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エントリ1 ノー・タイム 池田 哲
サンは目を覚ました。
寝袋のファスナーをグググという音とともに開き、体を持ち上げる。
体が途端にひんやりとする。
何も考えずに暗闇の中で手を伸ばし、テントの出口を探す。
テントを開けると白い光がサンの両目をこじ開ける。太陽の光だ。
あたり一面の銀世界が目に飛び込んでくる。太陽の光が雪に反射して多少暖かい。
頭にニット帽、体には何重にも着込んだ防寒着、手には大きめのシャベル、そして足には分厚いブーツという身なりのサンはその銀世界にザクザクと1歩づつ足跡を残しながら進む。
しばらく進んだ後、手に持っていたシャベルで雪をどけはじめる。
ここは前日まで軍用車が走る道であった。
それがたった一晩で雪が積もり、道はなくなっていた。
その道をまた一から作るように、サンは何度も雪をどける。体は熱を持ちはじめ、湯気となって体外へ放出される。
「おはよう〜、サン」
後ろの方で中年の女の声がする。サンのテントの三つ隣に住むベティだ。
距離は50メートルほど
離れていたが、声はよく聞こえる。雪がまわりの音を吸収し、声がよく通るのだ。
「おはようございます」
サンは無愛想な表情で、しかし感じのよい声で挨拶を返す。白い息がまわりに舞う。
「またこんなに積もって・・・」
ベティはなにやら文句をいいながらも、手に持っていたシャベルで雪をかきはじめる。
「戦争さえなければねぇ・・」
ベティはなんとなく言葉を漏らす。
「まぁ、仕方ないですよ。生きているだけでもましです。」
「あんたは偉いねぇ・・まだ若いのに。」
サンは今年で23になる。両親は戦争で亡くした。
戦争は15年前にはじまった。突如として全世界が異常気象に陥り、その寒さのために地球の人口の40%が死滅してしまった。
唯一、赤道付近の国はなんとか暮らせる状態であった。しかし人々はその地域を求めて戦争を起こした。
サンもベティもその赤道付近の国の住人であった。
ベティが雪をかきはじめてから三時間後、昼休憩に入ることにした。
サンは防寒着の中に持ちこんでいた缶詰とビールを取り出す。
缶詰の中身をちびちび食べながら、ビールでそれを流し込む。
サンは今の生活がまったく嫌というほどでもなかった。
大自然の雪を感じながらの生活。この生活も捨てたものじゃないと考えていた。
ただ両親が生きていれば・・と思うと悲しいので、なるべく自分で自分をだましながら生活していた。
サンはそんなことを考えながら、ビールを一気に流し込んだ。
エントリ2 当たり籤(くじ) もふのすけ
加奈はごく普通にいる十四の少女だ。
だが加奈にはどこか陰がある。真はそんな部分に惹かれていた。
加奈は放課後誰とも遊ばないし、誰も家を知らない。
ある日の放課後、真は加奈を尾行した。
加奈はとある曲がり角近くで歩速を上げる。
そこは禁断の曲がり角。
真はそう呼んでいた。親と近くを通る事もあったが執拗にそこを曲がるのは避けられた。
意を決し曲がる真。
目に飛び込んできたのは別世界だった。
木造の古い長屋が建ち並び、硝子の扉には赤やピンク、紫の光が写ってる。
異質な物を見るような目で真に視線を注ぐ大人達。
手前の長屋の扉が開き、中年の男性が出てきた。その瞬間チラと内部から浴衣を着た厚化粧の老婆が見え目があった。老婆は色目を使い真に小さく頭を下げる。
真は背筋が凍りつき立ちつくした。
そこで肩を叩かれた。
「!」
振り向くと加奈が立っていた。
「あ、あの!!僕……」
「……こっち来て」
真は加奈に手を引かれ路地裏へ連れられた。
「どうしたの……」
加奈は真の前でひざまずいた。
次の出来事は真の理解をとうに超えていた。1分足らずの激しい快感。
「あ……」
残ったのは躰を突き抜ける激しい脱力感と加奈の手に残った白い液。
「みんなにはないしょだよ」
後始末をしながら加奈は呟くと小走りに通りへ戻っていった。
帰り道、真はふと年寄りを思い出した。
家の食堂によく通っていた新聞配達の爺さんだ、去年亡くなった。話すことと言えば戦争の話とこの辺りは昔から続く色街だったという事の繰り返し。真が手伝いで店にいる時、母はその話をすると露骨に嫌そうな顔をした。いやらしい場所だと言うことは何となくわかってた。そして今日、それが禁断の曲がり角の先なのだと知った。
「あそこの色子さんはな15になったら一人前になるんよな」
年甲斐もなくニヤニヤと助平な笑みを浮かべた爺さんの顔を見たのが最後だったような気がする。
あの時分からなかったその言葉も、今なら分かる。
何時だったか加奈と誕生日の話になって、彼女が誕生日をためらいながら話したことがあった、日付は鮮明に覚えている。三月程先の話だ。
それまで真はお金を貯めようと決心した。
小遣い全てを貯め続けるつもりだ。
そして真はまたあの禁断の曲がり角の先に行くだろう、そこで籤の当たりを探すように長屋を見渡す筈だ。
……己の童貞を賭け惚れた女の処女を引くために。
エントリ4 坂と自転車と兄ちゃん 長田一葉
「この坂を、一回も足つかずに上りきったら、兄ちゃんがおる」
少年はそう信じて自転車をこぐ。立ちこぎ。右足に全体重を乗せペダルを押し切った後、次は左足。左足はきき足ではないから辛い。しかし、こらえて、右足へつなぐ。
なんか単パンがきつい気がする。
パンツがしりの間に食い込んで、めっちゃ気持ち悪い。
ももの前側が痛くなってきた。
あん時の兄ちゃんは痛かったんかいな。気を失っとるって父ちゃんが言うとった。痛くないはずって、言うとった。確かに、ずっと眠っとるような顔しとった。
兄ちゃんはいつも、この坂を一息で上りよった。オイは途中から自転車押さんと上りきれん。先に上りきった兄ちゃんは、坂の途中からじゃ姿が見えん。てっぺんで地面に座っとるから。座ってニヤニヤして空を見とる。そん顔が少しムカつく。
風が少年の肌をなで、かすかに汗がひいていく。そしてすぐに、また汗が出る。
いつもここが踏ん張りどころやった。
いつもより足は動く気がする。
もうちょっとで上れるぞ。
兄ちゃんは何にぶつかったとやろ。トラックかいな。葬式で母ちゃんはひどう泣きよった。父ちゃんは夜中に車の中で泣きよった。でもオイは泣かんかった。兄ちゃん死んだって、分かるようで分からん。もう会えん、もう会えんて、父ちゃんも母ちゃんも、じいちゃんも、みんなして言うから、そんな気もするけど、本当はよく分からん。泣く気がせん。オイもしばらくはぼーっとしとったけど、この坂思い出して、来た。兄ちゃんが死んでから初めて、来た。
少年の自転車のハンドルが揺れた。なんとかバランスは保ったが、スピードは遅く、今にも倒れそうだ。両手に力を込めて、ハンドルを引き上げる。
危なかったぞ。
今んとは危なかったぞ。
せっかくここまで来た。
記録はのばしたけど、今日は一気に成功させる。
いつもあきらめとった場所はこえた。
今日はあきらめん。
上りきる。
兄ちゃんが、おる。
こっからじゃ見えん。
座っとるから。
空を見とる。
ニヤニヤして空を見とる。
あと少し。あと五こぎで行ける。
四。
三・・
二。
一。
てっぺん。
初めて上りきったぞ。
オイにもできるぞ、兄ちゃん。
兄ちゃん。
兄ちゃんは、
おらん。
何でや。
座っとらん。
周りにも、
おらん。
何でや。
死んだからか。
少年は座った。少年は兄のまねをして空を見た。ニヤニヤしてみたが、うまくニヤけることが出来ない。口がへの字に歪む。
兄ちゃん、おらんのか。
兄ちゃん、会えんのか。
兄ちゃんは、死んだ。
少年の汗と涙は風に吹かれ、蒸発し、汗だけが乾ききった。
エントリ5 絵本 逢優
どうしても、口に出せない言葉がある。
誰にでも、迷って諦めた言葉がある。
そんな時、君はどうして来た?
そしてこれからそんなことが訪れたら、どうする?
僕はきっと、その言葉をこのキャンバスに描くよ。
キッチンから君の鼻歌が聞えてきた。
僕が今、口ずさんでいた歌だった。
君と出逢えてよかったと思った。
僕はキャンバスに、雨上がりの空に架かる虹を描いた。
ちょっとした言い争いから、君が涙を流した。
それでも僕に、必死に何かを伝えようとしている。
君と喧嘩してよかったと思った。
僕はキャンバスに、朝露にぬれた小さな花を描いた。
君からのメール。風呂上りに気が付いた。
『ただいま。疲れたからお風呂でのんびりしてきます。』
君と繋がっている気がした。
僕はキャンバスに、星空を描いた。
寝返りをうった。
無意識に、いないはずの君を抱きしめた。
君の心の温もりを感じた。
僕はキャンバスに、母猫を描いた。
君の部屋に着いた。
微笑む君に、思わず「ただいま」と言った。
君との永遠を感じた。
僕はキャンバスに、繋いだ手をかいた。
エントリ6 幸福灯 越冬こあら
朝から引越し荷物の片付けに追われて、新居の窓から西日が射す頃、それまでダンボールに隠れていた壁に、妻が幸福灯を発見した。胸の高さに設置された埋め込み式ライトの白いカバーと一体化したプレートには、レトロな字体で黒く「幸福灯」と縦書きされ、下に小さく自治体名が記されていた。
翌日、管理人に聞くと、市政四十五周年記念行事の一環として「皆さまの幸福」をモニターする為に、昨年設置されたものだそうだ。
半信半疑の心持ちのまま、妻と息子と三人で幸福灯の前に座り、笑顔を作ったり、肩を叩き合ったり色々と幸福してみたが、ライトは何の反応も示さなかった。引越し直後の多忙さ故、あまり集中できなかったことが原因かもしれない。いずれにしても幸福灯について、実験によっては詳らかにされなかった。
その後、妻が行った御近所の聞き込みによると、
「小学生の娘の帰宅が遅くなり、心配しつつテレビを見ている八時半。帰宅した夫に相談するも『心配ないさ』と軽く流され、夕食スタート。ビールを飲んで、冷奴を突っつくうちにだんだん心配になる夫。『だいたいお前の躾が……』『あなたが無関心過ぎるから……』と始まりそうな険悪さの中、娘無事帰宅。友人の探し物を手伝って遅くなったと判明し、ホッと一息『早く手を洗ってらっしゃい』と声をかけながらふと気がつくと幸福灯がポッ」と灯っているという事らしかった。
そういうことであれば、元演劇部の腕を生かして、引越しをめぐる夫婦のトラブルに息子が入って丸く収めて『やっぱり子は鎹』と大団円をむかえる芝居を書いて、三人で演じてみたが、演出が甘かったのか幸福灯は、無反応だった。
その後の様々なチャレンジも幸福灯の前に意味なく消えて、そのうちに幸福灯のことを考える度に私はイライラが募るようになった。
遂にイライラは頂点に達し「明日こそ幸福灯を破壊してしまおう」とドライバーとハンマーを準備して床についた私の心中を察した妻が、その夜のうちに、幸福灯の上にカレンダーを掛けて見えなくしてしまった。
見えなくなってもしばらくは気になったが、イライラは収まり、そのうちに忘れてしまった。別に幸福灯が灯ったからといって、税金が免除になるわけでも表彰されるわけでもない。すっかり市政四十五周年に踊らされたわけだった。
そんな私が、明け方近くにカレンダーの裏で幸福灯がほのかな桃色に輝いていることに気付くことは無かった。
エントリ7 サバンナのような夜 第1素描室
私はまだ、ドラゴンフルーツというものは食べたことがなかった。
空港で、それはけっこう投げやりに売っていて、飛行機に持ち込むのに、果物なのに検疫はいらないらしいので買ってみた。香川くんとの折半だ。
香川くんは同い年で、同期入社で、でも今回の研修ではじめていろいろ話したりした。イイ子だ。同い年だけど他に言い様もない。イイ子なのだ。
飛行機で45分。すぐに降りる。そこからクルマで1時間。島から島に移るよりも、島の中を移動する方がよっぽど時間がかかってしまう。そうしてやっとホテルに着く。
着いたのは夜だ。私たちはくたびれ果てて、すぐにめいめいが自分の部屋に引っ込んで眠ってしまった。果物のことは忘れてしまっていた。
ドラゴンフルーツのことを思い出したのは、それから二日たって、本州に帰る前の日だった。思い出したというより、香川くんから言ってきたのだった。
「ドラゴンフルーツどうしよう」
「食べよう」
その夜、私は香川くんの部屋に行った。その日は花火大会らしく、ドンドンと音もしていたので、香川くんも窓を開けて花火を眺めていた。けれど私が訪ねてくると「いらっしゃい」といって窓を閉めた。私は変な顔をしていたかもしれない。エアコンのリモコンにちょっと触れてから冷蔵庫を開けた。
ドラゴンフルーツは、武器庫にしまわれている弾薬みたいに物々しく冷やされていた。
「中身、見たことある?」
「ない。香川くんは」
「ない。何色か賭けてみるか」
「・・・黄色」
「・・・赤?」
いざ御開帳、というところで刃物がないことに気付く。ホテルのフロントに行き、厨房からナイフを借りてきた。夜中に急に若い男女がナイフを借りにくるのだから、さぞかし無気味に思ったことだと思う。
中身がどうなっているのかわからない果物は、切るのも面倒だ。フサに分かれているものなのか、もしくはパイナップルのように芯があるのか・・・。相談の結果、まず真っ二つにしてみることにした。
縦に刃を立て、ズブリと差し込む。柔らかい手ごたえ。真っ直ぐに引き抜き、二つに分ける。美味しくても不味くても、自動的に二人のノルマとなる。
中身は真っ赤だった。メロンのように掘り進めそうだったので、さらにスプーンを借りてくる。
まず香川くんが食べた。その後私も食べた。
夏らしいことが一つはできたな、と何となく思った。香川くんは口元を真っ赤にして、食事中のハイエナみたいだった。
エントリ8 増子、チアノーゼ 空人
勢いよく鼻をすすると、奥のほうで塩素の匂い。その後、いやな速度で喉に落ちる目薬の、甘いようで苦いような味。僕はぶるっと体を震わせた。暑いのに体は心底冷えている。プールの後はいつも風邪をひいたみたいになる。
夏休みの出校日。透明のビニルカバンを持って、むせかえるように青々とした空気の中、僕はひとり家に帰る。ときどき蝉の声といっしょに膨張した熱風が吹き付け、僕はそれを温かいな、と心地よく感じた。濡れた髪が不器用になびく。役場から正午のサイレン。
前方に浅沼だ。手足の長い保健係。僕は大声で呼びかける。
「あさぬまー、なに読んどるん?」
彼女は立ち止まって振り向くと、一瞬目を細め、
「宿題の本。感想文の」
と答え、再び前を向いて歩き出した。ランドセルと長い髪が揺れる。僕は小走りに近づくと「何にしたん?」と、かがんで表紙を見ようとした。
「なにぃ、見んどいて」
困惑した表情で、本を頭上に持っていく。
「ええがや、別に」
フンと鼻を鳴らす。彼女はそんな僕を一瞥すると、
「くちびる、めっちゃ紫だが」
と少し緊張した声で言った。僕はとっさに手の甲でゴシゴシやった。「べつに死なへんて」。
通学路の脇にある用水から、ウシガエルの不機嫌なリズムが聞こえてくる。
「おまえ、看護婦になりたいんか」
「……うん」
彼女は持っていた本の表紙を見直した。「いいかもな」と僕は言う。
「増子は?」
「オ、オレは……」
白いカーテンの揺れる家から、焼きそばの匂い。NHKのニュースも聞こえてくる。
「オレは、サッカー選手だな」
「え? だって体操クラブじゃん」
「関係ないって。サッカーの世界は実力主義やもん」
「ふうん。わたしもサッカー、けっこう詳しいんだよ」
「そ、そうか……。おまえの下敷きに、はさんであるもんな。あんな風になりたいなぁ」
僕はしどろもどろになりながら、カバンを交互に膝で蹴った。
空を見上げる。入道雲がまるで洗剤の泡のように盛り上がり、形を変えていく。そんな僕の顔を、彼女は少し上からじっと見つめている。「な、何だよ」。
「増子、チアノーゼみたいやな」
「は? それ、どこの選手?」
「……あほ」
「何であほやっ! あほやない」
彼女は僕の抗議に耳を傾けることもなく、再び本へ視線を落とした。
「なぁ、教えろて。チアノーゼってだれや?」
アスファルトには陽炎が立ち上り、景色を一層不安定なものにしている。夏休みはもうすぐ終わりだ。
エントリ9 アカクカノジョハサク 犬宮シキ
まるで、墨絵のような風景。色のある物と言えば、畦道に沿って咲く彼岸花くらいだ。空さえモノクロのマーブリングだ。そこでまた、気付く。
「これは夢だ」
相も変わらず鳴り響くアラーム。目覚まし時計を買い換えたい。これじゃあまるで家畜と一緒だ。出来れば銀色のスプートニクみたいな曲線を持った、ベルで起こしてくれる目覚まし時計が良い。いつまであの夢を見るんだろう。解らない。故郷を出たのはいつだっけ、もう大分記憶もあやふやだ。彼女のことも忘れた、月日とはそんなものだ。
彼女のことは忘れた。だからあれが俺の夢の中だけで繰り返されることなのか、それとも実際にあったことなのかは解らないし、確かめる術もない。
「これは夢だ」
「夢じゃないわ」
彼女の細い手首、まるで標本みたいな指先。白骨が透けて見えそう。細い茎をつかんで、花を摘む。ぽきん、そんな音しないけど、聞こえた気がした。
「私みたい」
冷蔵庫の牛乳、パックに口つけて飲む。叱る人なんて居ない。服着替えてバイト行かなきゃ。ちらっと見た爪先、赤く塗られてた。多分だれかの悪戯。忘れたはずの思い出がゆらゆら立ち上ってくる。
赤い花が咲く!
「私みたい」
「何処が」
ふと彼女が微笑んだ。赤い唇は、確かにその花に似て。蝶番が外れたようにその口が開く。赤い花を、ばくんと食べてしまった。
「解っているくせに」
「解ってないんだよ」
彼女のことは忘れたから。あの赤い花。死んでしまった、彼女のことは忘れたから。だから代わりを、こうして毎日。部屋の隅に目を移す。沢山の茎がある、細い指先、臑の骨、臍の影、花は集めて、冷蔵庫の中。
「ねえお願い」
「何」
白い指先と、赤い口と、黒い髪。彼女。
「私を枯らさないで」
「枯らすものか」
ついでにアイスでも食べていこうかと、開けた冷凍庫の中は真っ赤。一人暮らしにはおっきいねって言ったのは、たしか七番目の彼女だっけ。沢山の花の赤と沢山の彼女の首。
「また思い出しちゃったな」
アイスの箱に黒髪がへばりつく。彼女の首うち一つが、コロコロ転がる。見れば最初の彼女で、少し嬉しくなる。長い黒髪、ひっつかんで冷凍庫の中再びほおり込んでばたん戸を閉める。
「忘れといた方が、また見つけたとき嬉しいしねえ」
思い出しちゃったし、彼岸花も咲いたから、また新しい彼女でも見つけよう。最後の彼女は、昨日咲いたから。爪先の赤、よく見れば血で。バイトいくまえに、風呂場で流そうと思った。
エントリ10 哀しい結末 満峰貴久
閑静な高級住宅街で、老夫婦が遺体で発見された。
「栗原君、その後何か解かったかね」
「はあ、部長、家の全てのカギは掛かっており、外部から侵入した形跡はありません。内部も荒らされた様子はなく、何も異常は認められませんでした」
「死因は?」
「それが、解剖の結果、餓死ということです。外傷は全くありません。息子夫婦が先月三十日に発見した時点で、死後約一週間ということでした。二人とも居間のソファーに座ったままの状態でした」
「餓死い? 確か、大手の会社の役員を引退して悠々自適な暮らしをしていたんだろう、第一発見者の息子夫婦も毎月末に様子を見に来ていたと言っていたし、食事も毎週宅配便で1週間分の食材を取り寄せていたそうじゃないか。息子が言っていたように、少し惚けが始まった父親の足が弱っていたとしても、外食するか、出前ぐらい取るだろう」
「はい、息子夫婦と毎月食事に出かけるのをとても楽しみにしていたようです。それと、ピザとか洋食、寿司の宅配業者も近くにあります。確かに食材も毎週届いていました。ただ…」
「ただ?」
「はあ、その食材業者の証言なのですが、毎週届ける食材と言うのは、発泡スチロールの箱に入れてあって、次に来たときに新しい食材と、玄関先に出してある空になった箱を交換していくそうです。それが、先々月からはほとんど手付かずで残っていたということでした」
「業者はおかしいと思わなかったのか」
「ええ、そういうことは特に珍しくはないそうです。この業者のは有名な高級食材ですから、近所に対する見栄で注文する家もあって、面倒な料理などする人はあまり居ないらしいです。高級住宅街ではけっこうあるそうです」
「そんなものかねえ、勿体無い」
「で、推論としましては、惚けが始まって足腰も弱くなった夫に悲観した妻が、餓死という手段で心中したと見られる、ということでしょうか」
「なんとも、やり切れん話だ」
「おうい、腹減ったな、飯はまだか」
「まあ、嫌ですねえ、お父さんたら。さっき息子達と食事をしたばかりじゃないですか。もうお忘れですか」
「何を言っておる、忘れたりするもんか。で、息子達はどうした」
「食事が終わったら帰ったでしょう、お父さんも一緒に見送ったじゃないですか。」
「そ、そうだったな」
「そろそろ飯にせんか、腹が減ってきた」
「まあ、嫌ですねえ、お父さんたら。さっき息子達と食事をしたばかりじゃないですか。もうお忘れですか」
エントリ11 ほんとの眼 氷月そら
あたしは月があんまり好きじゃない。月は強い。つめたくて、透明で、なにもよせつけない。すっ、とまっすぐそこにいる月を見ていると、泣きたくなる。月はあたしにとって強すぎる。だから、あたしは意識して月を見ないようにしている。
だけどときどき、無意識に月を見上げていることがある。昨日の帰り道もそうだった。ちょうど半分、切れそうなほどの鋭さに、いつもどおり泣きたくなった。泣かなかったけど。
今日もまた、見てしまった。ベッドに入ってふと窓の外を見たら、そこに月がいた。
……でも、今日の月はいつもと違った。ほわんとやわらかな光を放って、やさしい表情をしていた。見事にまんまるだった。そして何よりあったかかった。
しばらく見つめていると、月が、おおきくなったり、ちいさくなったりしているように見えた。
こんな月には、もう会えないかもしれない。
そう思ったから、もっとよく見ようと、机の上のメガネをかけた。
視界がクリアになる。
メガネごしの月は、思いのほか遠くにあった。小さくてつめたくて、いつもと同じ月だった。第一、たった一日ですっかり満ちてまんまるになるわけがないのだ。そんなことにも気付かなかっただなんて、あたしはどうかしてる。
あたしは極端に眼が悪い。今の正確な視力はわからないけど、何年か前の視力検査(たしか、今使ってるコンタクトをつくったとき)では0.03とかそのくらいだったと思う。だからあたしが素で見る世界はいつだってぼやーっとほわんとしていて、大きさだって正確じゃない。まわりにいる人たちはみんなのっぺらぼうだし、距離感もあいまい。それどころか、自分のてのひらさえもぐぐっと近づけなきゃはっきりしない。
だからあたしがちゃんと生きていくためにはメガネとかコンタクトとか、そういう視力矯正のためのモノに頼らなくっちゃいけない。もしなかったら、あたしはしょっちゅう電柱にぶつかったり段差を踏み外したり、向こうから来た恋人がわからなかったりシャツが裏返しでも気付かなかったりする、だろう。いや、する。確実に。
ほんとの眼で見ていたら、生きてなんかいけない。
今日はうっかり、やわらかな月が嬉しくて自分の眼の不確かさを忘れていた。
こんなことでは、いけない。あたしのほんとの眼は信用できないんだから。
メガネをまた机の上に戻す。
そして、さっき見たまんまるのほわんとした月を頭から追いやって、眼を閉じた。
エントリ13 『シュレディンガーの箱庭』 橘内 潤
「わたしたちは箱庭に囚われた猫なのだ!」
「ほお、そうか」
唐突に力説をはじめる正也に、いつものごとく気のない相槌。
「いいか――わたしたちは猫だ。実験用の黒猫だ。箱に押し込められた黒猫は、生きるか死ぬかを試される。そこに、黒猫自身の意思だとか才覚だとか、そういった自己に付随するものの介在しうる余地はない!」
「ほうほう、そうかい」
「わたしたちは、まったく関係のないところで、その生死を決定されているのだ。――決定には、一切関われない。ただ『生きた』か『死んだ』かという結果を押しつけられるだけの、卑小で矮小で貧小な存在なのだ、わたしたちは――!」
「いいから弁当、早く食え。昼休み、あと五分だぜ」
「そうだ! わたしたちはあと五分で弁当を食いおわらねばならん存在なのだ!」
馬車馬のごとく――という形容が正しいのかは知らんが――弁当をかっ込みはじめる正也。
「まあ、つまりだ」
――と、これはぼく。
「つまるところ、あれだ。人生というのは、ふたを開けてみるまでわからない、ってことだ」
「ふぁあ、ほぉふゅうほほふぁ」
「食ってから、しゃべれ」
「ん……まあ、そういうことだ――といったのだよ、わたしは」
あっというまに完食。三分で完食。
「でもあれだよな」
と、ぼく。
「おまえは“あれ”ばっかりだな。まず第一声にどうとでも取れる代名詞で相手の関心を惹きつけ、一拍の間をおいて話しはじめるその話法――おまえは臆病なくせに喝采願望が強いタイプとみた」
「ってか、長い付き合いだろ。いまごろ気づくな、アホ」
「アホとはなんだ、三十八点」
「人生はテストの点じゃないわ、ボケ」
「だが記憶力を計るひとつの指針であることに違いはないと思うが?」
「……ぼくたちは学校という箱庭に囚われ、点数という結果を押しつけられる三毛猫なのだ。当人の努力だとか才能だとかは、一切報われないのだ!」
「ほう、そうか」
「ぼくたちは、まったく関係のないところで、テストの点を決定されているのだ。――決定には、一切関われない。ただ『合格』か『追試』かという結果を押しつけられるだけの、卑小で矮小で貧小な存在なのだ、ぼくたちは――!」
拳を握る。そりゃもう、ぐっと固く。
「で、午後の授業、とっくに始まってるのだが」
「さきにいえ、バカ」
いまさら慌てることもなく、屋上を後にした。
まあ、あれだ――人生ってのは『生きて』も『死んで』もない、ってこと……なんじゃない?
エントリ14 全ては狼男の手の上に 木葉一刀(コバカズト)
その男は振り返り様、背後の男に鋭い視線向けた。
「犯人は貴方だ」
見つめられた男は、見つめる男と同等の鋭い視線を持って真っ向から睨み返す。
「第一の殺人における関係者全員のアリバイが、前に話した方法で崩れていることはご承知の事」
見つめる男は口だけを動かす。まるで視線が見つめられる男に突き刺さったまま動かせないかのように、
微動だにしない。
「そして第三の殺人未遂、対象の女性を殺せなかった焦りからでしょうか、幾つかの些細なミスをしている。これは後で現場にて説明しましょう。その方が分かり易いはずです」
見つめられる男も微動だにしない。見つめる男の視線から彼は視線を一時も外さない。
「第二の殺人。これは皆さんにアリバイがあり、また凶器の所存、殺害方法と殺害時間。これらの事から不可能犯罪では無いかと考えられるような状況にあった。しかし、そのトリックも解けました」
見つめる男の表情が険しいものに変わる。見つめられる男も険しい表情で睨み返している。
二人の男の間に空間の歪みが生じたかのように、部屋の空気の濃度が薄くなったような錯覚すら覚える。
部屋は赤黒い夕日に満たされている。男は深呼吸の後に溜息をついた。鏡には探偵を演じていた彼が映っている。彼は自分のシミュレーションに満足し微笑んだ。
あぁ、今は何て穏やかな気持ちなんだろう。
きっと彼は私のトリックに気がついたに違いない。
昨晩の私を試すような会話。あれは二度目に私がトリックに用いた蝋に、彼は気が付いたと云う事だろう。
だが、私の目的は既に果たされている。
本当に彼が居てくれて良かった。
問題が解決されなければ、私が殺した者を大事に思う方々の納得がいかないだろう。
きっとトリックだけではない、動機についても理解し、彼はそこを攻めて来るに違いない。
今夜の夕食、それこそ私が望んだ時だ。……
彼は夕食に向かう為に支度を整える。
机の上には関係者が狼の牙と呼ぶ、三人の血を啜ったナイフ、それを皮肉って私が銀の弾丸と呼ぶ、未だ血を知らぬナイフが置かれている。引出しを開け、一錠のカプセル剤をハンカチに包む。銀の弾丸で狼男を打ち抜けなかった場合の保険だ。これは夕食の後に飲む。効果が現れるタイミングは合うだろうか。
今夜で全てが終わる。直筆の告白文を二本のナイフと共に懐に仕舞うと部屋を後にした。
探偵君。私のシナリオ通り、全てを看破してくれ給え。
エントリ15 飲もう 日向さち
急に、2人で映画に行こうと言われても、全然、ピンとこなかった。
生まれてこのかた、コーラを飲んだことがない。5才ぐらいの頃にコーラ味のガムを噛んで、うわ、なんだこの味、と思った経験があるために、飲んでみようという気になれなかったからだ。でも、帰り道のコンビニで、なんとなく手に取ったのはコーラのペットボトルだった。500ミリリットルのもあったのに、1.5リットル入りを迷わずレジへ持っていた。
高木くんに誘われるままに映画館へ行ったのだが、映画を見ているというよりは、座ってじっとしている、という感じだった。隣に座っている高木くんの顔を窺うと、すぐに気が付いて、どうしたの、と訊いてきた。高木くんがそわそわしているのが分かる。ううん、別に何でもないよ、と答えたのだけど、思いの外、そっけない言い方になってしまった。
高木くんのことは嫌いじゃない。むしろ、好きだ。けど、クラスの男子の1人、としか考えていなかった。他にも、としやんとか、ゆんちとか、仲良くしている男子は何人かいるけれど、1人を好きになるというのは、やっぱり違うのだろうな、と思う。
高木くんは、誰とでも親しく話ができる人なのに、どうして私なんかを選んだのだろう。
映画が終わって外へ出ると、高木くんは、喫茶店にでも行こうと言ってきた。私はとっさに、用事があるから、と断った。本当は何も用事なんて無いのに。
高木くんと目を合わさないように、じゃあ、と言って歩き出した。ちょっと待てよ、という高木くんの声が背後から聞こえたが、私は聞こえなかったふりをして、人の波に潜っていった。
これから先、私を好きになってくれる男の人なんて現れないかもしれない。けど、だからといって高木くんの恋人になるというのは、間違っている気がする。
家に帰って、コーラを飲んでみる。いったい何でできているのか知らないが、薬のような味がした。小さいころはもっと不味いと感じたけれど、今だっておいしいとは感じられない。それでも次から次へ、のどに流す。全て、流してしまいたい。慣れていないものを飲んだ反動で、記憶がパンクしたらいいのに、と思った。
自分のことを好きになってくれる人がいるというのは、もっとずっと素敵なことだと思っていた。こんな気分になるなんて、思ってもみなかった。
大人だったら、こういう気分の時、ビールを飲みたくなるのだろうか。
早く、大人になりたい。
エントリ16 ATOLL 川辻 晶美
ゲストのトランクがひとつ、フロントに取り残されていることに、ビキは気づかなかった。目敏く見つけた支配人のジムが、ここぞとばかりに彼に罵声を浴びせる。英語があまり理解出来ないのは、かえって良かったのかもしれない、とビキは思った。若いスタッフは大きな荷物も軽々と運んでゆくけれど、六十に近いビキが出来るのは、カートに荷物を載せる手伝いくらいだった。丸一日働いて、貰えるのは小遣い程度。他のスタッフのチップのおこぼれだ。
数十もの環礁から成るこの国の、一番貧しく小さな島から出稼ぎにやってきて、もう二年になる。世界各国からゲストが訪れる大型リゾートで、現地語しか喋れないビキに任せられる仕事などなく、ジムが常々、「同情で雇ってやったんだよ」と洩らしていることも知っていた。
それでも故郷の島で何の仕事に就けないよりはいい。残り物ではあるが食事も出るし、月に一度、妻が待つ島へ帰る時には、固くなったパンや傷み始めた野菜を分けてもらえる。
陽が落ちる頃、この日最後のボートが島を出ていった。仕事を終えたビキは、サンセットを眺めるゲストの邪魔にならないよう気遣いながら、砂浜で貝を探した。故郷の海では、美しい貝など殆ど見かけなくなってしまたので、妻への土産にするつもりだった。けれど、この島の浜辺も打ちあげられた珊瑚の死骸でいっぱいだった。
ずっと向うの環礁に空港が出来、世界中の金持ちが島を買い、競うようにホテルを建て始めてから、どれくらい経つのだろう。豊富に獲れた魚は激減し、海は少しづつ輝きを失い、加えて地球温暖化の影響で珊瑚は壊滅的なダメージを受けた。
腹を立てる気力もなくなった頃から、夕焼の海が、これ以上ない程物悲しい光景に見えるようになった。それでもこの海は十分美しいと、各国から訪れる者が後を絶たないのだから、地球は一体どうなっているのだろうと、ビキは時々思うのだった。
今日のところは諦めようと、ビキは立ち上がった。波の音だけは昔と変わらなかった。南風が椰子の木々を通り抜ける時の、さらさらとした音を聞くと、ビキは、貧しくともこの環礁に生まれたことに、つかの間、感謝するのだ。
つま先に固く尖ったものが触れた。もう一度腰を落として砂を指でかきわける。そこには虹色に輝く、美しい巻貝が埋まっていた。
ビキの口元に、この日最初の微笑が浮かび、沈みかけた太陽は、きらきらとその小さな宝物を照らした。
エントリ17 約束 宮田義幸
……暗い……。
いったいどれくらいの時間が経ったのだろう。女は椅子に縛り付けられ身動きがとれずにいた。
……どこ? ここどこなの?……。
女は叫ぼうとしたが、猿ぐつわを噛まされていて嗚咽のような声が漏れただけだった。
闇が感知しようとする五感を遮断する。女は何度もどうにか縄から抜け出そうと試みたが、結び目は硬く動けば動くほどきつく締め付けられていった。
その時だった。軋んだ音を立てながら扉が開いたのだ。漆黒の闇に一条の光が差込む。女には神が助けに来てくれたのだと思った。
しかし、現れたのは悪魔だった。
「クックックッ……」
声質からするとどうやら男らしい。しかし、何の特徴も無い声だった。
男は女の恐怖の表情を目で舐め回すと、ゆっくりとしゃべりだした。
「これから言うことを守れば助けてやる。お前、まだ死にたくないだろ?」
女は必死の形相で頷いた。男は続ける。
「ただ、この箱を肌身離さず持っていてくれればいい。そしたら命の保障はしてやる。ただし……」
時間と空気が凍りつく。
「ただし絶対開けるなよ」
逆光で見えないはずの男の顔が嘲笑に醜く歪んだように感じた。
「約束……」
――夏の強めの光が目蓋に刺さる。女はゆっくりと目を開けた。蝉の鳴き声がやけに頭に響く。どうやら、どこかの公園らしい。
……助かった?……。
女はそう思い心底ほっとしたが、太ももの箱を見て顔を強張らせた。
震える手で箱に触れる。その瞬間、女は箱を落としてしまった。
「あっ!」
手を伸ばしたが、もう遅かった。蓋が開く。
蝉は鳴き続けていた。
――えー、ただ今入ったニュースです。○×公園で爆発事件が発生しました。死傷者が多数出ている模様です。どうや……――
テレビの光が暗い部屋を照らす。
「あーらら、開けちゃった。あれだけ言ったのに……」
男はただ笑い続けた。
それから一ヶ月後、女は意識を取り戻した。
しかし、手足を失い、一生動けない身体となっていた。
すでに蝉の声は聞こえない。
ただし、女は百歳まで生きた。
今年も夏がくる――。
エントリ18 歴史管理官 太郎丸
共働きの私達は、いつものように揃って家を出る。結婚して5年目だが子供はまだない。自分でいうのも何だが、まだアツアツである。
私達はそれぞれ違う会社に勤めてはいるが、似たような仕事をしている。だがお互いに仕事の話しについては、一切口外しない。
「それじゃ、いってらっしゃい」
妻のウインクを受けて、いつものように私は照れてしまう。にやけそうになる口元を引き締めながら駅の階段を下り、夕べの事などを思い出しながら、やっと目尻と口元が普段の様子に戻るころ会社に着いた。
何種類ものセキュリティーチェックを通過しながら、私はビルの奥へと進んで行く。
「斉藤さん。今日はよろしくお願いします」
部下の小山が近寄ってきた。彼は興奮していた。無理もない。彼は今日の午後からの仕事が初出動になる。
私は前から準備されていた衣装に着替えると、高い塀に囲まれた倉庫のような別棟へと移動した。
『馬組はS99に、徒歩組はL53に移送。所定の位置へ移動せよ』
私は3号機前に準備されている馬に跨った。7号機の前には徒歩組の桔梗の紋が揺れている。
ブザーが鳴って2秒後に、辺りの景色は変った。
天正十年六月二日払暁、タイムウォールから出て光秀の軍勢に化けた我々が、100多重度で本能寺を取り囲むと、3人のチーフが発火装置のスィッチを押し、建物は炎上した。
信長は現代的感覚からいうと結構良い男だが、既に昨日の段階、とはいえ現地時間では13分後になるが、死亡する。
途中何人かの私とすれ違いながら笑顔を交わし、午前中の仕事は終わった。
部屋に戻って昼食を取り着替えを済ませると、私は小山と天正の昔に戻った。明智の軍勢が信長を討ったという噂を流す必要がある。
去年終了した光秀を南光坊天海として家康に近づけるプロジェクトは成功しているから、大きなズレはないはずだから、初出動の小山を慣れさせる為には適当な仕事だ。
「あれ、奥さんじゃないですか?」
突然現代語で話しかけてきた小山にギクっとしながら、指先を追うと確かに妻だった。彼女も気付いたようで、ウィンクを投げてきたが、少し焦っているような気がした。彼女にはセックスの後の気だるい雰囲気が漂っていた。
彼女は信長と一緒だった。彼の救出チームが別会社で実施されていると聞いてはいたが、現代に連れて来る前に彼と何かあったのだろうか?
戻ったら彼女に聞きたいが、あれはいつの彼女なのだろう?
エントリ19 そして誰もいなかった 大覚アキラ
ねぇ、奥さん奥さん、見て、あの窓際の席に座ってる男の人。さっきから独りで喋ってるのよ。「ごめんね、ヨーコ」とか、「おれが悪かった」とかなんとか……なんだか彼女に謝ってるみたいだけど……最初は携帯で喋ってるのかと思ったけど、そうじゃないみたいだし。いやよねぇ、この季節ってああいう人が増えて……あ、それはそうと、奥さんちの娘さん、具合いかが? え? 今週退院? あらぁ、そう、じゃあもうすっかり元気になったのね。よかったわ、あたし気になってたのよ、ホント。
ちょっとマスター、あそこの客、なーんかおかしいッスよ。奥さんちの娘さんの具合がどうしたこうしたって、独りでブツブツ言ってさぁ。電波きてんのかなぁ、あのオバサン。ちゃんと金払って帰るかなぁ。あー、見てたらイライラしてきたなぁ。食い逃げしやがったら、ブン殴っていいッスかね、マスター?
というわけで、明日の打ち合わせまでに、この見積もりはちゃんと見なおしておいてくれよ高橋君。このままじゃ、部長カンカンだぞ……おい、高橋君、聞いてるのか?……え? あそこの店員がどうしたって? 独りで喋ってる? 何を言ってるんだ君は! そんなことどうでもいいだろうが! 頼むぞ、しっかりしてくれよ。この仕事受注できないと、ウチの部の存続にかかわるんだからな。まったく……。
おいおい、アレ、見てみろよ。あの隅っこの席のオッサン。なんか書類広げて独りで怒ってるよ。「頼むぞ、タカハシ君!」だってさ。誰だよタカハシって。ヤバくない、アレって? そういえばさぁ、ヤバいっていえばさぁ、おまえ、単位どうよ? 卒業できそうなの? ヤバいんじゃない、留年したらおまえの親父、発狂するんじゃない? 追試ちゃんと受けとけよな、マジでさー。
だからさぁ、どれだけ謝ったって、ヨーコもうアンタのこと信用できなーい。アンタは絶対にまた浮気するって。おれが悪かった? あたりまえじゃん、アンタが悪くなくって、他に誰が悪いって言うのよ。だいたいさぁ、半年前にもこーゆーことあったじゃん? その時も、もうしませんゴメンナサイ許してくださいって、それにだまされたヨーコがバカだったのよね……ちょとぉ、聞いてる? 何ボーっとしてんの? ムカつくー。え? 後ろの大学生? それがどうしたの? 独りで喋ってる? ちょっと。わけわかんないこと言って、話ごまかさないでくれる? ヨーコのこと、バカにしてるワケ!?
エントリ20 潮風の彼方に 夢追い人
彼女が最後に言った言葉を今でも覚えている。
日本海に面したこの小さな港町は相変わらず寂しげで、海から吹いてくる風も肌を引き裂きそうな冷たさのままだ。
駅の改札口を抜けると、目の前に日本海が広がっている。麦藁帽子を被った男が一人防波堤のところで釣りをしている。僕もまだこの町にいた頃はヨウコと一緒に釣りをしたものだ。一緒にと言っても、ヨウコは黙って僕の横に座って、釣り糸の垂れる先を見つめているだけ。それでも魚が釣れるとヨウコは子供のようにはしゃいだ。僕は釣りを楽しむというよりは、むしろ彼女と二人だけの時間を共有することに喜びを感じ、彼女の無邪気な笑顔にただ溺れていただけだった。そんな日々に終わりはないと、僕も彼女も思っていた。
「俺、東京に行って絵の勉強がしたいんだ。向こうの学校に通ってちゃんとした技術を身につけたいんだ。」
「いつ行くの?」
彼女は悲しげな顔で、僕を見上げた。防波堤に立つ僕とヨウコの間を北風がすり抜けて行った。
「一ヵ月後。もう決めたんだ。わかってくれるよな?」
「ううん。わからない。やだ」
今にも泣き出しそうな彼女の声を僕はこんな時にもかわいいと思ってしまった。しばらくの間、彼女は僕の胸に頭をうずめていた。胸の辺りに暖かいものを感じ、その暖かいものは僕の心臓を何度もノックするようだった。
出発の日。この駅の改札口に僕とヨウコは一言も口に出さないまま立ちすくんでいた。電車がホームに到着すると僕は彼女の手を握り、もう行かないと、と言った。
「行かないで」
これが彼女の最後の言葉だった。僕が握った手を離すと、彼女の目から涙がこぼれ、純潔なピンク色に染まった頬を伝って、雫となり落ちた。それはまるで桃の果実に付いた朝露が太陽の光を浴びながら流れ落ちるようだった。
「じゃあな。三年後に帰ってくるからそれまで元気でな」
走り出した電車の窓から彼女を見たとき何かが終わっていくような気がした。
防波堤で釣りをしている男のところへ一人の女が駆け寄って行った。僕は嫌な予感がした。その女はヨウコにそっくりだった。僕の心はあっという間に空っぽになってしまい、身動き一つできなくなった。帰らない時にもう一度愛の再生を願った。僕が置き去りにした二人がいた日々をもう一度。あの日と同じ風が僕の瞳を乾かす。
「やっと戻ってきたのね。おかえり」
突然後ろから懐かしい声が甦った。
「ただいま。待たせたね」
エントリ21 十字街、鮫退治 土筆
洪水になって喜んでいるのは、小魚ばかりではない。鮫が背鰭を見せて悠々街なかを回遊している。
大水で海に流された人肉に味を占めて、頬白鮫、撞木鮫が群れをなして都市へと侵入して来た。彼等は眼が利く方ではないが、嗅覚は鋭く、ことに血の匂いには敏感だ。
鮫どもの赤い眼は、さながら獲物を物色する探照灯だ。足に傷を負った少女が、避難する途中で鮫に襲われたと、ラジオが報じている。その他にも、生理中の女、怪我をしている者の被害が多い。
どこまで水位は上昇していくのだろう。やがて鮫が三階、五階、七階までも巡回していくようになるのではないか。
林立するビルの一つに、隠然として独りの男が住んでいた。正木良蔵。ガンマニアで、世界の銃を集めて隠匿していた。狩猟の腕も相当なもので、故あって競技には出ていないが、もし出ていればオリンピックの代表に選ばれるのは間違いないであろう。
水位は増していった。
正木が五階から見下ろしていると、ビルの間の平屋に異変が起こった。屋根に這い登ろうとしている若い女の脚に、何かが取り付いている。鮫だ! 女が水に引きずり込まれた。
正木は馴染んだ銃の一つを取ると、女を引き回す鮫を撃った。
助けようと屋根から父親らしい男が水に飛込む。その男に別の鮫が襲い掛かる。
正木はその鮫を撃った。見ると、周辺から背鰭が忍び寄ってきていた。その数の多さに彼は恐れをなし、ライフルを機関銃に取替えて撃ちまくった。鮫は白い腹を見せて浮かび上がる。鮫どもは血を噴く同類に矛先を変えて喰らいついた。
女は助かるかもしれない。父親が娘を抱えて屋根の方へ泳いでいる。その親子に寄っていく鮫はことごとく撃ちまくった。
射撃に集中しているうちに、背後に人の立つ気配がした。彼はそれが誰であるか判った。日頃から彼を付け回している刑事R。
「ああ、こちら、十字街、若い女、鮫にやられて出血多量。救急艇願います」
Rは携帯でそう要請すると、正木の隣に来て拳銃を引き抜き、十字街に群れる鮫を撃った。弾丸は力ない放尿のように鮫の手前に落ちる。
「これ借りるよ」
ライフルを手にすると、今度は力強く発射した。正木も撃って、撃ちまくった。鮫は次々と白い腹を見せていき、同類を食い漁っていた鮫たちも、海へ退却をはじめた。いささかも悪びれず、背鰭を立て悠然と引き揚げて行く。正木はその鮫に向けて機関銃を撃ちまくった。Rも負けずに撃った。
エントリ22 新しい車 佐藤yuupopic
「新しい車買ったから乗りに行かないか?青いジェッタ」
なんて、電話。水上さん、どう云うつもりなんだろう。二年間ほぼ音信不通だった元妻相手に、新車試乗だなんて。
当時私は、勤めていたWebデザイン会社から独立したばかりで、元同僚から、半導体関連の設計を手がけている企業のホームページ作成の仕事を紹介してもらった。その時、先方の担当だったのが水上さんで、二回目の打ち合わせの時「結婚しよう」て、突然云われて、勢いに押されて入籍して、一年ちょっとで終わってしまった、日々。
シーズン後の浜辺に、人影はなく、さくさく、砂を踏みしめて、並んで、黙って、水際を、スニーカーが、寄せる波に浸りそうになるのを、よけて歩く。
「俺さ、転勤になった」
「……何処?」
「レイキャヴィク」
「アイスランド?」
ああ、だから、急に電話してきたんだ。今度こそ彼は本当に私の人生から永久に出て行く。日本にいたって会わないならアイスランドだって、吉祥寺だって、一緒だけど。
「遊びにおいでよ」
「やだよ。そんな遠く」
「たかが飛行機で半日だよ。氷河、フィヨルド、オーロラ、」
「そんな観光案内みたいな事云われても」
「ビョークに会えるかも」
「別にファンじゃないからいい」
「そうだ、みいちゃんに車あげるよ。俺だと思って大事に、」
「免許ないの知ってるじゃん」
「取ればいい」
「そんな急に」
「じゃ、一緒に行く?」
「教習所?」
「アイスランドにさ」
「……まさか。やだ。また別れよう、とか急に云われたくないし」
「あの時は悪かったよ」
「悪かったじゃすまないよ。ずいぶん泣いたもん」
「きみは、悲しくないのかと思った。電話もメールも一回もそっちからくれなかったし」
「我慢してたんだもん」
「俺の事好きじゃないと思ってた……」
「……あの時、私を、試したの?」
「でも、すぐ、離婚届取って来たのはきみの方だ」
「私、人を好きになるのに時間がかかるから、好きだなあて思って来たら、そのとたんに、で、訳わかんなくなっちゃって……」
ねえ、何で、今笑ったの?
「みいちゃん」
「何?」
「キスしていい?」
なんだよ、許可する前にするんじゃん。それも、かすかに触れるみたいなヤツ。おへその下の辺り、ジン、とする。
「行くだろ?」
「また、そうやって、決めつけて」
「も、一回していい?」
同じ事を繰り返すのだけは、ごめんだ。でも、ただ、されるがままに、くちびるに、彼を、感じている、今、私はどうしたいんだろう。
エントリ23 遠い道 中川きよみ
PTAの会合が長くかかり予定よりも遅く帰ってきたので少し慌てていた。スーツのまま遮光カーテンを引こうとして、やっと気付いた。神様の小さな贈り物のように美しい時間。夏至に近い雨上がりで、沈んだ太陽の残照が澄んだ青い光となって雨の滴とともにあらゆるものを美しく縁取っていた。
日没後に日常の手垢にまみれたような風景が神秘的にさえ写せる一瞬があるらしいんだ、と、その昔おつきあいをしていた写真部の同級生が教えてくれた。二人とも暇な学生だったので、来る日も来る日も夕暮れ時に目を凝らしていた。写真部の彼と見ることができたかどうかは忘れてしまったが、この神様の小さな贈り物の時間を学生の頃に一度見た。住んでいた学生の街が驚くほど美しく見えた。その後、見ていない。
ベランダからはこちらのマンションと向かい側のマンションとの間の悪評高い落葉樹の小径が見える。狭いのに樹まであるので自転車と歩行者がしょっちゅうもめて、1階の住人からは日当たりが悪く防犯上も問題があると苦情が来て、毎秋落ち葉のことで双方のマンションが頭を悩ます小径も、今は重なり合った葉の一枚一枚までがしずかな光を放っている。樹が本来持っている瑞々しい緑の匂いが小径いっぱいに広がっている。
遠い道を来てしまったと、深く感じる。時間という決して戻ることができない長く遠い道。
先月偶然のように訪れたその街は、大学が移転してしまったので激変していた。私がかつて住んでいた下宿を含めてすべての下宿屋が廃業に追い込まれて立ち退いたらしく、ゴミゴミした下宿屋界隈にズドンと片側3車線の広い道路が走っていた。びっくりした。新しいビルばかりで、時が経つと街すらこれほど成長するのかと唖然とした。
学生の頃には到底想像つかなかっただろう。夫と、夫の連れ子で今では中学生の娘と暮らす生活が待っていただなんて。子供を産んだことのない私がいっぱしの母親になってPTAの役員までこなしているとは。私だって変わっている。何があるか分からないものだ。
「ママ、何してるの?」
「あ、ユイちゃん、ここへ来てみて。きれいよ。早くしないとすぐに消えちゃうのよ。」
「うん、ちょっと待ってて。あ、ママのね、スーツの色がとってもいいよねってマキちゃん達が誉めてたんだよ。私嬉しくなっちゃった。」
微笑んだ私の顔がガラス窓に映る。そこにはささやかな幸せが在る。窓の外はもういつもの景色。
エントリ24 裸の王様 ハンマーパーティー
王は物心ついたころから自分が裸であることなど分かっていた。そんなことより、物心ついたころから感じていたある違和感が解消し安堵していた。
父親が急逝し、若くして自分が王の地位に就くことになったとき不安で仕方なかった。まだ幼いが喧嘩の強い弟に代わってほしいと思った。すぐに王室の遠縁の女性と結婚することになり、国を挙げて盛大に式が行なわれた。
その晩に初めて女性と性交することになった。王は勃起しない自分の陰茎をもてあました。新しい王妃は表情を変えず王を見ていた。侮蔑しているようだが私を非難しない理性は持ち合わせているようだ、と王は思った。
ある夜のこと、王は出来心で王妃のドレスを身につけた。肘まである白い手袋をはめたときに鳥肌がたった。鏡を見てつぶやいた。
「あたし……」
気づくと物心ついたころから抱いていた違和感が消えていた。
ある夜、王妃が階段をあがってくる音が聞こえ、慌ててドレスを脱ぎ捨てた。王妃が入ってくるやいなや勃起していた陰茎を王妃の陰部に差し入れた。この行為には抵抗があったが、受精に成功すれば、今後、自分の性癖について周囲から怪しまれることがないと考えた。
この愉しみさえ奪われなければ民衆の下僕にもなれると思った。
翌年、王子が生まれた。が、問題も生まれていた。時々王室内が慌ただしくなるのを感じた。
兵隊を率いていた弟の度重なる横暴な言動に民衆が反発し暴動が起きているとのことだった。
そして従者らに促され対応策を話し合っているところに蜂起した民衆がなだれこみ、王は捉えられた。
王はギロチン台にかけられた。民衆を率いた男が耳元で言った。
「死ぬ前に何か言いたいことがあるか?」
王は答えた。
「この服を脱がせてもらえないだろうか?」
「いいだろう。喜んで」
男は持っていた剣で服を切りつけると素手で破り取った。王は裸になった。筋肉質の男に荒々しく扱われ裸にされ、快感にむせび泣いた。
「ドレスを、王妃のドレスを着せてもらえないだろうか?」
先に処刑されていた王妃のドレスを横目で見ながら王様が言った。
「それほど愛していたのか?」
「あ、いや……」
「皆の者、愚かな権力者の終焉をしかと見ろ!」
民衆は拳を振りあげて喝采を叫んだ。だがドレスを着た王は民衆たちよりはるかに大きな解放感を味わっていた。
「切れ!」
固定綱が切られ、王はギロチンの刃と交わりながら果てた。生涯一度の恍惚だった。
エントリ25 白のふわふわ スナ2号
天使を捕まえた。
日が昇る前の、ひんやりと薄暗いマンションのベランダで、私の目の前を、羽のついた白いものが、パタパタと舞い上がっていこうとするのを、思いっきり腕を伸ばして捕まえた。後ろから抱きしめられた天使は、私を振り返って、ちょっと困った顔をして見せた。
天使は、ふんわりと手応えがなく、温かかった。
捕まえてみたものの、私も少し困っていた。家の中に入れるわけにはいかない。そんなことをしたら、母さんは「また変なものを家に入れて」と一日中文句を言い続けるだろうし、兄さんは鼻で笑うだろう。父さんは私を睨むに違いない。
そうこうするうちに、だんだん明るくなり、背伸びをしているつま先は痺れてきた。もうすぐ父さんあたりが後ろから「和美、何やってる」と、起きたての不機嫌な声で聞いてくるに違いない。それでも、私は腕を緩めるつもりは全くなかった。この白いものを抱きしめていると、なんだかとても安心する。
天使は、時々私を振り返っては、大人しくじっとしていた。天使を抱きしめながら、私は、捨てられてしまった大きなぬいぐるみを思い出した。私があまりにも泣くものだから、母さんがヒステリーを起こし、兄さんは憎らしそうに私の頭をグーで叩いた。
いつだって家族の空気は私のせいで悪くなる。私がいない方が、家の中は平和になるに違いない。
うっすらと目の前が潤んできた頃、急に天使が、もぞもぞし出した。すると、そんなに暴れているわけでもないのに、天使が私の腕の中を抜け出ていく気配がした。ますます手応えがなくなっていく。力をこめようとすると、ぽきぽきという微かな音がした。
これ以上力を入れると、羽が折れて、天使は二度と飛べなくなる。
直感でそう思った。
天使が振り返った。泣きそうな顔。
思わず力を緩めてしまった瞬間、天使はするりと腕を抜けた。
「私も連れて行って」
きっと、ものすごく情けない顔で訴えた私を、あっという間に高く昇っていってしまった天使が、最後に申し訳なさそうに振り返った。
「待って!」
大きく身を乗り出そうとして、体のバランスが崩れた。
「和美!!」
ぐいと腕をつかまれて、引き戻された。母さんの顔を見て、怒られる、と目をつぶると、ふいに強く抱きしめられた。
「危ないじゃない!」
怒っているのに震えている母さんの声を、ぬいぐるみよりも天使よりも温かい腕の中で聞きながら、私は気づかれないよう顔を何度も袖で拭った。
エントリ26 シャイニング・スター カピバラ
夜空を見上げればすぐにわかる、とヨーコは言った。
「シリウスよりも明るい、空にあるどんな星よりも明るい赤い星が、火星なんだって。大丈夫、他の星と見間違ったりしないから。今を逃すと、この次は何万年も先じゃないと見られないんだから、絶対に今見なくちゃダメ」
そんなことを、ヨーコは熱っぽく語るのだった。
「今でなくても、火星を見るのはそんなに難しいことじゃないし、ネットがあるんだから、天文台のサイトから火星の大写しの最新画像をダウンロードできるじゃん。そんなにこだわらなくってもいいのに」
私がそう言うと、ヨーコは深いため息をついた。
ヨーコは今、窓の無い清潔な病室にいる。そして、そこから出られない。
ヨーコに会いたい人は、なにやら小学校の給食当番のような格好をしなくてはならなくて、それでもガラス越しにしか彼女には会えない。
ガラスの向こうのヨーコは、元気そうに見える。入院する前と変わらずに、楽しげで明るい。でも、こんなに近くにいるのに、ずっと遠くにいる人みたいだ。
「そりゃ、天文台のライブカムもきれいだけど」
ヨーコは、半分笑ってるような、怒ってるような口調で言った。
「六万年に一度のイベントなのに、直接見れないなんて悔しいじゃない」
「最接近したのって八月の終わりだったんでしょ? あとはもう遠くなるだけだよ」
「九月中はまだまだきれいに見えるって。その間に窓のある部屋に移れるかどうかわからないし。ねえ、私のかわりに見ておいてよ」
病院の帰りにあちこち寄り道して、電車から降りたときには、夜の八時を過ぎていた。
駅のホームで、なんとはなしに空を見上げたら、家の屋根の間に輝く星が一つあるのに気づいた。
ああ、あれが火星か、と思う。
道端の水銀灯の光にも負けていない。夜空を覆う薄い雲を透かして、ひときわ強い光を放つ、赤い星。地球の隣にある星なのに、あんなに明るいのに、そこにゆくことは今もかなわない、遠い星。
そうか、あれが火星か。うんうん、なるほど。なんて一人で頷きながら家まで歩いた。
家に戻ってすぐに、ヨーコにメールを送った。
「帰り道で火星を見たよ。ヨーコが言ってたとおり、一目であの星だってわかった。ギラギラ光ってて、泣けるくらいきれいで、しばらく見とれてしまった。教えてくれたヨーコに感謝\(^-^)/」
「火星ってヨーコみたいだったよ」と書こうかと思ったけど、照れくさいからやめてしまった。
エントリ27 緑色の目がじっと俺を見つめる。 アナトー・シキソ
ドアを開けた。
「やあ、来たね!」
上等なスーツを着た若い男が、両手をぱっと広げて、そう言った。
「迷わなかったかい?」
「途中で、男に会いました」
「男? それ、僕じゃなかった?」
違う。
「まあいいや。掛けたまえ」
俺はブカブカのソファに腰をおろした。
肘掛けに少し触れただけで肘が痛む。
部屋の隅には車いすのジジイがいて、じっと俺を見ていた。
男が察して、大袈裟にハッと笑う。
「あれは僕だよ。あれこそが僕だ。気にするな」
男が俺の前のソファにドンと腰を下ろす。
「ところで、君、タバコはあるのかい?」
俺が首を振ると、男はポケットからタバコとライターを取り出してテーブルに置いた。
「やるよ。いいもんだぜ」
俺はタバコとライターを掴むと、ポケットに押し込んだ。
部屋の隅の車椅子のジジイはまだ俺の方を見ていた。
正面の若い男は頬杖を付いてニヤニヤと俺を見ている。
イライラさせるヤツだ。
「なんですか?」
「うしろ見てみろよ」
俺は振り返った。ヒョロ長い一本脚の丸テーブルが立っていた。
靴が乗っている。
「何だか分かるだろ?」
「俺の靴です」
「そのとおり」
俺が正面に向き直ると、向かいのソファは空で、
「そして、これが……」
と、なぜか後ろから男の声がした。
俺はまた振り返る。
男は、いつの間にか丸テーブルの横に立っていた。
「君の捜していた猫だ」
丸テーブルの靴は、黒い猫に変わっていた。
緑色の目がじっと俺を見つめる。
「猫なんか捜してません。けど……」
「けど?」
男は猫を眺めながら、その黒い背中を撫でている。
「そいつは俺の猫です」
男は顔を上げないで、ずっと猫の黒い背中を撫でている。
「そのとおり」
男が顔を上げて、ニヤっと笑う。
「テーブルの上に書類がある」
俺は、捻っていた体を戻して、テーブルの上を見た。
動物の皮で作った書類が一枚。
「そう、これだ」
と、また俺の前から男の声。
男はいつの間にか正面のソファに戻っている。
「サインしたまえ」
「サイン?」
「君の猫を取り戻すためだ」
「猫? 靴じゃないんですか?」
「猫は靴とも言うかな」
「猫は猫、靴は靴ですよ」
俺のその言葉に、万年筆のキャップを外そうとしていた男の動きが止まる。
そしてそのままバチバチと消えてしまった。
「一体、何が不満なんだ?」
部屋の隅の車椅子のジジイだ。
ジジイは車椅子のモーターを唸らせながら俺の方に近づいて来る。
「サインさえすれば、猫は返すんだぞ」
惑わされるな。取り返すべきは靴だ。猫じゃない。
エントリ28 白黒ガーゼ るるるぶ☆どっぐちゃん
「解ったよ。確かに俺は病んでいるし、病は治さなければならない」
男はベッドに座ったままコートを脱ぐ。
ラジオは数日前に壊れていた。
「病は治さなければならない」
雨の降る昼下がりに、ラジオは何の前触れも無くいきなり壊れた。その時流れていたのは大編成オーケストラの大交響曲で、第六楽章の途中だった。単純な主題が執拗に繰り返されていたが、その反復は唐突に破れた。
「俺は病んでいる」
男は袖をまくり上げた。
「注射でも何でも、するが良いよ」
「そうか」
医師の手が男の腕を取る。カーテンが揺れていた。風が通り抜けていくのだ。ラジオは部屋の片隅に置いてあった。何を演奏することが無くとも、木目のスピーカーは美しい。
「今日は虹が出ているな」
男の腕にゴムチューブが巻かれる。瞬く間に血管が浮き上がった。
赤。男の唇に引かれた口紅よりずっと鮮やかな赤。
「血は紅とはやはり違うな」
ラジオから突然音楽を溢れ出した。
前の曲の続きだ。
「何が悪かったんだろうなラジオは。急に治ったが」
「動かないでくれ」
「動かなくても、音楽が聞こえなくてもラジオは美しかったが」
「動かないで」
反復。主題の反復。
「俺は病んでいる。病は治さなければならない。だが、違うな。注射じゃない」
男は医師の手を掴み、振り払った。
医師は床に跪く。
「花だ。花が良い」
「そうか」
医師は立ち上がり、部屋を出ていく。男もそれについて行った。
二人は並んで歩く。
やがて建物の外へ。
「今日は虹が出ているな」
「どれにする?」
「適当に決めてくれ」
建物の外は花が埋め尽くしていた。見渡す限りの花。花。花。花。
医師は跪き、花の一本一本を手に取って眺める。
「この花はどこまで続いているんだ?」
「見える限りだよ。見える限りにしかない」
医師はやがて一本の花を手に取ると立ち上がった。
「これで良いか?」
医師は男の目の前へそれをかざす。
白と黒の花びらを持つ花だった。
「それで良い」
「解った」
医師は丁寧に花びらを千切る。そしてそれを一枚一枚空へと放つ。
「なんていう花なんだろう」
「知らない」
「そうか。図鑑があれば良かったな」
「そうだな」
「世界地図ならあるのだが」
花びらはひらひら舞いながら二人の足下へと落ちる。ラジオの曲は反復を繰り返している。美しく。ただ美しく。花びらは静かに積み重なっていく。白と黒は順番通りには重ならず、全く新しい花が咲いたかのようにも見える。
エントリ29 嵐が森 II 棗樹
天窓を閉ざしてしまうと、植物ドームは再び闇に包まれます。嵐の気配を感じとった森は、傷を負った獣のように息を潜め、泉の上に覆いかぶさります。
すっかり手持ち無沙汰になった僕と博士は、ぶらぶらと泉のほとりに降りてゆきます。
歩く僕らの背後から、夜明けを思わせるゆるやかなテンポで照明が点灯されていきます。あまりにひどい嵐のとき、ドームの照度は曇り空と同じレベルに保たれ、植物達は早めの午睡のような浅い眠りに導かれます。必要以上の苦痛を感じないように、という配慮からです。
今もドームは薄明かりに保たれ、森は眠りの海をたゆたっているようです。
ほっとするようなつまらないような気持ちになりながら、博士の後を歩いていたとき、突然、作業服に包まれた広い背中がかがみ込んだので、僕はもう少しで博士の背中に乗り上げてしまうところでした。あわてて体勢を立て直して博士の姿を探すと、博士は草むらに上半身を埋め、熱心に草を選り分けていました。やがて、彼は「驚いたね」と言いながら顔を上げ、僕には雑草にしか見えない小さな白い花をつけた植物を示し、「こんな所にも生えていた」と告げました。
首を傾げた僕に、博士は「嵐草と言うのだ」と教えてくれたのですが、恥ずかしながら僕はその名を聞くなり、
「うわ、嫌な名前!」
と叫んでしまったのです。
「君の前任者もそう言ったよ」
博士は笑い、
「高山植物の一種さ。天候の荒れる高い山に生える草だから、この名がついたそうだ」と教えてくれました。
「なぜこんなところに?」
「土壌に種子が混ざっていたかな」
「でも高山植物でしょう?」
「関係ないよ。その気になれば、高山植物だって低地で生きることができる」
「ここ、地下ですよ」
「同じことさ。空を飛んだり水に潜ったりするわけじゃないんだから」
博士が写真を撮っているあいだ、携帯端末に「嵐草」の情報を呼び出していた僕は、目の前の「嵐草」がやけに小さく、形もいびつであることに気がつきました。
「汚染のせいですか?」
「いや。おそらく低地で生き残るにはこの形態が最適なんだろう。よくわかってるよ、彼らは」
言うなり博士は立ち上がり、片手を差し出しました。
「彼らをよく観察するといい。『外』に出たときも。きっと君の役に立つから」
博士が手を引っ込めたあとには、白い紙切れが残りました。息を飲む僕の頭上から、低く穏やかな声が降ってきました。
「辞令だよ。おめでとう」
エントリ30 八月の夕陽 さとう啓介
石壇に腰掛けると八月の潮風が黒い肌に纏わり付く。風の向こうの水平線は、何処までも茜色のカーヴを描いていた。この海はあの国まで続いていて、沈んでいく紅い夕陽をあの人も見るのだろうか。
・・迎えに来たのよ
不意にさっきの言葉が聞えてきた。
(……遥か遠い昔に言ってもらいたかったよ)
小さな鳥居を潜ると、薄汚れたおみくじの看板が夕暮れの潮風に紅く染まっていた。その先の松の木に小さく結ばれた白い短冊は、人々の願いを叶えてくれたと言うのか。
僕は夕陽に背を向けて小銭をポケットから取りだし、おみくじの機械に入れた。
ガシャン
無機質な音を立て単純な機械が僕の運命を決める。無造作にステンレスの取り出し口に吐出された白いおみくじは、まるで小さい頃の自分のように見えた。
忘れる事の出来ないあの日、ここに連れられて来た。
もう僕の運命はあの時に決まっていたのか。眼下の海に夢中になっている僕を残して、あの人はいなくなった。まるでその姿を見ていたかのように、何度も夢の中で子供の僕が叫び続ける。
・・迎えに来たのよ
何処へ? 何処へ帰るって云うんだ、僕は日本人なんだ。今頃海の向こうからやって来て、僕にどうしろと言うんだ。僕の苦しみなど知らないで、淋しいからと人を求め、また僕を裏切るのか。
でも僕はここに来てしまった。悔しいけれど心の何処かで待ち続けていた。でも自分では決められなくて、昔と同じ、おみくじに決めてもらうだけだ。
無造作に投げ出されたおみくじを開く。朱い文字で「吉」と書いてある。その下のつらつらと並んだ運勢の柔らかな文字は僕の運命を決めていた。
(何も考えない、これを受け入れよう。僕は後悔なんかしない)
口の中でそう噛み締めて、白い短冊にしたおみくじを紅く染まった松の枝に結びつけた。
あの人はこの国で僕を産んだ。しかし、全てを捨てて海の向こうへ行った。あの人もここで苦しんだのだろうか。僕が日本人として生きる苦しさなどあの人には関係ない。だから僕は行かない、決してあの人の国には戻らない。肌の色が違ってもあの人とは違う、僕は日本人なんだ。
そう思った瞬間何故か胸が苦しかった。でも決めたんだ、もう戻れないしそれでいい。
僕は夕陽の中であの人に告げた。あの人の後ろ姿は夕陽の中で揺らいでいた。
少し腰の曲がった哀れな姿を僕の目に焼き付けるように、八月の夕陽はあの人と僕の肌を紅く染めていた。
エントリ31 児童虐待 ごんぱち
※プライバシー保護の為、音声は替えてあります
「ボクは、じぶんがフツーだと、思ってました……」
小学生のY君は首を横に振る。
「フツーに、お父さんとお母さんにあいされてる、子どもだって」
「ええ」
テーブルを隔てて反対側に座った中年女性の役所職員が、聞き取りの帳票から視線を離して、小さく頷く。
「でも、ちがったんですね」
半袖の二の腕を、Y君はぎゅっと握る。
「ボクはギャクタイ、されてた」
Y君の声は震えていた。
「どの家も、うちと同じと思ってたんです」
数十秒黙り込んだあと、またぽつりと続ける。
「それがあたりまえだって」
「キミが虐待に気付いたのはいつ?」
職員は優しく尋ねる。
「小学校の三年生……の、いまごろです」
「きっかけは?」
先を促す、というよりは言葉の調子を取っているような、そんな柔らかな相づちだった。
「学校で、先生が気づいて」
Y君はうつむいて顔を押さえる。
「話を聞くうちに、ほかの家とちがうって」
「そう……」
無言で職員はジュースを勧める。
手の付けられていないグレープフルーツジュースのグラスには、びっしょり水滴が付いていた。
「ギャクタイがあったことなんて、どうでもよかったんです」
Y君はジュースを一口飲む。
「ただ、ボクがお父さんとお母さんにきらわれてたってことが、こわいんです」
「Y君」
「はい?」
「虐待は、決してあなたが原因じゃないのよ」
「え……」
「あなたが悪いんじゃないの。そういうことは、決してないの」
「ほんとう……に?」
Y君が身を乗り出す。
「ボクがわるいから、ギャクタイしたんじゃ、ない?」
「うん。キミはとってもいい子よ。だから、全然気にする事なんてない」
職員はY君の手をそっと握った。
「何も心配する事はないのよ。あなたのお父さんもお母さんも、あなたを嫌ってた訳じゃないの」
小さな、か弱い手だった。一人で何かをするには、まだ小さすぎる手だった。
「ただほんのちょっとだけ、勉強が足りなかっただけなの。勉強が終わったら、きっとまた逢えるわ」
Y君の帰った後の相談室で、職員は一つ残ったグラスと、帳票を片付ける。
「児童虐待、か」
彼女は呟いて、帳票を見た。
「嫌な時代ね」
帳票には、聞き取り内容が殴り書きされていた。
名前 :*谷*作
性別 :男
年齢 :十歳
学校 :上鷹野市立小学校四年
申立人 :坂本銀次(担任教師)
外傷 :無
虐待内容:両親が、夏休みの宿題を一切手伝わない
エントリ32 食えない話 lapis.
「バスはあと10分ぐらいで来るのか」
男はバスの時刻表と携帯の時計を何度も見合わせた。
「ヒマだな」
「ヒマですね」
男の隣にいた青年は男に相づちした。
「………」
「……」
お互い何も言わなかった。男はその沈黙に耐えきれなくなってふと辺りを見渡した。
目線の先に赤いものがてんてんと見えた。秋が近いのを実感させた。
「ありゃ、彼岸花だな」
「そうですね」
そこで会話は途切れた。まだ3分も経っていない。男は会話を続けようと頭の引出しを開けた。
「ほら、あの花っていやあ、毒花じゃないか。あの花の形も気味悪いよなぁ」
「ですね。彼岸花には根っ子に毒があるそうですよ」
男は出来るだけ会話が広がるようにおどけて言った。青年はさして笑うこともなく淡々と答えた。
男はその青年の無愛想な答えに内心溜息をつくと、それでも根気良く口を開いた。
あと、5分だ。
「昔はあの花を食ったっていうじゃないか。そんなに貧困だったのかね、日本は」
「根っ子の部分を水に浸して、毒を抜けば食べられますよ。よく食されていたようですし」
青年は歯切りの良い言葉でそう男に諭した。
そうだ、そういう奴なんだ。と男は思った。
味気ない、食えない。と男は舌打ちした。
「食うかよ、そんなもの。不味そうだ」
と男はややなげやりに呟いた。視界に映る赤い花は毒々しかった。
青年は、あはは、と声を立てて笑った。男は驚いて青年の顔を見た。
「食べてみるとね、案外美味しいんですよ」
「―――嘘だ」
愉快そうに笑う青年の言葉に間髪入れずに男は否定した。青年は「いやいや」と手を振って、小さく呟く。
「嘘じゃないです」
「嘘だ」
「嘘じゃないですってば、先輩も一度食べて御覧なさい。病み付きになりますよ?」
青年は優しく囁いた。男はそれが本当のように聞こえた。
「上手いのか」
「ええ、そうですね。砂糖醤油で煮て食べるとビールのおつまみにはなりますよ」
青年はにっこりと笑って呟いた。
「そうか、上手いのか。本当だな?」
と男が念を押して訊ねると、一転して青年はいつもの無愛想な顔に戻って一言呟いた。
「嘘です」
「……嘘だ」
「いいえ、嘘です」
青年はにっこりと笑って呟いた。
ブロロロゥーーーー。と遠くからバスが走る音が聞こえてきた。男は驚いて携帯の時計を見合わせた。
10分だ。
「暇潰しになったでしょう?」
青年はにっこりと笑って呟いた。
「本当に食えない奴だ」
男は呆れながら呟いた。
(※付記) 約34行目「〜砂糖醤油で煮て食べると〜」これはつくしの調理の一例です。
エントリ33 うさばらし 浅田壱奈
「ろくに子どもの面倒も見ないくせに、しつけがなってないって言わないで。」
夜の寝室。隣で寝ている夫の毛を一本抜いた。
「今日もキャバクラに行ったでしょう。バレてないとでも思ってるの。」
夫を起こさない程度の声。毛をもう一本抜いた。
「だいたいそんなにお小遣いあげてないでしょうが。」
もう一本抜いた。
私は、日常のストレスを夫にぶつけるようにしている。この世の中、なにかとイライラする出来事が多い。人間はストレスを発散しないとやっていけないのだ。しかし、ストレスをぶつけられて、夫が面白いと思うわけがない。だから私は、夫に隠れてストレスをぶつけるようにしている。夫の貴重な頭の毛を抜いてやるのだ。
「育毛剤がもう少しでなくなりそうだから、取り寄せておいてくれ。」
おはようを言う前にこれだ。朝食を並べる手が、イライラすると言っている。
夫は毎朝、育毛剤を振り掛けている。それがまた無意味に値が張るのだ。効果を見せない育毛剤の効果に、夫は毎日鏡の前で満足そうにしている。
「そうそう。今日も遅くなるから。」
機嫌よさそうに朝食を口にしながら、おなじみのセリフを吐きやがった。今日もキャバクラに行くらしい。夫は日常のストレスを、キャバクラで発散してきている。もちろん私に内緒で。今だけで二本毛を抜くことが決定した。
しかし、この人はどこにそんなお金を持ち合わせているのだろう。お小遣いはかなり少ないのに。私と違ってお金のことに細かい人だから、しっかり計算して使っているのだろうか。
夫を見送った後、私は友人とバーゲンへ行く約束をしていたので、その支度に取り掛かった。
着て行こうと思っていたスカートが見つからない。どこを探しても見つからない。どこへ行ったのだろう。高かったのに。これだけでもイライラしてくる。仕方がないので別のもに妥協した。
気が付くと部屋がかなり散乱していた。スカートを探したときに散らかったみたいだ。やれやれと、部屋を片づけようとしたら時計が視界に入ってきた。かなり時間が迫っている。
いけない。早く行かなくちゃ。
私は、この日の為に取っておいたへそくりをタンスの奥から取り出した。
あれ?
確か三万円入れてたと思ったんだけど、一万円しかない。
「ああ、もう。イライラする。」
仕方がないので、一万円だけ財布にいれて家を出た。
今日はいったい何本、夫の毛を抜くことになるのだろうか。
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