| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 破片 | 山岡清継 | 999 |
| 2 | ぶらさがるもの | 時空門奴 | 960 |
| 3 | ガングロオリジン | 有馬次郎 | 996 |
| 4 | 夏の真珠 | 夢月 霧 | 841 |
| 5 | 決心 | タカパチ | 992 |
| 6 | ドア・ストッパー | 紙本櫻士 | 715 |
| 7 | 最期 | 織原桐哉 | 880 |
| 8 | 千鳥ヶ淵の猫 | さむらいみ | - |
| 9 | 錯覚 | RIBOS | 982 |
| 10 | 悲しい青空 | 伊勢 湊 | 999 |
| 11 | GOAST | あすか | - |
| 12 | 家路 | さとう啓介 | 998 |
| 13 | リフレイン | 君島恒星 | 780 |
| 14 | 森林に咲く真実の華 | 北原伸哉 | 700字前後 |
| 15 | 性なる夜の守護天使 | 有香 | 1000 |
| 16 | 動機 | ゆーこ | 604 |
| 17 | 再会 | 吉原 明 | 760 |
| 18 | 白の安息 | しの | 692 |
| 19 | 知らないあいだに、さようなら | 小沢 純 | 999 |
| 20 | ありふれた冬の日 | ミズムラ | 916 |
| 21 | そして僕らは旅にでる | 高橋英樹 | 1000 |
| 22 | りょく君の話。 | shihan | - |
| 23 | Final Stage | 川辻晶美 | 1000 |
| 24 | 千文字 | 刀 | 1000 |
| 25 | 追憶にかえて | 純田詩露 | 1000 |
| 26 | 前略。兄さん、事件です。 | 太郎丸 | 1000 |
| 27 | 死体発見! | 羽那沖権八 | 1000 |
| 28 | きーっ | 越冬こあら | 1000 |
| 29 | サトリの夜 | 紺詠志 | 1000 |
| 30 | 醜態の元凶 | ぱんち | 999 |
| 31 | 夢と魔法の国 | もんでん琴戸 | 957 |
| 32 | 贋・爺 | 鮭二 | 1000 |
| 33 | 聖夜の家 ★ | 一之江 | 1000 |
| 34 | 橙 | ウエダ カホリ | 997 |
| 35 | 本の中のアールアール | 川島ケイ | 1000 |
| 36 | 渋滞 | ショート・ホープ | 1000 |
フローリングに飛び散ったグラスの破片。蛍光灯の鋭い反射に目 を細めながら、ぼくはひとつため息をついた。 翌朝には20ページ分のレイアウトを編集部に渡さなければならな い。それなのに、レイアウトはおろかラフスケッチすらあがってい ない。四つん這いになって、こぼれたウイスキーを拭くぼくの右手 首では、黒い数字が冷たく笑っている。 AM4:00。 わかっている。朝九時までに渡さなければ、まだ駆け 出しの自分の足場など簡単に無くなってしまうことぐらい。 ウイスキーなどあけなければ良かった。後悔しながら、こぼれた ウイスキーとグラス片をそのままにして、再びパソコンに向かう。 簡単だ。雑誌のデザインなど。ものすごくきれいに光り輝かせる か、 逆に目も背けたくなるほど下品にするか、どちらかにすればO Kだ。一週間もすれば忘れ去られる。 マウスに乗せた手は、しかし一向に動こうとしなかった。四時三 十分。時間だけはきっちり刻まれていく。 ウイスキーの瓶に、再び手がのびた。その時、グラスを一つしか 持っていなかったことに、今さらながら気づいた。たった一つを割 ってしまった以上、もうこの部屋にグラスはない。 昔はよくラッパ飲みしてたじゃないか。そう思い直して瓶の首を 握る。しかし、口に持っていくことはどうしてもできなかった。 --それ、みっともないからやめなよ。私グラス買ってきてあげる パソコンの前を離れ、再び床に屈みこむ。拭き残したウイスキー に、ぼくの顔が映っている。無精髭が顎を黒く染め、頭頂部の髪は 逆立っていた。そんなぼくの顔を、グラスの破片が縦横に切り裂い ている。ぼくは自分の顔を治癒するために、破片にそっと手を伸ば した。 --仕事の方が楽しいみたい ウイスキーは君が買ってきてくれたグラスで飲むし、君の嫌いな 鬚も毎朝剃る。そして君の横でラフを引き、マウスを滑らせる。そ れが当たり前になっていただけなんだ。 --友達の頃に戻れればいいのに もう、ラッパ飲みしていた頃のぼくではないんだ。君がぼくを変 えてくれたんじゃないか。 --元気でね。さよなら 鋭い痛みが走った。指先で赤い水玉が見る見る大きさを増し、ひ と雫、ウイスキーの水面にたれた。拾えなかった最後の破片が、別 れた日のように、ぼくの顔を赤く歪ませていた。 翌朝、無事レイアウトを編集者に渡した。ぼくは裕子の結婚式に 行くかわりに、商店街で新しいグラスを買った。
時々、意識が途切れているようだ。自分では意識しないが、天井 からぶら下がっている同居人の位置が違っている。かれこれ三年間、 彼は天井からぶら下がり続けている。 その前はどうだったかは思い出せない。 彼はいつも天井からつららのようにぶら下がり、そこから電話を し、テレビを見、よく読書をしている。時として、突然に、いる場 所が変わったり、ぶら下がる人数が増えたりすることもある。そん なことがあるから、自分の意識に問題があると思うのだ。そういえ ば、昼の記憶がほとんどない。いつも夜だ。乖離性人格障害かもし れない。それについては本で知った。昼間、別の人格が現れている のだろうか。 天井からぶら下がる同居人というのは確かに奇妙だが、慣れれば それほど困る物でもない。一緒にテレビを見ているときなど、話し かけることもあるが、答えてくれない。「北の国から」を見る度に、 「あのつららはまるで君みたいだねえ」 と茶化すのだけれど、知らんぷりをされる。それが少し寂しく感 じるときもある。 前にも言ったけれど、三年間彼といっしょに暮らしている。彼と いっしょにテレビを見、音楽を聴き、本を読んで過ごしているのは、 とても当たり前のことになっていて、ずっと続くように思っていた。 ところが、うまくことは運ばない。意識障害が激しくなりはじめ た。ふとした瞬間に、朦朧とする。ところどころ欠落したフィルム を見ているように、天井からぶら下がる彼の動きがぎこちない。日 に日に気持ち悪い時間が増え、とうとう耐えられなくなって悲鳴を 上げた。「助けてくれ、なんだか、ヘンだ」 必死の呼びかけが、奇跡でも起こしたのか、普段、いくら話しか けても返事一つ返さない彼が初めて反応した。 いぶかしげな眼差しで、まじまじとこっちを眺めている。ああ、つ いに、コミュニケーションを取ることができた。気持ち悪さの中に も、一抹の喜びが滲んだ。ずっと、この同居人と、話したかったの かもしれない。そんな気分になった。そして、彼は言った。 「もう駄目だな、この電球」
私の名前は、炭子。 1年前に東京の某短大に入学した19歳の普通の女の娘。出身は和 歌山県新宮市。 祖父は地元でも有名な炭焼き職人だ。そして、幼い頃死別した両親 に代わって私をここまで育ててくれた。 備長炭を焼き、私にその技を伝承しながら。 五歳の頃から窯入れ窯出しを手伝っていたせいで、私の顔は炭に負 けないくらい真黒になった。髪は遠赤外線で火焼けして、山姥の様 だ。顔は黒いけど、瞳と歯並びだけは、今でも強かな自信がある。 ただ、窯の側の生活が長かったので、体の発汗作用は人一倍だ。よ く汗をかいては、憂鬱になったりもする。冬でも地下街やアーケー ドを歩くだけで、顔中汗だくだ。 入学したての頃、テレビで志村のバカ殿みたいに真白なおばさんを 見て、これだと思った。それから美白パウダーは私の必須アイテム になってしまった。 真白になって初心にかえって、髪の毛は山姥のままだったが、何と なく自信が出てきた。横浜、新宿、原宿、渋谷、池袋、銀座、千葉 埼玉どこへでも、顔に汗をかいて出かけた。 私にとっては、金の粉が天から煌々と降り注ぐなかを軽いステップ でふわふわと移動している感触だった。 この様な甘いウキウキとした、そしてかけがえのない切ない感覚。 時間そのものが、煌めいてながれた。 まさに私の”シュガータイム”の季節だった。 今の彼に、わざと汚い化粧をしてるんだね、でも似合っていると、 愛を告白されたのもやはりこの時期だ。 街行く私を見て、皆が振り返ったり、振り向いたり、手を口の前で 交差する松本伊代みたいな驚嘆の表情を浮かべたりするのを見て、 ますます自分の顔に自信を深めた。空を真っ直に見上げて歩いたり もした。 いつの頃からか、女子高生や中学生からサインをねだられたり、写 真に撮られたり、いっしょに写真に納まったりもした。 まるで何かの宗教の教祖にでもなった様な雰囲気が私の周りに醸し 出され、心底気持ち良かった。 しかし最近おかしな事に気がついた。何か、パラサイトみたいな変 な化粧のコギャル、マゴギャルがメトロでもJRでも出現し始めた。 よくよく考えると、私の化粧パターンのパクりかとも思うし、もっ と別な深い畏敬からくる自己同一化...?。洗脳化。虚無。反逆。 まあ、でも気にはしていない。私の場合は、単に汗で化粧が落ちた だけのことだから。彼女らとは一線を画している。 そう、もっと自分に自信を持とう。 私の瞳と歯並びだけは、誰にも負けないのだから。
それが偶然か必然かは分からない。ただ一つ言えることは、彼女 がそこにいたということだけだ。八月でも高原の夜は寒いのに,彼 女は肩の出た服を着ていた。 「寒くないの?」 「私,暑がりだから」 彼女はそう言って笑った。うそつけ、と思う。腕には無数の鳥肌が 立っていた。でも俺はわざと何も言わずにいた。女がそんなことす る時は,必ず何か理由があるんだ。彼女は俺の思惑に気づいたのだ ろうか、今度は逆に聞き返してきた。 「本当は寒いんだろうって,突っ込まないの?」 「本当に寒がってたら、わざわざそんな格好でいないよ」 俺がそれほどばかでないことを悟ると,少しばかり驚いたようだっ た。 「ごめんなさい、たった一瞬前まであなたをばかにしてた」 「仕方ないよ,世の中にはそういう奴が多いんだから」 彼女に見直されてにわかに優越感を覚えた俺は,そんなキザなセリ フをためらうことなく吐いていた。 「精神年齢いくつなの?」 彼女はぷっと吹き出してから言った。 「さあ、適当に38歳にしとく。そういう君こそどうなんだよ」 「じゃあ私は33歳」 これは月9のドラマのワンシーンではない。俺というただ普通の高 校生の身にたった今起こっている出来事である。 「本当の年は?」 「一六。高二。あなたもそれくらいなんでしょ?」 「ああ。でもひとつ年上だ」 なんだかタバコをふかしたくなってきた。でもあいにくそういう面 でうぶな俺は、くわえたことさえないのだった。 風が吹いた。夜霧で隠されていた互いの顔が,星と月明かりには っきりと照らし出された。顔を見合わせ,二人同時にあ――っと言 う。 「予備校で同じクラスの…」 双方そこまでは出たのだが,ついに名前は出てこなかった。そう、 今まで忘れていたが,俺が高原にいるのは予備校の夏の特訓を受け るのが目的だったのだ。しかし、状況はどうあれ。これがきっかけ で二人は付き合うようになったんだよということは言うまでもない。 あれから四ヶ月、今度は冬の特訓。あの時どうして彼女があんな 格好をしていたのかは、いまだに分からぬままだ。
マスコミ発表をいよいよ明日に控えて、僕は感慨に耽っていた。 子供の頃、H.G.ウェルズの『タイムマシン』を読んで、この奇 想天外なアイディアのとりこになって以来、片時も実現のためのプ ランが頭を離れたことはなかった。それがついに完成したのだ。 明日、テレビ中継を見る全世界の人々の前で、デモンストレーシ ョンを行う。僕はマシンに目をやった。すると、誰かマシンから降 りて来るではないか。随分と老け込んでいるが、どことなく見覚え のあるこの男。 「おい、お前。いや、僕」 えっ、僕? そうか、これは未来の僕か。 「この機械の発表はやめておこうよ」 なんだって? 「ここまで来るのにどれだけの苦労があったか、誰より知っている のが、お前、いやほかならぬ僕自身ではないのか」 「まあ、聞けよ」 悲しそうに未来の僕は話し始めた。 「最初は良かったんだ。国連を挙げて、生命発生の謎や、未来に飛 来してきた宇宙人の探求にこれが使われた頃までは。 「やがて技術が民間に解放されて、キリストを目撃しに行くツアー だの、自分の遺言の結果を確かめに行くツアーだのが始まった。そ れでも過去や未来に手出ししないという原則は守られていた。 「ところが、マシンが量産化され一般に普及し始めると、借金返済 のために、成長した自分の娘を未来から連れて来て水商売で働かせ る親や、今植えた作物を未来で収穫して持ち帰って換金する企業な どが出始めたのだ。定期預金の先食いなどと共に、これらの行為は 『不正エイジング防止法』によって規制されることになった。 「そしてついに最悪の事態がやってきた。各国で相次いで『未来党』 が政権を握り、実験的な政策を実施しておいて、実地で検証するよ うになった。社会主義や直接民主制への回帰など、様々な政策を試 験的に導入しては、失敗したと言って元に戻す国々。実験台にされ る国民の方はたまったもんじゃない。人々はめいめい好きな時代に 逃げ出す始末。先祖や子孫と結婚して家系図が目茶目茶になる例も あとをたたない。 「このままでは逆恨みされて、混乱の根本原因である僕自身が歴史 から抹殺されかねない。そこで、こうして僕は自分自身を説得に来 たというわけだ。明日の発表はやめてくれるね?」 しばらく考え込んだ挙句、僕は決心した。 「わかった。発表は中止だ」 僕がそう言うと、未来の僕は消え始め、満足そうな笑みを最後に 消滅した。僕は未来を変えたのである。
青木トシミさんは、そこそこ有名なジャズシンガーである。 CDもそこそこ売れるし、そこそこチャーミングで、そこそこ才能 がある。 「わたしって、なんでも、そこそこなんだわ」 と彼女なりに悩んでいたけど、深刻な悩みには発展せず、やはり そこそこ・・・・・・。 そんな彼女が、僕に絵ハガキをよこした。 招き猫の写真。青木トシミ・招き猫展と四角い書体で印刷してあ る。 ハガキには「招き猫作家も始めました、ぜひ、いらしてね」と、 見慣れた筆跡で添えてあった。 僕は久しぶりにアオキさんに会いに行くことにした。 「どうして、招き猫なの」と、おそいランチをとりながら僕は訊ね た。 「バリ島でね、私の彫った招き猫が神様になっているのよ」と、自 慢げに彼女は言った。 つまり、こういうことのようだった。彼女がバリ島に滞在してい る最中、ホテルの庭で柔らかい石を拾ったので(バリ島には、そん な石がごろごろしているらしい)、なんとなく招き猫を彫ってみた と言う。それは本人が驚くほどの出来映えになった。とはいえ、持 って帰るわけにもいかず、ホテルの庭にちょこんと飾っておくこと にした。次の日、招き猫を眺めに行くとお供え物がしてある。しば らく見ていると、前を通る現地の人たちが、拝んでいる。 「私感動してさぁ、日本に帰ってから、いくつも作ってみたんだけ ど、私の歌より評判がいいかも」 彼女の言うとおり、展示してある作品には非凡な才能が溢れてい た。 数日後、彼女から小包が届いた。クリスマス・プレゼントだそう だ(クリスマスまでには、まだ、ずいぶん間があったけど)。 箱の中味は、大きな招き猫。どこか彼女に顔が似ている。 それは、僕の部屋のドア・ストッパーとして、そこそこ役立って いる。
「飛び込みだっ!!」 「誰かが電車に跳ねられたぞっ!!」 ……うるさい。 飛び込みだあっ!? 跳ねられただとっ!? こっちはそれどころじゃねーんだよっ。 「あーあ、どうしてくれんだよ、これ」 さっき洗車したばっかだっつーのに。 俺は凄まじく不機嫌な顔で、フロントガラスに飛び散った肉片を ティッシュでつまみ上げる。 ついてねーな、全く。 こんなことなら遮断機降りかけでも突っ切って行けばよかったよ。 ただでさえ駅のすぐ横の踏切は、なかなか開かなくてうっとおし いっていうのに。 畜生、死ぬなら他で死ねっつーの。 (あーあ、やっちゃったよ……) 私は帽子を深く被り直すと、小さく独りごちた。 さっきから挙動不信だったから、なんか嫌な予感はしていたんだ。 困ったなあ。とりあえず警察に電話かなあ。 救急車は───いらないな、あれじゃあ。 全く。 勤続二十年の駅員人生の唯一の汚点だよ。 死ぬなら他の駅でやってくれればよかったのに。 「え? お父さんが?」 あたしは受話器を手に、思わず凍り付いてしまった。 「……はい。わかりました。すぐ伺います」 それでもなんとか応対して電話を切ると、あたしは心配そうな顔 で後ろで待っていたお母さんに呆然と口を開いた。 「……お父さん……電車に飛び込んだんだって……」 「ええっ!?」 「あたしこれから行ってくるけど、お母さんどうする?」 あたし同様ぴたりと動きを止めたお母さんは、次の瞬間みるみる 不機嫌な顔になると、 「な……にやってんのよっ、あのロクデナシはっ!! ただでさえ 会社リストラされて家のローンも残ってるっていうのに、この上電 車止めたですってえええっ!?」 「最期の最期までどうしようもないわね。娘として恥ずかしいわ」 「どうしよう? このまま逃げちゃおうか? あんなやつの為に払 うお金なんかないわよ? うちには」 「ああ、いいわ。どうせぐちゃぐちゃで身元なんてわかりっこない んだから『人違いです』って言ってくる」 「それもそうね。じゃ、絶対認めちゃだめよ」 「わかった。じゃ、行って来まーす」 「───やれやれ。最期まで迷惑な男だったわね、あのバカ」
千鳥ヶ淵に沿って続く遊歩道を囲む植え込みの中に住む猫が9匹 の子供を産んで、その結果、親姉兄叔母取り合わせて都合15匹の 猫がその植え込みの中にひしめくこととなった。 秋の終わりの頃の事である。 子猫たちは順調に猫が猫であるために必要なことどもを学び、雀 を追いかけ、仲間内でじゃれあい、通りかかる人たちからするりと 身をかわし、日溜りの中で身を寄せ合って眠った。 猫たちが住む植え込みを背にして並ぶベンチに一人の老人が住ん でいた。その老人が何をもってそこを自分の居として定めたのか、 だれにも分からなかったが、老人の日々は、基本的に猫が猫である ための日々と何一つ変わる事が無かった。老人が必要としている何 かを同じ様に猫たちも必要としていて、猫たちに必要の無い物は同 じく老人も必要としてはいなかった。つまるところ、老人と猫たち は、ほとんど、あるいはまったく同じスタンスで世界と対峙してい たのである。 激しく冷え込んだ2,3日を含む年末年始の休みが明けて、半月 ぶりほどで千鳥ヶ淵を訪れてみると、老人の姿は無かった。老人の 寝場所だったベンチからは、山積されていた老人の持ち物がきれい に片付けられていた。猫に餌をやりに来ていた近所のおばさんによ ると、ある冷え込みのきつかった朝、いつものようにベンチに寝て いた老人は、そのまま2度と目を覚まさなかったのだと言う。 猫たちは相変わらず元気だった。多分、今年はたまたま老人の番 だったのだろう。来年はまたきっと別の弱った猫が冬を乗り切れず に死んでしまうのかもしれない。 僕は少し、老人の死をもてあましてしまった。野良猫と平等に訪 れる生と死の機会。そのことをうまく飲み込めずにいた。 その後、僕は何人かのごく親しい友人にその老人について話した。 そして、相手がそのことについて何かを語るたび、ますます老人の 死が僕の胸の中で、飲み下す事の出来ない固い塊となって行った。 春に近いある暖かい日、僕は千鳥ヶ淵に猫を膝に乗せて日向ぼっ こしていた女の子と知合った。老人の事を話すと、彼女は話しが終 わると同時に柔らかく微笑んで、「いい話だね」と言った。同時に 僕の中で何かがゆっくりと溶けて行った。
当社の新築マンションを見学したいと、1人の男がやってきた。 「なんか、変わったマンションだってきいたんだけど?」男が言っ た。 「ええ、どんな人にも満足していただけるよう、いろんなアイデア を盛り込んでおります。基本にあるのは俗に言う錯覚です」 「錯覚?」 「ええ、まあ実際に見ていただくのが早いでしょう。2階へ参りま しょう」 私は、客と一緒にエレベータに乗り、2のボタンを押した。 「この部屋です。どうぞおはいりください」 「広いリビングだなあ。15畳ぐらいか?」 「いえいえ、実際には10畳もございません。天井の角度を微妙に 変え、錯覚によって広く見せているのです」 「なるほど、そういうことか」 「閉所恐怖症の方に特に喜ばれております」 「しかし日当たりもいいし、いい部屋だよな」 「それも実は錯覚でして、隣のビルが邪魔をして、どうしても北向 きにしか作れなかったものですから、屋上から張り出した支柱の先 の大型ライトを時間とともに移動させることによって、あたかも南 向きであるかのように思わせているのです」 「あれがそうか、しかし明るすぎて本物の太陽と区別がつかないな」 男がベランダに出て、上空を見ながら言った。 「部屋ごとに光を分配できますから、暗所恐怖症の方などは夜でも 明るくすることができますよ」 「ふーん、だいたいわかった。ところで……俺は実はこういうもん なんだが」男はそう言ってナイフを内ポケットから取り出した。 「ナイフ屋さんですか?」 「古いギャグを使うんじゃねえ。強盗だよゴウトウ!さっさと財布 を渡すんだ」 私は恐る恐る財布を差し出した。 「これも錯覚じゃねえだろうなあ。1枚、2枚、3枚……結構持っ てるじゃないか。それじゃあ、あばよ!」 財布から札だけをわしづかみにして、男は走り出した。 「どこへ行くんですか、玄関はあっちですよ」 「これだけのマンションじゃ、エレベータやエントランスに賊を閉 じ込めることぐらいわけないだろ?さっきベランダに出た時確かめ たんだが、すぐ下は花壇じゃないか。そっちからずらからせてもら うよ。あばよ」 そう言うが早いか、男はベランダの柵を乗り越え、飛び降りてい った。 「ぎゃーー!!」すぐに男の悲鳴が響き渡った。 「やれやれ、だから言わないこっちゃない。エレベータのボタンを つけ変えたり、巨大なレンガを使った花壇を作って2階のように錯 覚させてるけど、実際には7階なんだよなあ。もちろん高所恐怖症 の人のためにそうしたんだけど」
私はばあさんの家の狭い居間に座り、台所で私に背を向けて湯を 沸かすばあさんと話をする。ばあさんの旦那は二ヶ月ほど前に病気 で亡くなってしまった。こんな峠の山あいで老人が一人暮らしとい うのは些か不安があるし、家族から一緒に住もうという申し出もあ るが、ばあさんはいっこうに首を縦に振らない。そういう建て前で 役場の村民課に勤める私はばあさんに立ち退きを説得しに来る。も ちろん、跡地が核燃料の廃棄施設になることは知っている。ばあさ んだって知らなくはないだろう。 「わしゃこの人形峠を離れるつもりはない。あんたらもこの峠じゃ 放射能の心配はないと発表しちょろう?」 「そういう問題やのうてやな」 人形峠は国内で唯一ウランが採掘される場所だ。さほど注目されな い片田舎の原子力施設では危機管理が万全だとは言い切れないかも しれない。しかし公式には問題ないと発表されているし、それを飲 み込むしかない。だからこそ、ここにいるのが自分のすべきことだ、 とばあさんは思うのかもしれない。 「あんた、この人形峠の名前の由来を知っとるかね?」 「んっ?峠で人の血を吸うっちゅう牛ほどにもある大王蜂を退治す るのに、寺の坊主が等身大の人形を置いたっちゅう、あれか?確か 人形の血を吸おうとしたが吸えんで死んでしもうたゆうオチやった な?」 ばあさんは湯飲みに二つお茶を煎れながら言った。 「なんで蜂は大きゅうなったんや?」 「そりゃ分からん、大王蜂やからやな。どっかから来たんかもしれ ん」 「なら、なんでどっか行かんかったんやろな?」 「そんなこた分からん」 「じゃあ、なんで蜂は死んでしもうたんや?」 ばあさんが御盆に二つ湯飲みをのせて振り向いた。その日、初めて 目が合った。 「そっ、そりゃあ、人形相手に血ぃ−吸おーとして…」 「そうは思わん!わしは…そうは思わん。蜂やて…そないに馬鹿じ ゃなかろう」 ばあさんがちゃぶ台に湯飲みを置いた。私は湯飲みに手をのばした。 「わしはここで生きていく。この茶とて峠の下の川の水で煎れたも んじゃ」 口に湯飲みを運びかけた手が思わず止まった。 はっと気付いて、ばあさんを見て、そして目が合った。 責め立てる目ではなかった。でも、もうそれ以上話は続けられなか った。 家を出て、空を見上げる。我関せずという感じで空は高く青い。 みんながそれぞれ分かっている。そのうえでみんなこの空の下、あ るべき様に生きるしかない。そう思うと青い空も、少し悲しい。
真新しい畳の匂い、いまだサッシになっていない古めかしい窓。 私は1人でその真新しい畳の香りを楽しみながら一人部屋で横にな っていた。 傍らには、友達の野良猫ムクがご機嫌に喉を鳴らしてる。 やっと終わった、家庭という共同体をぶち壊す作業が終わった。 今までの両親、そして親としての父親の姿、母の姿、どれをとって も親らしからぬ姿に違いない。 父がよそに愛人をつくり半狂乱になり追いかけ回す母の姿、そして 母の自殺未遂、幼い私には強烈なトラウマとして残った。 いまだにその傷はヨードチンキをつけようとも、一流の医師にかか り処方された一流であるはずの薬を投与しようとも癒えようとしな い。 いまだ杖が必要な重症をおってしまったようだ。 私がまだ幼かった頃、父に手を引かれ知らないアパートに連れてこ られた。 その外観はきれいだが今にもゴーストが壁から這いつくばってでて きそうな感じだった。 ドアを開けて中に入れられると一人の若い女性が出てきた。 新しいお母さんになる人。子供心に直感した。 その女性はなぜかアパートの外観とまるで同じだった。 住人の魂が建物の外観に反映されているようだ。 まるで雪のように色が白い。父はこうゆう人が好きなんだ。 こんな考えにとらわれる自分はおかしいのではないかと思い必死に 意識の外に出そうとした。 父とこんなGOASTみたいな人が愛し合う姿なんて想像したりする子 はいやらしく汚らわしい子なんだ。 そんな自分をなだめるだけでのことで多量な時間が必要だったよう だ。 どの位時間がたったか。夕食の時間になった。 その女の人は私の茶碗を手にとり「いっぱい食べてね」と精一杯の 笑顔をふりまきご飯をよそろうとした。父は、母と一緒の時は決し て見せることがないいやらしそうな笑顔を新しく妻となろうとして いる彼女に返している。 彼女には大きすぎると感じる杓文字で不器用にご飯をよそる手に私 はぎょっとした。 まっしろ……突然自分の頭まで真っ白になった感覚に冒されて吐き 気がしてきた。 このまま嘔吐して白いご飯にぶちまけてやりたい。そんな衝動に駆 られた。 早くこんなくだらない儀式から遠ざかりたい。 それからぷっつり記憶が途切れた。 そういえば父は肌の色が若干黒い母のことをいつも嘲るように馬鹿 にしていた。 父が母を色が黒いことに嘲笑していた理由がわかった気がした。 私は、父と若い愛人とのおままごとに付き合っていることなんかご めんだった。 そして今、とても心から好きとは言えない母とこのアパートに引っ 越してきた。 きれいな外観とは言えないアパート。 でも、私は、あの白いゴーストから睨まれる事がないこのアパート の方が好きだ。 距離が離れすぎてしまった母といつの間にかいついてしまった野良 猫ムクとの生活。 ムクが私の心には一番の処方箋のようだ。何にも喋らないけど、い つもご機嫌に喉を鳴らすムク。幼い私の心の家族になってくれたム ク。 「いつでも僕の懐に逃げてきていいんだよ」まるでそう言ってる。
窓越しに流れ始める風景。 正太は横目に見ながら鞄からラップの包みを取出した。 にぎりめし、たくわん二切れ。正太はいっきに口へほおばる.... 正太は今日、家を出た。中学一年、少し大人、でもまだ子供。 隣のボックス席、正太を見つめる瞳。顔中皺だらけ、色黒の老人。 「おい坊主、どこ行くんじゃ」 ちょっと見てまたにぎりめしに食らい付く 「そんな急いで食べんでも取りゃせんよ、茶、飲むか」 老人が水筒から蓋のコップに注ぎ正太へ手を延ばす。 食べる動きが止る、手を延ばしながら「ありがとう」 老人の細くなる瞳「わしゃ平助言うんや、坊主は?」 正太は手に付いた米粒を口で摘みながら「オレ正太」 「正太か、元気じゃの」 正太はコップを老人に戻しながら「爺ちゃんはどこ行くん」 「平助言うたやろ」老人の顔に皺が広がり笑顔が現れる。 「わしゃ汽車に乗るのが好きでの」正太は不思議顔。 「それで、正太はどこ行くんじゃ」平助の問い。 答えたくなかった(まだ決めとらん)窓の風景に目を戻した。 「家出したか、気が短いんじゃの」 (何でわかるんや....?) 遠くのお寺、大銀杏、黄色く大きく見えている....間ちゃん家。 「わしも一度あったかの、暗くなると恐くなっての、 気が付いたら家の前じゃ、何やろな」 「爺....」 「平ちゃんでええよ」手を横に摩る様に振った。 「平ちゃん、なんで家出したん?」少し照れておでこを掻く正太。 「理由か?小っちゃい事だったんじゃろ、もう忘れとる、ハハハ」 ぽつぽつと平助は正太の所にきて「ここ、座ってもいいか?」 「う、うん」斜前の席に腰掛けた。 「正太は幾つじゃ」「....13」「友達おるか」「....間ちゃん」 列車がトンネルに入る、平助の声が止る。 正太は目の前が一瞬暗くなり何も見えない。窓ガラスが震える、 車輪がレールを削る....まだ暗い、うるさい音。 平助の微かな姿が黒く見える。 「正太、男は逃げちゃならんよ」 平助のキリッとした声が聴こえた。 次の瞬間トンネルから抜けた。眩しい光がまた正太の目を襲う.... 耳から音が逃げて行く....正太はゆっくり目を開けた。 と、そこに居たはずの平助は居なかった。 「平ちゃん....平助爺ちゃん....」列車の中には正太だけ。 正太は平助の座っていた座席に手を延ばす....温もりは無い。 レールの継目の音....耳に響く....。 平助の言葉....耳に響く....。 次の駅、下りホーム。正太は家路の列車を待っている。 何処迄も続く線路を見つめ、唇を噛み締めて....。
バーボンのボトルをラッパ飲みすると、口の中で染みわたった。 口内炎のせいだ。 目の前には下着姿のまま縛り上げた冴子が、にらみつけていた。 俺は冴子の顔を容赦なく殴りつけた。 唇が切れ、鮮血が滴り落ちた。 「やめて! やめてよ! なんでわたしなのよ!」 言葉では助けを呼んでいるのに、目は怯えもせず、にらみつけ たままだった。 …もっと殴りなさいよ。…といっている。 歯が抜けるほど、殴りつけ、内蔵が破裂するほど、腹を蹴り上 げた。 血と涙、そして小便があたりを濡らす。もう言葉は発せない。 ただ荒い息をたてているだけだ。 …もうそろそろ犯せば? …そう、冴子の目が言った。 「誰が、こんな汚ねえ女抱けるかよ!」 …でも、抱くんでしょう?… 俺は、冴子の下半身を露にすると、冴子の中にぶちこんだ。軽 蔑する瞳。首を締め上げる。冴子の下半身は俺のものを締め上げ てきた。俺は動きを止めない。そのまま、千切れるような快感が 全身を襲った。 …やればできるじゃない。… 冴子の意識が消えていった。 そこに残った物は、誰だかわからない女の死体だった。 冴子の復讐は今夜も行われた。俺のやらなくてはならないこと は、この死体の処理。切り刻んで捨てる肉体労働。 数ヶ月前に、俺は冴子をストーキングの末、強姦し殺した。殺 したはずなのに、冴子は俺の前に現れる。そして誘惑する。俺は 冴子を痛めつけ、犯し、殺す。残るのは知らない女の死体と肉体 労働。 もう何人になるだろうか? 覚えてもいない。 冴子の復讐? それは苦痛? 快感? いつまで続くのか? 終わりのない現実。 どうでもいい。早くこの死体を処理しなくては、次の女が現れ ない。 俺はノコギリを引き始めた。
今日も彼は、石階段に腰掛けて空をじっと見上げていた。 傍らで、傷だらけの自転車が風に仰がれ休んでいる。袖のよれ た蒼い上着と、すり切れた裾のジーンズのズボンと。目深に被っ た萌黄色の帽子から、思慮深そうな顔が覗いていた。 旅行者だろうか。彼がここで空を見上げるようになってから、 二週間ばかりが過ぎている。 彼の気持ちも分からないではなかった。この神社の森林は、日 々の生活で疲れた者には最高の癒しを与えてくれる。寒気を帯び た木々の呼吸、僅かに零れる木漏れ日の陽だまり。自然の力が、 薄汚れた体に入ってくるような錯覚を感じさえするのだ。 声をかけようかと迷う日々が続いていたが、ようやく、きょう、 声をかける勇気が生まれた。 「いい天気ですねぇ。」 手を後ろに組みながら、さも自然を装って彼に近づく。驚くで もなく、ゆっくりと、彼はその顔を向けた。 「ここは我々の町内でも自慢の土地なんですよ。こう、ここにいる と、自然が力を分け与えてくれるようだ。そう……思いませんか?」 世間話を繕い、ゆっくりと彼に近づく。 「………逆ですよ。」 侵入を拒むように、彼は不思議な言葉を綴った。ただ、その疲 れた顔には、優しい微笑が浮かんでいた。 「人間に力を与えたら、自然は殺されてしまいます。だから僕は、 ………力を抜き取ってもらってるんです。人間として、思いあが らないように、こうやって彼らに………………」
いつもなら9時からの夜勤を、今日は少し早め、8時過ぎくらい にタイムカードを押した。 この時期はにぎやかで基本的に嫌いではないけれど、一緒に過ご す人がいたのは、前々回が最後だった。 気まぐれに、いつもよりかなり早めに家を出てみたら、道ゆく人 々が皆男女の2人連れで、この日のためにバイトしてましたってな 連中に混じってバイトに向かう自分がなんだか町中のカップルの人 柱にでもなっているような気がしてきて、散策を辞めてさっさとバ イト先のコンビニに入った。 入れ替わりにあがったバイト君は、綺麗に洗った車に乗ってどこ かに行ってしまった。早めにあがったときの嬉しそうな顔を思うと、 本当に町中のしあわせを自分独りで支えているような気になってく る。 「いらっしゃいませ〜」 自動ドアの開く音で反射的に声が出る。作業しながらちらりと見 ると、入ってきたのは、またしてもカップルのようだった。 「何もわざわざここで買わなくたっていいだろ…」男が言う。 「だって…」と、女の声。 「あっちに着けばどの道あるんだから…」 「安全性とか、恐いのよ」と、云々。 2人の話し声は、他に人がいないのと有線がゆっくりしたクリス マスソングを流していたので、嫌でも耳には届いてしまう。右から 左に、なるべく聞き流すのが店員の勤め。 やがて、2人は仲良く並んで商品を手にしてレジに来た。手に持 っていたのは、箱入りのスキン。 「ありがとうございまーす」 こういう場合は、客の顔を見ないのが店員の勤め。手早く紙袋で 包み、ビニール袋に入れる。 「あ・・・」 女のほうが恐らくこちらをちらりとみて、軽く絶句した。こうい うときも、客の顔を見ないのが店員の勤め。 「1,134円になります」 「2050円のお預かりです」 「916円のお返しになります。ありがとうございました」 滞りなく業務を終え、絶句したままの女にお釣を渡し、連れ立っ て店を出る2人にもう一度、ありがとう御座いました。と声を掛け た。 2年前の今日、俺のとなりにいた彼女に向かって。 レジの横にあるガラス戸を開け、ほかほかと心まで暖まりそうな あんまんを取り出すと、指先がじんわりと湯気に包まれた。 そのまま店の外に出て、2人が乗った車が向かった方向に向かっ て、思い切りぶん投げた。 あんまんはイヴの明るい闇に吸い込まれて、やがてべちゃり、と 良い感じの音が聞こえた。 夜が明けたら、凍ったあんまんの処理をしよう。
「どうして? ねえ、どうして?」 俺の後ろで、少女が悲しそうに問いかける。 (どうして?) それは、言うことはできない。……お前にだけは。 そう、お前にだけは知られたくない。 いや、知られてはならないのだ。 それは、一瞬の出来心だった。 伝言ダイヤルを利用したのだ。 『……!』 それは、思い出のある名前を持つ少女だった。 俺は、その子と会うことに決め、その日のうちに結ばれた。 だが、彼女は十五才で、俺は三十才。犯罪だった。 それでも、俺たちは会い続けた。 彼女の母親の名前、そして思い出話を聞くまでは。 母親は、中学時代に俺がつき合っていた女……。 つまり、俺は実の娘と関係を持ってしまったのだ。 そして、今日別れを告げた。 彼女は泣いた。 そして、言った。 「どうして? お父さん!」 俺は、足を止めた。 「知ってたよ。私のこと、娘だってわかったんでしょう?」 「ああ」 「私、あなたの名前、私の実の父親と同じだったから会うことにし たの。でも……。ひとめぼれだったの。ふふっ。母さんと好みまで 同じだなんてね」 「でも、一緒に暮らすことは……できない」 「聞いてる。母さんとは会わない約束」 「だったら!」 「でも、好きなの」 「……」 「好きなの! どうしても、好きなの!」 「!」 そこで、俺の意識は途切れた。 そこには、手を汚した少女が立っていた。 「そう、一緒に暮らすの……」 そして、少女も、意識を失った。 胸を汚した姿で。
「昔と変わらないね」 「すぐに分かったわ」 大学卒業後およそ二十年振りに優子に会い、「恋愛感情なんて長 続きしないもの」と信じていた恵司は、自分の考えが間違いだった ことを思い知らされた。 恵司と優子は学部は違うが、同じ大学の同期生。二人の関係は、 同じサークルに所属していた友人というよりも、「恵司が優子に勝 手に熱を上げていた」といった方が正しく表している。 優子は大学卒業後、すぐに結婚。しかし、身体を壊したこともあ り数年で離婚。その後、仕事の関係や家族の病気で全国各地を転々 とし、恵司などの友人とも音信不通になっていた。そして今年の正 月、仕事や家族の病気が落ち着いたため、十五年振りに優子が恵司 に年賀状を出し、電子メールを通じて交流が再開した。 一方、恵司は二十六歳で結婚して子供も三人。しかし、仕事には 恵まれず、リストラされたことで一人でパソコンのソフトウェア製 作事業の立ち上げを計画。この日は、二年前から一人で化粧品販売 をしている優子に、税金など経営に必要な話を聞くため、東京から 飛行機に乗り、優子の住むK市までやってきたのだった。 「病気で何も食べられずに体が弱った時は体重三十キロぐらいまで に痩せてしまったわ。でも、今は大丈夫。あなたは太ったわね」。 「大学のころより、十キロは太ったからね」 たわいのない話をしながら、「もし、自分が優子と結婚していれ ば、どんな人生を歩んでいたのだろうと」と恵司は思った。きっと 仕事にも恵まれ、今よりも幸せな暮らしができたのではないかとい う思いが頭を過った。 「もし、俺が別れたら結婚してくれるか」と恵司が尋ねた。 「そんなのは待っていられない。私はこれからいい男をつかまえて 幸せになるのだから」と軽くかわされ、恵司は「本当に変わらない な」と、学生時代と同じ自分を情けなく思うのだった。
渋谷ハチ公前15時30分。 シューコー、シューコー。 今、私は友達を待っている。 周りを見ると、みんな、昔の映画に出てくる宇宙飛行士のような、 白いライフスーツを身に付けている。 もちろん私も同じものを着ている。 10年ほど前に起きた、世界最大の原子力発電所の大爆発。 それによってほとんどの生物がいなくなってしまった。 青かった地球は放射能によって汚染され、白く不気味に輝く死の星 になってしまった。 これを着けないで外に出れば、放射能に汚染され死んでしまうのだ。 それにしても、みんな同じだな。 同じ服、同じ色、同じ音。 突然だがあなたはこういう夢を見たことがあるだろうか? ある日、自分の部屋で私じゃない別人がいる。 そいつは家族とも友達とも普通に私としてすごしているのだ。 私は一生懸命、みんなに私の存在を、そいつが別人であることを伝 えようとするが、声が出ないし誰も気がつかない。 そういう夢を見たときは必ず、このライフスーツを脱ぎ捨てたくな る欲求に駆られる。 このライフスーツを着ている限り、自分は誰でもいいような気がし て。 「これを脱げば・・・」 しかしそんな事、私には絶対に出来ない。 なぜなら、この誰もが同じ光景を見ると、なぜか安心するからだ。 このライフスーツを脱いだ後、自分が自分として存在しているのか 不安だからだ。 私は異常なのだろうか?それともこれが普通なのだろうか? あなたならこの、白いライフスーツを脱ぐことができるだろうか? それとも私と同じように、周りと同じ、白い色のまま、安息を得た いだろうか? この安息は本当の安息なのだろうか? 「ごめーん。待ったー?」 友達が来た。 「ううん、私も今来たところだから。どこいこっかぁ。あっ、みん なで踊りに行こうか」 「あ、いいね、いこいこ」 白いライフスーツを来た二人が白い人波に飲み込まれ、オレの前か ら消えていった。 それにしても、あんなこと見つめられて言われてもなぁ。 オレ、ハチ公だし。
一ヶ月、あれからちょうど一ヶ月。 一応、チャイムを鳴らしてみたの。留守じゃなかったら逃げちゃ おうかなって。でもやっぱり留守。それで、合い鍵で扉を開けた。 一ヶ月、部屋はなんとなしに違う。ふ〜ん、ちゃんと片づいてる。 「私が居なくても一人で出来るんだ…」 もしかしたら、お母さんが面倒見ているのかな? な〜んだ、心配してちょっと損した気分。 これなら、ほっといても大丈夫ね。 ベッドの上にキティーちゃんの縫いぐるみがあった。一人で買っ たのかな? ホントは、寂しいのね。素直に電話してくればいいの に…、と思った。 そして、また一週間。 同じように扉を開けた。洗面台に化粧品発見。 「あら…? おかあさん? 私と同じ化粧水」 また、形跡を残さないように鍵を掛けてきた。 夜になって、キティーちゃんが気になりだした。だって、化粧水 と縫いぐるみってお母さんじゃないよね? お姉さん居たっけ? それとも、新しい彼女できたのかな? まさかね。 でも、そんなこと聞けないよ。 一ヶ月と一週間前、彼が終わった後、ベットの中で彼に言った。 「私たち、少しの間 距離を置かない?」 アキラは、私の髪を撫でながら答えた。 「サキがそういうんなら、いいよ」 あんまりあっさりOKされちゃったので、拍子抜けしちゃった。 私たち、付き合いはじめて五年。二人とも就職して、このままず るずると結婚かなぁって思ったら、ちょっと離れてみたくなった。 一ヶ月たって、逢わなくても私は平気みたいと思えるようになっ たけど、ちょっと心配で訪ねてみた。でも奇麗に片づいている部屋 が私を拒絶しているように感じて、そっと出てきた。縫いぐるみも 化粧水も、気にならないことはなかったけれど。 今朝、電話したら、 「おかけになった電話は、現在使われておりません」 ってテープが流れていた。 えっ?と驚いてすぐに部屋を訪ねた。新しい入居者に宛てた電力 会社のパンフがドアのノブに下がっていた。合い鍵を差し込んだけ れど、鍵は回らなかった。 頭の中が、白くなってゆくのが分かった。 「アキラ、だまって引っ越しちゃったんだ」 あれから二ヶ月。待たせすぎたってこと? ひどいよ。電話もくれないで。 二人で歩いた道を駅に向かって歩きながら、ひどいのは私だった かもしれないと思った。 一つだけ、心に引っ掛かることがある。 「私たちのさよならは、いつだったんだろう?」 投げ捨てた合い鍵は、音もなく川面に消えた。
僕は君の過去に嫉妬する。なぜなら、そこには僕の知らない君が いるから。そして、過去の君を知っていた人にも嫉妬する。なぜな ら、彼らは僕の知らない君を知っていて、なお今も君と時間を共有 し続けているから。 ある休日、君と一緒に出掛けた。空には雲一つなく、乾いた空気 のカーテンを淡い陽射しが照らしていた。ありふれた冬の日だった。 気の早いイルミネーションで装飾された街を、寒いね、うんそうだ ね、僕らはこんな他愛の無い話をしながら手を繋いで歩いた。 暫くしてスター・バックスのテラスの前を通りかかった時に、ど こかの大学のブラスバンド部がそこで音合わせをしているのが見え た。彼女は、少し見ていってもいい? と僕に訊き、もちろん、と 言うと嬉しそうに近づいていった。僕も彼女にしたがい、彼女の隣 に立った。 やがて音合わせが終わると、司会者らしき女性がマイクを持って、 聴衆に向かって何かしら挨拶をしていた。どうやらこのブラスバン ド部は亜細亜大学のブラスバンド部らしい。それを聞いて彼女は、 亜細亜大学ってうちの近所なんだよ、と僕にむかって言った。 挨拶が終わり、指揮者が前に立ち聴衆に向かってお辞儀をした。 指揮者が指揮棒を振り始めると、気持ちの良いアルト・サックスの ソロから演奏は始まった。曲はマライア・キャリーの「恋人たちの クリスマス」だった。型にはまっている感じはしたけれど、悪くな いソロだった。やがてその曲の演奏が終わると、次にカーペンター ズの「青春の輝き」を演奏し始めた。すると彼女は嬉しそうに、こ の曲、高校の時にブラスバンド部で演奏したんだよ、と言った。懐 かしいなあ、彼女は本当に懐かしそうにそう言って、演奏に聴き入 っていた。 「ちょっと悔しいな」 僕はそう言った。 「なにが?」 「いや、君の高校時代からの友人は知っていても、僕は君の高校時 代のこと、君が高校時代にどんなことをしてきて、そこにどんな空 間があって、そういうことを知らないから。それで、さ」 僕がそう言うと、彼女はにっこりと笑って言った。「君しか知ら ない私だっているよ」 それに、と彼女は付け加えて言った。 「そ れに、君とはこれから作っていけるものがたくさんあるじゃない」 ありふれた冬の日だった。そうだね、僕はそう言うと彼女の手を 握り直し、絶対に離さない、そう思った。
学生会館の一階にある喫茶店で僕と彼女は時計台のある校舎が見 えるところに座っている。彼女はパフェを食べおわり、僕は冷えて しまったコーヒーをそのままにしていた。 「あなたってほんとにだいじなことになると黙ってしまうわね。相 談にのろうっていう気がないの」 「……」 彼女はマイルド・セブン・スーパー・ライトに火をつけ吸いはじ めた。煙を天井に向けて口からはきだすと彼女は話をつづけた。 「それにあなたのプライベートなことって私ぜんぜん聞いたことな かったわね」 「……」 「なぜ何もしゃべらないの?」 「君がだいじなことを相談してくれることに、僕が何もちからにな れないことは謝るよ。ゴメン。……。でも僕が何をいってもちから になれないと思うんだ。僕は君が直面している問題に対して何を知 っているんだと思う。何も知らないじゃないか。いいかげんなこと はいえないと思うんだ」 僕はまずいコーヒーをひとくち飲んでから話しはじめた。 「相談にのる気がなくて話さないんじゃないんだよ」 「そんなことをいってるんじゃないの。むつかしい話になるとはじ めっからあなたはとぼけるのよ。私から見るとそれがとってもいや なの」 「じゃあ、どうすればいいんだい」 「簡単な話よ。むつかしい話でもあなたが相談にのってくれたり、 あなたのプライベートな話を私が聞いたりしたいの」 「それでおたがいのこころを傷つけあってもかい?」 「私、いま、そんなこといってる?」 「間接的にね」 彼女は僕の眼をじっと凝視している。僕はキャンパス通りを行き 来する学生たちの波をただ眺めていた。 「……。僕はプライベートなことに関しては話したくはない。話し たくなった時に話す。それでいいじゃないか。……。君の相談事に 関してはこれからは僕は真剣に考えるようにするよ。これでいいか い」 「……。わかったわ。それでいいわ」 彼女は聞きとりづらいほどの小さな声でいった。そしてくまのプ ーさんの腕時計を見ていた。 僕は洗面所にいって顔をあらってきた。彼女はもう席にはいなか った。精算書はすでにぬきとられ彼女が払ったみたいだった。僕の 座っていた席の前に一枚のメモがおいてあった。 偽善者 と、そこには書いてあった。しばらく僕は席に座ってそのメモの 意味を考えていた。けれどもいくら考えても答えになるものは見つ からなかった。ただ時間だけが過ぎた。 それから僕らは会わなくなった。彼女のお母さんが死んだのはそ れから1週間後だった。
真美子が学芸会に出かけるために家を出たのは、プログラムの予 定時間を1時間も過ぎてからだ。聞いて呆れる、オフの朝寝坊の結 果である。職場の児童館で仲良くなった小学生との約束がぐるんぐ るんと頭の中を回り続ける。私は子どもと果たせない約束を軽々と したのだとイライラしつつ、ブラックコーヒーをがぶ飲みしながら 車を走らせた。 約束相手は母子家庭でお母さんはストリッパーを「誇りを持って」 やっている、りょく君だ。「俺はまだ小学生で、loveの話は駄目だ けど、友情の話やるんだ。いいだろ。ラナー彼は、母をステージネー ムで呼ぶーがいろいろ教えてくれた。先生には内緒なんだ。だから 来て。きっとだよ」。それから指きりげんまんをした。 真美子は軽自動車のアクセルを目いっぱい踏み続け、何とか学校 に着いた。予定開始時刻7分経過。 ほの薄暗い体育館に入ったその時歓声と悲鳴がいっぺんに聞こえ た。暗闇に目が慣れ、事の次第が掴めるまでに、何分かかったろう か。 舞台にはりょく君一人。彼は全く健全な小学校の体育館という入 れ物の中で、不思議と上品な雰囲気をかもし出しながらなんとまあ 服を一枚二枚と脱いでいる。同級生の操作するライトが何とも悩ま しい。 横座りして足を組み、ウインク。生徒達より父兄が喜んでいるよ うに見える。シャツを指先でくるくるとまわし右に左に飛ばしてゆ く。 彼のたった一つのせりふ「おまえの為なら、俺はやるぜ」を滑ら かに言い終え、乱れてた客席内に「最後まで静かに見ろよ」と忠告 して拍手の中を退場。子ども達はそれに従い、大人の喧騒は納まら ぬままだった。 「ほんとはさ、その前がよかったんだぜ」。りょく君は次の日、 ブランコに乗りながらそういって石を投げた。「真美子〜好きだぜ ー好きなんだ」と歌ってから「芸術」を始めたそうな。 おかげで暫くは綺麗どころの小学生のお姉さん達からにらまれる 日々が続くこととなるであろう。 「ラナは来なかった。仕事で疲れてねてた」とりょく君は言った。 何とかこらえている彼の寂しさを、受け止めてやれるだけの力が、 私にあるだろうか、と、真美子は思った。ない。何の力も。 だからこそと、真美子は思いっきり彼を抱きしめた。 りょく君はしばらくして指をくわえ、目を閉じた。 ラナ、ラナと呼ぶ声が、次第にくぐもって来た。
カード・ゲームのルールを知らない私は友人たちと別れて、一人、 スロット・マシンの前に座る。コインを入れ、レバーを引いた。卒 業旅行でやってきた賭博の街。いきなりのビギナーズ・ラック。増 えたコインを換金して戻ろうとすると、既に場所がわからなくなっ ていた。世界一の客室数を誇る巨大ホテル。砂漠のように広い賭博 場。 諦めて、カード台にいるはずの友人たちを探しているうちに真夜 中になった。先に部屋へ戻ろうにも、どのエレベータに載ればいい のかわからない。この本館のエレベーターだけで80基もあるのだ。 フロントで尋ねようか。でも、どうやって行けばいいの? 眠いし、お腹もすいた。 「よかったら僕の部屋へおいでよ」声をかけてきた若者の親切に甘 えることにした。彼はシングル・ベッドの上で冷めたハンバーガー をくれた。 次の夜、まだ部屋へ戻れずにいる私にチキンを奢ってくれたビジ ネスマンが、ホテルのブティックで新しいドレスを買ってくれた。 三日目。今日はここを発つ日じゃなかったかしら。でも誰も私を 探しにこない。部屋はどうしたかしら? もう、チェックアウトさ れているわね。 「独り旅ですか?」初老の紳士が何でも好きなものを食べなさいと 言うので、ステーキを食べ、ワインを飲んだ。男の部屋は最上階の スウィートだった。ルビーのピアスを記念にくれた。 そうして幾つもの夜が過ぎ、私はカジノ・ホテルでその日暮らし をする女として、ちょっとした有名人になったらしい。わざわざ私 を訪ねて各地から色んな男がやってきて、毎夜私を誘った。いつし かポーカーもバカラも覚えた。 そして宝石を散りばめたような夜とシャンパンに酔いしれている うちに、いったい何年が経ったのだろう。でも私は迷路のようなこ のホテルから、今も抜け出せないでいる。ここは広くて、眩しくて、 楽しすぎる。 でも最近、誘われることもめっきり減ってしまった。レスト・ル ームのソファで眠る夜も少なくない。なぜだろう……。答えがわか っているから、鏡を見るのが怖い。単なる方向音痴の少女だった日 は、あまりにも遠く、私から去っていってしまった。 だから今夜も僅かなチップと口紅を手に、カジノ場へ向かう。 私はこのギャンブルの街で、ぎりぎりの夜をずっと勝ち続けてき た女なのだ。 やがてルーレットの音やディーラーたちのかけ声が私を迎える。 そこは静かに、そして確実に幕をおろし始めた、夢のステージだっ た。
男が店内に足を踏み入れた瞬間、その場にいる誰もがその男の方 を振り返った。 異様だった。男は自分の背丈ほどもありそうな細い木製の箱を担 ぎ、ぼろぼろになった黒いコートを羽織っていた。早朝とは言え季 節は真夏。そのような格好で街を出歩く人間はそうはいない。早朝 のファミリーレストランはしばし男に対する批評でざわつく事とな った。 「いらっしゃいませ何名様でしょうか」 どんな風体であれ客は客である。ウエイトレスは男に対し、微笑 みながら言った。男は指を一本だけ立てて、自分が一人である事を 示す。 「ご注文は何にいたしましょう? ただ今モーニングセットも取り 扱っておりますが」 傍らに木箱を置き席についた男に対し、ウエイトレスが水とメニュ ーを差し出す。男はウエイトレスの問いには答えようとせず、 「人を待ってる」 とだけ呟き、不機嫌そうに俯いた。ウエイトレスも男のその様子に、 会釈してその場を去る。 五分後。 新しい客が店内に足を踏み入れた。小奇麗なスーツを着こなし、 ブランドものらしいサングラスをかけたその風体は、青年実業家を 思わせた。 「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」 と問うウエイトレスに、その若い男はにこにこと懐から銃を取り出 し、何も言わないまま彼女の胸を撃ち抜いた。店内に悲鳴が響く。 「騒ぐな!」 一瞬にして殺人犯と化した若い男はウエイトレスを撃ち殺した後、 天井に向けて数発発砲すると、外見にそぐわぬ甲高い声で叫んだ。 その声に店内が静まる。 殺人犯の目的は不明だった。時折意味不明の事を口にし、食事を 持ってこさせたり酒を持ってこさせたりしていた。店内の誰もが自 分の人生の悲運を呪った。 だが男は違っていた。男は傍らに置いていた木箱に手をかけてゆ っくりと立ち上がるとと殺人犯を睨みつけた。殺人犯はそれに気付 くなり 「勝手に立つンじゃねェ!」 と、男に向けて発砲した。 弾丸は二発。 男は木箱をまるで箪笥のように自分に向かって開放すると、その 影に隠れた。弾丸が金属音と共に木箱に弾かれる。木箱はどうやら 金属のようなもので裏から補強されているようだった。 男は木箱の中から一振りの刀を手にし、飛び出るように殺人犯に 向かって駆け出した。殺人犯はその不可解な状況に戸惑い、狙いを 定める事ができない。弾丸が一発放たれたが、それは男には当たら ず、店内のソファーに着弾した。男が刀を抜く。 あとは一瞬。 男は殺人犯を一刀のもとに斬り捨てると、何事もなかったように 木箱のもとに戻り、刀をその中に納めた。店内の誰もが現状を理解 できないでいる中、男は一人無表情なまま木箱を担ぎ上げ、側にい たウエイトレスに 「ひやかしだ。すまんね」 と言い残し去って行った。 男の目的がなんであったのか、殺人犯の目的が何であったのか、 知るものは誰一人としていない。 人々の記憶には、ただ男の持っていた刀の煌きだけが、深く残っ ている。
「何か出てきた?」 「いや、まだだ」 手のひらですくえそうな程の僅かな街灯の明かりが足元を照らし 掘り返した小さな穴の上で青白く揺れる。まるで澄んだ泉のようだ。 長い年月を経て踏み固められた地面は、別の物質のように硬い。 手ごろだと拾っておいた角材も大した役には立たなかった。それで も素手より上等な働きはできるのだから文句は言えない。 だいぶ体力を消費し、少しずつだが穴は深くなっていた。だが目 的の物は一向に姿を見せない。子供の頃、俺はどうやってこの場所 を掘ったのだろうか。 いや、それより── 「何を埋めたんだっけな」 作業を止めずに背後にいるミズホに問う。 「いちばん大事な物」 振り返って確認した訳ではないが、彼女が微笑んでいる気がした。 ──ジュン君の、イチバン大事なものを埋めるんだよ。 ミズホと会ったのは何年振り、いや何十年振りと言っても大げさ ではない。八歳の時に別れたきりだから、もうかれこれ二十年か。 街中では名乗られるまで誰なのか全然判らなかった。ずっと音信不 通だったのだから無理もない。 ……いや、理由はそれだけではない。この二十年、俺が彼女のこ とを思い出す日が一度もなかったからだ。何故だろう、今思い起こ せば毎日のように遊んでいた──誰よりも好きな子だった筈なのに つい数時間前まで俺の記憶から彼女の存在は完全に欠けていた。 彼女が引っ越すことになり、あれだけ悲しんだのに。 久しぶりに出会った俺達は昔話を募らせるうちに、学校の裏手に あるこの場所を思い出した。 学校一大きな桜の下、再会を願いお互いの大事な物を埋めた場所。 ──二十年後に掘り起こそうね。 「ふぅ」 「代わろっか?」 「いや、大丈夫だよ」 穴を掘っているとだんだん記憶が明確になってくる。思えば二十 年間、ずっと無意識に何かを避けていた気もする。 触れてはいけないが、捨てることのできない、大事な記憶…… 「私は嬉しかったよ」 後ろから声がする。俺は何も答えずに土を掘り続ける。 「ジュン君のこと、大好きだもん」 ざく ざく ざくっ 「責めてなんて、ないよ」 彼女の言葉に何故か涙が流れた。 その理由も、そろそろ解かりかけている。 ──ジュン君の、イチバンだいじなものを埋めるんだよ。 角材が土とは違う感触を手に伝えた。 二十年前に俺が埋めたもの。 「……ああ」 振り返ると、もう誰も居ない。 俺は震える手で、まだ幼いままの彼女を抱き上げた。
いつもこんな手紙ばかりで申し訳ないとは思いますが、本当に今 度ばかりはどうしようか悩んでいます。ひょっとしたら殺人事件か も知れません。警察に届けようかとも思いましたが、探偵社を経営 している兄さんに一言の相談も無く届けるというのも何ですし、電 話でもとは思いましたが、僕も事件を整理したいと思い手紙にしま した。 兄さんも知っている、高校から一緒の田口治ですが、ひょっとし たら彼は殺されているかも知れません。その時の様子を説明します ので、聞いて下さい。 僕達は同じ大学で多いに学生生活を謳歌していますが、実は内緒 にしていたのですが、僕達にはそれぞれ付き合っている人がいて、 結構ダブルデートをしています。僕達はその日新宿で飲んだ後、治 のアパートで又飲みました。僕達はリビングのソファセットで飲ん でいました。他愛も無い話をしていたのですが、突然治の彼女の斉 藤美穂という女性が、倒れ込んだ治を見て、「死んでる」とぼそっ という声が聞こえたと思うと、「ヒーッ」という僕の付き合ってい る薫が悲鳴を上げ、僕に抱きついてきました。僕はその勢いで床に 頭から倒れ、情けない事に気を失ってしまいました。 気がついたのは病院で、どうやら救急車で運ばれたようです。脳 波も取られ異常はありませんでしたが、その日は入院させられてし まいました。でも治は救急車では運ばれなかったというし、一緒に きた女性も帰ったといわれました。 翌日僕は治のアパートへ行きましたが、カギが掛かっており、朝 刊もポストに入ったままです。しかも薫とも連絡が取れず困ってい ます。どこにいるか調べて貰えないでしょうか。 前略。茂君から依頼のあった件を少し調べて見ましたが、勿論殺人 事件は起きてはいません。茂君の付き合っている人が女性でなかっ たというのは少し驚きましたが、その件については後でゆっくり話 をしたいと思います。茂君も判っている通り、美穂さんは酔いつぶ れた田口君を死んでると表現したんでしょう? 茂君には残念です が、彼女?の薫君は今は美穂さんと付き合っています。勿論茂君の 事だからそんな事は感じていたのではないでしょうか。薫君は茂君 からの電話は無視しているようですね。きっと薫君も普通の恋愛の 方が良かったのではないでしょうか。部屋に大きなネズミを飼って いる田口君は田舎に帰っています。母さんが寂しがっていましたよ。 調査料は、母さんへの電話という事にしておきます。
「お、お、お巡りさん!」 真っ青な顔をして、男が交番に駆け込んで来た。 「ん? どうしたのかね」 デスクワークの最中だった警官は、手を止めて顔を上げる。 「てぇへんだ、てえへんだよ!」 「まあ落ち着きたまえ、ほらそこにかけて」 「あ、こりゃどうも」 男は隣の椅子に座り、お茶を飲み干す。 「……それは俺のだったんだが。って、言ってるそばから弁当にま で手を出すな!」 警官は男が手を伸ばしかけたコンビニ弁当を引ったくる。 「朝食がまだだったもんで」 「用事があったんじゃないのか?」 「ああ、そうだ。大変なんですよ」 呼吸を整えた後、男はもう一度繰り返した。 「何が大変なんだ?」 「死体が川に浮かんでまして」 「なんだと!?」 弾かれたように警官は立ち上がった。 「さ、早く!」 二人は道路を突っ走る。 「それで、一体どんな状況なんだね?」 走りながら警官が尋ねる。 「いやあ、今日の朝に起きて、朝飯前のジョギングをしとったんで すけどね、なんとなくこう胸騒ぎというか、動悸というか、そんな んがしまして。別に心臓に持病もないし」 「手短に!」 「それで川をふと覗き込んだら、死体ですよ。ぷかぷか」 「なるほど。死体には手を付けちゃいないだろうね?」 「もちろん。だからこうしてお巡りさんを――この辺です!」 橋に通りかかった二人は、川を覗き込む。 「ほら、あそこに」 男は水面を指さした。 「どこだ、どの辺だ?」 だが、警官がいくら見ても、それらしき姿はない。 「どこに死体がある!」 「だからほら、あそこ」 男の指さす先には、白い腹を見せた魚が一匹。 「――魚なんぞで呼ぶな、たわけ!」 警官は大声で男を怒鳴りつけた。 「でも、死体……」 「生命は全て価値があるとでも言いたいのか? 貴様と生命観につ いて議論する気はない! 大体人間に限らないなら、地球上死体だ らけだ、その一つ一つを見つけて騒ぐのか!」 「はあ、まあそりゃそうですけど」 それでも男は釈然としない顔をしている。 「そんなに気になるなら貴様が煮るなり焼くなりなり好きにしろ!」 「えっ、大丈夫なんですか?」 「大丈夫に決まってるだろう! 今度こんな下らん事で呼んだら、 公務執行妨害で逮捕するぞ!」 憮然として、警官は歩み去った。 「あっ――行っちゃった」 男は頭を掻いてから、河原に降りると魚を拾い上げた。 「んじゃ、せっかくだし煮るかなぁ」 目がなく、背骨が曲がり、対称性の著しく崩れた魚の死体を。
女子ロッカーの扉を閉めた瞬間チャイムが鳴り始め、席に着くと 同時に終わる。 「おはようございます」空々しい挨拶だ。 課長が本日の予定と連絡事項を告げ、一人一人に発言を求める。 「特にありません」と「別にありません」が並んで朝礼が終わる。 私はパソコンの電源を入れる。 「カチョー、昨日はどーも」ニヤニヤ顔の加藤がひらひら登場。課 長もつられてニヤニヤと「何言ってんのカトちゃん。昨夜はすっか りカトちゃんペースに巻き込まれちゃったよ」「いえいえ、三軒目 に誘ったのはカチョーのほうだったじゃないっすか。カチョーの美 声を堪能致しました」 モニターを見つめながら男芸者たちのおしゃべりを聞く。 「カトちゃんもなかなか。声がいいもんね。うまいんだよ」二人そ ろってヨイショの練習「いやいや課長の声量には到底及びません」 あっ「そりゃ僕は毎日コーラ飲んでるから」やばい「えっコーラは 声にいいんですか」止めろ!「だって、セイリョウ飲料って言うじ ゃないか」わわわ「はははコーラ参った」きーっ。 その瞬間私の中がきーっとなった。私の一番苦手なおやじギャグ。 それも使い古されたやつ。長年のOL生活をもってしてもまったく 馴染む事が出来ないこの定番への反応は、日に日に過敏になって、 聞いた瞬間から体内にきーっが鳴り響く。コメカミの血管が破裂し そうになる。大声で叫びたい衝動を何とか押さえて、何事もなかっ たようにキーボードを叩く、叩く、叩く、あれ?手が動かない。う っ首も回らない。全身がいうことをきかない。 動かなくなった目玉で認識できる範囲を確認して驚いた。周りも 静止している。田中さんは湯呑に口をつけ傾けたまま。その湯呑か ら上がる湯気もホワッとしたまま。パソコンのカーソルも点滅して いない。加藤と課長も大口を開けたまま……時間が停止している。 おやじギャグに対する嫌悪感が私の中できーっとなって、きーっ が私と私を取り巻く時間の進行を止めてしまったに違いない。元に 戻す方法は。私は静止したまま苦悩し、現状を分析した。 おやじギャグの真髄、原動力はその下らなさにある。過敏に成っ てはいけない。この下世話な集団に身を任せ、溶け込む事が必要な のだ。そうに違いない。 「はーっはっはっ、お二人ともとっても歌がうまソーダ。なんちゃ って」力任せに駄洒落を発し、勢いがあまって椅子をひっくり返し て立ち上がった私は、正常に戻った時間の中で注目を集めていた。
中国製模造木の真っ赤な杯に満ちたサトリを手にして、ボンイチ は、ふるえる水面にじぶんのゆがんだ顔を浮かべていた。 「グイっとやんなよ。もうドラッグなんか、いらないぜ。酒もいら なくなる」テーブルのむかいで、サクマがアロハ・シャツの胸ポ ケットに指をつっこみ、「でもタバコはいるな。長生きできねえや」 と、シワを深めてほおで笑った。 ボンイチはまだ、ゆれるサトリを見ていた。エウロパの海草から つくられる、この液体は、虹色にまたたいて発泡し、うつるボンイ チの顔をマーブル模様にねじ曲げる。 タバコをくわえたサクマが、ぷうとマヌケな音を出して煙を吹き、 「なんだボニー。怖じ気づいたのか? 今どき、ガキだってやって る。なんせ、どこのだれが飲んだって合法なんだから」 サトリに害はなかった。むしろ、その名のとおり――日本語の 「悟り」から来ているが、フランスでロシア人がつけた名前だっ た――脳でなにかがきらめいて、すがすがしい気ぶんになる。ボン イチには、味わったことのない経験だ。ボンイチはいつでも、どん より鈍重な曇り空と、溶けて黒ずんだアスファルトのあいだに生き てきた。ストレスだの、コンプレックスだの、いろいろな名をもつ 醜悪なオモリが、つねに胃の下あたりにぶらさがっている感覚があ る。 またサクマが冷やかした。「まさか目で飲むつもりじゃないだろ うな。口で飲むんだ。口ってなんだか知ってるか? ケツにある穴 さ」そして、ぷう。今度のはオナラだった。サクマが歯のすきまか ら息で笑う。 ボンイチは、サトリの杯をテーブルに置いた。にせもの同士、模 造木が軽く打ち合う音は、残響もなく消えた。 「おい」サクマはテーブルに身をのりだし、あきれるほど真剣な顔 で、ボンイチを見た。「おまえにはサトリが必要だ。いつも沈んだ 顔してやがる。いいもんだぜ。セックスより何倍もいい。ミミズ十 万匹ってとこだな」じぶんで言って、じぶんで笑う。「おれの甥っ 子の中学生なんか、射精するらしいぜ。おれももっと若きゃ、そう なるだろうに、残念なことだ」 テーブルを立ったボンイチは、背中で「おまえはバカだ」とサク マの声を聞いた。扉を開けると、来たときと同じ、夜の街路。冬の 底冷えに足を踏み出して、じぶんはバカだとボンイチは思った。ぶ らさがったオモリは、歩調に合わせて振り子のように揺れ、重さを 増してゆく。吐き気すら覚えるが、ボンイチは、その感覚を大切に 思うのだ。
「何という現金なやつだ」と勘竹警部は言った。その死体は人間で あった頃を想像するのにかなりの空想力を必要とする。人一倍空想 力の強い人竹巡査は、必要のない領域にまでその空想の翼を延ばし 失敗していた。人竹の背中を優しくさすりながら勘竹は言い放った。 「かなりの借金を抱えていたな」動揺した観衆をさらに揺るがす術 を彼は知っていた。青年実業家である。卑屈な被害妄想である。彼 は泣き母の面影を思い出し、涙目で歌いながらフレヒス姿は元祖納 豆菌と言わざるを得ない。 その頃、交通渋滞に巻き込まれていた私は全くと言っていいほど 好奇心というものが無かった。生まれ持ったその才能は親父譲りだ と人は言う。しかし彼は、そんなことは全く気にもとめずにただひ たすら走り続ける。今日はバーゲンセールで朝鮮人参を5、6本買っ てきていた。まったくの無精者である。末広がりである。きっと東 京からやって来たばかりの事など覚えてもいないのだろう。 「ダメダメ、あっち行って」突然我々は、無愛想な警備員に追い出 された。写真撮影禁止であった。なら仕方ないか、と妥協するお前 が今日も愛おしく見える。庭にはバラが咲いている。この汚れた空 気でよく咲かせるもんだなあと、いつも父は言っていた。それもそ のはず、父は心筋梗塞であるからだ。その上6万$の賞金首でもある。 私はそんな父を尊敬してやまなかった。父は延髄斬りの名手でもあ った。私は父が休みの日には仕事の疲れが抜けない父に無理に延髄 斬りをねだったものだ。それはいつもいい所に入るし、時にはカウ ンターでもあった。時々血ヘドを吐いて倒れることもあったが、私 はそんな父を少なからず軽蔑していた。だって、震えが止まらない んですもの。 「有頂天になれ!」が父の口癖だった。気持ちが悪くて爆発したあ の日。年中無休で不眠不休な押し売りを撃退するための本の執筆で 忙しかった。インクで汚れた顔をますます汚すその顔つきで迫って きたとき、私はハッとして目を見開きサングラスの奥からスプレー を取り出した。閑古鳥が鳴いている。見よう見まねで泣いている。 漢字の変換を怠っていたことはすでに上司にばれているだろう。様 々な憶測が飛び交った中で僕らはどこへ行くのだろうか。彼は自分 のまぶたがめくれてきていることに気がついているのだろうか? 出会いはいつも偶然に、しかし必然の檻の中で僕たちはくらして いることを忘れてはならない。そこにアイツはきっといる。
とある町に、「夢と魔法の国」という人気のテーマパークがあり ます。このテーマパークのマスコットであるネズミのマッピーは、 毎日華やかなダンスショーやパレードなどのイベントで、子供達に 夢と希望を与えている人気者で、子供達はマッピーを見つけると、 大喜びで握手を求めて集ってきます。 ある日、マッピーがいつものように子供達に握手をしていると、 一人の子供がマッピーを指さして言いました。 「マッピーは縫いぐるみやで。中に人が入っとんねん」 マッピーは自分のことを、縫いぐるみだとは思っていません。真 剣にネズミのマッピーだと信じているのです。しかしこの言葉によ って、マッピーは自分の存在に疑問を持ち始めました。 その晩、いつも身の回りの世話をしてもらっているタナカさんに 聞きました。 「タナカさん、僕の中には人が入ってるの?」 タナカさんは一瞬驚いた表情で、しかしすぐいつも笑顔に戻って こたえました。 「子供達の夢を壊すようなことを言っちゃいけないよ。マッピーは マッピーだろ?世界で一匹しかいないネズミなんだよ。気にしない でゆっくりお休み」 しかし次の日、マッピーは偶然タナカさんの部屋から漏れる会話 を、盗み聞きしてしまいます。 「部長、マッピーの奴が自分は人間ではないかと疑っています」 「それはまずい。もし奴の記憶が戻って自分が人間だと気づけば、 マッピーの情報が外部に漏れる恐れがあるな。我社は子供達に夢を 与えているんだ。マッピーの中に入る子供は完全にマッピーになり きってもらわなければならん。ちゃんと薬は投与しているのかね」 「はい、それは週一度必ず。ただマッピーも八年目ですから、そろ そろ過去の記憶が戻る頃かもしれません」 「そうか、それじゃそろそろ交代だな。後任は?」 「はい、マッピーに合う体型をした、身寄りのない12歳の男の子 を一人、施設から引き取りました。すでに薬を投与してありますの で過去の記憶はすべて消され、本人も今は完全に自分がネズミのマ ッピーであると信じ込んでいます。あとはダンスを教えればいつで も」 「わかった。成長抑制剤は忘れないでくれよ。マッピーが成長する わけにはいくまい」 「もちろんです。今のマッピーはどうしましょう」 「新マッピー完成次第、処分しろ」 この会話で、マッピーは自分の過去を思い出し、二人に復讐を誓 うのでした。
妻が新しい順に並べた冷蔵庫の卵を古い順に並べ替えるのが最近 の楽しみ。「中州」に住む長男の、今年5歳になるひとり娘のクー ちゃんが最近好んで食べるのが生卵かけご飯。 母親のクゥーちゃんは練りゴム工場のパートに出ていて、どうし ても残業で遅くなりそうな時は、妻がクーちゃんを保育園に迎えに 行くというわけ。今日も4時ごろに電話があった。 「工場長がしつこくって」 と云ってクゥーちゃんは熱い息を漏らした。パートとはいえ外で 働いて、少しでも家計の足しにしようというクゥーちゃんの心意気 に頭が下がる。「栗子のお迎えお願いします。いつもすみません」 と云うので「お安い御用。らじゃー」と答えた。 妻がクーちゃんを迎えに行っている間に、こちらは冷蔵庫の卵を 並べ替える。3年前に脳を患って以来、何かに集中すると手が震え るようになった。落とさないように、ひとつずつ丁寧に並べ替える。 ちょうど並べ終わったところで妻とクーちゃんが帰ってきた。急い で書斎に戻り、ソファーに長々と横たわる。 「さあ、新鮮な卵よ」 と云って妻がクーちゃんに生卵かけご飯を作ってあげる。クーち ゃん喜んで食べている。ソファーに横になって目をつむり、そんな 光景を思い描くのが楽しみ。 昼寝の夢のなかに蛇が出てきた。昔からよく蛇の夢を見る。蛇に 追い掛けられ、いよいよ首に巻き付かれた、というところではっと 目が覚める。今日の夢も同じだった。しかし今日は、はっと目が覚 めたらちょうど出掛ける時間だったので助かった。蛇に助けられた のは生まれて初めて。嬉しい気分で出掛ける。 佐川と待ち合わせて西船橋の劇場へ。50年来の友人である佐川 の娘、葉子ちゃんが出演するステージを観る。相変わらず動きに切 れがあって気持ちのいいステージだった。 「特に黒人との絡みは迫力があったね」 と云って佐川と喜ぶ。 帰りの電車は混雑していた。読書もうたた寝もできない。仕方な い。紙袋に仕込んでおいた小型カメラで女子高生を盗撮。こういう 時だけは手の震えがぴったり止まるから不思議。 駅からの帰り道、ビデオの再生装置がある「中州」へ寄って長男 に画像を編集してもらう。 「これ、僕のHPに載せてもいいですか」 と云うので、「好きなだけどうぞ」と答えると長男喜ぶ。 帰りがけにクゥーちゃんから保育園のお迎えのお礼に梅干しを頂 く。クゥーちゃんは紀州の生まれ。ご両親は今も健在で廃品回収業 を営んでおられる。
クリスマスイブの夜中過ぎ、中須は真っ暗なわが家へ帰って来た。 試しに「ただいま」と言ってみる。返事はない。寝室を覗く。暗が りの中、妻の布団がこんもり盛り上がっているのが確認できた。小 さくため息をつく。台所へ戻って、手に下げていた紙箱をテーブル に置いた。 帰り道、大サービスですよー、と若い女の子たちが甲高い声を張 り上げていたのだ。ワゴンにはケーキの箱が積まれていた。中須は 思わず足を止めた。家にはいい歳をした妻が一人いるだけだった。 今さらケーキなんて。だけどクリスマス、残業ばかり。いやそれよ りも、不況でボーナス大幅カット。せめてケーキぐらい。中須は大 サービスのケーキ(中)を一個買った。 テーブルには、鳥の唐揚を載せた皿にラップがかけられていた。 中須は暫くその冷えきった料理を見つめてから、先に風呂に入ろう と決めた。暗いままの寝室へ入って服を脱ぎ捨て、下着とパジャマ を探す。部屋を出るときに、妻の寝顔を覗き込んだ。 「ケーキ買ってきたよ」と耳元で言ってみる。と、「売れ残りでし ょ」と小さな声。中須は仕方なく苦笑した。「うん」 「こんな時間だから安いわよね」 妻はそう言うと、用は済んだとばかりに寝返りを打った。中須は 「おやすみ」と呟いて、寝室を出た。 ぬるい風呂に中須はゆっくり浸かった。ふうっと息をつき、両手 で何度も湯を顔にかけてから、体を湯舟にもたれさせた。 まあ所詮、クリスマスなんか子供のものさ。でなければイベント に飢えた若者か。分別のついた大人には関係ない、そうとも。 まつげについた雫を、中須はごしごし拭った。 風呂から出て下着姿のまま台所へ入る。と、中須は呆気にとられ た。 「何だ、それは……」 異様な妻の姿がそこにあった。 「それって、何よ」と妻は答えた。 「格好だよ、その格好」 「バニーちゃんよっ、他に何に見えるっていうのよっ」 中須には、角のはえたトドのおばけに見えた。 「なかなか、おいしいわ」 バニーちゃんは、ケーキを手づかみでぱくぱく食べていた。「残 り物だってバカにできないわよね」 「寒くないのか」 「寒いわよっ」 妻はまっすぐにこっちを見た。目が、少し、赤いようだった。 「早くあっためてよっ。そう思うならっ」 中須は懸命に不安を押さえ込むと、妻の体を抱き上げた。まあ寝 室までは僅かな距離だ。一歩足を踏み出す。と、妻がケーキの欠片 を口に押し込んでくれた。ほどよい甘さだ、と中須は思った。
カモノハシのカコは、カモノハシには嘴があるものだっていう事 実が気に入らない。嘴の長さを自慢してカコに求愛するオス達に 「嘴があるかないか、それが問題なの」とため息を付くものだから、 ビー玉のようにキュートな瞳も彼らの恋心に火を付けるには難しい。 カモノハシは夜行性だが、カコは夜更かしが嫌いだ。けれど太陽 の光はカコの網膜には強すぎてなかなか水面から顔を出すことが出 来ない。勇気を出して顔を出しても、世界があまりに眩しくて、ぽ ろぽろ涙がこぼれるばかりだ。 「太陽って冷酷。でも昼の地上は真っ白で綺麗よ。冷酷さと美しさ って比例するのね」 涙が出るのは目の奥がちりちり痛いからではない。外があんなに 白くて素敵だからだ。 「でも、あたしはただのカモノハシ。綺麗な昼間だって見れやしな い。あたしなんでカモノハシなんだろう」 鳥でない自分の嘴と魚でない自分のしっぽをまじまじと眺めなが ら、カコはほぉとため息を付く。 そのうち腹が空いて、きらきら光る昼間の水中で渋い顔をしなが らザリガニや貝や昆虫を捕食する。ザリガニなどはカコを見付ける とぎょっとしてエビ反りで逃げるけれど、カコは平たい尾をジェッ ト噴射させていとも容易く彼を捕らえ、滑らかに湾曲する嘴で尽く 甲羅を割って甘い汁を吸う。 例えばあたしの嘴が長くなかったら、あたしが水中をすいすい泳 いでなかったら、ザリガニはあたしに捕まらなかったのにとカコは ザリガニを口の中で転がしながら考えた。だからこの嘴は必要だし、 尾も必要。無ければあたしの空腹は満たされない。 ごくりとザリガニを飲み込んでカコは、そうするとあたしの子は やっぱりカモノハシなんだろうなと思った。その子の子も、その子 の子の子も、やっぱりカモノハシなんだろうなと思った。 「それって残酷。あたしがカモノハシなばっかりに」 カコは水面からそろそろと顔を出した。目がズクンと痛んだが、 忍耐強く薄く瞳を開いて白金の世界を覗いた。短い前足で土や倒木 や石や浅い水面を感じながらぺたぺたと岸に上った。目をしばしば させながら昼間の空気に鼻を向ける。 突然背に激痛が走り、一瞬の時、カコの体は空を飛んだ。カコは ギャッと叫んで足でばたばた空を掻く。思わず一杯に開いた目が捕 食者と、山影に落ちるオレンジ色の太陽を映した。 心臓がどきどき痛い。どきどき、痛い。 「ああ、あたしってやっぱりカモノハシ。真昼間から、空は橙だな んてね」
お父さんは本の中にいるのよ、と母はよく言った。父は私が3歳 のときに死んでしまい、だから思い出なんてほとんどなかったけど、 父の書いた本を通して、私は父に触れることができた。そして幼い ころの私は母の言葉を聞いて、本に出てくる登場人物の中に父がい るのだ、と考えていた。心から信じていたのか、と言われると自信 はないけど、少なくとも、そう思い込んではいた。 作家として父はけっして多作だったわけではないが、『川沿いの アールアール』から始まる童話のシリーズは、番外編も含めると20 冊を超えた。父といえばアールアール、と言ってもいいぐらいで、 私も、そのシリーズは大好きだった。 「ぼくはもう大人だ」というのが、永遠の14歳アールアール・ アールの決めゼリフで、そんな彼こそが、しばらくのあいだ、私に とっての父だった。 母が私を子ども扱いすると、私はきまってアールアールのまねを した。「わたしはもうおとな」と言って腕を組み、鼻をつんと上に 向ける。そうすると母は笑って、「はいはい、ごめんなさいね」と 言うのだった。 父兄参観日には、アールアールの本を何冊か選んで持っていった。 叔父さんが来てくれると言ったとき、私は頑として断った。アール アールは父ではないということを認めてしまうと、なにかが壊れて しまうような気がして、とても怖くて、それだから私は意地を張っ た。叔父さんにはすごく失礼だったなあ、と今では思う。 アールアールはずっと14歳のままだったけど、私はやっぱり年 をとる。中学生になったころから、私はアールアールとの年齢差を 気にしはじめた。アールアールと同じ年齢になって、そして私のほ うが年上になってしまうことが、どうしようもなく不安だった。ア ールアールが父である、という私の幻想にとどめがさされてしまう と思った。父を失ってしまう、と思った。 シリーズの最終巻『線路沿いのアールアール』の最後の場面、彼 は家族と暮らしていた川沿いの家を出る。「ぼくはもう大人だ」と アールアールは言う。「だからしんぱいしないで。ちゃんとごはん は元気よくたべるからね」そして彼は大好きなメロンパンを口いっ ぱいに頬張るまねをしてみせる。 14歳の誕生日、母が私と友達に切り分けてくれたケーキを前に して、「私はもう大人だー!」と寂しい気持ちを抑えるごとく、叫 ぶように私は言った。そして大好きなショートケーキを元気よく、 口いっぱいに頬張った。
『渋滞はその国の性格を曝し出す』 どこかの誰かがそんなことを言っていた。反論はしない。じゃあ この世界の果てまで繋がっていそうな渋滞でいったいこの国の何が わかるのだろうか? 煙草に火を付ける。煙草もとうとう最後の一箱だ。 煙は窓から入ってくる風によって形を否応なく変える。この車内 の空間が灰色に塗られては薄められ、塗られては薄められる。魂の 抜け殻みたいな煙は空間に厚みを与え、ラジオから流れるポップミ ュージックとジャンクトークが爽やかに鼓膜を掻き乱す。 前のワゴン車がまた少し前進した。アクセルを踏みこの間隔を詰 める。くたびれたような低いエンジン音が身体に伝わる。この渋滞 に出会ってからこの前方のワゴン車と僕の車はこんなしゃくとり虫 的な関係を続けている。 前方のワゴン車の窓ガラスから女の子が僕の顔をじっと見ている。 僕も女の子の顔を負けないくらいじっと見た。きっと誰もかまって くれないのだろう。女の子のことについて想像してみる。年齢、好 物、お気に入りの縫いぐるみ、父親似か母親似か。そんな類のこと を。だが本当のことはわからない。 動物園の檻に入れられた動物たちが頭に浮かぶ。君の尻尾はやた らに長いけどどうしてだい?毛深いけど暑苦しいんじゃないの?そ んな問い掛けが辺りに飛び交う。けど誰も答えない。当然だ。クエ スチョンマークは宙を彷徨いやがて塵となるだけだ。 目の焦点を女の子に合わせる。女の子が僕の顔を指を差してにっ こりと笑っている。その小さな手を肩まで上げまた僕に向けた。今 度は握っている。どうやらじゃんけんがしたいらしい。じゃあさっ きのはちょきだったのか。女の子はまた肩まで手を上げる。僕も同 じように肩まで手を上げる。「じゃんけん、ポン」のリズムを心の 中で取る。少しずれる。僕の方が一呼吸遅いみたいだ。何回か続け ているうちにリズムの呼応が徐々に合ってくる。勝っても負けても あいこでも女の子は本当に嬉しそうに笑った。勝負の理論がまだ備 わっていないのだろう。行為自体に喜びを感じている。右隣の車の 奴らがくすくすと笑っている。FUCK!声にならない罵声。別に いいじゃないか。渋滞にも人それぞれの生き方がある。 女の子は姿を消した。飽きのたか眠くなったのかそのどちらかだ ろう。 短くなった煙草を外に捨て、新たに火を点ける。煙草も数える程 しかない。煙を肺に馴染ませてからゆっくりと吐く。 それにしても長い渋滞だ。
第19回1000字小説バトルチャンピオンは『聖夜の家』の一之江さんに決定しました。
一之江さん、おめでとうございます。
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 聖夜の家(一之江) | 4 |
| 追憶にかえて(純田詩露) | 3 |
| 本の中のアールアール(川島ケイ) | 3 |
| 贋・爺(鮭二) | 2 |
| 最期(織原桐哉) | 1 |
| ドア・ストッパー(紙本櫻士) | 1 |
| 死体発見!(羽那沖権八) | 1 |
| 知らないあいだに、さようなら(小沢 純) | 1 |
| ありふれた冬の日(ミズムラ) | 1 |
| 錯覚(RIBOS) | 1 |
| 橙(ウエダカホリ) | 1 |
| 前略。兄さん、事件です。(太郎丸) | 1 |
●聖夜の家(一之江)
●追憶にかえて(純田詩露)
●本の中のアールアール(川島ケイ)
●贋・爺(鮭二)
●最期(織原桐哉)
●ドア・ストッパー(紙本櫻士)
●死体発見!(羽那沖権八)
●知らないあいだに、さようなら(小沢 純)
●ありふれた冬の日(ミズムラ)
●錯覚(RIBOS)
●橙(ウエダカホリ)
●前略。兄さん、事件です。(太郎丸)
今回もたくさんの感想票ありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします。
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