第20回1000字小説バトル
Entry18
抱き締めて励ますこともできぬ私をマーサは笑顔で許してくれた。 どうして私は無力なんだ。いつものコッペパンを幼い息子に渡す 妻の横顔。見ていると切なくなる。 視線に気づき「食べ物は平気よ」とマーサは微笑んだ。 「おいしい?」 「うまいぞ!」 お気に入りの手作りパンに満足そうなジル。見つめる妻の、優し い瞳。息子の笑顔を目に焼き付けるために、彼女はおいしいパンを 作ったのかもしれない。 必要な物は牛と荷車へ積み終えた。何も知らないジルはこの大荷 物を見て首を傾げている。 「ジル」 振り向いた息子の顔をマーサはしばらく見つめていた。何か感じ たのか、落ち着きのないジルも母の言葉を待つ。 「……いってらっしゃい」 沈黙が止み、ジルは安心して顔をほころばせた。 「お土産持ってくるぞ!」 ジルは高く拳を上げてみせる。 「元気でね」 秒針が刻む音ほどの小さな囁きが、微かに。 唇を噛み締めて私は激情を抑えた。 締め付ける胸から、やっと一言だけを搾り出す。 「愛してるよ」 何処へ行っても──いつまでも。 草原に囲まれた一本道を、息子と二人で歩む。 ジルは木の枝で道脇の草を切りつけて遊んでいた。私は後ろでそ れを見守る。ふと目が合い、ジルは思い出したように問うてきた。 「なぁ、エキビョーってなんだ?」 突然の言葉に、私はなるべく表情を変えぬよう努める。 「……誰が、そんなことを?」 「ん、靴屋のトト爺が言ってた。『儂らはもうダメだが、お前さん は何があっても負けるな』って。笑ってた」 「そうか……」 私は何も言えない。追及するほど興味を持っていなかったのか ジルは答えを待たずに再び木の枝を振り回し始めた。牛のひづめ、 荷車のきしむ音と、草を枝で弾く小気味の良い音が青空へ響く。 「この先にも……おいしいパンがあればいいな」 私の台詞をジルは一瞬不思議がったが、すぐに胸を張って「母ち ゃんのが、イチバンうまい!」と誇らしげに言う。満天の笑顔だ。 この子がいれば私は強くいられる。ジルが笑っているうちは、私も 一緒に笑っていよう。安らかだったあの日々を、悲しい記憶にしな いように。生きているその場所が、いつも楽園であり続けるように。 飛んでいく虫を追いかけて、ジルは一足早く道を行く。視界の果 てまで広がる草原。その先へ続く砂利道。荷車はギシギシと音を立 て、私は笑顔を思い出すために太陽を見上げる。 こみあげてくる涙が青い空に吸い込まれ、溶けた。
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