| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | さよなら | 叙朱 | 997 |
| 2 | サラ金パラダイス | 有馬次郎 | 997 |
| 3 | それゆけデッドビッキーズ | もんでん琴戸 | 992 |
| 4 | 雪の次の日に一人の女の子が、芯から晴れわたった空の下、朝早くでかけるわ | 石井和孝 | 639 |
| 5 | セクハラ警察 | のぼりん | 997 |
| 6 | 風邪 | ななは | 681 |
| 7 | むくむくへの憧憬 | 一之江 | 1000 |
| 8 | 僕の風景 | 杉田晋一 | 721 |
| 9 | 彼岸花 | さとう啓介 | 1000 |
| 10 | 僕のマリー。 | ミヤン | 1000 |
| 11 | 顔の見えないラブソング | 鈴木 真二 | 1000 |
| 12 | 裏庭に忘れて | 川島ケイ | 1000 |
| 13 | 誕生日 | 伊勢 湊 | 1000 |
| 14 | 聴こえないレクイエム | 川辻 晶美 | 1000 |
| 15 | 眩惑 | 百内亜津治 | 972 |
| 16 | 死んだ医者の呪い | 羽那沖権八 | 957 |
| 17 | あべこべ | 耕田みずき | 857 |
| 18 | 顔 | やまだ小麦也 | 986 |
| 19 | 涙 | 太郎丸 | 1000 |
| 20 | ツグミと椋鳥とひよ鳥 | 海坂他人 | 995 |
| 21 | たいようのむすこ | meg | 996 |
| 22 | ため息 ★ | BEAN | 995 |
| 23 | 通りすがりの伝説 | map | 869 |
| 24 | 儀式 | サトコフ | 1000 |
| 25 | 地球の歩き方 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 938 |
僕たちを乗せたバスは小さな温泉街にはいった。 夏の行楽シーズンだというのに閑散としている。まるで海辺の 喧噪からは取り残されたような川沿いの小さな集落だった。 「ここで降りよう」 ぼくは章子にささやいた。 バス停のすぐ前に小さな案内所があり、日焼けした中年女がひ とりでテレビを見ていた。色落ちした看板の文字はなんとか「観 光案内所」と読める。 「ごめんください。旅館を紹介してもらえませんか」 「はいはい」中年女は素早く僕たちの身なりを一瞥した。 「ご予算は?」 「安いところをお願いします」 章子が間髪入れずに答える。 「はいはい」中年女は電話を取り上げた。「1泊ですよね」 「ええ」 「あ、花火だよ」 僕の肩を章子がつつく。 店先に花火が置いてあった。売れ残りなのだろう。ビニール袋 に入った花火の束は歪んでしわになっていた。 「ね、ね、花火しよう」 章子がせがんだ。今にも花火を手にとりそうだ。 「だめだよ。これじゃ、しっけちゃって火がつかないよ」 花火からも章子からも視線を避けて、ぼくは頭を振った。 「でもさ、この花火、私たちみたいじゃない? しおれて、疲れ て、絶望的で……」 「お客さん、宿が取れましたよ」 中年女が地図をくれた。章子はまだ花火に未練がありそうだ。 「お客さん、その花火を持っていっていいよ。もっとも使いもの になるかどうか、わからんけどね」 「え、あ、ありがとう」 章子は飛び上がって喜んだ。 そんなもの貰ったってしょうがないのに……。 ぼくは地図を片手にさっさと歩き出す。 「ああ、嬉しい。なんだか私たちみたいだもの、ね、ね」 章子は愛おしそうにくしゃくしゃの花火パックを胸に抱いた。 花火なんてぱっと輝くのはつかの間で、すぐにさよならなのに。 でも……、とぼくは気づく。 さっきまでは、ぼんやりと空気に溶けてしまいそうな章子だっ たのに。それが今、坂道をくだる彼女の後ろ姿が、夕闇にはっき りと弾んでいた。 たったひとつかみの花火。 つかの間の、花火の時間への期待。 「夕飯前に、花火もいいか」 「うん、楽しみ」 僕はあっけなく、ほっとしていた。 ほんの少しだけ、幕引きを先送りできたような気がして。 でも、そうやってもう何回、日めくりをしてきたろう。 まったく。 (了)
僕は、今でもよくわからない。 マチ金に手をだし自殺...。サラ金地獄で一家離散...。腎臓も目も 売れないので首吊り。 「武井君、この記事おかしいよね」 「うん。まあサラ金に地獄のイメージは付きまとうけどね」 僕はタバコを消し、ため息をついて内心で呟く。それなら銀行も金 貸しじゃないか。その親玉が、羨望のまとのエリート日本銀行だ。 その子分達が自己責任、つまり自分の尻もふけずにしっかり高給ぶ ん取って、銀行がつぶれそうになると、税金で立直す。しかも見事 に正当化してね。 僕の会社が自己責任でおかしくなっても、税金は助けてくれないよ。 ウジ虫以下だね。あいつらは。 眉間にしわを寄せた僕を見て武井君は心配げに缶コーヒーを差し出 した。 「地獄ではなく天国だよ」 「え!なにが」 武井君は、天国って何?という顔だ。 サラ金、マチ金、ヤミ金、ヤクザ金どれをとっても非常に好感がも てるよ。銀行と比較するとね。 第一、嘘がない。高利で危ない。実にシンプルだ。恐くて逆に心地 よい。そして彼等は銀行にとって特上の客でもある。大多数の人に 無料でティッシュまで配ったりもする。何度下痢の時に助けられた ことか。 「何でサラ金が地獄だよ、銀行相手に死んだ奴だっているよ」 おもむろに財布を開く僕を見て武井君は、目を白黒させた。50万 はある。 「やっぱり天国だよ、サラ金は」僕は小声で財布をしまう。 昨晩は、接待で赤坂で飲んだけど、支払いの時の女の娘は武井君と 同じ目をしていた。半分潤んでいたと言った方がいいかな。 現実に僕の財布には、いつも50万は最低入っている。 週末には無くなり、翌週初めにはまた50万。 先週土曜日、三越のネクタイ売り場では、支払いの時店員にデート の約束と携帯番号まで聞き出した。 彼女の瞳は淡いブルーのセロファンがかかった冬の鯔みたいに、ど うにでもしてェと訴えていた。僕は驚いて膝がガクガクになり、唾 をゴクリと飲み込んだくらいだ。乳首の突起まで見えた気がした。 話を元に戻そう。厳密に言えば、週末に50万無くなるのではなく 丸まるお返しするといった表現が適切な気がする。 「限度額内なら、一週間以内に返済すれば無利子の消費者金融があ るんだ。上場した立派な会社だ。地獄どころかパラダイスだよ。 ただ、次の事を厳守すればね。その金には一切手をつけない。そし て紛失しない。盗まれない。後はくり返すだけだ。出し入れをね」 武井君は、仏の顔で静かにニンマリと頷いた。
「お前ら、一度、自分達でなぜ弱いか考えてみろ」 監督は自分の部屋へ僕達を招き、僕達だけでミーティングをさせ た。僕達とは少年野球チーム「デッドビッキーズ」のメンバーだ。 ここら辺りでは、毎年リーグ最下位の弱小チームとして有名で、こ のチームに入ってくるのは、他の強豪チームではヘタクソで試合に 出させてもらえない連中だ。 僕もその一人。 僕の場合さらにこのチームでも補欠なので、救いようのないヘタ クソということになる。ヘタクソの言い訳になるのかどうかわから ないが、僕は喘息を患っている。いや、やっぱりこれは言い訳だな。 日本中に喘息を患っている野球少年は沢山いるはずだ。そしてみん ながみんな、僕みたいに野球がヘタクソだとは限らないもの。 みんなでミーティングをしたところで、何か解決策があるわけで もない。やがて野球とは関係ない、テレビやゲームの話が盛り上が り始めた。 その時突然、監督が一本のビデオテープを持って部屋に入ってき た。 「今からお前らに映画を見せてやる。これを見て、どうしたら強く なるかもう一度考えてみろ」 監督が見せてくれた映画は「がんばれベアーズ」という、僕が生 まれる二十年ほど前の少年野球を題材にした映画だった。主人公の 酒ばかり飲んでいる監督が、僕達と同じような万年最下位の少年野 球チームを強くする話だ。 芝生の上で野球をしたり、まだ子供なのにバイクを乗り回したり、 ピッチャーが女の子だったり、、僕達とは全く環境の違う世界にま ず驚いた。映画はそのバイクに乗る少年と、ピッチャーの女の子が 途中から加入して、ベアーズは快進撃を始める。 そして決勝戦、酒飲みの監督は大接戦の終盤に、日頃出番のない 補欠の選手達を起用する。おかげでベアーズは大量失点をするのだ が、その補欠メンバーの一人である僕と同じ喘息もちの子供が、あ わやホームラン性の大飛球を好捕する。このプレーで盛り上がった ベアーズはその裏猛反撃をし、結果的には追いつけなかったものの、 彼らは勝利以上に大切な何かを得るのである。僕はその同じ喘息少 年を自分と重ねてしまい、感動して涙が出そうになった。しかしさ すがにみんなの前では涙は見せられない。 映画が終って監督が言った。 「どうだ。少しはわかっただろう。強くなるには上手い選手を連れ てくることだ」 その晩、僕は風呂場で陰毛が生えていることを発見した。
空が広かった。 その空一面の雪。 それが昇ってゆく。 そう見えるとかそんなんじゃなく、本当に、吸い込まれるように、 まっさおな空へと昇ってゆく。 見つめている雪たちが、とけて雨となり、頬を濡らす。 とても、気持ちよかった。 昨日の夜に降った雪は、薄い布をかぶせるようにつもった。 けれど、今はもうない。 みんな、空へ行ってしまった。 首がつかれるくらいに空を見上げていたら、空に雪でないものも昇 りはじめた。 小さな埃。枯れ葉のかけら。 靴底の薄くなったスニーカーのせいで足の裏がむずむずする。 わたしは、下を向いて小さく跳ねた。 着地して、舞い上がった砂が、そのまま昇ってきて顔にあたる。 あわてて眼をつぶった。 そのままじっとしているのに砂つぶのあたるのがとまらない。 仕方なく、そっと、眼をあける。 すごい。 それは、砂漠の砂あらしのなかにいるような光景だった。 小さな小さな砂つぶたちが一斉に昇ってくる。 でも、風は感じない。 砂浜に寝ていて上から砂をかけられたような感じ。 ただ、砂たちが地面から落ちて降りつもる。 わたしはたえきれず空をふりあおいだ。 せきとめられていた砂たちが、飛び立つように空に落ちてゆく。 もう、太陽も見えない。 足がもっとむずむずして、体に砂が降りつもる。 わたしは両手をいっぱいに広げた。 そうして空へと落ちてゆく力を少しでもたくさん感じたかった。 肩まで伸ばした髪の毛の先が、ゆっくりとはねるようにまがり、落 ちてゆく。 そうだ、何もかもが 空へ……落ちてゆく。 わたしはすごいわくわくした。
最近、警察の不祥事が続く。 0県警の射撃訓練場で、教官が女性刑事にぼこぼこにされるとい う事件が起きた。教官が訓練中にセクハラ行為に及んだというのだ。 ところが、そのワイセツ教官を取り調べる刑事たちは皆彼の教え 子である。取調室は、どうもいやな雰囲気になった。 「えっと…」 見ると教官はぐったりとうなだれて、とても情けなさそうだった。 その顔はバンソウコウだらけで、痛々しく腫上がっている。 「君、被害者の主張を読んでくれ」 主任刑事に指名された新米刑事は機械のような声で読み上げた。 「射撃スタイルを指導するのに、私の身体を触ることは我慢できま した。でも、その後、耳元で『パンティー売って』って囁いたのよ。 こんなひどいセクハラ許せませんわ」 「…ということです」 「ぬ、濡れ衣だ」 「教官!」 うろたえる老教官を見て、主任刑事が残念そうに話し掛けた。 「まさか、あなたが女性の下着を集めるのが趣味だとは思ってもい ませんでした。こんな事件を起こす前になぜ相談してくれなかった のですか」 新米刑事は、もし相談したらどうなっていたというんだろう、と ふと思った。 「僭越ながら、私の妻の下着を差し上げることもできたのですよ」 …そういう問題ではあるまい。 彼は、先日家へ食事に呼ばれて、初めて会った主任刑事の奥さん のことを思い浮かべていた。それこそ、セクハラだ、と否応なく思 う。 教官は相変わらず、かたくなである。自分の犯した罪を認めよう としない。 「訓練中に彼女の体に触りましたね」 「射撃スタイルの指導をしていたのだから、体に触ることもある。 誤解だ。すぐに釈放してくれ」 立場の逆転というものは人間をここまで動揺させるものらしい。 老教官の姿は、人生を誤り、その道を踏み外してきた者のそれと何 から何まで同じだった。 「パンティを売ってくれといったのですね」 主任刑事の事務的な追求に、老教官は、血相を変えて叫んだ。 「違うんだ。スタイルが決まったから、『ぱーんって撃って』と言 ったんだ。信じてくれ!」 「な、なんですって…ぱーん!」 「そうだ、ぱんだ、ぱーん。あんなブスのパンティなんかほしがる 男なんかいるものか」 突然、主任刑事の顔色が変わった。 横で聞いていた新米刑事は事の成り行きに身震いした。 「やっぱ、一度ブタバコに入ったほうがいいようですな」 哀れな老教官はこの主任刑事とセクハラ女刑事が、署内で不倫の 関係にあることを全然知らなかったのである。
やっとあなたに会える月曜日がきた。とても楽しみにしているの に今日も体調が悪い。風邪をひいたみたい。先週の月曜日も風邪だ った。あなたに会える日はいつも風邪をひいている。まだ半分眠っ ている身体を軽く動かし、枕もとの冷たい体温計を手にとる。 「ゲホ、ゲホッ。」 熱くなっている身体の内側からせきががまんしきれずとびだしてき た。冷たい体温計をゆっくりとわきにさす。カーテンの隙間からさ しこむ光が、不安げな私を激励してくれている。 −ピ・ピ・ピッ− わきから抜いた体温計の先っぽがなまぬるい。 「37度8分かぁ−。やっぱり病院行こ。」 7時30分。のそのそと身じたくを始める。冷たい水で熱でほて った顔をやさしく洗う。 そして洋服に着替える。お気に入りのシルバーグレイのシャツに、 光沢のある台形のミニスカートを身につけ、上から黒のコートをは おる。最後に鏡台にむかって髪をとかし、念入りに化粧。さぁ、さ っさと病院へ行こう。とかばんを持って玄関へ向かう。 今日も混んでいる。総合病院はいつも混んでいる。15番目に並んで いた私にようやく順番がまわってきた。 「はい、どうぞ。内科の前でおまちください。」 癒し系の笑顔で事務のお姉さんが診察券を返してくれた。 「さくらさん、さくらさやかさーん、内科おはいりくださーい。」 ようやく私の順番だ。とても長い間待ったかいがあった。 「さくらさん、もしかしてまだ風邪なおってないのかな?」 一週間ぶりのシバタセンセイの白衣姿。 『センセイやっと会えた−。』 会いたかった−。 昨日、寒さを我慢して裸で寝た時のむなしさを思い出したと同時に 我慢していたセキと涙があふれてきた。
買い物帰りに、渓子は自販機で缶コーヒーを買った。缶の側面に は小さなシール。10枚集めると『むくむく抱き枕プレゼント』に 応募できるシールだ。大事そうに手提げに入れた。 何でそんなの欲しいんだよ、と夫は呆れ顔で渓子に訊いたものだ った。渓子の目的は『むくむく抱き枕』だった。特に理由なんかな いわよ、と渓子はぶっきら棒に答えた。気に入っちゃったんだから 仕方ないじゃない。 家に戻ると、渓子は台所で缶コーヒーを飲んだ。家庭の主婦がこ んなの飲むなんてね。おいしいコーヒーをいくらでも入れられるの に。だけども。そう、夫だって協力して飲んでくれてるんだから。 げ、と最後にげっぷを一つ。 電話が鳴った。 「奥様でいらっしゃいますか」と、受話器を取り上げてすぐに相手 はにこやかな声で言った。「キャンペーン期間のお知らせなんです が」 エステサロンのセールスだった。 「特に興味はありませんので」と、渓子は受話器を置こうとする。 「あら、顎のたるみとかございません?」 「……」 「まあ、スマートでいらっしゃいますのね」 渓子は黙って受話器を下ろした。 陽が傾いてきた。ベランダに出て、干していた布団をバンバンッ と叩く。ふと見下ろすと、毛むくじゃらの犬を連れた若い女が軽快 な足取りで通り過ぎていった。艶やかな髪が風になびくさまについ 見とれる。 布団を寝室に取り込むと、渓子はドレッサーに飾ってある写真に 目をとめた。結婚式のときの写真。マーメイドラインのウエディン グドレスが、スレンダーな体型にお似合いだ、と友人の間でも好評 だった。その頃は本当にスマートだったのだ。 鏡に映った自分の姿に冷ややかな視線を注いで溜息をつく。 気にすることはないさ、と夫は頻りに言った。とにかく健康なん だからさ。そんなこと言ったってあなた、と渓子は頬を少し膨らま せた。何だい。言ったって言ったって、と渓子はただ繰り返して視 線を逸らした。 渓子は台所に立った。夫の帰りはどうせまた真夜中だ。夕食を待 つのなら、その前に何かお腹に入れておきたい。こんな生活だから 自分は太ってしまうんだろうか。 テーブルの上の空き缶が目にとまった。シールを剥がして台紙に 貼り付け、そこに載っている『むくむく抱き枕』の写真をじっと見 つめる。変梃な目鼻に変梃な体。だけどそれは、渓子の心を激しく 惹き付けたのだ。そっと指を寄せた。 渓子の目にはそれが、夫の寝姿にそっくりに映っていた。
僕は呼吸を整え、目を瞑る。周りの音などは無いにも等しくなる。 僕に残されるものは暗闇。暗闇の中に何かを見つけようとする。呼 吸がある。空気。その二つだけが残る。他は全て無くしてしまう事 ができるのだ。光も無くなってしまうし、想い出も自分が頼ってい たものさえ無くなってしまう。そこには暗闇と空気だけ。 しばらくして、閉じていた目を開いた。そこは中庭の芝生の上だっ た。日は高かったが、陽気は僕をいきなり、現実につれていく事は 無かった。 となりには彼女が寝そべっている。彼女は呼吸と暗闇には負けてい た。 彼女はもう21になるにもかかわらず、幼い表情に小さな体を持っ ていた。双子は体が弱いと聞いた事があったが、彼女も例外ではな かった。僕は、暖かくなってきてはいるが、もしも、彼女が風邪を ひいてしまってはと思い、眠ってはいないだろう彼女を起こして、 場所をかえることにした。 彼女は僕の事を何でも知っていた。僕が経験したことや考えること を話さずとも知っていた。僕が長野の田舎で暮らしていたことがあ るというのも、僕をみるだけでその風景が解るという。僕は敢えて その風景を思い返そうともしなかったのに。 始めは彼女を普通の女と見ていたけれども、過ごしていくうちにか けがえがなくなってしまった。彼女はいつも何を考えていて、何を 見ているのだろう。彼女の目を見ても、僕だけが映っている事など 一度もない。きっと、空や大地の色が混じっていた。僕はそれを寂 しく思う。 僕は彼女が僕だけを見ていてくれるようにと面白いこともたくさん やった。道頓堀の道すがらで腕相撲もしたし、グリコにも登った。 彼女は笑っているだけで、そこには大阪の小さな空しか映っていな かった。 時間はそんな僕達にも例外でなかった。
僕が東京に転勤してもうすぐ1年。 「高杉君、今度の土曜日、自分の代りに林先生の写真展に行ってく れないかな」 髪の少ない部長が可愛そうだったので、すんなり「いいですよ」と 聞き入れてあげた。 「妻も一緒で」の了解も得、林先生の写真展に行くことになった。 初春の土曜の昼下がり、久しぶりに妻と二人で表参道を歩く。 街路樹の根元には、まだ小さいがくっきりとした黄緑色の雑草が、 緩やかな傾斜の陽射しを受けて輝いている。 「あったかいわ」 「そうだね」 「林先生って、どんな人」 「若い女性で美人さ」 「私より?」 「……」僕は妻の手を握って、微笑みながら首を振った。 妻はほんのり、嬉しそうにはにかんだ。 白い石の建物。 受付を済ませ中に入ると、薄い櫻色のシルクの壁にゆったりとした スペースで写真が展示されていた。 妻はゆっくりと進みながら 「勝手に見てもいいかしら」 僕が軽くうなずくと、嬉しそうに奥へ進んだ。 僕は一枚の写真に目をとめた。 『風の姿』とある。 緑色の草の中、たくさんの黄緑色に光る茎が、手のひらでも広げ た様な紅い花を右に左に揺らしている。 彼岸花。秋のお彼岸を中心に咲く紅い花。 可愛らしいもので、その年の夏が暑くても涼しくても決って花をつ ける、そのしっかりとした茎が好き勝手に踊っている様な作品だ。 「あら、高杉さん」 優しい声に振り向くと、林先生が立っていた。 「こんにちは」 「ハゲから聞いてましたわ、高杉さんが来る事」 僕は照れ笑いを浮かべた。 林先生は、僕の瞳を見つめ微笑んでいる。 「あなた、お知り合いの方?」 妻が先生の後ろから声をかけてきたので、僕は簡単に妻を紹介する。 「お奇麗な方ですのね、高杉さんとお似合いですわ」 そう言って、先生は僕にウインクをし「ごゆっくり」と言い残して 別の来客へと行ってしまった。 妻はゆったりとした瞳で 「ホントに美人な方、可愛く鼻毛が出ていたわ」 僕はそう言う妻を見て 「君も出ているよ」 「知ってるわ、でもあなたもよ」 妻は言うなり、僕の鼻毛をゆっくりと抜いた。 右目から涙が出たが、妻の優しさに触れられて僕は幸せだった。 帰り際、妻は林先生のも抜いてあげた。 林先生もまた、妻の鼻毛を抜いてくれた。 そのやり取りは、とてもほのぼのとして僕の心に残る風景だった。 表参道に出ると、妻が水色の空を見上げ 「楽しいわ東京って、鼻毛がすぐ伸びるんですもの」 妻は左の頬を彼岸花の様に紅く染め、可愛い顔をして言っていた。
朝起きてから彼女は全てのものに嫌悪感を覚えてみた。 完全に目覚める様に促す目覚まし時計も、風のない穏やかな空も澄 んだ空気も、小さな子供たちの笑い声さえも憎らしかった。 彼女の仕事は主に、銀色の物体を効率良く循環させることで、それ でも開いた扉の中身が充分潤っていることを確認すると、全てに嫌 気がさした。 彼女の気付いていること全てに気付きもしない若い男にも、髪の毛 をひとつで束ねた若い女にも。 彼女は全ての人が思うことがあるように 「わたしっておかしいわ。少し変だわ」 と、思わないこともなかったが、全ての人がそうであるように至っ て正常だった。 泣くなといわれて涙を止めることも出来なかったし、笑うなといわ れて笑いを止められないように。 お腹が空けばなにか食べ物を探すように。 目の前にあるものが実は自分の頭の中に投影されたものでしかない ことも、彼女の貧相な身体が血と骨と肉で出来ていることも、ちゃ んと知っていた。 彼女は時々、酷く幼い少女のようだったし、また、自分が誰だった のかも忘れてしまった人の様だった。 彼女の精神は分裂してはいなかったし、他の人たちと同じように、 彼女は全てが自分だということを知っていた。 それぞれをつくり出したのが自分であることも知っていた。 「人って多面体だから」 と、彼女はよく口にしていたが、自らつくり出したキャラクターを 完璧に演じ切ることに、エネルギーを注いでいた。 時々、自分はどれかひとつなのだと確信し、それがわからなくなっ て狼狽えているようだった。 彼女はまた、見知らぬ男たちとばかり交わりたがった。 「その方が後腐れなくてよいもの」 と、彼女はよく口にしていたが、実際はそうはしなかった。 全ての男たちに彼女自身の雌を曝すのを、非常に恐れていた。 愛についてよくこういっていた。 「そんな馬鹿げた感情をどうのこうのいうのは、愚かな人間だけよ。 愛って言葉を持ち出して、自分たちの性欲を正当化したいだけなの よ」 そのくせ、特定の男からの連絡を寝ないで待つような日を過ごした りしていた。 彼女は独りぼっちが嫌いだったが、自ら好んで独りになりたがった。 あぁ、マリー。 君には僕がみえない。 君の頭の中に巣食うこんなちっぽけな僕に、気付くはずがないんだ。 これだけ君のことを理解していても。 あぁ、僕のマリー。 僕の思考でさえ、君の一部でしかないんだ。 彼女は常人と狂人に境がないことも、もう、ずいぶん前から知って いた。
亜紀は、もうすぐ35歳。 <ミソジ>・・・女にとってなんてイヤミナ言葉なのだろうか。 体の女の部分が自然に腐ってくるような錯覚。 「あぁ〜、いやだ」そう思いながらまた寝室の掃除を始めと、 久しぶりのベットシーツ残る痕跡に気がつく。 夫婦の愛の確認は、いつも夫健二の一方通行だった。 その間たったの5分。「あぁ〜」と言う僅かなうめき声で終わる 夫婦の会話。女を置き去りにされた空しさだけが残る瞬間だった。 夫は、大会社のエリート。何一つ不住のない恵まれた専業主婦の 自由空間。良妻賢母を演じる毎日。それが亜紀の人生の保険証だ った。その反面、心の奥に潜む女しての渇望。 「退屈・退屈・退屈 〜」心で叫び、もがく毎日。しかし、まる で羽を切られ飛べない小鳥のように、偽装された幸せの籠の中に 飼われている自分。そんな葛藤を繰り返す毎日だった。 そんな亜紀の癒しは、インターネットの世界で「KISS」を演 じ、拓也との「顔の見えないラブソング」を交わす時であった。 最初はメル友で始まった2人の関係は、100通目で愛に変った。 お互いに自然にメールに書いた「愛」「欲しい」と言う言葉。 それを合図に、手と心が繋がれたような錯覚と拓也と言う偶像へ の愛の陶酔がKISSから亜紀自身に広がっていくのである。 拓也からのメールは、日増しに亜紀に容赦のなく愛の言葉を浴び せ、そしてSEXを誘惑するようになった。 亜紀が忘れかけていた女の炎は、激しく燃え盛り、やがて人妻と 言う躊躇いが消えて行く。そして遂に出会いの時が来たのである。 3月16日に遂に運命の時が来る。不倫という罪悪感が急速に広 がる。それよりも恐かったのは、拓也との現実の出会い。そして、 拓也からの亜紀に対する幻滅感とその先にある「別れること」へ の恐怖だった。もう「ラブソング」は終わりにしよう。そう決断 し約束の場所へ行く。拓也は、帽子を深くかぶりベンチに座って いた。一歩一歩、亜紀は拓也に心の空白を埋めるように近づいて いく。そして、現実に見た拓也の顔は、夫の健二だったのである。 「貴方、何故」亜紀は、驚愕した。しかし健二は、亜紀を引き寄 せ、熱いキスを求め亜紀は、素直に受ける。「愛してる」という 言葉が背中に響いた。
「忘れちゃったことって、どこに行くの?」と、幼いころ、私はい ろんな人に訊ねていた。記憶をなくしてしまう、ということがすご く不思議だったのだ。きっとそれはどこかに落ちてたりしているは ずで、跡形もなく消えてしまうなんてことはないだろう、と思って いた。 「裏庭に埋まっとるわい」と祖父は言った。私の問いに明確な答え を出してくれたのは祖父だけだった。 その言葉を聞いて、私は家の裏庭をスコップで掘りまわし、さん ざん探した。だけど出てくるのはガラスの破片とか、ミミズとか、 そんなものばっかりだった。 そんな私の姿を見て母が「ヘンなこと教えないでくださいよ」と 祖父をたしなめると、「ウソなんかついとらんよ。ウソつきは天国 に行けんからな」と祖父は言ったものだ。 そして私はときどき、そのことをふと思い出しては、裏庭を掘る のだった。それは、小学校を卒業するぐらいまで続いた。 祖父が死んだのは、私が大学の二年生になったころのことだ。大 学に入ってから実家を離れた私はしぜん祖父との交流も少なくなっ たのだけど、代わりに手紙のやり取りをしていて、見せつけるよう に楽しい出来事を書き綴る祖父の手紙を見ては、その元気さに感心 すると同時に半ばあきれたものだった。 だから、祖父の死はあまりにも唐突で、まるで実感が湧かなかっ た。そんなのちっとも似合わないよ、と思った。 ぜったいに泣くまい、と決めていた。祖父が死ぬだなんて、まっ たく冗談みたいなものだから、笑いとばしてやればいい。だけど私 のその誓いは、祖父の面影なんてまるでなくなってしまった白いぼ ろぼろの骨を見て、もろくも崩れた。 葬式のあと、部屋にしまってあった古いスコップを取ってきて、 私は裏庭を掘りまわした。母の心配する声にも耳を傾けず、私はと にかく掘った。 真夜中になるまで続けたが、結局ろくなものは出てこなかった。 いいのだ、べつに期待なんてしてはいなかったから。 私は、掘り起こした土の中にスコップを置いて、丁寧にそれを埋 めた。さんざん裏庭を掘ったスコップだ。 祖父もこれで天国に行ける。本当に、思い出は裏庭に埋まってる んだから。と、そこで私は気がついた。裏庭に埋まっているべきは、 なくしてしまった思い出だ。スコップのことを私がすっかり忘れて しまわないと、祖父は天国に行けない。 枕元に立って、忘れろ忘れろ、と念じている祖父の姿を思い浮か べて、私はつい、笑ってしまった。
教会の中はあったかくて、テーブルの上にはごちそうが並んでい る。友達もたくさんいるし、パパ先生もかえでママもとても優しい。 今日はぼくの誕生日で、こんなに楽しい誕生日は初めてだ。 去年の誕生日まで、僕も弟のりょうすけも誕生日のお祝をしても らったことがない。部屋はいつも寒くて、お父さんはいつも怒鳴っ ていたし、お母さんはいつも泣いていた。ぼくが五才の誕生日には お父さんはお酒を飲んでてすごく怒鳴るから家にいられなくて、り ょうすけとお母さんと三人で雪の中を歩いた。四才の時にはプレゼ ントが欲しいと言ったらお父さんにたたかれた。三才のときは確か お母さんがずっと泣いてたと思う。それより前は憶えていない。あ と去年の誕生日のことも途中からよく憶えていない。 去年の誕生日にもお父さんはお酒を飲んでいた。そしたらお母さ んが帰ってきた。手に見たことのないおっきなまるいケーキを持っ て。「うわあー」ぼくは嬉しくて声をあげた。そしたらお父さんが すごく怒って、お母さんをたたいた。ぼくとりょうすけもたたかれ た。いつも泣いてばかりのお母さんが怒鳴り返してた気がする。で もその後のことはよく憶えていない。ケーキの味も憶えていない。 あの次の日から教会に住んでいる。友達もたくさんいるし、パパ 先生もかえでママもとても優しい。あれからもう一年になる。りょ うすけは先月が誕生日でプレゼントにグローブを貰っていた。まる いケーキも目の前にあって、飾りのチョコレートにぼくの名前も入 ってる。ぼくたちと同じで本当のお父さんとお母さんがいない友達 が歌をうたってくれる。パパ先生はいつもここにいるみんなは兄弟 とおんなじで、パパ先生とかえでママは本当のお父さんとお母さん とおんなじだって言う。ぼくはたぶん幸せで、こんなに楽しい誕生 日は初めてだ。 ろうそくの火を消すとみんなが拍手しておめでとうって言ってく れた。パパ先生がぼくに聞いた。 「なにかほしいものあるかい?」 なんだろう?考えてなかった。 「なんでもいいから言ってごらん」 なんでもって言われて、なんか急に込み上げてきた。りょうすけの 方をちらっと見た。 「お父さんとお母さんにあいたい」 おかしいな、どうしてだろう、こんなに楽しいのに。なんか涙でて くる。 パパ先生とかえでママが、ぼくと、いつの間にか泣き出したりょう すけを抱き締めてくれた。 その夜、ぼくとりょうすけに、新しいお父さんとお母さんが出来た。
ある昼下がり、知らない男の人がやってきて、僕を車に乗せた。 ひょっとして、パパとママの元へ帰れるんじゃないかと、一瞬、僕 の心は弾んだ。けれど、お惣菜屋のおばちゃんが血相を変えて走り 寄るのを見て、僕は本能的に自分の死を予感する。ハムをくれる肉 屋のおじちゃんや毎朝僕に声をかける女子大生のお姉さんも集まっ て、男をひきとめようとするけれど、彼は無表情のまま車を発進さ せた。お姉さんの叫び声が次第に小さくなって、車は優しかった人 たちから遠ざかった。 「よ、ワン公」 連れてこられた場所で入れられた小さな箱に、毎日餌を運んでく る若者が初めて声をかけてきた。 「街の人たち、お前の飼い主を探すんで、躍起になってるぞ。運が 良きゃ、ここから出られるかもな。ま、明日の朝がリミットだけど」 やっぱり、パパとママは迎えに来ない。わかりきっていたことじ ゃないか。パパは仕事をなくして、家も手放す事になって、もう僕 とは暮らせないと言った。パパは何度も謝りながら、僕を、あの街 に置き去りにした。 翌朝、僕は窓のない小部屋に移された。 「恨まないでくれよ」 若者がそう言ってドアを閉めた瞬間、身が竦んだ。なぜ、僕はこ んなところに? 吠えるから? ゴミ箱をひっくり返すから? い じめる人もいたけれど、僕は街の人たちと、うまくやってきたじゃ ないか。息が出来ない。内臓が破裂しそうだ。僕は誰も噛んでいな い。僕は猫をいじめていない。どうして、誰が僕の死を決めること が出来るの。 苦しみから開放された時、僕は空へ続く坂道を登っていた。途中、 あの街が見えた。公園の砂場で、お姉さんが泣いている。僕らが初 めて出会った場所だ。あの日、お姉さんはミルクを買って僕に飲ま せ、僕に新しい名前をくれた。 「シロは天国へ行けたかしら?」 「アパートじゃ飼えないからって、張り紙したりインターネットで 呼びかけたり、あんた精一杯やったよ」 お惣菜おばちゃんがお姉さんを慰める。 「出来ることはみんなやったんだ。シロの運命だったんだよ」 ハムおじちゃんが言う。 僕のために泣いている人がいる。だから僕にも、生まれてきた意 味はあったらしい。 もう、いいよ。 僕はお姉さんの背中に語りかけた。 聞こえるはずのない僕の声が届いたのか、お姉さんはようやく立 ち上がって呟いた。 「人間だけの地球じゃないのに」 おばちゃんが頷いて、僕の好きだったシュウマイを、お花の横に、 そっと添えた。
朝、いつものようにトイレに閉じこもっていると、玄関のドアを 開ける音が聞こえた。それから足音が近づいてきて、わたしのいる トイレの前で誰かが立ち止まったような気配がした。一体どういう ことなのだろう。そして、ふう、という柔らかい溜息が聞こえてき た。 「それにしても君……」 薄い壁を隔てて声がした。若い男のような声。 「物事に必ず始めと終わりがあるように、君だって君の会社だって そうじゃないか」 こういう場合、答えるべきでないことは本能的に分かっていた。 「例えば君が好きだという“あけみちゃん”。あれは付加的効力に 反する人物だというのが専らの噂だ」 わたしは思わず“あけみちゃん”を頭に浮かべてみる。それにして も、どうしてこんなに愛している人ほど、イメージがぼやけてしま うのだろう。 「すべては君自身の責任だ。人的抗弁の無限責任を負わされるとい うのは君にとって不本意だろうが、それが“必然”である以上、君 は何の口出しもできないはずだ」 何だか胸の辺りが苦しくなってきた。その感覚は、悲しみの平行線 上にあるように思われた。ああ、どうしてこいつはこんなに馬鹿な んだろう。 「こうしたことは、だいたい人間の卑劣な責任回避の口実に過ぎな い。そうした願望が君たちをどこまでも苦しめつづけたことだって、 当然といえば当然のことだ」 果たして永遠の愛とは一体どういう形をしているのだろうか。わた しは映画「タイタニック」を2回も見たので、船の形をしているよ うな気がするのだが。 「君には何も分かっちゃいないんだ。今や可逆的になった時間は、 それぞれの用途に応じて様々な仕方で分断されていくだろう。すな わちあらゆる善と悪が渦巻状に交錯して、これら手の施しようのな いアホどもを縛り付けるんだ」 締め付けるような苦しみは押し出される困惑に変わり、そしてそれ はマイナス90度反転して湧き上がる怒りに変わることだろう。 「本質的な部分に近づくにつれて、それはある種の美しさを帯びる ようになる。哲学は一種の詩だからね」 奴はそう言うと、ふっと鼻の先で笑うのだった。 わたしは突然激しい興奮が胸の奥の奥から駆け上がってくるのを 感じた。それと同時に立ちあがって、ドアを激しく押し開けた。目 の前には、わたしと同じぐらいの背の「キリン」が立っていた。 「待ってたぜ」 奴はその薄茶色の口元を緩ませて、ニヤっと笑うのだった。
「寝台車、鈍いな」 男は狭い寝台に横たわったままで、呟いた。 「本当鈍い」 何度目かの寝返りを打ってから、ぎりりと歯を噛み鳴らす。 車輪がレールの継ぎ目を通る、ガタンゴトン、という音の幅が限 りなく広い。 「もっと速く進めよ」 寝台車は、乗客たちの苛立ちも知らぬ風に、夜の闇をただひたす らゆったりと走り抜けていく。 「っ」 舌打ちして、彼は身体を起こす。低い天井に頭をぶつけないよう にして、かたわらのバッグを掴んだ。 「ったく、鈍い」 自分の呼吸のリズムを意識的に早めて、ぎゅっとバッグを抱き締 める。 ピン・ポン・パン・ポーン。 「!!」 男はびくっと肩を震わせる。 『お知らせします。信号機故障のため、現在藍川本線は全車両徐行 中です。次の停車駅、東藍川へは定刻より一時間遅れて三時十分の 到着となります。ご迷惑おかけします事を心よりお詫び申し上げま す』 放送が終わると同時に、寝付けなかった他の乗客たちの小さな話 し声が聞こえ始めた。 (午前三時に東藍川だと? それじゃあ、成田にはいつ着くってん だ) 男はじっとバッグを見つめていたが、決心したようにコートに袖 を通した。それから、寝台から降りた彼は、出入口がある車両の連 結部に来た。 ドアに付いた窓から外を伺う。雲が出ているらしく空は漆黒で、 山の稜線が僅かに白んでいた。手前の水田や農家がゆっくりと動く のが、暗闇の中でも見える。 (これでは無茶か? いや、もう少し鈍くなれば) その時。 暗闇の中に、一筋の光が見えた。点滅する赤い光。 (!!) そして、それに呼応するかのように列車はスピードを落としてい く。どんどん落としていく。もう、歩く早さと変わらない。 (確かこの先に――よし、このスピードなら大丈夫の筈だ) 男はドアの横に付いている非常レバーを引いた。そして、ドアを 手で開く。 吹き込んでくる激しい風と、遠くから聞こえるパトカーのサイレ ン音。そして今正に、寝台車は川に掛かった橋を渡ろうとしていた。 「今だ!」 男は寝台車から身を踊らせた。 やけにゆっくり、水面――いや、瞬く間に水面を通り過ぎて、河 原のごつごつとした岩場――が近付いて来た。 一瞬だけ見えた水面には死んだ医者の顔が、数時間前に男が殺し、 金を奪った医者の顔が、映っていた様に感じられた。 「寝台車、思ったより、速い……」
「加津美、おやつよ」 広美はシュークリームとジュースを乗せたトレイを片手に、ひと り息子の部屋をノックした。だが、確かにいるはずの息子からは何 の応答もない。 「加津美、いないの? 入るわよ」 トイレにでも行ったのかと思いつつ、広美は我が子の部屋のドア を開けた。 でも、そこで広美が見たのは変わり果てた息子の姿だった。鴨居 で首を吊った加津美がぶらんこにでも乗っているかのように揺れて いた。 「カズミ! な、なんてことを!」 広美の絶叫が家の中に響き渡った。 広美と夫の千尋はリビングで黙ったまま膝を突き合わせていた。 夫婦はひとり息子の葬儀を終えたばかりだった。 二人は共に十歳ほど老け込んだように憔悴しきっていた。 遺書が残されていたので、加津美の死は自殺と断定された。遺書 には“お父さん、お母さん、ごめんなさい。先に天国へいきます” と書かれていた。 「短すぎるわよね。まだ小学六年生だったのに」 涙声で広美が呟いた。 「ああ。せっかく授かった子だったのに。もうちょっと突っ込んで 話を聞いてあげれば良かったんだろうか」 千尋も洟をすすった。 学校側はいじめの事実はなかったと言った。ただ、たまに“女っ ぽい”とからかわれていたらしい。 広美と千尋は息子の死後、彼の日記帳のような小さなノートを見 つけた。それには“ボクは男なんてイヤだ。女に生まれたかった” というような告白が言葉を変えながら書き連ねられていた。 「加津美ったらバカよね。ひょっとしたらと思っていたけれど……。 私たちには素直に言ってくれれば良かったのにね」 「そうだよな。俺たちだって、元々は性別が逆だったんだから。俺 が女の身体の時に加津美を産んで……それから俺たちはお互い手術 を受けたのにな。だから、加津美だって女として生きたって良かっ たのに。何も悩むことはなかったのに。まだまだ世間は身体の性と 内面の性を一致させたがるんだな……」 千尋の呟きに耐えきれず広美は声を上げて泣き出した。千尋は大 柄な広美の身体を抱きしめる。二人はいつまでも互いの体温を感じ ながら泣き続けた。
独身男。33歳。煙草はセブンスターをふた箱。グラフィックデ ザイナー。仕事漬けの毎日。徹夜。目薬とブラックコーヒー。平均 睡眠時間は4時間そこそこ。戦友は、マイノリティーになり果てた Macちゃん。 なぜここまでして仕事をするのか……。あまりに余裕が無さ過ぎ る。転職しようか。いっそ肉体労働。今さら?全身から筋肉と名の つくものが溶け落ちているようなこの身体で?ああ、だめだ。煙草 で肺活量無いもんな、俺。 いつもの定食屋へ、いつもの道のり。いつも同じネガティブ思考。 住居兼仕事場から歩いて8分のところにあるその店は、夜10時か ら朝8時まで営業をしている。酒類を一切置いていない。近所は首 都高と国道と雑居ビルばかり。つまり、今頃の時間帯の顧客は、俺 の様な連中かタクシー運転手といったところ。みんな疲れて脂の浮 いた顔をして、青白い蛍光灯の下ではまるで病人仕様。重力に逆ら えない表情。俺もあんな面をしてるのか、とお互い見て見ぬフリし ながらのいつもの観察。いつもの確認。 俺はどうしてこの店に来てしまうのだろう。かき玉汁で疲れた胃 が温まっていくのを感じながら、ふと思う。本当はわかっている。 この定食屋のおばちゃんなのだということを。 歳の頃は52、3。お運びとレジ担当という、何の変哲もない普通 のおばちゃんだ。 俺は、そんな彼女の顔が大好きなのだ。ファン、といってもいい かもしれない。 美人でもないし、化粧気もない。だが、その表情がいい。疲れ切 った男達を見続けてウン十年。同情も憐れみも超越してしまった元 気一杯の笑顔。真夜中でも夜明けでも、いつも変わらず同じ笑顔。 いったいなぜ、あんな顔ができるのだろう。おばちゃんは何者な のだ。店の身内の者って雰囲気でもないし。いつからここで働いて いるのだろう。勤務時間からいって既婚者のはずはない。バツイチ か?子供はいるのか? いや、そんなことはどうでもいいのだ。いろいろあって今がある。 この店に来るのはそんな野郎ばかり。同じ社会に属している者たち。 あくまでもけだるい吹きだまりのような店だけど、おばちゃんの笑 顔が、俺たちは決してアウトローではないと言っている。 安心しきった顔つきで黙々と食事をする男ども。 夜明けのメシ。おばちゃんの笑顔。自己確認。これらは、俺の生 活の必需品3点セット。 午前5時55分。ぼんやりした脳みそでの思考ナリ。
ヒトゲノムの解明も進み、不老不死を求めていた人類の研究成果 は、一般の人達にも影響を与えていった。 「被告人を有罪と認めます」 判決から刑の執行までは、たった2週間だった。その後1週間は 入院させられ、裕一が医療刑務所から出所した時には、支給された 青い服を着ていた。入院中に両親が自殺した事を聞かされた時にも 涙は出なかった。 裕一は変わった。張りのあった皮膚はたるみ、髪の生え際にはシ ミが出来ていたし膝の関節も痛み、視力も落ちた。 両親よりも年老いた裕一には帰る家も無かった。裁判費用で何も かも失った両親には、裕一に何も残せなかった。 「こちらにどうぞ」 出所する時に裕一が紹介された男が相談にのってくれた。 「僕はどうすればいいの?」 戸惑っていた裕一が切り出すと、男は答えた。 「まず、自分の事を『僕』というのは止めましょう。ちょっと不自 然ですから…。貴方はもう70なんですからね」 加齢刑を受けた裕一は、まだ高校に入ったばかりだった。 裕一は生きていく為に、マンションの管理人として住込みで雑用 をこなし始めた。しかし裕一は、そのままずっと管理人だけとして 一人で一生を終えていくのが悲しかった。 裕一は随分変わってしまっていた。あんなに好きだったゲームに も興味が無くなったし、女子高生どころか二十歳代の女性の行動を 見ても、微笑ましさしか感じなかった。おばさんと思えていた女性 でさえ、可愛く感じてしまう。 恋愛経験の無い裕一は、このまま恋もしないで年老いていくとい う事に悲しさを感じはしたが、SEXに対する欲望は湧かなかった。 ついこの間まではエッチな本を部屋に隠していたのに、興味を無 くしてしまったこと自体が悲しかった。ただただ寂しかった。 今まで一人の生活は経験が無かったし、炊事や洗濯、掃除は思っ たよりも重労働だった。 そういうわけではなかったが、朝の散歩でよく見かける品の良い おばあさんとは気が合って、公園のベンチで良く話しをした。 彼女も一人だという事が原因かも知れない。何故か気があって、 ベンチから立ちあがるときに差し出す手の温もりも心に染みた。 これがひょっとしたら好きだという事なのかも知れない。いつも 一緒にいたいと思った。生まれて始めての感情だった。何故か目頭 が熱くなった。 「あら、どうしたの?」 彼女は心配してくれたが、裕一には答えられなかった。 (やはり僕は少し年を取ったのかも知れない)
去年の秋に、農家から買い込んでおいた段ボール箱五箱分の林檎 は、冬が終わる頃になるとさすがに味が落ちて来て、中には割って みると茶色に色が変わってしまったものもある。 人間に食べられなくなったのを、丸のまま庭の真ん中に投げ出し ておくと、鳥が来て片付けてくれる。家の周りには雀・カラス・鳶 など色々な鳥が居るが、林檎を食うのはおおむね三種類に限られて いる。 私は久しぶりに風邪を引き、勤めを休んだので、鳥たちの食事を つぶさに観察する事が出来た。 食堂から庭を眺めていると、一番にやって来るのは橙いろの羽を もったツグミである。ピョンピョンピョンと地べたの上を跳ねては 時々立ち止まり、まるで林檎など眼中にありませんという様子であ たりを窺いながら近づいて来る。 そしてついにたどり着くと、白く見える舌をひらめかしながら林 檎の身をつつき出す。 時々、首すじのあたりの羽毛がむうっと膨らむ。人間も美味いも のを食うと感動してぞくぞくとすることがあるが、あの鳥も丁度そ んな気分だろう。 ところが、そこへ黄色いくちばしの椋鳥が、やはり地面をのその そと歩いて現れると、ツグミの幸せは一瞬で奪い去られてしまう。 椋鳥は図々しい鳥である。肩で風切るように威圧的な態度で真っ直 ぐに林檎に向って歩いて来ると、気の弱いツグミは脇へどかされて 了う。 (もっと、強く出なくちゃ駄目だ) 私は職場でも、どこでも、つい遠慮がちで気圧されやすい自分の 性格を重ねて、ツグミを応援したく思うのだった。 硝子戸をそうっと開けると、図々しいが用心深い椋鳥はすぐに早 足で退却し、少し鈍いツグミが代って食いに来る。暫くするとまた 椋鳥が侵攻して来る。開けると逃げる。どうも椋鳥は自分が追われ て居ること、ツグミは自分が保護されている事が判っているらしい。 しつこく「阿呆の鳥追い」を続けているうちに、満腹になったら しい鳥どもは一羽も居なくなり、私はその夕方、八度に熱が上がっ てついに倒れて了った。布団が重く巨大に覆い被さって来る幻覚の 中で、まん丸で表情の無い、鳥たちの目玉がしきりと浮かんだ。 ツグミと椋鳥の他に、ひよ鳥もよく来る。此奴はまた、一コの林 檎をみな食べ尽すような勢いで詰め込んで、体型さえ変わったよう に見えるのに何時までも止めない。心配になって双眼鏡で脅かして やった。鳥はレンズの反射に敏感で、硝子戸の中からでも双眼鏡を 向けると、すぐ逃げる。
太陽はいつも独りぼっち とても寂しいと感じていました 寂しさを堪えて 今日も空の階段を登っていました 決して休んではいけないお仕事をしているからです ある晴れた日曜日、太陽は1人の男の子を見つけました 男の子は太陽が空の階段を登りはじめた時から 太陽の事をずっと見ています にこにこと、素敵な笑顔で太陽の姿を追っています 太陽は、なんだかくすぐったかったけれども その何倍も幸せでした 今までどんなにお仕事をがんばっても こんなに見つめてくれた人は1人もいなかったからです いよいよ下り階段になり、男の子が見えなくなりそうになった時 太陽は、声を掛けてみました 「君の名前を教えてくれないか?」 「僕は ようた っていうんだ」 男の子はにっこり笑って、そう答えました それからもようた君は、太陽の後を追って来ます 太陽は最後の階段を降りる頃に、ようた君にこう言いました 「明日も会えるかな?」 「うん!僕、きっと明日もここにいるよ」 太陽は、久しぶりに笑顔でこう言いました 「明日からは、私がようた君の事を見守っていよう」 それから太陽は、ようた君と一緒に毎日を過ごしました 次の日も次の日も、そうして何十年も経ちました いつもの様に空に登った太陽は、ようた君を探しました しかし、ようた君はどこにもいません 一生懸命探しても、ようた君はみつかりませんでした 太陽はとっても寂しい気持ちになりました すると… 「ここだよ、太陽さん」 「ようた君!ようた君!!」 ようた君は、キラキラ輝くお星様になっていました 変わらないキラキラの目で、大陽の側で、光っていたのです 「僕、太陽さんの子供になれたんだね」 「こども?」 「そうさ、お星様達は皆、大陽さんの子供じゃないか」 太陽は、とっても嬉しくなりました 「そうだね、私は何故、独りぼっちだなんて思っていたんだろう」 「大陽さん、これからも僕にしてくれたように 皆を見守っていてくれるかい?」 「あぁ、勿論だよ」 「これからは、ずっと一緒だね」 「そうだね陽太、ずっと一緒だよ」 そうして今日も太陽は、元気にお仕事をしています キラキラ笑顔の子供を連れて、今日も空の階段を登っています 只一つ、前と違う事は、太陽はもう決して寂しく無いと言う事です 太陽が何時も私達の後をついて来てくれるのは こんな昔話が、あったからなのです。 おしまい
新宿を歩いていた時、僕はため息を売る露店を見つけた。ちょっ と興味があったので、ため息を店主に見せてもらうことにした。そ こには、女子高生、女子大生、OL、主婦といったものから、新橋 の酔っ払い、上場企業のオーナー社長まで様々なため息があった。 僕はその中にあった、何の不満も何の悩みもない完璧な人のため 息というものにひかれる何かを感じた。満たされた人がため息をす るのだろうか? という疑問もあったが、とにかく欲しくなってし まった。 「これは幾らくらいするのですか?」 「これかい? これは品のいい物だよ。きちんとした店で買った ら確実に二ケタはするからね。あんたいい目してるね」 ため息の専門店なんて今まで見たことはなかったし、二ケタって いうのが10円なのか10万円なのか10億円なのか想像もつかなかった が、店主によると、きちんと正規のお店があって、正規のルートで 売られているということだった。 「で、幾らなんですか?」 「そうねぇ〜これは俺の思い入れもあって、ちょっと値段を付けに くいんだよ。お金っていうのもなんだから、あんたの性欲と交換で どうだい?」 性欲? 僕はちょっとあっけにとられたが性欲なんて邪魔になる 場面は多いが、なくてもどうにでもなるようなものだと思ったので、 交換をすることにした。 「はい。これが『何の不満も何の悩みもない完璧な人のため息』だ よ」 そういって果物を入れるような茶色の紙袋に入れてくれた。かわ りに僕は性欲をおいてきた。僕の性欲にどんな価値があるのかは分 からなかったが、ため息の正規の店があるように、世界には僕の知 らないことがたくさんあるのだろう。 僕は足早に家に戻り、紙袋をそっと開けてみた。 そこには、『何の不満も何の悩みもない完璧な人のため息』が入 っていた。僕はそれを30分眺め、それを飲み込むことによって自分 がどうなってしまうのか分からないという不安もあったが、我慢で きなくなり飲み込むことにした。 飲み込むとそれは無味無臭だった。『何の不満も何の悩みもない 完璧な人のため息』には味なんてあるはずがない。そこには何の悩 みもなにもないのだから…… それから一週間が経つ、何か変化があったかというと何の変化も ない。ため息を飲み込んだことでも、性欲を失ったことでも何も変 わっていない。 そして、僕は悔しいので次の日曜日にもういちど、あの店に行き 今度は不満だらけのため息を手に入れてみようと思い始めている… …
1999年7月31日、PM3:53 S市中心部S駅前、快晴 街は賑やかだった。 街中は学校帰りの高校生や近くのオフィス街の会社員、電車に乗 ってこの街にやってきた観光者などが行き交っていた。 空は心が洗われるような深い青だった。まだお昼時という事もあ って夏の暑さがきつく、街路樹は青々とその葉を繁らせている。 近くのベンチでは母親が赤ん坊をあやしていた。腕の中の赤ん坊 は気持ちよさそうに眠っている。 その時、街の上空では黒い渦巻きが発生していた。 コォォォォーー 中から聞こえてくる低くおぞましい声。 その声に誰も気がつく者はいない。 街は賑やかだった。 人々は気がついていない。今、この瞬間に強大で凶賊な悪の大魔 王が約6500万年の眠りから目覚めようとしている事を。 目覚めれば、その時代に栄華を極めていた恐竜が絶滅したのと同 じように、人類は滅んでしまうだろう。 黒い渦の一番近くにあったビルの屋上のドアから、制服を着た高 校生らしき男女2人が走りながら現れた。 「あれよ!」 先に出てきた女が男に向かって言った。男も追いついて渦を確認 する。 「そうか……ついに決着をつける時が来たようだな」 二人はそう言って肯きあう。 「僕たちは大魔王を倒すためにここまでやってきたんだ。人間をお 前の好きなようにはさせない!」 男は渦に向かって指差し、見えない相手に言った。 その後、男は女の方を振り向くと、優しく手を差し出した。 「……行こうか」 「……ええ」 女は少しはにかんだ様子でその手を握り締める。 二人は少しの間、そのままの状態で動かなかったが、再び動き出 すと、そろって渦の方へと顔を上げた。 「行くぞ!」 男が言うと、二人は一緒に渦の中に飛び込んだ。 渦は二人を飲み込むと、だんだん小さくなって、ついには消えて しまった。後には何も残らなかった。 近くのデパートの大きなオルゴール時計が、4時を知らせるため に鳴り出した。中から小さな音楽隊の人形が出てきて、演奏の真似 をする。 眠っていた赤ん坊がオルゴールの音で起きた。きょとんとした顔 は次第にクシャクシャになり、ついに泣き出した。 やがて上空で声の無い叫びが上がった。大魔王の断末魔の声だ。 人類は救われたのだ。 しかし、誰もその事に気が付く者はいなかった。 女子高生の笑い声。電車に乗り遅れないように急ぐ会社員。 赤ん坊の泣き声。デパートの時計のオルゴール。 街は賑やかだった。
目覚めて頭痛。それは宿酔で。床にはNがスヤスヤと、Kが烈し い鼾をかいて眠っていた。 ポケットから煙草を取り出し、窓外を眺めながら一服。外は雪で、 ああ寒そう、と思いつつ、散らかった床に視線を移すと、油性ペン を発見。油性ペン? 天誅! って僕は、Kの額に「菩」、顎に「薩」、少し迷ってか ら右頬に「観」、左頬に「音」と書いた。にも関わらず、Kは相変 わらず喧しい鼾をかいて眠っていた。情けない顔で。 すると。 卓袱台の上に、ヘンな生物が立っていた。 身長は8cmぐらいで細身、両手両足は人間と同じつくりである が、顔には細い目が縦3段横2列の計6個あり、口は左右に2つ、 髪は無く、ツノが2本生えていた。肌は全体的に赤かった。 「おい、お前」と生物は右の口で言った。 「はよ願いを言え。何でも叶えたるさかい」と今度は左の口で言っ た。同じ声だった。 「あの、ところで、あなたは誰なんですか?」 「わし? わしゃ観音菩薩やないけ。おまはん、儀式でわしを呼ん だやろ」 儀式? 油性ペンと鼾が? そんなバカな、と僕は思ったが、し かし実際問題、こうして菩薩が存在している以上、願いを叶えて貰 わぬ手はない。事実があって、次に真実だ。 「金を下さい。50億ぐらい」 「あほ言うな」と菩薩は両方の口で言った。「えーか。わしも万能 やないさかい、因果律があるんや。おまはん、明日いきなりケーサ ツに捕まってもええんか」 「それは嫌です」 「そやろ」と言うと菩薩は、右列の目を全部閉じた。何の意味が。 「じゃ、A子ちゃんが、僕に惚れるようにして下さい」 「それもあかんわ。おまはん、そのA子が惚れる要素を何も持って ない。だから無理や」 そんな。傷心の僕は、捨鉢で、「じゃ、面白い話をして、僕を大 笑いさせて下さい」と頼んだ。 「おう、それならお安い御用や」と言って菩薩は、15秒ほど目が ランダムに開いたり閉じたりしたのち、両方の口を開いて言った。 「昨日、中華料理屋に行ったら箸を折っちゃってさ」 まさか。 「ペキン」 …………。菩薩は、御満悦のようだった。 「じゃ、わしゃ帰るさかい。おおきに」 そう言うと菩薩の身体は、足の方から徐々に消えていった。 「そうそう」 胸まで消えたところで、菩薩が言った。 「さっき、A子ちゃんに惚れられたいって言っとったけど、もうお まはん、惚れられてるで」 え? 「そこのNに……」 そうして菩薩は、完全に消え去った。 僕は、Nの寝顔をまじまじと見た。肌が汚かった。 うそん。
世の中ってやつはやはり道を歩いているだけでムカつくことが多 く、やけに道にゴミが多いのはそうゆうことなのだろう。捨てた くなるんだよな道って。汚したくなるんだよな。バカにしたくな るんだよな。ブッ壊したくなるんだよな。ブッ壊したくなるんだ よ。でも誰もブッ壊さないのはていうかブッ壊せないのは、この 道のとなりにもまた道があるからで、結局そこに行き着いてしま うからで、自分の行きたい場所なんてどこにも無いことを知って るかなんだよな。絶望を知ってるからなんだよな。 だから道にゴミを捨てる。やりきれなさと寂しさと被害者意識と 少しの加害者意識と無意識の自己顕示欲。僕はあたしはここにい るんだよなんていう思いがない混ぜになっている道はだからとて も汚い。 そうすると当然、なんで人間はこんな厄介なモノを作ってしまっ たんだろう、なんてことを考えるけどでも道が無かった頃はもっ とこう、いろいろと遅刻とか足が痛くなるとか不便とかていうか かったるいとか厄介事が有るわけで、本当に帯に短しタスキに長 しだ。 だからここで考えるべきは「消去方に騙されるな」ってことだ。 多数決と同じくらい消去方はヤバい。仕方無いからまあこっちに するか的スタンスだから道なんて余計なモノが出来てしまう。一 番被害の少ない方法で、なんて考えじゃあ駄目だ。だって何かを 選ぶってことは何かを捨てるってことなのだから。 というわけで作戦を実行する。ハッキングによりすでに各国の軍 事システムは完全に掌握してある。ボタン一個で核ミサイルが飛 ばせるはずだ。とりあえずロシアとアメリカに飛ばさせておけば 世界は数時間で滅亡するだろう。さようなら僕の愛し憎んだ全て。 「おい、起きろって」 そんなことをまくしたてた後適当にパソコンを操作して、ベロベ ロに酔っ払った友人は寝てしまった。ふう。迷惑な奴だ。 「やり直せるならここから百万マイルでもなんとか持ちこたえてや り直すのに」 オーディオからはナインインチネイルズのハートが静かに流れて 来る。 「やり直せるさいくらでも」 僕はコーヒーをすすり呟いた。 窓を開ける。今日も星がきれいだ。 「臨時ニュースをお伝えします。たった今アメリカが・・・」 やり直せるさきっと。例えこの世が滅んでも。
第22回1000字バトルチャンピオンは、
Entry22 BEANさん作『ため息』に決定しました。
BEANさん、おめでとうございます。
票を得た方もそうでなかった方も、次回でまた頑張ってくださいね。
感想票をお寄せいただいた読者の皆様ありがとうございました。
| 作品 | 票 |
|---|---|
| ため息(BEAN) | 4 |
| 聴こえないレクイエム(川辻 晶美) | 3 |
| 儀式(サトコフ) | 2 |
| たいようのむすこ(meg) | 2 |
| それゆけデッドビッキーズ(もんでん琴戸) | 1 |
| 彼岸花(さとう啓介) | 1 |
| 風邪(ななは) | 1 |
| むくむくへの憧憬(一之江) | 1 |
| 裏庭に忘れて(川島ケイ) | 1 |
| 顔(やまだ小麦也) | 1 |
| ツグミと椋鳥とひよ鳥(海坂他人) | 1 |
●ため息(BEAN)
●聴こえないレクイエム(川辻 晶美)
●儀式(サトコフ)
●たいようのむすこ(meg)
●それゆけデッドビッキーズ(もんでん琴戸)
●彼岸花(さとう啓介)
●風邪(ななは)
●むくむくへの憧憬(一之江)
●裏庭に忘れて(川島ケイ)
●顔(やまだ小麦也)
●ツグミと椋鳥とひよ鳥(海坂他人)
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