| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 死ぬ悲しみ | keii | - |
| 2 | 鴨川にて | 泉原 豊 | 712 |
| 3 | 蒼い空 | 湖東一井 | 979.5 |
| 4 | 蝉 | 高坂尚志 | 1000 |
| 5 | ウルトラマンの懺悔 | 松拳 | 997 |
| 6 | 欠落した感情 | 斉藤ユエ | 945 |
| 7 | 夏祭り | 川辻晶美 | 1000 |
| 8 | 心中 | 織原桐哉 | 784 |
| 9 | 待ち合わせ | BEAN | 987 |
| 10 | 遺書 | ぱんち | 998 |
| 11 | 真夏の音場 | 紺詠志 | 1000 |
| 12 | 岐路 | 紅緋蒼紫 | 999 |
| 13 | 戦後*年にささぐ | 有香 | 1000 |
| 14 | くすり | 「喜劇笑劇部門」の吾心 | 995 |
| 15 | 腕 | フジケン | 495 |
| 16 | 夜の蝉 | 伊勢 湊 | 992 |
| 17 | 新記録 | 羽那沖権八 | 917 |
| 18 | ペット | 太郎丸 | 1000 |
| 19 | 怪獣啄木 ★ | 蛮人S | 1000 |
| 20 | 拷問 | 百内亜津治 | 1000 |
| 21 | 九月の花束 | 一之江 | 1000 |
| 22 | 衝動 | 放物線 | 999 |
| 23 | ラーメン | 越冬こあら | 1000 |
| 24 | ぷりゅっ | りんねMomo | 1000 |
| 25 | それぞれの約束/すれ違いの約束 | ショート・ホープ | 1000 |
| 26 | 意地 | 三月 | 1000 |
| 27 | ファイナルアンサー? | 鮭二 | 1000 |
2ヶ月前に部屋を出ていったサクラが、夢の中で、死んだ。 サクラは合コンで知り合った。その時は、ただ、あ、可愛いな、 と思っただけで、電話番号を交換して終わりだった。 三日くらいして、彼女が気になって電話を掛けた。丁度お互い暇 だったので、合うことにした。それで改めて喋っているうちに、彼 女という居心地のよさに気付いた。 それからすぐ僕らは付き合い始めた。兄に言わせれば、どこかに は居そうなカップル、といった感じらしい。ある意味で影の薄い、 またある意味では妙に際立った印象を与える、といわれた。確かに 僕等は街に出たところで単なる背景の一つであることを感じていた。 決して一組の男女としては認められなかった。 でも彼女は僕を本当に好きでいてくれた。何をするでもないのだ けれど、いつだって彼女の想いが僕の体内に浸透してくるのを感じ ていた。そして僕も又、好きだった。だからそれから出て行くまで の三年間はお互いの気持ちが分かり合えて、「不幸」という文字が 辞書から消え去ってしまうほど幸せだった。 それから二年半経って、僕は彼女以外に女を知らないことに恥じ らいを覚えていた。それで尚彼女を好きだったが、もっといろんな 女性を知りたい。僕はバイト先の高校生と寝た。とにかく誰でも善 かった。 その後も高校生との付き合いは続いて、ついにサクラにばれた。 善い訳も何もせず、罵られもされず、彼女は次の日、出ていった。 夢の中とはいえ、彼女が、死ぬ、と言うことはやはり悲しいことだ った。彼女は、結局、僕にとって必要だったのだ。事実、夢の中で 僕はひたすら泣いていた、何も考えず。 目が覚めて、今、これまでの経緯を書きながら、僕は彼女に電話 してみた。 なかなか繋がらない。少し間を置いて掛け直すことにして、TV を点けたら、お昼のニュースをやっていて、近所で起こったバラバ ラ殺人事件を報道していた。
灰皿から立つ紫煙を小説家は死んだ女房のようだと思う。 よい女房だった。子供ができなかった。女房は生まれつき体が強 い方ではなかった。結婚してから床に臥すほうがおおかったと思う。 常に微熱があった。それでも若い芸術家達が集まると疲れた様子な ど微塵にも見せずよく世話をやいてくれた。遊びなさい、とよく言 った。そのくせ、わたくし以上のおんなはいませんと嫉妬した。あ なたはよい物書きになるわ、と檄を飛ばすときなど、きまって上向 きの鼻がひくひくと動いた。女房は自慢すると鼻をひくひくさせる くせがあった。結婚記念日や、誕生日に、なんでもよいからほしい ものをねだりなさいといっても、何もありませんと澄まして、売れ てから売れてからと可笑しげに、いそいそと洗濯物を畳む。いじら しかった。一度女学生からファンレターとも恋文ともしれぬものを 渡すように頼まれたときなど、おばさんって言ったのよ、信じられ ませんと一日機嫌が悪かった。その日の食事は焼き魚一品だけであ った。子供の話しはしなかった。私はほんとうによいと思っていた のだ。ある日、散策からもどると土臭い女が家にいた。訳を糾すと 女は奥さんに事を成すように頼まれたと言う、私には其の気がない ので追い返した。其の晩女房は帰ってこなかった。実家にでも戻っ ていたのだろう。私は何も言わなかった。女房の尋ねたそうな、そ わそわとした態度が可愛げであった。私が物書きとして文芸誌に名 前が連なるようになると、女房は淋しげであった。新しい家にでも 越そうかと訪ねると、この青臭い畳がよいのだと言い張った。なに も変わりはしないのに、何かが変わるとでも思ったのであろう。も う少し大きい家と思ったのだが、女房の凛として、辞さぬ態度に屈 服した。いよいよ駄目かというころ、わたくしは幸せでしたと微笑 んだ。私の目から二筋の雫が落ちた。泣かないで下さいと力なく合 わせる手に、私は居た堪れなくなった。私は妻の遺骨を鴨川に流し た。私たちが初めて出会った思い出の場である。 流れゆく灯かりがほっほと闇夜を照らす。 私は妻に別れを告げた。
笑ってる 笑ってる 君は笑ってる 足をぶらぶらさせた格好で君はその手摺に座っている 君の後ろは綺麗な青空 ぼくはただ黙ってそれを見ていた、君の目の前で君の背中をただジ ッと その背中の下にはボロボロにされたノートや教科書のはいった鞄が 置いてあって、ぼくも其処の隣に自分の鞄をおいた 君は歌を歌い出す ぼくはその歌を聞いていた 何の歌だろう 小学校でならったよなあ、こんなところで歌う感じの曲じゃあない ぞ もっと明るい緑の丘で… 「なんでそこにいるのさ」 こっちを見ないで君が云った、乾いた澄んだ声 「別に」 「同情なんてして欲しく無いけど」 「同情じゃ無いさ、今日天気いいし」 ああ、そう云って君は空を見た、空があの真夏の入道雲を仰ぎ見た 時より近くなっている、雲一つない空 また歌を歌ってる君 小さい背中をジッと見ていた 空なんて見ちゃいない、見ているのは君の背中 「いきたい?」 「何処に?」 不意のぼくの問いに君は振り向いた 笑ってる 笑ってる君の顔 「ウン?歌ってたから」 「ああ、いきたいなあ」 「いきたい?」 2度目の問い 「ううん」 今度は君は首を振った 「そっか」 少し失望した、君はもっと強い人だと思っていた、でも安堵する ぼくの仕掛けた罠にこんなに簡単にはまってしまうような人だとは 「じゃあ、いきたい?」 少し声が震えてしまった 君がこんな人だなんて、繊細な人だったなんて じゃあどうしてぼくを苛めていられたんだい? あんなに辛いって、苦しいって、止めてって何度も頼んだじゃない か でも2人きりの時君はとても優しくて、だから甘えてしまったけれ ども それが君の責任の取り方だったのかい? 今になって思うよ、君は中心的に見えたけど、きっとまるきり違っ ていたんだね、でも そうだね、罠は仕掛けてしまった その責任は取らなきゃね ぼくが望んでいた友達に君はなってくれていたから ぼくも君の望んでいることをしなくちゃね 「独りでいくの?」 ぼくは手摺に寄り掛かって君の顔を見た 背中を見るのはもう止めた、だって君の答えは分かってる 君は笑ってる 笑ってる ならんで手摺に腰掛ける ぼくも笑った 君と一緒に笑った そして歌を歌う 小学校の時習った歌で、そうだ、君と帰る時いつも歌っていたね どうして忘れていたんだろう、ばかだな、ぼくは 「いこうか?」 「うん、いこう」 そうして2人で思い切りあの空に舞い上がった
これは、振動音だ。 途切れない、空気の振動。 鼻や口から吸い込む空気が熱い。ちょうど見つけた木陰のベンチに 腰を下ろした。コンクリートが汗で湿ったズボンに冷たい。 蝉というのは、なかなか醜い虫だ。 多分あれは小学3年の夏だ。隣の靖子はあの頃クラスで男子を抑 えて腕相撲の頂点に立ったことを自慢にしていた。 多分あの日も暑い日だった、と思う。もう記憶の中の風景は、鮮 明さを失っているのだ。ただあの時の感触だけ、むやみにはっきり 覚えている。 「届く? やすこ」 「うん。…やっ」 靖子は小さい体をひゅ、と伸ばしたかと思うと、日に焼けた手が無 造作に蝉をつかんだ。 ジジッ 今まで大気を占めていた音が、ひとつ減った。それで今までそれ が発していた音の存在に気づく。 「ほら、ぱっと取るんだよ、ぱっ、て。次しゅうちゃんね」 僕はまごついた。それを見た靖子は得意な表情を浮かべ、 「大丈夫、怖くないの。ほら」 と靖子は蝉をつかんだ手を僕の顔のほうに伸ばした。僕は少し悔し くて、動揺を靖子に見せないよう、蝉から目をそらして身を引いた。 「ばっかじゃねーの、怖くないってんだよ」 靖子は少しむっとして、あっそう、じゃあ取ってみてよ、と不機嫌 な声で言って隣の木に見える蝉を指差した。 僕は、後ろの靖子の視線を気にしつつ、茶色と黒のまだらの虫に 恐る恐る歩み寄る。桜の薄い葉が肩のあたりでかさと鳴った。 蝉のがなり声は、傍によると一層大きくなった。虫は、動かない。 心臓の鼓動がひどく速い。 僕は、体を固くして目を細めながら、えいっと一息に手を突き出 して蝉をつかんだ。 ジ ジジッ 手のひらに伝わる強い振動。僕は驚いて思わず手の握りをゆるめた。 バチバチッ 心臓がどんと鳴った。手の中で蝉が、羽をばたつかせている。固い 羽が手のひらをばちばちとたたく。とがった足が刺さる。止まない ジジ、という振動。 ひ、と息を飲んで思わず手を開くと、ぱん、というひと叩きを最 後に、虫はびび、と飛び立った。心臓が早鐘のように鳴っていた。 「あーあしょうがないなーしゅうちゃんはー」 というやはり得意げな声が背中から聞こえた。 「ごめん、バイト長引いちゃって。待った? 」 顔を上げると、綺麗な藤色のスカートで、靖子が笑った。随分かか との細いサンダルが、かつ、と鳴る。 「はあ、あっついねえ」 「お前、まだ蝉、取れる?」 は?と靖子はきょとんとした。いや、と僕は笑った。 振動音が、聞こえる。
M78星雲の宇宙警察本部に無事帰還したウルトラマンは、宇宙警 察幹部の厳しい面々を前にして、地球での任務の一部始終を報告し た。 そして、最後に地球人の風俗について、特に物を食べるという事 の説明に及んだのである。 「我々は光エネルギーを体表面で吸収する事によって生命維持を図 りますが、地球人は食べ物を口に入れることで集中的にエネルギー を得るのです」 地球人になってわかったのだが、彼らの味覚という感覚は実にす ばらしいものだ。ウルトラマンは、地球でいつも食べていたラーメ ンの味を思い出していた。 ところがその時、一瞬の陶酔を破る意外な言葉が。 「実は君にスパイ容疑がかかっている」 ウルトラマンは言葉を失って、呆然とした。 「君のように優秀な隊員には不名誉な事だが…」と、幹部のひとり が続けた。 「君は78回地球人からウルトラマンに変身してるが、 この記録によると、42回目の変身では君は怪獣と戦わず、ただその 場に立ちつくしてエネルギーを消耗しただけだった。それどころか、 無益な変身のため直後に襲ってきたべべラ星人の侵略を迎え撃つ事 ができず、一時、地球は危機的状況に陥ったということだ」 ウルトラマンは厳しい職務上の追及に、困惑した。 「それについては、地球人が自力でベベラ星人を撃退し、事無きを 得たはずです」 「それは、結果論にすぎない! 君はベベラ星人に賄賂をもらった か、あるいはスパイ的な立場で彼らを地球に誘導したのではないの か」 「バカな。僕は地球を愛しています。そのような事は絶対あり得な い」 「では、あの変身はいったいなんだったのだ」 ウルトラマンは口ごもった。握り締めた手のひらが汗でびっしょ り濡れて、その後はもう言葉にならなかった。 ひとりの弁護士が別室に入っていった。そこに留置されたウルト ラマンに面接するためである。 狭い部屋の中に、ウルトラマンは頭を抱えてうずくまっていた。 弁護士は、自分が来た趣旨を手短に伝え、この絶望的な立場から 救われるためには、すべてを正直に話す事が肝腎だと説明した。そ の丁寧な口調に、かたくなだったウルトラマンも少しづつ心を開い たようである。 「実は」と、ウルトラマンはぽつぽつと話し始めた。 「大好きなカップラーメンを食べるためでした。」 弁護士は、ますます訳のわからない顔をしている。 「カップラーメンはお湯をかけて、きっちり3分で食べるのが一番 おいしいのです。ところが、僕はその時、運悪く時計を持っていま せんでした…。」
「私、泣くほど今がイヤなの。」 そう言った私に貴方はただ微笑んでいるだけだった。 「私、明日の事なんて考えられないわ。」 そう言った私に貴方はただ微笑んでいるだけだった。 「私、まだ生きるのかと思うとうんざりするの。」 そう言った私に貴方はただ微笑んでいるだけだった。 貴方はそう、いつも微笑んでいるだけだった。 私が何を話しても、私が何をしても、貴方はいつも微笑んでいた。 私が泣いている時、全然泣かないけれど泣いている時だけ、貴方は 微笑んではいなかった。 あの時だけ…。 私はあの時から泣いていない。 音を立てる事なくそれは沈んでいった。 それは本当に自然で、ゆっくりと。 当り前かのように、私も貴方もそれを膝を抱えて、小さく丸く座っ て見ていた。 それが最後まで沈むのを確認してからそっと立上がった。 でも貴方はまだ膝を抱えたままだった。 私の存在を無視して。 いや、無視したわけではないけれど、 冷たくて透明な空気が流れたので、そう感じた。 「ねぇ…。」 そう声をかけようとしたけれど、正しくないような気がしたので、 私はため息に変えて口から吐き出した。 貴方はまだ、それを見ていた。 私がそこに存在しないかのように、貴方はそれを見ていた。 息を吐き出すことさえも許されない。そんな気がした。 「音をたててはいけない。」 そんな気にさせる貴方の顔を見ていたらな落ち着かなくなり、髪を いじったりクルクル同じ場所を回ってみたり、貴方を観察してみた り。 貴方はそんな私に気が付いた様子はなく、まだそれを見ていた。 私には見えないそれを。 全てをやりつくした私が次ぎにやることは、その場から去る事しか 思い付かなかった。 そっと音をたてないように、静かにゆっくりと家に帰る事にした。 トボトボと歩く私にも貴方は見向きもしないで、やっぱりそれを見 ていた。 振り返って見た貴方の後ろ姿は残酷なほど透明で、綺麗だった。 私はただ涙を流す事しかできなかった。貴方だけが綺麗に見えた。 私はそれから一度も泣いていないし、貴方も微笑む事を忘れていな い。 貴方と私の欠落した感情。
「この辺でいいだろ」 私の返事も待たず、彼は人が溢れる砂浜にビニール・シートを敷 いた。周囲に知った顔がいないことを確かめてから、私は彼に並ん で腰を下ろす。日中いっぱい太陽に暖められた砂はまだ、ほのかな ぬくもりを残していた。夏祭りのフィナーレをかざる花火が、もう すぐ打ち上がるだろう。 「ねえ、あのビル何かしら?」 「ほんと、真っ暗じゃない」 観光客の囁きが嫌でも耳に入る。反射的に立ち上がりかけた私の 肩を、彼の掌がそっと押さえた。ビーチ沿いに建ち並ぶホテルの中 で、私達の真後ろにある建物だけが、一つの電灯も点すことなく、 不気味に佇んでいる。 かつて父が所有していたホテル。毎年この日、最上階の部屋に家 族全員が集まり、花火を観た。一年を通して最も混み合う日にも拘 らず、その部屋だけは家族の為に残しておいたのだった。その特等 席は、少女時代の私の、何よりの自慢でもあった。忙しい父も、そ の時ばかりは仕事を中断した。でも父は、花火なんか観ていなかっ たのではないか、と今になって考えることがある。花火に興奮し、 はしゃぎながら振り返ると、必ず父の優しい瞳が私を見つめていた からだ。後になって、姉も弟も同じことを言っていた。 崩壊はあっという間の出来事だった。ホテルが人手に渡ると同時 に父は姿を消し、家族は分散した。逃げるように都会へ移り住んだ 私も、偶然、同郷の彼と恋におちるまで、この街に一度も戻ること はなかった。幸せだった分の惨めさを残して出た街。けれど、生ま れ育った街……。 地鳴りのような音と共に空気が揺れた。頭上に巨大な火の華が咲 く。瞬く間に、夜空が光の雨に包まれた。 間近で観る花火の迫力は、防音の厚い窓から観ていた時とは比べ ものにならない。切なさも悲しみも吹き飛ばさんばかりに、休みな く花火は上がる。そして艶やかな大輪の花を描いた後、一瞬にして 輝きを失い、空の一部になる。そう、束の間だからこそ美しい。幸 せだって同じことだ。狭い街のこと。私の家庭事情は、お節介な第 三者の口から、彼にも伝わっていることだろう。 私は彼の肩に顔を寄せ、白いTシャツにそっと涙を滲ませた。 「毎年、この花火を見よう」 打ち上がる花火の音の合間に、私は彼の言葉を聞いた。 「これからもずっと、この砂浜で」 私は何度も頷き、再び彼のシャツを濡らす。 「お祭りの日に泣くなんて、迷子だけだよ」 火薬の匂いを含んだ潮風が、頬を撫でていった。
今夜、あたしは死にました。 あの人があんまり淋しいと泣くので、一緒に逝ってあげたのです。 でも、ここはものすごく冷たくて、さっきから腕が見つからない。 あなたとつないでいたハズの、左手がどこにも見つからない。 やだな……薬指には、大事な指輪がはめてあったのに。 あなたの恋人だっていう、証しの指輪なのに。 彼のひいおばあちゃんの代から、あの家のお嫁さんに贈られてた、 由緒ある指輪。 そしてそれを、あたしは彼からもらった。 彼があたしの為に用意しておいてくれたのを、あたしが見つけて内 緒ではめたんだ。 彼を喜ばせるために。 あたしも愛しているのよって、あなたに見せてあげる為に。 指輪はあんまりぴったりで、抜けなくなっちゃったけど、あの人と 永遠に一緒にいられるようで、 あたしはとってもうれしかった。 指輪は離さない。 あの人も渡さない。 だから、死ぬ時も一緒よ。 あの人が死にたいというのなら、あたしも一緒に死んであげる。 あなたとあたしは、永遠に一緒。 なのに、なんで指輪がないの? なんで左手がないの? そういえば、飛び込む前に、あの人、なにか言ってたわよね。 あたしの左手を握りしめて、強く強く握りしめて、 「愛しているよ」 それから、 「だからね、一人で死んで……」 ────ああ、全部思い出した──── あの人はあたしの腕をとって、なたで切り落としたんだった。 「これは君のじゃないんだよ。抜けなかったら切るしかないよね」 優しく笑ってあの人は、木を切るように腕を落とした。 平然と。 それから泣叫ぶあたしを冷たく暗い海の中に突き落としたんだ。 ……そっか、彼はあたしを愛してはいなかったのね。 だから、指輪を取りかえす為に、あんなひどいことを。 でもね、あたし、言ったでしょ? あたしとあなたはずうっと一緒。 ほら、冷たい水の中、唯一残ってる右手の感触。 あなたの髪。 あたしたち、一緒に死にましょう。
あの二人は……もう15分も無言だ。多分、女の子の方が怒ってい るのだろう。男の子は落ち着きもなくそわそわしている。僕は約束 の待ち合わせに30分も前に着いてしまい喫茶店でコーヒーを飲みな がら時間を潰しているのだが、その店に入った瞬間からその席のこ とが気になっていた。やることもないので、気が付かれないように 注目しているのだが、一向に動きがない……こういうものを見てい るのは何とももどかしいものだ。あまりにも動きがないので、その うち僕は勝手にあの二人の直面している問題について想像しはじめ た。 男の子は多分まだ大学生だろう。女の子の方は……まだ20前後 だと思うがOLでもやっている感じだ。直面してる問題なんてオー バーな表現をしてしまったが、あの恋する二人にとってはとても重 大な局面なのだろう。原因は男の子が合コンに行ったことによって 生じた。大学生で遊びたい盛りだからまぁ仕方ないような気もする んだけど……それに対して女の子は「何故、私だけを見てくれない の?そんなに他の女の人と遊びたい?」と食ってかかった。男の子 は「人が足りないっていうから付き合いで行っただけだよ」と言い 訳をした。そんな言い訳が通用するはずがない……そして問題はよ り深い所へと進んでしまったのだろう。ここまで考えたところで、 男の子の携帯電話が鳴った。あーなんて悪いタイミングだろう、僕 は人事ながらそう思った。自分でもこのような時に電話が鳴ったら 気が狂いそうになるぐらい動揺するだろう……男の子は、携帯電話 が鳴っているのを無視していた。状況はますます深刻化している… …僕は他人の不幸を楽しむかのように、いろいろ想像をしていた。 そんなこんなのうちに、約束の時間になってしまったので席を立 とうとした時「ふぅー黙っているのってやっぱり苦痛ね」と女の子 が言った。それに対し「またお前の負けだ、コーヒーご馳走ね」と 男の子が嬉しそうに言った。 ……なんてこった……僕は30分もあらぬ想像をして楽しんでたのか。 僕はちょっと悔しかったが、幸せな気分にもなれた。30分も時間を 潰せたってことと、あの二人が今とても幸せな状況にあるってこと がわかったからだ。 僕は、急いで勘定を済まし待ち合わせの場所へ急いだ。彼女はま だ来てないようだった。また洋服選びにてこずって遅刻のようだ。 しかし、僕は彼女に会って笑いながらさっきの出来事を話すだろう。
わたしは自殺しました。 今まで何度も自殺は考えてきたけれど、いろんな人の励ましで何 とか頑張ってきました。生きていればきっといいことあるさ。オマ エより辛い人はたくさんいるんだ。確かに人生辛いこともあるけれ ど、楽しいこともある。でも、よく考えてみるとそれはごく当たり 前のことだと気づいた。そんなの確率の問題だ。辛いだけの人生や 、楽しいだけの人生なんて確率的にほぼありえない。今まで人間の 生きる意味について何度も考えてきたけれど、やっとわかった。人 は死ねなくて生きているだけだ。そう、ごく当たり前すぎること。 わたしが自殺したと知ったら、みんなはどう思うんだろうな。きっ とビックリするだろう。悲しんでもくれるだろう。でも、残酷なこ とにすぐにその現実を認めてしまうんだろうな。残酷なことにね。 りんごが木から落ちることに疑問をもったニュートンはすごい、 というけれど。結局それを理論化したニュートンがすごいんでしょ。 りんごが木から落ちることに疑問をもった奴なんて他にもいたと思 うよ。だからそういうこと、わかる?人生なんて何にでも例えて話 すことができるんだよね。だって当たり前のことなだもの。ゼロに なにを掛けてもゼロになるでしょう、そのゼロが人生。何も難しい ことなんてないんだ。実に単純なものさ。逆に簡単すぎて難しく考 えてしまうってやつかな。おかしい、こんなに簡単に答えが出てし まうなんておかしい、と思ってしまうんだね。そんでどんどん難し く考えてしまうんだよ。そんなに深く考えたってわかるはずない、 答えが見つかるはずない。だって、答えはもう見つかっているんだ から。それを答えと決めつけるのが恐いだけでしょ。 おかしいな…、死ぬのは恐くないはずなのになんだか急に恐ろし くなってきたよ。俺はいったい何に脅えているんだろう。きっと自 分の気持ちが変わってしまうことが恐いんだ。でも気持ちは変わっ て当たり前。そんなこと言ってたらいつになっても何もできやしな い。正当化だよ。いつも後づけで正当化するんだ。自分を守るため にね。他人に嫌われないようにね。そう考えると、「君がいて僕が いる」という言葉はなんて意味深い言葉なんだろうと思えるね。自 分で自分を評価できやしないからね。君がいなかったら僕の存在は 無くなるんだ。 もうすべてがうすっぺらく見えるね。もともとそうだったんだろ う。何も変わりはしないんだ。 じゃあ、そろそろ時間だ。
「岩にしみ入」などとひねった人がいたが、この建物の、彼の住 まいを形成するセメントの壁も、岩みたいなものである。しかし、 彼はすべての窓を開けていたので、しみ入りそこねたその声が、大 の字に寝転ぶ彼の全身を包んでいた。数も方向もわからなければ、 距離もいまいちわからない。渦巻く声のなかで、彼の脳はもんどり うっていたが、体はじっと大の字でありつづけた。 そばでは、いささかポンコツになった扇風機が、みずからの振動 を制しかねて、ふざけた笑い声のように首を鳴らしている。だが、 これが唯一、彼に「涼」なるものを届けるのだから、文句は言えな い。 すっかり彼の体温に追いついてしまった板ばりの床に、彼はただ の大の字。紙に書いた「大」の文字と同じように、動きもしなけれ ば、動こうという意思もない。ただ、夕立ちでも降ってくれれば、 すこしはマシになるだろう、との希望はあったが、自力で叶えられ るものではない。 ふと、耳に、みよみよという響きがまぎれこんできた。かなり近 い。室内、天井だ。 そちらを見ると、銀色の円盤が飛んでいた。「空飛ぶ円盤」とし か言いようのない、わかりやすい形をしていたが、いたって小さく、 アルバムCDぐらいの直径だった。それは、しばらく部屋のあちこ ちをさまよって、彼の左目の、視界のはじっこに着陸した。みよみ よが止まった。 幻覚か現実か、はたまた、妄想か。いずれにせよ、くだらないこ とだと彼は思った。しかも、その円盤から、ぞろぞろとなにかが降 りてくる。それは、ちっちゃく、二本の足で立ってはいたが、まさ しく「アブラゼミ」の姿をした生物であり、ああ、くだらない、ど うしてくれようと思いつつも、どうするのも、めんどうであった。 ただただ、こいつらが、一斉に鳴きはじめないよう、祈るばかり。 ちっちゃなセミたちは、しばらく彼のまわりをうろついて、とき どき走ったり、転んだり、仲間と手をつないだり、くつろいだり、 好きかってやっていたが、一匹も鳴くことはなかった。いや、鳴い ていたのかもしれないが、そうだとしても、おもての大きい連中の 声にかき消されてしまったことだろう。 彼は大の字でありつづけた。やがてセミたちはもれなく円盤に乗 りこむと、みよみよ鳴って窓を出ていった。くだらないことが終わっ た。 ほどなく、夕立ちの、地面をたたく気配が、窓からただよってき た。大きい連中の声はやんでいた。扇風機は、まだ笑っていた。
陽は落ち、空は鮮やかな紅から深い紫へと変わりつつある。 杉の古木に囲まれた墓地は、すでに闇に沈んでいたが、奥まった 一隅に灯火が見えた。小さな蝋燭の火に、やつれた男の横顔が照ら し出されている。整えられた髪には、幾筋か白いものが混じり、目 元には疲労の翳りが濃い。腰の大小は、今は無造作に傍らの地べた に置かれ、彼は目前の、僅か二尺程の墓石に向けて一心に手を合わ せている。 5月下旬の、まだ冷たい風が枝を揺らし、潮騒の如き葉擦れの波 を寄せる。 「熈子……」 男は妻の名を呼んだ。無論、応えがある訳も無い。 「熈子、わしはどうしたら良いのじゃ」 咽喉の奥から絞り出したように震え、かすれた声。 「わしにはもう、上様のお考えが解らなくなってしまった。今の身 があるのは信長様のお陰であると判ってはいるのだが、この胸の奥 から込み上げて来るものを抑えることが出来ないのだ」 妻の墓石にすがるようににじり寄る。高ぶる声は夜空へと吸い込 まれて消えて行った。 ――光秀どの、我慢なされませ。 その一言が、欲しかった。 一人煩悶とすることに耐え切れず、忍んで城を抜け出して来たの は、熈子の声を聴く為だった。妻のその一言さえあれば、何でも我 慢できる。これまでもそうだったのだ。きっと、これからもそのは ずだ。熈子ならば、望む時に望む言葉を言ってくれるはずだ。 だが。 応えるのは風と虫の声のみ。 「熈子……返事をしてくれ。わしはどうしたら良いのだッ、教えて くれ、教えてくれ……熈子ッ!」 光秀は涙を拭おうともせず、小さな墓石を掻き抱いた。 冷たく硬い石の感触だけがそこにあり、妻の柔らかな肌の温もり は、どこにもなかった。 西国で毛利家の軍勢と対峙している、秀吉への援軍として亀山城 を発った光秀率いる丹波の軍勢1万3千は、その日――天正10年 6月1日夜半、老の坂を経て京を見下ろす沓掛峠へと差し掛かった。 この峠を右に行けば、摂津国を抜けて西国へ、左へ向かえば桂川を 渡って京の都である。信長公が、僅か百名足らずの供回りのみで寄 宿する本能寺まで、ほんの一駆けの距離。 光秀は、ぼんやりと月を眺めた。 貧しい時分から、ずっと支えになってくれた妻、熈子の面影が浮 かんで見える。 ――熈子……わしも、ようやくそなたのもとへ行けるぞ。 全ての肩の荷が下りたような、光秀はそんな気分で軍配を掲げた。 ――熈子、そっちへ着いたら、いつものように叱ってくれ……
私は、明日死にます。 悔ひはありません。不思議と安らかな気持ちだ。 (中略) 奈津子、奈津子が先日こはしてしまつた玩具は、こつそりなほし て兄さまの戸棚に隠してあります。そこに別の手紙もはいつてゐる から、それをお読みなさい。 母様と、父様のこと、よろしくおねがいします(ふたりとも、も う歳なのにむりをして働かぬよう、お前がしつかりするのですよ)。 あの若者が無事にかえつてきたなら、一緒になるも良いでせう。 この手紙を残して、兄は死にました。飛行機に乗つて、敵の船に 体当たりして、大勢の敵をやっつけたのだと、母から聞きました。 私は、兄が死んだなんて信じられなくて、しばらくは手紙の内容も 忘れ、兄の部屋にこもつてただ泣いてゐたのですが、ある時ふと、 あの玩具がほしくなつて兄様の遺言通り戸棚を開けると、玩具と一 緒に手紙が一通、出てきたのです。 そこには、こう書かれてゐました。 さて、奈津子はこの手紙をどのやうな気持ちで読んでゐるのでせ うか。まだ兄様が死んだといふことを信じられずに泣ひてゐますか。 この手紙は、誰にも見せてはいけませんよ。今はまだ、非国民と いはれてしまうから。 奈津子、お前は生きなさい。絶対に死んではなりません。兄様は、 お前のために死にます。 兄様は、この国が愛しいのです。お前が、愛しいのです。天皇陛 下が支えられてゐるこの国が兄様は愛しいのです。 日本は戦争に負けるでせう。そうなつても、誰も恨んではいけま せんよ。皆生きるのに精一杯だから、戦争をしてしまうのですから。 私が死ぬのは、それでいひのです。いま、お前たちを護るために できるすばらしいことなのですから。それをできる自分を、私はい ま本当に誇らしくおもつているのです。 お前は生きなさい。兄様は何時でもお前の傍に居ます。 皆さまに私がこのやうな席にお招きいただいた事は嬉しく思ひます。 でも、私は皆さまが望むやうなことをいへないのです。兄は、望ん で死んでいつたのですから。 え?そんなはずない?いえ、解るのですよ。学の無い私でも。 あなたがたは、誰かのために死ねる喜びをご存じなひのでせうね。 家を出るときの兄の顔は本当に安らかだったのですよ。 お上に無理矢理死なされたのでは無ひのですよ。 このセルロイドの人形は今でも宝物です。今でもはつきりと覚へて いますよ。 青い目のお人形は嫌だといつて私がこはしてしまつたときの、兄の 哀しそうな顔。
頭痛薬をくれ。 「どの薬がいいですか」 どれでもいい。 「どれでもいいと、おっしゃいましても」 どうせ全部おんなじなんだろ。 「一応アスピリンとそうでないのが有りますが」 どう違うのだ。 「アスピリンは正しくは、アセチルサリチル酸といいまして」 そんな事は聞いていない。 「では、1893年ドイツの化学者ホフマンとドレッサーが」 あのな、今それを聞いてどうなる。 「どのようなことをお知りになりたいので」 薬の種類によって効きかたが違うのか聞いているんだ。 「アスピリンはプロスタグランジンの合成を阻害する働きがありま して」 俺はな、頭が痛いんだ。小難しいことを言ったら余計頭が痛くなる だろ。 「では話題を変えて、1969年ロンドンの王立外科大学で」 歴史はいらないと言ってるだろ。 「でしたら、どのようなことを」 だから薬の違いだよ。効きはじめる時間とか。 「アスピリンは腸で吸収されますから一時間位しないと効いてきま せん。パラセタモルは胃で吸収されますから、10分もあれば」 それだよ聞きたいのは。 「パラセタモルは正しくは、N−アセチル−パラ−アミノフェノー ルといいまして」 ああ、もういい。何でもいい。とにかく一番効く薬をくれ。 「一番効く薬ですか。御予算は」 何でもいいって言ってるだろ。いくらでも出すから、これ以上頭を 痛くさせないでくれ。 「痛み止めですね」 そうだ。 「ちょっとこちらへ」 おいおい、店の奥に連れ込んでどうしようってんだ。 「大声を出されては困ります。ささ、こちらの席へ」 どういうつもりだ。俺は頭痛薬を買いに来ただけだぞ。 「この薬ですがね、先日手に入ったばっかりでして、どんな薬も目 じゃないくらいよく効きますよ。今ここで、お飲みになりますか」 ああ、飲む。今すぐに飲ましてくれ。 「お薬とお水です」 ……ふう。 「どうです、効いてきましたか」 そんなに早くは。あれ、効いてきたぞ。これは何という薬だ。 「ジアモルフィンという薬です」 正しくは、とか言って長い名前を言い出すなよ。 「ジアモルフィンが正しい名前です。通称はヘロインといいますけ ど」 ヘ、ヘロインだと。麻薬じゃないか。 「よくご存知で」 おい、そんなもの飲んだらフフ、体がエヘ、おかしくアハハ、可笑 しいなこりゃ。 「大丈夫です。少ししか飲んでいませんから」 アハハハ、面白いこと言うねあんた、ププ。少ししかだって。アハ、 人差指が挨拶してる。アハハハ、ここに何をしに来たんだろ、ボク。
木屑の匂いがする赤いスイッチのついたベルトコンベアの前にいる。 ベルトコンベアの流れる先の両側には、円形の刃が薄黒く光を放っ ている。 僕は、いつも厚手の長袖の服を着て、手をポケットにしまい、腕を 隠すように生活をしている。 蝉の声にまいってしまうような夏の日でも決して、半袖といったた ぐいの服を着ることはない。 別に暑さを気にしないからというわけではないし、また、腕にアザ があったりするわけでもない。 ただ、腕を見せることが恥ずかしいのだ。 小学校生の頃は、遠足の写真などを見ても、ごくあたりまえのよう に半袖の服も着ていた。 それが、いまでは指先を見られるのさえ恥ずかしくてたまらない。 今となっては誰にも腕をみせることなんて無理だと思うようなった。 僕に彼女と呼べる女性ができるとは思わなかったが、はじめての彼 女ができた。 彼女は、僕が腕を見せてくれないということ、それよりも腕を誰に も見せないといったことをたぶん気にするだろうと思う。 赤いスイッチを押した。 決して心地良いとはいえない機械の作動音がした。 僕は、服を脱いであお向けにベルトコンベアに横になり、両腕を左 右に広げた。広げられた両腕は、白く美しかった。
八月も残り一週間になった頃、夜中に街灯の灯りに虜にされてい る蝉を見た。 その日も残業をして十時半くらいに会社を出た。家は都心から一 時間以内にしては静かな住宅地のマンションで駅を下りてから十分 ちょっと歩く。タイミングが良かったこともあり相場よりずいぶん 安い値段で手に入れた。近所付き合いが難しいかと心配したが、そ んなことはない。むしろ親切にしてくれる。必要以上に。 六畳の部屋が二つに四畳半が一つ。狭くは感じなかったが十分な 広さではなかったかもしれない。「美由紀が大きくなったり、もう 一人生まれたりとかしたら部屋どうする?」としきりに心配してい た家内も、今では自分の部屋を持っている。大学時代に学んだ英語 を生かし細々とだが英語の翻訳の下請けをやっている。僕が仕事で 遅くなっても嫌な顔はしない。帰ったときにはまだ翻訳に夢中にな っていることも、よくある。 僕はその時間にはコンビニしか開いていない駅前の短い商店街を 抜け街路樹と街灯が並ぶ石畳の道を家に向かって歩く。 去年の今頃、この石畳の上で小学校二年生だった美由紀は眠りに ついた。熱射病によるものだと医者は言った。ランドセルを背負っ たまま炎天下の下で石畳にスーパーボールをバウンドさせて遊んで いる美由紀を近所の人が見たという。その日は僕は仕事で忙しく、 家内は入院していた僕の父親の見舞いにいってくれていた。家内が 「学校から帰ってお母さんがいなかったらこのカギを使ってお家に 入るのよ」と渡した家のカギはスカートのポケットに入ったままだ った。なぜ美由紀がそれを使わなかったか僕達にはもう分からない。 何となく違和感のある蝉の鳴声に気が付いて街灯を見上げた。蝉 は街灯の光に囚われその周りを旋回していた。それでなくても短い 七日間の命を削りながら。きっと蝉はそんなことを知りもしないの だろう。それが余りにも哀れで僕は植え込みの中から手頃な石を一 つ拾い上げた。街灯を割ってやろうと石を構え狙いを定めていると 眩しい光が目を突き涙が出てきた。石を投げると街灯は音をたてて 割れ辺りは暗くなった。蝉の鳴声も消えた。僕は近所の人たちが出 てくる前に足早にそこを去った。 そのあと蝉がどうなったかは分からない。上手くどこか林の中に 辿り着いたかもしれないし他の街灯の虜になってしまったかもしれ ない。 僕は玄関の前で蝉の声が聞こえないのを確かめて、家のドアを開 けた。
観衆が息を呑む中、電光掲示板にタイムが表示された。 七秒九九九八。 一瞬の間、そして。 わあああああああっ! 歓声が競技場を揺るがした。 『な、七秒台が出ましたよ、ついに。ヒカリちゃん』 『えーっとぉ、今までの百メートルの世界記録って、どれぐらいで したっけぇ?』 『八秒〇〇二一ですよ……』 『なーんだ、一秒も縮まってないんじゃん』 走者は観客に笑顔で手を振り歓声に応える。 走るためだけに上げられたそのしなやかな肉体は、まるで芸術品 の様だった。 ――精巧に作られた右の自動義足を含めて。 「違反? ばかばかしい」 記者会見で、走者はその質問を笑い飛ばした。 「七秒台の世界新が出た。これは純粋に喜ぶべき事じゃないか」 彼は太股のコネクタを外し、机の上に義肢を置いて見せる。 同時に、フラッシュやシャッター音が激しくなった。 「この義足は、僕が右脚を失ってからの三年間、文字通り寝食を共 にして休まず働いてくれているんだ。つまり、僕自身の肉体と全く 変わらないよ」 「ですが、出力が常人の二倍以上というのは、多すぎではありませ んか?」 記者が再び問う。 「僕の身体に合わせて作った脚だよ。それが常人並みである方がお かしいんじゃないかい?」 「でもこれはほとんど自動車に乗って参加しているようなもので… …」 食い下がろうとする記者に、走者は白い歯を見せて爽やかに微笑 んだ。 「世界陸上は、障害者を差別するのかい?」 記者団は、それ以上何も答えられなかった。 ただ、フラッシュの光を浴びて、義肢が何度も輝いていた。 『さあ、世界陸上百メートル、今回の目玉は前回惜しくも破れた日 本の宇田島ですね、アヤノちゃん』 『そうですねー、ガツンとやって欲しいですね』 『前回の大会後、宇田島は正体不明の暴漢に襲われたせいで片足を 失っての出場です。さあ、このハンデをどう乗り越えるのでしょう か!』 『そうですねー、ガツンとやって欲しいですねー』 『宇田島選手に限らず、今回は原因不明の事故で脚を失う怪我から 復帰した選手がやたら多いですが、それはそれ頑張って欲しいもの です!』 『そうですねー、ガツンとやって欲しいですねー』 スタートラインに並んだ選手たちの脚は、太陽に照らされ眩しく 輝いた。
「やっぱり大型にしようかなぁ」 課長の家は庭どころか、アパート暮らしだから、当然犬なんて飼 えなかった。それがつい最近、一戸建てを買ってしまった。 もちろん会社に通うのに、3時間近くかかる辺鄙なところだ。い くら犬が好きだといっても、その為に生活を犠牲にするなんて、俺 には考えられない。 もっともウチの給料じゃ、いくら課長でも都内に庭付きの一戸建 てなんて、夢のまた夢。まぁ、奥さんも犬好きらしいし、子供もい ないんだから、個人の自由ではあるがね。 課長の犬好きはちょっと度が過ぎるんじゃないだろうか。結局ラ ブラドールとかいう犬を買ったようだが、中古の車が買える金額を 払ってまでなんて、俺には考えられない。 しかも餌は、缶詰じゃなくて、本物の肉(牛)をやっているらし い。しゃぶしゃぶだって、トンしゃぶの方が美味いのに…。(と家 の食事に文句を付けても、稼ぎが悪いだけだと女房には言われるだ ろうから、これは内緒だ) しかも、ジェフ(日本に住んでてなんで外国の名前なんか付ける のか、その心理がわからない)を、調教だか何だかに預けていて、 寂しいなんてほざいていた。バッカじゃなかろか。犬なんてものは、 その辺を走らせて、残飯食わせてりゃいいんだ。胃の調子が悪くな りゃ、その辺の草でも食って自分で直す。それが正しい犬の飼い方 だ。なのに学校に入れるなんて考えられない。自分で教育しろ! 課長がニコニコしながら、俺に話かけてきた。うちの【ドッグ】 が【ステイ】を覚えた。うちの【ドッグ】が…。もう「イヌ」って 言えよ。ステイだとか、ゴーだとか、お前は日本人だろ! なんと、調教から帰ってきた課長の犬への指示は、全部英語らし い。なんの為の飼い犬なんだ。オタクは英語出来たっけ? まぁ、 俺も課長の話を、ニコニコしながら聞いているんだけどね。これも 仕事だと思ってるから、仕方がない。課長は俺も犬好きだと思って いるらしいが、勘違いもはなはだしいぜ。 俺は人事から、課長昇進の内示を貰った。もちろん今までの課長 とは別の課で、彼はそのまま。フン。これで心置きなく、犬の話を 断れる。なんといっても、俺はネコの方が好きだ。 「今度課長だって? イヤおめでとう。ところで君は、ドッグは飼 わんのかね?」 俺が内示を貰ったと知った課長が、仲間を増やしにやってきた。 俺はニヤリと笑って答えた。 「マスタードとケチャップをたっぶりつけたのが、いいですねぇ」
腕組みて このごろ思う 大いなる敵の前に躍り出でたや すこぶる悲しい日々である。というのも、自分は身長50メート ルの頭から尻尾まで、闘争本能に満ち満ちた身にもかかわらず、こ の狭い南の島には、もはや自分に歯向かうような怪獣など一頭もな かったのである。それでも自分は闘争本能に満ち満ちた身ゆえ戦い を挑まざるを得ないのであるが、近頃ではどの怪獣もまるで手応え がなく、そういう悲しい日々なのだ。 南海の孤島の磯の白砂に われ泣きながら 海老の腕もぐ 戯れに翼竜を背負いて そのあまり軽きに嘆き 投げて一本 遺伝子の言に従うならば、こんなとき怪獣は東京に上らねばなら ない。それはこの身に満ち満ちた帰巣本能というものであり、すな わちそれは成城という所に待つキャメラであり、魔術師のオヤジさ んの遺言なのだ。自分は海に泳ぎ出た。 東京に出向きて一人 七八日 暴れなむとて島を出でガオ ただいきなり訪れるのも不躾というものであり、しかし自分は手 紙も書けず電話も使えぬ身であるゆえ、通りすがりの漁船なぞ引き 止めて漁師に伝言をお願いする。一人もあれば十分であろう。 おそるべき顔あり口をあけたです とも生き延びし 人は語るか 海岸に近づいたのは夕刻近くの事だった。漁師の語りは上手だっ たらしく、歓迎は盛大であった。自分も歓声をあげてこたえた。 心地よく 我に撃ちつく砲火あれ それを仕留めて行かむと思う 目の前をやたら繋がって走り抜けようとする長い箱があったので、 ひょいと覗いて見たら人がいた。妙に可笑しい。 混み合える夕べの電車 掴み上げ ちぢこまる人を愛しく見ゆ 東京の町は何もかも珍しく、華やかで、刺激的だ。足を踏み鳴ら しては気炎を上げる自分の姿は、まさにオノボリさんの風情だろう、 が、そんな事を気にする暇すらない。実に東京という町の通りには、 角ごとに戦車がいて盛んに驚かしてくれるのだ。実に、驚くなどと いう感情は幾年ぶりのことだろうか! 東京の夜のにぎわいに まぎれ入り まぎれ出で来し勇ましき尾 目の前のビルヂングの かりかりと噛み砕きたき 美しさかな まれにある この陽気なる心には 時計塔の鳴るも嬉しき ああ楽しかった、何のオチもないが楽しかった、そして自分は海 に戻るのであった。それが怪獣の本能だからである。 大勢の人が自分を見送っている。 また、来るぞ! 飄然と都に上りて 飄然と帰りし夜よ 焦げる空 * くだらない小説を書きてよろこべる 男憐れなり 初秋の風(啄木)
男たちは「自然の水鉄砲」による襲撃をはじめた。体中縛られて、 おりの中にいるぼくの口をめがけて。これは苦しいというよりは相 当哀しい。鼻に「自然液」(!)が入るから息をしようとしてちょ っとでも口を開けると、生暖かいそれが口に侵入してくる。それで ぼくは息を止めて一生懸命その「鉄砲水」から逃げようと身を動か すのだけれど、彼らはそのたびに迅速に標的を探ってくるのだ。ぼ くはその「自然の水鉄砲」が「自然の掟」に従って終息するまで死 に物狂いで頭を空にしていた。やがて男たちはファスナーを閉めて、 仕事場に戻って行った。 最近ぼくはつくづく人間っていやな生き物だと思う。彼らは、自 分より弱いものを見ると非常に嬉々とした表情を作る。その理由は、 「いじめの対象を見つけたことに対する安堵感」なのである。そし てぼくは彼ら(つまり卑しむべき人間ども)の悦びの対象としての自 覚を今確実に胸の中に抱くまでになってきたのである。これは実に 悲しむべきことではないか。なぜなら、そのことはぼくという人間 がぼくという人格を失うことと同じだからだ。 「悲しみの方程式」というものがある。これはぼく自身が考え出 したものだが(ぼくだって実は相当のインテリなんだ。誤解されち ゃあ困る)、簡単に言うとこういうことになる。つまり、「悲しみ の三乗=1/2悦び」という公式だ。しかし、簡単にこうは言った ものの、物事はもっともっと複雑なのである。すなわち、この「三 乗」というものの正体が、「対象に無思慮窮迫に乗ずる不可罰的事 後行為の可能性を持つ」種類のものであるからなのだ(当然ながら、 これを考え出したのは眠れぬ夜の夢の中である)。 あ、また部屋に誰か入ってきた。ひょっとして食事でも与えてく れるのか…いや違うようだ。彼もまたファスナーをおろしはじめた からだ。ああ、また「自然の水鉄砲」か。しかし…待てよ、今ぼく の前にいる男の顔、どこかで見たことがあるぞ。あっ、あれはひょ っとしてこの国の大統領ではなかろうか。きっとそうだ。いや、絶 対そうだ。ぼくを見て笑ってるぞ。ぼくも笑う。ああ、微笑みなん て、ずいぶん久しぶりのことだな……。 ああ、「鉄砲水」そして「自然水」よ。笑うなったら。頭を、空 にしなきゃ空に。そう、そして例の「悲しみの方程式」だ。だから、 おお、これはもはや悲しみなどではない。そう、「悦び」なのだ。 頭の中に、かすかな光が及び、そしてそれさえも消え再び闇が訪 れるのだ。
ちょっとでも部屋に花があると明るくなるから、と毎週末に季節 の花を買ってゆく彼女が、今日は花束をと言った。コスモスとキキ ョウとマーガレットと、と美しく目に映ったものは片っ端からとい う具合に指をさす彼女の横顔に、ちらちら視線をやりながら享は笑 みを作った。 「豪勢じゃないですか」 選ばれた花たちを抱え下ろすと、享はバチンバチンと茎の長さを 切り揃えた。「たかーくなりますよ、ちょっと」 彼女は小さく笑う。 「金に糸目はつけないわ、この際」 「それはそれは」 おどけた調子で先を続けたかったが、言葉が出て来なかった。 コスモスの細い茎が描くゆるやかなカーブの形をととのえながら、 享はこの花束の受取人のことを考えた。華やかなピンクと上品な紫 と清潔な白とが奏でる、その愛らしいハーモニーを捧げられるべき 彼の人の胸中をちょっとばかり想像すると、ついため息が漏れた。 苦笑して、作業を続ける。 「ああ、きれい」とやわらかな感嘆の声が聞こえた。 「いい色合いですね」と享は答える。 「いえ、お上手だと思って」 「ああ、プロですから、これでも」 言いながら、ふうわりとセロハンを巻き付ける。ころころと軽や かに、彼女は笑った。 その笑い声が止むのを惜しむように、「大切な人ですか」と享は 訊いた。 「え」 「これ、あげる人」 「ええ」と彼女は頷いた。「とても。誕生日なの」 享も頷いて、「じゃあもっと」とガラスケースに視線を泳がせて みる。「バラでも足しましょうか。映えるんじゃないかな。サービ スしますよ」 「でも」と彼女はうろたえ気味に答えた。「いいんです、派手じゃ なくて」 彼女は享に微笑んだ。「お友達だから、女の子の」 何か気の利いた受け答えをと思ったが、またしても言葉が出て来 なかった。 できあがった花束を享は彼女に差し出した。たかーい値段を告げ て紙幣を受け取る。 渡された釣り銭を財布に入れながら、彼女は「男性も、お花もら うと嬉しいものかしら」と首を傾げて言った。 「そりゃ嬉しいですよ」と享は答えた。「感激ですよ。たとえばこ んな」と彼女の手元を目でさして「花束もらったらね」 腕組みをすると、享は大きく頷いて笑った。 「花屋の男の人でも?」 「いやそれはちょっと難しいかも」 「何だ」 藍色に染まり始めた夕空を見上げてから、「ありがとう」と言っ て彼女は店を出ていった。享は言葉を失ってばかりの自分を持て余 しながら、その背中をずっと見送り続けた。
駅の構内を抜け夜の街へと踏み出すと、薄汚れた飲み屋のネオン が先ず目に飛び込んでくる。その下品な輝きが、この街から私の居 場所を奪っていくかのようで、苛立たしい。私は、道を歩きながら 何度も何度も道端に唾を吐き捨てる。今ならば天に向かって吐くこ とさえ出来る、そんな気分だ。 この私の憤りは、定時から10分遅れた地下鉄のせいかもしれず。 吠えることしか知らない上司のせいかもしれず。恐らく表面的な要 因はそんなところなのだろう。しかし私の想いの奥底を貫く因子は 唯一つ。つまらぬ日常と知りつつも、其処から抜け出す勇気を持て ない己の不甲斐なさ。それを許せぬ自尊心こそが、私の目付きを鋭 くさせ、重い溜息を吐かせているのである。 「返してー」 先端の尖った私の心に、女性の悲痛な叫びが飛び込んできた。そ れは一瞬作り事かと疑う程の、典型的なひったくりの光景だった。 女性の鞄を奪った男は、私の脇を一直線に走り抜けていく。ネクタ イが小さく揺れた。その刹那、私は反射的に男の背中を追いかけた。 無論私が反射に導かれたその訳は、正義感などと云う真っ当な感情 に由来するものではない。それは「唐突な殺意」と換言しても良い。 40代の後半にも見受けられるその男が、なぜ20代の私の目の 前で、原始的とも思えるひったくりと云う行為に及んだのか。その 理由を探った時、私の理性は崩壊する。 その男の目に私と云う人物は、追いかけられても充分逃げ切れる 程に、精気を失った脆弱な男として映ったと云うことか。さもなく ば、目前でひったくりを犯しても見て見ぬ振りをするような、そん な狡猾な男として映ったと云うことなのか。 何れにしても私はその男に酷く愚弄されたのである。平素であれ ば、それは取るに足らない小さな怒りとして抑える事の出来る、下 らぬ痛みに違いない。しかし、肥大した自尊心に苦しめられる今の 私にとってそれは、「唐突な殺意」を育むに充分な、一つの致命的 な傷であった。凶行に至るに充分な程の。 全速力で追いかけた私は直ぐに男に追いつき、馬乗りになって男 の鼻に右の拳を振り下ろす。返り血がYシャツを紅く染めようとも、 男の必死の謝罪が恐怖の叫びに変わろうとも、私の拳は止まらない。 横でひったくりの被害者の女性が、泣きながら立ち尽くしている。 それでも私のこの衝動は、益々残虐性を増していく。 もう全てが、穏やかに、月の無い夜の闇へと葬られようとしてい た。
「いらっしゃーい」 しばらくすると、アルミニウムの盆に載せられ、それは運ばれて きました。近づいてくるに従い、そこから立ち上る湯気は存在感を 増し、その香りも確かなものになっていきました。一目見た瞬間に 生まれた私の心の中のほのかな感覚はだんだんと強度を増し、それ が目前に到達し、テーブルに移された時には、全くの確信となって おりました。そのラーメンは確かに妻の生まれ変わりだったのです。 生れ変わりは、古来より民間信仰の一部として、各地に流布して おり、その対象は人間に留まらず、様々な動植物、山や川、或いは 食物に至るまで、多くの伝聞が残されております。その様な研究へ の従事が、この事実を受け入れる心の準備となっていたのかもしれ ません。 二十三年半一緒に暮らした妻は、昨年の冬、八ヶ月の入院生活の 後あっさりと他界してしまいました。病院からの電話を受けてから 初七日の法要を済ませるまでの事は、何をどうしたのか今でも思い 出すのに苦労します。ただただ驚きと悲しみと後悔と空しさがぐる ぐると渦巻いていおりました。それはその後の日々、私の心の深い 部分に渦巻き続けておりました。夢の中でもいい、深夜の洗面所の 鏡の中でもいい、せめてもう一度会って、話をしたい。そう思い続 けておりました。 近くで見るとその麺は、ツヤツヤしており、上品な焼豚、控えめ な鳴門と相まって若い頃の恥じらいがちな妻の姿そのものでした。 私は湯気で曇った眼鏡を取り、裸眼で至近距離からその姿を眺め続 けました。そうしてしばらく再会を楽しんだ後、ためらいつつ割り 箸を取りました。せっかく身近に生まれ変わった妻をすぐに食して しまうことに抵抗はありましたが、その美しい姿は青春の日々と同 様に、やがては冷めて、延びてしまうことでしょう。同じ過ちを繰 り返す前に、美しいままを美味しく頂くことこそがラーメンに生ま れ変わった妻の望みに違いありません。丼全体を軽くかき混ぜた後、 全ての想いを込めて私はズルズルとラーメンを啜り始めました。 いつの間にか麺と具は全て無くなり、スープも最後の一口を残す だけとなりました。私は一気に食してしまった事を、ひどく後悔し ました。またしても妻は先に逝ってしまいました。しかし、空虚な 私の心と裏腹に、私の体はラーメン一杯分の満足を味わっておりま した。 そこまで語り終わると主人は出来上がったラーメンをカウンター に置いた。湯気の向こうには……
私が自分の一風変わった性癖に気付いたのはそれほど前のこと じゃない。その自覚は、特別大きなイベントというわけでもなく、 日常の一コマとして私に訪れたのだった。 とっぷりと日の暮れた夕方の海岸で、じっとりと吹き付けてく る風に頬をねぶられながら、いつものように考え事をしていた時 のことだ。不意に高波が近くまで押し寄せ、私の裸足のつま先を 濡らした。 ぼんやりしていたために波は避けられなかったのだけれど、反 射的に足をひっこめると、すぐ近くで鈍く銀色に光るものが目に 入った。腹を見せてじっとしている魚だった。そっと身を起こし て近づいてみる。 死んでからしばらく経っているみたいだった。 こわごわ触ってみる。堅さと柔らかさが共存した「ぷりゅっ」 という擬音が似合う手触り。死後硬直が解け始めているのだ。 何枚かの鱗が剥がれて手にはりついた。それがすぐに乾いてか ゆくなってくる。だから、魚を後に残して帰ることにした。乾い た鱗が剥がれるのは皮膚が剥がれるのに似ていた。 多分その日を境にして、何かが変わったのだと思う。 魂の抜け殻と巡り会うことが急に増えた。いや、死体なんてい くらでも転がっているのに今まで気付かなかっただけなのかもし れない。車に跳ねられた野良犬、感電して落ちた小鳥、干からび たトカゲ・・・・・・。 触ることはしなかった。ただ、頭の中で手触りを想像するのだ。 実際に触れてしまうのではなくて、思い浮かべるだけ。 私のそんな密かな楽しみはどことなく倒錯と背徳の香りがした。 このまま続けていたら、いつか自分の手で生き物の生命を奪っ てしまう日が来るのではないか、という恐怖と背中合わせの至福。 私の家族がそんなことに気付いたら、きっと家から追い出され てしまうに違いなかった。ずっと前だが、バッタの死骸を持ち帰 って、ひどく嫌な顔をされたことがあったのを思い出す。その時 はまだ子供で、ただ見つけたものを見せたかっただけだったのだ が、今は歴然たる理由がある。気付かれるわけには行かなかった。 そして、運命の日がやって来た。台所を歩いていた私の足元に ネズミが走り寄って来たのだ。考えるより先に手が動いてしまっ た。思いの外強く叩いてしまったのか、ネズミは動かなくなった。 例の感触が脳裏に蘇って、快感に身震いしたその時、運悪くお父 さんが来た。 お父さんは私とネズミの死骸を見比べると、叫んだ。 「母さん、タマがネズミ獲ったよ」 とても肯定的な声だった。
『約束すっぽかして何やってんのよ!』 携帯からの怒声が耳元で響いた。どうやら女性の声らしい。 一瞬何のことかさっぱり理解できなかったが、結局理解できなか った。 「あのですね。番号を間違っていませんか?」 ひとつひとつの数字を吐き捨てるように読み上げる声が聞こえる。 声からして歳は僕とだいたい同じ。もちろん中学生の少女の中にも 大人っぽい声を、四十を過ぎても若い頃の声を保ち続ける主婦も少 なからずいるが。 読み上げた番号は頭から最後までの11桁は確かに僕の携帯の番 号だった。 「番号は合ってます。たぶん携帯への入力ミスでもしたんじゃない ですか?第一、僕の声を聞いて人違いだと解らないのですか?」 『もしかして私が間違っているって言うの?冗談じゃないわ。そん な下手な言い訳やめなさいよ!』 「じゃあ、僕の名前は?住所は?歳は?」 『そんな言い方するの?』 「答えになっていませんよ。それに約束ってなんですか?」 『何よそれ!あなたから約束したんじゃない!』 埒が明かない。堂堂巡りだ。 「とにかく、このざわめきが聞えませんか?これから馬鹿な酔っぱ らいになろうとしているんです。という訳でさようなら」 電源を切った。 「なんだか深刻な話みたいだったけど」と右隣の友人が興味深そう に訊いてきた。 「ただの間違い電話だよ」 「女だろ。オ・ン・ナ。ほらほら、もっと飲めよ」と左隣の友人が 言い、アルコール臭いげっぷをした。 うっすらと目を開ける。気が付くと僕はベットに横たわっていた。 ベット?僕の部屋にベットなんてない。薄っぺらな蒲団のはずだ。 確か僕は酔って・・・・。酔い潰れてからの記憶がない。いつもそうだ。 要領の悪い酔い方をする。だが不思議なことに頭が痛くない。 「約束覚えている?」 誰かが耳元で囁いている。この声は知っている。そう、あの携帯 の女の声だ。 少しずつ少しずつ僕は目を閉じていく。意識とは違う自分が目を 閉じさせる。なぜか恐怖感がない。恐怖とは何かもわからない。や はり僕は酔っている。どうしようもなく酔っている。 約束。彼女は約束と言った。約束約束約束・・・・。 その思考作業は針の穴に糸を通すような試みだった。しかし、そ れは不可能だった。穴が小さ過ぎるし糸の先がほつれているのだ。 瞼が重い。深い眠りが身体を支配していく様がよくわかる。 朝になれば絶対、きっと、たぶん思い出すかもしれない。 そして目覚めたときには・・・・
それが意地と言われても、いい。 K先生は名簿のうえにチョークケースをのせると、一度伸びをし てから軽やかな足取りで教室へと向かった。これが塾で最後の授業 だとは、生徒たちは知らない。 きっと答えは出ない争いだった。校長は生徒数を増やすためにも っと宣伝を打つと言い、K先生は専属講師の数を増やすのを先にす るべきだと言った。 最終的に校長の意見が本部で採択された。他の校舎は生徒数が伸 び悩んでいたからだ。塾は、企業だった。 K先生は国語の名手だった。その授業がすでに「芸」の域に達し ているとは古株の先生は誰しもが認めた。僕も国語の講師だから、 よくわかった。文章解説のあのわかりやすさには、天性のものあっ たのだろう。 補習のない日はまずなかった。生徒の事情で、正規の授業のない 日でも、K先生は塾に来なければならなかった。それが責務だと信 じていた。自分の息子の出産日も、父親の死んだ日も、塾にいた。 それがいいわけはない、と、そのぐらいはわかっている人だった。 「それでも来なくちゃいけない。その一回の授業で、国語に目覚め るかもしれない。受験が人生のすべてじゃないよ。でも、少なくと も、塾というものは、それがすべてなんだ。ここは、中学校じゃな い」 その日、授業のある先生も、ない先生も、うちの校舎の先生はた いてい集まっていた。そして、時間を見つけては教室の前に行って、 壁や扉に耳を当てた。 前後半七十分ずつの、授業。すべてが予定通りと思わせるほど、 完璧な授業。けれども、最後の五分だけは、寄り道をして締めくく った。 授業が終わり、生徒もみんな帰ったところで、K先生に花束を渡 した。先生は、小さな身体全身で、照れていた。それから、少し淋 しげに、塾を去った。 ――あんなにがんばって尽くしても、やっぱり終わりって来るん だよな。 誰かが、言った。 僕は一人、教室に入った。いつもはきっちり黒板を消す先生なの に、最後の板書だけは、残っていた。 『愚公山を移す』 それだけ、書かれていた。――老人愚公が、周囲の嘲笑も省みず、 独り、通行に不便な山を移そうと、土を取り除け始めたのを見て、 皇帝が心を動かされて山を移すよう配下に命じた……。中国の故事 だ。 信念はある。後は、それを実行していくかどうかだ――最後に言 った先生の言葉だ。それが意地と言われても、いい。 皇帝の心は動かせなかったが、それでも僕は、黒板の前を、動け なかった。
どうして花火なんかがいいのだろう。 彼女は真っ暗な風呂場で線香花火を始めた。午前2時。きっちり 37度に温められた湯の中から、だらりと2本の腕を垂らし、線香 花火の先っちょにチャッカマンの鮮やかな炎を近付ける。ちりっと 音がして、片桐は目を覚ました。 「夕子! おい、夕子! 馬鹿野郎、何時だと思ってるんだ!」 風呂場から返事はない。ただちりちりと小さな光が弾ける音だけ が聞えてくる。火薬の匂いが片桐の鼻孔をくすぐり始めた。 片桐は舌打ちと寝返りを同時に打ち、敷島に火をつけた。夕子の それよりはいくらか大きい火の玉が寝室の暗闇に点滅する。3分ほ どのわずかな愉悦に気を紛らわせ、赤い光を押し付ける刹那、彼は ステンレスの灰皿に映る歪んだ自画像を目にした。 線香花火でウォーミングアップを施した夕子は、洗面器を裏返し てドラゴン花火をしつらえた。線香花火の残り香と37度のお湯を 肉体に染み込ませながら、しばしの静寂を味わう。やがて彼女の肉 体とそれを取り巻く世界との境目が渾然とし始め、静かなる意識が チャッカマンと化して導火線に火をつけた。 轟音とともに噴出する火柱に彼女はうっとりと目を細める。うっ とりと目をさらに細めて大きく息を吸い込み、静かに顔を湯の中に 沈めていく。微かな水圧によって轟音は遠ざかった。炸裂する火花 が水の向こうに浮かんでいる。ゆらゆら揺れる万華鏡の底で、光の 華が舞っている。 「夕子! おい、夕子ったら! もういい加減にしとけよ」 片桐は舌打ちをふたつ打ち、敷島に火をつけた。どうして。なあ、 どうしてなんだよ。火花が飛び散る爆音が鼓動を震わせるたび、彼 の右手は激しく動いた。その激しさは、腰を伝い腹を伝い腕を伝っ て左指を震わせ、敷島はその半分を残して灰皿に落ちた。 湯の中で梵我一如を大悟した夕子は、尾翼だけで飛んでいる飛行 機みたいに蚊帳の中に入ってきた。短い髪を気怠く解かしながら丸 まった片桐の背中を眺める。彼は湿ったティッシュの塊を握り締め、 静かな寝息を立てていた。 「またなのね」 微かに寝息が乱れる。 「ずいぶん勝手だわ」 背中がぴくりと動く。 「あたし、どうしたらいいのかしら」 がば、と起き上がった片桐の目は真っ赤に腫れ上がっている。 「だって、お前が花火なんかするから」 夕子は、すっかり起伏の失われたトランクスを睨み付け、枕の下 に忍ばせておいた高級スキン「うすうす」をぎゅっと握り締めた。
第17回チャンピオンは蛮人Sさん作『怪獣啄木』に決定です。
蛮人Sさんおめでとうございます。
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 怪獣啄木(蛮人S) | 10 |
| 九月の花束(一之江) | 3 |
| ぷりゅっ(りんねMomo) | 2 |
| 戦後*年にささぐ(有香) | 2 |
| 夏祭り(川辻晶美) | 2 |
| 蝉(高坂尚志) | 2 |
| ウルトラマンの懺悔(松拳) | 1 |
| 真夏の音場(紺詠志) | 1 |
| 衝動(放物線) | 1 |
| ファイナルアンサー?(鮭二) | 1 |
| 無効票* | 1 |
* 第16回バトル作品『首』(仏)への感想票でした
●怪獣啄木(蛮人S)
●九月の花束(一之江)
●ぷりゅっ(りんねMomo)
●戦後*年にささぐ(有香)
●夏祭り(川辻晶美)
●蝉(高坂尚志)
●ウルトラマンの懺悔(松拳)
●真夏の音場(紺詠志)
●衝動(放物線)
●ファイナルアンサー?(鮭二)
●首(仏)(無効票)
![]()
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。