| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 人形峠 | 伊勢 湊 | 1000 |
| 2 | 「1000字本格推理小説」 Ver. Momo | Momo | 1000 |
| 3 | 家族 | ちぇしゃ猫 | - |
| 4 | 水のない水槽の中で、 | 岡さやか | 968 |
| 5 | 夜と君 | ノア | 947 |
| 6 | どうにもならない | 柿田桃子 | 878 |
| 7 | 月 | 織原桐哉 | 888 |
| 8 | ある夜 | K.. | 988 |
| 9 | 打ち上げ花火の夜は暗く | 羽倉諒 | 669 |
| 10 | レモン | 爪木崎青也 | 903 |
| 11 | 知らないあいだに、さようなら | 小沢 純 | 1000 |
| 12 | 小豆洗いの憂鬱 | 南大介 | 1000 |
| 13 | 10月28日終電 | 太熊 | 818 |
| 14 | 瞬間芸 | 北原伸哉 | 942 |
| 15 | アシ | 畷 昭俊 | 多分500文字以上 |
| 16 | 次はお前の番だ | さとう啓介 | 962 |
| 17 | しろくろ | 幸野春樹 | 859 |
| 18 | 愚痴 | 岡嶋一人 | 1000 |
| 19 | そして世界が | るーつ | 899 |
| 20 | 競泳 | 耕田みずき | 998 |
| 21 | 合鍵 | 川辻晶美 | 1000 |
| 22 | ミステリーサークル | 羽那沖権八 | 1000 |
| 23 | 末路 | 紅緋蒼紫 | 1000 |
| 24 | ポケット | 川島ケイ | 1000 |
| 25 | 草原の羊 | 高橋英樹 | 1000 |
| 26 | 俺は文才 | 太郎丸 | 1000 |
| 27 | リストラ桃太郎 | 越冬こあら | 1000 |
| 28 | 口喧嘩の法則 | akoh | 1000 |
| 29 | 社会的混乱は私の楽しみ | 百内亜津治 | 996 |
| 30 | バス ドライバー | 有馬次郎 | 998 |
| 31 | 蝉 | 一之江 | 1000 |
| 32 | 贋爺 | 鮭二 | 1000 |
| 33 | missing | 更羽 | 1000 |
| 34 | ボスと呼ばれる男 | 蛮人S | 1000 |
| 35 | デビュー前 | アベタツヤ | 991 |
| 36 | 洗礼 | ショート・ホープ | 1000 |
その峠では五月だというのに冷たい風が駆け抜け陽の光を遮る笹 の葉を落す。笹の葉は地に着く寸前で地を這う突風に拾われ弧をか いて舞う。京都を出て山陰は萩にあるという塾を訪ね歩く書生の正 重にとってこの様な異様な感じの峠を越えるのは初めてであった。 野党や獣などに対してとは違う説明のつかない恐怖を正重は覚えた。 やがて頂上辺り、道の側にそびえる松の根に独りの女が倒れている のを目にした。女は派手な模様の入った着物を身に纏い傍らに赤ん 坊くらいの背丈の日本人形を抱え木の根に寄り添うように倒れてい た。 「如何なされました?」正重は駆け寄り声をかける。その声で女 はだるそうに目を開いた。そして言った。 「早くこの峠を下りなさい。ここは人の来るべきところではあり ません」 「どうして横たわるあなたを捨て置きここを去ることができまし ょう」そういうと正重は女を抱え上げようとした。しかし女は見た 目よりひどく重く体を起こすことすら出来なかった。 「おやめなさい。私はここに留まる。運命に抗い深き罪を補うた めに」 「深き罪?」 「そう、私は人を食ろうた」 「人を…」正重は思わず言葉を失った。 「私とて食らいとうて食ろうた訳ではない。しかしここの場所を 取り巻く悪しき運命は私を自然の摂理から引き剥がした。それがな ければ私はただ花と戯れ一生を終えていたであろうが、私は生きる ために多くを奪わなければならなくなった。そして人を食ろうた」 女は正重とは目を合さず傍らの人形を撫でながら話した。 「私はじき死ぬ。それまではこの人形を私が食ろうた人たちと思 い供養しよう。そして不幸にも何も知らずここに踏み入れた者たち にこの悪しき運命に呪われた峠に踏み込まぬよう伝えよう。まあ、 これも運命が私に課したものかも知れぬが」 「わかりました…」正重は女を抱きかかえるのを諦め独り立ち上 がった。「しかしあなたをこのまま野垂れ死にさせる訳にも行かぬ ゆえせめて近くの小川で水を汲んできましょう」 これに対しては女は何も言わなかった。女はただ微笑んで、目を 閉じた。正重が水を汲んで戻って来たとき女はいなかった。同じ場 所には見たこともない牛ほどもありそうな異常に大きな蜂が人形を 抱えたまま死んでいた。 この運命に翻弄されたのであろう蜂は最後には運命に抗えたのだ ろうか。正重は水の入った竹筒を蜂の傍らに置き、地を這う風をか き分けながら梺へ向かって歩き出した。
「つまり、密室だというんだね?」 俺は不機嫌な声をあげた。密室だから不機嫌なのではない。早過 ぎる状況判断が嫌いなのだ。 電話の向こう側で報告は続く。 被害者は一人暮らしの女性。 窓には掛け金、扉にはチェーン。 指紋は被害者のもののみ。拭われた跡はない。 食卓の二人分の食事、火に掛けたヤカン。 死因は出血多量、刃物でメッタ刺しだ。 切り落とされた手に握られた受話器は電話線も切れている。凶器 は見つからない。 発見者は夕食に招かれていた被害者の友人の女性。 約束の夕方7時にやってきたが呼び鈴に応えがなく、裏庭にまわっ てリビングルームを覗き込んだところ倒れている友人が見えたため、 窓を割って進入、異常を確認した。 彼女が6時頃に携帯で時間の確認をして被害者と会話を交わしてい るため、犯行時間は6時から7時に特定される。電話会社には通話の 記録照会済み。検死の所見もその時間帯を示唆している。 「警察への連絡は何時頃?」 友人は初めに救急車を呼び、事件性に気付いた救急隊員が警察への 連絡を促したという。連絡があったのは7時20分頃。窓を割るのに手 間取ったらしい。 「部屋の電話は使えないんだね?」 友人は窓から一度外に出て自分の携帯電話を使い、救急車が到着する まで部屋には戻らなかったと言う。 「仮に犯人が部屋の中に潜んでいたとすればその時間に?」 窓は小柄な女性がやっと通れる大きさで、可能性は薄いとか。 「その友人に話は聞けるかな?」 取り乱していたため病院で鎮静剤を与えられて落ち着いてきたとこ ろだが、まだ事情聴取は医者に止められているらしい。 「割った窓の防犯加工は?」 進入される可能性のある窓は針金が通されていたり、二枚ガラスで あることが多い。女性が簡単に割れるものではない。 「リビングの窓に傷?」 初めに割ろうとした大きな窓が強化ガラスだったので、床近くの小 さな窓を割ったらしい。発見者の手足には狭い窓をくぐった時に床の 破片で切った傷が無数にあったという。 「外に出た時もそこから?」 現場保存を考えたそうだ。 救急車が来た時に更にもう一度窓をくぐって、中から扉のチェーン を外したらしい。 「……現場保存ねぇ。窓の四隅の破片、どうなってる?」 取り乱していたのに現場保存? 窓ガラスを外せるようにしておいて出入りし、後で割ってしまえば 証拠は残らない。 四隅が枠に残っていないなら……。 だが、携帯に全神経を傾けて運転していた俺は赤信号に気付かずに ……。
「父さん今夜も帰って来ないね。」 長男が力なく言った。 「兄さんは何で父さんに、そんなにこだわってるの?」 長女が面倒臭そうに言う。自分の爪を磨く事に集中しながら。 「おまえ達は、気にならないのか?」 長男が、青ざめてキっと妹弟達を睨んで言う。 「男が女を求めるのも、古いものより新しいものに惹かれるのも、自 然な事なんじゃないの?」 次男がそっぽを向いて言った。 月の出ている明るい秋の夜。少し冷たい外気に当たりながら、4人 兄妹は近所の空き地に落ち着かなげに集まっていた。 「当の母さんが気にしていないんだから、」 次女は少しでも暖を取ろうと、長女の側に寄ってその肩にもたれかか りながら、 「放っとけばいいじゃん。」 興味なさ気にけだるく言った。 「おまえ達は父さんや母さんを愛していないのか?」 長男が肩を震わせて、うなるように言った。 「・・心配じゃないのか?」 悲しげにうなだれた長男の頬に、近くに白い花を咲かせている木から 夜露が落ちた。 それは、まるで長男の涙のように彼の頬を滑り落ちた。 「何で兄さんは、そんなに執着してるの?」 長女の白猫は、呆れたように言い捨てると、不意に立ち上がり近くの 草むらの中へ飛び込んだ。 「まるで人間みたいね。」 次女の三毛猫も言うと、姉の後を追って走り去って行った。 「人間なんかに飼われるからだよ。」 次男のぶちねこは大きなあくびをして、べったりと座り込んでいた四 肢を起こすと、やはりゆっくりと去って行った。 空き地に一人残された長男の黒猫は、ふと耳が痒くなって後ろ足で 勢い良く頭を掻いた。 首についている小さな鈴が、りんりんと鳴った。 「何が僕らと違うんだろう。」 黒猫は呟いた。 暖かい大きな手の平を思い出して、黒猫は帰りの道を急ぐ事に決め た。
僕が窓を見上げた時、彼女は向かいの窓から僕を見下ろした。 お互いの眼をとらえた。 曇りの日、煙と空の境がなくなるように自然に。 約束をしたのだったら、おそらくその時だろう。 まるで当然の事のようにロビーの椅子に彼女がいた。 糸のように細い銀の指輪は彼女の手でひっそりと輝いていた。 「指輪をはめて左にまわすとね、願い事がかなうの。 そう、信じていた時期があった。小さい頃ね」 「君は何を願った?」 「何も」 何故、と言いかけてやめた。 小さい頃通っていた理髪店に行ってみたくなった。 僕は昔の場所にたまらなく行きたくなるのだ。 懐かしさだけではなく、何かもっと別の事…… 帰巣本能、とは少し違うけれど。 薄暗い店内からは柔らかい音がたえず聞こえていた。 石鹸を泡立てる音。 やがて雨が降ってきた。 それはしばらく降り続き、僕の呼吸を楽にしてくれた。 やがて日の光が差し込んで、5月の街を鮮烈に映し出した。 優しい雨の後、緑はいつもより輝きを増す。 おそらく宇宙から見た地球も。 金魚鉢の中の夢 鳥かごの中の宇宙 ガラス玉の中の風景 いつからか思い浮かぶようになった3つの言葉。 犬小屋の中の骨…… それはちょっと違うと思う。 僕はホテルの部屋に戻り、向かいの彼女の部屋の窓を見上げた。 カーテンは閉まっていた。 疲れきった足をテーブルに載せた。 テーブルの上にあるはずのない物が置いてあった。 大量の鳥の羽毛で作られた球体だった。 それは手のひらの上で確かな存在になった。 部屋は西日を沢山取りこんでいた。 明るいのか暗いのか分からない不思議な時間帯は、 夜に向けて徐々に変化していった。 混乱した頭を休める為に目を閉じた。 部屋が青に沈んだ頃、僕はやっと目をあけた。 どこかで時刻を知らせる音楽が流れていた。 エリック=サティの''犬のためのぶよぶよした前奏曲''だった。 僕は羽毛を丁寧にほぐした。 それを窓からそっと吹き飛ばした。 まるでその場に静止していたいかのようにゆっくりと、 揺れながら拡散して落ちていった。 ベットに仰向けになって眠りの訪れを待っていた。 車が外を走るたび、光の帯が天井を移動した。 それがなんとなく嬉しかった。 そして鳥の羽毛を思い浮かべる。 彼女が何の為にここに置いたのか分からないけれど。 水のない水槽のようなこの世界。 息はできるけど囲いから出る事はできない。 水が満ちた時、僕は外の世界に泳ぎ出て行くだろう。
何かを愛することは罪悪に似て、二人一緒に同じ罪を背負った夜。 「ねぇ、いつだってどんな時だって、最期には絶対に君の手で逝か せてくれる?」 うん、と君が頷いてくれたので、どんなことがあってもついてい こうと心に決めた。離れる気はさらさら無かった。かたく握りしめ あった私の右手と君の左手。近くのおもちゃ屋で買った手錠で繋い だ。鍵はすぐそこの川に捨てた。何かに祈りながら、他のすべてと 一緒に川に捨てた。離れたくないよ、と言うと、うん、と君。ねぇ、 本当に君と離れたくないよ。うん、分かってる、君が強く握り返し てきてくれた手に少し感動した。あまりに無力。でも君はわたしと 一緒に逃げてくれる。わたしたちがたどり着くのは一体どこ? こ の世の果て、世界の終わりに君と二人で。甘い夢、夢みたいな夜。 でも、しっかりと繋がれた手と手は現実のもの。わたしの右手に繋 がれた君の左手を頬によせる。この手を無理に剥がそうとすればき っと血が出るね。でも、接着剤を剥がすものなんて、普通にあるか ら、つかまればすぐに剥がされるよ、この手錠だって、しょせんお もちゃだし。もちろん君の言うとおり。溶け合うことができればい いのにね、溶け合って、ひとつの塊になっちゃえばいいのにね。泣 きそうになる。甘く切ないこの感情。ただ、君と二人でいたいだけ。 それだけなのに。胸が痛い (文字化け) ありがとう、わたしをすべて飲み込んでくれるのね。涙が止まらな くなる。ほら、周りの人が変に思っちゃう、泣き止まなきゃ。そう 思うのに声をあげてほんとうに小さな子供みたいに泣き出すわたし にうつむく君。今こうしてかたく握りしめあったこの手と手はまち がいなく現実のもの。なのに。君もわたしも知っていた。こんなこ とをしたって、いつまでもこうしていられるわけがない。わたした ちはいつか離れて、離ればなれになって、そうして残酷に生きてゆ くしかないの。 何かを愛することは罪悪に似て、二人離ればなれになることを知 った夜。
まただ。またやって来た。 昨日もその前もはっきり言ったはず。 来ないで、もう来ないで、同じ言葉。 何で悲しくなるのわかってくれないの?今更どうにもならない。 一人で勝手に言いたいこと言って最後に明日もくるから、 あの人はそう言って帰っていった。 彼の足音が聞こえなくなってからそっと、外を覗いてみると 私の大好きなガーベラの花が置いてあった。 明日も来るのかな?本当は少し期待してる、でも駄目。 好きだとか愛してるとかそんな言葉で、解決出来ない事が たくさんあるでしょ。あなただってわかってるはずなのに。 何度来ても、私にはどうにも出来ない。 前は、あなたが私に言った言葉、どうにも出来ない・・・・。 あなたの大事な家庭を守るために私は黙って身を引いたのに。 思い通りにしてあげたでしょ。ちゃんと病院にも行ったし。 別れてからの私は最低だった。毎日毎日ベットの中でじっと していた。その時期が過ぎると次は外に積極的に出て飲み歩いた。 自分が今どこにいるのか何してるのか判らないまま、知らない男と 安ホテルで抱き合う事も何度もあったし、そんな事大したことじゃ ない。あなたを失った事に比べたら全然大したことじゃない。 あの日も、あの最悪の雨の日も私は相当酔っていた。 前から歩いてくるのがあなただって傘をさしていても頭がぼんやり してても、すぐに判った。 あなたは、笑っていた。隣にいる女性に向かって笑っていた。 初めて見たのに、奥さんだって何故かわかってしまった。 だから逃げた、もつれる足を無理に前に前にもうちょっとよ。 次の瞬間まぶしいなと思ったら、体が空を飛んだ気持ちよかった。 ちっとも痛くなんかない。無重力ってこんな感じかな?って思い ながら私は死んだ。 自殺じゃないのに、何故か私はあの世にいけない。 明日もあなたが来るから私のところに来るから私は行けない。 そして、あなたは私に話しかける。 愛していたよ。許してくれ。どうしたらいいんだ。 どうしたら、許してもらえるんだ。本当に愛していたんだ。 そうささやき続ける。 そして叫ぶ、どうしたら出てこなくなるんだ。
今日もここから見えるのは、小さく切り取られた空に浮かぶ青い 月だけ。 もうどれくらいあたしは、ここで一人っきりでいるのだろう。 ───何日か前、あたしは彼とハイキングに来たこの山で、深い 穴に落ちた。 彼は助けを呼びに行くと言ったっきり、帰ってこない。 ……あたしは捨てられたんだろうか? そんな思いだけがぐるぐると頭を巡る。 背負っていたリュックに残っていたお菓子も既に底をつき、ペッ トボトルのお茶もさっき最後の一口を飲んでしまったところ。 これ以上助けが来なければ、あたしはこんな狭い中でたった一人 で死ななければいけない。 どうしてこんなことになっちゃったんだろうな。 ついこの前までは、あたしは世界一幸せだと思ってたのに。 『あの山から見る月はね、最高に綺麗なんだ』 山好きの彼に誘われて、あたしはこの山にやって来た。 確かに頂上から見た月は驚くほど綺麗で、あたしたちは甘い雰囲 気の中、とても素敵な時間を過ごしたのに。 帰り道、足を滑らせたあたしは─── 「……綺麗だな……」 こんな最悪な状態でも、やっぱり月は綺麗なのね。 もうあたし、死ぬことは怖くないの。 あんまり長くここに居すぎて、感覚は麻痺してしまったから。 虫やヘビの住む穴にずっと居たら、生への執着も薄れてきたし。 そんなことより───信じていた彼のこと。 『君にこの月を見せたかったんだ』 ……あの言葉は嘘だったの? 何で彼は助けにきてくれないの? (信じていたのに───) それからしばらくして、あたしは捜索隊の人に助けられた。 あたしが帰らないことを心配した両親が、警察に電話したそう だ。 彼は───麓近くの崖下の川原で、頭を打って死んでいるのを 発見された─── 今夜も月は綺麗。 「ほら、綺麗でしょう? 一人で見る月も」 あたしは彼の位牌を抱いて、彼が発見されたという崖に立つ。 「あたしも一人で見てたのよ」 でもあなたは月を見る間もなく、一人で逝ってしまったのね。 あたしの為に。 あたしを助ける為に。 「大丈夫よ、あたしがいるから」 すぐにあなたの側にいくから。 (疑ったりしてごめんね) そしてあたしは大地を蹴って、月の光の中に飛び込んだ。 今夜の月は二人で見ましょう。
一発目、引き金を引く。重い。拳を握り込む様に右手の中心に筋 肉を凝縮させる。炎に翻訳された怒りが口から噴き出す。その残像 が眼球にこびりついている間に、聴覚が侵される。乾いた音。手の 中で死を目前にした魚が最後の力を振り絞りそこから抜け出そうと もがく。その黒光りする甲虫を抑え付けると、はじき出される金の 筒。結婚式の最中、牧師を目の前に立ち、両家の身内や友人を観客 に、ふと自分の目の前の女を求めていないのに納得し指輪を投げ捨 てる。中に浮いたその指輪はきらりきらりと確実に光りを放ちなが ら落ちていく。やがて指輪は吐き出された金の筒に姿を変え地面へ たどり着く。そこで巻き起こる小さな歓声をかき消した。 二発目。地の底から吹き上げる地獄の炎は私の身体を貫き私の怒 りを経由して、私の右手の黒い使いから流れ出す。正気を取り戻し ていない私の耳は一発目よりも無関心に二度目の仕打ちを受けた。 周りにうっすらと広がる煙りが私の視界を歪めたが、そこに共にあ るほのかな香りは不快な物ではなかった。胸を真っ赤に染め、彼の 心情を目一杯に視覚に訴えかけようと表現した姿はゆっくりと両方 足のかかとを軸にゆっくりと弧を描いて倒れていく。まるで絶対開 けてはならないと両親に言われていたが好奇心が罪悪感を打ち倒し て、その子供がどきどきしながら開けるドアの様だ。一発目、驚き と疑いがこの男を襲い、運命への抵抗に諦めを感じながらこの男が 受け入れざるおえなかった二発目。 そして二つの銃声の間の二倍半の時が経過した今、倒れた男がそ の血を噴き出した炎の源の吸われている今、私が彼の目の前で皆既 日食を造る今、私の黒い使者はその体の鈍い光りを更に色焦せさせ る様な鋭い光りを放つ。三発目。無意味なまでに地を染めるこの男 の血が動けなくなった身体の代り私の足元ににしがみつこうとする。 哀れな右目と左目、それらの中心からまぶた一つ分上に在る充血し た三番の眼。この男が逝った先を想像させる彼の枕にしている物。 私は残りの弾丸をその肉の塊に次々に埋めてやった。絶対的に必 然ではないがライオンが喰いもしない兎を殺すのも肉食獣の営みの 一環だから。私は今は使命を終えた、体温の下がり始めている、鈍 い輝きに意地の悪さを称える鉄の伝達屋を形式的に投げられる花束 の様に死者のたもとにほってやる。来た道を確実に同じペースで歩 いていく、来た時との違いは向きだけだ。
ざわざわ。今日はこれから本番である。人間が私たちを取り囲み、 一つ一つ準備をしていく。まだ明るいのに、シートを敷いて場所を とる人間達。 「いよいよだなぁ」 「これでおれたちの価値が決まるってわけだ」 「華々しく散ろうぜ」 「おうよ。おれ達が生きた証を残す、最初で最後のチャンスだ」 仲間達は、死への恐怖ではなく、最後の生き様への羨望でいっぱ いだった。先輩達の話をたくさん聞かされた。オレンジ色の輪を作 り果てていった。少しずつ鮮やかな光を発するようになった歴史。 赤や紫、緑の輝きの誕生。まっすぐに星をめがけてかけ昇り、気合 いもろとも己のすべてをまき散らす。 一瞬ですべてが終わる。川の水面を、人々の眼を、かわいた田畑 を眩くし。最後の雄叫びが、たった一つの自己主張。雄々しく果て るが私たちのしつけ。 果てることなどおそれはしない。変えようのないものを、望みは しない。だが、どう果てるかは私が決める。人間よ、我が神よ。あ なたは私に愛情をたくさん注いでくれた。丁寧に、熱心に研究して 作成してくださった。私はほかのものよりも大きく、美しく輝くよ うに作られたのだろう。皆が私に期待している。鮮やかな彩りと、 ひときわ大きな太鼓の音。 だが神よ。私はあなたに牙をむく。どれほど人を喜ばせようと、 どれほど人から称えられようと、私はそれを望まない。私は無音で はじけて、闇色のくすんだ埃を夜空にまこう。もしもそれができる なら! 私よ、我が身よ。最後に私と共にあれ。私の意志と共にあれ。私 は願う。輝かぬことを。私が私を決められることを。どうか、失敗 作と呼ばれますように。
「なあ、一番有効な金の使い道ってなんだと思う?」 生まれて初めてのバイト代を手にした僕は、何気なく仲間に訊い てみた。「相変わらずつまんない事考えてるね」 氷のいっぱい詰まった、薄そうなレモンソーダを口に付け、ユウ ヤが目を細める。 「そんな事決まってるじゃん、飲み食い。ぱーっと行こうよ」 おごってー、が口癖のカナコは言う。口にはかろうじて話が出来 るくらいの隙間を残して、ハンバーガーが詰め込まれている。 「ばっか、貯金に決まってるだろ? 家を建てるなら今から貯金だ よ」 夢は家を建てること、と公言してやまないアキは言った。 「クミは?」相変わらず口をもぐもぐさせながら、カナコが訊いた。 クミは俯いた顔を上げ、言いにくそうに片目を瞑って見せた。 「貸して、くれない?」そう言ってぺろっと舌を出す。 代わりにユウヤが下を向き、ずるずるっとレモンソーダを啜りだす。 口には出さなかったが、ここに居る全員があきれ返ってため息を漏 らしたに違いない。なにしろこの間カンパしたばかりだったからだ。 人の命ってなんだろう。産んでから殺すと殺人なのに、まだ16の 彼女は静かに2人の子供を殺す。道徳と背徳、男と女、犯罪と病気。 しかし、僕のこの感情は正義という常識なのか? おひとよしのカナコは大丈夫? とそう訊いた。打ち消すように 僕は口を開く。 「ごめん、本当は親に借りてた金返すんだ。つまんない事言って悪 かったな」 その一言でしらけてしまった僕たちは、店を出て別れた。 いつもの癖で、ポケットに手を突っ込む。ささやかな肉体労働で得 た金は剥き出しで三万円ばかり。それが指に触れた。 一人になった僕は、商店街をただ歩く。色とりどりの看板が目に 入る。本屋、レコード屋、ドーナツ屋……。あれもこれも欲しかっ たハズなのに……。気が付くと商店街は終わってしまった。 ふと思いつき、駅の前で立ち止まり、あたりを見た。田舎町の駅 舎は人気も無く閑散としている。慌ててポケットから三万円を出し、 そっと地面へと置いた。発車のベルが鳴っている。小走りになり、 急いで定期を見せ、改札を抜けた。赤い色の電車に飛び乗り、入り 口のベンチに腰を降ろす。心臓の鼓動が聞こえる。含み笑いが自然 と出て、止まらない。笑いながらいろいろな想像をした。出来るだ け愉快な想像を。 目の前のおばあさんかこっち見て、訝しげな顔をした。 僕は笑いすぎたせいか、ちょこっとだけ涙がでた。
一ヶ月、あれからちょうど一ヶ月。 一応、チャイムを鳴らしてみたの。留守じゃなかったら逃げちゃ おうかなって。でもやっぱり留守。それで、合い鍵で扉を開けた。 一ヶ月、部屋はなんとなしに違う。ふ〜ん、ちゃんと片づいてる。 「私が居なくても一人で出来るんだ…」 もしかしたら、お母さんが面倒見ているのかな? な〜んだ、心配してちょっと損した気分。 これなら、ほっといても大丈夫ね。 ベッドの上にキティーちゃんの縫いぐるみがあった。一人で買っ たのかな? ホントは、寂しいのね。素直に電話してくればいいの に…、と思った。 そして、また一週間。 同じように扉を開けた。洗面台に化粧品発見。 「あら…? おかあさん? 私と同じ化粧水」 また、形跡を残さないように鍵を掛けてきた。 夜になって、キティーちゃんが気になりだした。だって、化粧水 と縫いぐるみってお母さんじゃないよね? お姉さん居たっけ? それとも、新しい彼女できたのかな? まさかね。 でも、そんなこと聞けないよ。 一ヶ月と一週間前、彼が終わった後、ベットの中で彼に言った。 「私たち、少しの間 距離を置かない?」 アキラは、私の髪を撫でながら答えた。 「サキがそういうんなら、いいよ」 あんまり、あっさりOKされちゃったので、拍子抜けしちゃった。 私たち、付き合いはじめて五年。二人とも就職して、このままず るずると結婚かなぁって思ったら、ちょっと離れてみたくなった。 一ヶ月たって、逢わなくても私は平気みたいだけどと思えるよう になったけど、ちょっとアキラが心配で訪ねてみた。でも奇麗に片 づいている部屋が私を拒絶しているように感じて、そっと出てきた。 縫いぐるみも化粧水も、気にならないことはなかったけれど。 今朝、電話した。 そしたら、 「おかけになった電話は、現在使われておりません」 ってテープが流れていた。 えっ?と驚いてすぐに部屋を訪ねた。新しい入居者に宛てた電力 会社のパンフがドアのノブに下がっていた。合い鍵を差し込んだけ れど、鍵は回らなかった。 頭の中が、白くなってゆくのが分かった。 「アキラ、だまって引っ越しちゃったんだ」 あれから二ヶ月。待たせすぎたってこと? ひどいよ。電話もくれないで。 二人で歩いた道を駅に向かって歩きながら、ひどいのは私だった かもしれないと思った。橋の上で立ち止まった。 「さよならは、いつだったんだろう?」 川に投げ込んだ合い鍵は、音もなく水に消えた。
小豆洗いはブチ切れた。 「いつまでもチマチマ小豆ばっかり洗ってられっかぁ!」 彼の名は小豆洗い。ただひたすらに小豆を洗うだけの妖怪である。 なぜ自分が小豆を洗い続けるのか、彼自身もその理由を知らない。 いや、知っていたのかもしれないが、もう忘れてしまった。 「俺はなぜ小豆を洗っていたのだろう……」 これまではただひたすら小豆を洗い続けるだけの人生だった。い つから自分が小豆を洗っているのか、それさえも忘れてしまった。 そんな彼が、自分の存在意義そのものに疑問を持ったのである。 彼は自分に誓った。 「もう、二度と小豆を洗わない」 小豆洗いが小豆を洗わなくなった時、どうなるのだろう。そんな 事が頭をよぎった。しかし彼はかぶりを振って、もう一度誓った。 「俺はもう、金輪際小豆を洗わないんだ」 彼は自由を手に入れた。嬉しくてたまらなかった。この喜びを誰 かに伝えたい。そう考えた彼は、友人の砂かけばばあの家を訪れた。 「砂かけばばあ、聞いてくれ。俺はな、小豆を洗う事をやめたんだ」 「ええっ、本当かい?それじゃわたしはお前さんをなんと呼べばい いのかね」 彼はそこではっとした。そうだ。俺は今まで小豆を洗っていたか ら小豆洗いと呼ばれていたのだ。ならばもう小豆を洗わないこれか ら、俺は一体何になるのだろう。 「……そうだな。とりあえず、今まで通り呼んでくれ」 「お前さんがそう言うならわたしはかまわないが。だけど例えば、 わたしが砂をかけなくなったらただの『ばばあ』になるんだ。それ でもお前さんは『小豆洗い』のままでいいのかい」 「ま、そのうち考えるさ」 その後彼らはしばらく昔話に花を咲かせ、夜が更けるまで痛飲し た。お互いに砂や小豆をぶつけ合った事。二人で並んで河原で砂を 集めたり、小豆を洗ったりした事。次々と浮かんでくる懐かしい思 い出。ふと気づくと日が変わっていた。彼はだいぶ酔っていたが家 に帰ることにし、砂かけばばあに別れを告げた。 その帰り道、彼の心にはあの質問が何度も何度もリフレインして いた。 “それでもお前さんは『小豆洗い』のままでいいのかい” 「いいんだ……俺はそれでも小豆洗いなんだ……」 ぶつぶつと呟きながら家に帰ると、ふと目に入ったものがあった。 それは小豆のたっぷり入ったざるだった。数百年は使い続けていた ざる。その間洗い続けていた小豆。それがひっそりと置かれていた。 彼の人生が、そこに置き去りだった。
いつも乗っているはずのその電車も、座席一つ違うと実に様々な 風景をもたらしてくれる。車両の端、中あたり、またシートの形状 などいろいろな条件で見えるものが違う。極端な話、座る位置一つ ずれればまた違ったものが見えてくる。 その日、私はとある事情で終電に乗るはめ(もっとも自分から望 んだともいえなくもないが)になった。終電というものは実に混み 合う。ホームにはたくさんの人でごったがえしていた。電車の到着 と同時にホームにたどり着いたので、後ろのほうに並んだのだが、 運良く座ることができた。 その座席は普段使っているようなベンチシートではなく、向かい 合ういわゆるお見合い席だった。通路側に座った瞬間、私は軽い違 和感に包まれた。立っている人が左肩にいるのである。あたりまえ のことなのだがこれがまた実に不思議というかなんというか。耳に イヤーフォン、広げられた小説を前にしてもその違和感はなかなか 消えてはくれなかった。どんなにひどい空間に置かれても人間は数 分で慣れるという。住めば都とはよくいったものである。自然私も ものの数分でその雰囲気に慣れた。 耳には入らないベルの音と共に電車はホームから滑り出した。ゴ トンといった感触を私の体に与えた電車はまたもや違和感をプレゼ ントしてくれた。いつもなら乗客にさえぎられて見ることのない車 窓からの風景が見えるのである。しかも右から左あるいは左から右 へと流れていくのではなく、前から後ろへと過ぎ去っていく。私は なぜかわからない(この稚拙な文章を書いている今でも)がひどく 感動したようだった。本に落としたはずの眼が気が付くと右側の車 窓へといってしまうのである。いつもの、今となっては退屈でしか ない風景が実に新しく感じた。いや、新しいというよりも初めて訪 れたかのような錯覚に陥った。その風景は賞味期限を切れているは ずなのに新鮮で、そのせいか濃厚だった。 君もたまには顔の向きを変えてみるといい。きっと新しい何かを 発見できる。
空から物が降ってきた。寝ぼけた視界をふさぐようにして向かっ てきたので、「あ、オレ死んだわ」と早くも緊張は解けたが、顔に 当った瞬間、確かにオレは死んでいた。 三秒ほどして、「生きている」事が確認できた。物に押し潰され たはずの顔にも痛みはなかった。横を見ると、ただ図体がでかいだ けのダンボール箱が転がっていた。 このときの変な気持ちを示すのには何という表現を使えばいいの だろうか。喜びと怒りと安堵と、ホンの少しの好奇心が混ざり、絶 妙なハーモニーで無と化した、そんな放心状態を分かっていただけ ますでしょうか? ダンボールに命を感じた。「ワレ、ホンとに生きとるんかい?」 と、皮肉っぽい囁きを投げかけてくる。ついつい、苦笑が漏れた。 「知らん!」 これは、オレの言葉だ。 自分の命を説明するのは不可能だ。説明自体に意味がない。もっ と言えば、ダンボールの彼が生きているのか命がないのか、実はそ れすら誰も知らない。凡ては言葉遊びで、だからこそ「言霊」なん て発想が此の世に存在するのだろう。……どうでもいいか。 顔の二倍の面積、体積にしたら四倍ほどの硬質な箱は、角がつぶ れていた。骨折らしい。 高い所から飛び降りたら、例えダンボールといえども負傷は免れ がたい。打ち所が悪かったということになるんだろう。 しかし、どこで骨折したのだろうか。……オレ? 手鏡を出して顔を調べる。赤くなった個所はなく、骨折原因の形 跡はない。視界はあっても意識が混濁していたので箱のどの部分が 当ったのか詳しく知らなかったが、角でないことだけは確かなよう だった。 ホッとした。オレ自身のためにホッとした。 テレビをつける。と、地震速報が流れている。彼に言葉をかけて やる。 「……事故だったんですなぁ」 再び棚に箱を戻した。いつもの空間、いつもの場所に。ここ以外 ではしっくりこない。 万年床に再び寝る。棚の床板からはみだした彼が、じっとオレを 眺めている。 ま、しかし、どれだけ見つめられようと恐れるには値しない。彼 の飛び降り自殺では、俺を殺せないことが実証されたからだ。 瞬間的に、「意識」を殺すことはできたようだが。 「じゃ、おやすみ……」 笑って彼に言ってやった。 名もなき日常の小さな哲学は、こうして終わりを告げたのである。
ムシ暑いのと、何だかミョ−に左足の付け根の辺りがムクれるよ うな感覚があったので、俺はバリバリ足を掻いてやろうと浅い眠り から起きた。 全身がまんべんなく汗をかいているようで、シャツはべとべと、 髪はシャワ−を浴びた後のように濡れていた。 掻くべき足のほうに目をやると、どうもふとももからひざにかけ て普通の汗とも冷汗とも違う、気持ちの底から良くないなぁといよ うな汗がにじみ出ている。 ああ、またかぁ。と思い、膝のした、ムクれる付け根の辺りに目 をやると、やはり滝川が左足にかぶりつき、俺の足のつめの先から かかと辺りまでを、そっくり飲み込んでいやがった。 滝川の口腔は、なまぬるく粘り着いてくる唾液が所狭しと満たさ れているので、気持ちが悪いのでこの野郎とかかとから先を動かし てやると、喉の力を全て使って足を締め付けてきた。 さらに下手に動いてしまったので、足はまた10センチ位滝川の 口の中に、のめり込んでしまった。 滝川はそれがおもしろいようで、顎が外れそうなくらい開ききっ ている口の奥からフフフフフと笑ってくるのだ。 そいつが俺にはとてつもなく気分の悪い行為だったので、怒りに 任せるようにして今度は力一杯足を押し込んでやると、軽くひざっ こぞうの頭まで入ってしまい動かなくなった。 血走った目でふと滝川の目を見ると、奴の目は三白眼をピロピロ とさせながら、瞬き一つせずに、そうして口の奥ではまたフフフフ フと笑っているのだった。
「お前、今度俺に付合え」 タバコを爪先で消しながら奴が云った。 客先からの帰り路、とうとう奴は云った。 (何で僕なんだ......僕は関わりたくない......) あの日、僕は最終電車で運良くボックス席に座る事が出来た。 5つある駅をゆっくり小説でも読みながら帰れる小さな喜びをこの 疲れた身体と頭に麻酔の様に注射していく...... その時突然「ギヤー!」けたたましい女性の叫び声!! すぐ斜前のボックス席から聞こえてきた! 廻りの人々が立ち上が り目を大きく見開いたまま、そして息を止められた様な表情で少し づつ後づさりしながら、手はわなわなと宙を泳ぐ...... 「どうした!......何があったんだ!」 前方の座席から一人の男性がそこへ行こうと立ち上がった。 その瞬間、「ギャー!!!」二度めの叫び声、 僕はそこで何が起こっているのか......何があったのか......両膝がガク ガク踊り、心臓が引付けを起こしそうになるのを無理矢理押さえ込 み、平然を装うのに精一杯だった。 立ち上がった男性の表情は、明らかに恐怖を表し、そこから動けな くなってしまった...... 「何をいまさら......あの頃のお前はこんな奴じゃなかったぜ!」 静かにそして、凍り付きそうな冷たい男の声......僕にも聞き覚えの ある...... (あっ!奴だ!......でもなぜ奴がここに居るんだ......) (なぜこの電車に......) 僕は信じられなかったが、震える膝に力をいれて立ち上がった。 背を向けた人々の間を、手でよけながら斜前の座席をのぞいた。 そこには、唇の右はじを少しつり上げ、無表情な笑みを浮かべた奴 が、前の座席の男に向かって冷たい視線を向けている。 そして、首をうなだれ両肩を落とした男がまるで、12ラウンドを 戦い抜いたボクサーの様に、肩で大きく息をしながら座っている。 (山田先輩!......) 男達の間の床には、おびただしいスポーツ新聞が異様な生物にでも 被された様に電車の揺れと反復するように動いている...... 次の瞬間、冷ややかな視線を感じ、僕は奴へと目を移す...... 奴が僕を見つめている! その冷たい瞳が「次はお前の番だ」と云 っている、僕はナイフを背中に突き立てられた様に、そこから動け なくなっていた......。 奴の酒に付合った者は、皆あんな風になるんだ。 次の日、山田先輩に聞いた事だが、奴は家に来て迄も平気でバーボ ンを水の様に飲んでいたらしい...... 「次はお前の番だ」奴の瞳に僕は怯えている。
今日、しろくろが遊びに来た。 真っ黒い耳に白い顔、真っ黒い体に白い足。 靴下を履いてるようなしろくろは、ぱぱしゃんに抱っこされてぐ っすり眠っていた。 僕は、ねこじ。 オス。 4さい。 しましま。 まるしっぽ。 まぐろがすき。 ひなたがすき。 お外もすき。 ぱぱしゃんとまましゃんもすき。 最近ちょっと、お外に出してもらえない。 この前、遊びすぎて5日も帰らなかったから、ぱぱしゃんとまま しゃんが、すごく心配したからなんだ。 隣りのうちのしょうたが時々遊びに来るから楽しいけど、やっぱ り時々はお外に出たいなぁ。 しょうたはいつもお外の匂いがする。葉っぱや土の匂い。 きっと、しろくろもお外の匂いがするんだろうな。 早く一緒に遊びたいよ、早く起きないかな、どんな声かな。 しろくろに手を伸ばしたら、まましゃんが僕を抱き上げた。 何で。 眠ってるから? 僕、一緒に遊びたいよ。 まましゃんがどこかに電話をかけて、ぱぱしゃんがしろくろを外 に連れて行こうとした。 連れてかないでよ、まだ遊んでないよ、声も聞いてないよ。 ぱぱしゃんに飛びつくと、腕からぽとりとしろくろが落ちた。ね むったまんま、どさりと床に落ちた。 まだ、しろくろは眠っていた。 いつも愉快なぱぱしゃんが無言でしろくろを抱き上げた。 外に連れて行ってしばらくすると、大きなトラックが来た。荷台 には、ビンや割れた電気がたくさんあった。ぱぱしゃんがしろくろ を渡すと、トラックの人はビンの上にしろくろをどさっと置いた。 しろくろはゴミじゃないよ!! 僕はぐにゃっと動いた。 僕を抱っこしてたまましゃんが僕をぎゅっと抱きながらあっと言 った。 ぱぱしゃんが、怒ってしろくろを取り上げた。 動かなくて、固くなっていたしろくろ。 トラックが行ってしまった後、ぱぱしゃんは庭に大きな穴を掘っ た。 そして、柔らかい紙にくるんだしろくろをそこにそっと置い た。その傍にネコ缶を3つ置いて、葉っぱをたくさんかけて、そし てまた土をかけた。 しろくろの真っ白い手が見えなくなる瞬間に、僕は一度だけにゃ あと泣いた。
これはね、単なる愚痴だと思って聞いてくれよ。生きるの死ぬの なんて重い話じゃないからさ。 事の起こりはつい二日前のことなんだ。いや、本当にたいした話 じゃあないんだけどさ。 まあ、確かにそれまでにも聞いたことはあったさ。大昔にアメリカ の方でね、色が黒いとか白いとかで差別があったって話はね。だけ ど、それは昔の話で、それもここは日本だぜ。 特にこの町じゃあ、むしろ外国から来たやつやハーフのほうが多 いくらいじゃないか。 それがだよ、二日前のことさ。昼飯食ってから、暇だったんでね。 たまには、駅向こうでも行ってみようかなと思ってさ。ほら、新し いスーパーが出来たらしいじゃないか。そいつをちょっと覗いてみ ようかな、なんてね。 一丁目裏の公園前の通りをぶらぶら歩いていたわけよ。公園とタ バコ屋の間に細い路地があるじゃないか。あそこを横切ろうとした ら、奥の方の家からばあさんが出てきたんだ。 俺が見るともなしにそっちを見たら、ちょうど、ばあさんと目が あったんだ。そうしたら、ばあさん、どうしたと思う? なんか妙な声を上げたと思ったら、今度はぶつぶつ言っちゃって さ。慌てて家の中に引っ込んじまったんだ。 まったく失礼なやつだと思ったね。だってそうだろう。俺を見る なりだぜ。随分じゃないか。俺は幽霊でも、化け物でもないんだか ら。いたって普通、普通ですよ。そりゃあね、確かに俺は色黒です よ。隣の、マリアさんみたいに色白じゃあありませんよ。 だからって、あのばあさんに危害を加えたり、脅かしたりなんて しやしない。大体、あんなばあさんからかったって、何にも面白く ないしね。あんたから見て、俺って悪そうに見える? 怖そうに見 える? でしょう。 まあ、後から小太郎に聞いたら、あそこのばあさんは、昔っから 信心深いって有名だったらしいんだけどね。俺はそんなこと知らな かったから、あの日はずっと気分が悪かったよ。 でもね、未だにそんな風に見られてたのかと思ったらなんだか悲 しくなっちゃって。 もうすぐ、二十一世紀だっていうのに。 本当にいかんですよ。色の黒い・白いで決め付けるなんてのは。 差別ですよ、差別。そう思うでしょ。 まあね、皆が皆そんなんじゃないとは思うけどさ。現に、俺が世 話になっている中村家の人達は皆、大事にしてくれてるしね。 しかし、一体誰なんだろうねえ。最初に言い出したやつは。 ”黒猫が横切ると不吉な前兆だ”なんて。
その日…。 世界は終わりを告げようとしていた。 なんの変哲もない、静かなある晴れた日のできごとだった。 どこかで誰かが言った。 「なぜ、世界が終わるんだ?」 どこかで違う誰かが言った。 「始まりの日があるから、終わりの日があるのさ」 そうして、世界は最後の日を迎えた。 子供たちは笑わない。 誰かがどこかで泣いている。 眠らない夜。 けたたましい笑い声が響く。 喧騒の中で誰かが転ぶ。 信号が変る。しかし、車は止まらない。 恐怖の悲鳴。 暗がりの中で、人がうごめく。 道端で眠っているおとこ。 誰かが誰かを刺す。そして、誰かが死ぬ。 誰も気づかない。 目的もなく、ただひたすら歩きつづける人の群れ。 歩きつかれたように道端にうずくまるおんな。 電灯に集まる虫たちのように、明かりに吸い寄せられる子供たち。 感情に左右される、子供のような大人たち。 大人になりたくない。 子供たちが言う。 子供がわからない。 大人たちが思う。 なんのために学ぶのか。なんのために考えるのか。 なんのために働くのか。なんのために営むのか。 なにを悲しむのか。なにを哀れむのか。 なにを楽しむのか。なにを喜ぶのか。 なにがそうさせるのか。なぜそうしたのか。 だれもしらない…。 ひとりの詩人がつぶやいた。 ダレモシラナイ…。 そうしてこの日、世界は静かに終わった…。 「おはよう」 「おはよう」 「よく眠れた?」 「うん、気持ちのいい朝だね」 「そうだね。なんだかうきうきしちゃうよ」 「ほら、小鳥がないているよ」 「あたたかくなってきたからね」 「今日は洗濯ものがよく乾きそうだね」 「にわとりの卵、とってきて」 「ついでに真っ赤ないちごも摘んでくるよ」 「今日は何して遊ぶの?」 「久しぶりに、山に入ってみようか」 「パパも一緒に行ってもいいかな?」 「あなた、はやく卵を取ってきて。パンが焼けちゃうわ」 温かいスープの香り。 子供たちは楽しそうに食卓を囲む。 母親は食器をならべながら、ミルクをそそぐ。 父親が外に出るために、ドアを開けた。 太陽の日差しと、緑の草むらを駆け抜ける風の香り。 一瞬、家族がまぶしそうに目を細めて外を見る。 「まるで、始まりの朝みたいだ…」 誰かがつぶやいた。 青空の中、雲だけがゆっくり流れていた。
スタートの合図でみんないっせいに飛び出した。ボクは必死に泳 ぎ続ける。 膨大な数の競争相手。だけどボクは負けやしない。とにかく力の 続く限りこの広い海を泳ぐだけだ。 ボクの横を全速力ですり抜けていく奴がいた。元気そうだけど、 最初からそんなに飛ばして大丈夫かな? スタミナ配分をよく考え ないととても最後まで持たないよ。なんせ過酷なレースなんだから。 案の定、さっきの奴はバテたようだ。急にスピードが落ちて、ほ とんど動きを止めたようになり、どんどん他の奴らに抜かされてい く。ボクもたった今、抜かしてやった。 後ろを振り返る余裕なんかない。これからは体力勝負だ。 ポクは得意の泳法で瞬く間に何人かを抜いてやった。みんなの舌 打ちが聞こえそうだけれど、油断は出来ない。やっと先頭集団に迫 れたのだ。あと少し。もうちょっとであの中に食い込むことが出来 る。 集団の中の一人がボクの方を振り返り、さもイヤそうな顔をした。 フン。今にボクが先頭になってやるぞ。 ボクは意識してピッチを上げた。一番手の奴にようやく接近する。 もうどれくらいの距離を泳いだだろうか。かなり脱落した奴もい るはずだ。だけど、ゴールは刻一刻と近づいている。 ボクは頭ひとつ分、奴を抜いた。相手も必死の形相を見せてスピ ードを上げてくる。どうやらコイツとの一騎打ちになりそうだ。 激しいデッドヒート。抜いたり抜かれたり、ボクたちは死闘を繰 り広げる。 だけど、だんだん体力の限界を感じ始める。ボクも奴もかなり疲 れている。でも、やっとドーム状のゴールが見えてきた。それはキ ラキラと光ってボクを迎えてくれる。 よし、やっと辿り着いたぞ。ボクはなんとかドームの中に入ろう とするけれど、なかなかすんなりとは入り込めない。 そうこうしているうちに奴もやって来た。マズイ。先を越されて なるものか。もう体はボロボロだったけれど、ボクは最後の力を振 り絞ってドームの壁に体当たりをした。 その時、やっとボクの頭が壁を突き抜けた。やった! ボクの勝 利だ。もう誰も入って来られないぞ。 卵子の核を目指して最後にボクはひと泳ぎする。これで融合出来 るのだ。待ちに待った瞬間が訪れた。 「ねえ、あなた。私、今度こそ妊娠するような気がする」 「ホントか? 早く会いたいな。俺たちの赤ちゃんに」 「やぁだ。気が早すぎるわよ」 そう言って新婚の妻は夫の胸に顔を寄せ、ベッドの中でそっと微 笑んだ。
偶然、その事故のニュースを見た友人からの電話で、私は恋人の 洋の死を知らされた。元恋人、と言った方が正しいかもしれない。 突然連絡が途絶えたきり丸二ヶ月、一度も声を聞くこともなく、お まけに事故を起こした洋の車の助手席からは、私の知らない女性の 遺体も共に発見されたからだ。 夢を見ているような気分で、私は彼の通夜に出向いた。ふられた 女がのこのこと出かけてゆくのもおこがましい場所ではあるが、未 練を断ち切るためにも、この二ヶ月間、嫌というほど味わった惨め な想いを忘れるためにも、お焼香くらいは許されるだろう。 記帳を済ませ、私は彼の遺影に向かった。目を閉じて合掌しても、 優しい言葉のひとつも思い出すことは出来なかった。 (ひどい人ね……) 無口で、愛想のない男だった。 お焼香が終われば、それ以上の長居は無用だった。洋の人生にと っては、たとえ生きていたとしても、既に私は部外者になっていた のだから。 「田島さんでしょ」斎場から立ち去りかけた時、名前を呼ばれた。 驚いて振り返ると、微かに見覚えのある顔があった。以前、洋と渋 谷のデパートに行った時、偶然会った洋の幼馴染だ。洋はばつの悪 そうな表情で私を紹介した。恋人ともなんとも言わず、ただの田島 さんと。苗字だけ。男は確か、吉田と名乗ったと思う。 「少し時間ありますか。話があるんです」吉田が言った。 話? 洋が私に遺言でも残していたというのか。まさか。 私たちは駅前の喫茶店で向かい合った。 「洋の父親が借金の保証人になったのを知っていました?」 「いえ」家族の話なんか、聞いたことがない。 「友人の借金を被って、家は火の車だったんです」 その話も初耳だった。 「助手席に乗っていたのは洋に横恋慕していた女で、資産家の娘で した」 「じゃあ、洋は……」 「策略結婚を狙っていたんです」吉田が残念そうな表情を浮かべる。 「これ」吉田が上着のポケットを探り、銀色に光る小さなものを取 り出した。差し出されたのは、間違いなく、私のアパートの合鍵だ った。私が洋にあげたものだ。 「過去の女のプレゼントは全て処分させられたそうです。でもこれ ならわからないでしょう。形見分けでもらいました」 叫び出しそうになるのを堪えて、私は唇に掌をあてた。 「口下手な奴でしたけれど、洋は貴女を心から愛していたんです」 気の利いた言葉の代わりに、私は洋の、はにかむような微笑みを 思い出し、頬にはようやく涙が伝った。
「へえー、すっげー」 永野浩一が小学校に持って来た本を、皆は額を付き合わせて覗き 込む。 そこには、イギリスで発見されたという麦畑のミステリーサーク ルの写真が載っていた。 「これって、UFOのちゃくりく後なんだろ?」 「プラズマだってはなしもあるよ」 「カマイタチだって」 「にんげんには作れないカタチなんだよな」 群がるクラスメイトたちを横目に見ながら、中井義雄は鼻で笑う。 「それって、イタズラだったんだぜ。知らないのか」 「なんだよ、インチキだっていうのか」 浩一は義雄に詰め寄った。 「大分前の新聞にのってたぜ。たった二人で作ったって」 「だ、だとして、せかいじゅうにあるんだぞ、二人でそんなことで きるのかよぉ」 「バカだな、その二人のやってるのを真似したに決まってるじゃな いか」 「じゃあ、これはどうなんだよ」 彼は別のページをめくって突きつける。 「このミステリーサークルができたときには、だれもいなかったっ ていうぞ。これはUFOがいたしょうこじゃないか」 「それじゃ、そのUFOを見た人は?」 「み、見えないUFOだったんだよ!」 「だったら何だって言えるじゃないか。僕は百億万円持ってるぜ、 お前には見えないとこにね」 その日の晩。 「ただいまー」 「あっ、パパね」 母親が食卓を立ち、義雄もそれに従って父親を出迎える。 「お帰りなさい」 「玲子、義雄、ほらこれ!」 父親は内ポケットから一通の封筒を取り出した。 「辞令? まあ、昇進じゃない!」 「ああ。給料もかなり上がるらしいよ」 「へえ、パパすごいね」 「ははは、凄いだろう。同期よりもずっと早い出世なんだぞ」 芝居っぽく父親は自分の胸を叩く。 「さあ、ご飯にしようか玲子」 「ええ、そうね」 父親と母親がダイニングに向かおうとした時。 「――あれ、パパ」 ふと、義雄はそれを見つけた。 「なんだい?」 「頭の後ろのとこ、禿げてるよ?」 「え? まだパパはそんな歳じゃないぞ、ははは」 母親が父親の後頭部を確認する。 「あらパパ、本当よ。円形脱毛症ね」 「ええっ……」 「確か円形脱毛症って、強いストレスでできるんだよね? なんで パパに――」 「何言ってるんだい義雄、ス、ス、ストレスなんか、ないぞぉ!」 固い笑いを浮かべ、父親は後頭部の円に手を当てた。 「そうよね、妻の、あたしと義雄が待ってる家に帰るんですもの、 カケラほどのストレスもないわよねぇ」 母親はにっっこり笑った。 「さ、ご飯にしましょ」
光秀は疲れていた。 精悍な中に知性の輝きを宿した瞳も虚ろに鈍く、頬はこけ、目元 は深く落ち窪んでいる。 月光に照らされた竹林を行く一行は、およそ七騎。明智家古参の 家老、溝尾勝兵衛を先頭に、光秀は前後を近衛に護られている。 光秀は、信長の仇討ちを掲げた羽柴秀吉率いる軍勢に敗北した。 如何に光秀といえども、倍以上の兵力差を覆す事は出来なかったの だが、決戦というに相応しい激戦であったと伝えられる。 天正十年六月十四日未明。 彼らは今、光秀の所領、近江坂本を目指して落ちていた。 道はまだ、遠い。 ――わしのやって来たことは、何だったのであろうな。 信長を次代の旗頭として仰ぎ、己はその補佐官として政を見、戦 乱に荒れた日の本を平らかに治める夢。 新しい政府を作る――信長の理想は、光秀の夢でもあった。 ――それを……己の手で打ち砕いてしまったのだ。 大粒の涙が零れた。はたはたと落ちる滴が陣羽織を濡らす。 後悔の涙ではない。 あと五年もすれば、確かに信長の天下布武は成ったであろう。だ が五年の間に、どれだけの血が流されることか。敵味方の兵だけで ない。無辜な民草こそが、戦乱の犠牲となるのだ。 ――わしは……天魔信長に、降魔の利剣を振るったのだ。 後悔は無い。 だが、胸中の大きな喪失感は如何ともし難かった。この心の空虚 さは、妻を失ったときと同じだ。 「わしは……信長様に惚れておったのか」 刹那。 「――ッ」 右の脇腹を熱い痛みが貫いた。竹林の闇に潜んでいた雑兵の槍が、 深々と突き刺さっていた。 光秀は最期の力を振り絞って太刀を抜くと、雑兵の肩口を斬り下 ろす。 「殿ッ!」 近衛が駆け寄せ、雑兵を斬り捨てる。 平衡を崩し、馬上から転げ落ちる光秀。傷口は破れ、吹き出す鮮 血が月を朱に染めた。 「光秀様ッ!」 勝兵衛が馬を飛び降り、主君の身体を抱え起こす。 「……兵衛、わしの首は……ひろ子のもとへ」 「殿ッ!」 光秀の血に染まる勝兵衛。 「ひろ子……ようやく楽に……」 「殿――ぉッ!」 家臣らの悲痛な叫びが竹林に消えた。 享年五十五歳。本能寺に信長を討ってより十ニ日のことである。 光秀の首は、遺言通りにひろ子の墓に埋葬された。 百姓に身をやつし、命懸けでこの墓所に辿り着いた勝兵衛は、そ の奇跡に涙した。 ひろ子の遺体は、埋葬当時の美しい姿のまま眠っており、主の御 首をその腕に抱かせると。 ふたりの口元は、そっと微笑んだという。
「ポケットには、いろいろある」と男は言った。「たとえば、あん たのそのポケットには財布が入ってるな。どうだ、入れた感じは?」 僕は財布の入ったポケットに手をやった。良くも悪くもない。 「ふつう、ですけど」 「見た感じそのポケットは財布用に作られたもんだろう。快適でな いんなら、そのポケットを作ったやつの腕が悪いんだ。財布を入れ るためのポケットなら、ほんらいは、財布を入れると快適であるべ きなんだ」 真剣な面持ちで語る男の前には、いろいろなポケットが並んでい た。とはいえ、ポケットが単体で並んでいても、ただの小さな袋の ようにしか見えない。 「残念なことに」と男は悲しそうに言った。「腕のいいポケット職 人はきわめて少ない」 けっきょく僕が選んだのは、金魚を入れるためのポケットだった。 ちょうど金魚がうちにいたし、デザイン自体も僕のズボンにあって いた。 「500円だ」男はニヤリとした。「安いだろう?」 たしかに安かった。ポケットの単価がどれぐらいのものなのか全 く知らないが、500円は悪くないと思う。なにしろ金魚が入るの だ。仮に騙されているにしても、それくらいならば許せる気がする。 「もちろん縫い付けもサービスだ」と男は言って、履いたままの僕 のズボンの上から、ポケットを縫い付け始めた。不思議と恐怖感は なかった。そして男は当然のように作業を終えた。僕に針は刺さら なかった。ポケットはきれいに縫い付けられていた。 「出目金は入れるな」と男は言った。「そのポケットにはなじまな いからな」 家に帰り、水槽から金魚を1匹取り出して、さっそくポケットの 中に入れてみた。 金魚がポケットの中で動いていた。実に心地よかった。金魚のリ ズムがポケットを通じて僕に伝わり、すぐにでも泳ぎ出したい気持 ちになった。自然と手足が動いた。いままでポケットの中に財布な んかを入れていた自分がバカみたいだった。ポケットは金魚を入れ るべきものだったのだ、そう思った。 しかし、少しずつ金魚の動きは小さくなっていき、しまいにはま るで動かなくなった。僕はポケットから金魚を取り出した。僕の手 のひらの上で、金魚はピクリともせず横たわっていた。 「そりゃそうだろう」僕が男に苦情を言いに行くと、彼は平然とし た顔で言った。「あのポケットは金魚を入れるために作ったもんだ が、べつに金魚はあのポケットに入るために生まれてきたわけじゃ ない」 もっともだ、と僕は思った。
その頃、僕はよく草原の羊の夢をみていた。なにもない草原で孤 独な羊は僕をじっとみている。寂しそうな眼をしている。羊はその まま動かず僕もただ羊をみるだけだ。 だけど直子と出会ってから羊の夢をみなくなった。 大学の講義に出席せず僕はほとんど学生マンションの部屋で寝て いた。外出するにしても近くのコンビニで生活に必要な物を買いに 出るくらいだった。直子は僕の部屋にくると机にむかって勉強をす る。なぜそんなに勉強をするのかとたずねると、 「大学院にいって心理学を勉強したいの」 といっていた。僕が勉強がそんなにおもしろいかと聞くと、 「こんなの、おもしろくもなんともないわ」 といった。 彼女は勉強のあいまに僕の横たわっているベッドに入ってきた。 そしてセックスをした。彼女とのセックスは感情のないマネキン人 形とでもしているかのような錯覚がした。まるでそれはある儀式の ようなものであり単調な反復動作をくりかえすだけだった。セック スがすむと彼女は服も着ずに机にむかった。長いきれいな髪、肩、 胴のくびれ、椅子からはみだしそうな臀を僕はずっとあきもせずに 眺めた。 あまり僕が外出しないので直子は僕にいっしょに旅にでようとい いだした。そして僕は直子と北海道に流氷をみる旅にでた。機関車 をおりた無人駅には一日にとまる何本かの機関車の時刻表がかかっ ている小さな待合室があった。駅をでると古い木造の喫茶店があっ たがすでに誰も暮らしている様子はなく店は閉められていた。遠く からくる強い潮風が積もった雪を舞いあげ人間を遠ざけようとして いる。僕たちは海にむかって歩いた。しばらくして海岸にたどりつ くと、海の果てに流氷がきていた。海には粉雪が波のうえに落ちて は消えていた。 「なんだかとっても寂しいところね」 と直子はいった。 帰りの機関車をまっているあいだに直子は待合室の壁に石で僕の 名前と直子と書いて傘の絵を描いた。 「相合傘よ」 と直子はいった。 しばらくして直子は僕のマンションにこなくなった。大学にいっ て直子のことを知っている人をさがし、聞いてみると彼女は自殺し たらしいといった。大学のなかには彼女のことをくわしく知ってい る人はいなかった。 僕は直子の思い出をさがしに北海道にいった。駅にはまだ直子と 僕の名前の書いた相合傘が残っていた。僕はそれを指でなぞった。 知らぬまに涙がでていた。 そして僕はまた草原の羊の夢をみるようになった。
俺は文才。物書きが書く時に言葉にする能力だ。人は誰でも持っ ている。作者のイメージを言葉に変換する。 俺の主人は、貧乏の上に風采も上がらないから、今まで浮いた話 しも全くない。人生経験も少ないのに、俺が文章を紡ぎ出せる訳が ないのを、知らないようだ。せめてバイトの一つや二つ、やってい るのならまだしも、暗いし社交性もないから、バイト経験さえない。 俺は今まで暇を持て余していたんだが、この主人、何をトチ狂っ たか小説を書き始めた。 そんな俺が最高の状態になれるはずがない。しかもこいつは官能 小説を書こうと思っているらしい。主人は今までポルノを読んだ事 もなければ、映画も見た事が無い。それなのに、ひょっとしたら売 れるかもなんて、バカな考えに取りつかれたようだ。 まぁ、こいつの頭の中に浮かんだ情景を、ただ俺の言葉で表現す るしかないだろう。 和服の女が(いや)肌襦袢姿の女が縛られていた。(うーん)ピ ンク色の肌襦袢だけを引っ掛けた女が、両手を縛られていた。 「いや!」 突然女が叫んだ。すると女の口に黒い皮の手袋をした毛むくじゃ らの手が横から出てきて、覆った。(大写しのイメージを俺が男を 辿ると、主人の顔だった。なんだ自分の小説に自分が登場か。まぁ 想像力のない男だから、仕方がない。しかし奴は毛むくじゃらじゃ 無いから、一応想像はしてるんだろう。だがこの女は近所に住む女 子大のかわいこちゃんだ。ったく。和服姿を想像するなよな。無か らねぇじゃねえか) 男は近くにあったタオルを、グイグイと女の口に詰めこんだ。 「大人しくしないと、痛い目を見るぜ」 男は下卑た笑いで、女の襟元を一挙にはだけた。 (ちょっと変かなぁ。まぁいいや。どうぜ奴には変なところは判ら ない) 女の豊満な(いや)たわわな(変だ)むっちりとした(これだ) 胸(いやいや)乳房が、男の目の前に、私を吸って(…)私を…? 犯してと(そんな訳ない)男の目の前に、踊り出た。(?…まぁい いや) 男は乳房に吸い付くと、「美味え」(おいおい、本当に美味いの か?今まで乳房に吸い付いたことないだろ)と一声発すると、女の 股間に顔を埋めた。(えっ?どうするの?) 女の股間(股間ってのも変だよなぁ…)に舌を挿し入れ(えぇ? 舌をどうするんだよ?股間だって…? 多分毛があって… ワレメ? アナ? あっ!「ビーナスの誕生」…? ダメ。髪の毛で隠れてる。 主人は、6行書くと諦めた。
座席の確保を目的として早朝の電車を利用する為、都心のオフィ スでは、出社は遠い順となる。 いつものように、掃除のおじいさんよりもお茶汲みのおばあさん よりも早く到着した会社で、出がらしの煎茶をマイ湯呑に注いだ桃 太郎は、自席に着き、昨日の部長の言葉を思い出していた。 「今回、社員数の25%カットを実行することとなった。課長諸君 は、担当部署の削減案を作成し、明後日までに提出するように……」 「おはよっす。桃さんいつも早いっすね。」猿が出社してきた。課 長の私を捕まえて「桃さん」呼ばわりで憚らない。「ときに桃さん、 聞きましたか、リストラの噂。盛んに飛び交ってますよ。何か知っ てらしたら、内々に教えといて下さいよ。いきなり、バサッと切ら れたんじゃ、堪りませんから」予防線を張ってるつもりらしい。ま ったく猿は要領がいい。こんな風に取り入っていながら、ちゃんと 再就職の当たりは付けているらしい。もともと器用な猿のことだし、 「猿蟹合戦」「御猿の駕籠屋」「猿の惑星」と就職口はいくらでも ある。こいつなら気軽に馘首に出来そうだ。しかし、こいつが抜け ると現業に支障を来たすし……。 「お早うございます」犬出社。すぐ着席し、鞄から書類の束を取り 出す。電車の中でも卓袱台の上でも仕事を忘れないやつだ。勤勉さ は買うが、どこか要領が悪い。猿と同様、再就職に苦労はしないだ ろうが、馘首にしたら、私を逆恨みする危険が大だ。 「オッハー」派手なアクション付きの場違いなあいさつで雉が登場。 「カチョー、今日は火曜日なんで、お花を買ってきましたー。可憐 なフロックス。花言葉は『合意の関係』どぅえーす。お金は後でい いですからね」化粧した男の意味ありげなウインクに、すぐさま馘 首にしてやりたい衝動に駆られる。こいつさえ消えてくれたら、ど んなに住みやすい世界になるか。 しかし、出来損ないの雉がいるから、犬と猿とが正面衝突しない で済んでいる面も否定できない。雉が欠けると課内は毎日戦々恐々 となるに違いない。一触即発、血で血を洗う下克上となりそうだ。 「課長。書類は出来たかね」突然の声に驚く私に部長は「何だ、ま だ白紙のままか。だいたい君は優柔不断でいかん。部下の首も切れ んような課長はいらん。貴様が馘首だ。後任は犬君にやって貰おう」 と捲くし立て、踵を返した。 課員の同情の視線を浴び、驚愕と混乱に身を任せつつ、私は気づ いた。「鬼は部長になっていたのか」
「口喧嘩は先に仕掛けたほうが負ける」 と、得意満面で言った男がある。都築という。その発見を告げら れた他方の男は能代といってガッチリとした男である。能代のほう が頭一つ分は背が高い。そのせいか年少者が年長者を説いているよ うで少し奇妙な感じもする。というよりも、能代のような大男が、 都築が語るような論理的なことに興味を持つということ自体すでに 疑わしいものがある。 「だって、仕掛けられたほうは相手の言うことに耳を貸さなければ いいんだから」 「それじゃ口喧嘩にならないじゃないか」 「でも実際の口喧嘩なんてそんなものだよ」 「そんなことはない」 「そんなことないことはない。否定されてるうちに先手は言葉に詰 まって、それで負け」 「だからそんなのは駄目だって」 「……」 興味は確かにあるようなのだが、能代は根本的に理解力に欠けて いるようである。直接的な言い方をすれば、馬鹿。より野性に近い 傲慢さを持つ人間。頭でっかち文化的人間都築の天敵といえる。 (それでも二人は仲間であるが) 「なんだよ。もう終わりかよ」 飽くなき知識欲、というよりも勝利の快感を貪る魔獣。 都築はそれでも、くじけることなくなんとか切り返した。今度は 発見の喜びからではなく、あくまで能代に勝つために。なぜなら、 最初の理論はここまでのやりとりですでに実証されているから。 (もっとも、その理論を都築自身が忘れてしまっているようだが) 「口喧嘩は馬鹿が勝つ」 「それは違うだろ」 「でも、頭が弱い奴は力に頼るしかないだろう。自分の立場が弱く なるとすぐ腕力をちらつかせて、結局、最初っから『腕力』とタッ グを組んでるようなもんじゃないか。それじゃあ、口先だけが頼り の奴は勝てっこない」 「だからそれじゃ口喧嘩じゃないじゃないか」 「でも実際のところ、本当に腕力を奮わなければそれは口喧嘩と言 ってると思うけど」 「それはおまえの被害妄想だ」 「そんなことはない」 わずかに乗ってしまったばっかりに、二人の立場が逆転した、か に思えた。 「そんなことないことはないだろうがよ。間違ってるものは間違っ てる」 「間違ってない」 「間違ってる!」 その言葉は威圧的であった。腕力の影がちらつく。 「……これじゃあ脅迫じゃないか」 「おまえの話じゃ、脅迫だって口喧嘩じゃないか」 うまいことを言う、と思った。 普通の喧嘩もできないような弱気で力のない奴は、どんな喧嘩も できはしない、と思った。
あさっては私の住む市の市長選挙がある。散歩で公園の前を通っ た時、大きなベニヤ板にたくさんの顔写真が貼ってあった。じっと 眺めてみたが、ろくな奴はいないと思った。これではよくない、と 非常に強く感じた。それで私は家にあった「肉感派AV女優水島葉 子のヌードポスター」をここに貼りつけたのである。次の日にまた そこを通ったら、思った通りはがされていた。でも、このポスター はある程度人の目に触れているはずだから、市長選の際、「水島葉 子」に投票する人が何人かいるはずである(と私は思うのだが)。 前衛芸術家の私は、しばしば筆をとって抽象画を描く。そしてピ カソよりもすごいやつをしばしば描いている(と私は思うのだが)。 さて、ある時私は茶色い絵の具が手にべっとりついているのを見 ながら、あれこれと思案していた。すると、素晴らしい考えを思い ついたのだ。私は手を洗わずに、急いで近くのスーパーマーケット へと向かった。そこに着くと、野菜や果物を陳列しているコーナー へ行き、手でキャベツの裏やトマトの腹やりんごの尻などをなでる のであった。かくして私は「汚れた青果コーナー」という名の、今 まで作成したことのない実体的前衛芸術を完成したのであった。 深夜、私はふと外を散歩したくなることがある。それで静まり返 った住宅街を一人でゆっくりと歩く。 その日もいつものように深夜散歩をしていたのだが、突然尿意を 感じた。それは団地の中で、幾棟もの建物の影が夜に混じって深い 陰影を落としているのであった。私は目の前にあった階段をのぼり、 3階で立ち止まった。左右にドアがあり、それぞれ「佐藤」「吉川」 と表札が出されていた。私は断然「佐藤」の方が好きなのでそちら のドアの前に立った。そして、玄関のドアの新聞入れを手で開けて、 そこに私自身を解放するのであった。水の速い流れがキラキラと光 って見えた。 私は用を足し終わると、今までにない安堵感を抱きつつ、家路に 向かった。そして私は考えた。今したことは、303号室の佐藤さ んのお宅の防災にひどく役立つことなのだ。例えば火事が起きた時 は、玄関ポストから消火器を噴射せよ、ということではなかったの か。ということは、私は佐藤さんの家の火事を未然に防いだことに なり、このことはいたずらどころか慈善行為であり、消防庁から表 彰を受けて当然である。 私は、火事で死ぬよりは洪水で死ぬほうがずっとましである。
「ステップにお立ちになると危険です。整理券をお取り下さい..」 大抵の事は許してしまうのが、オレの特徴といえば、そうだ。 45歳を越えてからというもの、ブスも金持ちも政治家も皆が好き な民主主義までも、全て許して生きている。 上司の言う満面の笑みはつくれそうもないが、それでも金歯をキラ リと光らせるくらいの愛想笑いは浮かべているつもりだ。 「次は○○四丁目。傘などのお忘れ物のない様お願いいたします」 運行時間通りでない場合は、黄色信号で突入することも、しばしば 経験済みだ。最近は黄から赤でも強行突破出来る様になった。 当社の中では恐らくその実績ナンバー1は、このオレだ。 下手すりゃ事故ってしまう。なかなか1番にはなれない。 それだけが自慢なんだ。 けだるい午後の小雨模様が、ワイパー越しに大降りに変わっている。 (ああ、油で磨きあげた車内デッキもべしょべしよで滑りそうだ) タバコの脂の混じったグリースの匂いが鼻をつく。 いつもの並木通りも、雨にけむり街全体が静かに呻いているかに思 える。 対抗車線側の歩道を顔グロの女子高生が、グログロになって傘もさ さずに歩いている。体の線や表情から既に成熟しきっている。 あのぺースでいくと30歳で人生終わりだな。 まァ許そうか...。 こちら側の歩道を銀行マン風が、頭にハンカチをのっけて走ってい る。 赤塚不二夫のマンガに出てくる足をクルクル回転させた走りだ。 ハゲだが、年収1500万以上だろうからなァ。 まァ、許そうか。 おおッ!いつも乗ってくる小学二年生の坊主が、ずぶ濡れで次のバ ス停まで駆けている。距離は相当あるぞ坊主。 これは許せないぞ。 「急ブレーキにお気をつけ下さい」 キキッ! ガッシャン! 「おい、乗んな」 「おじさん有難う」 頭がもずくみたいに濡れて光っている。 風邪引くなよ。 「何でバス停でもないのに止んのよー」オバタリアンが叫ぶ。 (口紅ぐらいつけろ) 「何かあったのか」とタコおやじ。(口臭が届きそうだ) ブツブツ言うな。運行時間に影響ねェぞとキレそうになったが「ま ァ許そうか」とアナウンスして、静かにバスを再始動させた。 上司や会社が恐くてバスが運転できますか、あんた。 (こんなアホなおじさんだが許せよ坊主) 運転席の後ろの坊主だけがキラキラ微笑んでいる。 よしよし気分は上々と......。 しまった! 通過した停留所の3人が、傘を振り回して何か喚いて いる。 まるで茹でダコの形相だ。 「まあ許そうか」 坊主が呟いた。
夏の終わり。夜中にバンッと、ベランダに出るガラス窓に何かが ぶつかる音がした。わたしはおそるおそる窓を開けて、薄闇に目を 凝らした。 大きな蝉がうずくまっていた。 「あああ」と蝉はこちらを見上げた。「痛かったよお」 そんなの知るか、とわたしは思った。なのに蝉は、まるでわたし に何か落ち度でもあったかのように恨めしそうな目を向けた。わた しは窓を閉めかけた。 「待って下さい」と、か細い声をあげる。 「何よ」 「せめて水を一杯」と蝉は言った。「喉がかわいて、ふらふらなん です」 まあよかろうそれぐらい、とわたしは台所からコップ一杯水を持 ってくる。と、蝉はちゃっかり居間に上がり込んでいた。 わたしはコップを叩き付けるようにテーブルに置いた。「これ飲 んだら早く出てってよね」 蝉はちょっとシュンとして、おとなしく両手でコップを口に運ん だ。こくんこくんと微かに何かが軋むような音が遠慮がちに響いた。 「おいしかった」と唇をぬぐいながら小さな声で言う。「ほんとお いしかった」 わたしは何だかいらいらしてきた。なのにどうも、出てけとは言 いづらくなる。そして蝉はそれに乗じたように、ぐずぐずと腰をあ げないでいた。 「もう一つだけ、お願いがあるんです」 果たして蝉はわたしの顔色をうかがいながらも、はっきりとそう 言った。どうせろくでもないことだろうと思いながら、「何よ」と 訊く。 「させて下さい」 「は?」 「一発させて下さい」 わたしは立ち上がってベランダに向かった。 「ああだって」と蝉はあわてた様子で声をあげる。「僕の命、あと どのぐらいか知ってますか?」 思わずわたしは蝉を見下ろす。 「たぶんもう一日か二日。やっと明るい世界に出たと思ったら、も うそれだけ。で、僕、恥ずかしいけどずっと彼女もできなくて。ほ ら、ちょっと標準サイズじゃないんです、だから」 蝉は土下座をしていた。 わたしは屈んで蝉の顔を見つめた。なかなかかわいかった。 「ねえ、まだ帰らないの?」 もう夜明けが近いころ、隣に寝そべっている蝉にわたしは言った。 「ああじゃあ、おしっこしてから」と蝉はトイレに行ったが、出て きてもへたり込んだままだった。そして「一服でもすんべ」と内ポ ケットらしきところから煙草を取り出す。 「ねえちょっと」とわたしは不安になって訊いた。「帰ってくれる んでしょうね」 「えへへ」と蝉は笑った。 秋になってもまだ蝉はいる。一発どころではなくなっていた。
昼寝から起きると野島くんが縁側で妻と話をしていた。宇宙なら 何をしてもいいって言うんでしょうか、と野島くん気炎を上げてい る。目元の涼しげな娘さんだ。いくら無重力だからって、そんなシ コなんて。妻が微笑みながら焼きたてのほっけを勧める。根室のほ っけ。新刊を出すたびに熱心な感想を送ってくれる根室の石橋さん。 気持ちのいい漁師である。 ほっけをつまみにビールを1本。野島くんは2本飲んだ。父の晩 酌に毎晩付き合わされるんです、と嬉しそうに笑う。じゃあ夕子ち ゃんはきっとお父さまみたいな方と結婚なさるのね、と妻が云った。 無花果の下で蛇が長々と横たわっている。 妻が台所仕事を始めたので、野島くんと性交。6畳間に布団を敷 き直して後ろから2回。動きに切れのある気持ちのいい高校生だ。 3回目は勘弁してもらい、長々と横たわる。昼寝の温もりが布団に 残っていて、嬉しい。 夕飯はほっけをつまみにビール。1本飲みきれず、残りは妻に飲 んでもらう。最近台所でひそかに飲酒訓練をしているらしく、軽々 と飲み干してしまう。頼もしい。明日、新井さんに頼んでクッキン グワインを補充してもらおう。新井酒店。いくら飲んでも眠れない 夜、シャッターを叩くとさり気なくモルヒネを手渡してくれる。 夜の散歩。次女夫婦からもらったレッグウォーマーを巻く妻。足 が引き締められてはきはき歩ける、と喜んでいる。ピンクの地にち りばめられたラメが車のライトに反射して、楽しい。うなりを上げ て国道を蛇行していた若者らが交差点でセダンを取り囲む。ブーツ で蹴り上げられた車体がみるみるへこんでいく。やがてセダンから 若い女が引きずりだされた。勇ましい若者たちである。 綾瀬川のブタ草が秋にも花を咲かせるようになった。川原におり て妻と二人で鎌をふるう。お陰さまでこの歳まで花粉症というもの に悩まされたことはないが、近所の子供たちが気掛かりだ。川原で 遊ぶときにマスクをかけさせる親御さんもいるようだ。せっせと鎌 をふるう。妻が、春までに何メートル刈り進めるかしら、と云って 笑う。春には春のブタ草が咲く。 寝床に入る前に少し仕事を進めておく。途中で一ヶ所不明瞭な記 述にぶつかり、どうにも気になって気持ちが悪い。夜分遅くに大変 失礼ではあったが30年来の友人である佐川に電話。佐川は去年亡 くなりましたが、と奥さんの声を聞いて葬儀での手厚いもてなしを 思い出す。塩水でうがいをして、寝る。
遊歩道を折れて小道へ入ると、今年も紅葉が始まっている、真っ 直ぐな桜並木。左手はフェンス越しに運動場が広がっている。 風の中に、楽器の音が聞こえてきた。トランペットがスケールを 吹いているのが一際大きく聞えていたけれど、それをクラリネット が追い越して、届いた。曲の難所を練習していて、Cの音が出せず に苦労している。わたしは自分が吹いているような気になって、知 らず集中した。後ろ頭がピィンと引っ張られる。美しいCの音。 見ると隣を歩いている高崎氏は、難しい顔でタクトを振っていた。 空想の。手にはなにも持ってはいない。 大変だな、と他人事に思った。 わたし達は、卒業して四年目になる。お互い音楽大学の卒業に差 しかかったところで、後輩からお呼びがかかった。わたしはクラリ ネットを教え、高崎氏は楽団自体を指導する。……どうなることか と思う。 高崎氏とは現役生の頃も、あまり話をした覚えがない。近寄りが たい印象があって、部活のメンバーの中では遠かった。いまだって 別に一緒に来たわけではなく、そこの信号で一緒になってしまった のだ。おかげで黙々と、二人で歩いている。 タクトが止まった。 「蝉だ」 いうなりひょいとかがんで、転がっていた蝉を拾い上げる。この 人のこういうところが、予測できなくていつまでも馴れない。 「軽いよ」 手のひらで転がして。そのまま胸に捧げ持つようにして歩く。 葉漏れ日が揺れている。秋になった透明なひかり。 蝉の屍骸を一つ持っているだけなのに、葬列みたいだと感じた。 音楽が聞えている。 一緒の音楽室にいたのを思い出していた。文化祭の前日、自主練 習に来たのは二人だけで。だけどわたしは一音も出せずに、譜面を 見ていた。 あの頃。どうしてわたしはあんなに自信がなかっただろう。一緒 に吹けなかった曲も言えなかった言葉も、いまでは二度と帰らない。 わたしの好きな人はもう、この人ではないのだ。 門をくぐったところで、高崎氏は我に返ったように立ち止まって 手のひらの蝉を見た。考えているようだった。 「須見さん。これ、どうすればいいと思う?」 「どうすれば……って?」 「どうやっておくのが一番いいのかなって。花壇に入れようかと思 ったけど、虫に食われるのもどうかと思って」 「そうだね。……わたしなら、やっぱり。風葬がいい」 「そっか」 少しだけ微笑んで。蝉は、門を支えるコンクリートの上に乗せら れて、微かに風に揺れた。
岩手県久慈市の国道を、黒塗りの高級車が一台、男達を乗せて走 っていた。 すでに日は落ちている。 後席には二人が座っていた。左端に座る男は地元暴力団の若頭、 名を田熊誠一という。そしてその隣、シート中央に深深と身を沈め る男がある。ボス、と呼ばれていた。 小柄だが鋭い目の持ち主だった。 「田熊、今夜の予定を簡単に説明しろ」 「はい、ボス」 田熊が手帳を取り出した。 「我々さくら組は、かねて調整の北海鯨会との包括的友好協定の調 印に臨み」 「簡単に」 「は、では要点だけ」 田熊は汗を拭った。 「鯨会の皆様方は、今夜、久慈市内に入ります」 「ふむ、向こうから、この久慈に来るか」 ボスは記憶した。 ――くじら、くじくる 「九時に苦楽寺の前で待ちます。町外れの寂れた寺です」 「九時に苦楽寺か」 ――くじらくじくる、くじくらくじ ボスはうめいた。 「ん、少し難しくないか」 「大丈夫で。時間には余裕が御座いますので。九時は楽々です」 「くじはらくらく!」 ――くじらくじくるくじくらくじ、くじらくらく 「そこで倉治と久地蔵の二人も合流させます」 「クラジとクジクラ!」 ボスは怒鳴った。 「他に無かったか、他に!」 「は、申し訳ありません(何がまずかったんだ)。今回はこの二人 という事で、はい(奴ら後でシメてやる)。」 「とにかく、く、倉治と久地蔵だな。よし」 ――くじらくじくるくじくらくじくじらくらく、くらじくじくらく らく、らら? 「えー、そして市内のクラブ・ラジカル略してラジクラでイラクの ラジク氏を迎え……」 「いい加減にしろ!」 ボスの右パンチが田熊の頬に炸裂した。続いて振り上げた通園バ ッグを田熊は反射的に避けたが、中から飛び出た弁当箱は見事顔面 へヒットしていた。 「てめえ、俺が四歳の幼稚園児と思ってなめてるなー」 ボスの水色のスモックに、涙がこぼれ落ちた。 「すみません、そ、そんなつもりは」 ボスは手帳を奪い取った。 「字が書けるからっていばるなー」 「まさか、滅相も」 「もうボスなんてやだー」 完全に泣き出した。田熊が叫んだ。「おい、絵本!」 「ここに!」助手席の若手が、素早く絵本を手渡した。 「さあ、絵本です。早速読ませていただきます。ええ、『くじらの くーちゃん』の、おはなし!」 「やだ!」絵本を蹴り上げ暴れた。「帰る!」 「ボス〜お願いします」 田熊はボスを抱き上げ必死になだめながら、実にこの方のお考え だけは難解に過ぎると心の中で嘆息した。
9時におきて支度を整え、イベント会場に出かける。上司はもう 着いているころだろう。朝は弱くいつも布団を出るまでに時間がか かってしまうが、晩秋の気候を感じ寒さに身を固まらせ、顔を洗う。 歯を磨き服を着、ネクタイを締めて家を出た。いつもの平日の出勤 と同じく。 会場は盛り上がっていたように思えた。僕自身初めての参加だっ たので、盛り上がっているか盛り上がっていないかの判断基準は無 かったのだが、人がうじゃうじゃいて多少僕の気分を害したあたり が、盛り上がっていると思える要素だった。お客さんは休日の楽し いイベントに参加している。 2時も過ぎてイベント自体が一息つく頃、カラオケ大会が開かれ るらしかった。遅い昼飯の菓子パンを大きく口にほおばった瞬間に、 大音量でイントロが始まった。親子連れが多いイベントに似つかわ しくない淫靡な歌のそれが響き始めた。 僕は振り向いて、好奇心を掻き立てて歌い手を見た。そこにはミ ニスカートで化粧の厚い美熟女(といっても30歳には達してない だろうが…)が笑顔を振り撒きながら、多少の身振りを交えて壇上 中央に立っていた。 歌声は良かった。美声であった。ビブラートも利いていて、僕自 身生の歌手の歌声を聞いたことは無かったが、「歌手顔負けだ」と 思えるくらい上手かった。選曲と歌声で、周辺のお客達の注目を集 めた。 一曲終わりそのステージは終わるかと思っていたら、次のイント ロがすぐに始まった。そして二曲目が終わってもまだ彼女はステー ジ上にいた。その間トークも交え、拍手を要求し、激しい表情とハ スキーな声、多少のダンスを交えた独演会で、イベントの趣旨さえ 変えかねない時間を作り出していた。 「彼女デビュー前らしいよ。」 先輩が呟いた。さらにテレビ局の方が言った。 「彼女うちで開いたカラオケ大会で優勝してテレビ出たんよ。」 デビューするかどうかは結局定かではなかったが、ステージ前に座 るお客に対するアピールする姿勢は強烈だった。自分のステージで あるということを完璧に意識していた。彼女自身を認知させること が前面に押し出されていた。彼女の後には控えめな合唱団のコーラ スが響いていた。 「彼女僕の同級生でもあるんよ。テレビ出てきたときもびっくりし た。」 30歳にそろそろ届くであろう局の方はそう呟いた。 地域の小さなイベントでこれだけお客にアピールする人物に出会 えることが驚きだった。そして彼女はデビュー前かもしれなかった。 あのステージはイベントのなかでは一瞬の出来事かもしれないが、 彼女にとっては大切な時だったかもしれない。地道な努力と「夢を 見る」才能を持ち合わせているかもしれない彼女のステージの背景 に、僕は心を揺さぶられていた。 様様な人の色々な人生がイベント会場で偶然交差する。
5歳のときだった。 僕は生まれてはじめて自分の力だけで雪だるまを作った。 バケツの帽子、みかんの目、人参の鼻、海苔の口はへの字でどこ かしら挑発的だった。 その晩、僕は蒲団の中で重く圧し掛かる瞼に耐えていた。雪だる まに命が吹き込まれる瞬間がどうしても見たかったからだ。 暮のクリスマスは睡魔に負け、サンタクロースの姿を目にするこ とができなかった。起きたときには枕元にリボンの付いた絵本が置 いてあった。 その絵本は雪だるまが冒険する話で、春になると溶けてしまうと いう落ちだった。 母親の寝息と父親の鼾を確認し、ゆっくりと蒲団から出た。電気 毛布の温もりが名残惜しかった。 襖を慎重に開け、廊下に第一歩を踏み入れる。寒気が電流のよう に走り渡った。 目の前の曇った窓ガラスは、ステンドグラスのように月の光を乱 反射させる。 僕は小さな手で露を払い外の世界を見た。巨大なミニチュアのよ うに静止し、雪だるまが動いた形跡はなかった。少し目線を上げる と丸い月がある。 そして僕は月に導かれた。 玄関に掛けてあるスキージャケット、長靴、手袋、毛糸の帽子を 無意識に纏う。恐怖はなかった。 雪だるまに一瞥もせず、消雪パイプが湯気を立てる車道を横切り 農道に入った。 狭い農道は踏み固められ、田圃に積もった雪は肩まである。 目線は月へ固定され、感情は徐々に光の粒子に支配されていく。 僕は立ち止まり記憶は途切れた。 僕を最初に見付けたのは新聞屋だった。 新聞屋の話では、最初僕を見て地蔵だと思ったらしいが、地蔵の 口から白い息が出る筈はない。声を掛けても立ったままでピクリと も動かないので凍ってしまったのではないかと思ったそうだ。新聞 屋は近付き、恐る恐る手を伸ばして頬に触れた。その瞬間僕は倒れ た。 僕はそのときの感触を覚えている。新聞屋の手は冷たく、インク の匂いがした。あと脳裏に僅かながら月の目映い光と雪の泡立つ光 が残っていた。僕は40度近い熱を出していた。気付いたら蒲団の 中で、額には濡れたタオルがあった。不思議なことに風邪などの病 気の症状はなく、ただ体中が熱かった。そして一晩寝ると熱は下が り、何もなかったように日々の生活に戻った。 僕は戻って来た。都会の哀れむような月の光は僕の心を癒しては くれなかった。 僕は空を見上げる。雲が空を覆い、粉雪が浮遊する。月はまだ姿 を見せない。 僕はあのときの洗礼を待っている。
第18回チャンピオンは一之江さん作『蝉』に決定です。
さらに一之江さんはこれにてグランドチャンピオンとなられました。
一之江さんおめでとうございます。
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 蝉(一之江) | 4 |
| 知らないあいだに、さようなら(小沢 純) | 3 |
| missing(更羽) | 2 |
| ポケット(川島ケイ) | 2 |
| バス ドライバー(有馬次郎) | 2 |
| 小豆洗いの憂鬱(南大介) | 2 |
| 愚痴(岡嶋一人) | 2 |
| しろくろ(幸野春樹) | 1 |
| 草原の羊(高橋英樹) | 1 |
| 水のない水槽の中で(岡さやか) | 1 |
| 贋爺(鮭二) | 1 |
| 洗礼(ショート・ホープ) | 1 |
| そして世界が(るーつ) | 1 |
| 合鍵(川辻晶美) | 1 |
| 該当なし | 1 |
●蝉(一之江)
●知らないあいだに、さようなら(小沢 純)
●missing(更羽)
●ポケット(川島ケイ)
●バス ドライバー(有馬次郎)
●小豆洗いの憂鬱(南大介)
●愚痴(岡嶋一人)
●しろくろ(幸野春樹)
●草原の羊(高橋英樹)
●水のない水槽の中で(岡さやか)
●贋爺(鮭二)
●洗礼(ショート・ホープ)
●そして世界が(るーつ)
●合鍵(川辻晶美)
●該当なし。
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