第17回1000字小説バトル
Entry4
これは、振動音だ。 途切れない、空気の振動。 鼻や口から吸い込む空気が熱い。ちょうど見つけた木陰のベンチに 腰を下ろした。コンクリートが汗で湿ったズボンに冷たい。 蝉というのは、なかなか醜い虫だ。 多分あれは小学3年の夏だ。隣の靖子はあの頃クラスで男子を抑 えて腕相撲の頂点に立ったことを自慢にしていた。 多分あの日も暑い日だった、と思う。もう記憶の中の風景は、鮮 明さを失っているのだ。ただあの時の感触だけ、むやみにはっきり 覚えている。 「届く? やすこ」 「うん。…やっ」 靖子は小さい体をひゅ、と伸ばしたかと思うと、日に焼けた手が無 造作に蝉をつかんだ。 ジジッ 今まで大気を占めていた音が、ひとつ減った。それで今までそれ が発していた音の存在に気づく。 「ほら、ぱっと取るんだよ、ぱっ、て。次しゅうちゃんね」 僕はまごついた。それを見た靖子は得意な表情を浮かべ、 「大丈夫、怖くないの。ほら」 と靖子は蝉をつかんだ手を僕の顔のほうに伸ばした。僕は少し悔し くて、動揺を靖子に見せないよう、蝉から目をそらして身を引いた。 「ばっかじゃねーの、怖くないってんだよ」 靖子は少しむっとして、あっそう、じゃあ取ってみてよ、と不機嫌 な声で言って隣の木に見える蝉を指差した。 僕は、後ろの靖子の視線を気にしつつ、茶色と黒のまだらの虫に 恐る恐る歩み寄る。桜の薄い葉が肩のあたりでかさと鳴った。 蝉のがなり声は、傍によると一層大きくなった。虫は、動かない。 心臓の鼓動がひどく速い。 僕は、体を固くして目を細めながら、えいっと一息に手を突き出 して蝉をつかんだ。 ジ ジジッ 手のひらに伝わる強い振動。僕は驚いて思わず手の握りをゆるめた。 バチバチッ 心臓がどんと鳴った。手の中で蝉が、羽をばたつかせている。固い 羽が手のひらをばちばちとたたく。とがった足が刺さる。止まない ジジ、という振動。 ひ、と息を飲んで思わず手を開くと、ぱん、というひと叩きを最 後に、虫はびび、と飛び立った。心臓が早鐘のように鳴っていた。 「あーあしょうがないなーしゅうちゃんはー」 というやはり得意げな声が背中から聞こえた。 「ごめん、バイト長引いちゃって。待った? 」 顔を上げると、綺麗な藤色のスカートで、靖子が笑った。随分かか との細いサンダルが、かつ、と鳴る。 「はあ、あっついねえ」 「お前、まだ蝉、取れる?」 は?と靖子はきょとんとした。いや、と僕は笑った。 振動音が、聞こえる。
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