Entry1
温泉
小笠原寿夫
女将は割と美人だった。
女将「いらっしゃいませ~。」
調査員「失礼ですが、お宅の旅館の温泉に入浴剤混入の疑惑がかかっておりますので、少し調べさせて戴きます。ご主人はお出ででしょうか。」
女将「亭主はちょっと用足しに出ておりますの。宜しければ私がお伺いいたしますが。」
調査員「それでは、上がらせて戴きます。」
女将「どうぞ、お進み下さいませ~。」
玄関を入って、広い廊下を抜ける途中に調査員は、チラッと大広間を見た。男湯の暖簾をくぐると、山間に大きな露天風呂が顔を出した。その時まず調査員の目に飛び込んできたものは、桐で出来た細長い看板だった。
・成分 濃硫酸(原液)
・効能 リュウマチ、腰痛、トラウマ
・注意 強酸ですので、入られますと命に関わります
調査員「何ですか、これは?」
女将「うちの旅館、自慢の露天風呂でございます。」
調査員「いやいや、濃硫酸って・・・。危険ですから。」
女将「うちの裏庭から湧き出してきましたの。」
調査員「・・・注ぎ足したでしょ。」
女将「いえ、湧いてきましたの。」
調査員「濃硫酸が地中から湧き出す訳ないでしょ。第一、命に関わりますって・・・。」
女将「純粋な温泉でございます。phも規定量を下回っておりますし。」
女将はきっぱりそう言い放った。
女将「ご入浴なさいますか?」
調査員「いえいえ、結構です。とにかくもう一度、専門家と話し合った上で、再調査させて戴きますので。」
女将の顔つきが少し変わった。
女将「そんなことよりご亭主?」
調査員「はい。」
女将「あっちで、もっと気持ちいいことなさいません?」
調査員「気持ちいいこと、とおっしゃいますと?」
女将「お分かりでしょ?」
調査員「いえ、こっちも公務で来ておりますから、そういったことは・・・。」
女将「この際、温泉のことなんかどうでもいいじゃありませんか。」
調査員「困ります、奥さん。」
女将「あちらの大広間に布団をご用意しておりますので。」
調査員は、まんざらでもない顔をした。
調査員「ご主人は何時ごろお戻りですか?」
女将「あいにく今日は出張に出ておりまして・・・。」
調査員は唾を飲み込んだ。
調査員「そういうことでしたら、私どもも目を瞑りますが。」
女将「さぁさ、ご亭主?どうぞどうぞどうぞ~。」
そして、二人は温泉を出て、大広間の方へ向かい、襖を閉めた。
たまたま、そこへ帰ってきた気弱な亭主が、一部始終を見ていて、先ほどの温泉にゆっくり入っていったという。