第15回1000字小説バトル
Entry21
潮風が髪をひとすじ頬になで付けた。景子は暫く迷った挙句に、 小さな声で「動いていい?」と訊ねた。 「いいよ」と低く穏やかな声が答えた。景子はふうっと体の力を抜 くと、首を少し傾げながら片手で髪をかきあげた。 「そんなに固くならなくていいのに」 笑いを含んだ声がそう嗜めるのに景子は視線をはずしたまま微笑 をもらして、また元のポーズに戻った。 「少し休もうか」 「ううん、大丈夫」 片手で軽く顎を支えて、風ではためくサマードレスの裾に視線を 合わせる。レモンイエローのたくさんのひまわりの絵が踊っていた。 なるべく女の子っぽい格好がいいな、と彼は注文した。そういう のを描いてみたいんだけどモデルがいなくて、男子校だからさ。い いよ、と気安く景子は返事をした。でもさ、きれいに描いてね。友 だちに自慢できるようなやつね。 日はまだ高く、海辺のマンションのベランダは暑かった。 姿勢をそのままに、目線だけを動かして海を眺める。水平線の青 い光を睨む。全身が視線で痛かった。木炭がキャンバス地を擦る音 がときに激しく、ときにゆるやかに聞こえてきた。 その音のリズムに耳を傾けながら、彼の手の動きを、視線の動き を、景子は水平線の彼方に思い描いた。 間近に見た彼の逞しい体にたじろいだときの胸の鼓動が、よみが えってくる。一枚のTシャツに覆われただけの上半身は、その筋肉 が描く微妙な起伏でさえも、まざまざと景子に見せつけた。短い袖 口からむき出しになった腕は驚くほど太かった。木炭が立てるかす れた音が、その太い腕、筋肉が自分を描いているのだということを 知らせる。鋭い視線が自分の全身を舐めていることを考える。景子 は息が詰まるような胸苦しさを覚えた。 木炭の音が止んだ。 「疲れたんじゃない?」 「平気」 「無理するなよ」 「平気だって。いいからちゃんと描いて」 自然に彼が苦笑を浮かべる様子が伝わってくる。音を立てずに細 い息を吐く。視線をサマードレスの裾に戻す。狂ったようにはため くひまわりたちを見つめる。 このまま気絶でもできたら、と思った。終わったよ、と言われる のがこわかった。どれほど苦痛な時間でも、再び目を合わせること の恐怖よりはずっとマシに思えた。 その瞬間を、景子は激しく恐れた。 日が少し陰った。ひまわりのレモンイエローが鈍く黒ずむ。 ああ、光が変わる、という男の低い呟きが聞こえてきた。潮の香 りにむせながら、景子は軽く目を閉じた。
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