第19回1000字小説バトル
Entry29
中国製模造木の真っ赤な杯に満ちたサトリを手にして、ボンイチ は、ふるえる水面にじぶんのゆがんだ顔を浮かべていた。 「グイっとやんなよ。もうドラッグなんか、いらないぜ。酒もいら なくなる」テーブルのむかいで、サクマがアロハ・シャツの胸ポ ケットに指をつっこみ、「でもタバコはいるな。長生きできねえや」 と、シワを深めてほおで笑った。 ボンイチはまだ、ゆれるサトリを見ていた。エウロパの海草から つくられる、この液体は、虹色にまたたいて発泡し、うつるボンイ チの顔をマーブル模様にねじ曲げる。 タバコをくわえたサクマが、ぷうとマヌケな音を出して煙を吹き、 「なんだボニー。怖じ気づいたのか? 今どき、ガキだってやって る。なんせ、どこのだれが飲んだって合法なんだから」 サトリに害はなかった。むしろ、その名のとおり――日本語の 「悟り」から来ているが、フランスでロシア人がつけた名前だっ た――脳でなにかがきらめいて、すがすがしい気ぶんになる。ボン イチには、味わったことのない経験だ。ボンイチはいつでも、どん より鈍重な曇り空と、溶けて黒ずんだアスファルトのあいだに生き てきた。ストレスだの、コンプレックスだの、いろいろな名をもつ 醜悪なオモリが、つねに胃の下あたりにぶらさがっている感覚があ る。 またサクマが冷やかした。「まさか目で飲むつもりじゃないだろ うな。口で飲むんだ。口ってなんだか知ってるか? ケツにある穴 さ」そして、ぷう。今度のはオナラだった。サクマが歯のすきまか ら息で笑う。 ボンイチは、サトリの杯をテーブルに置いた。にせもの同士、模 造木が軽く打ち合う音は、残響もなく消えた。 「おい」サクマはテーブルに身をのりだし、あきれるほど真剣な顔 で、ボンイチを見た。「おまえにはサトリが必要だ。いつも沈んだ 顔してやがる。いいもんだぜ。セックスより何倍もいい。ミミズ十 万匹ってとこだな」じぶんで言って、じぶんで笑う。「おれの甥っ 子の中学生なんか、射精するらしいぜ。おれももっと若きゃ、そう なるだろうに、残念なことだ」 テーブルを立ったボンイチは、背中で「おまえはバカだ」とサク マの声を聞いた。扉を開けると、来たときと同じ、夜の街路。冬の 底冷えに足を踏み出して、じぶんはバカだとボンイチは思った。ぶ らさがったオモリは、歩調に合わせて振り子のように揺れ、重さを 増してゆく。吐き気すら覚えるが、ボンイチは、その感覚を大切に 思うのだ。
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