第18回1000字小説バトル
Entry23
光秀は疲れていた。 精悍な中に知性の輝きを宿した瞳も虚ろに鈍く、頬はこけ、目元 は深く落ち窪んでいる。 月光に照らされた竹林を行く一行は、およそ七騎。明智家古参の 家老、溝尾勝兵衛を先頭に、光秀は前後を近衛に護られている。 光秀は、信長の仇討ちを掲げた羽柴秀吉率いる軍勢に敗北した。 如何に光秀といえども、倍以上の兵力差を覆す事は出来なかったの だが、決戦というに相応しい激戦であったと伝えられる。 天正十年六月十四日未明。 彼らは今、光秀の所領、近江坂本を目指して落ちていた。 道はまだ、遠い。 ――わしのやって来たことは、何だったのであろうな。 信長を次代の旗頭として仰ぎ、己はその補佐官として政を見、戦 乱に荒れた日の本を平らかに治める夢。 新しい政府を作る――信長の理想は、光秀の夢でもあった。 ――それを……己の手で打ち砕いてしまったのだ。 大粒の涙が零れた。はたはたと落ちる滴が陣羽織を濡らす。 後悔の涙ではない。 あと五年もすれば、確かに信長の天下布武は成ったであろう。だ が五年の間に、どれだけの血が流されることか。敵味方の兵だけで ない。無辜な民草こそが、戦乱の犠牲となるのだ。 ――わしは……天魔信長に、降魔の利剣を振るったのだ。 後悔は無い。 だが、胸中の大きな喪失感は如何ともし難かった。この心の空虚 さは、妻を失ったときと同じだ。 「わしは……信長様に惚れておったのか」 刹那。 「――ッ」 右の脇腹を熱い痛みが貫いた。竹林の闇に潜んでいた雑兵の槍が、 深々と突き刺さっていた。 光秀は最期の力を振り絞って太刀を抜くと、雑兵の肩口を斬り下 ろす。 「殿ッ!」 近衛が駆け寄せ、雑兵を斬り捨てる。 平衡を崩し、馬上から転げ落ちる光秀。傷口は破れ、吹き出す鮮 血が月を朱に染めた。 「光秀様ッ!」 勝兵衛が馬を飛び降り、主君の身体を抱え起こす。 「……兵衛、わしの首は……ひろ子のもとへ」 「殿ッ!」 光秀の血に染まる勝兵衛。 「ひろ子……ようやく楽に……」 「殿――ぉッ!」 家臣らの悲痛な叫びが竹林に消えた。 享年五十五歳。本能寺に信長を討ってより十ニ日のことである。 光秀の首は、遺言通りにひろ子の墓に埋葬された。 百姓に身をやつし、命懸けでこの墓所に辿り着いた勝兵衛は、そ の奇跡に涙した。 ひろ子の遺体は、埋葬当時の美しい姿のまま眠っており、主の御 首をその腕に抱かせると。 ふたりの口元は、そっと微笑んだという。
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