第24回1000字小説バトル
Entry11
やはり禁煙席をとればよかった…隣の男が吐き出す煙に溜息をつく。 自由席に移ろうにも、ウィークエンドのこの時間、東京へ向かう新 幹線は人で溢れていた。 何気なく煙を眺めていた私は、男の意外に細い指先に気づき少しド キッとした。その指先が挟む煙草が脳裏の扉を叩く。急に心臓の鼓 動を強く感じた。どこかに大事なものを忘れてきてしまったような、 そんな不安な気持ち。 男の指は、少し神経質そうな動きで煙草の火を消していく。モヤモ ヤした気分も一緒に消されそうになった瞬間、私は自分の忘れ物に 気がついた。 こと恋愛に関して人の気持ちはうつろいやすいが、生涯忘れないだ ろうと信じていたものが二つあった。一つはファーストキスの味。 その男の声も癖も覚えてないのに、唇の感触だけが今でも生々しい くらい鮮やかに蘇る。 そして、かつて愛した男が吸う煙草。 初めて聞く銘柄で、未だに彼以外の人間が吸っているのも、売られ ている店すら見たことがないその煙草は、私にとって彼そのものだ った。仲間が集まった後の灰皿に、その吸殻を見つけると妙に嬉し くて、そんな自分の気持ちが誰かに悟られやしまいか、と不安にな ったりしたものだ。 それなのに。 今、どうしてもその銘柄を思い出せなかった。私の気持ちを逆なで るように車窓が流れていく中、全神経を集中させて記憶の糸を辿る。 二度と会う事もない彼のことを、こんなにも真剣に考えているのは 不思議を通り越して滑稽ですらあったが、それを思い出す義務があ るような気がしていた。 「これはチョコレートフレーバーを使っているんだ」 彼のくゆらせる煙はどこか幻想的で、その指先に残る匂いは甘かっ た。私はそんな彼の指が大好きで、鼻先に近づけ、思い切り息を吸 いこんでは指先にキスをしたりして笑いあっていた。 彼の表情や仕種、私に話し掛ける声のトーン…そんな事が突然波の ように心に流れ込んできた。ずいぶん長いこと彼のことを考えたこ とがなかった。忘れていたのは、彼を愛し続けることが出来なかっ た自分へのやましさだろうか。 何時の間にか眠ってしまったらしい。車内では、終着駅を知らせる アナウンスが響いている。夢の終わりに、私は彼の煙草の銘柄をは っきりと思い出していた。心の中がちょっとした幸福感で満たされ ていくのが分かった。 彼がこの広い世界のどこかで生きている、その事実だけで胸が熱く、 そしてだんだん温かい気持ちになった。彼に届けることは出来ない けれど。
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