって。そおんな簡単にいけば苦労しないんだもんねえ」 「……」 やっぱり噛むしかない。あたしはじっとそいつを睨みつけてから 大きく口をあけた。 「お嬢さんっ。待って」 「だめ」 「あ、お嬢さん。歯並びきれい」 「関係ない。そんなこと」 「よかったね、矯正して」 「え」 「してたじゃん、きょーせい。ね、大成功」 「してないよ、矯正なんか」 「え」 あたしたちは暫く見つめあう。何だかあたしは泣けてくる。ああ 何よ、ぺろぺろって。ソフトクリームって。 涙をぽろぽろ零しながら、あたしはそいつを口に含んだ。ごめん ね、と口の中でそいつは言った。
見えない手でさあと撫でられるように、草の波が渡っている。葦 に似ている植物は皆同じ背丈をして、胸のあたりで擦れあっていた。 その中をかきわけて、ゆっくりと歩いていく。手もつながず、並 ぼうともせずに。背の高い白いポロシャツの後姿を見ながら、わた しは脳裏に描いたものを、セル画のように風景に重ねていた。 目に染みるような黄色い色が、首をすっと伸ばした優美な姿が、 草原を横切っていく。あまりに鮮やかに見えて、わたしは立ち止ま った。 彼が振り返って何かを言った。笑っている口元しか、視界に入ら ない。 確信しながら訊いていた。 「いまの、見えた……?」 そんな夢を見た朝、わたしは会社を休んで、いつもと反対の電車 に乗った。ラフな格好は変装の域で、一人でおかしかった。 下り電車は空いていた。 この電車に乗っていた学生時代、彼はサークルの先輩だった。一 篇だけ、部の冊子に載っていた彼の童話を読んだ。 キリンの出てくる話だった。美しい話だったけれど、全体が淡く、 つかみ所がなかった。文章が話の内容と相容れないで、冷たい感じ がした。 わたしはそれを伝えるべきか迷った。 別の先輩が、耳打ちするように教えてくれた。「あいつはもっと、 なんていうのかな。どろどろのぐちゃぐちゃ、書かせたら上手いん だよ」 改札を出ると、立体交差点が目に入る。 あの頃はまだ何もなかった。開発途中で、区画整理のための金属 板が迷路のように立ちはだかっていた。工事が始まるまではという 行政の計らいらしく、手付かずの緑が敷地を埋めていた。彼と一緒 に歩いた、光景は消えていた。 (夢の中だけ) わたしはふらふらと歩いてまわった。自己満足だとわかっていた。 通学の電車で、寝不足のせいか日差しが辛かった。ふと目をあげ ると、真鍮の棒にもたれるようにして先輩がいた。わずかに顰めら れた顔は、心配されているようにも嫌悪されているようにも見えた。 わたしたちは乗り継ぎの駅で降りなかった。終点までいって、定 期券で乗り越し清算をして外へ出た。 「先輩」 呼びかけに振り返る。 そうだ。笑った口元は、あのときの記憶。 「先輩のことが好きです」 「ありがとう」 長くは続かなかった。 責められるべきはわたしの愚鈍さ。わかっていたのに、わからな かった。 「優しい話が書きたかった」と先輩。先輩はもういない。
夕子はスカートの中にきちんと両膝を折り込み、夕日の落ちかけ た荒川河川敷の土手に座っていた。双眼鏡を目にあてると千住新橋 の下を抜けた片桐の白衣姿が視界に入る。予定通りにも関わらず、 あっと声が漏れる。手を振りたくなるが、夕子はそれをぐっと押さ え付ける。感情を無理遣り押さえ付けると、どうして体がこんなに 熱くなるんだろう。彼女は折り畳んだ両足にぎゅっと力を入れ、湧 き上がってくる熱い波をようやく押し止めた。 サドルが刺激する。長年の試行錯誤によって、千住新橋から西新 井橋に向かう河川敷の路面が最も自分に適した刺激を与えてくれる ことを片桐は知っていた。その時々の路面の乾き具合、うねり具合 から自分がどのような力をペダルに与え、その結果どのような刺激 がサドルから与えられるかを熟知していた。 夕子は双眼鏡で片桐の目を追った。自転車を漕いでいる男の全体 像は、紛れもなく教壇の上に見る片桐の姿だった。いいかい、野島 くん、これがフレミング左手の法則だよ。カーテンの閉ざされた理 科準備室で彼女の熱い波を導き出している最中でさえ、片桐の目は 教壇で見るそれと何ら変わりがないように夕子には思えた。 しかし、自転車を漕ぐ片桐の目は明らかに常ならぬ熱を帯びてい た。涼しげな走法がより一層その熱を際立たせている。夕子の半開 きになった口から吐息が漏れる。双眼鏡を支えていた片方の手が静 かにそこを離れ、躊躇いがちにスカートの中へ入っていった。 やがてサッカーグラウンドの手前で自転車は停まった。片桐が壊 れ物を背負うような姿勢で土手を上がってくる。夕子は双眼鏡を外 し、スカートの中にあった手でぎゅっと草を握り締めた。片桐が夕 子の前に立ちはだかる。 「野島くん、ほら」と言って片桐は白衣の前を広げる。 夕子はその固く隆起した場所に目を奪われ、声が出ない。 「ね、ちゃんと」言いながら腰を突き出すと、彼の頂が鋭さを増す。 「触ってみたまえ」 夕子の右手が草を離れ、白衣を伝い、吸い込まれるようにその場 所に辿り着く。 「先生、疑ったりして御免なさい」 ようやく言葉を絞り出すと、彼女はきっぱりとそこに頬を寄せる。 片桐は満足そうに頷き、白衣で彼女の頭を覆った。 「いいかい、野島くん。きちんと条件さえ揃えばエネルギーは生じ るのだ」 それは教壇で発せられる物理教師の声に相違なかった。夕子は熱 い波をとろとろ溢しながら、その言葉を心のノートに書き留めた。
「お安い御用だ。おまえの望みを叶えてやろう!」 魔王は呪文を唱えると、卑屈な笑顔を浮かべて煙と共に消えて行 った。 しかしそれから1年経った今も、私の生活は変わらない。相変わ らず、家から会社までの通勤に1時間を費やしている。営業成績が 飛躍的に上がったわけでもなく、新しく女が出来たわけでもない。 ましてや宝くじが当たるなんていう事もなかった。地方から上京し て木造アパートに一人暮し。この生活を10年近く続けている。何 も変わらない単調な生活。 時々、あれは夢だったのではないかと思う時があるのだが、調べ る術はない。私の望みは魔王に理解されなかったのだろうか。 だが彼が28.7歳になった時、社内の隣の席にいた女と結婚し、 翌年1人の男の子を授かった。その子は人並みに成長し、反抗期を 迎えて成人した。やがて男の子も恋をして結婚し、2人の子供を授 かった。彼にとっては2人の孫が出来たのである。 彼はその後も波瀾万丈とは無縁な普通の生涯を送り、癌により病 院のベットで死んで行った。84.7歳だった。 彼は、死ぬ何年も前から望みは叶えられたと感じていた。しかし それが魔王の仕業かどうかは分からなかった。 私はひょんな事から、手下のコウモリを助けたお礼とやらで、願 いを一つだけ叶えてやるという魔王の前に立っていた。 「さぁ人間よ。おまえの望みは一体なんだ! 」 私は知っている。今まで読んだ物語の中でこの質問を受けた者達 が、望みを叶えてもらえなかった事を。彼等は口を滑らしたり欲張 ったりして、魔王を怒らせ呆れさせたのだ。 そのため、折角のチャンスを台無しにした。しかし私は、この質問 に対しての答えを、子供の頃から用意していた。ただ一言こう言え ばいいのだ。 それを言えば金も女も地位も名誉も手に入れる事が出来、素晴ら しい人生を送れるだろう。 「さぁ言ってみろ!おまえの望みとやらを! 」 「魔王よ。私を幸せにしてくれ!」
(退屈だなあ) と、もっくんは思った。それはヤバイ事だった。 (腹へったなあ) もっくんは、生まれて半月の幼いくもである。かわいい巣を張り、 住んでいる。最初の一週間で、体が倍に成長したのが自慢だった。 それでも傍目には、巣にくっついたゴミみたいなものだった。 ここ数日、彼は巣網の上で、やたらに青い五月の空ばかり眺めて いた。「客」はなかった。 (何かしないとなあ) と言っても、彼の仕事は待つ事ばかりである。 嘆息して視線を落とすと、下ではアリたちが忙しそうに立ち回っ ている。彼らは葉っぱとか草の実とかを抱えては、右へ左へ走り回 り、たまに止まったと思ったら、油虫の尻をぱこぱこ叩いたり、仲 間とわけ知り顔で話しこんではまた走り出すのだった。 (やっぱりあれが普通なんだよなあ) 網のメンテでもしよう、と体を動かした時、重い振動が巣を揺す った。 「客だ〜」 もっくんは勇んで飛び出した。 ハエだった。 ただ、もっくんより十倍はデカかった。もっくんは息を飲んだが、 ここで引き返すわけにも行かぬ。思い切って叫んだ。 「やぁやぁ〜我こそは相模国にその名も知れた姫黄金蜘蛛が長子、 もっくんナリ〜! いざ尋常に――」 「五月蠅い!」 ハエは紅い複眼で睨むと、ぶぃんと羽を震わせた。ついていた糸 が消し飛び、もっくんの網は大きく傾いた。「きゃ〜」 「おぅ、ようも散歩の邪魔ぁしてくれたのぅ! わしゃ越年モノじ ゃ、きのう冬眠を終えて娑婆に戻ったばかりよ! 驚いたか」 今頃まで寝てる虫などいるか。もっくんはそう思ったが、ハエの アウトローな面構えを見ていると、そんなロクでなしも実在しそう に思えてゾッとした。 下から歓声が飛ぶ。いつの間にかアリたちが集まり、ああだこう だと騒いでいた。おまえら実はヒマなんだなと、もっくんは知った。 (――網ももう、駄目だね) (――若造が、楽してうまく行くわけないね) (――地道が一番だよね) 実際はもっくんの方がよほど地道なのである。 「ガキ、覚悟じゃ」 「何だこの〜!」 戦いの結末は、誰も見る事は無かった。突然、気まぐれな春の突 風が、どおと吹き抜けたからである。 アリは必死に地面にしがみついた。ハエは舌打ちしながら、風を 横切って去った。 もっくんは――空にいた。一番に吹き飛ばされていた。彼は常に 先駆者である。望もうが望むまいが。 (ま、いいか) もっくんは糸を延ばして風に乗せた。 空はやたらと青かった。
ジミーがいつも立っていた角で、見知らぬ男が小銭をせびってい た。 ジミーというのは、年の頃60前後の、威勢のいい、話好きな「ス トリート・バム」である。 町の至る所に存在して、誰彼かまわず金をせびる「バム」達を煙 たがる人は多い。 だが、ジミーは他のバム達と一線も二線も画した存在だった。 まず、他のバムのように、哀れさを誘う作戦には出ない。 髪はいつも短く刈られ、冬場ともなれば「金はやるつもりがないの だ」と大学の「せんせい」が買ってくれたのだというコートを着込ん で得意げにしていた。 「バム」特有の、「小銭を分けて頂けませんか?」というセリフも、 彼の口からは出ない。 角に立って、信号待ちをしている通行人に話し掛けるのだ。 「よぉ、話し聞いてけよ。お前、メキシコ人か? ん?日本人か。コン ニチワだろう。知ってるぞ、日本人は気前がいいんだ。金回りがいい からな。いや、別に金をくれって言ってるんじゃないぞ。ただ、俺と 話して、飽きたら小銭をくれたらいい。そしたら話を止めて行かせて やるから」 ジミーは政治の話をするのが好きだった。 ちゃんとした教育を受けたのではないから、話のほとんどは受け売 りで、ところどころでは辻褄も合わず、最後はいつも「政府が悪い」 となるのが決まりだった。 それでも、ジミーが演説をぶつのに耳を傾けるのはなかなか面白く、 大学の政治科学部の連中とたまに行っては野次を飛ばしたり、あれこ れと説明してやったりしていた。 「まともな仕事を見つける気はないの?」 と聞いてみたことがある。 ジミーは鼻で笑って、 「こんな楽しい生活があるのに、どこかの机に縛りつけられて一日中 空も見上げずに仕事だなんて、誰がやりたいもんか」 と答えた。それから、忘れてなるものか、と言いたげに 「政府は生活保障に寛容だからな、俺みたいのが寄生虫よろしくくっ ついてけるんだ。馬鹿だよなぁ」 と付け加えていた。 そのジミーが縄張りを離れて、もう三ヶ月になる。 今までも、何処か別の場所に立ってみたことは何度もあるらしい。 その度に十何年も居座っている場所だから、と帰ってきていたのだ が、今回は帰ってこないような予感がした。 周りの人間も一様にそう感じているらしい。 誰も口に出してそう言いこそしないが、死んだのではないか、とみ んな思っていた。 それでも、ジミーのいた角に立って信号を待っていると、 「よぉ、話し聞いてけよ」 と、後ろから声がかかりそうな気がするのだけれど。
「なんで?」 人に三回以上そう聞くのは、失礼に当たるらしい。どこで知った か、判然としない。パゲ山が言っていたかもしれない。でも「学研」 で読んだ気もする。はっきりとしない。 なんで「なんで?」を繰り返してはいけないのか。それは相手が 必ず答えきれなくなるからだろう。なんでそうなるのか。知識は有 限で、「なんで?」は答を無限に弾き返し続けるからだろう。しか しなんでそんな仕組みになっているのか。 「うるしゃい!」 パゲ山ならそう叫ぶだろう。なにせつるつるしていたから。四季 折々の日差しを受け、曇れば曇ったなりに、雨降りの日は室内灯と 同じ色調で、彼の頭は常に輝いていた。つるつる。ぴかぴか。 「うるしゃい!」 パゲ山は夏休み明けに、産休の森田の代わりで来た。若ハゲ、サ 行の発音がおかしい、ということですぐに僕を含めたくそガキ共の 標的になった。ガキ共は何かにつけては 「なんで〜?」 「しョれは、XXXだからでしゅ」 「なんで『XXX』なの〜?」 「しゅ静かになさい」 「なんでなんで〜?」 「うるしゃい!」 いつもそうなった。ガキ共は彼を怒らせて楽しんだが、彼はイヤ だったのか、日増しに子供の目からもおかしな言動が増えた。それ でも彼のパゲ頭は、律儀に光り続けていた。ぴかぴか。 この光は?これは冬の光だ。くすんだ、いつもと同じ反射光。光 源へ放たれる言葉も同じ。僕は教室の引き戸の所に「げんき学級」 の奴が一人、いつの間にかいるのに気づいた。そいつもへらへら笑 いながら「なんでー?なんでー?」と叫んでいた。概ね、いつもと 同じ。しかし「げんき学級」にパゲ山は目を向けると、震え始めた。 「なんでー?」 「・・・フザケロ」 「なんでー?」 「なんで俺が貴様らみたいな・・・ふざけろ。 ふざけろよてめえら」 完璧な発音だった。「げんき学級」はなぜか彼の怒りが自分に向 けられているのに気付き、黙った。いや、もう皆黙っていた。鈍い 輝きが「げんき学級」へ歩み寄るのを、惚けたように見ていた。 「すすみません」 「ふざけろ」 「あの」 「ふざけろや」 「ぼくあの、ごめ」 「ふざけろ」 僕はそれを聞いて、自分がしていたことの意味が分かった気がし た。なるほど。そしてぼくは悲鳴をあげた。 「へひーー」 あほみたいな響きだった。 体育の増田がそれを聞いてやってきて、パゲ山を連れていった。 それで終わりだった。刺のような物を僕の心に残して、彼はそれ以 来学校から消えた。妙なことに、僕は彼の顔を覚えていない。 なんで? パゲだから、かな。
第14回作品受け付け───4月22日〜5月25日
作品発表──────── 6月1日〜
人気投票受付け───── 6月1日〜6月25日
結果発表──────── 6月30日
第14回1000字バトルチャンピオン
川辻晶美さん作『Welcome Home』に決定です。
川辻晶美さん、おめでとうございます!!
| 作品 | 票 |
|---|---|
| Welcome Home(川辻晶美) | 3 |
| 変身(杉原久郎) | 2 |
| 遅れ咲き(aoye) | 2 |
| 春風邪(うめぼし) | 2 |
| 角のジミーがいなくなった(Momo) | 1 |
| 雪は白く、空は青い。(池野諭) | 1 |
| 堕天使と雪(Default) | 1 |
| 魔法のぼうし(越冬こあら) | 1 |
| おかまのシゲルちゃん(鳳めぐみ) | 1 |
| ED(鮭二) | 1 |
| ちんぽくん(一之江) | 1 |
●Welcome Home(川辻晶美)
●変身(杉原久郎)
●遅れ咲き(aoye)
●春風邪(うめぼし)
●角のジミーがいなくなった(Momo)
●雪は白く、空は青い。(池野諭)
●堕天使と雪(Default)
●魔法のぼうし(越冬こあら)
●おかまのシゲルちゃん(鳳めぐみ)
●ED(鮭二)
●ちんぽくん(一之江)
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