第18回1000字小説バトル
Entry1
その峠では五月だというのに冷たい風が駆け抜け陽の光を遮る笹 の葉を落す。笹の葉は地に着く寸前で地を這う突風に拾われ弧をか いて舞う。京都を出て山陰は萩にあるという塾を訪ね歩く書生の正 重にとってこの様な異様な感じの峠を越えるのは初めてであった。 野党や獣などに対してとは違う説明のつかない恐怖を正重は覚えた。 やがて頂上辺り、道の側にそびえる松の根に独りの女が倒れている のを目にした。女は派手な模様の入った着物を身に纏い傍らに赤ん 坊くらいの背丈の日本人形を抱え木の根に寄り添うように倒れてい た。 「如何なされました?」正重は駆け寄り声をかける。その声で女 はだるそうに目を開いた。そして言った。 「早くこの峠を下りなさい。ここは人の来るべきところではあり ません」 「どうして横たわるあなたを捨て置きここを去ることができまし ょう」そういうと正重は女を抱え上げようとした。しかし女は見た 目よりひどく重く体を起こすことすら出来なかった。 「おやめなさい。私はここに留まる。運命に抗い深き罪を補うた めに」 「深き罪?」 「そう、私は人を食ろうた」 「人を…」正重は思わず言葉を失った。 「私とて食らいとうて食ろうた訳ではない。しかしここの場所を 取り巻く悪しき運命は私を自然の摂理から引き剥がした。それがな ければ私はただ花と戯れ一生を終えていたであろうが、私は生きる ために多くを奪わなければならなくなった。そして人を食ろうた」 女は正重とは目を合さず傍らの人形を撫でながら話した。 「私はじき死ぬ。それまではこの人形を私が食ろうた人たちと思 い供養しよう。そして不幸にも何も知らずここに踏み入れた者たち にこの悪しき運命に呪われた峠に踏み込まぬよう伝えよう。まあ、 これも運命が私に課したものかも知れぬが」 「わかりました…」正重は女を抱きかかえるのを諦め独り立ち上 がった。「しかしあなたをこのまま野垂れ死にさせる訳にも行かぬ ゆえせめて近くの小川で水を汲んできましょう」 これに対しては女は何も言わなかった。女はただ微笑んで、目を 閉じた。正重が水を汲んで戻って来たとき女はいなかった。同じ場 所には見たこともない牛ほどもありそうな異常に大きな蜂が人形を 抱えたまま死んでいた。 この運命に翻弄されたのであろう蜂は最後には運命に抗えたのだ ろうか。正重は水の入った竹筒を蜂の傍らに置き、地を這う風をか き分けながら梺へ向かって歩き出した。
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