渋谷の雑居ビル群。 最終電車の時間から、ずいぶんたっているので、駅への人の流れは無くなっていた。 目立たない3階にあるカウンターだけのスナック。客は6人で満席になってしまうだろう。今の僕にはここがお似合いだ。 静かに酔いたかった。 初めての店内。客は誰もいない。狭いながらも店内の空気が心地よさを感じさせる。 カウンターの中からママが立ち上がった。不思議そうに見つめる瞳から笑みがこぼれた。「あら、孝ちゃん!」「真由?」 中学の同級生との再会だった。 真由とは中学2年の夏休みに二人で家出をした。戻った時、親に怒られ、真由と会うのを禁じられた。その後、真由は一家で引っ越してしまい、完全に連絡がとれなくなってしまった。 それ以来だった。「落ち込んでるの?」「何でそんなこと聞くかな? 普通もっと懐かしがるとかしない?」「ひとりでこんな店に来るなんて、普通じゃないわよ。常連でもないのに」「常連になればいいんだろう」「風邪をひいてるようね。心が…重傷だわ」 中学2年の夏休み、ふたりで松本発新宿行きの「あずさ」に飛び乗った。真由が歌舞伎町に行きたいと言い出したからだ。貯金していたお年玉をおろした。全部僕のお金。僕と真由の関係はというと、ただ席が隣だったというだけ… 真由は歌舞伎町で人を探し始めた。3日間、ふたりでホテルに泊まりながら… 探していたのが、本当のお父さんだと知ったのは、帰りの電車だった。僕は真由の言いなりになって付いて回っていただけだった。もちろん、ホテルに入っても何もしていない。真由は強い存在だった。お金を使い果たして帰ろうと言ったが、真由はお金を稼ぐからもう少し付き合ってと言った。僕は初めて女を殴った。真由に対して強くでれたのは、その時だけだった。「あれからどうしてた?」「いまこうして、カウンターに入ってる」 変わってないようだ。「それより、孝ちゃんの風邪のぐあいは?」 僕は、会社を辞めて独立したがうまくいかずに倒産。離婚して借金との生活だ。「お店、もうすぐ閉めるから。朝になったらいっしょに行こうよ…もちろんお金はわたしが持つわ。あの時のお返しよ」「どこへ?」「孝ちゃんの無くしたものを探しに…わたしが付き合ってあげるのよ。ありがたく思いなさい」 真由の笑顔は、あの時のままだった。 まばゆい朝日を浴びながら、僕は真由に手を引かれて、松本行きの「あずさ」に乗り込んだ。
今はまだ知る必要はなかった。どうして知ってしまったのかと後悔したが、もはや手遅れだった。これほどまでに失望したのは今まであっただろうか。変わらない毎日の中で自分だけが特別な存在となってしまったのだ。 そう、私は……。 毎日何百冊という本を調べ尽くし、何十年という歳月をかけ、世間には可能性は限りなくゼロに等しいとまで言われ、それでもなお、必死に研究を繰り返し、幾度となく困難を乗り越えて、やっと見つけたのがこんなにも虚しい物だったとは…… 私は……人間じゃない……。 いきなり突き詰められた悲しい現実。当初は栄養素の根源を突き止めるための研究だった。それが、今からちょうど5年程前に最小と思われていた粒子が分解できることを知り、そして…… そして、その原理を使い、細胞の分解を試みはじめた。最初は身の回りにある物―植物に始まり、動物の死骸から取った肉片、最後には自分の皮膚の細胞を使い、何日も実験を重ねてきた。だが、その行動がすでに許されるべきものではなかったのかもしれない。 ある日、私はいつものように実験をはじめると、急に私が独自に作った分解酵素が入れていた試験管が割れ、私は試験管のガラス片ごとその酵素を体中に浴びてしまった。実験のときと同様、体が分解していくのにそれほど時間はかからなかった。皮膚は剥がれ落ち、骨があちこちから出てきては消えていった。いや、骨さえも分解されていったのだ。そこから先はよく覚えていない。気が付いたら私は今のような姿になっていた。 そう、私の体には皮膚と骨はない。代わりにあるのはぼろぼろの心臓と、半分融けかかった脳、そして、その間をつなぐ血管と神経だけ。 どうしてこの器官だけが残ったのかはいまだにわからない。だが、確実なのは私の作った分解細胞はどんなものも溶かしていた。自分の体の前に実験で分解したのはダイヤモンドだったのだから。 人間の体は何か特別なのかもしれない。いや、人間だけではない、すべての生物は人間の証明できない特別な能力を持っているのかもしれない。 そのことを知るのはもう少し遅くてもよかったのではないかと思う。なぜなら、私はまだ25年しか生きていないのだから。 短い人生だった。いや、まだ生きている。意識ははっきりしている。証明することはできないけど。 私は空を思い浮かべた。空は、私が今まで犯した罪を許すかのように広く、蒼く、澄んでいた。
「先輩、無理ですよ。」私は言った。だって、どう見たって無理だもの。彼女は黙ってビーズの入った水色のプランターを抱えている。 さて、私がその先輩と出会ったのは、大学1年の春、勧誘されたサークルの部室に入ったときだった。 そこは布切れで乱雑とし、簡素なテーブルが中央にあった。ビーズとセロファンで作られたアクセサリーが散らばるところに、女の人が一人きりそこに座っていた。「キレイですね! あなたが作ったんですか?」そう聞くと、彼女は人の良い笑いを浮かべた。大人びて美しい顔の中央にくしゃっと皺がよった。「この花、咲くと歌うんだよ。」彼女は言った。それはプラスチックの安っぽい鉢で丸い木のビーズがしきつめられ、植物の芽に見せかけた針金とミドリのセロファンの細工が入っている。楽しくなって彼女と話をあわせた。 その先輩はいつも部室にいた。彼女が他の部員としゃべっているのを、私は見たことがなかった。彼女はけっして自分から人と話をしようとしていなかった。(苛められているのかしら)私は気になったけれど、部員は嫌っているふうでもなく、風景の一部のように扱っているようだった。ある日部長が、「学園祭で発表しよう。」と、言った。それは通年のことで、テーマを決めて作品を制作、展示するらしい。テーマについて話し合っていた。「私、今、夢を作っているの。」彼女の口が開いた。先輩が自分からしゃべる姿を初めて見た。部長は少し顔を歪めただけで、次の話し合いを進めた。 さて発表の準備は忙しくなり、私は品を持ち帰ることが多くなった。 その日、部室に置きっぱなしにしてしまった毛糸を取りに日暮れの部室に入った。鍵が空いていて、彼女がいた。「先輩、まだいたんですか?」初め会った時に持っていた鉢を抱えていた。「みていて、歌うから。」彼女は言った。ほの暗い部屋に月明かりが入り、ビーズが光っていた。私は背筋が寒くなった。なんとか毛糸を見つけ出した。「行っちゃうの?」そう言う先輩が悲しく見えた。私は言った。「先輩、それは咲きませんし育ちません。」「・・・それでは。」私は立ち去った。 次の日、疎い足で部室に向かった。机の上のプラスチックの鉢にはみどりの針金の蔓が伸び、あめ細工のような赤いセロファンの花が咲いていた。先輩がしゃべっていた。人と馴染んでいた。 コロコロと響く声。そして私は、自分の声が奪われていくのを、感じた。 ※作者付記: 手芸サークルが舞台です。けれど私、手芸したことないです。
和樹が子供の頃、祖母は魔法使いのような存在だった。 例えば、友達と喧嘩して泣いたあとすぐに、近くに住む祖母の家に行った。泣いている顔を見せるのが恥ずかしかったので、泣き止んで顔を拭いてから行った。それなのに祖母は、「今日、泣いたな」と、和樹の顔を見て言うのだ。和樹の目が腫れていただけの事なのだが、当時の和樹には驚きだった。「なんで分かったの?」「おばあちゃんは、遠くの物が見えたり聞こえたりするんだよ」 そう言って、祖母は笑っていた。 祖母が、明日は雨が降ると言うと本当に雨が降った。ホースから出る水は、祖母の手から空に向かって放たれる時、魔法の水になり小さな虹を作った。 そんな祖母の楽しみの一つが魔法のポケットだった。祖母のエプロンとモンペについたポケットを、和樹たちはそう呼んでいた。夏休みの朝、和樹の弟と妹と従弟と一緒に台所へ行くと、祖母が朝食の準備をしている。準備が一段落すると、祖母は意味ありげにポケットを叩く。そして、どのポケットが好きかと聞くのだ。ポケットはエプロンとモンペに合計四つ付いている。和樹達がそれぞれ話し合って好きなポケットを決めると、そこからそれぞれ異なったお菓子が出て来るのだ。 魔法のポケットは、和樹が大学生になっても続いていた。もちろん和樹に対してではなく、もっと小さい従妹弟たちに対してである。大学生にもなると、祖母の色々な魔法も理論的に説明ができるようになっていた。魔法のポケットに対しても驚きはない。 祖母の家に泊まったある朝、和樹は少し早く起きて、祖母のエプロンにしこまれたお菓子を別の場所に隠しておいた。 従妹弟たちが起きて台所に集まると、魔法のポケットの儀式が始まった。和樹は、祖母がエプロンを探り、焦る様子を期待して見ていた。ところが、祖母は一向に焦る様子もなくポケットの中を探っている。「今日は出にくいな」 そう祖母が言うと、幼い従妹弟たちは皆不安そうに顔を見合わせた。和樹は少し悪い事をしたかなと思いつつも、黙ってその様子を見ていた。やがて、祖母がポケットから手を出し、従妹弟たちにどのポケットが好きかを聞き始めた。 そして、お菓子は出てきた。和樹の見間違いではなく、確かにポケットの中から出てきた。従妹弟たちが嬉しそうにお菓子を見ている。 どうやったんだ。 一体、どうやったんだ。 混乱している和樹に、しわくちゃの魔法使いがウインクした。
「お嬢さん、雨粒の中にはね未来が見えるんですよ。」 公園を通り抜けようとした時、呼び止められて振り返る。一人の老人が、雨の中傘もささずに座っていた。「おじいさん、こんな所にいたら風邪ひいちゃうよ。」 何時間ここに座っていたのか、おじいさんの洋服は水を吸いすぎて重たそうだ。「この雨の中にもね、私の未来が見えるんです。」 いかにもボケている80歳くらいに見える老人が、未来について語るというのもなかなかシュールで面白い。 おじいさんは、まるで本当に雨粒の中の風景を読みとるように目を細めた。「孫に子どもが生まれたようだ。ほんにかわいい女の子じゃ。」 あたしはその幻想に付き合って、一緒に微笑んだ。「ひ孫なんておめでたくていいね。」 おじいさんは大きく肯いて、そして視線を斜め上にずらした。「こっちには、静江さんが見える。」「静江さんっていうのは奥さん?」 あたしの問いに、おじいさんは首を横に振った。「静江さんは、わたしがあんたくらいの年の頃に愛していた女性だよ。だけど一緒にはなれなかった。」 おじいさんは頬についた雨粒をぬぐう。あたしは近づいて、傘に入れてあげた。「両親に反対されてね。」 寂しそうに小さく笑うおじいさんは、身体よりもずっと小さく見えた。「かけおちでも何でもすればよかったじゃない、本気で好きだったんなら。」「それができない時代もあったんだよ。たとえどんなに愛し合っていてもね。」 そう言って、おじいさんは目を閉じた。あたしは雨粒の音に耳をすませながら、次の言葉を待った。「それでも、」 おじいさんは目を開けて、あたしを見上げる。「それでも、静江さんとのつかめなかった未来が、今でも私を責めるんだよ。」 おじいさんの頬は濡れていた。だけどそれが雨なのか涙なのかは、あたしにはわからなかった。「でも、結婚したばあさんのことも、やっぱり世界中で一番愛してるんじゃよ。」 怒られた子どものように言い訳をしたおじいさんは、恥ずかしそうに頭をかく。あたしも声をあげて少し笑った。「あらやだ、おじいさんまったくボケちゃって大変なんだから。」 突然やってきたおばさんが、おじいさんを無理矢理立たせて引っ張っていく。あたしは何も言わず、おばさんに道を譲った。「その傘はいいな。その透明の傘なら、濡れないで雨粒を見ていられるから。」 おじいさんは最後にそう言った。あたしは大きく傘を振ってそれに応えた。
目が覚めると僕は黒い森の出口に立っていてぽっかりと広がる丸い原っぱへと歩いているところだった。空はどんよりと雲が垂れ込めていて空気は湿っている。でも森の湿ったニオイは、そんなに嫌いじゃない。そのままテクテク歩く。今は・・・・・・そうだ少し早起きして家を出てきたんだっけ。でもどうやってきたんだっけ?そもそも何でここにいるんだっけ?・・・・・・覚えてないなぁ。僕はそんなことを考えながら、うつむいて歩いているわけだけど地面には、なんだかやけに虫が多い。ダンゴムシにムカデにミミズに・・・・・・そこかしこに。アンダーグラウンドな虫ばかりだなぁ。昆虫じゃないのが多いのはなぜだろう。それにどの虫も僕の歩いていく方と同じ方向に向かっているような・・・・・・。なんなんだろ。まあいいや。そうこうしているうちにまあるい原っぱの真ん中に近づいてきた。草が青々風にそよいでいて、今鳥たちが空高く舞い上がった。目の前で、羽虫の群れが渦を巻いている。キチキチと音を立ててショウリョウバッタが足元に何匹も、飛ぶように跳ねている。なんだか虫の数が増えてきた。気のせいじゃない。ほら、蜘蛛の子がオシリから糸を出して風に乗って一斉にこちらへ飛んできたしコオロギもオケラも秋の虫たちもジーゴロガシャゴショ騒ぎ出した。歩いているだけで、虫が目や口に飛び込んできそうだし、絶対に髪は今、虫まみれだ。なんか変だ。とても、変だ。ドウシテ??僕はこの奇妙な事態に少し不安になってきてふと腕時計を見た。「8:14。」その時、頭上の雲が少し割れて目の眩むような光の束が強く丘に差し込んだ。瞬間、周りの空気が飽和して僕は沸き立つような高揚感に包まれた。僕が茫然としたその一瞬の後、見渡すと、虫の数はもっと増えていて、凄い勢いで飛び交っている。羽虫とかトンボとかだけじゃなくてコガネムシやハナムグリとか甲虫たちも普段は硬い殻の奥に折りたたんでいる翅をいっぱいに広げているから光に反射して、きらきらと虹色の破片が飛び散っているみたいだ。みんな、喜んでいるよ。僕だってきっと今なら、全力で走っても一匹も虫を踏み潰さないで走れるんじゃないかな・・・・・・。この気持ち、なんなんだろう。あ!!!もしかして!!!僕はこれを見に来たんだ、ここに。早起きしてさ。これって誰も知らないヒミツなんだよ、きっと。わからないけど。
二三日帰省ラッシュで日本中の道路は込み合っていたが、僕たちはうまくその混雑を避けて家を出た。慌しく街並みを縫うように走る深夜の幹線道路を田舎に向かってドライブ中のことだ。 隣に乗せた妻が驚いたような声を出した。「ねえ、見えた? 今の」「何?」「隣の車線を通っている車の向こうだけど……ほら」 えっと思って、妻の方を向いた。助手席の窓ガラスを通して暗い外を見た。 大小さまざまな車種が連なっている。互いが抜きつ抜かれつしながら併走していた。その車群の陰の上側に男の顔が見え隠れしている。「男の人が走っているわ」「待てよ、ここ車道だぞ。しかも、この車、六十キロは出ている。もしあの男が本当にあそこを走っているとしたらすごいスピードだ」「オリンピック選手かしら」「たとえそうだとしても、高速道路で練習はしないだろう。あまりにも危険すぎる。すると、考えられることはひとつしかない……」「何、何?」 と、楽しそうに聞く彼女の歯に、さっき食べたタコ焼の青海苔がくっついている。「宇宙人だ、それか新型ロボット」「あのね、あなた、ひとつしかないって、ふたつも考えているじゃない。どっちなのよ」「どっちと言われても、僕にははっきりと決め付けることはできないよ」「もっと確実な可能性があるわ。あなたは、無理やりその考えを否定している」「な、ないよ、宇宙人かロボット。それ以外に可能性はない」 妻は意地悪く笑った。「もしも、幽霊だったら――」 突然背筋を冷たいものがすっと走った。思わず悲鳴を上げた。「バカ! 怖くて今晩、眠れなくなるじゃないか」「怖がりね、本当に。ねえ、まだ見える?」 見える。ちらちらと、車の上に顔が覗いている。 それからしばらく男を横目で捜して運転したが、いつの間にか姿が見えなくなった。僕はほっとため息をついた。 しかし、何だったんだろうあれ? 翌日、高架橋からハイウエィに飛び降りた男の記事を読んだ。幾台もの車に轢かれ、バラバラになった死体の頭部がまだ見つからないそうだ。 もしかしたら、天井に頭だけを載せて走っていった車があるのかもしれない。 よしやうらぶれて、異土の首だけとなるとても……まさか、首だけが乗り継いでどこかへ帰ろうとしていたわけではあるまい……。
僕は、一番大切なものは? って聞かれたら、迷わず「カネ」と答えていた。 夢がない、なんて言われそうだけど、それは、僕が十年間その爺さんを観察して出した結論だった。 爺さんは、どっかの会社の会長で、結婚もせずに、僕の隣のどでかい家に一人で住んでいた。皆は「寂しそう」なんて言ってたけど、寂しがるタマじゃない。むしろ一人で清々だって感じだった。 世の中全て金次第っていうのが口癖で、爺さんは世界中の珍しい物を買い漁った。 だから、また呼び出された時も、何か珍しい物を自慢されるって予想はついた。 爺さんは、コレクションを僕だけに内緒で見せた。中にはヤバイ品もあったらしいけど、子供だからってなめてたんだろう。 爺さんは、僕をでっかい水槽の前に連れて行くと、どうだ、見ろ。と言ってライトをつけた。 女の子? と思ったら違った。水槽の中には、小さな人魚がいた。瞳が青い。 前にも、もっと変な生き物を見せられたから、正直あまり驚かなかったけど、一応「すごいね」って言ってあげた。すると爺さんは、「これは、鑑賞するだけでなく、別の使い道もあるのだ」何? って聞くと、「肉だ」と答えた。 言うに、人魚の肉は、あらゆる病を治し、長寿を与えるものらしい。「わしも年だからな。思うところがあるわけだ」そう言って爺さんはニッと笑った。 それからしばらく呼び出されることはなく、そんな事すっかり忘れてたんだけど、ある日、爺さんが入院したって聞いて驚いた。 なんで? 人魚の肉を食べれば、ずっと健康でいられるはずでは? 訳が分からなかった。 次の日僕宛に、爺さんちの合鍵と、人魚の世話をしろ、という手紙が届いた。 爺さんの部屋に行き、水槽から顔を出した人魚の言葉を聞いて、やっと謎が解けた。「オ・ジ・イチャ・ン」 人魚は、片言で確かにそう発音した。 情けないな、爺さん。 言われた通り、僕は人魚の世話をしたが、何日か後、人魚は水槽から姿を消した。病室の爺さんと一緒に。 きっと、爺さんは人魚を連れて、外国の小さな海辺の町へ行ったのだろう。 毎日、小さな人魚に会うために、病室を抜け出して、浜辺へ行く爺さん。 ある日、町の人は、海を見つめたまま冷たくなった爺さんを発見するだろう。 爺さんは、微笑んでいるに違いない。 今僕は、一番大切なものは? って聞かれたら、一瞬考える振りをして「アイだね」って答えるようにしている。
時計の数字は3時41分。そろそろ寝ようと友紀はベッドにすべり込んだ。今日一日が終わる。友紀の一日は母の声で始まった。「早くしなさいっ」 階下から声が聞こえる。いつものように朝が来たらしい。昨日も寝たのは外が明るくなってからだった。三時半を指す時計を見た記憶はある。しかし友紀にそれが昨日の記憶である自信はない。一昨日も、その前の日も同じような時間に、同じような服装で、同じベッドで眠りについたのだ。黒いブレザーとスカートをハンガーからむしるように取ると、階段を降り、服を脱いで風呂場に入った。一通り済ませて出る段になって起きたときと同じ疑問がよぎる。 「頭洗ったっけ」洗った記憶はある。とはいえ昨日も同じように風呂に入った。覚めない頭を振ると、髪をなでてコンディショナー特有のぬるっとした感触を確かめる。洗ったみたい。 10分で化粧を済ませてパンを飲むように食べ終えると、もう8時を過ぎていた。急がないと12分の電車に間に合わない。ローファーの踵をつぶしたままはくと、向かい風をものともせずに駅まで走り出した。 なんとか電車をつかまえて2つめの駅で降りる。学校は駅の目の前だ。8時25分までの登校時間を過ぎるのを生活指導の岡が待っている。おはようございまーす、と録音と聞き間違うほど同じ発音を繰り返している。ギリギリだぞ、という言葉を潜り抜けて校舎へ入ると2階東隅の2年B組の教室まで2分。間に合った。昨日は3分あったのに。 授業は2年生には無駄というものだ。中だるみとか谷間とか言われるが、中学2年ほど授業がつまらない時期もないだろう。少しずつ大人になっていく生徒とは裏腹に、目的の見えない授業が、目的などなさそうな教師によってされる。憧れの先輩と、部活の人間関係と、小さな反抗とが関心のほとんどを占めているのだ。友紀は、昨日に引き続き風邪をひいたと言ってテニス部顧問に休みの許可をもらうと一人、受験勉強のために部活から引退した3年生に混じって帰途に就いた。 帰宅しても特にすることはないが、外にいてもそれは同じだった。友紀が最近家で過ごす時間が増えているのもそんな理由だ。今日先生が出張で部活なかったの、と誰に言うでもなくつぶやくと、自分の部屋へ直行した。 それから何してたっけ?あれ、これって今日だっけ?昨日もこんなだった気がする。違いは、えーと、そっか今日は教室つくのが1分遅かったんだ。
その場所は、とても美しく、自然にあふれかえる音のみが心地よい音色を奏でていた。高台にあるため、ここからなら僕の住む町の様子がはっきりと見える。美しく、平和で、そして穏やかな・・・・僕の町。僕は、横に置いた鞄からひとつのスケッチブックを取り出す。青い表紙をした、きれいなスケッチブックだ。そのスケッチブックと一緒に、一本の短い2Bの鉛筆を取り出す。買った当時はあんなに長かった鉛筆も今ではここまでに磨り減った。僕が、どれだけ長い間スケッチを続けてきたか・・・その時間の長さを少しだけ実感した。僕は、青く茂った草の上に腰を下ろす。その瞬間、花のような甘い香りが僕の花をかすめる。少しだけ笑みを浮かべ、そんな些細な幸せをかみしめてみた。スケッチブックを開き日課の、スケッチを始めた。僕が手を動かすたび、白いキャンバスの上には、黒くシンプルな世界が誕生する。何度も手を動かし、その世界をより完璧なものにしようとした。そのとき・・・「こんにちは。」後ろから声がする。振り返ると、そこには黒く長い髪をした美しい少女が立っていた。「隣いいですか?」僕は、なんのためらいも無くうなづく。少女は、僕の横に静かにひざを抱えて座った。しばしの沈黙が流れた。「この町が好きなんですか?」少女が沈黙を破る。「・・ええ。」僕は、素直にそう答えた。「あなたは、どうですか?」僕のほうからも質問してみた。すると少女は「わたしも・・・大好きです。」そう・・、笑顔で答えた。その笑顔をみて僕はひとつの衝動に駆られる。この町の絵。美しく、平和なこの町を描き続けた一冊のスケッチブック。僕は、この中に少女の笑顔を書き足したいと思った。「あなたの笑顔を描かせてもらえませんか?」少しだけ沈黙し・・「・・・はい」少女は笑顔でうなづいた。僕は、手に持っていた鉛筆で彼女の笑顔を描き始める。そこには、先ほどまでの町の絵にはと同じ、優しく美しい何かがあった。そして、やがて絵は完成した。少女は、道を歩く。夕焼けで、紅く、美しく染まった並木道を・・・。その顔に笑顔を浮かべて・・・。手には、一枚の絵。少女を思い描かれた美しい絵。その絵を持って少女は歩く。描かれたこの笑顔のようにでいつまでもいられるように・・・。そして、この絵を描いてくれた一人の青年に再び出会うことを信じて少女は歩く・・・・・。
お婆ちゃんの田舎は退屈。都会から来たガッ君は面白くありません。「ママ、ゲームない?」「そんなの無いの、お外で遊んでらっしゃい」 ガッ君はしぶしぶと外を眺めながら言いました。「外は曇ってるよ。僕、雨は嫌いだよ」 お母さんはお婆ちゃんとの話に夢中で聞こえません。ガッ君は仕方なく庭に出てみる事にしました。 庭先には小さな紫雲英の花が沢山咲いています。ガッ君はれんげを摘むと甘酸っぱい匂いがして嬉しくなりました。すると紫雲英の香りに包まれて何やら不思議な声が聞えたのです。『ケロケロッ』 ガッ君は草をかき分けます。 空には灰色の雲が広がり始め今にも雨が降りそうです。『ケロッ、ケロケロッ』 楽しそうな鳴き声にガッ君は早く見付けたくてたまりません。でも風はだんだん強くなり紫雲英もせわしく揺れます。ザワザワッ、と紫雲英が波を打ちはじめ、辺りが赤紫色の海のようだと思ったその時でした。『早く帰りなケロケロ』『雨が降ってくるよケロケロ』 目を凝らして茎の間を覗くと、三匹の雨蛙が不思議そうにガッ君を見ています。「やっと見つけた! でも変な色?」 ガッ君はそう言うと三匹の蛙を両手に乗せました。『雨が降るから早く帰りなケロケロ』『僕達は雨蛙。雨を待ってるんだケロケロ』『雨が降るから嬉しんだケロケロ』 その時雨が落ちてきました。ガッ君は慌てて駆け出します。 少し濡れてガッ君は縁側へ戻って来ました。『ケロケロ。僕を仲間の所に帰してくれよケロケロ』 ハッとして手を広げると、雨蛙が一匹少し怒ったように見ています。 ガッ君はプッと吹出しました。「ごめんよ痛くなかった?」 雨蛙は仕方がないといった表情でガッ君に言いました。『僕達は雨が降るから遊ぼうと思ってたんだケロケロ。邪魔しないでよケロケロ』「どうして君たちには雨が降るってわかったの?」『雨が好きだから。好きなものはみんなわかるよケロケロ』 そう言い残すと雨蛙は雨で鮮やかさの増した紫雲英畑に向かって、元気に飛び跳ねて帰って行きました。 ガッ君は家に入りお母さんに言いました。「僕、好きな事いっぱい作る。好きな事はちゃんと覚えられるって雨蛙に聞いちゃった!」 お母さんとお婆ちゃんはニコニコと笑い。外では雨の雫が緑の葉っぱをキラキラと輝かせ。雨蛙の楽しそうな鳴き声が、いっぱい、いっぱい、聞えています。 ガッ君はまず最初に、お婆ちゃんの田舎を好きになりました。
“人形作家”といえばそれなりに聞こえは良いが、わたしの創るそれは屍だった。 例えば“生き人形”と呼ばれる人形がある。その肌はまるで生者の質感を持ち、触れれば体温すら感じられるのではないかと錯覚する程、なまめいて美しい。 対して屍人形とは… 文字通り死体を模した人形で、興味本位でつぶさに眺められはするものの、大方いとわれ、忌み嫌われる存在である他ない。 そんな人形の制作を、わたしは業としている。「なりわい」とは即ち「ごう」である。あらゆる職業とは、そういった意味で“十字架”を背負う行為だといえるだろう。別けてもわたしの十字架は、随分古びて重苦しい。どのくらい古いのかはわたしにもわからない。 人形の起源は古代にまで遡るという。禊として穢れや禍を肩代わりさせた“形代(かたしろ)”などがその原型とされる。人間様の代わりに地獄へ堕ちろ、との任務を任されたのが人形の始まりだといえる。 ところで人形というのは… あれは時に、生身の人間より生きた存在であることを、私達はよく知っている。 人々が寝静まった夜更け、人形達は密かに動き回りささめきあう。そんな光景を、誰しも一度は想像した事があるに違いない。 それを思えば件の生き人形が、人知れず命を携え、笑ったり怒ったり憎んだりしていたとしても、ことさら驚くに値しないのではないだろうか。 …そう。何も驚く必要はない。 あらゆる人形は、人間の形代なのだ。 わたしは知っている。月光の下、事実彼らは躍動的であることを。浮世の擬似であることを…。 更に白状してしまえば、この間もあなたに似た人形が身を投げ、地面に牡丹の花を咲かせたので、その魂を鎮め封じ込める為に、わたしは一体の屍人形をこしらえた。 屍人形になってしまうと、未来永劫、その魂は死んだまま凍結する。憐れなものだ。そうなっては死ぬにも死ねない。 今一度繰り返せば、あらゆる人形は人間の形代である。 そこでわたしは、こう愚案する。 誰かに似た人形を見たら、大切にすると良い。そして屍人形に会う機会があれば、目をそらさずに対峙すると良い。その中に、もし知った顔があれば、せめて祈ってあげるのが筋というものだろう。 人形作家という業を負ったわたしが、もし何かを伝えられるとしたら僅かこんな事ぐらいだ。 それにしても、人間というのは一体の何の似姿であり、形代なのだろう。 知っている方は是非、御示教戴きたい。
「――お疲れ様でした」 執刀を終えた中年の女医がマスクを外す。「もう終わりですか?」 岸田華澄は手術台からゆっくり身体を起こす。 麻酔の効いた両脇の下がじんじんと痺れ、腕が持ち上がりにくい事以外は、何も違和感はない。「終わりです。歩けます?」「はい、大丈夫です」 華澄はそうっと腕を上げ、脇の下を見る。 抜いても抜いてもしぶとく生えてきた脇のむだ毛は、もはや一本もない。毛穴すら見当たらない。「……傷跡、見えるんですけど?」「一ヶ月もすれば馴染みます。ああそれと、明明後日までは、入浴は控えて下さい。それから、処置痕を引っ張ったり引っかいたり無茶はしないで下さい」「そんな事しないですよ」「なら結構。患者さんの中には、簡単な手術という言葉を、すり傷の手当か何かと同じように考えて無茶苦茶をされる方もいらっしゃいますのでね」 医師は笑う。「豊胸手術をした晩に、コトをイタして保険の使える病院に担ぎ込まれたなんて事もあるんですよ」「あははは」 華澄は腕を持ち上げかけ、反射的に降ろそうとして、もう一度上げて、頭を掻いた。 風呂上がりの華澄は、洗面台の鏡に脇の下を映す。「……本当に、まだ生えない」 もう、傷跡は意識して見ないと分からないぐらいになっていた。 そしてむだ毛は、一本も生えていない。「まだじゃない」 今まで、毎日剃刀で剃り続け、ありとあらゆる脱毛剤を塗り、あらゆる脱毛薬を服用し、あらゆる脱毛食品を食べ、あらゆる脱毛おまじないを試し、無駄だったのに。「本当に、永久に生えないんだよね」 脇の下を人差し指で触ってみる。「ふふ、ふふふふ」 ツルツルだった。「ふふふふふふふふふっ」 笑いがこみあげる。「ふはははははははははは!」 止まらない。「あはははははははははははは――あー、やっぱ脇弱い」 半分涙を浮かべながら、再び脇の下を見つめる。「凄いなぁ、本当、凄いなあ。一体、どうやったんだろ? いっそ、全身やってもらえば良かったかなぁ」 数週間後。「――岸田君、帳票番号が抜けてるよ」 課長が華澄の席にやって来る。「あ、すみませーん」 満面に笑顔を浮かべ、華澄は書類受け取る。「気を付けてくれよ、アハハハハ!」「どーもスミマセン、あはははは!」 書類を見ながら、華澄は鼻歌混じりにパソコンのキーを叩く。 課長は課長で、半分スキップっぽく、自分の席に戻って行った。 頭に生え始めた縮毛を触りながら。
もし世界が思い通りになるなら、とかれは言った。どうしたい。 つい笑ってしまった、稚拙な問いだと思った。 相変わらず白い機材車は無愛想だ、定番のハイエース、しかも中古。幾人の夢と失意を乗せたのだろう。アンプとギターケース、意味不明な荷物、野郎ども六人、詰め込んで西へ東へライブハウスへ夢を売り捌きにゆく。夜の高速は嫌いじゃない、コレステロールのたまった血管みたいな昼よりは断然良い。流れ行くライト、思い出すのはミッシェルガンエレファント。かれも好きだった。いつの間にか歌はお終い。死んだ人間の歌、今となってはお笑い草。根無し草のバンド、流れ流れて今度は大阪。次は姫路。そしたら広島で、レモン焼きそば。「売れねえよな」片耳だけのイヤフォン、はずして呟く横顔はあくまで白い。「売れなかったね」もう片方は俺の左耳、後部座席外して無理矢理の荷物置き場、椅子の背の裏にもたれて延びる高速の彼方を見たまま。ウオークマンから取り出したディスクは、タイミング良く突っ込んだトンネルのライトに照らされて赤く不吉に輝く。この中にうっかり死んだ人間の歌が入っている。まだ幸せだったのだろうか、何も残さないよりは。ナイフのようにとがった歌、駄目人間のくせにそんなのが好きだったような。俺も駄目度では負けない。 ディスクをどうしようかと思う。池にでも投げ込むかと春樹式供養を考えた。でも琵琶湖を通り過ぎてしまったので、大阪か、阿弥陀池という地名を一瞬考えて、笑ってしまう。落語じゃないかこんなときにさ。しかもバンドマンの考える事じゃないだろ。馬鹿でダメだな、解ってたけど。 どうもまだ現実を直視できてない。周りで人が死ぬのは二人目だ。祖父が一昨年死んだんだ。 寝息が聞こえる、背中の後ろ椅子に座って眠っているやつはローディ。俺はドラム、横のはギター。運転手はベース、ちなみに交代制。助手席はスタッフと言う名の雑用係、死んだやつはボーカル。けどうちのじゃない、うちのボーカルはギターの真後ろでこれまた寝ている。詰め込みすぎのハイエース。バツゲームみたいな白い車。「ねえアイツ、ホントに死んだの」助手席のスタが呟いた。そう言えばこいつは確かかれとバンドをやっていたことがある。「死んだよ」トンネルを抜ける、光が変わる。白く暗くなる。「死んだんだ」本当に、稚拙な問いだと思ったのに、どうにも答えられなかった。まだ、答えは解らない。
あまりの暑さに毛布を蹴飛ばして起きた。 いつも通りにコーヒーメーカーをセットして、シャワーを浴びる。最後に温度を少し上げて、熱めのお湯で目を覚ます。 ベランダの植物達に水をあげる。(あぢーっ) そう言いたげに少しうなだれていた。 お店の隅っこで、捨てられたように売られていたパキラに新芽を見つけた。頑張れと小さく励ます。 天気予報によると今日は夏日になるらしい。終わりにアナウンサーが「あなたは今日誰と過ごしますか?」と言っていた。 今日は北のほうへ電車で行ってみる事にした。 通勤とは反対方向に乗った。午前10時前の電車は思ったよりも混んでいて、ワイシャツ姿のおじさんが、しきりにハンカチで汗をぬぐっていた。 月に一度は、写真を撮る為にウロウロしている。 高校生の夏休みに、カメラ屋でバイトをして以来写真が好きになって、父親の一眼レフを頼み込んで借りた。そして、私のものになった。 カメラのシャッター音が好き。景色だけじゃなく時間まで四角に切り取って、自分だけのものとしてとどめておける気がして。 電車を降りたのは、隣の県の最初の駅。海沿いにある小さな駅でなかなか良い。写真を3枚撮った。 バス亭で時刻表を見ているとちょうどバスが来た。 海に向かってカップルが歩いていた。 家族連れが歩いていた。 どうして海へ向かって歩いている人はひとりじゃないんだろう。 今朝の「今日、誰と過ごしますか?」と聞かれたことを思い出した。 (誰と過ごしますかって聞かれても…) バスを降りたのは、木造校舎の小学校の前。 写真を撮っていると、男の人が校庭を横切ってこちらに向かって歩いてきた。 (学校の関係者だろうか? 断りもなく校庭に入ったのはまずかったかな。) 「この学校気に入ったの?」 「え、あ、はい。」 「うれしいな。僕はここの卒業生で、今はここで先生をしているんだ。」 本当にうれしそうな顔で言う。 「あ、そうですか。」 あまり話し掛けられるのは得意ではない。少しずつ距離をとった。 いったん歩き始めたその先生は、振り返って言った。 「ひとり?」 聞き流そうとしたけど、私の返事を待って立ち止まっている。 「はい。そうですけど。」 少し笑って、歩いていった。 好きでひとりでいるのか、仕方なくひとりでいるのか、ひとりでいてはダメなのか。もうどうでもいいやって思えるほど暑い日だった。 パキラは育つかな。
享年十八歳未満。故に走馬灯のような人生絵巻は、短編だった。事故現場から病院へ、病院から自宅へと搬送に時間を要した為、同じ走馬灯を五回も見せられた挙げ句、この家から出られないと天井や壁に告げられた。「どうしてよ。事故っておっ死んじまったんだから、ミタマとなりて天に召すんでしょうが。それが人の道ってもんじゃない。それとも地獄に落ちんの」「不良が人の道を語るでない。天国も地獄も無い。悲しみに暮れ、力を落としている両親と妹の為に、お前はここに暫し留まるのだ」 天井と壁が無機質に告げた。「暫し留まるって、じゃあ、元の体に戻してよ。生き返らせてくれればいいじゃん。コーコー出来て、オヤ喜ぶじゃん」「元の体……って、無理だ。見ただろ、お前も」 ノーヘルだった為、アスファルトに直撃した頭蓋骨が、パカッと開いて、脳味噌がドロリと流れ出す映像がフラッシュバックした……確かに無理だ。 結局、家の力には勝てず、洗面所の鏡として、暫し留まることで落着いた。まあ、鏡なら家族との接点もあるし、ときどき凹んだり、凸んだりして、両親や妹を笑わせたり、恐がらせることも出来るだろうと、納得した。 しかし、実際、鏡になってみると、それを湾曲させたり、軋ませたりすることはおろか、曇らせることすらママならないのだった。毎日各人の寝ぼけた顔と歯磨き、にきび、口内炎、湯上りの汗等を忠実に再現するだけが、つまり鏡の勤めだった。これは、つまらない。 唯一の救いは、それに気付いたのは鏡になって半年ほど過ぎてからだったが、右上の隅に居間の窓越しの空を写している事で、季節の移ろいや天候を確認できた。そして、ときどき鳥や飛行機も写した。 一周忌、三回忌が過ぎ、妹は高校を出て就職。朝から何回もオヤジが髪をいじりに来た日、挨拶に来た青年(彼もトイレのたびに、髪をチェックしていた)と結納を交わし、結婚。七回忌には、おしゃまな姪の似合わないリボンを繰り返し写した。「……『死んだ子の年を読む』とは、無意味なことの喩えとされていますが、私たち夫婦は、年を読んでやることくらいしか出来ません。何年経っても……」 相も変わらぬオヤジの挨拶。線香の匂い、親族の並び。 あの日と同じ初夏の晴れやかな青空が窓越しに広がる。もうじき夏が来る。姪っ子の笑い声。オヤジの挨拶。鏡が……曇った。 気がついて、下を見ると我家の瓦屋根は既にマッチ箱大になっていた。
ずっと前だけを見ている人がいました。 ずっと後ろだけを見ている人もいました。 更には、ずっと左右だけを見ている人もいました。 ある時、三人は喧嘩を始めてしまいました。 前だけを見ている人は言います。「進む方向を見れない奴は、いつか落とし穴に落ちるぞ」 後ろだけを見ている人も、負けじと言い返します。「後ろを見ていない奴は、いつかひったくりにあって全財産失うに違いないね」 左右だけを見ている人は、二人の言い分を聞きながら、「馬鹿なことを。左右を見ていなかったら、いつ車に轢かれるかわからない」 と言いました。各々、自分が見ている方向が正しいと、そう主張します。 こうなるともう大変です。三人はてんで別の方向を向きながら、激しく言い合いになってしまいました。 それは昼夜を問わず三日三晩続き、流石に三人の体力限界が来ました。 ついには全員、地面に倒れてしまいます。 荒く息をしながら、前だけを見ていた人は言いました。「お前らの言いたいこともわかる気がしてきた。しかし、自分の言ってることも間違いだとは思えない。じゃあ一体、俺たちはどこを見ていればいいんだろう?」 初めて、三人の喧嘩で、相手を認める言葉が出ました。「それは俺も思っていたことだ。人は、一体どこを見ているのが正しいのだろう?」 後ろだけを見ていた人も、素直に答えます。「……」 しかし、左右だけを見ていた人だけは、何も喋りませんでした。 不審に思った二人は、尋ねます。「おい、どうしたんだ?」「何を見てるんだ?」 左右を見ていた人は、こう答えました。「空を見るのも、たまにはいいなあ。お前らもそう、思わないか?」 言われて、二人も空を見上げます。 蒼穹に、煙のような雲が幾つかあるだけで、別段面白みも無い空でした。 それでも三人は倒れたまま、空を見つづけていました。ただの空がこんなに綺麗だったなんて、彼らには新発見だったのです。「……そうか。こういうことか」 しばらくして、ポツリと前だけを見ていた人が言いました。「簡単だったんだな」 「本当に」 二人も、苦笑を浮かべながら答えました。 今日もここには、前だけを見る人、後ろだけを見る人、左右だけを見る人がいます。 しかし、もう三人は言い争ったりなどしません。 三人は、解ったのです。上を向けば見える青空のように、皆が見ている方向には、きっとそれぞれ素晴らしいものがあるのだと。
俺にとって、この何も無い六畳一間が新しい生活の場だ。 何も無いといっても、実際には趣味の楽器やパソコンがあるにはあるのだが、残念ながらどれもこれもまだダンボールの山のどれかに眠っている。 このダンボールをがんがん開けて、お目当ての楽器やパソコンを取り出す、それは冒険物語で勇者といわれる人間が宝箱から宝を見つける事に近いものがある気がする。何分、ダンボールは八箱ほどあり、一つ開けるとそれなりの時間を使ってしまうだろう。数分かけて開けたダンボールの中身が実家のベッドの下に隠された秘蔵のコレクションだった日には気分が沈んでしまう。いや、それはそれで確かに嬉しいものに違いないのだが、冒険物語で金等で装飾された宝箱に薬草が入っているくらいショックだ。逆にそれがお目当てのパソコンや楽器なら、勇者の剣を見つけた時くらいの感動が待っていると思う。ましてそれが一箱目から辺りなら、恐らく俺は今年一年健康に過ごせるだろう。 勇者、そう、俺は勇者になるためにこの部屋で暮らす事にしたのだ。大金持ちで、自分の思い通りに生きる事の出来る、そんな勇ましい男に憧れて、俺はこの暗く汚い六畳一間にやってきたのだ。 しかし、この六畳一間は始まりなのだ。俺の輝ける人生の第一歩、そのための通過点なのだ。 この六畳一間から全てが始まり、俺の人生勝ち組ロードが開けていくのだ。プール付きの豪邸、ご飯は毎日バイキング、三食昼寝おやつ付きの俺の人生。 友人に話したら「夢見すぎだろ」 と蔑むような目で言われたが、そんな事は気にしない。「じゃあ、どうやって金稼ぐんだよ、この三流大学出めが」 何処の大学を出たか、なんてのは飾りでしかない。勇者は決まって、貧乏な家から生まれるのだから。少なくとも日本の昔話ではそうなっている。 さて、無駄な独り言を言い過ぎたようだ、そろそろ勇者への一歩を進みますか。 さぁ見ていろ友人め、これが俺の必勝法、勇者への快速特急―― ジーコ、ジーコ「あぁ、もしもし母さん? 俺だよ俺!」 うっかり間違えて友人宅へかけてしまい、危うくそのまま豚箱行きになる所だった。 勇者に障害はつき物だ! でもとりあえず警察も怖いので、宝箱回収に乗り出す事にした。「さぁて、一個目の宝ばこにはなにがはいってるかな〜?」 宝箱を俺は開けた。 そして、勇者の剣(新聞紙製)を持って来なかった事を後悔した。 誰が、宝箱にモンスターが入ってるなんて思うかよ!
良介は文房具のサンプルを抱えて、子供のいる家庭を巡り歩いている。営業成績はこのところ、下がる一方だ。 新製品が出ると、それを今年六歳になる息子の大輔へのみやげにするのが、唯一父親らしいところだが、それで妻が機嫌をよくするわけでもない。 今も大輔にキャップに動物のついたペンシルを与えると、妻は「またあんなもの」という顔をしていたが、「本物の動物を見せたほうが、よっぽどためになるのよ」 ついに口に出さずにはいられなかった。「分ってるさ。分っちゃいるけど、気分が乗らなくてね。営業マンなんて、少し前までは引く手あまただったが、今は何かと言えば、リストラの対象だ」「パパ、リストラってどんなトラ?」 大輔がペンシルの頭のクマを弄りながら、父親を振り向いて訊く。「会社のごたごたを家の中まで持ち込まないでちょうだい。それより、一泊旅行にでも連れてってくれるパパだったらねえ」「分ったよ。愚痴を家に持ち込めないから、男は帰りに酒場に寄るんだ」「あなたも、寄れるほど稼いだら」「ねえ、ママ、リストラってどんなトラ?」 今度は答えを母親に求める。「いいの、そんなこと!」 妻は、ぴしゃりと言った。 良介は「リストラ」が急に自分に接近してくるのを感じるようになった。 そんなある日、大輔を連れて帰郷することを思い立った。夫の実家を嫌っている妻は行くとは言うまい。それはそれでいい。何となれば、いよいよリストラが現実となったときのために、農業を継ぐ決心を固めに行くつもりもあったからだ。 良介がよく登った山にやって来た。大輔は息を喘がせながらも、喜んでついて来た。息子は自分を選んで、田舎に住むと言うのではないか。 山頂に着いて、横たわる古木に腰掛けていた。大輔は祖母が持たせたお握りを頬張っている。 古木に動く気配がして、父と子は同時に顔をやった。すぐのところにシマリスが留って、二人を見ている。良介はふと閃きを得て、「これだよ、リストラっていうのは。トラのような縞のあるリスってことさ」 と言った。「これがリストラ? トラリスって言えばいいのにね」 リスは、祈るような仕種で前足を揃えて立ち、両の瞳に、親子を捉えている。臆しているのか、首に震えがある。「リストラおいで。お握り上げるよ」「駄目だ! 来るな!」 良介のあまりの声の大きさに、リスは一瞬のうちに消えていた。 大輔が怪訝そうに父親を見つめている。
アスファルトの坂をウンウン上って山の上のケーキ屋に入る。「お持ち帰りですか?」「いや」「お召し上がりですか?」「うん、そう」「お飲物はいかがしますか?」「エスプレッソ」斜面に作られたバルコニーに出て、今買ったチョコモンブランを食う。町が見下ろせる。汗をかいた割には町が近い。エスプレッソを飲む。いい天気だ。けど、バルコニーは日陰で、風も強い。エスプレッソはもう冷めた。仕方ない。タバコだ。ライター。ガス切れ。散々カチカチやって諦める。銜えたタバコを箱に戻そうとして、床に転がした。まったく。「どうぞ」名前を知らない女が落ちたタバコを拾って渡してくれた。「ああ、ありがとう」火のついてない煙草を銜え直し、会議用テーブルから腰を下ろす。窓辺に移動。隣のビルの中で、機械仕掛けの老人達が体操をしているのが見える。体操というより、ありゃ整備だ。単なるメンテナンス。最近はああいう〈人間〉が増えた。「ところで君、誰?」女は、踵を鳴らして窓辺に来ると、並んで窓の外を眺めて言った。「ご存知のはずでは?」「いや、知らないな。入社はいつ?」「今朝です」「なら、知らなくて当然だ。秘書課?」「はい」秘書課の女はそう言うと、ライターの火を差し出した。そのとき、隣のビルの機械仕掛けの老人の一人が止まった。膝を曲げ、両手を前に伸ばした状態で、ぴくりともしない。慌てて前に回り込み、顔の前で手を振ってみる。無反応。まばたき一つない。フリーズだ。リセットボタンを探す。見つからない。まずいな。すぐ来るぞ。部屋のドアがガリガリ音を立て始めた。ほら来た。壁の丸窓を覗いて音の正体を確かめる。虫だ。虫が来た。半透明の、月着陸船のような形をした、6本脚の虫。ドアの外に貼り付いている。ケツからドリルみたいなモノを伸ばして、ドアに穴を開けようとしていた。とっさに柱の〈駆除〉ボタンを押す。管理人のジイサンを再起動しているヒマはない。黄色い駆除液がドアの外に溜まっていく。が、ちょっと遅かったか。ドリルの先がドアを突き破って現れた。煙草の火でも押しつければ……。銜えていたタバコを手に取った。火がついてない!ポケットを探る。ライターどこよ?「これ、使って下さい」マッチを乗せた手が、目の前にぬっと現れた。顔を上げると店のウエイトレスだった。知ってる。今日からここで働き始めた子だ。マッチを擦って、悠々と一服。虫は煙草の火に焼かれて死んだ。
春が過ぎると女は急に仕事を嫌がるようになり、私の家に転がり込むと、狭いベランダにプランターをずらりと並べて花を育て始めた。娼婦がセックスを嫌がっているのだから家にいても他にやることも無く、始終プランターに向かって水をぼたぼたと注ぎ続けている。昔は私がどれだけ止めても夜の街へ出て行って、安っぽく光る黒のドレスで男を誘い、路地裏の暗がりの中で安ホテルで男達とセックスをして、はした金を稼いでいたものだったが。赤。黄色。目の覚めるような青。眩しく輝く白。花は数え切れぬほど咲いた。どれも見事に育った。 旅行にでも行くか、と私が尋ねると、行っても良い、と女は答えた。 私は懇意にしている画商に大半の絵を売って、その金で船の切符を手に入れ、ホテルを手配した。特等船室でゆったりと出掛け、初夏の景色を楽しみながら遺跡巡りをし、それから三ツ星のスイートルームに泊まるのだ。 出発の朝、女は花を持っていくと言い張った。荷物になるよ枯れてしまうよと説得したが女は全く言うこと聞かなかったので諦め、じゃあ好きにするが良いよ何しろ君の花なのだから、と言った。私は両手に荷物を抱え、女は両手に赤い花の咲いた小さな鉢を抱え、玄関を出た。花はとても綺麗だった。「乾杯」 きらきらとシャンデリアが眩しく輝く食堂で、わたし達はディナーを取った。弦楽四重奏の生演奏が流れる中、豪華な料理が次々と目の前に並んでいった。酒はどうするのか、と尋ねられ、わたしはワインを頼むことにした。 二人で暮らすようになると安酒にはとても耐えられなくなってしまった。一人でいるならどんな貧乏にも耐えられたが、絵さえ描いていれば満足だったが、何も食べずに、私は絵を描き続けていたものだったが、二人でいると、ちょっとした貧乏くさいことでも心が軋んでしまうようになった。安酒などには私はもうとても耐えられない。「なるほど、これは良いワインだね」 一息に飲み干して私は言う。十年以上にわたって描き続けてきた絵で得た金が一口で消えていった。「ありがとう御座います」 初老の給仕はそう言って微笑むと私のグラスにワインを注いだ。 女は鉢をテーブルに置いた。ようやく鉢から手を離し、グラスを手に取る。「ねえ明日はどうするの?」「決めて無いよ」 私はグラスを手に取り、答える。「これから決めよう」 そうね、と女は答える。女の育てた花を見ながら、私達は料理を食べ始める。
ノックの音がした。「Sクン、私だよ。あなたの恋人、貞子よん。早く開けてマイダ〜リン」 みっともない上に気色悪い声がアパートの廊下に響く。早く中に入れようとドアを開けた。 存分に水分を含んだ湿気が、雨音と共に流入する。ドアノブが湿り、シャツがしっとり重くなる。そしてドアの隙間から、にちゃ、と音を立て、ぬめった肌色の肉塊が滑り込んできた。肉塊の先がにゅるにゅると伸び、その先が二つに分かれてさらに伸び、最後にぽつん、ぽつんと小豆色の突起が現れた。「貞ちゃん……カタツムリじゃん」「だって梅雨だし、私って季節感あるし。てゆーか殻が超大きくて、もっとドア開けてよ」 僕は仕方なくドアを開け放つ。貞子は「うわーい」と呟きながら、銀色の粘液をずるずる残しつつ部屋の中に這ってきた。まるで楳図かずおの漫画だ。と思ってたら貞子はそのまま僕の体に這い登ってきた。「キスして」 と言いながら僕を押し倒し、唇を塞いだ。にゅるにゅるで生臭い。何か刺激のある香りがして、頭がぼおとなってきた。全身にゅるにゅるだ。いつの間にかシャツも脱がされてる。ひょっとしてこれは気持ちの良い事なんだろうか。でも冷たい。糸も引いててやっぱり気持ち悪い。「悪い、いまコンテストに送る小説考えてたとこなんだ」「てゆーか私、雌雄同体だし」全然聞いてない。「今ちょっとオスっぽいから、後ろからにゅるにゅる入れてあげてもいいよ」それは少し良いかも知れない。と一瞬想像して僕は必死に打ち消す。「だから僕は小説をだ、一所懸命考えてだ」 貞子は急に真面目な声で言った。「……お前の作品、よく考えたものほどつまらないよ」 僕は気が遠くなった。「何も考えてない作品の方がずっと楽しいよ。ほら。こんなにこんなに。にゅるにゅるぬめぬめ」 緑色。ああ目の前が一面の緑。ああ、これがこれが、緑の絨毯、緑の壁。空気も緑。君の顔も緑色。僕の腕も緑色。これは何だ。「ドア閉めるの忘れてたし。湿気が入るとカビ生えるよね」「カビ〜」 すでに僕の全身は貞子の体の銀色の粘液と緑のカビにまみれ、その成分は飛沫となって肺を満たし、脳まで覆っている。部屋の中の水溜りの岸辺の、風に揺れてる菌糸の囁きまでが聴こえてくる。もう二人でぬめぬめする他ないのだ。廊下を通りかかり、僕らを凝視していた隣人も「失礼。また来月」と思わずドアを閉めてしまう。 次回はもっと、カラッとした関係を期待する。 ※作者付記: 蛮人は今回をもって1000字バトルへの参加を当分お休みします。 舞台を3000字に移して修行します。毎回出せるとは限らないかもしれませんが よろしくお願いします。
銀河が、闇に数多の星が浮かぶ眩いものならば、都内を走る夜の電車の車窓はそれに等しい。窓には立ち並ぶビルや光を放つ尖塔、向かいを走る別の電車の影が映る。そして真なる闇が存在することもまたそれに等しい。決して光が届かぬ闇が宇宙にはあるのと同じように。「岳くん。ねえ、しよう。私じゃ嫌?」 岳人のペニスは硬く勃起していた。はちきれそうなそれはどう作用するのか思考から理性を奪い、その手は姉以外ではたぶん初めて見る裸の女の子のその両肩を持ったまま動けなくなっていた。朽ち果てそうな長屋の一画。真っ暗な部屋には轟音と共にすぐ側を電車が走り抜ける度に曇りガラスを通して光が差し込んでくる。理由などない。照らされるその体にむしゃぶりつきたくなる。その衝動を電車が通り過ぎるまでの数十秒間耐え抜いて岳人は聞いた。「アカネさん、姉ちゃんの仕事仲間だろ? どうしてオレなんかと? 分かってると思うけど金払えないぜ」「そんなのいいのよ」 アカネがジーパンの上からペニスに手を触れる。そのままボタンを外しチャックを下げる。もはや岳人は抗えない。直に触れられる。快感というものを知る。アカネはそのまま岳人の前に膝を付き岳人のものを口に咥えようとした。唇が触れた瞬間、それが未知の快感に対する驚きだったのか、あるいは本能的な拒絶だったのかは分からないが、岳人はとっさに身を引いた。狭い部屋の中で壁の戸棚にぶつかり、何かが硬い音を立てた。直後、部屋の中がある香りに満たされた。姉の香水だった。岳人はとっさにジーパンを履いた。「そっか」 アカネが呟いた。「岳くん、カスミちゃんに今の仕事辞めてって言ったんだってね」 岳人が頷く姿が通りがかりの電車の灯りに照らされた。「私もね、カスミちゃんや岳くんと同じで貧乏なの。親もいないし他にどうしたらいいか分からないの。この前、お店に大学生の女の子が入ってきた。お小遣い欲しいしセックスも好きだからって言ってた。羨ましかった。私たちはそうしなきゃ生きていけないのに」「でも、僕は、嫌だ」 ぎこちなく、でも強い否定だった。「私たちには仕事で、お客には遊びなの。心がなくても体が気持ちいいの。それだけなの。岳くんだって勃起してたじゃない!」「でも、嫌だ!」「あなたたち姉弟なのよ!」 最終電車が行ってしまったのか。涙を流すアカネの後ろ、曇りガラスの向こうにはぼんやりした街灯りだけが映っていた。
コーヒー色の夜にミルクがほどける。 雪が降る――違う。粉々に砕かれた珊瑚の欠片が、しんしんと降る。「明日は雨ね」 わたしはカーテンを閉めて、つぶやく。我ながら抑揚のない声だとおもう。「雨になればいい」 そう言いなおしてみたら、すこしだけ感情の色が宿った。水色の絵具に煙草の灰を溶いた色だ。 ――煙草は嫌い。 部屋で吸われるとカーテンや壁紙に匂いが残ってしまうから、わたしはいつも嫌な顔をしたものだ。だけど彼は気づかないふりをしていたのか、本当に気づいていなかったのか――いつだって、服を着るまえに煙草を吸った。だからわたしは、いつだって嫌な顔で彼を送りださなければいけなかった。 いつからか、それが癖になっていた。 六年ぶりに会った友達と別れるときも、わたしは眉間に皺を寄せていた。十年後の再会を約束して別れた育ての親にも、睨みながら手を振った。 ――なにもかにもが、煙草色に濁った水色。 壁紙を水色から黄色に塗り替えて以来、煙草色に煤けることはなかった――違う。煙草色に煤けることがなくなってから、わたしは壁紙を黄色に塗り替えたのだった。 ――珊瑚の欠片はまだ降りやまない。 さらさらと、静かに積もる音がきこえる。沖縄の浜辺を裸足で歩いたら、ちょうどこんなの音がするはずだ。沖縄の海はとても青かった。わたしが知っていた水色は、あの海の色だったはずだったのに。 いまはもう、灰皿に溜まった水しか思いうかばない。「雨になればいいのに」 もう一度カーテンを開けたら、珊瑚の欠片がきらきら震えた。 わたしは目を細める。 ――睨みたかったわけじゃない。 ただ、眩しかっただけなのに。