第17回1000字小説バトル
Entry16
八月も残り一週間になった頃、夜中に街灯の灯りに虜にされてい る蝉を見た。 その日も残業をして十時半くらいに会社を出た。家は都心から一 時間以内にしては静かな住宅地のマンションで駅を下りてから十分 ちょっと歩く。タイミングが良かったこともあり相場よりずいぶん 安い値段で手に入れた。近所付き合いが難しいかと心配したが、そ んなことはない。むしろ親切にしてくれる。必要以上に。 六畳の部屋が二つに四畳半が一つ。狭くは感じなかったが十分な 広さではなかったかもしれない。「美由紀が大きくなったり、もう 一人生まれたりとかしたら部屋どうする?」としきりに心配してい た家内も、今では自分の部屋を持っている。大学時代に学んだ英語 を生かし細々とだが英語の翻訳の下請けをやっている。僕が仕事で 遅くなっても嫌な顔はしない。帰ったときにはまだ翻訳に夢中にな っていることも、よくある。 僕はその時間にはコンビニしか開いていない駅前の短い商店街を 抜け街路樹と街灯が並ぶ石畳の道を家に向かって歩く。 去年の今頃、この石畳の上で小学校二年生だった美由紀は眠りに ついた。熱射病によるものだと医者は言った。ランドセルを背負っ たまま炎天下の下で石畳にスーパーボールをバウンドさせて遊んで いる美由紀を近所の人が見たという。その日は僕は仕事で忙しく、 家内は入院していた僕の父親の見舞いにいってくれていた。家内が 「学校から帰ってお母さんがいなかったらこのカギを使ってお家に 入るのよ」と渡した家のカギはスカートのポケットに入ったままだ った。なぜ美由紀がそれを使わなかったか僕達にはもう分からない。 何となく違和感のある蝉の鳴声に気が付いて街灯を見上げた。蝉 は街灯の光に囚われその周りを旋回していた。それでなくても短い 七日間の命を削りながら。きっと蝉はそんなことを知りもしないの だろう。それが余りにも哀れで僕は植え込みの中から手頃な石を一 つ拾い上げた。街灯を割ってやろうと石を構え狙いを定めていると 眩しい光が目を突き涙が出てきた。石を投げると街灯は音をたてて 割れ辺りは暗くなった。蝉の鳴声も消えた。僕は近所の人たちが出 てくる前に足早にそこを去った。 そのあと蝉がどうなったかは分からない。上手くどこか林の中に 辿り着いたかもしれないし他の街灯の虜になってしまったかもしれ ない。 僕は玄関の前で蝉の声が聞こえないのを確かめて、家のドアを開 けた。
![]()
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。