第16回1000字小説バトル
Entry23
「わあ、今日は波が高いのね」 陽子は強い海風に遊ばれる長い髪を押さえながら笑っていた。 水平線の向こうには別の大陸がある。強い波涛によって深く抉ら れたこの崖の上で、僕と陽子は何度もその大陸をこの目で捉えよう とこの場所まで足を運んだ。しかしこの付近の天候は僕らに意地悪 で、きまって上空を鉛色のヴェールで覆ってしまっていた。 「きっと今日も、駄目みたいね」 陽子は崖の端から手前にある鉄柱と鎖だけの防護柵の前で、僕に 向かって叫んだ。僕は陽子がぼやけて見えるほど離れた場所に車を 停めて、ボディーに寄り掛かりながら煙草を吸っていた。潮風はそ れほど水分を含んでいなかったため、肌に心地良かった。 陽子から少し遠くの方で、数人の人々が崖の手前を歩いていた。 二人は子供達で、陽子と同じようにはしゃぎ回っていた。それを両 親と思われる二人の大人が眺めながら追うといった様子だった。 「私たち、この海に嫌われているのかしら」 何時の間にか駆け戻ってきた陽子は、僕の手から煙草とライター を取るとその一本に火をつけて深く吸い込んだ。 「私たちはこの場所が大好きなのにね」 僕は視線を彼女から水平線の方へ向けた。相変わらず遠くは深い ガスがかかっていて、全く消える気配はなかった。 そしてここは常に波が荒かった。しかしその割には、ここは船が 頻繁に往来した。今も漁船が何隻か見える。一度双眼鏡でこの漁船 の概観を確認した事があるが、私の知らない文字で何か書かれてい た。その時は別の、さらに見た事のない文字で書かれた灰色の船に 追いかけられている様子だったが。どちらもボートレースのように 素早かったのを覚えている。 「あ、海女さんだ」 陽子は崖を歩く家族の更に奥手を指した。ラバーでできたような 真っ黒なスーツに一つ目のゴーグルを着けた、確かに陽子が言うよ うに海女のような姿の者が数人、こちらの方に走って来るのが見え た。 「この下で何か採れるのかしら。雲丹とか鮑とか」 「陽子、そろそろ帰ろうか」 僕は半ばまで楽しんだ煙草を足元に落とすと、軽く踏んだ。 陽子はうなずくと、助手席の方に回った。 エンジンをかけてから数秒、僕が軽くステアリングを左に切った 時、辺りには誰も居なくなっていた。 「ああ、みんな帰るところだったんだ」 陽子は僕と同じ方向を見ると、事も無げにつぶやいた。 車が加速を始めた頃、一隻の船が水平線に向かって走っていた。
![]()
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。