| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 回帰 | 本樹 祐 | 997 |
| 2 | 浴衣の娘 | 青野 岬 | 1000 |
| 3 | 風の行方 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
| 4 | 『アルカロイド』 | 橘内 潤 | 999 |
| 5 | (作者の要望により掲載終了しました) | ||
| 6 | あぶらうり | 鮭二 | 1000 |
| 7 | 駆け抜けろ! | さとう啓介 | 1000 |
| 8 | 糸 | 川島ケイ | 1000 |
| 9 | ディープ・スリープ | 蛮人S | 1000 |
| 10 | 日曜の午後 | 卯木はる | 1000 |
| 11 | マッカーサーを見た日 | 川辻晶美 | 972 |
| 12 | 愛すべきもの | 桜林美野 | 903 |
| 13 | ゴーゴー青春 | 夢追い人 | 1000 |
| 14 | 君の静かなシルエット | 蒼海ジュン | 1000 |
| 15 | 殺人者のモラル | 風早瑞樹 | 1013 |
| 16 | 紐 | 羽那沖権八 | 1000 |
| 17 | 踏み切り | 曠野反次郎 | 665 |
| 18 | 二本朕勃 | 手賀沼 一郎 | 972 |
| 19 | あの人は今 | 太郎丸 | 1000 |
| 20 | 艶子 | ラディッシュ・おおもり | 1000 |
| 21 | 1% | 与四郎 | 1000 |
| 22 | 靴を履いていない。靴下もない。 | アナトー・シキソ | 1000 |
| 23 | パセリが全然育たないんですが | ユキコモモ | 1000 |
| 24 | それでも人は飽食と酩酊を愛す | カピバラ | 1000 |
| 25 | 堪忍袋 | マーマーレド=ジャム | 1000 |
| 26 | 星桜の樹の下で | てこ | 1000 |
| 27 | 義母の黒い下着 | koba | 841 |
| 28 | 狂気 | 木下 綾 | 1000 |
| 29 | 仕事帰り | 林徳鎬 | 978 |
| 30 | 秋の夜長 | うらきひかる | 810 |
| 31 | (作者要望により公開停止しました) | ||
| 32 | 背反遺言 | Ame | 996 |
| 33 | umbrella | moku | 1000 |
| 34 | ケンカ道場 | 3月兎 | 1000 |
「やれやれ」
オレはつぶやいた。タバコが無性に吸いたかったが、あいにくここは電車の中だ。車内には、オレに気をかける奴など一人もいなかった。いや、オレがいることに気がついている奴がいるかどうかも確かではない。
向かいには疲れた灰色のスーツを着た中年の男が座っている。会社の帰りか。週刊誌を一生懸命読んでいる。おいおい、ずっと同じページ読んでないか? その中年男の隣で女子高生が二人、へんてこな姿勢で座っている。一人が話している間もう一人は携帯をいじりながら相槌を打ち、次はその役目が逆になる。どっちも好みじゃないな。
オレの隣にはギュッっと目をつむった、妙な化粧をしたオバサンが座っている。電車が少し大きく揺れ、オバサンの手から薄茶色のきんちゃく袋が落ちた。大事そうに握られていたそのきんちゃくは、束縛から逃れ、しばらく自由の身を味わっていたが、すぐに助けを求めだした。持ち主は気がついていない。寝ているのか? 向かいの中年男はチラッとこちらに目をやり、すぐに例のページに目を戻した。他の人間は気がつかないのか、または気がつかないフリをしている。
誰もが自分達の世界に閉じこもっている。他人のことなどどうでもいいのだ。オレもその中の一人か?
オレは惨めなきんちゃくを助けてやることにした。
「荷物が落ちましたよ」
オバサンに声をかけた。…反応はない。聞こえていないのか? オレの声が声になっていなかったのかもしれない。誰かが見ている気がして恥ずかしくなったが、案の定みな自分達の世界にこもったままだ。
意地になってもう一度声をかけようとしたとき、オバサンは目をゆっくり開き無言できんちゃくを捕まえ、また目をギュッっと閉じた。
無視かよ、ババア。恥ずかしさが加わって苛立った。やっぱり放っておけばよかった。余計なことはしないほうがいい。もう二度と他人のことなどかまうものか!
電車が嫌な音を立てて止まろうとした。
キーッキキーッ
オレはハッとした。一瞬、ほんの一瞬の間にオレの脳裏に夢のような、それでいて鮮明な何かが映った。轟音を立てて、ゆっくりとオレに近づいてくる電車、ホームに群がる冷たい眼をした人の群。それから…それからオレは…? まあいいや。それよりもビクッとしたオレを見て笑っている奴がいるかもしれない。
…はは。誰も気がついちゃいないや。
「やれやれ」
タバコが無性に吸いたくなった。
今年九歳になる娘が、新しい浴衣を欲しがった。
友達と浴衣を着て、お祭りに行く約束をしたらしい。今まで着ていた白地に花柄の子供らしい浴衣は、既に丈が短くなっている。
「欲しいなら買ってやれば?楽しみにしてんだろ?」
娘との会話の一部始終を聞いていた夫がそう言うやいなやどこかに出かけて行き、二時間程して手に大きな紙袋を下げて帰宅した。袋の中には浴衣と帯と下駄の三点セットが入っていた。夫は炎天下の中、娘の浴衣を買いに店をハシゴしたのだそうだ。
浴衣は夕闇を思わせる濃紺に、色とりどりの向日葵の絵が描かれている。娘は大喜びでさっそく服の上からそれを羽織り、鏡に映った自分の姿を少し照れ臭そうに眺めていた。
腹に響く太鼓の音を合図に、夕暮れを待たず祭りは始まった。盆踊りの為に組まれたやぐらの回りにはたくさんの露天が軒を並べ、祭りをいっそう華やかに盛り上げている。
黄色い帯を締め髪をいつもよりも高く結い上げた娘は、友達の姿を見つけると嬉しそうに駆け寄ってそのままどこかへ行ってしまった。下の子が、姉と一緒に行きたがってぐずり出す。
やがて夕暮れが訪れてちょうちんや屋台に明かりが灯された。祭りの盛り上がりは最高潮を迎え、人々はまるで何かに憑りつかれたように輪になって踊り続ける。同じ曲を何度も何度も。
いつも見慣れた公園の広場が、何故か初めて訪れた見知らぬ土地のように感じられて軽い目眩を感じた。酔っているんだろうか。
「ごめん、ちょっとトイレに行って来る」
夫に下の子を預けて、ひとり歩き出す。さっきまで吹いていた風も止んで、蒸し暑い空気がねっとりと私にまとわりつく。帰り道、階段の上に座っている娘の姿を見つけた。浴衣だという事をすっかり忘れて足を左右に大きく開いている。真っ白いショーツが、闇に紛れた濃紺の浴衣から妖しく浮き上がって見えた。
あの女は誰……?あれは私の知っている健康的で愛らしい少女の姿では無かった。いつものスカートを浴衣に着替えただけなのに、足の間から立ちのぼるむせ返るように淫猥な空気は一体何なんだろう……
「おい、何してんだ?」
驚いて振り向くと、そこには夫が不思議そうな顔をして立っていた。
「ううん、何でもない……」
「お父さーん!お母さーん!」
私達に気付いた娘が大きく手を振って、階段から駆け降りて来た。その時再び吹き出した風が、淀んだ空気と祭り囃子を夜空高く巻き上げて行った。
「あっ」
その花に棘があるのを私は知らなかった。
私は声をあげ、手を引いた。
「どうした?」
ウェスはこちらを向いた。
「何でも無いです」
私は手を後ろに回し、答えた。
彼は私に歩み寄り、私の手を優しく掴んで、上げさせた。
指先に血が滲んでいた。
「この花は小さい。だから棘など無く見えるが、実際は敵に対して敏感に隠した棘を抜く。シスター、知らずに触ってしまったね」
私は頷いた。
「詳しいのですね」
「花は好きだ」
彼は私の指先に服を千切って造った即席の包帯を巻き始めた。
「咲き、散り、また咲く。懸命な感じが良い。それに綺麗だしね」
「そうですね」
「よし、これで大丈夫。痛くはない?」
「ええ。有り難うございます」
私は礼を述べ、手を引いた。
彼はそれに笑顔で応え、そして座り込んだ。
私も彼の隣りに腰を降ろす。
天気の良い日だった。高い空からの風が、花々の中をどこまでも吹き過ぎていく。
「やはり考えを改める事は出来ませんか?」
包帯を確かめながら私は言った。
「今からでも遅くは無いのです。自らの罪を認めて懺悔すれば」
「私は私の想いに殉じただけだ」
彼の声は穏やかだった。
「何も後悔することは無い。最後の願いに花園にも連れて来て貰ったしね。思い残すことは無いよ。シスター、有り難う」
「本当にそれで宜しいの?」
「ああ」
「神は慈悲深いお方です。今からでも遅くは」
「シスター」
「はい」
「神、ってなんだい?」
彼は私を見つめ、言った。
私は答えようとした。答える間は無かった。
彼は、私の顎に手を掛けた。
そして私に、ゆっくりと唇を重ねた。
包帯に包まれた指先が、小さく疼いた。
「これより火刑を執り行う。罪人を火刑台へ」
神官が宣言し彼が台へ上げられると、人々は歓声を上げた。
台に火が点けられ、燃えさかる炎が彼を包んだ。
人々の熱狂は火勢と共に高まっていく。その中で私は、火に包まれた彼の体から何か透明なものが抜けていくのを見た。
私達の頭上でそれはゆっくりと固まり、やがて、彼になった。白い羽根を持つ、彼になった。
彼は私達を見渡した。そして私を見分け、微笑むと、彼は空へ羽ばたいていった。
「どうしました?」
誰かが私に、心配そうに尋ねた。
「何でもありません」
私は答えた。
熱狂はますます高まっていく。
その中で空だけはどこまでも青く、だから私には彼が何処へ行ってしまったのか、どんなに目を凝らしても解らなかった。
ほの暗い灯りの下を薄黒い粒子が拡散していく。遅れて、ほろ苦い刺激が鼻の粘膜をかるく焦がす。
自分から吸う気にはならないが、先生の吐きだす煙は好きだ。心地よい苦味、とでもいうのだろうか?
煙草の香りは、この指先が触れているのが先生の肌なのだと教えてくれる。
真っ黒な肺から吐きだされた煙が、寝台の上にゆっくりと広がる。
煙草を止めなくては――結婚してから何百回となく決意してきたことだ。
子供と私自身の健康のために煙草を止めて欲しい、という妻の願いはもっともだ。煙草が私自身にも周囲の人間も害をなすことは、私もよく分かっている。
だが、止められないのも分かっている。
それでも私なりの努力の末、ここ何年も、家庭や職場では煙草を吸っていない。
私の悪癖で妻や子供の健康を害するのは忍びないことだし、なにより私は良き夫、良き教師でありたいと心から願っている。
だから私は、こうして香里の隣にいるときしか煙草を吸わない。
先生には家庭がある。立場もある。歳も違いすぎる。なにより、わたしたちは生徒と教師だ。
自分でも、いけないことだと分かっている。
だけどそれでも、一緒にいると安心してしまうのだ。独りでいるとき、まっさきに逢いたいと思ってしまうのだ。煙草の香りをかぐとき、愛されていると思ってしまうのだ。
ほろ苦い香りが、わたしの胸のなかを満たすのだ。
時折、どうして私は煙草が止められないのだろう――と思うことがある。
煙草など百害あって一利なし。吸うよりも吸わないほうがいいに決まっている。なのに、なぜ止められないのだろう?
いつも答えは出ない。そして決まって、香里に逢いたくなる。香里の隣で煙草を吸いたいと、強く想うのだ。
香里に逢いたいと思うとき、私は煙草が吸いたいと思うのだ――いや、逆なのかもしれない。
このままじゃいけない――不意にそう思うことがある。
先生もわたしも、逃げているだけだ――。
だけど、そんな正論がよぎる度に、わたしの何かが、赤く燃えあがるのだ。
好きなんだからしょうがないでしょ、先生にだってわたしが必要なのよ、逢うなといわれても逢わずにいられないの――そう叫ぶのだ。
そして、無性に煙草の香りをかぎたくなり、先生に逢いにいくのだ。
いつか、止めなかったことを後悔する日が来るだろう。
それでも私は(わたしは)、また煙草を吸いたい(香りをかぎたい)――そう思うのだろう。
難しい教えもわからないし、厳しい修行にも耐えられそうにないから、寺男にしてください、と二十歳の春に頭を下げた。寺男というのは、日がな境内を掃いている、サトウガジロウみたいな男のことだとかんがえた。高校の、主任先生が世話してくれた印刷工場を断りもなく飛び出して、大垣行きの鈍行列車に乗って、それからまた名前の知らない鈍行列車に乗って、京都の街にたどり着いたのだった。
片腕のないぼさつさまが、やわらかくほほえんでいた。あれ、そうかい、と目をひらいた。
「おめえさん、まだ若いんだし、もうちっと娑婆の空気を吸ってみちゃどうだい」
坊さまは、法衣を居心地悪そうに揺すった。かさばる肩のあたりを揺する仕草さえなければ、歯切れのいい東京コトバだった。
それから東京に戻って職を転々とした。今の商売をはじめたのが十年ほどまえ。
「あぶらを売っております」
看板をかかげ、軽トラックにサラダ油の徳用ボトルを積み込んで、日本中を売り歩く。暑いときにはしぜんと北に向き、寒いときには南へ下る。お客さんは四十代、五十代のおんなの人だ。こっちが択んだわけじゃねえが、天然しぜんとそうなった。
「あぶらはいりませんか」
はじめてのお客さんは、まず値段にびっくりする。市価の半値以下だからだ。つづいて味におどろく。中身が水だからである。
「あんた、昨日のあれ、水じゃないか」
売ったあくる日、かならずお客さんを訪れ、しかられる。
「あいすみませんっ」
玄関先で頭を地面にすりつける。それが、あこがれの、二十歳のときからずっとあこがれの、修行だった。
「失礼ながら申し上げます、あれを水と思うのは、お客さまのこころ、あるいはからだ、あるいは両方が病んでいるからであります」
そして、私はお客さまのおまんこを舐める。おまんこにたどり着くまでにはさまざまな紆余曲折がある。しかし、かならず、私はおまんこにたどり着き、舐める。
私はていねいにおまんこを舐める。味がする。いろいろの味がする。お客さまが四十年、五十年と時間をかけて養われてきた味を、私はありがたくいただく。
終わったあとで、もう一度徳用ボトルのあぶらを舐めていただく。
「これは、水ですか?」
「いいえ、あぶらです」
それから、私はお米とお味噌をいただいて帰る。この商売を続けるうちに馴染みになったお客さまは、お米と味噌以外のものをも私に与えようとするが、それは丁重にお断りしている。
金木犀の香るグランドが、朝日を浴びて耀いている。
万国の旗が色とりどりに飾られ、白い白線が眩しく光っていた。
「さあ、今日は頑張るぞー!」
息子の運動会に父兄の参加があること知った一週間前から、私は毎朝このグランドにやって来て、タンゴ(犬)とランニングをした。土の堅さやコーナーをチェックした今、沸き上がる期待に胸が高鳴った。
家に戻り朝食を摂ると、まず準備体操を始めた。
「パパ、ずいぶん張りきってるじゃない。今日は猛にいいとこ見せてね」妻が弁当を作りながら言う。
「パパ、頑張ってね。僕期待してるから!」息子が嬉しそうに跳ねる。
(ムフフ、俺の凄さを見せてやるぜ!)
グランドは超満員の熱気で沸き上がっている。
そろそろ『親子障害物リレー』が始まる頃だ。私の筋肉が耀いて見えた。
(よし、いける!)
トラックの中に息子と並んで駆け足で入る。期待に胸が躍り、大声で叫びそうになった。
二手に別れると、反対側の息子に手を振った。
『パーン』
第一走者が飛出した。平均台を駆け抜け、跳び箱を越え、ネットを潜り、がむしゃらに走ってくる。 私はその男の子に叫ぶ「よし! 行けーっ!」
順調に駆け抜ける赤と白の帽子。どちらも息を呑むほどの接戦だ。
反対側に息子が並んだ。
(頑張れよ猛! パパの所に飛び込んでこい!)
襷を受け取ると息子は勢いよく駆け出した。敵の選手も息子を追いかけて懸命に走る。十メートルほどの差が微妙に詰っていく。
「猛! 振り向かずに走るんだー」
私は息を弾ませコースに立った。息子が襷を外してやって来る。胸が高鳴り私の身体にスイッチが入った。
「ズウォーッ!」
雄叫びを上げて息子から襷を受け取った。風を切る音が耳元で騒がしい。ハードルを蹴倒し、パンに食付くと、次の梯子潜りに向う。会場のどよめきが空気の壁となって私に押寄せる。
(ここを抜ければゴールだ!)
勢いよく梯子に飛び込んだ。
(思ったよりも狭い……ヤバイ! 抜けられない!)
私の腹が梯子に引っ掛かり抜けられない。相手の選手がスルリと抜けていく。振り向いた選手が笑っていた。
(畜生ーっ! ぬ、抜けられない……)
競技が終了した。肩を落とした私に妻と息子は優しかった。
「パパは頑張ったよ」そう言ってくれる妻や息子に申し訳なかった。
夕暮、タンゴを連れて近くの土手に寝ころんだ。紫色の空が虚しかった。
夕陽が沈んでいく。寝ころんだ私の腹に夕陽が沈む。
前々から気になってはいたのだが、僕に絡まった糸はだんだんきつく複雑になっていって、いよいよ身動きもとれないほどのところまできてしまった。右手を持ち上げようとすれば左足がきしみ、口を開こうとすれば右の耳がちぎれそうになる。そんな具合でどうにもならない僕はひとり自分の部屋でじっとベッドに横たわっていた。
うまく生きていると思っていた。誰も傷つけないように、誰からも嫌われないようにやってきた。その挙句がこのザマだ。みんなと仲良くしましょうね、って田畑先生は言ってたのに。
とつぜん左手が引っ張られた。腹が避けそうになる。なんとか左腕に力を入れて踏ん張ってみるが、小指がちぎれてしまいそうに痛い。顔は動かさずに目だけを左手のほうに向けると、そこには赤い糸が結ばれていた。ほのかな光を帯びた赤い糸は、ピンと張って部屋の外に向かっている。
よりによってこんなときに、と自分の運命を呪ったが、すぐに考えを変えた。これはチャンスだ。
なおも小指は引っ張られた。すべての力を込めて僕は耐えた。小指がちぎれたっていい、と思ったが、それはまずいとすぐに思い直した。
どれくらい時間が経ったのかはっきりしたところは分からないが、窓から入ってくる光は薄くなっていた。
チャイムが鳴った。玄関まで行くことはできない。
「開い、ってます!」
必死に声をあげた。耳の皮が剥けた。
少しして、ドアが開いた。おじゃまします、と言う声は高かった。靴を脱ぐ音がした。足音が近づいてきて、僕のそばで止まった。覚悟を決めて、振り向いた。右腕があらぬ方向に曲がった。頬から血が流れるのを感じた。
目だけで睨み上げるように彼女を見た。まずまずだ。一目見ただけで運命を感じるほどではないが、赤い糸のことは信じてもいいだろう。それにしても体中が痛い。
彼女はうっすらと涙を浮かべて僕を見つめていた。
「やっと、あ、会えたね」
頭が締め付けられたが、言わねばならない言葉だった。彼女は机の上に目をやって、ハサミを手に取った。そっと近づけて、僕の顔をゆがませていた糸を切った。
僕はたまらない開放感と愛の予感に満ち溢れ、満面の笑みを浮かべて再び言った。
「やっと会えたね」
彼女はまじまじと僕の顔を見つめ、それから首をすくめ、肩を落として、赤い糸にハサミを入れた。切れ目がはらりと床に落ちた。
ドアの閉まる音が聞こえ、ああ、右腕折れてるなあ、と僕は思った。
君は眠い。ただ、眠い。
室内にはベッドが並ぶ。清潔なシーツの白いベッド。病室のようだ。どこの病院だったろう。君は寝巻きに着替え、その一つに横たわるや眠りにおちてゆく。
「人間は睡眠中でも」
博士は録音機のスイッチを入れると、静かに語り出す。
「肉体全てが休むわけではない。脳を含め、多くの器官が生命活動を続けている」
君は眠い。傍らには子供が眠りかけている。それは何年前の記憶だろう。君は寝床で絵本を読み聞かせているのだが、どうも君が先に寝てしまいそうだ。君は枕元の灯りを落とし、幼い手を軽く握る。子供が微かに笑うのを見る。
「……だが深い睡眠に入っている者は目覚めにくい。身体活動がより深いレベルで休眠状態にあるのだ」
君は眠い。彼より先に眠っちゃ悪い気もするけど、その温もりに吸い込まれていくようだ。君の髪を撫でる優しい手。彼の胸の鼓動に耳を傾けながら、君は目を閉じ、密やかな春の夜の流れを感じる。
「通常、人間は覚醒と睡眠いずれかにある。しかし睡眠状態から、さらに眠る事も可能ではないか。私はそう考えた」
君は眠い。海で泳ぎ、遊んだ疲れだ。夕食の後、民宿の部屋に敷かれた布団へ倒れるように寝転ぶ。遠ざかる意識の隅で、誰かがタオルケットを掛けてくれるのを感じる。
「被験者……は特殊な装置により、睡眠に入るとともに、さらに眠くなる夢を見るよう脳波を誘導される。その夢の中で被験者は再び睡眠に入り、また眠くなる夢を見る」
君は眠い。こたつ布団に包まって、窓の外に降る雪を想う。あしたはきっとつもってるね。シロもきっとよろこぶね。もう冬休み。あしたはもっとあそぼ、シロ。
「こうして被験者は仮死状態近くまでも眠りにおちていく。そしてその後も」
君は眠い。わけもなく眠く苛立たしい。声を上げようとする君の幼い唇に、温かく、柔らかな膨らみがそっとあてがわれる。君はその先に吸いつき、顔を埋める。そのまま眠っていく。誰かの優しい声がする。
「眠りの階層を……無限に下り、下り続ける」
君は眠い。たぶん眠いのだろう。もうそれさえも曖昧だろう。微睡みの中を行き来する小さな君の意識は、緩やかに、幾重にも折り畳まれ、なお小さく、小さくなっていく。やがて君は光の粒ほど希薄となって、その存在を遠い空へと漂わせる事だろう。
(私も寝るよ)
博士は録音機のスイッチを切り、装置を準備し、妻の傍らに横たわる。
(おやすみ。今まで有難う)
美容室にセックスは付物だ。喫茶店にコーヒーが欠かせないように。
月に一度、店休日前の日曜の午後。パイン材をふんだんに使った明るい店内を貸切にし、リクライニングさせたシャンプー台の上で私は美容師とセックスする。シャンプーの最中、耐え難くなった美容師が乗ってきて、髪が水に浸かったままの私が為す術なく一方的な愛撫を受け続けなければならないときもあるが、美容師を座らせて、ぴったり肌に纏わりついたブラックジーンズだけ脱がせて咥えるときもある。
腑に落ちない。
私が受けたいサービスは髪を整えることで、セックスじゃない。シャンプー台は他人に身を預けて髪を洗ってもらうためのもので、前をはだけて喘ぐ場所じゃない。
抗議してみた。
美容師はどう受け止めたのか一瞬動きを止めると、目を開けて見下ろしたが、再び痙攣と放出にむかって動き始めた。
私はまっとうな客のまっとうな抗議を無視されて憤慨したが、クライマックスの予感から逃れられなかった。
髪は乱された後に、きちんと整えられた。
支払いを済ませる。
ヘアケア代なのだが、財布から紙幣を出す瞬間、男のからだを買ったようでいつも嫌な気持ちになる。
買ったのは私、あるいは奴か。
「また来月」
床に散らばった髪を掃く美容師の声が、私の後姿に追いついた。平坦な声音。重い足取りで車に乗り込む。日は落ちていた。
ハンドルを切るたびに、脇腹が痛んだ。
愛してはいない。
愛されてもいない。
その事実に意味はなかった。毎月繰り返されるいつもの行事。
奴でなければならない理由はないし、私自身も執着されてはいない。
ケヤキ並木の途中、信号に停められた。
ライトの中を自転車の男が横切った。既にほろ酔いなのか、ペダルを漕ぐ足元が不安定で方向が定まらない。裏腹に、さっぱりとして整った冷たい横顔。
美容師に似ているかもしれないと思ったが推測だった。
店を出た後、私は奴の顔を思い出せない。見上げたり見下ろしたり、いろんな角度から見ている筈なのに、記憶は定かではない。
髪の色は灰色がかっていたか赤みを帯びていたか、肩に届いていたか襟足が見えていたか、瞳は強かったか定まらなかったか、顎は丸かったか尖っていたか。
脳裏には奴の視覚的な情報は断片すら残っていなかった。
信号が進めと促した。ギアを入れた左腕が痛んだ。
奴の痕跡はからだに残っている。
たぶん、来月も美容室に向かうだろう。
弔問客が帰り、妻と義母が後片付けに追われる間、僕は、線香を絶やさぬ為、棺で眠る義父の側にいる様、仰せつかった。
笑って写っているものがない、とすったもんだの挙句、掲げられた遺影は微かに口元が綻んでいる。無口で堅気、一本槍。根は優しい人間には違いないけれど、典型的な頑固親父だった。
手持ち無沙汰になり、僕は煙草に手を伸ばしかけ、思い留まる。仕方なく、ぼんやりと祭壇を眺めていると、棺の側に細いパイプが供えられているのが目にとまった。僕は首を傾げてそれを手にする。老若男女問わず、義父は煙草を吸う人間を忌み嫌っていたからだ。
「ご苦労様。代わるから、お風呂にでも入って……」
戻ってきた義母が、そう言いかけて、僕の手にある物に目をとめる。しばらく愛おしそうな目でそれを見つめ後、ふっと溜息を漏らし、僕の横に座った。
「お父さんね、若い頃はヘビー・スモーカーだったのよ」
意外な言葉に僕は驚いた。義母は僕の指からパイプをそっと抜き取る。
「戦争が終わって、マッカーサーがパイプを咥えてタラップから降りてくるところ。あなたも知っているでしょ。あの姿がね、もうどうしようもないくらいかっこよかったんですって。それに憧れて、十五の時から吸い始めたのよ」
パイプは、初めて手にした給料で買ったものだという。
「娘が生まれてすぐに喘息が出て禁煙したの。父さん、悔しかったのよ。恰好良く煙草をふかす人を目の前にすると」
なんだ、そういうことか。
映画スターさながら、颯爽と目の前に現れた男は、あの頃の少年たちにとっての敵地アメリカを、たちまち永遠の憧れに変えてしまったのだ。
僕は煙草を取り出して、義母にも勧める。妻も僕も、時々は義母さえも、頑固爺の目を盗んで、まるで中学生の様にこそこそとベランダで吸っていたのだ。
数時間ぶりの煙を味わいながら、改めて僕は義父の遺影を見つめる。少し緩んだ唇は、悪戯を咎められた子供がよくするような表情に見えなくもない。
僕はもう一本煙草を取り出して火をつける。
「サングラスもあれば、喜ぶかもしれませんね」
「そうね」
義母はそう言って、新しい灰皿を祭壇に沿えた。ゆらゆらと立ち上る煙の向こうに見える義父の顔は、やんちゃで純粋な少年そのものだった。
あの日、マッカーサーを見た少年は、今、喘息を気にすることもなく、指先で器用にジッポを操り、思う存分パイプの匂いを楽しんでいるのかもしれない。
麻衣子の朝は忙しい。新聞配達を終えゴミを出し、幼稚園児の息子剛の弁当を作る。脚本家志望の旦那螢ちゃんの寝ている横で、息子に食事をさせると慌しく、出かける準備をし、チャリンコに剛を乗せ、幼稚園へとぶっとばす。車道に出ると同じ幼稚園の金山さんちのベンツをがーっと抜かす。
「まいちゃん、すげえ!」と剛が歓声をあげる。「よし、もう一台、山本さんちのアホガキんちの車も抜かすぞー!」と麻衣子は細い腰をぐっと上げてペダルをこぐ。
「あら、いいわね、若くて。そんな短いスカート、私の年じゃとても……」とベンツから降りた金山さんが言う。麻衣子は曖昧に愛想笑いを浮かべるが、今の一言がぐっと胃に来た。やっぱりこれ反感買ったなあ、と冷や汗が浮かぶ。
「螢ちゃん、金山のババアに嫌味言われたよ。『私の年じゃ』って、年のせいにするけど、体系と年をごっちゃにしないでほしいよね」
机に向かっていた螢は「まあまあ、麻衣子の財産は若さと美貌と俺だろ」と笑った。
「まあね、人は金では買えねえよ」と麻衣子が鼻をこすると、「かっこいいな、お前」と螢は言い、再び机に向かった。
その週末は幼稚園の運動会だった。麻衣子は迷ったがミニスカートをはいて、およそ父兄には見えない風貌の螢をひっぱって出かけた。
「あら、細くていいわねえ」
後ろから声をかけてきたのは山本さんと金山さんだった。日焼けした丸い顔はスッピンで、だぼだぼのズボンをはいている。そのはるか上空で太陽が輝いていた。その光に麻衣子は目を細め、ふーっと息を吐いた。
「あのさあ、女捨てたんなら、やっかみはやめてほしいんだよね。オバサン」
二人はぽっかりと口を開けていた。螢がくっくと笑った。いつまでも少年のつもりで、生活力のない夫。麻衣子は急に怒りが込み上げ、螢を据わった目で睨みつけた。
「金稼がなきゃ生活はできないんだよ。いつまで私のバイトでやってくの? 生活力つけてから夢は追いかけてよ」
ああ、駄目だ。私は疲れ切ってるんだと麻衣子は思った。私は何のために頑張って生きてるんだろう。
「まいちゃーん!」
明るい声が響く。麻衣子の視線の先で、一番にテープを切った剛が満面の笑みで手を振っていた。
帰り道。後ろから先輩が走ってくる。
「こんちわ、山田先輩」
猛ダッシュで走ってきた山田裕也先輩は勢いを保ったまま俺に向かって殴りかかってきた。右頬にストレートパンチをもろに受けてノックアウト。青い空が遠のいていく。
意識の奥で寝ていた俺を誰かが殴った。
「あんた誰よ!ここで何してんのよ!この野郎!」
連発パンチが俺の顔をヒットする。飛び起きると茶色の髪の女が鬼のような形相で荒れ狂っている。一体何なんだ!何故か被せられていた布団で慌ててガードした。
「ちょっと待ってください!」
「変態!人の部屋でなんで寝てるのよ!」
「誤解だ!やめてくれ!」
すると突然女は攻撃をやめて静かになった。布団のガードを外すと女は床に落ちていた俺の制服を見つめていた。
「もしかしてあなた稲葉高校の人?」
「そうですけど」
制服に向けた目を俺に向け女は驚いた表情をしている。
「あんた村井じゃん!なんであたしの家にいるの?」
「えっ、なんでここにいるのか俺もわかんない。っていうか、あなたもしかして山田さん?」
「そうだよ!おんなじクラスじゃん!」
謎が解けた。きっと先輩に運ばれてきたんだ。それで先輩と山田優子は兄妹なんだ。
俺が推理を語ると彼女は納得の表情を見せた。
「そっか。お兄ちゃん今バイト行ってるの。帰ってくるまでここで遊ぼうよ!」
彼女はお茶を持ってくると言って、部屋を出て行った。部屋の隅にギターが置いてある。弾いてみろという悪魔の言葉に従った。弾き方なんて知らないがとにかくそれらしいことをしてみた。
「何してんの!」
怒って彼女が戻ってきた。
「まったくもう」
彼女は深いため息をついて俺からギターを取り上げた。
「村井はホントしょうがない子ねぇ。弾きたいの?」
子供に接するような彼女の口調に答えるように、目を子供のように輝かせて大きく頷いた。
彼女は丁寧にギターの弾き方を教えてくれた。
一時間位で彼女は疲れ果てて寝てしまった。
それから何時間彼女の部屋でギターを弾きつづけただろう。
「おはよう。まだギター弾いてたの?もう朝じゃん。あれ、まさかここに一晩中いたの?」
「ギターうまくなったから聴いてくれよ!」
『森のくまさん』をロック風にアレンジして演奏した。自分の出す音に酔いそうになる。何度も意識の狭間を漂う。なんとか無事演奏終了。
「あんた、すごいよ。いつの間にこんな」
彼女はポッカリと口を開けア然としている。
「俺ギターで世界を目指す!」
予備校の授業を抜け出し君と手をつないで通った二の丸公園は、今でも素敵な想い出の渦の中で煌めいている。
坂の途中にある図書館に立ち寄ると、仲間達から冷やかしの祝福を受けた。まるで、ライスシャワーが歓喜と羨望の狭間で降りかかって来たかのようだった。
気の置けない連中がウィンクしながら走り去って行くなかで、「ふふ」と君が笑っている。
風景がメリーゴーランドみたいに回るなか、お城の石畳を一息に駆け登って行くと、植物園の正門に辿り着く。中門を抜け、鳥の啼声が切れる頃には城下の町並みが一望できる蔦の絡まる石碑の裏側にいた。
残暑の日陰のベンチは静謐な冷たさを残していて、困ったように君は片えくぼをこしらえている。
理由もなく融け合った空間の緑葉の匂いが新鮮で嬉しくて、それは僕の心の中に震えた唇の残像を落とした。
樹木溢れる閑静な玉砂利の遊歩道を歩くうちに、予備校の授業をサボった時間が速く過ぎていくのに驚かされる。
そして植物園の正門をこっそり出てくる頃には、少しばかり大人になった錯覚が互いの声をひそめてしまうことになる。
君の横顔が、陰鬱な受験生活を物語っているようにも見え、僕は言葉をさがした。
同じ気分を共有している君のとても過敏なうなじは、大理石のそれの様に白くて切ないほどに美しい。未熟なフェロモンを健気に放っているようにも見える。
公園の中にある美術館のテラスで休憩をしてコーヒーを飲む頃には、すっかり君も和んだ表情をしていた。
瞳の奥に僕が入り込み、君は吸えないタバコに火を点している。
参考書とペンシルケースとバスの定期にショートホープとリップクリームが、テーブルの上に雑然と並べられ、大学生との違いを蒼く訴えていた。
前の広場では、大学生達がソフトボールに夢中になっている。
「私の予備校の想い出は、世界史とあなたのこと。どちらも上手く覚えられない。この事はずっと忘れないでね」
君の柔らかい胸の脹らみにかくれた、いつか訪れるであろう別離への不安が、震え続ける肩から僕に沁みてきた。
夕焼けの中の大学生達を前に、ずっとこのまま抱き締めておこうと思った。
君の静かなシルエットを記憶の森に置き忘れても、僕はきっとまた探し出せそうな気がしていた。
遠い植物園の白い正門と緑の森が涙で薄ぼんやりと滲み始めた一瞬、ファインダーを覗くようにして約束した。
1978 夏 ・・・キミヲワスレナイ
私は自殺志願者だ。だから、同類の気持ちは、良く分かる。
クライアントは足で探す。ネット? 伝言? そうしたものには興味がない。ゆきずりのバーで、スナックで、若い子なら喫茶店なりファーストフードで、一人で黄昏ている、同じ眼をした人間を見つけるのだ。
私は三十も半ばのフリーターで、定職にも就かずぼろアパートに住んでいる。実家には勘当されたも同然の境遇で、その日暮らしを続けている。
いつ死んでもいい。
フリーターで食って行けるはずもなく、私には副業がある。預金額はそれなりに大きい。
死にたい人間というのは、どこにでもいるものだ。
万が一のために、クライアントには嘱託の証明を書かせる。だがその前に、じっくりと話を聞く。クライアントの全人生を、語らせ、死んだら泣くであろう家族や友人や知人の心に思いをめぐらせ、そしてなお死を決意させる。ここで、そうした想像力こそが殺人を防ぐ最大の手立てなどという言説に強烈なアンチテーゼを喰らわせる。
その人生を最大限に味わい、家族や友人や恋人らの悲嘆を存分に味わい尽くした上で、殺る。
これが殺人者のモラルだと、私は思う。
名刺を作るなら「本業:フリーター、副業:嘱託殺人業」とでもなろうか。
私はある意味で社会に善として貢献していると思う。
望みを叶えてあげることは、ビジネスの基本だ。
ましてこの欲望渦巻く高度消費社会では。
特急の通過駅。今度のクライアントはセーラー服を着た女学生だ。端のホームに佇み、私を待っている合図の小さな反射板を光らせる。監視カメラの死角。私は音もなく背後から近付き、
突き飛ばす。
騒ぎになって警察の事情聴取などが始まる前に私はその場から離れる。
誰が見ても自殺。
報酬は、クライアントの全財産。今回の仕事で得たそれは少ないが、
私は満足している。
他人の死を味わうエクスタシー。
それだけで、私には最高の報酬となるのだ。
取り乱す家族や友人の魂に思いを馳せ、
天国への扉を開いてやった自分自身を褒め讃える。
その瞬間。
彼女の死を悼む全ての心たちと交感し、私は射精にも似た絶頂感の中で世界のすべてを祝福する。
「愛しているよ」
そして、また、次の仕事を探す。
いつ死んでもいい。
充たされた至福感の中で、私はこの言葉を舌にのぼせてその甘さを噛み締める。
人生とは、素晴らしいものだ。
紐が奇妙な形に締まって、ただの塊になった。
「また失敗しちゃったの、清水さん?」
ケアワーカーが笑った。
「どうも難しい」
車椅子に座った清水敏次は、紐を持ったまま左肩をすくめる。
彼の右肩から繋がっている腕は、だらりと下がっている。そして、右の足には補装具がはめられていた。
「どうなさいます? 今日のリハビリはこれで終わりにしますか?」
「いや、まだやる」
清水は、再び紐を結び始めた。
指先を健常者の二倍働かし、口を第二の指先として、動かない手をフックとして使う。
幾度も口から紐が外れ、指先が紐を取り落とす。
十数分後。
きゅっ。
結び目が綺麗に締まった。
「まあ、良くできたじゃない、清水さん!」
ケアワーカーが手を叩く。
「ああ」
清水はほんの少しだけ微笑んだ。
「これなら、人間だって支えられますよ」
「そう思うか」
「でも、紐の結び方ばっかり覚えて、どうするんですか?」
「……べ、別にどうも。指先は大事だろう」
彼は視線を逸らした。
「お疲れ様でした」
デイサービスの職員が帰って行くのを見送った後、彼はドアを閉め鍵をかけ、部屋の明かりをつける。
蛍光灯が、薄暗い部屋の中を照らした。
散らかった部屋の片隅には、フォトスタンドが一つ置かれている。そこには、両足で立つ清水と妻の友恵が写った写真が、入っていた。
「ふぅ……」
フォトスタンドの前には、青い指輪のケースが一つ置かれていた。
『――胃潰瘍を繰り返したせいで、胃癌を引き起こした様です』
去年の医師の言葉がはっきり耳に残っている。
『――もう骨髄にまで転移していますので、治療は……』
清水は妻の写真の前で紐を結ぶ。
『――検診を受けられない程忙しかったんですか?』
失敗しても、続けた。何度も、何度も続けた。
(なんで友恵が!)
何度も。
(俺のせいで!)
何度も。
(俺の!)
その時、結び目が締まった。
翌朝。
「お早うございます、清水さん」
ホームヘルパーが、ドアをノックする。
返事はなかった。
「清水さん――?」
合い鍵でドアが開いた。
「清水さん」
寝室をノックするが、返事はなかった。
「……まあいいか」
台所へ向かおうとしたヘルパーは、足を止めた。
「へえ」
ヘルパーは微笑んだ。
「一回忌、だったかしら」
フォトスタンドの前には、不器用にリボンが結ばれた青い指輪のケースが置かれていた。
『……銀婚だよ』
少々不機嫌そうな声がして、寝室のドアが開いた。
一人の男が踏み切りの前で立ち止まって、遮断機があがるのを待っておりました。
男は一日中、いやもうずっと以前から待っているのです。
何故なら列車が通るのは一日に数度しかないというのにその遮断機は決してあがることがなかったからです。
いつしか男の服はほころびが目立つようになり、帽子には蔦が這いツグミが巣を作っておりました。
それでも、男はずっと待っているのです。もうどれくらい前からそうしているのかわからないくらい前から待っているのです。
踏み切りがカンカンカンと音が鳴り、列車の到来を告げます。日に数度繰り返されるお馴染みの光景です。
しかし、今日は違っていたのでした。
列車が踏み切りに差し掛かった刹那、列車の窓から突然白い塊が溢れ出てきたのです。
それは無数の白いハトでした。数えることの出来ないくらい多くのハトが一斉に飛び出してきたのです。
物凄い羽ばたきの音が響きます。
列車が通過、夥しい数のハトが飛び去った後、驚くべきことが起こりました。
錆び付いた遮断機がギギと音をたてゆっくりとあがっていくのです。今までどれほど待ってもあがることのなかった遮断機があがっていくのです。
そして、男はというと特に嬉しがる風もなく、羽毛で埋まった踏み切りをゆっくりと渡っていくのでした。
男が向こう側に行くのを見届けると私は思わずため息を洩らしてしまいました。私の長年の日課はたった今、失われたのです。
途方に暮れてしまった私は取りあえずいつものように珈琲の御代わりを注文しました。
明日からすることは何も思い浮かばないのでした。
現在、日本全域に渡って被害を及ぼしている事件。
あれは困ったね。どうしたもんだか。
原因は不明だってね、恐らく海外からのサイバーテロだっていうけど。
これは困った。仕事も、買い物も、遊びも、まともにできない。
しかも、不謹慎ながら被害に遭うたびに毎回ニヤニヤしてしまうのがいけない。
まったく緊張感に欠けるテロだよ。
こんな状況で仕事になるわけ無いが、出勤しなければいけない。
一応仕事はできるんだから仕方ないけどさ、
ああいう状況で仕事って気分にはね、ちょっと難しいよ。
こんな状況でも何も無かったかのように社会が機能しているんだから、
日本人ってのはちょっとすごい、というか、いかれてるのかもしれない。
さあさあ、そんなこと言っている内に電車が来た。
見るのも嫌だけど一LEDを一瞥。
「殿舎がまいります、吐く戦の討ち川までおさがりください。」
おお、今日はなかなかまともじゃないか。一応読めるよ。
「寫乃での形態佃輪のご止揚はご円呂ください。」
形態佃輪…携帯電話の事か。なるほどね。
一日中こんな狂った変換を見させられちゃあ気が変になるよ。
駅に着いても、駅前の映画館では「懐柔栄華」が上映中。
会社に着いたら、「三森署」を作って午後には「水筒諸」に行かなくちゃいけな
い。
手書きはさすがに平気だけど、パソコンを使うとどうもいけない。
しかしパソコンが無ければ何にもできないしなあ…
このピンチを乗り切れば、今年こそ俺も「花鳥」に「焼身」できるかも知れない。
「花鳥」…「課長」なんかよりずっといいじゃないか、風情があって。課長風月。
いけない。なんでこんなにノッてしまっているんだ。被害は甚大なんだぞ。
毎日無茶苦茶な雑誌を出版している出版業界なんかもう開き直って、
校正スタッフが要らなくなったって言って喜んでいやがるし。
まあ、みんなこの状況を楽しまなくちゃやっていられないのが本音なんだけどね。
しかし、考えた奴は天才だよなあ。
日本のみにしか通用しないサイバーテロ。
全ての電化製品がネットで繋がった今、簡単で被害は甚大。
漢字の返還昨日…いや、変換機能を狂わせるなんてね。
ウィットも利いてるよ。
もっと間抜けな変換をご紹介したい所ですが、時間が迫ってきました。
皆さん、漢字の練習をサボっちゃいけないよ。
機械なんてあてにならないんだから。
それでは美奈さん。ご起源よう。また五日。
今回は、車好夫さんを尋ねます。
好夫さんは23歳の時、当時運動が盛んだった嫌煙権、つまりたばこ反対の団体と協力し、マスコミも巻き込んで、政府や車メーカーに抗議活動をされました。
車内禁煙という明治時代に決められた法律は一般乗用車にも適用されるから、車に灰皿が付いているのは法律違反を奨励している、という事で当時は法律の見なおし現象なども起こりましたから、覚えていらっしゃる方もおられるのではないでしょうか。
車内のたばこが子供に与える影響も研究され、肺ガンの発生率が喫煙者と同じだと判ると、車メーカーもこぞって灰皿撤去に乗り出しました。
この運動で法律も改正され、子供が同乗しない場合に限ってのみ喫煙が認められ、違反者はシートベルト未着用と同じ1点減点となりました。
シートベルトといえば、当時外国には乗車する際に、自動的に装着される車があるのに何故日本には無いのかと、今では当たり前のシートベルト自動装着装置の設置が義務付けされたのもこの頃です。
しかし何といっても、今ではクラシックカーにしか見られない速度計です。当時は160キロまでの目盛がありました。
もちろん、こんな速度は法律で禁止されています。当時の高速道路でさえ100キロが制限速度でしたから、60キロも速度オーバーでは免停どころか取消しもあり得ます。
好夫さんは当時、速度超過による罰金をノルマとして吸収し、上納金として運用していた警察に対し、喧嘩を売った形になりました。
これは恐らく相当の圧力があったと想像されますが、ついに運輸関係やタクシー会社、そして速度違反者の多くの人の賛同を得て、速度超過が出来ない装置の設置を義務付けさせたのでした。
この仕組みは単純で、アクセルを踏んでも制限速度を越えそうになると、自動的に燃料がカットされ速度を上げられないというものでした。今では車間距離や信号尊守の自動運転装置がありますが、当時は標識の下に設置する速度指示装置(SIU)の為に、多くの資金が使われましたが、その影響で逆に産業界は活性化し、失業率も減ったのです。
あれ以来、人前に姿を現わさなくなった好夫さんですが、やっとカナダで見つけました。今は大変なお金持ちと聞いています。何故あれだけの情熱を持ち続けられたのか早速聞いてみましょう。
「本当の事が聞きたいの? …もう時効だろうから言うけど、実はあの装置の特許を持ってたんですよ」
モジリアーニの描いた女のような瓜実顔。
細いくび。
うすくのばした蝋を何層にも重ねたような青白い肌。
軽くウエイヴがかかった漆黒の髪は、豪勢な量で、引力に逆らい無造作に、束ねられている。
きれいに畳まれた二重。
あくまでも黒く深い瞳。
ドラマチックな陰影を作る睫毛。
完璧な濃さとフォルムの眉。
しみじみ鑑賞していたいような美しい人だった。
が。
ひとたび艶子が口を開くと、全員が全員あっけにとられる。
それはそれは大きな前歯が、二本、燦然と輝く金歯なのだ。
歯槽膿漏気味の赤い歯茎に、マッチした金色。
甲高い声で、下世話な話をし、身体を二つ折りして笑う。
開いた胸元からは、鎖骨どころか肋骨まで見える。
その美貌は、三千ピースのジグソーパズルを盛大にひっくり返したような有様になる。
艶子夫人の夫が、明神森で、瀬川の長女とやっちゃった。
なぜここいらのみんなが知っているかと言うと、
瀬川のがまカエルみたいな長女は、折しもなにの日だった。
酔っぱらって、真っ暗闇でやったんだろうな、パンツに御印がくっきり、どっかの国旗みたいな案配に、くっついてしまったんだとさ。
ま、それだけなら、夫婦げんかですむ。
なぜ、みんなが、そこいら一帯の人が一部始終知っているかと言えば、艶子夫人は、その御印の付いた夫のパンツを、夫婦の寝室の天井につり下げてたんだそうだ。
夫を懲らしめたんだろうな。
効果てきめんだった。
そのころのひで坊は、両の頬がこけて、あっち側が透けて見えるような案配だった。
それだけなら、みんなに知れることなかった。
天井からつる下がっているものを発見した、同居の姑が、艶子の悪口と共に、みーんなに喋った。
姑のお千代さんは、一人っ子のひで坊を、可愛がっていた。
ひで坊の窮地を何とか助けようと、思ったに違いない。
母の愛だな。
話は、油紙に火をつけるように、近所に知れ渡った。
追い打ちを掛けるように、私の店でパートをしていた艶子夫人に、学校から電話がかかる。
学校から職場に電話がかかってくるなんて、よっぽどだね。
聞いたら、小学校三年の娘が、友達の服を、はさみで切り刻んだと、言う。
おお!!もしかして艶子さんは、パンツをつるすだけでなく、
夫が着ていた祭りのそろいの浴衣や半てんを、はさみで切ったんではないだろうか?
もっと怖いこと想像したけどやめとこう。
艶子という風情のある名前と、金歯と、天井からつるってある日章旗のようなパンツ。
忘れ得ぬ思い出ですな。
なんとなく、アキラとホテルに行った。「なんとなく」は嘘である。ふられたばかりで寂しかったのだ。ベッドの上でわんわん泣きながらコトをすませ、よーし、明日もがんばるぞー、と適度に気力をもらい、まったく色気のないピロートーク(本日のメインディッシュですわん)をする。
「でさ、なんでふられたの?」
ぐぉわ。痛い質問。なんて、これを待っていたのさ。
「あたしが、男ともやれるって言ったらキレた」
アキラは苦々しく笑った。
「だってね、『隠し事は無しヨ♪』って言うから本当のこと言ったのに。ひどいよ!」
アキラは本格的に笑い出した。いいよ。どんどん笑いなさい。あたしは笑えないもん。一人じゃ笑い話に出来ないもん。
「俺だって、彼女が『女ともやる』って言ったらショックだよ」
ちょっと笑い泣きでアキラが言った。あたしはいいのか? と思う。
「ハルカちゃんはフツーなんだ」
アキラの顔がちょっと変わってすぐ元に戻った。この人はね、変な悩みがあるんだよ。
「真紀と一緒にすんなよ」
「あー、差別差別!」
アキラに鉄拳を食らわせようとしたがあっさり押し倒されてしまった。
「あたり前じゃん。彼女だもん」
乗っかったままキスしてきた。
「真紀の味がする」
へえぇ、それはよかったね。
もっかいやったら時間になった。話をしながらぶらぶらバス停へ向かう。
「もうさ、女はやめたら?」
「やめたいけど、感情が先に出てきて止まんない」
アキラに頭をなでられた。子供扱いしおって!!
「アキラもさ、あたしとやるのやめたら?」
ハルカちゃんに悪いよ。
ちょっと考えてからアキラは言った。
「結婚したらやめるけど、それまではいいんじゃない? 俺ら親友だし」
そうなんだよ。こいつには友情しかないんだよな。それで、私も99%が友情なんだな。無言で背中に蹴りを入れる。
「あ、バス来る」
「ちょっと早いな」
うん、そうだね。
「次は男にしたら?」
真顔で言われる。
「次なんてわからないよ!」
誰を好きになるかなんて、あたしにはわからないよ。
好きにならなきゃ、誰が好きなのかわからないよ。
アキラは笑いながらまた頭をワシワシとなでた。
「大丈夫、俺、今は遙とお前としかやってないから。いつでもなぐさめてやるぞ」
ふられるのが前提かい! っとツッコミを入れ、ボサボサの頭でバスに乗りこんだ。
朗に小さく手を振った。朗が手を振り返す。あ、私の中の1%の恋心が喜んでいるよ。でも、残りの99%は、次の誰かのものだーい。
夜中に目が覚めると記憶にない部屋にいた。
あるいは俺の部屋かも知れないが。
ベッドから足を下ろす。板張りの床がひんやりと冷たい。
靴を履いていない。靴下もない。
部屋の真ん中の板を突き破って木が生えている。
先っちょのほんの少しだけ。
電話が鳴った。赤い発光ダイオードが点滅する。
出ると切れた。が、受話器を置くとまたすぐに鳴った。
「ああ、やっと出てくれた。急いで下まで来て下さい」
一旦受話器を置く。思い直してまた上げた。
まだ繋がっていた。
「勝手に切らないでください」
「どこに来いって?」
「地下のボイラー室ですよ」
「そんな所で何すんだよ?」
「とぼけないでください。とにかくすぐ来て」
廊下に出て、階段を降りた。
素足なので床が冷たい。
一階の玄関のガラスの向こうに人がいた。
背の高い知らない男が待ち伏せている。
俺はそっと引き返し階段を踊り場まで戻った。
踊り場の壁に正方形の筋がある。
押すと開いた。
くぐる。
長い廊下に出た。
赤い絨毯がどこまでも続く。
壁に貼り紙が一枚。
<ボイラー室まであと僅か>
廊下の行き止まりにエレベータが見えた。
なるほど、アレを使うわけだ。
俺は廊下を走る。
理由?
後から入ってきた子供のようなモノが追いかけてくるからさ。
子供のようなモノは
歩いている。
笑っている。
俺を捕まえようと考えている。
だから俺は廊下を走った。
捕まったらどうなるんだろう?
エレベータに乗り込み扉を閉じる。
子供のようなモノが慌てて走り始めた。
が、もう遅い。
体当たりをしても無駄。
エレベータは俺一人を乗せて急降下を始めた。
「やっと来ましたね」
ボイラー室の男は言った。
背が低く、ネズミのような顔をしている。
丸い扉のハンドルをグルグル回す。
「この中です」
中から白い冷気が溢れ出す。
「昨晩私の母親が亡くなりましてね」
ボイラー室の男は関係のないことを言う。
「でも私はここを離れるわけにはいかない」
ボイラー室の男は、扉を完全に開け、脇のレバーを引いた。
冷気が消えていく。
「ちょっと見てください」
俺は中を覗き込んだ。
大きな樹の根。
ボイラー室中に伸びうねっている。
下は真っ暗で床がない。
「ここ、床がないよ」
「そうですか?」
次の瞬間、ボイラー室の男が俺の背中を押した。
突き飛ばすように。凄い力。
蹴ったのかもしれない。
ともかく。
俺はバランスを崩して中に転がり込んだ。
が、ここには床がない。
俺は
大きな
樹の
根に
何度も
ぶつかりながら
暗い中を
どこまでも
落ちていった。
ベランダでパセリに水をやっていると、
<非常の際はここを破って隣戸に出て下さい>
と書いてある板の隙間から、隣りの女の人が顔を覗かせているのに気づいた。
「こんにちは」
と声をかけると向こうも、
「こんにちは」
と言う。
明るい感じの人だ。同じ集合住宅に住んでいて隣りの人の顔も知らなかったのだ。
「それパセリ?」
「ええ。でも育ちが悪くて……。最近天気が悪くて嫌ですよね。八月なのに峠で雪が降ったみたいですし」
私が愛想笑いしながら言うと、
「そうなの? ずっとベランダにいるもんだからテレビ観てないのよね」
と言う。
一瞬考えこんで会話が途切れそうになる。気まずくなる前に話題を見つけなければ。
「あ、そうそう! あの政治家が遂に逮捕されたんですよ。前々からもめてたでしょう?」
彼女は黙っている。
「そ、それから、あの歌手さんと作家さんが結婚したんです。後はね……」
「いいわもう」
彼女は下を向いて小さな声で言った。
「そんな、気を遣って話してくれなくてもいいわよ。迷惑かけたのこっちなんだし」
「はあ、でも……。不幸中の幸いというか、誰も怪我とかしてませんし」
彼女は黙っている。
「あの、やっぱり何か色々あったんですか?」
彼女は黙っている。
「いや、いいです。変な事訊いてすいません」
余計な事を言ってしまった。
「あのねぇ」
しばしの沈黙の後、彼女が顔を上げて話し出す。
「あの日のお宅の晩ご飯、何だったか覚えてる?」
「え? 確か餃子ですけど」
――あの日の夜
食後にテレビを見ているとふいにクリーニング工場のような匂いがして気のせいと思ったが間も無く玄関のチャイムが鳴り知らない家の奥さんが隣りが火事みたいなんです外を見て下さいと叫んだので急いで窓を開けると火が隣りのベランダで火が燃えていてというか燃えていたのは。
私は彼女を指差してみた。するともの凄くおっかない顔をして私を睨んだ。
「ひえっ、何でもないです」
指を引っ込める。
「あー餃子だったのね。ベランダに出た時、ちょうどお宅の換気扇からごま油のいい匂いがしてたのよ。何のメニューだったのか、ずっと気になってて。これで夜も眠れるわ」
彼女はそれだけ言うと向こうに行ってしまった。
この人そんな事を半年も悩んでいたのか?
バカだ!
数日後、ベランダに出るとまた隣りの女の人がこっちを見ていた。
「昨日の晩ご飯、カレーだったでしょう?」
無視することにした。
「まず、生ビール1杯で臨界に達するほど、お酒に弱い人がいるとします」
「なんかアンタみたい」
「アタシのことはどうでもいいのよ。そしてその人が、自分で焼く式のお好み焼き屋に入って、お好み焼きを1枚注文します」
「そりゃお好み焼屋だからね」
「まあ聞きなさいよ。で、それをつまみにビールを1杯飲むわけ」
「アンタならそれで臨界だわね」
「アタシのことはどうでもいいんだってば。まあ、十分スタンバイOKなのはマリコの予想どおりだけどさ」
「やっぱりアンタのことじゃないの」
「もうっ話の腰を折らないでよっ! それで、胃の内容物がリバースされてくるでしょ」
「うんうん」
「それを鉄板の上に展開するわけ」
「展開って……ええ?」
「つまり、鉄板で」
「ゲロを焼くわけ?」
「もう少し上品な表現をしてちょうだいよ」
「状況がすでに上品の彼方なんだけど」
「とにかく、リバースして気分はよくなってるし、鉄板の上に2枚目はできてるし、またそれで飲めるでしょ」
「食べるわけ? そのブツを?」
「味も見かけも、お好み焼きそのまんまよ。最初に注文したものを食べるとき、よく噛まないようにするのがコツね」
「……」
「それでビールを1杯飲めば、また気分が悪くなってリバースする、と。で、リバースすれば気分がよくなるから、新しいお好み焼をつまみにもう1杯飲める、と」
「…………」
「そんな感じで繰り返していれば、料理を追加注文しなくても、1枚のお好み焼だけで、ずっと酔っ払っていられるってわけ」
「………………」
「まず普通の食べ物――ウランを摂取して臨界に達する。後は、その食べ物が変化した胃内容物――プルトニウムを再利用しながら、最少の食料――燃料消費で臨界を維持する。プルサーマルってそういうことなのよ」
「アンタ、電力会社に就職決まったんでしょ? もっと気分のいい例え話してよ」
「マリコが『プルサーマルって何?』って聞くから、わかりやすく説明したんじゃない。要は汚物の有効利用だもの、この話の通りだわ」
「……プルサーマル計画って」
「世間の反感買って当たり前かもね。ゲロだし」
「アンタがそれ言っちゃダメじゃん!」
そう言いながら万梨子は、バイト先の飲み屋で毎日始末する残飯の山や、ほとんど手付かずの料理の皿を片付けながら「これを別の席の酔っ払いに出したらどうだろう。どうせ気付かないし、吐くか残すかなんだろうし」と何度も考えたことを、苦い気持ちで思い出していた。
「いやっ、お弁当2日同じおかずやん!」ママコは、お弁当の蓋を開け、温かいお味噌汁を待つこと、30分。
回想〜
昨日、朝5:00に起き、阪急電車に6:00頃にのり、イラン人に声をかけられる、、心で、ちっ又テレカ騒動か、、、と思うが、「あれっ、戦争は....?」
「僕とこの国では、どうってことない、、」と、、レーと、ドがない...
不思議だが、英語がペラペラで、日本語をしゃべっていた。私は今から、仕事なので、車中では、忙しく「さよなら」とその方は、消えてしまった。
結局、次の車中に行き、中はバス、オット失礼、バスの中。
バスガイドさんは、案内人、スミカラスミまで、ガイドをし播州サラヤシキのお菊さまのお話等を交えてしてくれた。お菊さんの話を簡単に言うと、「お皿が1枚、2枚、まだ足りない....」などお菊様が殿を祟り、殿さまは亡くなられてしまうという悲哀です。あー。悲しい...だが、我が殿は何処へ、昨日も今日も横にはいなく、連絡先電話も「現在、お客様の都合によりおつなぎできません。」とのことです。
私も悲哀か、アー播州サラヤシキのように毎晩立っているのか不思議。恐いが女というものは、一途なのだ。回想途中中断。
今日又、鳥取砂丘に行き、同じ風景か、ラクダは、私の心の中。つきの砂漠がはるばると....?と、ユーモレスクに包まれながら、話していた。
「ラクダ君、君は退屈かね?」
「いえ。靴は持っておりません、はいておりません。あなたの靴の中には金と銀の砂を入れました」
「あらっ、ご褒美くれたのね、どうして、どうして」
「あなたママコさんは、いかなる試練にもめげずに僕に逢いに着てくれたからです」
ママコさんは「私は、仕事で来ただけなのであなたに、ひしゃくの代わりに2つの水筒をあげるわ、でも、人間にバレタラだめよ、水筒が膨らんでくるから」と2コブ駱駝が出来ました。駱駝は、なるほど、親切で素直で、おしゃべり好き。
話しはかわりますが動物は、みんな刑を持って生きてくれているそうです。
それより、彼氏さん、この人も、唾液を持っていた。きっと、素直で優しい方だったのだ。今度連絡取れたら言ってみよう、
「勇気を出して、別れます」と...もう3回目だ。この言葉を言えば又はじまり、又終わる。
ところで、堪忍袋はバスの中
「誰や、バスの中にラクダを連れて帰ったのは!」何故気づいたかは
「ラクダを匂ってみて、駱駝の匂い 楽だ」笑い
樹の根から見上げていくと、丸々とした、今にもなにかが零れ落ちそうな蕾がある。
きっとその中には、素晴らしく甘い雫のようなものが溜まっているのだろうと少女は思う。そのことを男に告げると、男はにやりとニヒリズムの充満した薄笑みを浮かべる。この笑みが決して悪意を抱いたものではないということを、少女は知っている。
この蕾には、花びらが幾重にも幾重にも詰まっているのだよ
男は言った。少女はそれを理解しながらも、未だ甘い汁が詰まっているのだという妄想を拭えないでいる。いつかどこかで、桜の樹の下には屍体が埋まっているのだという、どうにも気持ちの悪い話を聞いたことがあった。その屍体は、その体のどこからか、てらてらと光る透明な液を垂れ流しているのだと。そして、桜は、その屍体や液やらをずるずると吸い上げ、その美しさを保っているのだと。
たまらなく甘い蜜を蕾の中に隠していても、なんの不思議もないではないか、そう思った。
二人は、星桜の根元へ腰掛ける。
少女が眠りにつくまでの間、男は不思議な話をし続けた。大きな葉と、小さな樹の話。一生を土の中で暮らした人間の話。
少女が起きても辺りは夜のままだった。男に訊ねると、星桜の周りには、数年に一度しか朝が訪れないのだという。それでいて、昼もなく、夕方もなく、僅かな朝を過ぎた後、すぐに夜へ戻ってしまうのだと。
そして、その朝が訪れた瞬間だけ、星桜は咲くのだという。
何故と問うても男は答えなかった。
私は、一度だけこの星桜が咲く瞬間を見たことがあるのだよ
何と説明すれば良いかわからない 口で説明できる美しさならば、普通の桜と変わらないからだ すぅっと、しかしゆっくりと蕾が開き、朝日を浴びて露がきらめく お前の言う通り、本当は、蕾の中は雫で満たされているのだ 先程まではそれを、正直には言えない理由があった しかし、それは今はもうない
星桜は、間も無く咲くのだ
蕾が開くと、甘い、べとべとした汁が徐々に花びらを形作っていく それは水晶のような一片のくもりもない花びらだ そして、すぐに散っていく
上に、散っていくのだ!
私はこの光景を見たとき、唖然とした
なにかわからない、うやむやとしたキラキラが空へと舞い上がっていくのだ
そして、昇りきった花びらは星のように輝きだし、そしてそのうち本当の星になるのだよ
これが星桜という名の由来だ
地平線が赤く染まり始めた。
トーマス・F・ホェールズの『義母の黒い下着』という作品は、まことに奇妙な作品である。いわゆる官能小説の方程式とでも言うべきものを、まるで無視しているのである。普通、官能小説というのは、「じらす、じらす、すけべ」あるいは「すけべ、じらす、すけべ」もしくは「すけべ、すけべ、すけべ」といった流れで作品が構成されているのであるが、ホェールズの場合、「すけべ、じらす、じらす」という具合に構成されているのである。言ってみれば本番を終えた後に前戯をしているのである。
書き出しはこうである。(日本語版が出ていないので私訳になるが、まあ誰が訳しても似たようなものであろう)
「あん、あん」とナンシー。
「うっぷす、うっぷす」とボブ。
ナンシーは果てた。ボブも果てた。(『義母の黒い下着』私訳)
まったく官能もへったくれもあったものではない。官能場面は作品を通じてこれで終わりである。まったくホェールズのやる気が感じられない。そして何を勘違いしたのか、所々にわけの分からない詩が挿入されているのである。
「自分探し」
私は鳥になりたい
風にもなりたい
本当は宇宙飛行士になりたかった
でも
君は目が悪いから無理だよ
って、先生に言われた
ああ、リアリズム(私訳)
そして『義母の黒い下着』は以下のように締めくくられている。
いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。(私訳)
あきらかにパクリである。太宰の『人間失格』のパクリである。お前が人間失格である。
驚くべきことにホェールズは、巻末において自身で作品解説を加えている。
私は官能小説なんて書きたくない。クソッタレ!
私には書きたいことが山ほどある。しかし金が必要なのだ。
クソッタレ!
ホェールズは1978年に死んだ。彼は生涯を通じて自身の望む作品を残すことができなかった。しかし彼が芸術と実生活との間で苦悩したことを考えるとき、彼こそ真の芸術家であったというべきであろう。
━━━今日は、手作りのゼリーを渡せた。
気に入ってくれるかしら?━━━
「何か飲む?」
頭が痛くなるほど冷やしたリビングの隅にある椅子に腰をかけながら、修平に話し掛けた。
テカテカ光るサイドボード。スカイブルーの、たっぷりとドレープをとったカーテン。
窓越しに見える、季節を感じさせる熱そうなコンクリートの道路。
昨日と何ら変わっていない。
だから、修平が座っているあたりが白く光っている様に見えるのも錯覚だろう。
「カルアミルク」
「馬鹿ね。そんなもの何で私の家にあるのよ。」
「確信犯とは俺の為にある言葉。」
ククク、と八重歯を見せながら修平が笑った。
いっつもこんな感じだ。そーやって私の事を小馬鹿にする。
・・・それが嬉しいと感じるのはいつ頃からだろう?
ふ、と疑問が頭をよぎった。
考えてみれば謎だ。いつからなのだろう。前からよくしゃべりはしていたのだが・・・。
『恋は唐突に』なんてフレーズを耳にしたことがある。
このフレーズの本当の意味は
「恋というのはきかっけもないのにいきなり人を好きになったりする」
何て事ではなく
「恋なんていつからしたのか分からないから、唐突に思える」
って事なんじゃないのかしら。
まぁ、どうでもいいと言ってしまえばどうでもいい事だが。
「おい〜。なんか食い物ない?冷たくてみずみずしくて美味しいの。」
修平の声でふっと我に返った。
どうも私には思考癖があるようである。よく現実から離れ、思考の世界にどっぷり浸かってしまう。
「グレープフルーツがあるわ。食べる?」
グレープフルーツ、という言葉を私は特別丁寧に発音した。
「あぁ、それでいいよ。お願いします。」
確信犯って言葉は、本当は私の為にある言葉。
冷蔵庫の中には、グレープフルーツのゼリー。
これを修平にあげたら、きっと修平は家で食べてくれるだろう。
アーモンドの匂いに彼は気付いてくれるかしら。
インターネットの通販で手に入れた、カプセル3つ分の青酸カリ。
そしてこれを食べた修平は、毒林檎を食べたお姫様のように倒れるの。
永遠に私の物になる為に。
目を閉じた彼の頬はきっと青白く、美しいのだろう。
薄いアーモンドの香りは、幸せな夢を終わらせないのにちょうどいい役目を果たしてくれるに違いない。
「あ、そういえば私、グレープフルーツでゼリーを作っておいたの。
それはその残り。良かったらゼリー、もらってくれない?味見して欲しいの。」
真夏の下の狂気。
入り口で渡されるカードに、それぞれ一ヶ月の所要量と服用法が書いてあり、自分の欲しいサプリメントと期間にチェックして後はレジに直行すればいい。
店員が袋にビタミンB6+コリン+イチョウ葉のラベルを貼って、その下に手早く「元気アップ!H」と書いて渡してくれる。
商店街も変わったなあ、と店員に思わず声をかけそうになる。まあ、こんな若い子に言っても不思議な顔をされるだけだろうな。店内の時計を見ると9時前だった。今日は意外に早く終えられたものの、最近仕事での無理が続いてどうも調子が悪い。ついでにハーブも加えようと思い、奥のコーナーにあるパネルを見て、推奨されている組み合わせを適当に選ぶ。袋の下にジンセン+トケイソウのラベルが貼られ、手書きの文字が「快眠で元気アップ!H」に変わる。
外に出ると、広い往来は適度な照明と立ち並ぶ店の明かりで十分に明るかったが、道の真ん中を歩くのはいまだに何だか落ち着かないもので、車が来ないかとつい後ろを振り向いてしまいたくなる。
商店街で配布される紙袋はもちろん再生紙、その上に貼られた「快眠で元気アップ!H」の文字を見たのだろう、八百屋が威勢のいい声でニンニクを勧めてくる。そのまま通り過ぎようとするが、生産者の名を聞いてやっぱり買っておくことにした。八百屋は産地については詳しく知らないといい、代わりに11桁のコードを教えてくれたので、帰ったら照合してみることにした。ニンニクを袋に入れてもらい、袋には「モリモリ」と書き加えられる。
最後に、今晩のメイン、とびきり活きのいい卵を物色する。卵屋でニワトリの卵を三つ買って袋に「活きがいい奴」と書いてもらう。
後は家に帰って冷蔵庫と相談すればいいだろう。ニンニクが意中のものなら今夜はちょっとしたご馳走になるかもしれない。
ひっそり静まり返った部屋に明かりもつけずに入ると、買い物袋をレンジに入れてスイッチを押した。明日は少し遅めの出社でもいいかな、そう考えるとちょっと浮かれた気分になってビールを二本出し、それを前にいそいそとスーツと靴下を脱ぐ。チ−ン、と小気味いい音を聞いて、今度はビールを放ってそっちに急ぐ。レンジの蓋を開け、買い物袋を覗くとすやすや眠っていた。胸肉がたくましく、暴れられたら手を焼きそうだ。ハーブを加えといて正解だった。
さて、トマトで煮るか、照り焼きか。冷蔵庫に聞いてみよう。
風呂上がりのベランダで一服、これが毎晩の日課になっている。
雲の隙間から見える星月達・・・。
昨日までは、この美しさに全く気付かなかった。
あの映像を見る昨日までは・・・。
昨日、友人宅で酒を飲みながら談笑していた。
話のネタが尽きてきた頃、私の視線に映った物、それは一台のパソコン。
それまで私は、インターネットというものに全く興味がなかった。
友人は、私の視線に気付き、パソコンを得意げに操作した。
数分後、友人は満面な笑みを浮かべ、私に一つの画像を見せた。
それは、無修正のエロ画像だった。
私達は顔を見合わせ大爆笑した。
友人は次々と大量の無修正画像をダウンロードした。
インターネットを始めてから、一時間程が経っただろうか。
気が付くと、私達は日本語が一切ないホームページにいた。
友人は、理由も分からず、ただひたすらにクリックしていた。
すると、一つの動画が私達の目に飛び込んできた。
その画面には、軍服を着た二人の外人男性が映っていた。
一人はうつ伏せで、もう一人はうつ伏せになっている男性の顔を、思い切り踏みつけていた。
うつ伏せの男性は、手足を縛られ身動き一つ出来ない。
踏みつけている男性は、右手にアーミーナイフを握り締め、うつ伏せの男性
の首に一刺し。
まるで、果物にナイフを刺しているかの様だ。
首に刺さったナイフは、のど仏ごと切り裂いた。
もちろん、首からは大量の血液が溢れ出る。
うつ伏せの男性は、口を金魚の様にパクパクしている。
まさに、殺人の瞬間だった・・・。
得体の知れない恐怖に吐き気がした。
私達は、先を争うかの様にトイレに駆け込んだ。
トイレから戻り、私は無言のまま友人宅を後にした。
帰宅後も、何度も何度もトイレに駆け込んだ。
今思うと、唯一の救いは、映像がカラーではなかった事だ。
タバコを吸い終わる頃、夜空にあった雲は消えてなくなり、星月達は、一層輝いている。
明日は晴れると思いつつも、私の心は一向に晴れない長い秋の夜だ。
薫は一度へんに甘ったれたいつもの調子で
「いつか私が死んだらどうする」
といった意味の事を言った。
伊坂はその時、暇つぶしに買った幾何の問題集を片手に持って捲って居たが、その姿勢も目線も特に崩さず
「予定でもあるのか」
と問うた。
薫は、ない、と言った。
伊坂はそれでは考え難いと答えた。
薫は歪んだ様に笑い、では今決めてと言い、続けた。
「私が死んだら忘れずに、他の人間を愛さないで欲しい」
伊坂は少し考える。薫が死んだら間もなく忘れてしまうだろう。現実に居ない人間を志向し続ける事が出来る程優秀な脳みそを自分は持って居ないのだ。だが後半の方はどうやら守れそうだと思う。何故なら今だって自分は誰も愛しては居ないし、薫が死んだ後急にこんな自分が変わるとは、凡そ予想し難いのだから。
伊坂は薫にそう告げた。
薫は少し考えてから、それで自分は満足すべきなのだろうと言い、それを自分を納得させる為に重ねて言い、伊坂は面倒な会話が終わりそうな事にほっとして「そうだ、そうだ」と鷹揚に返答した。そしてそうしながら明晰な幾何学の証明を見、いら立ちを極めて上手に散らして居た。
数年後薫は病気で死ぬ事になった。
伊坂は病院内で煙草の吸える場所を見付け大概そこに居た。だが薫の病室からそこが余りに遠いので、薫が望むように傍に居てやる事は出来なかった。
「だって俺は煙草を吸えなきゃ死んじまう」
枯れた声でそう言う伊坂に、痩せた薫は笑いかける。そして白いシーツの中で呟いた。
「私が死んだら、」
伊坂は目を逸らし、あの日の幾何の証明の事を考える。
「私が死んだら私の事を忘れて、そして誰かを愛して欲しい」
急に明晰な証明が躓いた。伊坂は薫の部屋のカーテンを凝視したまま眉を顰める。
「昔言っていた事と違う」
薫は最後に一度だけ笑った。
それから容態が急変し、駆けて来る看護婦や医師の怒声から逃げる様に伊坂はそこを立ち去った。薫の死を知らされたのはいつもの煙草を吸っていた場所で、一口吸っては捨てると言う事を繰り返した彼は、看護婦に見つけられた時には文字どおり煙草の吸い殻に埋まっていた。
伊坂は薫の遺言を半分守った。
彼は初めて誰かを愛した。
みっともなくぶるぶる震える手で煙草に火を付け続けたあの日の病院の庭の記憶を反芻し、書架の隅にあった明るい過去と結びつく幾何の問題集を繰り返し捲りながら
伊坂は初めて誰かを愛した。
霧雨が降っている。
こんな雨の降る、闇の薄まったような夜は、回り道をして帰る。
理由は特にない。
多分、強く降るときはたいてい、走ったり、
タクシーをひろったり、止むまでどこかで時間を潰したりして
雨の中を「歩く」ということが殆どないから、こうしてただ歩きたいのだ、と思う。
それだけのことだ。
やさしい、雨が降っている。
彼は、きっと歩いて帰ってくる。
傘はいつも差していなかった。
「何故だろう、落ち着かない」
前に、息をきらしずぶ濡れで現れた時、傘を差さぬ理由を尋ねたら、そう彼は応えたのだった。
買い物をする間、傘を差すよう言って外で待たせたことがある。
大きな木を背に佇む、飛ぶことを禁じられたピーターパンが、そこにいた。
彼の頭上には、広い空が、明るい夜が相応しい。
だから今日、ゆうゆう一人、彼は歩いて帰ってくる。
でも。
今夜は迎えにゆかなければ。
そしてわたしは自分の傘だけを持ち、部屋を出る。
強い風が吹きぬける。
何度目かの角を曲がった時だ。
一瞬目を閉じる。
聞き慣れた声が、唄う声が、聞こえた。
「優子、」
僕はいささか面食らう。
まるで、風にでも乗ってきたみたいに、彼女は突然僕の前に現れた。
「きっとこの唄、知らないんでしょうけど。」
優子は、チムチムチェリー…と唄いながら、適当なステップを踏んでいる。
花模様の傘をくるくる廻す。
「きっとわたしが何やってるのかも、意味不明なんでしょうけど。」
「あぁ、全然だ。…あ、じゃのめでお迎え、か」
唄が違う、ピッチピッチチャップチャップ、だろ。
茶化して僕はスキップをする。
すると、ふいに優子は俯き、小さな声で呟いた。
「ハローウィーンの夜だから、」
やっぱり知らなかったのね。
わたしはあなたと飛ぶための、風にのってきたメリー・ポピンズ。
「とにかく。お菓子、ちょうだい。でないと…」
でないとわたし、一人でどこか飛んでいくんだから。
優子が頬を膨らます。
こっちはさんざん料理をつくってきた後だっていうのに、お菓子をくれ、だなんて。
それにいったい何に変装したというのだろう。
まったく。
廻すのを止めさせると僕は、一緒の傘に入った。
「わかった。帰ったらカボチャづくしだ」
「ウェンディになるには、少し寒かったの」
じゃあ、まずはスープからつくろう。
いたずらなんてさせやしない。
ジャック=オ=ランタン抱えて、一晩中そばで待ってろよ。
僕は、優子の隣で今もじゅうぶん、あたたかい。
いつもなら捨ててしまう市の公報だが、その日「講座」欄に気になる一文を発見した。
『ケンカ道場』
喧嘩の仕方教えます。但し口喧嘩に限ります。兄弟、夫婦、友人、相手別対応も可。受講料無料。
最後の部分が特に良い。
まさか冗談って事もないだろう。一応公共主催の講座らしいし。
実の所、結婚してからダンナと口論になって勝てた試しがない。一度言い負かしてみたいと思っていた。
早速、講座の説明を聞きにいった。
案内されたのは机と椅子が二つの簡素な個室だった。若い女性と相対して座る。
何やら隣の部屋から聞こえる大声が気になった。
「あの、口喧嘩を教えてくださるそうですが」
半信半疑で切り出す。
「市民の要望で二年前より開催中です」
あっさりと肯定。
「具体的にどのような事を?」
「説明より聞いて頂こうと思い、この部屋を用意しました。現在、隣の部屋では「夫婦喧嘩の場合」講座を開催しております。会話をお聞きください」
笑顔で紙コップを渡される。
なんて都合の良い講座を拝聴できるのだろう。
典型的な立聞きの格好で私達は壁に張り付いた。
『大抵の場合、原因というのは些細なものです。妻が日常の不満をぶつけてきた時はまず、相手の言分を全て聞く。そしてこう言うんです「お前の言う事はもっともだ。俺が悪かったよ」そして肩を落として効果的な演技を付け加えられれば完璧です。ここでのポイント、分かる方は?』
『演技力?』
『それも大事です。が、この場で重要なのは「以後の話をしない事」です。迂闊で安易な約束事は後で自分の首をしめることになるからです』
感歎の声が響く。
どうでもいいがこの講師の声、聞いたことある……。
『約束を強要されたら?』
『俯きながら大きく溜息をつく、弱々しい態度に女性は言過ぎたのか、と身を引きます』
『それでも詰寄られたら?』
『お前にそんな事を言わす自分が情けない、というように更に下手にでます。涙ぐむと効果的です』
またも感歎の声。
この対応の仕方もどこかで……。
そう言えば二年前に部署替えになったとかダンナが言ってたような気がする。ついでに公務員だし。
「いかがです?」
壁から離れて女性が聞く。
「また、来ます」
その夜、公報片手にダンナの帰宅を待った。
定時に戻った彼の傍に笑顔で立つ。
「あのね、市の無料講座に申込もうと思うの」
「へえ、どれ」
「『ケンカ道場』っての」
絶句する彼。
今夜は勝てそうな気がする。