第17回1000字小説バトル
Entry26
それが意地と言われても、いい。 K先生は名簿のうえにチョークケースをのせると、一度伸びをし てから軽やかな足取りで教室へと向かった。これが塾で最後の授業 だとは、生徒たちは知らない。 きっと答えは出ない争いだった。校長は生徒数を増やすためにも っと宣伝を打つと言い、K先生は専属講師の数を増やすのを先にす るべきだと言った。 最終的に校長の意見が本部で採択された。他の校舎は生徒数が伸 び悩んでいたからだ。塾は、企業だった。 K先生は国語の名手だった。その授業がすでに「芸」の域に達し ているとは古株の先生は誰しもが認めた。僕も国語の講師だから、 よくわかった。文章解説のあのわかりやすさには、天性のものあっ たのだろう。 補習のない日はまずなかった。生徒の事情で、正規の授業のない 日でも、K先生は塾に来なければならなかった。それが責務だと信 じていた。自分の息子の出産日も、父親の死んだ日も、塾にいた。 それがいいわけはない、と、そのぐらいはわかっている人だった。 「それでも来なくちゃいけない。その一回の授業で、国語に目覚め るかもしれない。受験が人生のすべてじゃないよ。でも、少なくと も、塾というものは、それがすべてなんだ。ここは、中学校じゃな い」 その日、授業のある先生も、ない先生も、うちの校舎の先生はた いてい集まっていた。そして、時間を見つけては教室の前に行って、 壁や扉に耳を当てた。 前後半七十分ずつの、授業。すべてが予定通りと思わせるほど、 完璧な授業。けれども、最後の五分だけは、寄り道をして締めくく った。 授業が終わり、生徒もみんな帰ったところで、K先生に花束を渡 した。先生は、小さな身体全身で、照れていた。それから、少し淋 しげに、塾を去った。 ――あんなにがんばって尽くしても、やっぱり終わりって来るん だよな。 誰かが、言った。 僕は一人、教室に入った。いつもはきっちり黒板を消す先生なの に、最後の板書だけは、残っていた。 『愚公山を移す』 それだけ、書かれていた。――老人愚公が、周囲の嘲笑も省みず、 独り、通行に不便な山を移そうと、土を取り除け始めたのを見て、 皇帝が心を動かされて山を移すよう配下に命じた……。中国の故事 だ。 信念はある。後は、それを実行していくかどうかだ――最後に言 った先生の言葉だ。それが意地と言われても、いい。 皇帝の心は動かせなかったが、それでも僕は、黒板の前を、動け なかった。
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