第23回1000字小説バトル
Entry11
しんと静かな十月の山道を一人で歩いていたときのことだ。日が 陰り、早くも眼下に街の灯が見おろせた。冷たい澄んだ風が木々の 頭をかすめていく。僕は落ち葉を踏みしめながら、小川のそばの目 的地にむかって急いでいた。その時、急にくっきりと古い記憶を思 い出した。とても古い記憶だ。やわらかい匂いのような、あこがれ を伴った記憶。 そこには穂先をたれた稲がどこまでも見渡す限り続いていた。風 も、音もない夕暮れのあぜみちを、僕はがたごとと自転車に乗って、 中学校から帰る途中だった。道の先には一人でてくてくと歩いてい るNがいた。紺色のスカートと、紺色のベストを着ていたが、それら は肩まで伸びた髪とつながって、細長い黒い塊になっていた。 僕は緊張して声もかけずに通り過ぎそうになったが、こちらの緊 張が伝わったせいか、彼女はちらっとふりむいて驚いたような表情 をした。その一瞬の表情をはっきりと目にしたわけではないのだけ れど、その一瞬の雰囲気のようなものは心に深くくい込んできた。 悲しい何かだった。石を落としても音が返ってこない井戸のように 悲しい何かだった。けれどもそれは錯覚かと思われるほどの一瞬の ことで、後ろから近づいたのが僕だとわかると、彼女はいつも通り にっこりと微笑んで、そのあとは自転車を降りて、中間試験のこと や、気に入らない教師のことなどを話題にして、いっしょにあぜ道 を歩いた。 あの夕方、Nが最初に驚いたようにふり返った一瞬の深くて悲し い何かを、僕は日々の生活に追いまくられ、まるまる二十年も現実 の思考から追い出していた。ただの錯覚と考え、気にせずに生きる ことに、わずかな疑問さえ感じなかった。なぜなら僕は中学生だっ たあの頃から、ずっと遠くを見ていたし、遠くを見ることこそが必 要なことだと考えていたからだ。 Nが死んだとき、自分でも何を失ったのかよくわからなかった。 失ったのではなく、取り残されたような気がしたのだ。僕は彼女の 気持ちが理解できた。ある意味では二人の違いというものは、そん なに大きなものではなかったから。しかし視点を変えれば、彼女は はるかに先を突き進んでいた。才能があり、才能をあとおしする環 境もあった。 日暮れの山道は匂いもあこがれも、すべてあのときのまま。音の ない静かな道なのだ。
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