第17回1000字小説バトル
Entry2
灰皿から立つ紫煙を小説家は死んだ女房のようだと思う。 よい女房だった。子供ができなかった。女房は生まれつき体が強 い方ではなかった。結婚してから床に臥すほうがおおかったと思う。 常に微熱があった。それでも若い芸術家達が集まると疲れた様子な ど微塵にも見せずよく世話をやいてくれた。遊びなさい、とよく言 った。そのくせ、わたくし以上のおんなはいませんと嫉妬した。あ なたはよい物書きになるわ、と檄を飛ばすときなど、きまって上向 きの鼻がひくひくと動いた。女房は自慢すると鼻をひくひくさせる くせがあった。結婚記念日や、誕生日に、なんでもよいからほしい ものをねだりなさいといっても、何もありませんと澄まして、売れ てから売れてからと可笑しげに、いそいそと洗濯物を畳む。いじら しかった。一度女学生からファンレターとも恋文ともしれぬものを 渡すように頼まれたときなど、おばさんって言ったのよ、信じられ ませんと一日機嫌が悪かった。その日の食事は焼き魚一品だけであ った。子供の話しはしなかった。私はほんとうによいと思っていた のだ。ある日、散策からもどると土臭い女が家にいた。訳を糾すと 女は奥さんに事を成すように頼まれたと言う、私には其の気がない ので追い返した。其の晩女房は帰ってこなかった。実家にでも戻っ ていたのだろう。私は何も言わなかった。女房の尋ねたそうな、そ わそわとした態度が可愛げであった。私が物書きとして文芸誌に名 前が連なるようになると、女房は淋しげであった。新しい家にでも 越そうかと訪ねると、この青臭い畳がよいのだと言い張った。なに も変わりはしないのに、何かが変わるとでも思ったのであろう。も う少し大きい家と思ったのだが、女房の凛として、辞さぬ態度に屈 服した。いよいよ駄目かというころ、わたくしは幸せでしたと微笑 んだ。私の目から二筋の雫が落ちた。泣かないで下さいと力なく合 わせる手に、私は居た堪れなくなった。私は妻の遺骨を鴨川に流し た。私たちが初めて出会った思い出の場である。 流れゆく灯かりがほっほと闇夜を照らす。 私は妻に別れを告げた。
![]()
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。