インディーズバトルマガジン QBOOKS

第17回1000字小説バトル
Entry12

岐路

作者 : 紅緋蒼紫
Website : http://page.freett.com/circle_led/
文字数 : 999
 陽は落ち、空は鮮やかな紅から深い紫へと変わりつつある。
 杉の古木に囲まれた墓地は、すでに闇に沈んでいたが、奥まった
一隅に灯火が見えた。小さな蝋燭の火に、やつれた男の横顔が照ら
し出されている。整えられた髪には、幾筋か白いものが混じり、目
元には疲労の翳りが濃い。腰の大小は、今は無造作に傍らの地べた
に置かれ、彼は目前の、僅か二尺程の墓石に向けて一心に手を合わ
せている。
 5月下旬の、まだ冷たい風が枝を揺らし、潮騒の如き葉擦れの波
を寄せる。
「熈子……」
 男は妻の名を呼んだ。無論、応えがある訳も無い。
「熈子、わしはどうしたら良いのじゃ」
 咽喉の奥から絞り出したように震え、かすれた声。
「わしにはもう、上様のお考えが解らなくなってしまった。今の身
があるのは信長様のお陰であると判ってはいるのだが、この胸の奥
から込み上げて来るものを抑えることが出来ないのだ」
 妻の墓石にすがるようににじり寄る。高ぶる声は夜空へと吸い込
まれて消えて行った。
――光秀どの、我慢なされませ。
 その一言が、欲しかった。
 一人煩悶とすることに耐え切れず、忍んで城を抜け出して来たの
は、熈子の声を聴く為だった。妻のその一言さえあれば、何でも我
慢できる。これまでもそうだったのだ。きっと、これからもそのは
ずだ。熈子ならば、望む時に望む言葉を言ってくれるはずだ。
 だが。
 応えるのは風と虫の声のみ。
「熈子……返事をしてくれ。わしはどうしたら良いのだッ、教えて
くれ、教えてくれ……熈子ッ!」
 光秀は涙を拭おうともせず、小さな墓石を掻き抱いた。
 冷たく硬い石の感触だけがそこにあり、妻の柔らかな肌の温もり
は、どこにもなかった。

 西国で毛利家の軍勢と対峙している、秀吉への援軍として亀山城
を発った光秀率いる丹波の軍勢1万3千は、その日――天正10年
6月1日夜半、老の坂を経て京を見下ろす沓掛峠へと差し掛かった。
この峠を右に行けば、摂津国を抜けて西国へ、左へ向かえば桂川を
渡って京の都である。信長公が、僅か百名足らずの供回りのみで寄
宿する本能寺まで、ほんの一駆けの距離。
 光秀は、ぼんやりと月を眺めた。
 貧しい時分から、ずっと支えになってくれた妻、熈子の面影が浮
かんで見える。
――熈子……わしも、ようやくそなたのもとへ行けるぞ。
 全ての肩の荷が下りたような、光秀はそんな気分で軍配を掲げた。


――熈子、そっちへ着いたら、いつものように叱ってくれ……






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