| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 計算可能 | 蛮人S | 1000 |
| 2 | 前略 齋藤先生 | ユキコモモ | 1000 |
| 3 | 治療法・万歳! | 羽那沖権八 | 1000 |
| 4 | 『ソースのある食卓』 | 橘内 潤 | 958 |
| 5 | シェルブールの雨傘 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
| 6 | メール巷間 | 太郎丸 | 1000 |
| 7 | 強がり | さとう啓介 | 1000 |
| 8 | 少女 | RIVER FIELD | 995 |
| 9 | 夜明けのキリン | 青野 岬 | 1000 |
| 10 | 神様の憂鬱 | 黒男 | 941 |
| 11 | 明日へ | Makoz | 972 |
| 12 | ホットドッグスタンド | 林徳鎬 | 1000 |
| 13 | バスドライバー・5 | 有馬次郎 | 1000 |
| 14 | 私の友達 | 悠花 | 756 |
| 15 | ラヴアンドピース はっ 醜男が | 青山達哉 | 909 |
| 16 | 熱帯夜 | 卯木はる | 1000 |
| 17 | 削除 | ||
| 18 | 僕はノープロブレムだ | ラディッシュ・おおもり | 1000 |
| 19 | 秘密 | さかな☆ | 1000 |
| 20 | 樹と、葉 | てこ | 663 |
| 21 | 帰宅 | なぎやまたけし | 1000 |
| 22 | もすこみゅーる | SAKURA | 1000 |
| 23 | 勘違い | 3月兎 | 1000 |
| 24 | アシンメトリーチャイルド | Ame | 1000 |
| 25 | 僕とミカのことで | アナトー・シキソ | 1000 |
車は高速を東へと走る。
リアシートでは七歳の息子が眠りこむ。十年落ちのリッター車は、時速100キロ
を超すと振動と騒音をより増したが、それも連続なら子守唄に近づくようだ。
陽は西に傾いている。前方へと伸びる影が、夜に向かって走り続けている事を教え
ていた。実家を出た時には、陽は前から射していたのに。
(ここで問題です。夜はどれほど足を早めましたか)
地球の半径が6400キロ。円周は掛ける2掛ける3の一割増しで4万くらいか。
日本の緯度だと、円周はその半分よりも小さかろうから2万キロ以下だ。二十四時間
で割れば……800ぐらいだろうか? 減らして700キロ。これが太陽の時速だ。
速度計は100キロを指す。つまり今、自分は日没を一割以上は早めている。暗算
の精度からすれば、答えはその程度だろう。
後で正しく計算するのも一興だが多分やるまい。ちらと後ろに目を遣る。息子はす
うすうと眠っている。
(問題です。この子は生まれて何度眠りましたか)
365掛ける7で……2500日+α、それに誕生日まで3ヶ月ほどだから90日
足す。違う。9ヶ月を足して2800日ほど。昼寝とか入れて一日平均1.8回眠っ
たとすれば、2800の倍の一割引で5000回以上か。
(問題です。この子があなたと居られるのは、あと何日ですか)
そんなのは、あいつ次第だろう。
ルーフの窓を僅かに開き、ポケットから煙草を出した。火を点ける間、視線が前方
から離れた。
(問題です。前の車にぶつかる可能性は)
前との車間は50メートルほどか。車が一秒間に進む距離は、100掛ける100
0メートルを3600で割る、200割る7として30メートルくらい。火を点けよ
うとした時に前の車が急停止して、視線を戻すまで二秒とするなら、多分衝突してい
る。
前の車が急停止する確率までは、勘定できない。まあ自分がハンドルを離し、アク
セルべた踏みで目を閉じれば100%死ねるのだろうが。こんな事ぐらいだ、世の中
で確実に知れるのは。
(問題です。いま何問目ですか。今までの人生、何問、正解できましたか)
知るものか。
前方からは夜が迫る。およそ一割増しで迫ってくる。
息子は後ろで、およそ5000と何回目かの眠りを貪る。灰皿を開き、煙草を突っ
込む。およそ2秒、前方が留守になる。計算できない確率によって事故は起きない。
車は高速を東へと走る。一日が終わる。何回目かの一日が終わる。
今、あの壁の前に来ています。
触れたくて触れたくて堪らなくて、齋藤先生に週に一度は手紙を書いて、浮いたり沈んだり思いをぶつけていた私があの壁の前に立ってます。
齋藤先生はあの誰だかっていう有名なメキシコの建築家に逢いたくて家に入れてもらいたくて、
「あなたの家の芝生に触れたい」
と手紙を書いて、一週間その家の前で野宿してお手伝いのおばちゃんにくすっと笑われ、ねえそろそろ入れてあげたら? と口添えされやっと入ることが出来たとおっし
ゃいましたね。そして二人はぶつかって、打ち解けあって、くるくる廻って光になった。
齋藤先生はその建築家の作品を撮り写真集を出して、その写真集は今も世界で一番売れている写真集だと話してくださいましたね。
私も先生のお造りになったこの壁に触れたくて、この壁に逢いたくて、立っている場所に行きたくて、でも東京中を一軒一軒訪ねる気力はなくて、齋藤先生に手紙を書いて、それでも駄目なら一番上等なそば粉を持って、
「齋藤先生どうぞ私を好きにしてください」
と先生の事務所のドアを叩こうと思っていたのです。
だけど先生は簡単に壁の住所を教えてくださいました。私はちょっぴり残念でした。私、本当にあなたの女になってもいいと思ったのです。そして捨てられてどこかの建物の鉄筋コンクリートの壁に埋められてもいいと思ったのです。齋藤先生、もしかしてこの壁には先生が捨てた女の人が埋まっているのでしょうか? だって、この上品な壁、女の肌みたい。(と指でなぞる)
樅の木の肌がこんなに綺麗に模られているなんて。
さっきからもう二時間も眺めてるというのに見飽きる事がありません。この壁の向こうには百日紅が植えてあるのですよね? ここからも少し見えるブルーの万華鏡ようなガラスの中で百日紅がキラキラ輝いているんでしょうね。大連の土の紅い壁と阿波のインディゴ染和紙の壁に挟まれた廊下を想像して、私ここで独り身悶えします。それは大好きな人の心臓や肝臓のことを想像しているのと同じ感覚なのです。ああ、私この中に入りたいのです。でも先生が、
「外だけにして下さい」
とおっしゃったので我慢しています。
でも観たい!
私カバン一つで東京に出てきてこのまま壁だけ眺めて帰るなんてイヤです。イヤですイヤです先生。私チャイムを押してしまいそう。だってここに、人差し指の目の前にチャイムがあるんです。ねえ先生チャイムって押すものでしょう?
『大統領』
病床の大統領の元に、防護服を身に着けた秘書が現れた。
「どうした」
『良い知らせと、悪い知らせがあります』
「悪い……知らせから言え」
大統領の顔には、疱瘡が現れている。
明らかに、天然痘の末期症状だった。
『滅死病の感染者が、世界人口の半数に達しました』
「ふん……そんな事か。良い方は」
『滅死病の治療法が見つかりました』
「なんだ……と?」
弱々しく大統領は身体を起こす。
『大黒点前推定百年の遺跡から、文献の発掘に成功しました』
「大黒点前? あの暗黒時代のデータがか?」
『はい、例のプラスチック円盤の中に、解読可能なものがありました』
「なんと……」
『発掘された二万枚のうち、四枚に磁気データが残存していました。アカデミーで
も、残存の理由について研究を――』
「そっちはいい。治療法……は?」
『はっ』
秘書はディスクを再生機にかける。
ディスプレイに、ノイズ混じりの映像が表示された。
「……の、……は………へい……」
大統領と同じ疱瘡が現れた子供の映像だった。
「で……の……テンネントウ……」
「てんねんとう?」
『滅死病の当時の呼び方でしょう』
秘書は映像を早送りする。
『ここです。よく聞いていて下さい』
医師の前に並んだ子供たちの映像に、音声がかぶる。
「……テンネントウは、シュトウによりコンゼツセンゲンを……」
「根絶宣言……だと?」
『はい』
「ふ、ふふ、何の対処法も……なかったのも頷ける」
『その様な病原体が何故現代に現れたのかは不明ですが』
「どうでも……いいことだ。そのシュトウのデータ、ないのか」
秘書は大きく頷いて、ディスクを入れ替える。
『――数十年前に発掘されたデータです。無用の情報として資料室の奥で埃をかぶっ
ていましたが』
ディスプレイに、新たな映像が映る。
『まさか、滅死病の特効薬の情報だったとは、アカデミーのスタッフも驚いていまし
た』
一人の背の高い男が、ある男を訪ねている。
「へえ、これがシュトウですか」
「ああ、そんだよ! 作り方ぁ簡単だぁ」
「早速作れ! 本年度予算の予備費を全て充てても構わん!」
『既に用意してございます』
「なに!」
『アカデミーが全力を挙げて再現しました』
「おおっ!」
『どうぞ』
「うむ、これは……」
「……お酒が欲しくなりますね」
「だから『酒を盗まれる』っちゅーんじゃよ、がはっははは!」
ぽわぱっぱーぱぱぱ、ぽんぱぱぱぱんぱぽん。
『キッコーマンが、お送りしました』
「ソースって、どこが起源なんだろうね?」
妹は鱈のフライにとんかつソースをかけながら、唐突に口を開いた。
そのまま、沈黙を嫌うかのように言葉を継ぐ。
「だって、醤油は日本が起源でしょ。ソースはなんで、とんかつソースもタルタルソ
ースも、同なじにソースっていうのかな?」
母親がこれ幸いと提示された話題に飛びつく。
「あら、醤油は中国にもあるわよ」
「う〜ん、そういうことじゃなくて……つまり、ソースって名前はどこで生まれたの
かなって」
「ソースっていっても色々な種類があるじゃない? だからきっと、ソースっていう
のは、そういうものの総称なんじゃないの?」
「うん……」
そういうことを言ってるんじゃないんだけれど――妹は口に出さずにそういった。
この間、私は黙って、夕食を口に運んでいる。話を振られても、答える気はない。
例えば、「文明はチグリス・ユーフラテス……の四大文明から発祥しました」とい
うが、ネイティブアメリカンに文明はなかったのか? インカ帝国は嘘っぱちか?
彼女は「醤油は日本が起源だ」といったが、ベトナムにもニョクマム、ナンプラが
あるし、そもそも中国の肉醤が醤油の起源だ。
ソースとは素材の味付けであって、フランス人だろうが日本人だろうがアボリジニ
ーだろうがマヤ族だろうが、世界中の誰もがしていたことだ。誰の専売特許でもな
い。
――もちろん、彼女がいっているのが、こんなことでないのは分かっている。
彼女がいっているのは「ソース」というブランドについてだ。ウスターソースだろ
うがオイスターソースだろうがソイソースだろうが、全部「ソース」だ。彼女が話題
にしたのは、その名称を誰がつけたのかということだ。史実がどうだったのかなど、
聞いちゃいない。
彼女にとって、世界は「名称と用法のきまった手段(幸せという固形物を手にする
道具)」であって、名称の奥の「意味」など必要としていやしない。
私と彼女はこの先も一生、解かりあうことはないだろう。私に彼女の苦悩はわから
ないし、彼女にも私の幸せはわからない。
「ねえ、どう思う?」
母親は、黙々と咀嚼をつづける私に話を振ってきた。食卓に満遍なく会話を振るの
は、母親の義務だろうし、それを無碍なく拒むのは息子としての私の責務に反する。
だから私は、こうとだけ答えた。
「そーっすね」
いつもこうなのよ」
そう言ってあたしはしゃがみ込んだ。
「そうか」
その男は壁にもたれたまま、煙草を取り出した。
「嫌になってしまうわ。あたし、傘は六本も持ってるのよ」
雨が降っていた。
「いつもこう。こうやって夜中に家を出るでしょ。するといつの間にか雨が降ってて
さ。さっきまであんなに晴れてたのに。あたし、まともに傘を使えた時が無いわ」
なんだか初めて会った人に対する話し方じゃ無い気がする。そして、別に気にする
事も無いな、とも思う。これは雨宿りなのだから。あたし達は雨宿りをしているのだ
から。
「そうか」
男はそう答えて煙草に火を付けた。
男は青い服を着ていた。そして青い爪をしていた。青い目。青い唇。銀色の指輪を
右手の小指にだけはめている青い指先。多分全て錯覚だった。常夜灯のオレンジが、
あたし達の青を目立たせているだけなのだ。
九月の雨の夜は寒かった。あたし達は少し震えた。だから話をした。単純な話ばか
りだった。自殺の話をした。つまり価値観の話だった。彼は三回試したと言った。あ
たしは二回、その内一回は心中だったと話した。三回と二回の差は大きいと思う。あ
たしはそう言った。どうだろうね。彼はそう答えた。あたしも彼もレンタルビデオ屋
の帰りで、ビデオテープの入った青いビニールバッグを持っていたけれど、二人とも
恥ずかしそうにそれを後に隠し持っているだけだった。映画の話はしなかった。
見上げたビルを、雨が、幻のように煙らせていた。街には焦点を会わせる所がたく
さんあって良いと思う。あたし達はあのビルが幻でも何も困らないのだ。
しゃがみ込んだアスファルトが冷たかった。あたし達が落とした水滴が、地面に奇
妙な模様を作っていた。何にでも解釈できそうな模様だった。そこに何かを見いだせ
そうな気がしたけれど、あたしは疲れていたから視線を静かにビルに戻した。
「雨、やまないね」
「そうだね。でもやまない雨は無いよ」
彼はそう言って、また煙草を取り出した。
そうだろうか、とあたしは思った。やまない雨は無いのだろうか。もっと言えば、
今まで雨はやんだ事があったのだろうか。
思い出せなかった。
「そうですね」
あたしは丁寧語でそう答えて、曖昧に笑った。
時計を見ると、午前四時の五分前だった。
雨はいつまでも降り続いていた。雨音は静かなやり方で、人間などではおよそ想像
もできないくらい静かなやり方で、街の全てを埋めていた。
「手筈は判ってるな。ムショに入る事になっても、心配いらねぇ、後の面倒は見てやる。帰って来たら幹部候補だ。しっかりやんな」
幹部候補が聞いて呆れる。5年も下っ端をやって目が出ねぇなんざ、この稼業にゃ
向かねぇのよ。足を洗えばいいもんを、鉄砲玉なんぞで命を落とすのは可哀想だが、
それも自業自得というもんよ。まぁ言われた事だけはちゃんとやるから今までいられ
たが、流石に年の食いすぎだ。
「♪マサカリ担いだ金太郎」曲が流れてメールが届いた。
《兄貴、事務所の前につきやした。明かりが点いてません。どうしやしょう》
勝治に限らず最近の若ぇ奴らはメールだけは早い。会話をそのままのスピードで打
ち込めるのが当たり前のようだ。しかしこのくらいのことで、聞いてくるというの
も、臨機応変な対応が出来ないからだ。情けない。しかし事務所が留守というのはオ
カシイ。俺はマサにいって、メールを送り返させた。
《鍵なんぞ壊して入れ》
《は・入りやした。電気は点けてもいいでしょうか》
《馬鹿野郎! 電気は点けるな》
《奥で物音がします。どうしやすか》
《おい、勝治。メールの着信音はどうしてる?》
《あっしのは桃太郎です。あっすんません。バイブに変更します(汗)》
奥に人がいるなら完全にばれている。隠密行動が出来ないとなると、ここは突っ込
むしかねぇか。
《その辺に、2・3発ぶち込んで帰ってきな》
これで奴もお陀仏だろう。
《4発ぶち込みまちたが、ピッピ・ピッピピ音がするだけで、何の反応もありませ
ん》
《何の音がするって?》
《携帯のメールを打ってる音です》
俺は唖然とした。ひょっとしたら相手も誰かに聞いてるんだろうか? バカな留守
番を置いているらしい。
《誰か出てきました。チャカを向けて「誰だ?」って言ってます》
《組の名前は出すんじゃねぇぞ》
《どうしたら、いいでしょう》
相手も勝治と同じなら、突拍子も無いことをすれば助かるかも知れないと考えた俺
は、秘策を授けた。
《いいか、黙って裸になって、その辺にクソでもしろ》
《えっ? クソですか?》
《そうだ。相手が驚いてる間に逃げて来い》
《頑張ってるんですが、出ません(ToT;)》
絵文字なんか使うな!
《相手は何をしてる?》
《メールを打ってます》
《それじゃ、メールを打ってる間にその野郎のカマを掘っちまえ》
《いやですよぉ、そんなの》
《生きてそこを出たきゃ、やれ!!》
《兄貴、これって癖になりそうっす(^o^)》
シャーッ、ブリッ!
「ねえ、亜紀は彼氏いる?」
ブリ、ブリブリッ!
「ねえ、聞いてる?」
(まただ。先輩の悪い癖!)
ブリッ、プリッ!
「彼氏の携帯見ちゃったんだー、あたし」
「……」
カラカラン、ジャッパーッ!
「ふぅ、すっきり。でね、あたし二股かけられてたの」
「……」
カシャッ、キーッ
「ねえ、今日は天気が良いから公園で食べない?」
先輩はトイレから出てくると明らかな作り笑いをして、鏡に映る私に言った。
(そう言えばいつもより元気がないわ)
「で、どうしたんですか?」
先輩は髪をかき上げ、鏡にべーっとすると「こうよ!」と言って右手を突きだし
た。明らかに、グーだった。充血した瞳がなんだか可哀想だと思った。
コンビニを出ると先輩と公園へ歩いた。
陽射しが熱かったけれど微風が心地良い。先輩は袋をぶらぶらと揺らし、遠くの空
を見つめながら歩く。
「ねえ、亜紀ちゃんは彼氏いるの?」
「……いいえ」
「そう。あたし、彼奴をふってやったわ。二度と逢わないってね」
振り返る先輩の髪が栗色に耀いてとても綺麗だった。
公園の中を抜けると木陰にベンチがある。丁度いいと思いながらもなんだか変だ。
先輩はそんな事はお構い無しに、袋からクロワッサンと牛乳を取出しいきなり食べ
始める。正確には喰らっていると言った方が良いかも知れない。
二人の座ったベンチは大柳の木陰だった。よりによってこのシチュエーション。な
んだか先輩がホントに可哀想になってきた。
(いつもの先輩の笑顔は?)
そう思うと無性に笑ってもらいたくなってきた。
先輩はクロワッサンを食べ終えると牛乳パックを開けてゴクゴクと飲みだした。
(今だ!)
先輩の顔の前に自分の顔をセット。
目を閉じながら眉を吊り上げ薄目をセット!
鼻の下を伸しながら口を半開きにセット!
鼻の穴を思いっ切り膨らませる。セット完了!
(……先輩、笑って?)
牛乳を飲む手が止まった。上に向けた顔から目だけで私を見ている。
「グボッ! ぶふぁふぁ〜ッ!」
私の目の前が白い世界に包まれ、ミルクの匂いが香り立つ。
先輩はクシャクシャになって笑った。私も嬉しくって笑った。
私は濡れたスカートの両端を指でつまみながら、がに股で戯けて見せた。
「もー、亜紀ったら!」
そう言いながら先輩はハンカチで目頭を押さえて……笑った。
私の股下を微風が通り抜ける。
柳の枝が揺れて『強がりはおよしなさい』と言っているようだった。
ある夏の日の夕方、一日の仕事を終え、もうすぐ四十に手がとどく男が重い足取りで家路に向かう。会社を変わって一年。自分のやりたい道を選ぶために会社を変わった。以前より格段に小さい会社。自分より学歴が劣る人間ばかり。仕事も人間関係もうまくいかない。前の会社に残っていた方がよかったのでは? と、もう一人の自分が顔を出す。心を癒してくれる相手もいない寂しい一人男。
今日は朝から雨が降っていた。会社を出た頃は小雨であったが、今はかなり強い雨になっている。明日まで降り続くらしい。じめじめした不快な夕暮れ。いつもの帰り道。時間帯の割には車の通りも少ない静かな道。うつむき加減に歩いているせいであろうか、孤独感がより一層増してくる。「駄目だ、胸を張って前を向いて歩こう」男はゆっくり顔を上げた。
ちょっと先の小さな交差点に少女が一人立っている。上半身は不釣合いな大きな傘に覆われている。脚をまっすぐ伸ばしてじっと立っている。小学校低学年くらいであろうか、後ろ姿からそんな感じがした。
何をしているのだろう。周りには誰もいない。人も車も通らない雨だけが降り注ぐ交
差点。誰かを待っているのであろうか? 少女まであと数メートルまで近づく。する
と少女が急に歩き始めた。「なんだ?……ふっ、あんな小さな子にまで嫌われたか」
何もかも悪い方へ頭が働く。少女が自分の存在に気づいているはずもないのに。少女
が立っていた場所に立ち止り、前を歩いていく後ろ姿を見つめる。「あぁ、何もかも
が嫌になる……」男は傘を上にかざし雨の降る夕暮れ空を見上げた。
「あっ…」男の目が止まった。青が点滅する信号。「そうか、ただ信号を待っていた
だけなのか」いつもの帰り道。人通り、車の交通もほとんどない道。いつもうつむき
加減で歩く道。少女はただ信号を待っていただけ。たったそれだけのこと。男はいつ
も信号など気にしていなかった。車も来ないのに信号待ちする意味があるのか? 危
険もないのになんで立ち止まる必要がある? 誰に迷惑がかかる?……いつも自分の
都合ばかり考えていた。周りを見下し、自分勝手な行動ばかりしていた。
「おや?天気が良くなってきたかな?」雨が弱まり辺りが少し明るくなってきた。男
の心の変化がそうさせたのか、そう感じさせたのか……。誰も気にすることのない出
来事。でも、一人の男の心には爽やかな風が流れた。男の顔に心地よい笑顔が浮かん
でいた。
あの頃、たぶん私はとても疲れていた。私自身を取り巻く全ての事に。
キッカケは些細な夫婦喧嘩だった。なのにお互いの不満を口にし始めたら、心の奥
底に無理矢理押し込んでおいた不満やら愚痴やらが、まるで堤防が決壊したように一
気に溢れ出して大洪水になってしまった。
結婚してからの家事と仕事の両立は思っていたよりもずっと大変で、私の労力と時
間を否応無しに食いつぶしていく。会う人会う人が「赤ちゃんはまだ?」とまるで挨
拶代わりのように私に問う。余計なお世話だ。
仕事で足を引っ張るのは、無能な男と楽をしたい女。私は知っている。彼等が影で
私の事を「お局様」と呼んで笑っている事を。
強気の暴言を吐き飛び出して来たけれど、行き先なんて無かった。実家は遠過ぎて
簡単には帰れないし、ひとりで繁華街を出歩くのも億劫だ。こういう大事な時に限っ
て、数少ない友人達も不在だったりする。
私はしばらく深夜営業のファミレスで時間を潰した後、結局そのまま車で都内の仕
事場に向かった。机の上には溜まった仕事が山積みになっている。ちょうどいい。朝
まで仕事をしながら時間を潰そうと思い、誰もいない職場のドアを開けた。
クーラーの電源を入れて書類に目を通しながら、途中買って来た冷たい缶コーヒー
を飲み干す。味なんてわからない。ただ、乾いてカラカラになった体と心に何か水分
を補給しただけの事だ。
結局たいしてはかどらないまま時間は過ぎ、やがて東の空の縁がうっすらと明るみ
始めた。私は窓際に立ち、刻々と変わりゆく景色を見つめる。窓から見えるたくさん
の工場のネオンが美しい朝の光に溶けていく。
「あ……キリン……!?」
その時、私は見つけたのだ。金色に輝く朝日をバックに悠然と立ち並ぶキリンの姿
を。
それは工業地帯に並ぶ鉄骨で出来た高いクレーンだった。クレーンの上方部分を少
し斜めに起こしたそのシルエットは、動物園でしか見た事の無いキリンの姿を見事に
模倣していた。都会のサバンナに佇む巨大なキリンは神々しくさえあり、私はなんだ
か自分がすごくちっぽけな存在のように思えて小さく笑った。
朝焼けが空をうす紅色に染め上げて、やがて世の中は目を覚ます。その頃には、こ
のキリン達も姿を消すだろう。夜が明けるほんの一瞬だけの夜明けのキリン。
その時、机の上に置かれた携帯が鳴った。私は着信を見なくても、それが誰からか
かってきた電話なのかハッキリとわかっていた。
横光利一は憂鬱だった。
眼前の検事は眼を怒らせ、顔を赤くして、さっきから同じ事を繰り返し喚いてい
る。彼の小説『日輪』が皇室を冒涜しているというのだ。
「冒涜、ですか」
横光は皮肉な笑みを浮かべた。『日輪』は邪馬台国の女王卑弥呼を主人公にした歴
史小説である。無知な検察は、卑弥呼と、天皇家の先祖とされる天照大神を混同し、
彼を不敬罪で告訴しようとしていた。
「私は卑弥呼が天照大神だなんて、書いてませんよ」
横光は、『魏志倭人伝』や和辻哲郎の『日本古代文化』について滔々と論じ、卑弥
呼と天照大神が別人である事を根気よく説明した。
「もし、こんな事で私を告発したら、逆に当局の方が不敬罪に問われます」
この一言で、検事は沈黙した。横光は無罪放免となった。
釈放されたその足で、横光は神田の古本街へ向かった。
古本にとって、強い西日は大敵だ。そのため、この街の本屋は皆、夕日を避けて道
路の片側に集中している。その通りを歩きながら、横光は溜息を吐いた。
(あの頃が懐かしい)
貧窮時代、彼はここで朝から晩まで歩き回っては立ち読みし、本をノートに写して
勉強したのである。飯は一日一食、おかずはキンピラごぼうのみだった。
苦しい毎日だった。それでも彼には夢があった。作家になりたい、その想いだけが
彼を支えてきた。
夢は成就した。今や横光は文壇の寵児であり、「小説の神様」と呼ばれるまでにな
った。
だが、横光の顔には深い憂愁があった。作家としての成功と引き替えに、言いよう
のない疲労と倦怠が彼の肩に重くのしかかっていた。
(男は夢があるうちが華だな)
心中に秘められた孤独は、彼自身の手にも余るものであった。
その夜、横光は先輩の菊池寛の家に招かれ、夕食を馳走になった。
「いやぁ、何はともあれ、無事で良かった」
そう言って、菊池は横光のために杯を上げた。
「ご心配をおかけしました」
横光にとって、菊池は大恩人である。『日輪』が雑誌に掲載され、横光が作家とし
ての一歩を踏み出す事が出来たのも、すべて菊池の尽力によるものだった。
「ところで例の『日輪』だがね」
談笑の中、菊池が言う。
「僕はやっぱり『天照大神』という題名の方が良かったと思うけど」
横光は寂しげな笑みを浮かべ、ただ頷くしかなかった。
今日も疲れた。時給750円のコンビニのバイトを週6日、汗水垂らして働いている。もし、大学に受かっていたら、今頃は楽しいキャンバスライフを満喫していたんだろう。フリーター暮らしっていうのも、気楽でいいんだけどさ。
そんな事ばかり考えながら、家へと帰ると一通の封筒が届いていた。宛て名には、汚い文字で俺の名前が書いてある。恐る恐る封を開けてみると、そこには汚い文字で書かれた手紙が入っていた。
ぜんりゃく、10年後のぼくへ
これは、俺が書いたのか?
そういえば、小学生の頃こんなものを書いた記憶がある。すっかり忘れていたけれど、担任の金子先生は覚えていて、みんなにあの時の手紙を送ってくれたのだろう。あの時の俺は何を書いたんだ。
元気ですか? ぼくは元気です。かぜにならないように注意してください。20才のぼくは、なにをしていますか? 野球せんしゅになっていますか?
や、野球選手って……。そういえば、少年時代は野球ばかりやっていた。将来は、絶対に野球選手なっているんだと思っていた。野球を最後にやったのはいつだろう。遠い昔のような気がする。
けんた君とは、今もあそんでいますか? けんた君とは、いつまでもなかよくしていたいです。けんた君によろしく言ってください。
けんた君? 矢島健太の事か……。あの頃は、いつもあいつと一緒に遊んでいたな。中学を卒業して以来、一回も会っていない。友達なんてそんなものだ。あいつも俺の事なんて、忘れてしまっているだろう。
なにをやっているかはわからないけれど、いっしょうけんめいでがんばってください。たくさんたくさん、笑ってくらしてください。おもしろい思い出でいっぱいにしてください。
一生懸命か。笑って暮らしてくださいか。あの頃の俺が、今の俺を見たらどう感じるのだろう。ガッカリするのかな。俺は、一体なにがしたかったんだっけな。
リーン、リーン、リーン
電話か。こんな時間に誰だよ、まったく。
もしもし。えっ!? 矢島って、もしかして健太か? 懐かしいなぁ〜。
ああ、俺の所にも手紙来たよ。汚い字で読みづらいよ、まったく。
おう、俺もお前の事が書いてあった。よろしく言ってくれってさ。
本当に久しぶりだよな、今何しているんだ?
K大学に行っているのか!? すげぇなぁ〜。
えっ!? 俺か? 俺は……。
一生懸命頑張っているよ
ときとして、人間の中にはそれと気づかずに、悪意のある行動の小さな芽が発現していることがある。といっても、その時点では本人が悪いと気づいていないのだから、それは善悪の方向性のない、行動の束でしかない。後々、大きく育ったときになって、周囲の意見によって悪いことだと知らされる。
問題は、気づいたときには、その行動の持つ方向性とは無関係に、行動そのものの習性という縛りから抜けきれないことだ。そして自覚しながら反復することで、やがて行動は、明確な悪意を宿したものになる。
夕刊の三面に面白い記事が載っていた。
ホットドッグスタンドで働くCは、その仕事に就いて3年目になる38歳の男だった。以前の職歴については記されていない。
ホットドッグ屋の仕事が退屈なものであるかはわからないが、単調なことは確かだ。マッチ箱のように狭いスタンドの中で同じ動作を繰り返す。彼と彼を取り巻く食材達は完全に一個の機械として機能するわけで、証言にも、「まったく同じホットドッグを作っている気になることがありました。タマネギの分量から、ケチャップがソーセージに乗っている割合まで、寸分違わない気がほんとうにしてくるんです」とあった。
彼は不定期に鼻をほじるのだが、さらにそれを指先で弾く癖があった。この一連の動作が、小世界で唯一の不確定要素であり、2002年ある夏の日、彼の弾いた鼻くそはとてもよく転がった。ころころころ。それは粒々マスタードの壜の中に落ちた。
彼は一瞬、壜に目をやったが、二、三回鼻を鳴らすと店の外の景色を見やり、風の匂いをかいでみた。
彼にとってはその程度のことだったのだ。悪気はない。
数日後、地域特集のひとつで彼の店が週刊雑誌に取り上げられ、店は混雑した。
ふたつの出来事は相関していないが、狭い世界に生きる彼には、他に原因を求めるところがなかったのか、それとも別の考えがあったのかもしれないが、粒々マスタードに鼻くそを投じることに懸命になった。不定期な行為であり、どこに飛ぶかわからないはずの彼の鼻くそは、マスタード行きの定期便となり、客足が減っていくにもかかわらず、増便の一途をたどった。やがて怪しげなマスタードは、完全にそれでしかなくなった。
逮捕されたときには、彼は自分の行動に悪意という明確な方向性を与えていたことが判明した。それがまた、彼を裁判で不利にした。連行されるとき、彼はこう言ったのだ。
「ふざけんな!うまいよ」
「ポキ、ポキッ」
今日は親指と小指が優しく鳴いてくれたので、 気分は快晴だ。
スピードメーターは30Km/hを示している。
順調な運行は時として退屈でもある。
「20分前にバス操車場を出発しました当車両、安全走行を続けています。最終バス停到着予定時刻は午前10時20分。天気晴れ。気温28度。風力1となっております」
左座席の方から囁く声が耳に届く。
「ママ、運転手さんジャンボジェットのパイロットみたいだね」
「そうよ。多くの乗客の命を預かる点では似ているわね」
俺はダッシュボードからレイバンサングラスを取り出しかけてみた。
「ママ、やっぱりパイロットだよ」
「そうね・・・」
ふふふ、照れるぜ。坊主。バスは一丁目バス停を止まらずに通り過ぎて行く。
俺は徐に手放し運転で運転席に掛けていたダブルの紺のブレザーを羽織ってみた。袖の金ボタンがキザだ。
「ママ、完全にパイロットだよ。たまたまバスのライセンスも持っているんだ」
ふふふ、本当に照れるぜ。坊主。
「エンジンアクセル、ルーズ」
「ブレーキペダル、プッシュオン」
「ターントゥザレフト」
「オートドライブ、キープ」
「ドゥーマイベスト」
坊主は、目をキラキラさせて母親に話し掛けている。
「ママ、英語で何か喋っているよ。パイロットさんって格好いいな」
照れまくりだぞ、このくそ坊主。また二丁目バス停を止まらずに過ぎて行く。停車待ちの人々が口をあんぐり開けたまま見送っている。絵画の「叫び」みたいなイメージだ。
「テイクオフ!」
なぜ離陸なのか自分でも分からない。たぶん心の叫びだな。給料上げろ。次のバス停は停車しないと住民からそろそろ文句が出るはずだ。
坊主の母親がハミングし始めた。俺の操縦に完全に酔った目をしている。たぶん察するに、あの懐かしい「スカイハイ♪」のメロディーだ。俺的には「君の瞳に恋してる♪」が好きだよ。奥さん。
おおお、操縦桿が重いぞ。「緊急事態発生!管制塔応答願います!」
何だよバス停に停車中だったのか。
「テイクオフ!」俺はもう一度アナウンスした。いつの間にか坊主も母親もあきれて転寝している。
天使が背中を通りすぎたと欧米では表現するエンジン音すら聞こえない程の静寂が車内に拡がっている。
グリーンのレイバンがバックミラーの中でエメラルドの様に一心に煌めいていた。
こうやって俺のバスは三丁目バス停を後に 、ロマンティックにテイクオフして行<く。
私は放課後、川と野原のある、お気に入りの場所に腰をおろしていた。
緑の草が何処よりも沢山生い茂った場所に私は、制服のスカートが大きくめくれるのも気にせずに仰向けに寝転んだ。
「あ―――――――。気持ちいい」
澄み切った青い空に、ぽわんと浮かぶ白い雲が良く映えている。
そんなのを、ぼんやりと見ていたら私の友達がやって来た。
「お、こんちはっ」
私はふわっと立ち上がった。
すると、友達も一緒に立ち上がった、ような気がした。
なにしろ、私の友達は「風」なのだ。
私がここに来ると、必ず来てくれる風。
その風といつも私はおしゃべりをする。
「ね〜。今日はぁ、数学のテストがあったんだよ〜〜」
「ムカついた女がいたから、そいつを思いっきり蹴飛ばしちゃった。あはははっ」
「今日、彼とねえ、手つないじゃった!!きゃあ〜〜〜っっ!!」
風はいつも答えてくれる。
ざわざわとした時は風が怒ってる時や、私を叱ってる時。
私の頬をくすぐってくれる時は、風も一緒に笑ったり、喜んでくれたりしているとき。
さあっと、私の周りを風が取り囲む時は、一緒に悲しんでくれている時。
風は、いつのまにか私の友達となっていた。
私が死んで、生まれ変わったら風になりたい。
そして、私みたいにこの野原に来て、この場所に寝転んでくれた人と友達になりたい。
そんな夢が私にはある。
風がうらやましい。
感情がある、人間よりうらやましい。
私の友達は本当の友達だ。
友達は今、去って行った。
「じゃあね、私の友達っ」
そう言って、私はすっと立ち上がった。
「おーい、梨絵〜〜!!」
私の彼が、私を呼んでいる。
「はーい!」
「一体、誰と話してたんだよ?」
「えっとねえ、私の大切な友達っ!」
「1人じゃんか」
「あなたにはわからないのっ」
そう言って、私はふふふっと笑って彼と手をつないでテクテクと家路へと向かって言った。
人は、みな、同じだ
醜男のひがみ。平和であれ。ふふ、その顔。
想ふ女がキッスしていた。いやいや、くちずけ。
大変なことになっています。俺僕、酒の席に遅参したがために、つくづく思いますのは、下戸の建てたる蔵もなしと言いましょうか、上戸本性をあらわすと語りませうか、人間は因果だなあと思い至りますが、何が因果かといいますと、人間、酒があればそれは酒の席、当の然、くいっといきますものです。さもすれば、酔っぱらい、という名の物体に成り果てるのでして、これが因果なわけです。飛び交う酒臭。行き交う奇声。目前に、空空漠漠たる酒興が開けています。しらふな小生、自分にお顔を赤らめていたわけで、これも、因果やのう。
引退パーテー。
あ、これでも、俺、そう、サッカー部だったの。1勝18敗。はは。残念会っての?弱小先輩送り出そうってか。後輩心に涙。
ままままままま、ってちょび髭たくわえた後輩が、ぐいぐい酒を注いでくるから、俺も、ん?おれぁ 江戸っ子でいって、さくさく飲んだわけで、わたくしも因果の波へ。
空空漠漠たる因果な酔いで、俺、うんうん唸って床を輾転していたら、ぬらぬらした後輩が、マイク持ってみすちる、げらげら唄うものだから、頭に反芻しやがるの。げらげらげらげら。なんだか気持ちが屈託してきた。ぬらぬらが唄う、みすちる。屈託してきた。その、しかめっ面で、高音唄うの止めやがれい、阿呆。そんな、小生の心持、微塵も気にかけず、ぬらぬらがみすちる。あかん、あかん、てって関西弁で、かぶり振り振り、お尻振り振り、トイレットに参上。
ゴン、何の音かしらん。床に頭。酔いつぶれたジャーマネ、ご就寝。わたくし、ドア―でこのジャーマネ、痛快に殴打したわけで、仕様がねえなって、俺、こいつをどかして、しゅばだばようをたしたのだけれども、右の足に違和感。寝げろ。みすちる。
あ、にんじん。
俺、嗚咽蒼白の思いで、部屋にご帰還。
駄目だった。あかんかった。ぬらぬら、部屋の奥で、ゆらゆら。想ふ女とキッスしていた。いやいや、くちずけ。すまん、鼻の下、のびてしもうた。くそう、美男子。
後輩心に、涙。
ねえさん。
だめだ。もういくよ。さよなら。
敬具
俺、ねえさんなんか、いねえや。
後で顔も憶えていない男と寝ることはあるけれど、セックスが好きなわけじゃない。もちろん、それなりのファンタジーもあって出会った男を吟味するのだけれど、寝ることに意味は求めない。求めなくなった。
幾人も女を泣かしてきたとか、愛人を複数人抱えているとか、吹聴する男に限って、寝てみると目新しいことはなくて、見栄えだけの体位とか、男の視覚を満たすだけの行為とか、ああもう、いいじゃないのって一蹴してふて寝したくなるようなセックスばかりで、満たされたことはない。
今夜の男もそうだった。
地元ではちょっと知られた美容師で、雑誌やテレビ番組のヘアメイクを担当している。アッシュブラウンのたてがみ、力のある黒くて深い瞳。私の好みじゃないけれど、自身が特集記事に組まれるほどマスコミ受けするのは、そのビジュアルによるところが大きい。
若い美容師にありがちな妙になれなれしい口ぶりでもなく、かといって畏まった風でもなく、適度な距離を保って接してくれるところが、女性として尊重されている気にさせてくれて、感じがよかった。
気を引くでもなく突き放すでもない私の態度にそそられた。男の方ではそう言った。
いつまでも乳房で油を売っている男を引き剥がして、身をよじり左手で掴んだものを一気に口に含んだ。男は決まりが悪いのか、「馴れてるな」とか「どこで覚えた」とか口走っていたけれど、波に抗えなくなって意識を集中し始めた。
高まっていく潮位とともに、二人の熱が部屋の空気に吸われていく。
二度目の昂まりで達すると、男はベッドに沈んだ。たてがみが寝息に呼応して静かに上下しだすと、私は男に背を向けてシーツを引き寄せた。
なぜ、どの男も愛せないのだろう。
熱帯夜は明けきっていない。辺りの熱が肺から染み込みからだごと溶けていく気がした。二人分のからだが溶解し空気と交じり合うイメージを振り払いながら、私の指は私自身の奥深く侵入した。
もっと深く、ずっと奥深くにうつろな穴がぽっかりと口を開いているはずだ。
だれか、だれか。押し広げ挿し塞ぎ、核心に触れてほしい。
虚しくて乾いた空間を熱く滾るもので満たしてほしい。
指から波紋のように拡がっていく感覚が、かろうじてうつつに意識を繋ぎとめていた。寄せては返し寄せては返す。
大きな波で押し上げられ緩やかに沈みながら、無意識の海に呑みこまれた。潮が引くように夜の気配が薄れていく気がした。
もう十回やった。
僕らは堅くよった糸のように絡まったままじっとしていた。
「動かないで」
「じっとして」
始めての時はおどろいた。
動きたくって、じっとしていられなくって、拷問のようだった。
この人はまるで僕を全部、 あそこにいれようとしているようだった。
もうどのくらいこうしているか。
良いよ、もうどうでも。
早送りで僕を全部戻して、あそこに戻して。
急に身体が離れるので、僕はあわてて僕を押し込む。
だめだよ、動くなっていったのに、自分から離れる。
何が何でも絶対やらなきゃいられない突き上げるものが、腰のあたりから背筋を通って炸裂した。
誰だ!
これを快感などと、言ったヤツは!
これは逃れられない苦痛だ。
高波にさらわれ、翻弄されて、
非力を思う存分知らされ、うち負かされる。
真っ白なところに裸のまま放り出されたトタン、僕は液体になってすごいスピードで広く広く広がり続ける。
・・・気が付くと朝になっている。
僕は5回目に浅い水にたゆたっているような君に、聞いた。
「気持ちいいの?」
「広い宇宙みたいな静かなところを、一人っきりで落ちていくの。」
「怖くない?」
「ぜんぜん」
「自分が落ちていくのを自分で見ているの。
なんにもない真っ暗な闇の中を、白い十字架みたいな私の身体がどんどん落ちていって、小さくなっていくの」
「寂しくないの」
まつげに縁取られた目が、凸レンズのようにふくれて、あって言う間に小さな水銀の粒のようになって四方八方に散った。
十回目に、いなくなるだろうと思っていた。
きり番がすきだったから。
少し笑ったら泣けた。
お母さん。
あれから5年たったね。
おやじの連れ込んだ子持ちの女は、僕の腹の下で思う存分、僕に蹂躙されている。
もっともっとって、意地汚いヤツだ。
おやじは薄々感づいていると思うよ。
おやじの僕にたいする目は、負け犬のそれそのもの。
あなたに、見せてやりたいくらいだ。
ところで僕ももう十八歳だ。
良い切りじゃないけど、もうあなたの復讐のお先棒は、ここで完にしてほしい。
僕は良い子で存分にあなたの指令をまっとうした。
あなたは、とてつもなく勝った。
アハハハ
あの時、僕があなたの中に送り込んだヤツは、もう五歳になっているんだね。
不思議だな。
僕が再生されて、君と一緒にいる?
僕と君と奴。
最高の構成員じゃないか。
じゃまな奴らは、もういない。
あなたを阻むものは、いない。
いつか、あいたいね。
僕はノープロブレムだ。
連絡を半永久に待つ。
秘密を孕んで、彼女はますます美しくなった。体の内側から発する不思議な熱で、頬はピンクに染まり、瞳は物思わしげに潤んだ。手を取るといつもかっかと熱かった。次第に体を動かすのも大儀になったようで、彼女の所作を見ている僕は妊婦を思った。
そのうち本当に腹まで膨らみ出した。でもそれは人目につかない程度の膨らみで、細身のジーンズが入らなくなった程度のことだった。長身の彼女があれこれ着るものを工夫すると、簡単にその丸みも目立たなくなった。―妊娠すると、女ってきっとこんな苦労をするのよね、と彼女は笑って言った。僕もその調子に合わせて、―どうせならマタニティドレスでも買ったら、と言うと、これは彼女の癇に障ったようだった。幸い、腹の膨らみはそれ以上は大きくならなかった。
問題は眠る時だった―それとセックスの時。彼女はうつ伏せの姿勢で眠るのが好きだったのだけれど、腹が邪魔をしてそれが難しくなった。寝苦しがって転転としながら彼女は、―お腹の中で何か蠢いているみたい、と言った。―眠る時ぐらい何もかも忘れて一人になりたいのに、とも言った。僕は脚を揉んだり腰を擦ったりして彼女を眠りへ誘う手助けをした。
セックスの時の問題も基本は同じだった。要は僕が上になる姿勢の時、腹部を圧迫しないように気を付けなくてはならないということだ。もちろん中に赤ん坊が入っているわけではないのだけれど、腹部を圧迫されると彼女自身が不快を感じるらしかった。それほどまでに秘密と彼女は渾然一体となっていたのだ。
やがてその秘密が白日の下に曝された時、人々は予期されたほど驚かなかった。彼女の孕んだ秘密はさる王様の危篤ということで、王が死んでその秘密は大っぴらにされたのだ。だいたい、人は他人の死ということには驚くほど無関心なものだ―人はいずれ死ぬという定理を、自分以外の他人には実に容易に当てはめて安心していられる。
内容物を失った彼女の腹はあっけなくしぼみ、後には少しだけ皮のたるみが残っ
た。彼女は何かがっかりしたように見えた。
―ほんというと、と彼女は僕に打ち明けた。―優越感に浸りたかったの。秘密が明
かされる時、何かものすごい優越感を味わえるんじゃないかと思った。だからあんな
こと、引き受けたの。決してお金のためなんかじゃなかった。
―いいじゃないか、と僕は言った。―今度は自分のためになる秘密にすればいい
さ。
彼女は何故か顔を赤らめた。
旅人はある大きな葉に出会った。
その葉はとても大きく、旅人の身長の倍は優にあった。
しかし葉に見合う大きな樹は、どこにも見当たらなかった。
旅人は葉に尋ねた。
「あなたは大きな身体だ。あなたの大きな大きな樹は、いったいどこに」
葉は大きな大きな声で答えた。
「旅人や。私の付け根を見て御覧」
旅人は見つけた。葉の大きな身体の下にある、葉の大きな付け根に繋がった、小さな
小さな枝のような樹を。
「私には、小さな身体のあなたが大きな大きな葉を付けて、とても苦しそうに見え
る」
樹は小さな針のような声で答えた。
「苦しくないとは言えないよ。でも、私の大事な葉だから」
旅人は言った。
「でも、このままでは、あなたはきっと死んでしまう」
樹は言った。
「……あなたに頼みがあるの。私の声は小さいので、とてもあの子に届かない。だか
らあなたは私の言葉を、そのままあの子に伝えて頂戴」
旅人は頷いた。
「あの子は死のうとしているの。今夜死のうとしているの。私はあの子を死なせたく
ない。でも私の声は小さ過ぎて、とてもあの子には届かないの」
旅人は考えた。
樹の頼みを聞いたなら、樹も葉も両方死んでしまう。
聞かなかったなら、葉は一人で死んでしまう。
旅人は何も言わず、葉の前へ戻った。
旅人は葉に言った。
「今日はもう遅いし、この近くには宿も無い。良かったら今夜はあなたの上で」
「そんなことならお安い御用」
旅人は葉の上に転がって、葉に話し掛けた。
「あなたの死は、私が看取るよ」
「……ありがとう」
葉は大きく身を振るわせ、樹から身体を切り離そうとする。
その勢いは突風のようで、葉の上にいる旅人は、直ぐに振り落とされてしまった。
「……離れない」
離れない。葉がいくら身を振るわせようと、樹と葉はがっちりと結び付いており、離
れる様子はなかった。
朝になり、眠れぬまま葉の傍にいた旅人が口を開いた。
「死ねたかい」
「死ねない」
旅人は立ち上がり、軽く身体を伸ばした。
「樹が、死んで欲しくないと、言ったのか」
「さあね」
その辺に抛ってあった荷物を背負う。
「知らないよ。私は」
「そうか」
「一夜の宿をありがとう」
旅人は樹の元へ向かう。
「だいぶ、疲れたんじゃないのかい」
樹の声は、昨日よりもさらに細くなっていた。
「…………」
「それじゃあ、私は行くよ」
「……ありがとう」
旅人はゆっくりと首を横に振る。
そして、旅人は旅に戻る。
残されたのは小さな樹と大きな葉。
これから朽ち果てていく
ひとつの命。
ミキオは引っ越しをした。
そのせいで、今まで駅から歩いて10分だったのが、20分になった。しかし、単
純に時間が倍になっただけではない。今度の家は、辺りに全く民家のない山奥であっ
た。近所では『千葉の樹海』なんて呼ばれており、町から少しばかり脇道にそれて1
0分程歩くだけなのに遭難者が絶えなかった。自殺の名所としてワイドショーにも取
り上げられた。ミキオの家はそんな山奥にひっそりとあった。
そんなある日、いつものようにミキオは家路へと駅からブルドーザーを走らせてい
た。(なぜ、ブルドーザーなのかと言うと、普通の車では道が悪くて走行不能のため
である。ブルドーザーは1台でもかなり自転車置き場を占領してしまうため、駅では
反対の署名運動が行われていたが、ミキオはそんな事お構いなしであった。)その日
はどうもエンジンの調子が悪かった。いまいちスピードも乗らない。そして、とうと
うブルドーザーは止まってしまった。
「やれやれだぜ」
ミキオのちょっとカッコ付けたセリフは、山の中に寂しく響いた。
「歩くか…」
道は悪いが歩いても10分である。仕方なしにミキオは登山靴に履き替え歩き始め
た。少し進むと、だんだん吹雪が激しくなってきた。言い忘れたが、千葉県なのにこ
の山のみ1年中豪雪地帯であった。それでもミキオは当たり前のように歩き続けた。
そして10分が過ぎた。
「変だなぁ。もう着いてもおかしくないハズなんだけど。まさか迷ったのかなぁ…」
こんな時は、無理に動かない方がいい。ミキオは鞄からスコップを取り出すと、あっ
と言う間にかまくらを作り、中で一晩過ごす事に決めた。かまくらで一晩過ごすのは
今月に入って5度目だった。
「しまった!替えのワイシャツを忘れた」
非常時用に常に替えのワイシャツは2枚持って歩いていた。しかしこの日に限って、
アイロンをかけてそのまま忘れてきてしまったのだ。
「やっぱり家に帰らないとダメか」
とは言ったものの、明確な帰る手段があったワケではなかった。
その時だった。遠くから犬ゾリの音が聞こえた。ミキオがかまくらを飛び出すと、そ
こには犬ゾリに乗った兄の姿があった。
「兄さん!」
「こんな所で寝てっと、風邪引いちゃうよぉ〜ん」
ミキオは兄のソリで家路へと向かいながら「俺もブルドーザーはやめてソリにしよ
っかなぁ」なんて考えていた。と同時に、「兄はこのソリと犬達を駅のどこに置いて
るのだろう」という疑問にもおそわれた。
このところ体は、とても疲れていた。
髪を切り、マニキュアを変え、口紅の色も変え・・・
今日は、携帯のストラップをお洒落なものに交換した。
そんな自分勝手な気まぐれだけが、つかの間の安らぎとなり時間の流れを新鮮に感じ
させる。
今日は何となく真っ直ぐ家に帰りたくなかった。
いつも帰る道とは反対の方向にトボトボと歩くと路地にBarの看板が目に止まる。
「バー 時計」
その名前に引き込まれるように、次の瞬間に店のノブを握っていた。
店の中は、少し暗かった。
3人の男性客は、お互いにカウンターで距離を置いて座っている。
空いている席に目を移そうとしたしたその時、男と目を合わせてしまった。
「こ、こんばんは〜」
恥ずかしさを隠すように挨拶をすると、男は声を出さず軽く会釈を返してくれた。
男というよりも紳士といった方がピッタリとする感じで、きっちりとブランド物のス
ーツを着こなし、派手ではあるがいやみのないネクタイを締めている。
「お連れがいるのかな?」
「いいえ・・・」
「では、ご一緒に飲みませんか?!」
女性を誘う一連の動きがとてもスムースで慣れている感じがしたが、下心は感じさせ
ない。今は自分の事を何も知らない人間の方がいろいろと話せるのかもしれないと、
警戒心はまったく抱かなかった。
「私が何かご馳走しましょう」
紳士はあたしに注文するように促す。
「え〜と、何がいいかな」
今日は、がんがん飲んで現実の世界を振り切りたい気分だった。
「スクリュードライバーをお願いします」
この“スクリュードライバー”は、口当たりがよいので飲みすぎてしまい、酔いが回ってしまうのだということを忘れていた。
「乾杯〜」お互いに微笑みを投げかけあいながら、グラスを合わせる。
一杯目は、恥ずかしさを消すために一気に喉に流し込む。
2杯目は、お互いを探る時だった。
時計の針は、グラスを空けると共に無情にも何もなかったように時を刻む。彼とスク
リュードライバーを飲む時は、そんな時計の音すらも聞こえないほどの楽しい時間だ
った。
でも今はどうだろう??
―この音が無性に憎い。
―同じ時という時間なのにこころが痛くて苦しいよ。
―こんなわたしが満たされるのはやっぱりあなたからの愛
―求めちゃいけないの?
―あたしは、あなたに愛されたいのに・・
「マスター、モスコミュールをお願いね !」
彼への想いを断ち切るようにカクテルを替えた。
「どこか連れて行って お願い!」
既にグラスは空だった。
そろそろ店じまいを、と店主が考えたときだった。暗がりを燈す赤提灯の暖簾を三人の男がくぐった。
「親父、まだいいか?」
「いらっしゃい」
言葉少なに迎え入れる。
身なりの良い青年、といった風情の三人だ。どこかで飲んだ帰りなのだろう。血色
が良い顔でカウンターに並ぶ男達はまだ飲み足りないようだった。
熱燗とおでんの具材をそれぞれ注文してしばらく談笑していた。ふと、男の一人が
突然言う。
「な、ここには兎の肉ってない?」
「ないですね」
おでんに兎の肉?どこかの郷土料理だろうか。連れの一人も不思議に思ったよう
だ。
「え?兎の肉ってあんの?美味いのか?」
「知らねえけどさ、昔歌ってたじゃん。♪兎おいし……とかって。だから食ってみた
かったんだよ」
「そう言えば……。俺も食ったこと無いけどきっと美味いんだろうな。歌になるくら
いだから」
それは「故郷」の歌詞の一部分だ。だが、兎は「美味し」のではなく「追いし」だ
ったのではないだろうか、と店主は思ったが沈黙を守った。客商売の基本である。
「そういうことならオレにもずっと疑問に思ってたことがある」
「なんだよ」
「卒業式の定番で「仰げば尊し」ってあるだろ?あれの「わがしの恩」ってのはどう
いう意味なんだ?」
「なんだ、お前知らないのか」
男の一人が自慢気に解説をした。
「あれはな、卒業式で配られる紅白饅頭のことだ。この饅頭をやった恩を忘れるなっ
て意味さ」
「でも俺、饅頭いらないから恩も感じたくないよ」
「だよな」
一同頷いている。
「和菓子」じゃなくて「我が師」つまり先生を意味するということを親父は知って
いたが、敢えて口を閉ざしていた。
「それなら国歌だって意味不明さ。「さざれ石のいわお」って、あれ「君が代」=
「さざれ石さん家の巌君」って事なのか?」
ここでは一同首をかしげた。
「でも、苔が生えるくらい辛気臭い奴なんだろうさ」
酔払いの会話は結論が出ないことが多い。この場も結局笑い飛ばされてしまった。
「さざれ石の巌となりて」を「大岩が細石となるほどの長い時間」と学校で習った
事のある人物は、ここでも接客マナーの基本に忠実だった。
それからも暫くして酒も皿もきれいに片付き始めたころ、会話も途切れそろそろ引
き上げようと三人は荷物を手にした。それぞれ暖簾の外にふらりと立ち上がる。
店主は最後に声をかけた。
「お客さん、おあいそ」
すると暖簾の下から赤ら顔の笑顔が三つ返ってきた。
空気の層に水が混じる夏の終わり、繰り返し見るのは奇妙に歪んだ夢だ。
何しろ恋人が僕を殺す。
僕は彼女と山に登る。僕らの足下には、まだ小学生の歳の離れた彼女の弟がちょろ
ちょろして、「家族みたいだ」と興奮して居る。彼等の両親は弟が生まれて直ぐ死ん
でしまったから、両親の居る家庭の記憶が無いのだ。僕らは苦笑しつつ古びた吊り橋
を渡る。
その時橋が毀れる。
ロープが切れたのだ。僕は走って何とか安定した所へ行くが、振り返ると姉弟は深
い谷底へと落下しかけていた。手を伸ばせばどちらかには届く、けれどどちらかを見
捨てる事になる。そして僕は彼女を助けた。
彼女は泣いて僕を責める。
何故弟を助けてくれなかったの。だって君の方が助け易い位置に居たんだ。答える
と彼女は首を振る。嘘。あなたは体勢を崩してまで、あの子の助けを求める腕を素通
りして私の手を掴んだ。体重も軽い弟の方が助け易かった筈なのに。
彼女は苦痛に歪んだ顔のまま僕の首筋に指を伸ばす。首をしめる気らしい。僕はあ
あ仕方ないかなと随分簡単に諦めて、そんな彼女を静かに見ている。
そこで目が覚める。
温度の低い闇を見乍ら僕は首筋に彼女の指を探す。無い事を確認すると身を起こ
し、傍を見る。そこには静かな体温があり、すうすうと寝息をたてている。
僕は暫く彼を見た後、布団を掛け直してやる。その後僕や彼女よりずっと小さな背
中を撫でる。
考えてみれば理不尽な夢だ。過ぎる程に理性的な彼女があの状況下僕を殺す筈が無
い。自分が夜毎こんな夢を見ていると知ったら、お姉ちゃんはそんな人じゃないとこ
の子は怒るだろうか。
夢と殆ど同じ事が一月前に起こった。
現実の僕は彼女ではなく弟の手をとった。
落下する彼等を見た僕は一瞬の内に頭の中で計算した。弟と彼女では彼女の方が僕
から遠い。しかも足下は泥と苔で滑り易く、バランスを崩せば僕迄落下するだろう。
従って体重も軽く引き寄せ易い弟を選択し、腕をとったのだ。
誰も間違えて居ないと皆言った。眠れないと言って僕の部屋に来る彼女の弟も、
日々眠りを取り戻しつつある。
だから僕は何も言わない。只過ぎる時間と子供の傍で静かに一つの夢を見る。
間違える僕の夢を見る。
夜半、眠る子供の体を境目に、現実は夢と非対称を為して居る。
僕は眠る。あの夢を見る為に。どんな計算も出来ずに恋人を助けた僕と、僕を責め
る彼女に会いに行く。
彼女に会いに行く。
男が僕の横にいる。
屋上のベンチ。並んで座っている。
【若い女が墓石に水を掛ける】
【ペットボトルから直接、空になるまで注ぎ続ける】
青空。いい天気。
「顔色は良いようだ」
男が言う。
「で、右手の具合はどうだ?」
【若い女が鞄から紙袋を取りだし、差し出す】
【これは?】
【若い女は少し意地悪そうに微笑む】
【手が入ってます】
【手が?】
「手がどうかしたんですか?」
僕は訊き返す。
相手が答えないので、僕は自分で確かめる。
【人間の右手。この墓の人の…】
手首の先に変な木製の義手がついている。
驚いて男を見ると、相手は神妙な面もちでこちらを見ていた。
【これをどうしろと?】
「俺が誰だか、分かるか?」
また…。
とにかくおかしな事ばかり言う男だ。
【あなたは誰です?】
僕が黙っていると、男は話題を変えた。
【ここに埋めてしてほしいんです】
「どうして、こんなところに?」
【迷ってるんです】
「待ってるんですよ」
【きっと探してるんです】
「誰を?」
【お互いに】
「誰って、あなたの知らない人ですよ」
「ミカを待ってるんなら、無駄だぞ」
【気持ちの問題かもしれませんけどね】
「知ってるんですか?」
【そんな気がするだけです】
「お前は右手だけで済んだが、ミカは…」
【見つからなくていつまでも彷徨ってるんだって】
「何も覚えてないのか?」
「何を?」
【よくは分からないけど、一緒にいた方がいいでしょ?】
その時、ミカの匂いがした。
僕は男を黙らせる。
ミカは、ベンチの反対側に座っていた。
僕はミカに訊く。
「この人、知ってる?」
「誰?」
「この人…」
そう言って、男の方に向き直ると、さっきの男はもういなくて、代わりに老人がい
た。
それも電池の切れかかったような、すごい年寄り。
「知らないわよ」
僕だって知らない。
すごい年寄りは今頃になって僕らの存在に気付いたのか、顔を向けて、何か言った。
でも歯が全然ないせいで、何を言ってるのか、まるで分からない。
「半分あの世に行っちゃてるわね」
ミカが小声でスゲー失礼なことを言って、喜んでいる。
失礼だけど、確かにその通りだ。
こんな、半分死んでるような人間の見る世界ってどんなんだろう?
僕は煙草に火をつけて一服する。
「で、これからどこ行く?」
「そうね…。どこ行く?」
質問に質問で返すなよ。
ま、天気もいいし、歩きながら考えるか。
「でも、その前に」
僕は隣の生意気女にワイルド・キスを一発お見舞いする。
屋上キスもたまにはいい。
みんなもやれよ。