| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 天に還る | かわばた | 813 |
| 2 | 神々の闘い | 時空門奴 | 939 |
| 3 | 動物性素材 | RIBOS | 514 |
| 4 | 二千一年の願い | ゆーこ | 954 |
| 5 | グロレッツ | 有馬次郎 | 999 |
| 6 | 落葉坂 | さとう啓介 | 1000 |
| 7 | らっきょ漬け | ぱんち | 999 |
| 8 | 瑠璃色の記憶 | 要目凛 | 654 |
| 9 | 笑い顔 | 竹原 秀 | 1000 |
| 10 | (作者の希望により掲載を終了いたしました) | ||
| 11 | 痛めた羽の癒ゆるとき | 羽倉諒 | 781 |
| 12 | 刀にまつわる言葉。 | 刀 | 618 |
| 13 | 一週間 | BEAN | 942 |
| 14 | 大きな繰返しの中で | 古達龍二 | 393 |
| 15 | 偽神 | ハクシ | 957 |
| 16 | クリスマスの御予定は? | ショート・ホープ | 1000 |
| 17 | 青いスカートの女 | sucre | 281 |
| 18 | コッペパンの楽園 | 純田詩露 | 1000 |
| 19 | 無垢 | 羽那沖権八 | 911 |
| 20 | 不況脱出 | 吉原 明 | - |
| 21 | 死後の楽しみ | 川辻晶美 | - |
| 22 | 贋・・爺 | 鮭二 | 1000 |
| 23 | 体言止めの男 | しょーじ | 999 |
| 24 | 実力主義? | Default | 1000 |
| 25 | LとJの恋 | 紺野れん | 925 |
| 26 | 鏡の私 ★ | 川島ケイ | 1000 |
| 27 | 焚き火 | 伊勢 湊 | 1000 |
| 28 | 届け出 | 越冬こあら | 1000 |
| 29 | きつねの嫁入り | ウエダカホリ | 997 |
| 30 | あたらしい朝 | 一之江 | 1000 |
私は天界に属する天使だ。 今は飛び級試験の一環として地上界に来ている。一年の研修を終 えて天界へ帰れば一階級飛び越えて権天使に昇格することができる。 その栄誉を受けるため、今日、やっと天界へ帰還できる。私は窓 を開け、さわやかな風を受けた。 時間にはまだ早いが、私は一年を過ごした家を出た。天使が住ま うに相応しい、善良な人間の夫婦の家だ。 私はしばらくの間、地上界を彷徨った。 権天使として天界軍に入れば、最後の審判のその日まで地上に訪 れることもないだろう。 地上は汚濁に満ち、神の愛を失った人々で溢れていた。私は嫌悪 を込めて人々を見た。 審判を待つまでもなく彼らの額には数字が刻まれているように見 える。 そろそろ時間だ。私は、目についた高い建物に登った。屋上への 扉は閉ざされていたが、わたしは軽々と乗り越えた。 屋上の縁に立ち、眼下を見下ろす。地上界の汚濁にも関わらず、 煌めく地上の星もまた美しい。地平の彼方まで広がったネオンの一 つ一つの下に、祝福されるべき人間が、あるいは獣の数字を刻印さ れるべき人間が住んでいる。 私は風にあおられ、翼を広げた。 やがて気付いた地上の人間たちが私を指差して騒ぎ始めた。人々 の目には私の白い翼がみえるのだろうか。 まもなくだ。まもなく午前零時をもって研修の任期が終わる。 私は腕にはめていた時計で時刻を確かめると、それをはずして投 げ捨てた。もう必要無い。 私は床を蹴って空へと舞った。 翼が風を打つ。 すばらしい浮遊感が全身を包む。 自然に浮かぶ笑みを押さえず、私は高らかに笑った。 いつもの平凡な朝、テレビのニュースが告げる。 「昨夜、午前零時頃、東京都世田ヶ谷区の会社員---さんの長女 で高校生のAさん16才がマンションの屋上から……」
我が軍は劣勢だった。 これまでにも苦しい闘いは、幾度となくあったし、私自身、闘い の最中に傷つき、前戦を退かざるを得ないという経験も多々あった。 それでも我が軍は正義の神の導きのもと、最後には勝利を納めてき たのだ。その中には、歴史に残るであろう華麗な逆転劇も多く含ま れている。どんな窮地からでも、我らの担う正義が、必ず我が王に、 ひいては我が神に勝利をもたらした。我が神の正しさゆえに我々は いつでも、勝利を確信して、闘い続けてきたのだ。 だが、今度ばかりは敗色濃厚だった。長年培った経験を用いてさ えも、状況を打開する糸口を見いだすことができない。闘いの場で は、常に戦場を所狭しと駆け回った我が軍も、ことこの戦に関して は、勝手が違う。敵は我が軍の動きを完全に掌握しており、我々は 戦の当初から常に後手に回らされていた。すでに歩兵隊は全滅、敵 の侵入を防ぐはずの城壁も打ち倒されている。 私は騎士の名誉を汚さぬよう、堂々と闘い抜くつもりではいるが、 それにしても、邪神を戴く黒き異教徒たちに、我が常勝軍団がここ まで追い込まれようとは。神が過たれたのか? 正義は我々になか ったのか? 何故だ? いや、実を言えば、私には分かり始めてい る。恐ろしい真実が。そう、我が神はもう正義を名乗れなくなりつ つあるのだ。 神々の闘いは、勝者こそ正義。ルールはそれだけだ。神の正義を 証立てる為、我々は闘う。全ての闘いは、神々の代理戦争に他なら ない。神々の白黒をはっきりさせるのは常に我々だ。そして必ずし も白が正義とは限らない。勝利すれば、黒き正義も存在しうるのだ。 現に我々を追いつめる新たな正義の軍団は黒き衣に身を包んでいる ではないか。悪魔のような黒き衣に。私は敵の歩兵を倒しながらそ う思った。勝利、それだけが、この世界の正義を決めるものだ。正 義ゆえの勝利ではなく、勝利ゆえの正義。であるなら、正義とは何 なのか? 劣勢に陥った今、初めて私は正義に対して疑問を持った。 それがいけなかった。思考が私の注意を削いでいた。やってくる敵 騎士の一撃をかわすことができず、私は倒された。 (王よ……) もう王は逃げられない。あの闘いの終わりを告げる神の声、これ までいつも我が神の発してきたあの声が響き渡った。 「チェックメイトだ。チャンピオン」
「いいか、最後まで何も考えるんじゃないぞ!」いつものようにコ ーチが言った。 俺は今までどおり無心でスタート台に立ち、スターターの合図と ともに決勝のプールに飛び込んだ。 いつもなら、このまま100メートルを泳ぎ切るのだが、オリン ピックの決勝ともなると勝手が違う。俺が国内で敵無しと言われオ リンピックにまで出場できたのは、身に着けている新素材のおかげ なのだ。今日ばかりは、それを考えずにはいられない。 マグロの皮で作られた競泳パンツは、水の抵抗を極限まで減らし、 トビウオの翼で作ったキャップは頭が水から出る際に揚力を生み出 し体を前へと引っ張ってくれる。 50メートルのターンを当然のように1番に終えた俺は、なおも 考え続けた。 これまで、いろんな素材を試してきた。しかし化学繊維の限界を 超えられたのは、この動物性素材だけだった。 そうか!結局、人間がいくら知恵を絞ったところで自然には勝て ないということか! 今更のようにそれに気づいた時、急に目の前がモヤにつつまれ俺 はコースを逸脱していた。白魚のウロコから作ったコンタクトレン ズが落ちてしまったのだ。 だからコーチは何も考えるなと言ったのだ。『目からウロコが落 ちる』ことを恐れていたのだ。
私は、平凡な主婦。でも、今年こそはもう少し楽な生活をしたい ものね。 というわけで、お賽銭は二千円札と一円玉を入れてみた。 「お前、変なこだわりだな」 そういう亭主は五円玉。それも少し気になるんですけそ。 「いいから、お願いしましょう」 お参りを済ませ、帰路につく。 「ねえ、何をお願いしたの?」 「リストラにあわないでいられますようにって」 「なんか消極的ね」 「そういうお前は?」 「私は、お金が増えますようにって」 そのとき、夜空に光が走った。 「あっ、流れ星。失礼な話だな」 「しょうがないでしょう? あの子の学費もかかるんだから。それ より、あれはユーフォーよ」 などと言い合っていた。 その晩、七月十八日にこだわっている夢を見た。 (七月十八日に何かあるのかしら? まあ、いいわ。この数字を埋 めてみましょう) 私は、ナンバーズをやっていた。何気なく、七一八と印をつけた。 数日後、当たっていた。 (すごい! しかもこんなに) その晩、またも夢を見た。今度は、六年五組に在籍している夢だ った。だが、私も亭主も娘も、六年五組に在籍していたことはない。 (まさか……) 「行ってくるぞ」 「あっ、待って。これで六−五を買ってくれない? 私も興味があ って……」 「六−五? なんか当たりそうもないけれど、まあ、いいか」 競馬に出かける亭主に告げた。 (夜が楽しみだわ) 「ただいま」 亭主は不機嫌になっている。 「どうしたの?」 「お前が言ってた六−五、当たったんだ。でも、すまん。それで次 のレースに注ぎ込んだら、すってしまったんだよ」 「ええーっ」 がっかりだ。今度も正夢だと思っていたのに。 そこへ、娘が帰宅した。娘は、私たちの顔を見ると、言い難そう に口を開いた。 「お母さん、お父さん。ごめんなさい。……できちゃった。あっ、 この前紹介したあの人との子なんだけど」 その年の七月十八日、娘は出産した。 そして、その子供は、十一年後、六年五組に在籍することになっ た。 しかし、大学進学前に妊娠した娘は、進学を断念し、貯金してい たお金は他のことに回すことにした。 そして、亭主も無事リストラの対象になることなく、退職するこ とができた。 とりあえず、二千一年の願いは叶ったわけであるが。 あまり納得できない私であった。 そんな私の上に、光が走った。
タメ子は独身で40歳の普通のOLだ。 経理課出納係でお局様と呼ばれている。 仕事も人望もそれなりなのだが、アレの日の酒宴となると、満月の 夜の狼男を凌ぐパワーを身につける習性がある。 その周期を察知している古株の部課長クラスは、うまく彼女と接し 立ち回っているが、悲惨なのは毎年の新入社員達である。 今年で入社2年目の山崎は4月の新入社員歓迎会の席で、一気飲み ではなく一気吸い込みで、救急隊員の世話になった。 後日談によると、山崎は窒息による酸欠で仮死状態だったらしい。 退院してからも、悪夢が何度も蘇り、女性恐怖症になった。 タメ子は先祖代々の海女の家系で、素潜りには3歳から慣れ親しみ 6分半の息止め記録をもっている。 同僚の佐藤は暑気払いのビアガーデンで、裸踊りではなくパンツひ とつの半裸で、泡吹いて逃走した。 その日の宴会も盛況の中、羽交い締めにされた彼は 「先輩止めて下さい○○玉があああ……。キスだけの約束オオゥ」 と言い捨て、引き裂かれたYシャツ、引きちぎられたネクタイ、股 の裂けたズボンをほおり投げ、白目をむいての脱出劇を演じた。 翌日から彼は男が好きな性格に変わってしまった。 タメ子の握力はアワビ剥きの手伝いで鍛え上げられ、左右とも70 KGを維持している。 恐ろしいことだが、先程の事件もこの事件もすべて、お局様がかか わっているのである。 アレの日の酔った彼女の上機嫌な名台詞は『気に入ったら離さない! アフーん』だ。 宴席でのキス魔は社内でも評判だが、お口爽やかどころの騒ぎでは ない。 酒とビールと酎ハイのブレンドされた吐息の中、スルメの香りのす るヘビ苺みたいにザラついた舌が強引に挿入されてくる。 それは舌を噛み切るほど強力なバキュームで吸い上げる地獄のキス だ。 タイガーウッズも顔負けのタラコ唇の完成と相成る。 しかもキスの最中の癖なのか、○○玉をぎゅーっ、ミリミリと鷲掴 みになさるのだ。 彼女の化粧映えする顔やブランド志向のこぎれいな雰囲気からは、 まったく想像もつかない。 酔って、女上司に気に入られようと冗談でキスぐらいならと調子に 乗るノー天気野郎は、死への片道切符を手に入れる事になる。 今年の総務経理合同忘年会もそろそろだ。アレの日と真にかさなら なければ良いが……。 総務課から恐らく2〜3人は犠牲者が出るだろう。 ああ、また聞くことになるのか、あのミリミリという音。そしてあ の名台詞。 『気に入ったら離さない! アフーん』
仕事からの帰り。 いつもの坂道を薫は少しうつ向きぎみに登って行く。 軽く湿った夜霧が緩やかな登りのカーブの車路を黒く染めている。 薫が顔を上げると、薄霧の向うに淡く光る街灯の連なりと木々の隙 間から覗く黄色い月が、乳白のグラデーションを創っていた。 KENTを取出しzippoで火を付ける。 薄明かりの中、薫の周りが青白く染まってゆく……ふいに あの昼間の、何とも言えないやり場のない気持が薫の心に蘇る。 「俺だったらどうする」 薫の独り言は、落葉と煙と月の淡い光に流された。 「篠崎課長、自宅から電話ですよ」 女性スタッフのぶっきらぼうな声、麻美。 「え?ああ、出るから。薫、ちょっと悪い!」 薫と設計プランの打合せの途中だった。 「俺だ……ああ……そうか……わかった、兄貴達には俺から伝える から……」篠崎は受話器を置く。太い溜息、瞳が震えている。 「どうかしたんですか課長?」 薫の無神経な言葉が篠崎の顔をゆるめていく。 「いや、親父が今……息を引取ったんだ……」 篠崎はなぜか優しい瞳で答えた。薫は言葉が出なかった。 何とも言えないやり場のない気持…… 薫はKENTを思いっきり吸った。 歩く靴の下、落葉が寂し気に音をたてる。 (俺の親父とおふくろ……)薫はもう何年も家には戻っていない、 たまに向うから留守電が入っているぐらいだ。 「これでいいのか……幾つになるんだろう……」青白い煙の中、 薫は呟いた。薄暗い坂道を登りきって夜空を見上げると、 月は霧の中に隠れてしまっていた。薫は決めた。 部屋に着くと、薫は引出しの奥から少しくたびれた便箋を取出し 窓際の小さな机に向かった。白い紙に紺色の文字がとぎれとぎれに 引かれていく。 『元気ですか。 俺は今、仕事も順調で会社の人とも上手くやってます。一人暮らし にもすっかり慣れて、昔と違いわりと部屋も綺麗にしています。 〜中略〜 なかなかそっちに帰れませんが元気でやっているので心配はしない で下さい。いつか直接見てもらいたい俺の住んでいる横浜の夜景と アパートの近くの風景写真を送ります。 家の事は兄ちゃん達にまかせて、親父とおふくろで一度……』 ペンを握ったまま机にもたれて眠る薫の顔。 いつの間にか幼い頃に見せた優しい寝顔になっている。 その寝顔の向うには、朝靄にけむる坂道が、朝陽と落葉の色で淡い オレンジ色に染まっている。 その窓越しの風景は、薫の静かで穏やかな優しい想いを、約束して くれる様に、静かに光を増していた。
一年半ぐらい前だろうか。近所の魚屋の近くで珍しい猫を見かけ た。酷く痩せこけて泥だらけの汚いその珍しい猫は路地裏のゴミ捨 て場の横で昼寝をしていた。私は一番安い魚を一匹余分に買ってそ の珍しい猫に近づいていった。近くによるとその珍しい猫は耳と鼻 をピクピクと動かしてうっすら目を開けた。そのスキを見逃さなか った私はその珍しい猫めがけて石を投げつけてやった。びっくりし たその珍しい猫はギャッと叫んで逃げ出した。うふふっうまくいっ たぞ、と私は自分自身に賞賛しながら暗い夜道を帰った。しかし、 珍しい猫だったなぁ。 そして10年後… あんなに緊張したのは生まれて初めてだった。まさに新人オーデ ィション。いつか夢に見た腐れ縁である。腐っても鯛とはよく言っ たものである。ラベルが半分だけ剥がれているのはどうも気持ちが 悪い。のりでくっつけたいけどそうもいかない。世の中そんなに甘 くない。どおりで直売所の看板はいつも下手くそな字で書かれてい るはずである。だからといって人の車で平気でゲロ吐くのはどうし たものか。人権侵害である。永遠のハイテンション織田信長である。 右から二番目の青である。そんなことはどうでもいいから、早く書 類を書いてくれ。こっちも仕事なんだよ。相変わらず社長はイスで クルクル回っている。しかもパイプイスだぜ。社長秘書はいつも額 から血を流しているし、全く世の中どうなるかわからんものだなあ。 残酷なまでに時は流れる。今日のバイトは朝から晩まで立ちっぱな し、かなり疲れたね。早く風呂入って寝ようっと。女房の発想には いつも驚かされるね。あんな物から収納棚をつくっちまうんだから、 ありゃ人生七色珊瑚礁だね。 私はいつも思うのだ。もし世の中がみんなスポーツ刈りだったら と。私はいつも思うのだ。真実をいつも追い求めるあのメキシコの 覆面レスラー達はきっとよく似たところで髪の毛を引っかけて、同 じように悩んでいるのだと。私はいつも思うのだ。あの真夏の果実 達は未だに自動販売機のジュースが120円に値上がっていることを 知らないであろうと。そして私は強く願うのだ。予想と全く違った 突っ込みをされても、それはきっといつか見た夢の続きだと。
「ねぇ、父さん。あたし前世は魚だったと思うの」 ザザン、ザザンと寄せては返す波をみつめたまま、娘が言った。 一面の美しい瑠璃色。空と海の境界線がどこであるかさえ、分か らない。広く、鮮やかに、どこまでも、どこまでも、続いている。 「きっと、そうよ。あたしは知っているの。太陽が注いで、宝石み たいに光る水面も、体を包む水の優しさも」 そうか、と私は微笑む。一匹の魚が泳ぐ様が、目に浮かんで、 消えた。 「私は、海藻だったかもしれないな。緑の両手で、お前を包んで いたんだ。傷つかないように、安心して眠れるように」 娘が、くるりと振り返った。赤いワンピースが、花びらみたいに 揺れる。彼女は顔を上げると、大きな両目で私を映した。 「私はね、生まれてきたお前を見た時、ひどく懐かしい気がしたん だ。こんな話は、おかしいかい?でもね、確かに”何か”を感じた」 「生まれてきたあたしに、父さんは何て言葉をかけたの?」 瞳に私を映したまま、娘が訊いた。 「ん?お帰りっていったのさ」 「お帰りかぁ・・・」 彼女は口元に笑みを浮かべると、海へと歩を進めた。 ザザン、ザン。 波は大きくうねると、途中で砕けて音をたてた。その後で、細か く白い泡が、浜へ押し寄せる。 私も、歩き出す。象牙色の砂が、素足にまとわりつく。ほんの少 し、熱い。 「海って、不思議ね」 −そうだね。多分海だけが全てをしっているんだ。 ザザン、ザン。ひとつ、またひとつ、止まる事なく、音を刻む。 それは、時代をこえて響いていく。
深夜、アパートの一室で男と女が二人きり、マリファナを吸って いた。男は初めてだった。それを部屋に持ち込んだ女に習い、ぎこ ちない手つきで銀紙のパイプを作る。二人とも、服を着ていなかっ た。先に吸い込んでキマっている女がゲラゲラと笑いながら、ヘル ペスの話をしている。 「それって性病だろ?」と男が言うと「違うよ、発疹がカラダを一 周すると、死んじゃうんだよ」と答えながら女は腹を捩らせる。 「そんなハナシ聞いたことねぇよ…ック、ク、クゥッハハハハハッ アハッハハハァアッハハハッッ!」 「でしょ? オカシイでしょ? ヘルペスってコワイでしょ?クッ ククククッ」 「なっなっなったコトあんのか? ッハハハハハ」 「クックッッ…あ…あるワケないでしょ…ックッククク」 二人は涙を流しながら十分以上笑い続けた。 「なぁ、外出ようぜ」男が言った。 「ハダカの、まま?」 「うん、このまま…裸族ッフフフフフ」 「ラゾク? ッククククク」 先に立ち上がったのは、女の方だった。ドアを開け、裸足のまま、 外へ出る。男は振り返った女と眼があった。しばしの沈黙。男は部 屋へ戻った。ドアノブを両手で押さえる。女は中へ入ろうと外から ドアノブを回す。男が覗き穴から女の様子を窺う。女は笑いながら、 しかし必死に中へ入ろうとしている。同じように笑みを浮かべなが ら男は、背後で見つめているもう一人の自分を意識した。抵抗が止 み、裸足の足音が遠ざかる。穴の上に眉を押しあてたままの格好で、 男は急ブレーキの音を聞いた。 男は外へ走った。ドイツ製の高級車、ヘッドライトに照らされる 女の白い躯が横たわっている。男が駆け寄ると、運転席から毛皮を 着た中年女性が姿を現わした。女を抱き起こそうとしている裸の男 を呆然と眺めている。 男が名前を呼ぶと、女は薄眼を開けた。喉の奥から笑い声を漏ら す。男は女を抱え上げ、毛皮の女性を一瞥して部屋へ戻った。毛皮 の襟を合わせながら、中年女性は何か声を掛けようとしたが、諦め て、ヒーターの効いた車内へと戻った。 男は女をベッドへ寝かせた。女は既に寝息を立てている。表情に は微笑が浮かんでいた。すぐ横に腰を下ろし、男は女の寝顔を見つ めた。視線を外し、両手で顔を覆い、深い深い溜め息をついた。眉 間に、深い皺が浮かんだ。手を顔から外し、柔らかな女の顎の下を 二本の親指で撫で、その他の指を女のうなじの上で番わせた。 そして、ゆっくりと、力をこめていった。
飛び立たねばならん。おまえは空を見上げたのだ。 鉛の玉も、嵐も、おまえに向かってはいなかった。火薬の匂いを 嗅ぐこともなく、汚れた呪詛を耳にすることもなく、おまえの翼は 折れたのだ。世界に、それがあるというだけで。 片羽でやっと降り立った。異臭の漂う沼の畔へと。亡者が足をつ かみ、呪いと幻で引きずり込もうとうごめいている。心は病み、だ んだん臭いも気にならなくなってくる。当たり前になるのだ。 白い羽は、一枚一枚散ってゆく。折れた箇所から、あまたの希望 が落ちていく。泥につかり、美しかった翼は影もない。抜け落ち、 溶かされ、空を舞う夢をあきらめる。 もう、自分は飛べないのだ。そう言い聞かせて、やっと飛ばない 理由を見つけだす。 気づけ。早く気づくのだ。地中深く、墓場の中へ落ち込むつもり か。死人は寂しくて仕方がない。死者は生あるものを憎む。死した る者は生ける者を殺そうとするのだ。 彼らはおまえの翼をむしり取る。人間は誰も飛べないのだとおま えに言い聞かせる。飛んでいるつもりの者達に気づかせようと誘う のだ。羽を唾液で汚れさせ、汚れた指で引き抜くのだ。飛べない自 分を認めるために。 おまえにはまだ羽がある。おまえの傷はもう癒えた。飛ばない理 由はおまえの意志だ。飛べないから飛ばないのではない。おまえは、 飛びたくないのだ。異臭はいつしか香りとなり、泥も今では聖水の ようにさえ見える。 思い出すのだ。あれほど綺麗に天を舞ったおまえが、今度は狩人 になるというのか。月を思い、星の光に馳せた心もなくしたか。真 実の輝きは揺らぎ、虚偽の金箔に目を奪われたのか。おまえはもう、 おまえではなくなったのか。泥の中で作り替えられてしまったのか。 私に夢を見せてくれたおまえが、もういないというのか。 嘘だ。おまえはまだそこにいる。おまえはまだ生きている。 だったらなんで、空など見上げたのだ!
だいたい「抜き打ち」テストなんてものをやる方が間違っている わけでね。 そりゃ僕は普段勉強してないですよ。ええ。してないですとも。 でもね、頭はいいのよ。まじで。IQ200。嘘じゃなくて。「折 り紙付き」だし。僕が本気になって勉強すればまじですごいよ絶対。 東大。そこらへんの奴が「付け焼刃」で勉強するのとはわけが違う のよ。あいつらはしょせんおつむの弱い下級階層だからサ。ちょっ と突っ込めばすぐ「地金が出る」ような人達だけど僕はもう本当に はっきり言って今日本で一番頭のいい高校一年生。絶対。 まあしかしこんな意地悪い問題をよく考えられるものだね、きっ と性根が曲がってるよあの先生は。絶対「反りが合わない」ね、あ んな人とは。そう言えば誰かが卒業式の後であの先生に「焼きを入 れる」とかなんとか言ってたけど本当かなぁ嫌だねえ物騒な話は僕 は暴力反対だし巻き込まないで頂きたいものだね。本当に。もう。 えー。 だいたい物理って理科なのか数学なのかはっきりしろって言うか、 おいおい誤字発見ですよ先生そりゃないぜまったくもう、僕親切だ から書いといてあげるけどカンペキのペキは壁じゃなくて璧ですよ 先生、ってもう後五分かよ残り時間やばいやばいこれはもう「抜き 差しならない」というか「切羽が詰まる」というかやばい一問もで きてないし。 いや待て待てこれでも「土壇場」に強い男さ僕は僕は。やってや りますともあと五分で一問は解いてみせますともはっきり言ってや る気ですよ。あー。やばい。終わる。テスト終わる。この授業赤点 だったら留年確定じゃん、まじでやばいって先生勘弁してください よ僕もう留年したくないです御免なさいもうしません「鎬を削る」 ほど頑張りますから神様お願い。 結局、留年だった。 「元の鞘に収まる」。
月曜日の昼下がり、街を歩いていると絶世の美女が僕に尋ねてき た。 「最近、人を泣かしたことある?」 「あるよ」 僕は泣き顔を思い出しながら素直に答えることにした。 「罪な人ね」 それだけいうと、その絶世の美女は何事もなかったように人ごみ へと消えていった。 火曜日の早朝、家で寝ているとドスの利いた男から電話が掛かっ てきた。 「最近、女と会ってるか?」 「別れたばかりだよ」 僕は、お節介な質問と思いながら素直に答えた。 「呆れた奴だな」 それだけいって、ドスの利いた声の男は電話を乱暴に切った。 水曜日の夕方、近所のクリーニング店にセーターを取りに行くと 店員の女の子が僕にいった。 「今日これから大雪なんだって」 「べつにどうでもよいよ」 僕は、白銀の雪よりも真っ白なセーターについている茶色い染み が気になったので素直に答えた。 「つまらない人なのね」 それだけいうと、店員の女の子は次の客の相手をはじめた。 木曜の午後、公園で子供たちの雪合戦を眺めていると、白くまが 僕のところへやってきた。 「宇宙人に遭ったことある?」 「ないよ」 僕は、そんなものがいてたまるかと思いながら素直に答えた。 「夢のない人だ」 それだけいって、白くまは街のほうへと向かって歩いていった。 金曜日の夜中、テレビを見ていると女子アナがブラウン管ごしに 僕に語り掛けた。 「あら?今日はひとりなの?」 「今日もそうだよ」 僕は部屋に誰もいないことを確認してから素直に答えた。 「さびしい人ね」 それだけいうと、女子アナはタンカー事故のニュースを読み始め た。 土曜日の午前中、プールで泳いでいるとメダカが近寄ってきて僕 にいった。 「最近、おかしいと思わない?」 「いや、それほど思わないよ」 僕は、いつもと変わらない退屈な日々のことを考えながら素直に 答えた。 「にぶい人だね」 それだけをいって、メダカは僕と逆方向へと泳いでいった。 日曜日の夜、メールをチェックすると知らない女の子からメール が届いていた。 「あなたは、どんな人?」 「こんな人」 僕は、この一週間の出来事をメールに書くことにした。 「変な人ね」 きっと知らない女の子はそれだけいって、僕のメールをごみ箱に 捨てるだろう。
横で寝ている息子の顔を見る。 私の幼年期のような間抜け面。 この子には、私の過去が確実に宿っている。 まるで、この子の未来には、私の可能性さえも見えるかのようだ。 いや、それとは少し違う。 「遺伝子レベルでの『私』が生きていく道が見える」というのがし っくりくる。 同時に、私に至るまで脈々と辿った遺伝子のダイナミズムを感じる。 私の遺伝子−つまり『私』−は、少しづつ変化しながらも実は小さ く繰り返し、私が私を生み、前の私に育てられ、次の私を見つめな がら戒め励まし、長い歴史を経て成長し続けてきたのである。 こう改めて考えると、子育ては、自分の愚かさ、貴さを第三者とし て冷静に見つめ直し、生まれ変わりに一言申す事のできる夢のよう な機会であり、大きな意味での自分自身を育てる作業なのであろう。 私はこの子の傍らで、私が生誕した意味を、遺伝子を継承した事の 重みを、痛切に受け止めずにはいられない。
吉祥寺のペットショップ。 血塗れの小犬のディスプレイ。 その前で君が呟いた「偽神」と言う言葉。 「脅えを映し出す雑音と聞こえ出す荒涼の割合を均等に」 薬剤の詰まった袋の処方箋には、そう記されてあった。 病的なまでに白い廊下を無言で歩く。かろうじて生きている。 今日も。明日は分からない。 「偽神」には四肢が無い 「偽神」には目が無い。 「偽神」には口が無い。 「偽神」には鼻が無い。 「偽神」には耳が無い。 「偽神」には感情が無い。 「偽神」は全てを閉ざされて、皮膚感覚と脳髄だけで生きているの だそうだ。 時々、君の心をこじ開けて中身を見てみたいと思う。 気の抜けたニッカシードルの瓶を指先で弄びながら呟いた。 極彩色のひんやりした愛情が見えると思う、と無表情で返答する君 の横顔が大好きだ。 それ以上の言葉は要らないと思った。 「偽神」は全てを諦らめているという。 「だから、暗い奴と気があうんだよ」 心の底から楽しそうに笑う。 神は彼女の天国の中に居る。全ての世界の中に其れは在る。 血だらけだ、全て。 愉快では無い。 今日は生きていた。明日はどうでもいい。 何もかも増え過ぎた。 錠剤を掌に掻き込んで喘ぐような息継ぎで其れを飲み干す俺に、君 は何時しか何の感慨も残さなくなるのだろうな。 愛してる。嘘じゃない。 何時しか君を血塗れにしてしまうような気がする。 自分から一人になるのは、そんなに恐くない。 「偽神」は相変わらず君の近くに居るという。 彼は何もしない。 ただ、微笑むだけだそうだ。 血だらけの犬のディスプレイの前に立った。 此処の店主は少し頭がおかしい。 この可愛らしい小犬だけを、執拗に折檻する。 「なあ」 「お前も」 「俺も」 「何時か、終るから」 「もうすぐだよ」 「偽神はただ微笑むだけだそうだ」 「きっと」 「何もしないよりは、いいだろうからな」 「何も無いんだ」 「何も」 口を歪まして笑う犬の傍らから離れた。 家に帰る。君が居る。 それと、「偽神」。 君は俺が帰ると本当に嬉しそうに笑う。 何もしないよりは。 笑う方が、いいから。 何時の日か「偽神」はいなくなるのだそうだ。 俺が笑えるようになったら、彼は消える。 その日まで、彼は彼女の傍らで微笑み続けるのだそうだ。 俺の代わりに。
彼はクリスマスに別れた妻と1歳の赤ん坊に会いにやって来た。 別れるときにクリスマスぐらいは会いましょうと彼女は提案し彼も 同意した。なぜクリスマスにしたのか彼にはわからなかったがその 約束を心の片隅にしっかりと保持していた。 街に漂うクリスマスの空気が色濃くなるにつれて彼の気持ちはぎ こちないものになっていった。そして今日が別れてから最初のクリ スマスとなった。 何日か前に彼が連絡をすると、5時に会社の友だちが来るから昼 頃に来て欲しいと言った。昼間のクリスマスというのはどこか変だ な、と彼は思った。実際、玄関の前に立つと本当に場違いなところ に来てしまったような気もしたが、一呼吸置いてからインターホン に手を伸ばした。 玄関が開くと彼は彼女の顔をちらっと見て、細い指先に目線をや り、もう一度顔を上げうっすらと笑みを浮かべ、包装紙にくるまれ たプレゼントを渡した。 彼はソファーにまるで風船に尻を着くかのように慎重に座り、目 の前のこたつの上にある灰皿に視線を向け手に取った。吸殻は10 本近くあり、死んだ雪のような灰がまばらに積もっていた。男は吸 殻をしげしげと眺めた。銘柄は少なくとも2種類あった。それから 彼はおもむろに煙草を取り出し火を付けた。大きく3回吸って灰皿 に新たな煙草を加え、立ち上る煙につられるかのように目線をゆっ くりと上げ辺りを見渡した。今までそうすることにためらいを感じ ていたかのようによそよそしく。カレンダーやら掛け時計やらテレ ビの上にある人形やらに目を配ってまた視線を落としたりしている と、彼女が来て彼の隣に座った。彼は再び煙草を取り出し火を付け た。 それから彼らは他愛のない会話をした。話題を変えるのは彼女の 役目だった。彼女は昔のことを話題には出さないようにし、彼は彼 女の話に軽く相槌ち、必要に応じて返答した。 最近買った服に話題が移ると、赤ん坊の泣き声が何かの合図のよ うに聞こえてきた。 彼女は立ち上がると泣き声のする方に吸い寄せられるように向か った。彼も当然のように彼女に付いて行った。 彼女は小さなベットの中で泣いている赤ん坊を抱き上げると、い かにも馴れた手付きであやした。そんな姿を彼はズボンのポケット に手を突っ込んで見ていた。赤ん坊の泣き声が弱まると、ミルクを 作るからこの子を抱いていて、と彼女は言った。 彼は口を閉ざしたままポケットの中にある何かを握った。けどそ れは役に立ちそうもないものだった。
環状線になっている私鉄の一番先頭の車両に私は座っている。向 かい合わせになっている座席の正面に座る女は短い青いスカートを 履いている。無意識にか、あるいは意識的になのか、電車がカーブ に差し掛かるたびに女の足が少し広がる。私はそのたびにそれとな く首を右に傾け、視線をその広がった空間に向ける。次のカーブに 差し掛かったときには、腕を組み難しそうな顔をした隣の男も首を 右に傾ける。 やがて、電車はトンネルへと入っていく。暗く短いトンネルを抜 けると、私はその女になっている。次のカーブに差し掛かると、向 かいに座った三人の男は、腕を組み首を右に傾ける。私はそっと足 を広げる。
抱き締めて励ますこともできぬ私をマーサは笑顔で許してくれた。 どうして私は無力なんだ。いつものコッペパンを幼い息子に渡す 妻の横顔。見ていると切なくなる。 視線に気づき「食べ物は平気よ」とマーサは微笑んだ。 「おいしい?」 「うまいぞ!」 お気に入りの手作りパンに満足そうなジル。見つめる妻の、優し い瞳。息子の笑顔を目に焼き付けるために、彼女はおいしいパンを 作ったのかもしれない。 必要な物は牛と荷車へ積み終えた。何も知らないジルはこの大荷 物を見て首を傾げている。 「ジル」 振り向いた息子の顔をマーサはしばらく見つめていた。何か感じ たのか、落ち着きのないジルも母の言葉を待つ。 「……いってらっしゃい」 沈黙が止み、ジルは安心して顔をほころばせた。 「お土産持ってくるぞ!」 ジルは高く拳を上げてみせる。 「元気でね」 秒針が刻む音ほどの小さな囁きが、微かに。 唇を噛み締めて私は激情を抑えた。 締め付ける胸から、やっと一言だけを搾り出す。 「愛してるよ」 何処へ行っても──いつまでも。 草原に囲まれた一本道を、息子と二人で歩む。 ジルは木の枝で道脇の草を切りつけて遊んでいた。私は後ろでそ れを見守る。ふと目が合い、ジルは思い出したように問うてきた。 「なぁ、エキビョーってなんだ?」 突然の言葉に、私はなるべく表情を変えぬよう努める。 「……誰が、そんなことを?」 「ん、靴屋のトト爺が言ってた。『儂らはもうダメだが、お前さん は何があっても負けるな』って。笑ってた」 「そうか……」 私は何も言えない。追及するほど興味を持っていなかったのか ジルは答えを待たずに再び木の枝を振り回し始めた。牛のひづめ、 荷車のきしむ音と、草を枝で弾く小気味の良い音が青空へ響く。 「この先にも……おいしいパンがあればいいな」 私の台詞をジルは一瞬不思議がったが、すぐに胸を張って「母ち ゃんのが、イチバンうまい!」と誇らしげに言う。満天の笑顔だ。 この子がいれば私は強くいられる。ジルが笑っているうちは、私も 一緒に笑っていよう。安らかだったあの日々を、悲しい記憶にしな いように。生きているその場所が、いつも楽園であり続けるように。 飛んでいく虫を追いかけて、ジルは一足早く道を行く。視界の果 てまで広がる草原。その先へ続く砂利道。荷車はギシギシと音を立 て、私は笑顔を思い出すために太陽を見上げる。 こみあげてくる涙が青い空に吸い込まれ、溶けた。
冷たくなった三歳の息子の身体を、母親はぎゅっと抱き締めた。 「こんな、こんな酷い事を」 小さな後頭部に出来た傷口はとても小さかった。 「お察しします。慰めにもなりませんが、犯人は絶対に捕らえてみ せますのでお気落としなく」 付き添いの警官がうつむく。 「……どうして? この子が何をしたっていうの」 警官の言葉も聞こえぬ風に、母親はすすり泣く。 「神様、どうしてです? 不公平過ぎます。間違ってます」 彼女の目は真っ赤になっていた。 「どうして罪もない、未来のあるこの子が死ななきゃならないの?」 霊安室に悲痛な叫びがこだまする。 「神様!」 その瞬間、母親の廻りで時が止まった。 眩しい明かりに周囲が満たされる。 「え――?」 彼女は戸惑いながら、子供の骸を抱き締めかばおうとする。 『我が子の死を悼むそなたの気持ち、主に届いた』 どこからともなく声がした。 「神様……ですか?」 それがこの世ならざる聖なるものの声であることが、なぜか母親 には分かった。 『否、我は御使い』 御使いの姿は見えない。だが、瞼を閉じても光が目に飛び込んで くる。耳だけではなく身体全体に声が染み込んで来る。 光は決して眩しくはなく、声は心を安らかに落ち着ける。 『主の意思を伝え奇跡をもたらす者。そなたの望みを叶えよう』 「それじゃあ」 希望が母親の顔に射し込んだ。 「この子が生き返るんですか? 生き返らせて頂けるんですか?」 『無理だ』 「できないんですか? これだけ期待を持たせておいて……」 『全知全能の主が、人間の一人や二人復活させられぬと思うか』 「一体どっちなんですか!?」 『出来ぬのではなくなさらぬのだ。人はアダムの罪故に罰として楽 園を追放され、命を区切られ必死の存在となった。復活は、主の意 思に反するのだ』 諭すように御使いは答える。 『そこで、罪ある者に死を与える事にした』 「通り魔犯人に死を? ちょっと悪魔的ですけど、まあそれでも悪 くはないですね。何もないよりはマシです」 『うむ。それでは、その子以上に罪ある者全てに等しく死を与えよ う』 「全て?」 『罪ある者が死ぬのだ、正しかろう?』 「ち、ちょっと待って下さい、それってつまり……」 ばさっ。 羽音が一つした。
西暦二〇一〇年。日本は二十世紀末から続く不景気から依然とし て脱却出来ず、失業率も十パーセントを超えるまさに大不況時代を 迎えていた。 そこで政府は、これまで行っていた公共事業やIT推進による景 気対策を断念。新たに新会社法を制定して、企業社会の仕組みを抜 本から変えて景気浮揚に結びつけることとした。 同法が今までの法律と最も異なるのは、今まで株式会社の最高議 決機関が株主総会だったのを、社員相互の投票に改めたこと。社長 をはじめとした役員も、社員全員が「役員にしたい人」と「役員に したくない人」を選んで投票。両票をプラスマイナスして、最も得 票数の多い社員が代表取締役社長に選出される。 N県にある社員百五十人の日用品卸商社太陽商事もこの法によ り、新社長には、入社二年目の美男子で女子社員の票のほとんどを 集めた中村卓也が就任。ここまでオーナーとして全権を握ってきた 前社長の岡田好男には三票が投じられたが、四十票を超える「役員 にしたくない人」の投票が集まり、岡田はフォークリフトの運転手 としてどうにか社に残ることにができたのだった。 新社長といっても、これまで中村は営業部の下っ端として配達係 を務めていただけで、人事も経理も物流もまったくの素人。そし て、誰からも好かれる性格ではあったが、決断力がなく優柔不断と さえ言われていた。 そして新体制になり十日が過ぎたころ、来年の取り扱い商品を決 める役員会を開催。専務には、多くの男子社員の票を集めた前社長 秘書の坂井由紀が、常務には三十年間商品梱包を担当してきた田村 弥五郎が就任していた。 中村は、ほとんど発言せずに他の役員の意見を聞くだけ。田村の 「そんな梱包しにくい商品は売れん」や、坂井の「そんなの若い女 性は買いませんわ」などの決まり文句にも表立った反論はせず、 「それでは皆さんで話し合いましょう」とにこやかに微笑むのだっ た。 そんなこんなで三時間ほどで役員会は終了。広く全役員の意見を 聞き取り扱い商品を決めた太陽商事は、次年度の利益が五十パーセ ントもアップ。日本中の多くの企業でも同じようなことが起こり、 日本は十数年振りに不況から脱却することができた。
「酒屋のご主人、心不全ですって」隣人が電話で訃報を知らせてく れた。「恐いわね。これで4件目かしら」 この界隈で、突然死が相次いでいる。野良猫を薬物の実験台に使 っていた学生が突然の心臓発作で逝った翌週、子犬の処理に困って 毒を盛った男、縁の下で生まれた仔猫たちが煩いと、川に流した中 年女性が、相次いで急な死を遂げた。事件性はなく、けれどいずれ も健康で、直前まで元気だった人間ばかりだ。 私は聞いたばかりの話をそのまま夫に伝えた。 「案外、おふくろだったりしてな」 頭によぎった事を言い当てられたようで、私は内心、驚いていた。 「もう一カ月になるのね」 そう、それらは全て、義母が亡くなってから起こった出来事だ。 痛ましい動物虐待の報道を聞く度に、義母は口癖のように言ってい た。 「私が死んだら、絶対こんな奴らの前に化けて出てやるわよ」普段 穏かな義母が、まるで人が変わったように、憎々しげに。 優しい姑ではあったが、どこか打ち解けきれない部分があった。 「人間は嫌いよ。嘘をつくからね」そんな言葉を何度となく聞いた からかもしれない。 年に数回、私たち夫婦が訪ねても、彼女は息子よりも、ラリーと の再会を手放しで喜んでいるのがわかった。 その義母が逝って、もう一ヵ月。 「お、お目覚めか?」夫は自分で言ったことを忘れたかのように、 足元に擦り寄ってきた飼い犬のラリーを膝に乗せた。 その日の真夜中、いつにない喉の渇きに耐えきれず、私は起き出 して冷蔵庫から麦茶を取り出し、一息に飲んだ。落ち着いたところ で、突然、亡くなった酒屋の主人のことを思い出した。先代から続 いている店の軒先に毎年戻ってくる燕の巣を、不衛生だからと取り 払った二代目店主。野良猫が店の前を横切るだけで物を投げつける ほど、極度の動物嫌いだった。 何もかも、あの世の義母の仕業だとしたら……。 まさか。 私は首を振ってグラスを洗った。戻ろうとした瞬間、ラリーの低 い唸り声が聞こえた。得体知れない寒気が背中を走る。私は振り向 けなった。背後の空気が重く、どす黒い塊となって、私の身体を覆 うような、奇妙な感覚が私を震えさせた。 死んだら化けて出てやる……。義母がそう言う度に、夫が、茶化 すように言ったものだった。 「それはかまわないけどさ。ついでに俺たちのところに寄っていこ うなんて、考えないでくれよ」 ひたり、と、この世の者ではない足音が、キッチンに静かにこだ ました。
海軍予備学生隊の同期生である宇田川の祝勝会に妻と二人で出席 した。帰りに、観音様の裏手にある「アイアイ」でひと休みする。 この純喫茶には浅草全盛期の面影が残っていて、寛げる。いつもの ようにミルクセーキ(妻はビール)を飲みながら吉原通いをしてい た頃を思い出す。 「私の嫁入り道具を質に入れてまで」 と云って妻も懐かしそうに目を細める。 それにしても宇田川は大したものだ。前回の選挙では惜しくも落 選したが、今回は現職の大臣を破っての当選である。八十近いお爺 さんがあんなにも活き活きしているとこちらまで嬉しくなる。3年 前に脳を患って以来パーティーの類はすべて遠慮させてもらってい るが、今日は出席して本当によかった。妻も「宇田川さん、本当に 嬉しそうでした」と喜ぶ。 家に帰ると長女から手紙が届いていた。 「ハイケイ、お手柄山からこんにちは。先日は結婚18周年のお祝 いに高級スキン『うすうす』を3ダースもいただき、本当にありが とうございました。せっかくだから、寝室はもちろん、お風呂場ト イレ玄関口など父さんが通る場所に撒いておいたのだけど、ちっと も構ってくれないの。仕方ないから生肉を詰めてスモークしたのを 子供たちに食べさせました。さすが『うすうす』、みんなおいしい おいしいと大喜び。父さんも『艶子は頓智が利くなあ。お手柄お手 柄』と手を叩いています。 お手柄と言えば卓也(註:長女のところの長男で上野にあるパチ ンコ店に住み込みで働いている)のお手柄話。この前の選挙で、卓 也の住んでる選挙区から出た宇田川って奴が、選挙中に自分の名前 入りのテレフォンカードを配っていたらしいの。お店のキムさんか らの情報なんだけど、さっそく卓也が昨日選管にチクったそうです。 なんでも選挙中は『今度こそ、今度こそ』ってやたらと連呼してい て、うるさくて、みんな頭に来ていたらしいの。今度こそ息の根を 止めてやる、って卓也息巻いてました。そのうち新聞に載るかもし れません。お手柄お手柄」 お手柄山で大きくなった卓也が立派なお手柄青年に育った。根っ からのお手柄少女だった長女もさぞかし喜んでいることだろう。す ぐに電話して、宇田川が海軍時代に軍属を虐待していたことを教え てやる。うまくいけば新聞記事に間に合うかもしれない。宇田川か らもらった記念のテレフォンカードは「宇田川」の文字をマジック で消して使えばいい。 「万事うまくいった」 と妻と二人で喜ぶ。
荒涼とした大都会。 今夜も6畳一間の安アパートで取る、孤独な夕食。 惣菜屋で買ってきた、一個120円のメンチ。保温を忘れたために 冷えたままのどんぶり飯。せめてもの救いのあったかいインスタン ト味噌汁。 やがて食い過ぎたせいか、腹部に違和感。駆けこむ便所。下る腹。 耐える腹痛、疲労する尻の筋肉。ふと窓の外に見つけた鋭い三日月。 押し寄せる寂寞。 振り返る過去。思い起こす半生。 誘った女は無数。つきあった女は皆無。哀しいかな、我が癖。ど うにかしたい、この話し方。俺は体言止めの男。 気味悪がる女達。避ける隣人。逃げる新聞勧誘員。俺を遠くから 指差しては笑う、三輪車の子供達。 ついに一念発起。目指すは病院。捨てるぜ恥に外聞。 「変わってますな」のたまう医師。 「乞う、救助」 「まあ、気長にやりましょう、治療」真似する医師。 わからぬ原因。目の前に広がる暗雲。立ちはだかる試練。迫り来 る絶望。徘徊。 気付くと、ここはビルの屋上。足の下には、豆つぶのような車。 吹き付ける突風にぐらつく足元。その時、背後から響く声。 「何をする気なの?あなたは」 振り向くと、そこに若い女。風になびく長い黒髪。真っ赤なコー ト。 続ける女。 「飛び降りるつもりじゃないでしょうね、まさかそこから」 答える俺。 「笑ってくれよ、俺の癖。面白いだろ、この話し方。もういいんだ、 この人生」 はっとする女。 「体言止めの男ね、あなたは」 俺の身体を走る衝撃。見開く両の眼。思わず問いかける女の正体。 答える黒髪の女。 「あなたと同じ悩みを持つ女よ、私も。出来ないのよ、決まった話 し方しか。気がつかない?この話し方で。そう『倒置法の女』 なのよ、私は!」 しばし止まる時間。彼女の頬を伝う涙。 「私もしようとしたのよ、自殺を。誰もわかってくれないのよ、私 たちのことなんか」 「馬鹿にされ続けたこれまでの人生。かっこつけてんじゃねえとい じめられた青春の日々。毛頭そんなつもりはないのに、哀しいかな、 この体言止め」 「同じよ、私も。言われ続けたわ、『おやめなさい、その芝居がか った言い回しは』って。誰も望んでないのにね、こんなこと」 歩み寄る二人。差し伸べる互いの手と手。女を抱き寄せる俺。応 じる女。芳しい黒髪。 「神様が引き合わせてくれたんだわ、私たちを。きっとどこかにい るものね、ふさわしい伴侶が」 幸せにするぜ、倒置法の女。素晴しきかな人生。俺は体言止めの 男。
『合格者は72番、高島貴志。スペース・センチュリー・カンパニ ーへの入社手続きを行うので、会議室17まで来るように』 「よし!」 そのアナウンスに俺は思わず立ち上がって、ガッツポーズをつく った。部屋を見まわすと、アメリカ人、ロシア人、イギリス人、中 国人、そして、日本人。世界中から集められた奴等が、うなだれ、 悲嘆し、悔しさに歯ぎしりしていた。 思わず笑いがこみあげてくる。 この部屋にいるのは、みなエリートなのだ。それもただのエリー トではない。各国のトップ集団の中からさらに選抜された、超のつ くエリート達だ。そんな奴等をさしおいて、俺一人が合格。いうな れば、それは俺が地球で一番だという事だ。 俺は止まらない笑いをどうしようかと思案しながら、その部屋を 後にした。 「おめでとう。高島貴志くんだね。SCCへようこそ」 会議室17で俺を出迎えてくれたのは、カバみたいな奴だった。 面長の顔に眠たげな目である。その低い声は、重厚さというより、 愚鈍さを俺に感じさせた。 正直、こんなニブそうなのがSCCの社員とは信じられない。し かし、俺はカバ……いや、バカではないのでそんな感情を顔に出し たりはしない。 「ありがとうございます。よろしくおねがいします」 そう言って礼をすると、カバはうんうんと頷いた。 「君のテストの成績、素晴らしかったよ。君のグループではダント ツのトップだ。二位以下は団子状態でね。人事部もコンピュータも わが社に迎えるのは、君以外にはありえないという結論に達したよ」 カバが眠たくなるような口調で言った。 「ありがとうございます」 「で、君に割り当てられる仕事の候補がいくつかあがっていてね。 君自身に選んでもらいたいんだ」 「はい」 「コピー取り、お茶くみ、トイレ掃除だ。どれでも好きな仕事を選 びたまえ」 カバは笑顔で言った。 俺は絶句した。 「じょ、冗談ですよね?」 カバは首を横に振った。 「なぜですか! 俺はテストでトップだったんでしょう? その俺 がなんでお茶くみやら、トイレ掃除みたいな誰でもできるような雑 用係なんですか!」 詰めよる俺に、カバはすこし困った顔をして答えた。 「……君がテストでトップだったのは君のグループ、すなわち地球 人の中だけの話なんだ。本当のところ、宇宙での地球人のレベルは 最低なんだよ。宇宙雇用機会均等法なんてくだらない法律がなけれ ば、誰も地球人を雇うなんて酔狂はしないんだがね……」
さっきからJは綺麗にマニキュアが塗られた指をバーカウンターの 上で暖炉にあたるようにひろげ、裏返したりしている。 彼女の隣にはLが座り、空いたスコッチロックの氷を回し、苛立た しそうに音を立てている。 「なにかお代わりでも」バーテンが気を遣い声をかけた。 「同じのを、今度はダブルでくれ」 「かしこまりました」 僕はLとは反対側のJの隣に座っていたが、彼がもうかなりできあ がっているのは容易に見てとれた。 あんなことを5年も付き合っていた彼女に言われたら、スコッチを 何杯も飲みたくなるだろう。 「もう一度聞くが、そいつとはその、寝たのか?」彼が切り出した。 彼女は静かに深く頷いた。 「それはつ、つまり…」 「Hよ」 彼女ははっきりとした口調で答えた。 「何故、何故だ、なんでそんなGなんて奴と、…」 「違うのよ。私はあなたを心から愛してるわ。これは本当よ。 た だ・・」 「ただなんだ?」 「Gと私の間でそれは避けて通れないことだったのよ。でも誤解し ないで、Gなんてこれぽっちも興味ないのよ。 ほんと、今ではすごい後悔してる。」 そこまで言うと彼女はカウンターのジントニックを飲み干し、泣き 出してしまった。彼女を幼い頃から知っている僕にはそれは演技に しか映らなかったが、彼には違ったらしい。 「もういいよ、泣くなよ、J、もういいから…・」 「本当?」 「本当だよ」 「…・嬉しいっ ヒック、Lの、ヒッ 言葉が一番 ヒッ 好き」 相変わらず演技がうまいな、と僕は感心し、モスコミュールを持っ てテーブルに移動した。 一時間後、彼らはどこから見てもアツアツのカップルだった。 「それにしても、君達がこんなドライな関係だとは知らなかったよ。」 僕は興味本位で聞いてみた。 「T君は手紙派ね、Eメールやんないでしょ?」 「やんないけど、それがどうかした」 「キーボードをあまり見ないかってことだよ オレはLで彼女はJ だぜ 鈍いな お前は。」 僕はキーボードを頭の中に浮かべた、(彼がLで彼女がJでGがい てHがあって、) 「ということは君達は…」 僕が振りむくと彼らは熱いディープキス(K)の最中だった。 「やれやれ 勝手にしろよ、キーボード、もう疲れたからパソコン 切るぞ、ピィ〜」
鏡の私にはどうやら怠け癖があるみたいで、そのことで、私はず っと悩んでいる。鏡の中の私は、こっち側の私より、ちょっとだけ 動きが遅れるのだ。私が口紅を塗り終わってもまだ、鏡の私は塗っ ている最中だなんてこともあるし、また、私がまばたきを終えてか らようやく、鏡の私がまばたきをはじめるなんてこともある。そん なのはまだいいほうで、ひどいときには、鏡の私はまるで動こうと もしない。そういうときは、本当に腹が立つ。 ただ、鏡の私はどうやら人の目は気にするらしく、私以外の人間 が見ているときは、わりとがんばって私の動きについてくる。それ でも私にはちょっとだけ遅れていることが分かるのだが、その遅れ はほんのわずかなので、ほかの人が見てもまるで気付かない。 そのことで姉に相談してみることもあるけれど、まるで取り合っ てくれない。鏡の私も姉の前ではがんばるものだから、証拠を見せ られないのがもどかしい。「鏡の中のお姉ちゃんは遅れずに同じ動 きする?」と訊ねると、「そんなの当たり前じゃない」と姉は答え る。 その当たり前のことが、鏡の私にはできないのだ。 私だってわりとだらだらしてるところがあって、それだから鏡の 私もこんな怠け者になってしまったのかもしれないけど、だからと いっていつまでも我慢していられるわけではない。 「ねえ、カガミ」と私はつぶやく。「お願いだから、私しか見てな いときも怠けないでくれないかな。せめて、動かないのだけはかん べんして」 鏡の私は、めんどくさそうに私の口の動きをまねた。 いっこうによくなる気配のない鏡の私に業を煮やした私は、思い 切って無視してみることにした。髪をセットするときも、歯を磨く ときも、けっして鏡は見ない。たとえ見たとしても、見なかったフ リをする。私が本当に腹を立てていることを、分からせてやらない といけないのだ。 一週間がたち、そろそろいいだろうと思って、私は鏡の前に腰を 下ろし真正面から向き合った。ひさびさに私と目を合わせるだけあ って、鏡の私はちょっぴり表情が硬い。 引出しから口紅を取り出して、唇にあてる。鏡の私も慌ててその 動きをまねる。私が口紅を動かすと、遅れずそれについてくる。次 第に私のほうが遅れているような気がしてくる。そして鏡の私は、 まだ塗っている最中の私を置いて、はやばやと口紅を塗り終えてし まった。 ねえカガミ、と私は思う。早ければいいってものじゃないんだか ら。
その冬の終業式の夜、僕はその町から引っ越すことになった。冬 に入ってから父ちゃんと母ちゃんは寒く狭い居間でよく話し合いを していて、ある夜、そこに僕と妹も呼ばれた。そこで父ちゃんは目 に涙を浮かべながら僕達に引っ越さなければならなくなったことを 告げ、そして、辛いだろうがこのことは友達にも誰にも言ってはい けない、と言った。 終業式は午前中で終わる。誰かがいると寂しくなっていろいろ話 しちゃいそうだったから、みんなが帰るのを待って斜下だけ見つめ て一人で帰った。 学校と家との間には大きな御屋敷があってそこで雇われているお 姉ちゃんはいつも屋敷の脇で焚き火をしている。僕は友達とそこに 立ち止まり、お喋りをしたりお姉ちゃんに焼き石を作ってもらった りするのが好きだった。焚き火の中で真っ赤になるまで焼いた石は 布巾に包んでおくとしばらく暖かかった。僕の家はお金がなくて寒 かったからいつもたくさん貰って帰った。 お姉ちゃんが焚き火をしてないことを祈りながら下を向いて歩き 続けた。黙って引っ越すのが辛いのは友達のせいもあったけど一番 は憧れていたお姉ちゃんのせいだった。いつもは会いたくてたまら なくて、だからこそ今は絶対に会いたくなかった。 なのにパチパチと小枝が燃える音と顔に照りつける火の暖かさは、 そこに焚火があることを僕に知らせ、足を止めた。 「どうしたの?今日は一人?」 お姉ちゃんが言った。 「うん」 「なんか寂しそうだよ?下ばかり見て」 「うん」 時折突風が吹いて、枝を切る風は虎落笛を鳴らし、焚火は勢いを強 くする。そのあとでお姉ちゃんが竹箒で散らばった落葉をさっさっ と集める音がした。 「ぼく、引っ越すんだ」 思わず言葉がついて出た。沈黙の後にお姉ちゃんは優しく言った。 「寂しい?」 「うん」 「わたしも…でも、少し羨ましいかな?」 「どうして?もう会えなくなっちゃうんだよ。友達も、学校も、焚 き火も、お姉ちゃんにも…」 「そうね、寂しいね。ずっと好きな人と好きなところにいれたらい いのにね」 「うん」 お姉さんの言葉が何かすごく遠いところにあるものに聞こえ、それ が虎落笛に掻き消されそうで、悲しくて、 涙が止まらなくなった。 お姉さんはポケットから取り出したハンカチに焚火から取り出し た焼き石をいくつか包んで渡してくれた。その夜は見知らぬ空の下 でのすごく寒い夜になったけど、その焼き石の暖かさはずっと遅く まで僕の懐の中に残っていた。
午前十時少し前、トーストに味噌汁の朝食を終えると、妻が箪笥 の一番上の引出しからB4版の薄い紙を取り出して、「これに署名 と印鑑をお願いしますね。別のやつのほうがいいみたいだから…… ハンコ、会社に一本あったでしょう」と私の前に出した。左上に紫 の四角形があり何桁かの数字が並び、その脇に「不倫届」と書いて あった。届出人の氏名、本籍、居住地等の欄には妻の几帳面な字が 並んでいた。 「今度から届出制に成ったらしいのよ。ちゃんと届けておかないと 転出とか年末調整とか介護のときに困るらしいし、届のコピーを見 せるとホテルとか映画とかレストランなんかも安く利用できるらし いのよ」 配偶者の欄は空いていた。要するにここに署名捺印せよというこ とらしかった。その下の「配偶者の認識」の五択欄の「知らぬが仏」 に丸がしてあり、「配偶者の認否」には「発覚して感情的になるが、 後に容認」と書かれてあった。 「子育てと家事とパートだけじゃストレスもたまるし、スリルもな いし、飽きるわよねえ。あんたも会社の若い娘に手を出してんなら、 早く届けておいたほうがいいわよ。健康保険なんかも使えるらしい し。友香ちゃんて言ったっけ、この間の娘?」友香とは一度食事を しただけだ。 右側には、不倫相手の氏名、性別、年齢、本籍、居住地等が別の 筆跡で書かれていた。「川本利夫」誰だろう。「相手はほら、この 前車を買いかえるときに親切にしてくれたディーラーの人よ。26 歳なんて書いてあるけど、本当かなあ。相当女遊びをしてるって感 じよ。でもまあ、独身だし。遊びは遊びって割り切ってる感じだし ね。憶えてる?あの人」 髪を染めた長身の若者の姿がおぼろげに浮かぶ。不倫相手が既婚 者の場合は、その配偶者、未婚で未成年の場合は、両親の認識、認 否が同様に五択になっていた。川本君の場合は空欄だった。 「本当は相手も届を出さなきゃならないらしいんだけど、彼はなん か特別な免許を持っていて、同時に十人までなら無届でいいらしい のよ。まあ、不倫相手にヤキモチ焼いてもしょうがないけど、失礼 しちゃうわよね。あら、あなた時間だいじょうぶ。遅番でも十一時 までには出社しなきゃならないんでしょう」 妻に促されるまま、不倫届を昨夜のうちに預かった娘の援助交際 届と息子の家出届と一緒に鞄に詰めて家を出た。途中、役所に寄っ て離婚届の用紙を一枚、死亡届の用紙を二枚もらった。便利な世の 中になったもんだ。
天気のよい空の青い青いある日、太陽の光を浴びながらぱらぱら と落ちてくる雨を「きつねの嫁入り」と彼は呼んだ。すれ違う人た ちが舌打ちして走りだしても、わたしたちはそこに立ちどまって空 を見上げていた。 ばかしあいなんだね。 手のひらで太陽光をさえぎりながらわたしが小さく笑うと、彼は 黙ったままつないだ手に力をこめた。 わたしたちは近くの店先に飛び込みもせず、走りだしもせず、手 をつないだまま雨にぬれて立っていた。やわらかな細い雨が、わた したちふたりを囲う現実を洗い流してくれると信じるように。 天気のよい青い青い空を、銀色の飛行機が横切ってゆくのが見え た。飛行機は雲を引いてまっぷたつに空を裂いた。ふたつに裂かれ た空から落ちる雨は針のように細くて痛くて涙みたいで、わたしは 額から手をおろしながら、もうよそうよとつぶやいた。 彼はなにも言わなかった。ただ、強張ったようにわたしの手をに ぎり、黙ったまま、まるで稚魚を放流するみたいにゆっくりゆっく りと力をゆるめて離れていった。 わたしは、わたしの手の中からいなくなった彼の右手が、彼のぬ くもりが、消えてなくなっていくのを感じながら、失った温かさを おぎなうために、自分の体温をしっかりにぎって、なにもかも、消 えてなくなれ、と祈った。 わたしたちにはいつも少しだけ先が見えていた。親を傷つけたり 好奇のまなざしを向けられても、わたしたちはいっしょにいたいと 願った。 けれど月も星もないまっくらな夜道をわたしたちを追いかけてき た母が、あなたたちは子どもを産んではいけないのよ、とヒステリ ックに叫んだとき、わたしは少し先だけでなくわたしたちのずっと 先も閉じてしまっていたのだと気づいて、子どもなんていりません から、としぼり出すように返した彼もそれを知っているのだと気づ いて、どうしてわたしたちはお父さんの子なんだろうと思った。ど うしてわたしたちは、わたしたちなんだろう。 空は青くて、少しかすんでいて青くて、その下をわたしたちはひ とりずつ離れて歩いた。どうしてとかなぜとかをたくさん口にして きたけれど、今もそう思うけれど、わたしはわたしでは決してない 誰かとの彼の幸せを祈ることができると思っていた。 前を歩いていた彼の足が止まって振り返る。目が合ってすぐにそ らした彼の唇が動いて、わたしはからっぽの手をぎゅっとにぎった。 しあわせに。 きつねの嫁入りがはじまる。
年賀状の返事を書いていたら、「あんたはどうするつもりなのか しらね」と、ため息混じりに母が言った。 「どうするって、何?」 あたしは少し振り返って答える。「今年も元気にすこやかに、じ ゃだめなの?」 「寿子ちゃんなんか二人も男の子がいて、かわいいわよ。もう、こ んにちは、とか上の子は言って」 「うん、大きくなったね」 あたしは宛名を書きながら、相槌を打つ。「いいお母さんになっ ちゃったね」 「結婚は、しないの?」 「うんまだ」 「まだって、もう、そんな歳じゃないのにねえ。まあこればっかり は」と、ため息をついて、「しょうがないんだろうけど。でも、し そうなこと、言ってたのに」 「そうだっけ」 「そうよ。まあ仕方ないわね、あんたの人生なんだし」 そう言うと母は、今朝来た分のあたし宛の年賀状を机に置いて、 部屋を出ていった。 『昨年はいろいろ有難う。今年も宜しくお願いします。お互いに、 良い年になりますように。』 あたしはその一枚を手にとって、しばらく眺めた。ずいぶん素っ 気ない文面だけど、筆無精の彼にしては上出来だろう。そっと、文 字をなでた。 他に何も書いていないところをみると、また今度も再就職はだめ だったにちがいない。このご時世だからと多少の覚悟はしていたけ ど、年齢的にいっても、これほど難しいとは思っていなかった。こ んなことになるなんて。入社したときは、まさかそんな。五年勤め たら倒産なんて。 「ちょっと、行ってくるね」 あたしは階段を降りると、母に声をかけた。 「行くってどこに」 「年賀状、出してくる」 「あ、そう。じゃ、これもお願い」 母から葉書を数枚受け取ると、あたしは自転車に乗って家を出た。 風のない、あたたかな朝で気持よかった。道路も空いている。な んとなく晴れやかな気分になって、あたしはがんがんペダルを漕ぎ まくった。 高校時代は毎朝すっとばしたものだ。髪をびゅうびゅうなびかせ て。 不意に思いついて、通学路を走ってみる。ポストなんかちょっと 行けばすぐにあるのに、なつかしい道を気まぐれに走ってみた。や がて視界がひらける。 真っ白な雪を頂いた富士山が視界に映った。 あたしは、ペダルに足を踏ん張らせて立ち上がったまま、自転車 を走らせた。鮮やかに白く浮き上がった富士山を横目に、髪をなび かせ風をきる。 ねえダーリン、大丈夫。 笑いながら、青く輝く空に顔を向けた。 新世紀がやってきたよ。あたしたちの、時代だよ。
川島ケイさん作『鏡の私』がチャンピオンの座を獲得しました。 川島ケイさん、おめでとうございます。
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 鏡の私(川島ケイ) | 5 |
| 体言止めの男(しょーじさん) | 4 |
| あたらしい朝(一之江) | 3 |
| 一週間(BEAN) | 2 |
| きつねの嫁入り(ウエダカホリ) | 1 |
| 不況脱出(吉原 明) | 1 |
| 死後の楽しみ(川辻晶美) | 1 |
| 落葉坂(さとう啓介) | 1 |
●鏡の私(川島ケイ)
●体言止めの男(しょーじ)
●あたらしい朝(一之江)
●一週間(BEAN)
●きつねの嫁入り(ウエダカホリ)
●不況脱出(吉原 明)
●死後の楽しみ(川辻晶美)
●落葉坂(さとう啓介)
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