第24回1000字小説バトル
Entry19
玄関先で靴を履いていると、二歳の娘がやってきて「かさ、か さ」という。 僕はなんのことだかわからない。娘は玄関の傘立てに向かい、 黄色い傘を取り出して、もう一度「かさ、かさ」という。 娘は僕に傘を渡したいらしい。最近娘は母親のまねをしたが る。この間雨が降ったとき、妻が僕に傘を渡しているのを見ていた のだろう。 今日の天気予報は快晴だった。これから会社まで一時間以上、 満員電車の中で揺れられることを思うと、余計な荷物は持っていき たくなかった。 「ごめんよ。今度、雨が降りそうなときにはもっていくからね」 僕は彼女の小さな肩に手をおいて、いう。 そして玄関のドアを開け、外に出る。ドアを閉めるときに振り返 ると、娘は黄色い傘を持って、寂しそうにこちらを見ていた。 娘は僕に似ていない。 娘の顔を見た誰もが、おかあさんにそっくり、という。おとうさ んに、とは誰も言わない。 結婚前、妻は同時に複数の男性と交際していた。 僕はそのひとりだった。交際相手の誰よりも僕は平凡な人間 だった。エリートでも不良でもない、なんの取り柄もない平凡な 人間。 それが僕だ。 けれども妻はある日突然、僕のアパートにやってきて、そのまま 住み着いた。 結婚したきっかけも単純だ。 「わたし妊娠したみたい」 妻が僕のアパートやってきてからちょうど三ヶ月目にそういう と、僕は反射的に結婚しようといっていた。 僕らは結婚し、六ヶ月後には娘が生まれていた。 夜、会社からの帰り、駅の改札を通ると、妻が娘を抱いて立って いた。 「どうしたんだい。お迎えなんてさ」 「この子が傘を持っていくってきかなくて……、そのくせ待ちくた びれて寝ちゃったの。ほんと困った子だわ」と妻はくすくす笑う。 よく見れば、妻の肩に寄りかかる娘の手には黄色い傘が握られて いる。 「傘なんて、こんなきれいな星空なのに」 と僕がいうと、突然、雨が降ってくる。土砂降りの雨だ。 駅前を歩く誰もが突然の雨にとまどっている。 僕と妻は顔を見合わせる。 「ときどき遠くを視るような目をするのよ、この子」と妻がいう。 「どこを視ているのかしらね。不思議な子よね……ねえ、あなたに 似てるのよ。そういうところ。あなたもときどき遠くを視てるわ」 「そうかな」 「そうよ。よく似てるのよ、ほんとに」 雨は降り続いている。 僕は娘の手の上からそっと傘の柄を握り、開いた。 「パーパ」 眠りながら娘はそうつぶやくのだった。
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