第15回1000字小説バトル
Entry20
「夏休み前に心のケアを」という一枚の文書によって、夕子の勤 務時間が30分延長させられた。だいたい教員に悩みを打ち明けら れる子供に深刻な問題はない。夕子は西日の差し込む窓をカーテン で閉ざし、ベッドに腰をおろした。「素敵な奥さん」を眺めながら 脳味噌の半分で夕飯の献立を考え、残りの半分でヘルパーさんへの 言い訳を考える。 片桐は保健室のドアの隙間から、息を殺して夕子の姿を見つめて いた。足を組み直すたびに白衣の隙間から見え隠れする三角形の暗 がりにじりじりと胸を焦がしつつ、やはり彼も今夜のおかずのこと を考えていた。 しかし、夕子は視線に敏感な女だった。93年度ミス帝京文系ラ ウンド予選トーナメントを3回戦まで勝ち進んだことは彼女の胸に しっかりと刻み込まれていた。「素敵な奥さん」を伏せた時、夕子 の眼差しは養護教員のそれへと巧みにすり変わっていた。 「難しく考えちゃ、駄目よ」 片桐は促されるままベッドに横たわり、ズボンを脱いだ。 「その下も」その下も脱いだ。「リラックスしなさい」 片桐は詰襟のカラーをいじくりながら、熱い鼓動を抑え付けるよ うに目を閉じた。開演前のピアニストのように指を解しながら夕子 も目を閉じる。 「すべてを委ねなさい。感じたものを全部吐き出しなさい」 やわらかい生き物のように、夕子の指が片桐の起伏を滑らかに辿 っていく。ヘルパーが半日分の嫌味を言って帰った後、夕子は手際 よくそれを料理する。 「父親が」片桐は歯を食いしばり、第一次臨界点を乗り越える。「 大学なんか行かなくていいって」 彼のすべてが少しずつある一点に集まり始める。寝たきりの姑が 襖の向こうから何度も何度も咳払いをする。たまには二人っきりで 映画を観にいきたいと切実に思う。 「どうせお前は日本人じゃないんだからって」 もはや片桐には第二次臨界点を乗り越える自信がない。卑屈に笑 う父親の顔を思い浮べようとするが、それはすぐに尖り切った朝鮮 半島の図へとすり変わる。 「そんなこと知らないわ」 親戚から見舞いの電話がくるたびに、子供のことを聞かれる。医 者はどこもおかしくないと言って慈悲深く笑う。 やがて片桐は日本列島を飛び越え、太平洋上で爆発する。その飛 沫が夕子の白衣をわずかに擦り、「素敵な奥さん」を糊付けにした。 二人は目を開けて、停止した光景を巻き戻す。夕子は足を組み直し、 相談ノートに「7月10日 訪問者なし」と書き込んだ。
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