第23回1000字小説バトル
Entry22
猫の声がした。私はシャワーを止めた所だった。 窓の外、はるか階下のどこかから、さかった獣の鳴き声が夜空へ 粘っこく消えていく。肌に染みつくような声だった。 (猫は、良い) シャワーを浴び、体を拭き、髪をぬぐう。ただそれだけの事が、 ひどく面倒に思えてくる。何かが壊れ始めているのかも知れない。 いや、私は元来、ずぼらな女なのだ。ただ自分自身、知らないふり をしてただけなんだ。 浴室のドアを閉めた。 灯りを落とした一人きりの部屋に、猫の声が届く。 (私も猫なら良かったのに) 裸のままベッドに転がった。 転がって、伸びをした。伸びをして、そして丸くなる。 丸くなって、眠る。 (猫ならば、好きに愛せる) 誰の目にも、はばかる事なく。あのひとの、妻と呼ばれる人にさ えも。 青空が疎ましい。高らかに晴れた朝の青色は、特に私を落ち込ま せた。顔を撫でる柔らかな風は、欺瞞に満ちている。マンションの 階段を降りる足音の、かつかつと威勢良いのが空々しい。だが、じ っとエレベーターを待つのも、いっそう虚しく思われた。 その何度目かの踊り場に、猫は居た。 誰かに飼われるロシアンブルー。ここで何度か見かけた雌だった。 おとなしく、珍しく人見知りがない。誰にでも触らせる。 (お前だったのか?) 私は正面から、猫の両脇に手を入れてゆっくり持ち上げる。体が 浮き、目の高さまで抱き上げられても、彼女は私を見つめたまま暴 れもしない。ただすんなり伸びた胴の下で、お行儀よく足を縮めて いた。私は彼女を外柵の上へ、人形のように座らせた。 ひげが風に揺れている。背後の空、その遥か下の家並み。手を離 せば、吸い込まれていくだろう。そうしたら叫ぶのだろうか。 あの世との境界に置かれてなお、彼女はただ、私をじっと見つめ 返すだけだった。何も語らないその無垢な目の、丸く開いているの を見ながら、私は自分の瞳の細く縮んでいくのを感じた。 (お前は猫じゃない) 私はそっと彼女を足元に降ろした。そして柔らかなグレイの耳に 顔を寄せ、歯を立てて噛んだ。 彼女は初めて声をあげ、手を振りほどき、階段を駆け上がる。上 の踊り場で一瞬立ち止まり、奇矯な生き物を見る目つきでこちらを くっと振り返ったが、私が立ち上がるとたちまち姿を消した。私は 笑った。久々の笑みだった。 (私は、猫になる) 手の甲で唇をぬぐった。紅の中に混じる短い毛を見ると、また笑 みが浮かんだ。 猫になる。私は。
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