第23回1000字小説バトル
Entry2
電車で帰宅する途中、珍しい光景に出会った。 午後十時。僕はドアの隅に立っていた。ふと視線を上げると、天 井と手すりの間に動く物体を発見した。 蜘蛛だった。 小さな鬼蜘蛛が中吊り広告ほどの空間に巣を張っていたのだ。何 の偶然か、電車の中に迷い込んだ蜘蛛はそこを自分の塒にしようと していた。 僕はすぐにその蜘蛛から視線を外すと、他にこの蜘蛛を発見した 人はいないだろうか、と周囲を見渡した。だが、蜘蛛の巣作りを見 ている人はいなかった。僕はその事実になぜか安心感を覚えた。僕 だけがその蜘蛛を見ていた。 蜘蛛は体から出した糸を放射状の巣にしていく。誰に習ったわけ でもないのに、迷いもなく左回りを続けながら糸を紡いでいく。蜘 蛛を目で追いながら、僕はまた周囲を見渡した。しかし、数分前と 同じく蜘蛛に気づく人はいない。今度はやりきれない気持ちになっ た。 「蜘蛛よ、こんなところで巣を張っても獲物は掛からないぞ」 蜘蛛はそれを知る由もないだろう。彼はただ本能に従っているだ けなのだから。 「キミはそうやって巣を張っているけど、すぐ人間に壊されてしま うよ」 僕は蜘蛛に教えたかった。しかし、彼はなりふり構わず巣を作る。 そんな姿が無性にいじらしく、悲しく、虚しいものに思えた。同時 にそれを美しいとも思った。蜘蛛は人間から決して愛される生き物 ではない。そんな醜い生き物が繊細で芸術的な創造物を独りで作る ことができるのだ。なぜ作るのか、なぜここで作るのか、という疑 問はナンセンスだ。それゆえに僕は虚しさの中に美しいという衝動 を感受したのかもしれない。 電車は僕の降りるひとつ前の駅で止まった。ドアが開くと外から 蛙の鳴き声が聞こえてくる。 それにしてもこんなに分かりやすい場所に珍しい光景があるのに、 どうして他人は見つけることができないのだろう。それとも見て見 ぬふりをしているのか。 僕の降りる駅が近づいている。この蜘蛛はこれからどうなるのだ ろうか。たぶん、明日には駅員の手によって取り除かれるだろう。 僕は蜘蛛に情が移ってしまったのか。もちろん、彼らに悲しみや怒 りなどの感情はない。ただ僕の勝手な擬人癖がそう思わせたに過ぎ ない。 でも。 僕は蜘蛛の行く末を思うと悲しくなる。人間のひと払いで蜘蛛の 家は壊される。それを僕にはどうすることもできない。 電車が駅に止まる前に僕は蜘蛛から目をそらした。蜘蛛の巣は完 成までもう少しだった。
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