| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 美しいもの。 | そる | 624 |
| 2 | 遠い花火 | 叙朱 | 910 |
| 3 | インフルベンザ | 有馬次郎 | 996 |
| 4 | 花 | 黒花睡子 | 867 |
| 5 | お菓子と手帳と | のぼりん | 985 |
| 6 | 恋愛小説 | 刀 | 834 |
| 7 | トゥーラ・トカレフ | 工藤裕也 | 998 |
| 8 | Rain Day | 桂木彩乃 | 597 |
| 9 | 紅い唇 | さとう啓介 | 1000 |
| 10 | 臆病者の窓 | 木葉詩子 | 996 |
| 11 | 壁 | 杉田晋一 | 946 |
| 12 | Human immunodeficiency virus | 羽倉諒 | 997 |
| 13 | 愛を感じるとき | やまだ小麦也 | 962 |
| 14 | 虐待 | RIBOS | 538 |
| 15 | 僕と蟻と彼女 | BEAN | 841 |
| 16 | メールで愛 | 吉原 明 | 1000 |
| 17 | 千字くん | 時空門奴 | 1000 |
| 18 | 歓喜 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 894 |
| 19 | 正月すぎの餅 | 海坂他人 | 1000 |
| 20 | 生まれたての陽の光と夜を越えてやってきた風 | 伊勢 湊 | 1000 |
| 21 | Not yet. | 川辻晶美 | 1000 |
| 22 | 鳥になりたい | 羽那沖権八 | 935 |
| 23 | ひこうき雲 | リツコ | 935 |
| 24 | メロンパンの誘惑 ★ | 一之江 | 1000 |
| 25 | 贋・・・爺 | 鮭二 | 1000 |
| 26 | (本作品の掲載は終了いたしました) | - |
朝日がまだ朝日らしさを失っていない時分に電車に乗り込む。 まだ通勤時間には早く人はまばらだ。 入り口近くの席に座り、バックの中から「掌の小説」を出す。 パラパラとページをめくり「火に行く彼女」のページを探す。 電車が動き始め、アナウンスが流れる。 穏やかな一日。学生の私は時々行く当ても無く電車に乗る。 そして、穏やかな気持ちで景色を眺め、文字を追い、思いに耽る。 何故川端康成は夢に彼女を見たのだろうか。 愛を知らないはずの彼がどうして涙を流したのか。 電車が陸橋に差し掛かり、単純な直線が規則的な三角形を作り出 す。 優しい光と暖かい影が交錯する。 小説に目を落としていた私は光と影の戯れに思わず目を細め、諦め たかのように小説を閉じる。 ふっと視線を正面に移す。窓の外には汚れていたはずの川が見える。 その瞬間の川は太陽に祝福されたがごとく光り輝いていた。 私はその瞬間、その川を美しいと思った。 普段気にも止めない汚れた川。 美しかったであろう水は緑色に変色し、川辺には大量にごみが捨て られ、それが当たり前であった川。 命の無い川のはずだった。 思わず涙が溢れそうになり、頭を下げた。 きっと美しいものというのは日常の中に潜んでいて、ある瞬間だけ、 しかも気まぐれにその姿を見せるものなのであろう。 周りを見渡せばきっと見つかるだろう。あなただけの美しいものが。 あなたしか知らない、あなただけの美しいもの。 きっとそれを見つけたとき、あなたは涙を流すだろう。 私がそうであったように。
月末。 だからといって特別の期待はしない。 無味乾燥な毎日は、それが当たり前になるまでに少し時間がかか ったけれども、今ではもう慣れっこだ。 そういえば、初めてこの町に来た頃は、気持ちがうきうきしてい た。アパートを決めて、駅前のスナックでオールドパーをシングル で飲んで、駅留めにしていた荷物を取りに行って、帰り道はもうす っかり夜だった。遠くの空に花火がはじけていた。それがまるで自 分を歓迎してくれているような気がして、妙に嬉しくなったものだ った。 あれから1ヶ月。満員バスに揺られて通う新しい会社は期待はず れだった。新入りにはとても冷たい同僚たち。そして色眼鏡の上司。 それらはまだいい。 一番驚いたのは、あれほど魅力的に見えた仕事が実は孤独で味気 ないものだと知らされたことだった。 1週間のオリエンテーションのあとで回された仕事は小さな町工 場の清算だった。うまくこなしたと思うが、激高した工場主に裏切 り者呼ばわりされて、気が滅入った。 次はやはり大きな焦げ付きを抱えた中堅の建築設計事務所だった。 感情を殺して事務的に処理した。鬼と言われた。こっちだって叫び 返したかった。貸した金を返せないなんて、そっちこそ犬畜生じゃ ないか……。 月末。 もう気持ちが揺れている。こんな毎日では自分がだめになってし まうのではないか。不安が突き上げる。 今度まわってきたのは小さな出版社だった。ついさっきまで、負 債リストをながめていた。丹念に。すべて期限切れ、おまけに担保 割れしていた。未収金も焦げ付き、返本在庫が倉庫にあふれている。 とても助けられそうにもない。溜息が出た。 ふと見上げると、窓の向こうはもう夜だった。 「あ、花火」 すぐとなりから、誰かが声をあげる。遠くの空に赤い花火があが ったのだ。 手を休め、事務所中の同僚がその花火に目をやった気配がした。 「あの花火が散る前に、火の粉のひとつくらいこの手ですくいとめ たいよな」 誰かのつぶやきが聞こえた。 すぐに誰かが揶揄するかと思った。ところが。 書類のこすれ音もしない。異様なほどに、事務所は静まりかえっ たままだった。 遠くで花火がもうひとつ。
けたたましい始業ベルの後、準備体操の音楽がパン工場の労務課に も流れてきた。 「おい!武井、村上係長のインフルベンザの噂もう聞いたか?」 「ああ、何でも当社の大阪工場からトビヒして猛威をふるっている らしいなァ」 「ウイルスではないから、予防接種も役立たずだ。村上係長は発病 以来、新宿2丁目通いが始まったらしい」 「しかし熱も出ないしある意味では厄介だな。オレはごめんだね」 「そうだよ、癖になるのが始末に悪い」 その日の午後、田村は”安全第一”の腕章をつけて、構内巡回に出 た。半日かけてもまわれない程広大な敷地だ。 空はどこまでも高く、絵の具の青が輝いている。こんな秋晴れの気 分の良い日は巡回に限る。パンの香りの混じった風が樹木の緑を揺 らしていた。 国内最大のハイテク生産工場に、あの病気がねェ...。田村は休憩 室でタバコに火を点け独り言した。 そこへ息を切らせながら武井が走り込んできた。 「村上係長が午後の始業から見当たらないんだよ」 「急用でもあるのか」 「フランスパンとクロワッサンの生産ラインの担当が、パン酵母の 発酵温度の設定ができないと文句を言ってきている」 「今朝は元気に例の調子でオハヒヨウと言ってたぜ。病気による言 語障害が出てたよな」 「オレ、糞でもして持ち場に戻るわ。見つけたら頼んだよ」 最近、衛生第一の工場で日に2、3回はトイレに駆け込む従業員が 増えたなぁ。暫くして田村も便意をもよおしトイレへ駆け込んだ。 ひととおり、排便を済まして何気なくロールペーパーに手を伸ばす と、メモ書きがあった。 何だこれは!目の前に薄い字で'CAUTION'と書いてある。 警告だと...。 温度 高め 水勢 超 シャワー 連続15分 必ず平常心で菊の御紋及び蟻の戸渡りを狙うこと 何気なくその通りに操作してみた。ウグアウオウ、オオオウ、ウグ ッ。汗だくの手は決して操作を止めない。オヨヨヨヨ、ウイイイイ 手が言うことをきかない。ひざ小僧がガクガク震えだし、顔の表情 も三白眼でウルウルしている。強烈な振動とヤケドしそうな温水が どんどん神秘的な菊の御紋に分け入ってくる。 頭の中が蕩けそうな、めくるめく快感で真白になり、蟻の戸渡りへ は行き着けそうもなかった。 田村が虚脱して20分後にドアから出ると、隣から村上係長もトロ ンとした瞳で出てきた。 「ア、カカヒチョウ、オヒュカレ様デス」 「オマエモ、トフトフ、インフルベンザゾナ」 「オヨッ、オヒュカレ!」 前から武井も出てきた。
kageyu tomomiが、ある朝目覚めてから最初に思った事はもうす でに、無い。 彼女は何時も忘れているし、そしてそれは彼女の習慣。すぐに、朝 ご飯に移る。今日はベーコン・エッグとブルーベリー・ジャムだっ たから。 「あぁーなんでそんなにパン焼きすぎるのぉ?もう、クソッ」 やわらかな朝と庭の傍らでは時計が時間を気にしているから、そし て彼女は、kageyu tomomiは、今日も電車に乗った。 彼女は彼女の庭を見ない。 大好きとはなんだろうと、彼女は友人と話す。 音楽に影響されて、話題が決まる。透明な思考と話し声が車内に満 ちているのだ。 「tomomiさあー、最近無口だよねぇ。ラブ?ねえラブ?」 「うっさいよ」 「でもそれっぽいし、また先生?それとも‐‐‐」 世界中はブルーに染まり、kageyuは海中で息を飲んだ、そして、見 たことの無い魚を見つめる。 海の夢。 「‐−−−−さえさ、発育ってい‐‐‐‐‐‐(時間が止まらない) ‐‐だって思うのよ‐‐‐‐(海)‐‐‐でむかつくし‐−−(アオ イ)」 最近kageyuは、友達、彼女が唯一対等に友人と認める1人の話に捕 まっている。 それは水の話。世界最古のブルーの話。 『だけど私んちからは庭しか見えないのよね』 それさえも見ることの無い世界でしか、kageyuは対比を出来なかっ たのだ。 彼女は本当に幸福だと思う。 「それさえも生きてる間でしか咲けなかったのよね」 「は?」 kageyuは夢から覚めた。そしてブルーのことは忘れた。 聞く。 「何が咲けなかったって?yumi?」 「は?」 友人yumiは怪訝そうに彼女を見つめるのだった。そして、すぐに笑 顔を作り、やさしく彼女の頭を撫ではじめる。 「またこの子は、寝ぼけてからに」 そのときkageyuは唐突に朝見た夢を思い出す。 私は、きっと終わりまで咲けない。シードのままだから、きっと何も 造れない。 「だけどそれは永遠だってことだと思うのよ」 頭をyumiに任せながら、kageyuはぼそっと呟いてみた。朝だ。
彼女と付き合いだしてどのくらいたったろうか。僕は二人のけじ めって奴にこれまでわざと鈍感でいようとしていたようだ。男って そんな時、大抵の場合腰が引けてしまうんだよな。だって、特に僕 たちのようにまったく進展のない付き合いが続いている場合、あっ という間に恋が消えてしまう可能性があるから。 まるで、「砂の器」だ。波がくればそのまま洗い流されて、元に 戻ってしまう。本当にもろい関係。 実をいうと、最近では彼女も忙しいらしい。OLしながら推理小説 を書いているというのはわかっていたけど、小説家になりたいなん て、そんな人並みはずれた夢のためにたまのデートもままならなく なっている。でも、その不満さえ僕はいいだせない。 これでいいのかという焦りがいつもある。おかげで、推理小説も かなり読んださ。否応なくね。(「砂の器」なんて表現、普通使わ ないだろ。) さすがの僕も考えたよ。 僕たちって、これからもずっとこのままなんだろうか。そろそろ、 二人の関係にけじめをつけるときが来てるんじゃないか…なんてね。 少なくとも、二人は未だにプラトニックなんだからね。大体、彼女 自身、何考えてんだろ。そいつがまったくわからない。 とにかく、今日は僕の誕生日。彼女を誘った二人だけのパーティ。 僕はある気持ちを秘めている。 そんな僕に彼女が手渡してくれたメモがあるんだけど…。 お菓子 手帳 大根 ワンコそば 「これ準備していてね」 な、何のこっちゃ。ますます彼女の気持ちがわからない。 ワンコそばでパーティか?大根を準備しておでんでも作るという んだろうか。それに手帳って何に使うの? もちろん、これが何かの暗号であるという可能性も考えてみた。 でもわかる?この四つの言葉の意味が…。 * 結局、わけがわからないままその時がきた。僕は一応メモのとお り四つのものを用意しておいたけど、それを見た彼女はうんざりと した顔。 「あんたってどこまでも鈍感ね」 彼女ははにかんだように笑った。 「確かにワンコそばは、分かり難かったかもしれないわ。これは― ばんこそは―って読んで。心の準備をしてってことなのよ。女に言 わせるかしら、普通」 つまり、最初から「おかし、てちょう…」通して読めばよかった だけだ。 つまり、それが彼女の気持ち。なんてこった…。
する事をし終わってさて寝ようという段になって、彼女は 「どうして響子じゃないの?」 と彼女の親友の名前を口にした。 「どうしてって何さ」 「だから……なんで響子じゃなくてあたしなの」 響子──結城響子は彼女の親友であり、常に彼女と行動を共にして いた。そんなだから、彼女は俺が響子目当てで自分と一緒にいるの ではないかと勘繰っていたらしい。 「俺、別にあいつには興味ないんだ」 「じゃあなんであたしなの」 一度思いこむと、なかなか譲らない。彼女のそんなところが俺にと っては随分と可愛いのだけれど、そんな事を言ったところで彼女が 納得するとは思えなかった。 「そりゃ、まあ、いろいろさ」 俺がそう言うと、彼女は不満そうに 「いろいろって何よ」 と、こちらをにらむ。こうなると何を言っても始まらないのだが、 俺はふと思いついて 「脚がない女とそうそう寝られるもんじゃないだろ」 と言ってみた。案の定、彼女はうつむき 「ひどい」 と漏らす。 彼女は二年ほど前、事故で両脚を失っており、現在は車椅子で生 活している。それが彼女の苦悩の一端である事は俺には分かってい たけれど、あえて。そう、あえて言ってやった。 「それって差別だわ」 彼女は悲しげにそう呟いた。泣いているのかもしれなかった。 「だったら」 俺は横たわっていた体を起こし、彼女を見下ろした。泣いているの を悟られるのが嫌なのか、彼女はぷいと顔を背ける。俺は続けた。 「お前はいい女だけど脚がないのがちょっとなあって、そう言って 欲しいか?」 どうでもいい事だった。少なくとも俺にとって、彼女の脚がなか ろうが三本だろうがそんな事はどうでも良かった。 「俺は」 そう、俺は── 「お前が好きなんだ。お前の全部が好きなんだ。一重まぶたなとこ ろも、少し癖毛の髪も、歯並びが少し悪いのも鼻をひくひくさせる 癖も全部好きだ。もちろん──」 俺は彼女の下腹部に触れた。 「脚がないのも」 言い終えて、俺は側にあった煙草の箱から一本を取り出し、火を つけた。彼女は何も言わないまま、俺とは反対方向を向いたままだ った。 やがて、俺が煙草を一本吸い終わった頃、彼女は少し鼻声で、 「馬鹿」 とだけ口にした。 それから俺達は泥のように眠った。疲れていたのだろうと思う。 翌朝、彼女は寝起きですっきりしない俺の顔を見て、 「おはよう」 と──それまで見た中で一番の笑顔で──そう、挨拶してくれた。
銃弾が彼女の左胸を捕らえたと僕は感触した。 彼女は冷たいコンクリの上にうつ伏すように倒れたまま動かない。 乱れた黒髪が色白な顔にかかり、肉薄な口唇や瞼の前を覆っている。 ロシア船の乗組員から買った一丁のトカレフ銃。引き金に指を置 いただけで作動してしまうこの銃のマガジンには、弾丸がまだ七発 眠っている。 銃声はこの地下鉄の入り口から改札まで響いたはずだ。いずれ誰 かが通報するだろう。僕は彼女の側に立ち、ただ彼女の事を見つめ た。 彼女への想いを永遠にする方法として僕が選んだのは、愛する人 を殺して僕もその後を追う事だった。彼女の微笑みは僕にだけ向け られているものであって欲しかった。彼女の言葉は僕にだけ聞こえ ていて欲しかった。僕は僕自身の時を止めて、僕の持つ彼女の記憶 と一つになる事を願ったのだ。 俄かに地上が騒がしくなっていた。僕は彼女の亡骸から離れ、ト カレフの銃口を自分の米神へと向けた。 一瞬、自分の死に恐怖が過ぎった。人間としての本能が僕を押し 留めようとしていた。僕は彼女の姿に目を落し、その恐怖を吹き飛 ばした。そして微笑むように顔を歪ませ、再び死を待ち焦がれた。 警官が三人現われた。彼らは僕の足元にいる彼女に先ず目をやり、 そして僕には緊張した目線を向けた。僕は一度彼らに銃口を向けた。 彼らはすぐに身構えたが、僕は銃口を再び米神に戻した。警官達の 緊張が手に取るように分かった。そして僕は人差指をゆっくりと引 き金にあてた。 …しかし、弾は発射されなかった。 彼女を撃った時には滑らかだった引き金が全く動かない。どうい うことだ? 僕は何度も力を込めてみたが引き金はびくともしない。 ふざけやがって! ソ連製の出来損ないめ! 僕はいかれたトカレ フを力の限り床に叩き付けた。 その時、一発の銃弾が火薬の爆音と共に飛び出し、警官の一人の 足をかすめた。そして次の瞬間には残る二人の警官が僕の身体を押 えにかかっていた。 馬鹿、やめろ。僕はお前らに捕まりたくて彼女を撃った訳じゃな い。僕は押さえられた手足を必死に抵抗させた。 お願いだ、僕を、僕を死なせて、くれ。 いやだ。彼女の記憶を抱えてまだ生きなければいけないなんて、 そんなのはいやだ。 背中越しに手錠を掛けられて、口の中に布を詰められた僕は身体 を床に押さえつけられた。その僕の目に遠くで横たわるトカレフの 銃口が、僕を見て嘲笑っているように映った。
ある日の休日。 私は一人で、ブラッと街へ出かけた。 一人で、誰に気兼ねすることもなく、ウィンドーショッピングを 楽しんでいた。 そして、ふと目に止まった雑貨屋のお店に、何気なく店内に足を 踏み入れた。 店内の棚に並べられている雑貨に、目を奪われて、時間が過ぎて いくのも忘れていた。 気に入った雑貨を何点か買い、店の外に出た。 店に入る前は、青い空を見ることができたのに、いつの間にか、 青い空は雨雲に覆われ、空から雨が、地上に降り注いでいる。 お店の前で、このまま濡れて家に帰るか、それとも、雨が上がる のを少し待っていようかと、悩んでいた。 すると、偶然に私の前を通りかかった、見知らぬ青年が、私の前 で立ち止まった。 「良かったら、この傘、使ってください」 そう言って、自分が使っていた傘を、私の手に握らせた。 「あのう……」 彼が濡れることをわかっていて、素直に傘を受け取ることなんて できなかった。 彼に傘を返そうとしたが、彼は受け取ろうとはしなかった。 「僕は大丈夫だよ。家もすぐ近い所だから」 笑顔でそう言うと、私の前から立ち去った。 彼の姿は、降りしきる雨のため、すぐに見えなくなった。 雨が降るたびに、あの日のことを思い出す。 あの日出会った、名前も知らないあの人のことを。 その傘は、今も私の手元に、残っている……。
白く光る雲が遠退いてゆく、冷たい風が僕を突っつく。 首をすくめ地下歩道の階段を駆け降りると、幾分暖かく感じられた。 振り返って階段上の空を見上げると、今にもちらほらしてきそうだ った。 突然、僕の背後から声が聞こえた。振り返ると、携帯電話程の人 が寒そうに手足を擦りながら立っている。 「ウッ!」 低い呻きを上げ、目を疑った。よく見ると隣の加藤の爺ちゃんだ。 (裸!) 「マー君じゃったの、火を持っとらんか?」 嗚咽しそうになりながら、タバコを取り出した。 「おお!火を付けてくれ」 僕はタバコに火を付け、深く吸い込んでから差し出した。 爺ちゃんは両手で抱締めながら、ほのぼのとした笑顔を返してきた。 僕は気を取り戻し 「ど、どうしたの?」 「それがな、せがれの嫁に手を付けての……麻子も満更じゃ無かっ たんじゃろ、爺ちゃん、い・いい〜、と喜んで、そこまでは良かっ たんじゃが……私の玩具になって!言うてワシを小さくしたんじゃ」 僕はあまりの驚きに、鼻水が垂れるのも気付かず声が出なかった。 「魔女だったんじゃ!麻子は。今日も、爺ちゃん楽しんでね、言う てパンティに入れられたんじゃよ」 麻子さん……あの色っぽい姿……Hな唇……! 僕のスケベな想像は、余すことなく表情に出た。 「おいマー君、大丈夫か?」 フッと我に返り、ヨダレを拭った。 「何でこんな所に?」 「買い物じゃ。ワシゃパンティの中で疲れて、さっき落っこちたん じゃ」 「えっ!じゃあここを通る?!」 「多分な」 僕の心は弾んでいた。その時、階段からヒールの音が響いた。 「あら、マー君こんにちは!」 僕はとっさに爺ちゃんをポケットに押し込んだ。 「あち!熱ち!」 タバコを忘れていた。慌ててタバコだけ取り出し、またポケットに 手を突っ込んで、爺ちゃんが出ない様に押さえた。 「こ・こんにちは。」 揺れる胸元が通りすぎ、黒いスカートからは素脚が色っぽく擦れ ている。 「そんなの吸って悪い子」 振り向いた紅い唇が悩ましげに動いたかと思うと、そのまま反対側 の階段を上って行った。 ボーッとした頭は働きだすまで少々時間がかかった。 「そうだ!」 僕は地下歩道を走り出た。出た瞬間、少し積もった雪に滑って思いっ きり転んだ。 「うぎゃ!!」(やっちゃった!) ポケットを覗くと、爺ちゃんが二つ折りにペトッとなっていた。 黒いスカートが揺れ、白い手が僕の手を取り 「今度は、マー君が私のお友達になってね」 紅い艶やかな唇が囁いた。
窓を少し開けておいたせいか、風呂場のタイルはひんやりと湿っ ぽく足の裏に張り付いた。一体どのくらい居るのであろうか、窓の 向こう側では、鈴虫の鳴声が重なり合い、単調な音となって響いて いて、彼らの居場所は定かで無い。浴槽のプラスチック製の蓋の上 に体重をかけぬよう、軽く左足を置き、前に乗り出して窓を大きく 開け、外を覗き見たが、見えたのは家の周りを固めた灰色に汚れた コンクリートと、そこから先へ続く草が伸び放題になった暗い庭だ けであった。何時もと寸分違わぬ庭にがっかりし、所在の知れない 鈴虫達に少しの恐怖を覚え、窓を半分しめた。 タイルの上へと戻 り、水流の強いシャワーを頭から浴びた。水が規則正しく弾き出さ れる音が私の耳を塞ぎ、瞳が流されぬよう瞼は強く閉じられた。水 のカーテンに包まれた真っ暗な私という部屋にも風呂場の物と良く 似た半分開いた窓があった。窓の外からは、何の音も聞こえてはこ なかったが、何かがひっそりと静かに動いていることが空気の振動 で分った。振動が止み、気配が消え、その何かはゆっくりと休んで いるかのようであった。息を深く吐き出すと同時に、開かれた窓の 下側の桟の角に光沢のある丸いボタンの様な物が現れた。良く眼を 凝らして見るとそれは銃口であった。重々しく黒光りする銃口をボ タンと見間違えるとは、と視力低下を悲しめたのはほんの一刹那で あり、瞬く間に恐怖に支配された。逃げ出せば良いのだろうが、シ ャワーを握り、体に水を当て続けなければならないという、自分自 身へ課した暗示的な義務によってシャワーを放すことが出来ない鋭 い。恐怖によって重たく沈んだ心臓が声すらたてさせてはくれなか った。破壊的な銃声と共に、私の腹という部屋に風通しの良い窓が 出来た。その窓は開ききっていたが、部屋の中の様子は全く分から ない。中の空気に触れてみようと、恐る恐る手を入れてみると、湿 度の高い生温かい空気が纏わり付いた。顔を窓の中へ入れてみると 中は夕暮れ時ほどの薄明るさがあり、墨色と灰色のみの色調であっ たが、部屋は広く、黒い敷物が敷いてあることが分った。私は、思 い切って窓枠に手をかけ、中へと入った。足元で何か動く物がある ので、屈み込んで確認した。鈴虫であった。黒い敷物だと思い込ん でいた物はすべて鈴虫であった。何百何千という鈴虫。一斉に鳴き 始め、鈴虫の敷物が私を包んだ。 シャワーの勢いは弱まっておらず、私の脛を水が叩き続けていた。 シャワーを止め、風呂場から出てドアを閉めようとしたが、もう一 度風呂場へ戻り、半分開いたままの窓を閉めた。
「ほら、そこを抜ければきっと出口さ。」 僕は玲子の背中を押すように声をかけた。もう何時間ここにいるこ とだろう。実際、ここには僕たち以外の誰もいないようだ。 はじめの何時間かは誰か助けてくれるものだと思って叫びつづけて いたし、それは僕たちと同じ境遇にある人たちを探すことも手伝っ ていた。 「この曲がり道が最後のはずよね。」 ぼんやりと見える両壁はびっしりと苔に覆われており、その奇怪さ は表情を持たない。ここはさっき通った道。いや違う道。ここまで は一本道だったんだし、ここからもそうだろう。とうに足はいうこ とをきかなくなっている。自分の体までもがこの壁の味方のようだ。 玲子は曲がり角の手前で座り込んだ。 「ねえ、ここで休もう?」 ここが最後の曲がり角であると思っているのは、ただそれを信じた いのに過ぎない。それを解っていて、それが裏切られることが解っ ていて、玲子はここに座るのであろう。僕は知っているここに出口 が無いことを、…だって今まで無かったんだ。ここにどうやって入 ってきたのかもしれない。自分の意思でないにしろ入ってきたのな らば、ここには出口もあるだろう。それよりも入り口から出ればい い。…僕たちはどうして後ろに戻らないんだろう。ここまで進んで きたからか?もしかしたらはじめから反対方向に進んでいたら、今 ごろは外に出られていたのかもしれない。今ごろ、僕は自販機で煙 草とコーヒーを買っていつもの自分に戻っていたんだ。…戻ってい たんだ。 「座りなよ。」 玲子はどうして向こう側を見ようとしないんだ。何を期待している のだ。男と女が二人きりでこんなところにいたら、何か起こると思 わないのか?そんなに信用されているのか?それとも相手にもされ ていないのか?こいつは僕の何を知っているというんだ。 玲子の汗が首筋を伝っていく。息をすれば嫌でも女の匂いがする。 もしここを出られてそんな事をしていたらただじゃすまない。こい つはそんなことには堪えれるやつなのだろうか?ここであっただけ の女のこと、解ろうはずが無い。でもここでこいつを置いて一人で 行くことだってできるんだ。今、主導権はこちらにある。嫌でも二 人っきりなんだ。それにはこの曲がり角の先を見なくてはいけない。 玲子はこちらを見ている。蒸し暑いのか、首筋には汗が伝っている。
T将軍は、祖国の胸から生まれた。彼は幾度もの戦いに参戦し、 常に敵軍をうち破ってきた。無謀な烏合の衆との戦いだけではなく、 狡猾な侵入者をも排除してきた。代々続くエリート軍団。将軍の前 に、敵はいないはずだった。 第三次インフルエンザ会戦も、もはや勝利は目前だった。 「報告します。M軍団、B軍団ともに快進撃を続けております。報 告によれば、敵軍に未確認軍団は含まれていない模様。このまま増 援を送り続ければ、勝利は目前です」 将軍は頷いた。 「よし。上々の戦果だ。去年は少し手こずったが、今回は無事に終 わりそうだな。だが、気は抜くなよ。敵はいつどこから現れるかわ からんのだ」 士官は頭を下げ、再び陣営を後にした。 「これで、兄上にも少しはよい土産が出来るな。兄上もきっと、祖 国のために南部で大忙しだろう」 「左様ですな」 同僚は、「しかし」と続けた。 「東部で健闘した優秀な士官が、軍法会議にかけられたのをご存じ ですか?」 「なんと……初耳だが」 「なんの嫌疑かも分からぬそうで、我らは訝しんでおります」 B軍団は確実にミサイルを撃ち込んでいた。敵軍勢はことごとく 壊滅し、最後の砦を残すばかりとなった。 「よし。あと一息だ」 将軍は、各大隊に指令を出す。 「M第一から第三軍団は、一直線に接近し、敵を破壊せしめること。 第四から第七軍団は退路を断ちつつ迂回すること。B軍団は、全軍 乱戦に持ち込んでミサイルを発射せよ。至近距離まで接近したなら ば、敵の動きを拘束せしめること」 居並ぶ兵達が勢いよく返事をする。各員は緊張をうちに秘め、号 令を待った。一声を聞き次第、我先にと躍り出る用意が出来ていた。 「参謀本部より、ご使者です」 H参謀が案内され、軍団の集結所に現れた。 「参謀本部より参った。T将軍に主命がある」 恭しく一礼し、将軍は主命を待った。 「T将軍に命ずる。即刻切腹いたせ」 「な、なにを! なんと申された」 参謀は繰り返した。 「ふざけたことを申すな。祖国のための戦いの最中である。戦歴も ない参謀本部の指示など聞けぬ」 「主命である」 軍団がざわめく。将軍は無視しようとした。 「主命である」 生粋の軍人に、命令不服従という選択肢はない。 「……後任の将軍は……誰か」 「おらぬよ」 「祖国はどうなるのだ」 H参謀の活躍で、優秀な指揮官が姿を消していった。第三次イン フルエンザ会戦は、インフルエンザの大勝利に終わった。祖国は滅 んだ。
その定食には愛があった。 注文したものが運ばれてきた時、味わう時、レジで金を払ってい る時、俺はいつもそう感じた。 ショウガ焼きの肉汁が滲みないようにと、つけあわせのポテトサ ラダの下の大葉がさりげない。味噌汁の具の豆腐の角は清らかな形 を保ち、たっぷりとマヨネーズを乗せた千切りのキャベツは、これ でもかという程の量感をたたえている…。 昼12時。 俺は別に仕事の鬼ってわけじゃないし、納期に追わているわけで もないので、昼食は必ず外食である。同僚の中には、出勤途中にコ ンビニで仕入れてきた冷えてカタイ握り飯にパサパサのサンドイッ チ、なまぬるい缶コーヒーなどを、節電のため照明の消えたデスク でひとり腹に詰め込む奴もいる。信じられない。お前は何の為に生 きているのだ。また、どこからか、愛妻弁当のノリと醤油の混じり 合った香りも漂ってくるのだが、しかし、違う。 俺は、冷えた食事は嫌なのだ。正確に言うと、その時欲する物を 身体に入れたい。味わいたい。食事の内容の決定権は、常にこの俺 にある。猛暑の時にあんかけうどんを食おうとも、マフラーの欲し い日にざる蕎麦を食おうとも、昼食の選択と決定が俺の生きる権利 と同程度の価値を持つ限り、それはあくまでも自由でなくてはなら ない。たとえ上司の「うなぎ奢りデー」であろうとも、自分の気分 が乗らない限り金魚のフンのように皆と同じく無感動な表情で行動 を共にすることは絶対にあり得ない。サラリーマンとしての資質を 問われようとも、「主義」を持って生きることの方が、人間として 重要ではないか。 今日も、その定食は俺の人生を豊かにしてくれた。俺の選択が、 生き方が正しいと、励ましてくれた。だが、この店に来ることはも う無いだろう。 この世にはまだまだ苦行に等しいランチ850円也だってある。俺 の思考過程のどこにミスがあったのだと、レジで叫びたくなること もある。そこでひるんではならない。何事も経験なのだ。しかし、 経験を積み、揺るぎない選択眼と確固たる自信を持つことができる ようになっても、必ず失敗はある。そんな時、あの定食は俺の心の 中で、深く静かに激しく強い慰めとなってくれることだろう。 愛を、ありがとう。 俺は一度もふりかえることなく、その店を後にした。
子供を虐待する親が増えているという。 子供が可愛くない親なんかいない−そんな決まり文句も最近では 通用しなくなってきた。 虐待といっても、体罰やせっかんに代表される肉体的虐待と、言 葉でののしったり、さげすんだりする精神的虐待があるが、今日相 談所の職員をやっている私のところを訪れた少女は後者であった。 「お嬢ちゃんは、いくつかな?」私は訊ねた。 「9歳です」女の子は小さな声で答えた。 「お嬢ちゃんをいじめるのは、パパかな?それともママかな?」 私は、心の中で、できれば父親の方であって欲しいと願った。一 緒にいる時間の長い、母親の方から虐待をうける子の方が、圧倒的 に不憫だと思うからだ。 「ママです」 女の子は、消え入りそうな声で答えた。 「どんな風にいじめるの?ぶったりするのかなあ?」 女の子は、首を横に何度も振った。 「じゃあ、ひどいこと言ったりするんだ」 女の子は、こくっとうなづいた。そして言った。 「私、ママがわからないの。どうして、あんなこと言うのか…」 「そんな、ひどいことを言うんだ。なんて言われるのか、おじさん に教えてくれないかなあ?」 「絶対に笑わない?」女の子は上目遣いに私を見ながら言った。 「笑わないさ」 「本当に笑わない?」 「ああ、約束するよ」 「おまえのかあさん、でーべそ、って」
「嘘吐き!」 彼女は泣き叫びながら僕の蟻を踏み潰していた。僕に当たらない で僕の蟻に当たるのはフェアではないと思うのだが、きっと泣き叫 ぶ彼女にはそんなことお構いなしなのだろう…… そもそも、僕がどんな嘘を彼女についていたのかというと、隣の 家で飼われている犬の髭の本数が実際は48本あるところを「43本だ よ」と彼女に教えたからだ。隣の家の犬の髭の本数が彼女にとって どれくらい重要なことなのかは僕には想像もつかなかったが、とに かくそのことで、彼女は僕に「嘘吐き!」と言い、僕の蟻を容赦な く踏み潰していた。 僕は時々嘘を吐く。もちろん、アリバイ的な嫌らしい嘘も吐くこ ともあるが、だいたいはろくでもない嘘だ。別に嘘を吐きたくてつ いているわけではない。今回のことにしても、隣の家の犬の髭の本 数なんて僕には、全く興味がないから数えたこともないし(彼女は 僕の言った数と合わないために3度も数えたらしい)、デートの帰 りに彼女と隣の家の前を歩いている時に、たまたま思いついたから 何となく言ってみただけなのだ。 彼女にいわせると、それが彼女を深く傷つけているらしい。確か に嘘を吐かれたら良い気分ではないだろうけれども、許せる嘘と許 せない嘘があるとすれば僕の嘘なんて確実に許せる嘘のはずだ。 僕は僕の蟻を救うためと、彼女の機嫌を直すために「もう嘘はつ きません」と誓うことにした。誓って直るようなものでもないよう な気がしたが、とにかくその時はそうするしか方法がなかったのだ。 そして、僕は彼女との誓いを3年間守りつづけている。僕の思い つきの嘘が、いったいどこにいったかといえば、僕は小説を書くよ うになった。テーマもなにもない思いつきのろくでもない小説を書 いている。 彼女はといえば、僕のことを洒落た冗談もいえない詰まらない男 になったと言っている。彼女に踏み潰された僕の蟻のことなんてす っかり忘れているのだろう。 でも、とにかく彼女は泣き叫ばないし僕の蟻は平和に暮らしてい る。 めでたしめでたし
仁はパソコンのキーボードをカタカタカタ。送信ボタンをクリッ ク。 「はじめまして。僕は東京都内に住む二十歳の大学二年生です。学 部は法学部ですが、半年以上学校に行っていないので、学生と言え るかどうか分からない状態です。出会い系サイトでメル友を探すの は初めてですが、文学、パソコン、テレビドラマなどについて話の 合う人を求めています」 四時間後、仁のパソコンに里香からのメールが届いた。 「『出会いの輪』を見ました。私は神奈川県に住む十九歳の女性で す。ちょっと身体が弱いこともあって、高校卒業後は家で母の手伝 いをしています。昔風に言うと、職業は家事手伝いでしょうか。テ レビドラマでは、今、NHKの『オードリー』がいいですね。長島 一茂が回を追うごとに上手くなっているし、主役の岡本綾もかわい いですね。あなたはどんなドラマを見ていますか」 「僕も『オードリー』は毎日見ています。岡本綾は『あすか』や 『やんちゃくれ』などと比べても、最近の新人女優の中では一番い いのではないでしょうか。将来に期待がもてますね。話しは変わり ますが、実は僕は学校に行かないだけでなく、この半年間、外に出 ていないのです。世間では引き篭りと呼んでいるようですが、なん とか外に出たいのですが良い方法がありましたら教えてください」 「私も八ヶ月くらい外に出ていません。厳密に言うと、家がマン ションの五階にあるのでベランダには出ますが、地上を歩いた時の ことは思い出せないくらいです。私も一生このままではいけないと 思っています」 「僕と同じですね。それでは僕たちは一度逢ってみませんか。付き 合うわけではなく、お互いの社会復帰のために。約束すれば外に出 ない訳には行かないでしょう。あなたの最寄の駅を教えてくださ い」 「私の家からは、京浜急行の六浦駅が一番近いです」 「僕の家は品川区ですから、それでは京浜急行横浜駅の立ち食いそ ば屋の前でどうでしょう。あなたの都合のよい日と時間を指定して ください」 「場所はわかりました。明日の午後二時ではいかがでしょう。その ころなら電車も空いているでしょう」 「わかりました。それでは僕が目印にノートパソコンを持って立っ ています」 そして、翌日時間ぴったりに二人は逢った。喫茶店に入り向かい 合って座ったが、お互い数ヶ月も他人と接触していないため会話に ならず、仁の「僕たちメールに戻ろう」の一言で僅か五分で喫茶店 を後にした。
俺、千字。寿命が千字だから千字。どうして千字しかないのかと言 えば、このバトルのルールがそうなっているからだ。どうせ千字限 りの命、俺は出来るだけ有意義かつ有効に命を使いたいと思ってい る。だけど、何をすればいいのだろう。他の作品たちは凄い。たっ た千字の間に色々と成し遂げて終わっていく。俺なんて何をするべ きか決めてもいないうちに百五十文字使ってしまった。これは明ら かに無駄遣いだ。段落も作らなければ一字下げもしないで節約して るというのにこんな無駄遣い。言葉に対する修練が足りない証拠だ。 できるだけ節約しなければお茶を飲むというならお茶する。木村拓 哉ならキムタク。……文字数変わってないじゃないか。余計なこと を言った。何? 行数じゃなくて文字数だから改行はOK? 先に言え。 ちょっと気持ち的に余裕が出来た。さて、何をしよう。できるだ け意義深いことをしたい。大袈裟なと思っているだろう。たかが千 字の命の癖にと、しかし、一寸の虫にも五分の魂。千字の作品にだ って、千ページの作品同様、生まれてきたからには気概くらいある んだ。452 とはいえ、時間がなさ過ぎる。薄羽蜻蛉だって三日の寿命を持っ ているっていうのに、俺の寿命はたった千字。時間に直せば五分足 らず。そんな間に何をしろというのだ? もう半分以上すぎてしま った。何もしていないうちに。 今からどこかに出ていって、誰かにあったり、何かをしたりして 語り終えることが出来るだろうか? 多分無理だ。それにしてもな んて無駄な語りだろう。勿体ないことこの上ない。ちょっと何をす るか決めるまで、黙っていよう。節約だ。無我の境地。 何も話が進まないじゃないか! 考えてみれば当たり前だ。文章 は文字を消費することで成り立っている。文字を節約することは、 世界を止めてしまうことだ。どうすればいいんだ! あと二百五十 文字もない。 どうしたらいいんだ。俺は何をしたら良いんだ。この限られた短 すぎる命にどうケリをつければいいのだ。こんな理不尽な存在とし て俺を生み出した作者。俺は奴に怒りすら覚える。 いよいよあと百字だ。畜生、何もしないうちに消えていくのか。 せめてもう一度チャンスをくれ。こんな無駄な文字の使い方をする ことなくちゃんと生きてやるから。だがどうやって? 何かあるは ずだ。俺がもう一度生きるための方法が。考えろ。考えるんだ…… そうか、あったぞ。もう一度生きる方法が。 なあ、あんた、もういちど最初に戻ってくれないか? 頼むよ。
だかだかだか。機関銃大連射だ。残りダマを気にする必要は無い。 もう体勢は決している。 負けだ。俺達の敗北だ。俺達はもう助からない。ここで、この無 意味な戦場で、俺達の理想や未来や家族や大切なものや息子の泣き 顔やラッシュアワーなどとはこれぽちの関係も無いここで、俺達は 死ぬ。 そうら祝福だ。景気付けだ。となりでは大声を張り上げて、もう 二年も一緒に戦ってきた戦友がぽんぽんと手投げ弾を投げ続けてい る。とても暗い奴で内向的で皮肉屋で、そして音楽が好きで。どこ にでもいる典型的な逃避型の人間だ。最初に出会った時、奴は「ミ スターセルフディストラクト」を歌っていた。二年の間に「勝手に しやがれ」を覚え、今歌っているのは第九交響曲第四楽章「歓喜」。 晴れたる青空流れる雲よ 飛び交う弾丸。爆音。小鳥は歌えし林に森に。もう俺達のいる森 は完全に囲まれている。俺は機関銃のマガジンを取り替え木々の向 こう側に透けて見える黒い影のような軍団に向けて撃ちまくった。 となりではもうだいぶめちゃくちゃな第九。さあ祝福だ。おめでた だ。キャンユーセレブレイトだ。さあ来い。俺はここだぞ。ここに いるぞ。苦悩を突き抜け歓喜に至ったぞ。 思えばこうなるまで俺達はこんなに銃を撃ったことは無かった。 もう敵陣では数え切れないほど手投げ弾の爆炎が上がったし、俺だ ってもうマガジンを十回は取り替えたから、つまりはたぶん少なく とも100人は殺した。 絶叫。血飛沫。生。死。何かが高速で擦れ違っていく。そしても う二度と出会うことが無い。 俺達は何だったのだろう。俺達は今までいったい何をしていたの だろう。なんだかひどくくだらないことを思い悩んでいた気がする。 虫のようにはいずり回っていた気がする。 そうだ。俺達は虫だ。虫のようにはいずり回り、そしてもうすぐ 虫のように死んで行く。 だが良い。もう良いのだ。俺達は虫であり、そしてその虫の生を 生きたのだ。苦悩を突き抜け歓喜に至ってしまったのだ。 だから息子よ。生きてくれ。虫の生を。孤独を。死を。歓喜を。 すぐ近くで血飛沫が上がった。となりのあいつが撃たれたのだ。 残念だ。最後に「ホームスイートホーム」が聴きたかったのだが。
餅のかけらが、半分のどに引っかかったのは一瞬のことであった が、よし子はしばらく口が利けなかった。 ほっと一息ついて、母に、 「掃除機で吸い取ってもらうところだったわ」 と話すと、 「嫌あねえ……私は見捨てるわよ。『若いのに、餅を引っかけて亡 くなられたんですって』なんて云われるんだから」 と笑うのだった。 小正月を過ぎても、田舎から来た餅は未だだいぶ残っていて、母 は時々水に浸して戻してはあんこ餅にするのだが、父や弟には食べ させず、自分一人か、よし子と二人だけの食卓に出した。 「残り物だから。」という意識が、母の自然に身についているもの のように思われるし、また男のひとの味覚は甘みを好まないらしい と云うのも確かなことである。 去年まで喜んであんこ餅をお代りしていた弟が、今年は一椀で止 したのも、大人の男になったのかと思うと、よし子は何か寂しくも あった。 今晩は父は役所の宴会で晩く、大学生の弟は音楽仲間の家に泊る と言い置いて行った。 よし子は自分が高校の時、友だちの家で少し晩くなっただけで、 わざわざその家まで電話された事など思い出し、また、今の自分の 境遇――二十七にもなって恋人もなく、母校の講師でわずかな資を 得ながら、実家にいる――なぞを思い合わせるのだった。 「あと五十年後だったら、本当にあのままになっていたかも知れな いわ……そうすると、一生のことを全部、一ぺんに見るの。五十年 前は大丈夫だったのにって、今日の事も思い出すわ」 「走馬燈のようにね……お祖父さんも、そういうものを見たのかし ら」 母は、ふと、沁みじみと云った。 よし子の祖父が病死したのは去年の十一月末で、つい三日前に四 十九日が終わっていた。 「今になってみると、生きてる内にもっと優しくして上げるんだっ たと後悔するような気持ちになるわね……人間って勝手なものよね え」 よし子は何とも言えなかった。 先刻、よし子は餅をのどに詰まらせて死ぬ、五十年後の老いたる 自分を、幻視したのであった。勿論、母も父も死んでからの事だ。 そこには子供も、孫も現れては来なかった。一人で正月の餅を食い、 一人で誰にも看取られずに死ぬのである。 しかし、正月に餅を食っているからには、曲りなりにも自活して いると云うことで、それはよし子にとって決して恐怖ではなかった。 むしろ「かくありたい。」とすら、思うのであった。 よし子は黙って、残った餅を、注意深くちぎり分けた。
「あっ、アキちゃん!お父さんだけど…」 外国人旅行社向けのゲストハウス、玄関脇に置かれた公衆電話か ら流暢な日本語で、ただ一目会うことすらままならない娘に話し掛 けるジョンの背中は、大きく無骨ではあったけれど、どこかやりき れない寂しさを漂わせていた。 自分の体をすり金ですり下ろすようなCM業界でのサラリーマン 生活から抜け出し、切れたトカゲのしっぽが再び生えるのを待つか のように、外国人旅行社なんかが利用する安い宿泊施設で管理人と して住み込みで働いていたときに、ジョンはその中でも一番安い相 部屋にやってきた。 ジョンは四十代半ばでいつも陽気で体の大きなアメリカ人で国で は大工をやってるという。日本語を流暢に話すジョンに僕は興味を 持った。話を聞くと日本に八年前に別れた奥さんと十四歳になる娘 さんがいるらしい。法律の関係とかで別れた奥さんはおろか娘さん にもなかなか会わせて貰えないが、ためたお金で日本に来てはなん とか娘に会ったり、ずっと日本に居れるように仕事を探したりする という。 「仕事があれば日本に住めるし、もっと娘とも会える。娘と話すた めにアメリカにいるときもずっと日本語の勉強してきたしね」 ジョンはそう言って屈託なく笑う。でも、そうやって日本に来るの は奥さんと別れて四回目だという。四十の過ぎた、特別に学のある わけではない外国人がこの国で職を見付けるのは正直いってかなり 難しい。 「アキちゃん、お父さん明日またアメリカに行かないといけないん だ」 玄関脇の公衆電話でジョンは背中を丸めて話す。やはり残念なが ら一ヶ月の間に仕事は見つからなかった。 「明日の飛行機は早いから…うん、お父さんも会いたいけど、無茶 するとまたお母さんにアキちゃんが怒られちゃうし…大丈夫、また すぐ来るから、絶対に」 そのとき電話がテレホンカードの度数が切れるアラームを鳴らした。 僕は思わず電話に駆け寄り自分のテレホンカードを差し込んだ。 何年ぶりだろうか?次の朝、僕は早起きをした。少し寒かったけ どカーテンを開け、窓から身を乗り出した。そして寝ているみんな を起こすまいと静かに玄関から出てきたジョンに大きな声で呼び掛 けた。 「まったく、君は…でも、わるくないね、ほんとに…ほんとに、あ りがとう」 ジョンが親指を立てて、僕も立てた。生まれたての陽の光と夜を越 えてやってきた風が僕の部屋に流れ込んだ。まったくだ、ぜんぜん わるくない、わるくない。
目を覚ましたのは夜明け前だった。昨夜、バーで息投合した女の マンション。まだ頭はぼんやりとしているが、もう一度眠る気にも なれない。ベッドを出て煙草を探す。暗い上、他人の家は勝手がわ からない。ようやく火をつけ、時計を確かめる。始発電車が動き始 めるまで、なんとか時間を潰さねばなるまい。女はぐっすりと眠り 込んでいる。CDを聴くのは躊躇われた。ヴォリュームを絞って、 ビデオでも観るか。薄闇の中、ビデオ・ラックに目を凝らしてタイ トルを追う。1列目には録り溜めておいたのだろう、最近の連続ド ラマが並ぶ。何本かを抜き取り、後ろの列のテープを適当に探ると、 音楽関係のビデオがいくつか出てきた。そのうちの1本に、釘付け になる。 おい、と思わず声を出しそうになった。胸の奥から、切ないよう な、わくわくするような思いが込み上げてくる。見間違うはずもな い。2年も前に解散した、俺たちのバンドのライブ・ビデオ。あの 巨大ドームを3日間満席にした、伝説のライブだ。 「起きてたの?」 女が目を覚ます。 「知ってたのか?」 彼女はそれに答えず、キッチンに立った。 「俺とわかってて、誘ったのか?」 彼女が微かに頷く。 「ずっとあなただけを見ていたのよ。あなたはいつもきれいな女た ちに囲まれて幸せそうだったわね」 「ひょっとして、追っかけだった1人か?」 「あなたは目も合わせてくれなかったけど、それでも楽しかった」 当時は、女なんて取り巻きの中から選び放題だった。無論、とび きりの美女しか相手にしなかった。それですら、いちいち顔も覚え ちゃいない。狂乱のライブと馬鹿騒ぎの夜の繰り返し。数年前まで は、手を伸ばすまでもなく、たいていの物は向うから懐に飛び込ん できたものだ。 あの頃は…… 「毎日がパーティみたいだった」 俺の心を見透かしたように彼女が言った。俺たちにとっても、フ ァンにとっても、それは期限の約束されたパーティに他ならなかっ た。 そして、俺が栄光の日々の貯金を食い潰している間にも、少女は 成長し、こじゃれたマンションで自活するまでになったのだ。 「夜明けの前は一番暗いって、誰かが言ってたわね」 彼女はバーボンのロック・グラスを俺に手渡す。強い酒が飲みた いところだった。 最高の女だな。そう言いかけて、口を噤んだ。気障なセリフは、 こんな時間に似つかわしくない。 もう一眠りさせてもらうか。飲み干して、俺は呟く。 「まだ終わっちゃいないさ」
「――だから、ここで使われる過去分詞は、継続の意味ではなくて ――」 授業の続いている予備校の教室から、柴田正也は抜け出した。 行き交う人々の間をすり抜けるようにして、正也は夕暮れの繁華 街を歩く。 「分かんね」 ぽつりと呟く。 「受験に成功していい大学に行って、それでどうなるのか分かんね え。でも行かなかったとしてもその後どうやって生きりゃいいかも 分かんね」 正也は一つ身震いしてから、ジュースの自動販売機の前で足を止 める。 「ま、差し当たり授業が一番分かんねーけど」 バッグの中を探り、カード類で膨らんだ財布を取り出した。 だが、財布をじっと見つめた後、彼は再び財布をバッグに戻した。 「もう稼いでる奴だっているってのに。いや、金なんかに縛られて るから――」 自動販売機の前から立ち去ろうとした時。 「あれ? 柴田君?」 「えっ? あっ、荒島?」 振り向くとそこには、同級生の荒島祐二が立っていた。 「サボり?」 祐二は笑う。柔らかく穏やかな笑顔だった。 「そういうお前だって」 「僕ぁ、自主休講。サボタージュみたいな理念も目的もないねぇ」 「そういう意味なのか、サボるの『サボ』って」 「引っかかったね。本来はサボイアって飛行艇を作った職人が――」 「思い出したようなホラは吹かんでいい」 「へいへい」 ガタン。 「はい。少しは元気出たかい?」 「あ? え? うん、すまねえ」 祐二が差し出した缶コーヒーを、正也はためらいがちに受け取る。 かしっ。 「そんなに気に病む事はないと思うけどね。きょうび、どんな馬鹿 だって進学出来るんだし」 「だから鬱陶しいんだよ。進学しなけりゃその馬鹿以下だぜ。お前 ストレス感じねえのか?」 「ぜーんぜん」 屈託なく祐二は笑って、炭酸飲料をぐっと飲み干す。 「羨ましいもんだな」 暖かいコーヒーを舌に感じながら、正也はふと空を見上げる。住 処にでも帰るのか、烏が飛んでいた。 「鳥、か」 知らず、正也は声に出していた。 「いいよね、鳥って」 祐二も微笑んで空を見上げた。 「お前もそんな事思うんだな」 「えへへ、まあちょっと位はね」 「はぁ。実際、鳥みたいに自由に――」 自由に――。 「裸で外を歩けたらねぇ」 祐二は、とても遠い目をしていた。 「……ストレス、死ぬほど溜まってねえか? お前」
ひょんなところで意外な人に会うものだ。 信号を渡ろうとしていた時、向かい側に立っている人に気付いた。 相手もほとんど同時に気付いたらしく、ぎょっと驚いた顔になって いる。 「おお、…ひさしぶりやんか。びっくりしたで」 「うん。ひさしぶり。びっくりしたやろ?こんな大きなお腹になっ てしもうてて」 そりゃあ、そうだ。別れた彼女とばったり再会しただけでも、驚 くだろうに、こんな大きなお腹をしていたんじゃあ。私は、もうす ぐ臨月になろうとしているお腹をさすりながら、照れ笑いをした。 「元気そうやなあ。ぷくぷく肥えて」 「そんなん言わんといてえや。妊娠してんねんもん。しゃあないや んか」 「そうやなあ。まあ、幸せそうやんか。よかった」 彼は、昔のままの声で、私を眺めた。 「もうすぐ生まれそうな大きさやなあ」 ものすごくオーバーな手ぶりで、私のお腹の大きさを表した。 「もうちょっとやねん。ドキドキするわあ。」 「大丈夫や、ちゃんと生まれてくるって」 「そうかなあ。あっ、あんたんとこ、子供は?結婚したって聞いた で。もう何人も作ってるんちゃうのん?」 笑いながらそう言って、やばいと思った。前に一度、共通の友達 の言葉を思いだしたのだ。 奴のとこの奥さんなあ、なんでも子供でけへんらしいで。 「あはは、がんばってるんやけど、こればっかりは、俺様のすごい もんをもってしてもなかなかや。神さんのすることやからなあ」 屈託のない笑顔だった。 「そうやなあ。ほんま、そうや」 それぐらいしか言えなかった。 それじゃあな、と手をふる彼のむこうの空に、ひこうき雲が見え た。それじゃあね、と手をふった私は、お腹の子を今までにない以 上に大切に感じた。
昼休みになっても、中須は食欲がなかった。一応弁当の蓋を開け てはみたものの、好物のノリ弁を前に溜息が一つ出ただけ。風邪気 味だった。 「はい、これ」 顔を上げると、同じ部署の瑞恵が大きなメロンパンの入ったビニ ール袋を差出しながら、にこにこ笑っていた。中須には、そのメロ ンパンが非常においしそうに見えた。 「具合悪いんでしょ。はい、風邪にはメロンパン」 「僕に?」 「はい、ついでに買ってきました。おいしいですよ」 「ありがとう。いくら?」 「やだ。いいですよ。いつもお世話になってるんだから」 ふやけた意識のなかで、中須は絶対的な感謝を込めて瑞恵に微笑 みかけた。 と、不意に「あれ」と、瑞恵が声を上げた。「中須さんも、『む くむく抱き枕』欲しいんですか」 中須は瑞恵の視線の先を追った。机の上に缶コーヒーの空き缶が たくさん並んでいた。それらにはみな、小さなシールが貼ってある。 10枚集めると『むくむく抱き枕プレゼント』に応募できるシール だ。 「まさか」と中須は慌てて笑いながら否定した。 「じゃあこれ、貰ってもいいですか? あたし、集めてるんです」 中須は少し躊躇した。『むくむく抱き枕』を欲しがっているのは 妻だった。しかし、妻がそんなものを欲しがっているだなんて。い やそれよりも、このうまそうなメロンパンは。 「いいよ」と、中須は答えてしまった。 午後、中須の机からごっそり移動した空き缶たちは、斜向いの瑞 恵の机の上にずらっと並んでいた。潤んだ瞳でちらちらそれを見る 度に、中須の胸は少なからず痛んだ。 ねえ、何通ぐらい応募したら当たるかしら、と妻は真剣な面持ち で訊いたのだった。あたし、どうしても欲しいんだけど。じゃあ僕 が集めてあげるよ、と中須は笑いながら答えた。当たるぐらいまで 飲んでやるさ。妻は嬉しそうに、ありがとう、と微笑んだ。 メロンパンの甘味がまだ舌に残っていた。妻の手製の弁当は食べ ることができなくても、メロンパンはすんなりと腹に入ってしまい、 いまだにその至福の余韻が残っていた。 別に悪いことをしたわけじゃないさ。 中須は自分に言ってみる。が、妻にはやはり言えない気がした。 なあに、そんな変梃な枕なんかじゃなくて俺を抱いてりゃいいじ ゃないか、と心の中で呟いてもみる。が、何言ってんのよ馬鹿、と いう妻の軽蔑のこもった眼差しが瞼に浮かぶだけ。そうだよな、ま さかそんなこと。やっぱり言えないな、と中須は思った。
最近の楽しみは水曜日のゆで卵。朝4時に起きてこっそりと寝室 を抜け出し、台所に立つ。毎週火曜日は近所のスーパーで卵の特売 をやっているから、冷蔵庫には妻が買ってきた新鮮な卵が並んでい るというわけ。大鍋に水を張り、火加減に注意しながらゆでる。半 熟はいけない。じっくりと固くなるまでゆでる。 父がまだ元気で私たちと一緒に暮らしていた頃、生卵を自分の額 で割り、どろどろと顔に擦り付けながら近所を走り回るのを何より の楽しみとしていた。その喜ぶ様子をいつも2階の窓から双眼鏡で 観察していた妻は、今でも毎朝欠かさず父の遺影に生卵をぶつけて 供養としている。そんな魂の交感を思いながら、たっぷりとゆでた 20個の卵を冷蔵庫に並べ終わると、寝室からラジオ体操のメロデ ィーが流れてくる。こちらは朝の散歩に出掛ける。 朝刊二紙を見知らぬ家のポストから失敬した後、少し遠回りして 「中州」の長男の家に寄り、一部を分けてやる。住宅ローンの支払 いのため新聞も取れず、毎朝駅のゴミ箱を漁っている長男は喜んだ。 そこへ今年5歳になる孫娘のクゥーちゃんが寝ぼけ眼で近付いて 来て、 「あのね、うんとね、パパとママ、ゆうべこんなことしてたんだよ」 と云って私の股間をさすった。クイッククイックスロースローと いった風のいい手つきをしている。3年前に脳を患って以来さまざ まな部位が敏感になっているこちらはすぐにエレクトしてしまった。 クゥーちゃんはいつも無口であまり感情を表に出さない子供だが、 たまにこういうことをして私たちを喜ばせてくれる。とても気持ち のいい幼稚園児である。 橋の途中で、いつも手の込んだ料理を届けて下さる崔さんに会っ た。先日頂いたキムチのお礼を申し上げると、 「ちょっと辛すぎましたね」 と云って謙遜される。常々血圧を気にしている身としてはおいそ れと口にできる代物ではなかったが、近所の犬にやったら嬉しそう に食べていた。 「犬の口にはちょうど良かったようです」と申し上げると、崔さん は年甲斐もなく地団太を踏んだ。 散歩から戻り、居間のソファーでビールを飲んでいると、妻が来 て父の遺影をしみじみと見上げた。案の定写真立てのガラスは何ヶ 所か割れていて、卵の殻がこびり付いている。割れた部分はセロテ ープでうまく修復してあった。 「お父さん、ずいぶんしわが増えたなあ」と云うと、 「ほんと、さいきん、めっきり」 と云って妻はまぶしそうに目を細めた。
※本作品は掲載を終了しました。
第21回1000字バトルチャンピオンは、
Entry24『メロンパンの誘惑』一之江さん作に決定しました。
一之江さん、おめでとうございます。
票を得た方もそうでなかった方も、次回でまた頑張ってくださいね。
感想票をお寄せいただいた読者の皆様ありがとうございました。
なお、参加作者の皆さんに感想票をお願いしてまいりましたが、
まだまだ状況がかんばしくありません。
そこで今後、参加作者の投票義務化に向けて投稿規定の検討をいたします。
その場合、該当作なし可、感想欄空欄可、となります。
また、投票履行作者には特典等も検討の予定です。
実施開始時期と詳細については改めてお知らせいたします。
| 作品 | 票 |
|---|---|
| メロンパンの誘惑(一之江) | 4 |
| 虐待(RIBOS) | 2 |
| お菓子と手帳と(のぼりん) | 2 |
| インフルベンザ(有馬次郎) | 2 |
| 壁(杉田晋一) | 1 |
| 鳥になりたい(羽那沖権八) | 1 |
| 千字くん(時空門奴) | 1 |
| 正月すぎの餅(海坂他人) | 1 |
| 紅い唇(さとう啓介) | 1 |
| 贋・・・爺(鮭二) | 1 |
| ひこうき雲(リツコ) | 1 |
| 該当作品なし | 1 |
●メロンパンの誘惑(一之江)
●虐待(RIBOS)
●お菓子と手帳と(のぼりん)
●インフルベンザ(有馬次郎)
●壁(杉田晋一)
●鳥になりたい(羽那沖権八)
●千字くん(時空門奴)
●正月すぎの餅(海坂他人)
●紅い唇(さとう啓介)
●贋・・・爺(鮭二)
●ひこうき雲(リツコ)
●該当作なし
![]()
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。