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大きな椅子 川島ケイ 悲しいときは、座ればいい。腹が立ったら、座ればいい。落ち込んでても、座ればいい。いつだって、座ればいいのだ。そう、死ぬときだって、この椅子に座ったままがいい。 私の家には、大きな椅子がある。 物好きの父が、どこからか買ってきたのだ。私の背よりもちょっと高いその椅子は、大げさなぐらいに木の臭いがして、古びていて、とても偉そうに、父の部屋に陣取っている。 腰をおろすと、心が安らぐ。どんなに辛いことがあったって、振り払える。その恩恵は、私と父だけのものだ。他の人が座っても、ただの大きな椅子でしかない。その理由は、分かっている。 その椅子に座ったまま、母は死んだのだ。 恨めしいほどに、母は体が弱かった。いくら健康に気を遣っていても、いろんな病気にかかって、何度も入退院を繰り返して、私の目から見ても母は、かろうじて生きている、という印象だった。なにかあるたびに遺書を書き直して、父が止めても、大事なことだから、と優しくも厳しい笑顔で返した。 母は、父の買ってきた椅子がとても気に入っていたようで、よくそこに座って、本を読んだり、ぼーっとしたり、していたものだ。 「私、死ぬときは、この椅子に座ったままで死にたい」と母が言ったとき、縁起でもないこと言うもんじゃないわよ、と私は慌てた。母は嬉しそうに、笑った。その笑顔は、なんというか、仏様みたいで、その大きな椅子にとても似合っていたのだ。 そうなのだ、私は、仏様に守られているんだ、と、椅子に座って天井をぼんやり見ながら、考えた。母は本当に、仏様になってしまったのだ。椅子に座ったままで、ぴたりと動きを止めている母の姿を見たとき、私も父も、泣かなかった。母の安らかな死顔が、私たちの涙を拒んだのだ。母にそっと口付けしたときの父の顔を、私は一生忘れないだろう。もうそれはそれは、優しく美しい表情だったのだ。 「そこで死のうなんて思うなよ」 両手を腰にあてながら、押し付けるような調子で言う、こんな父の表情とは、まるで違ったのだ。 「いいかも」 「縁起でもない」 「病院のベッドで死ぬよりは、ずっといいでしょ」 「まあ、な」 父はポリポリ頭をかいて、あきらめたように部屋を出て行く。閉じた扉の向こうから、父の声がした。 「あのな、オレが先約だから」 そんなの分かってるよ、と父には聞こえないように、かすかな声で、つぶやいた。大きな椅子が、小さく、笑ったような気がした。 |
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