≪表紙へ

1000字小説バトル

≪1000_1表紙へ

1000字小説バトル
第68回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 3月)
文字数
1
のぼりん
789
2
小笠原寿夫
1000
3
めだか
998
4
ながしろばんり
1000
5
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
6
榎生 東
1000
7
ごんぱち
1000
8
たかぼ
1000
9
早透 光
1000
10
鬱宮時間
1006
11
越冬こあら
1000
12
日向さち
1000
13
アナトー・シキソ
1000
14
隠葉くぬぎ
1000
15
るるるぶ☆どっぐちゃん
1000
16
橘内 潤
872

結果発表

投票結果の発表中です。

※投票の受付は終了しました。

  • QBOOKSでは原則的に作品に校正を加えません。明らかな誤字などが見つかりましても、そのまま掲載しています。ご了承ください。
  • 修正、公開停止依頼など

    QBOOKSインフォデスクのページよりご連絡ください。

Entry1
宇宙の空気漏れ
のぼりん

 宇宙船マーキュリー号のクルーたちはいまや絶望の淵にいた。
 流星に船体が接触するというアクシデントの後、船内の空気の密度がどんどん薄くなっているのである。今はただ、口を金魚のようにせわしなくパクパクして、少しでも多くの酸素を体内に送り込むことだけが、彼らのできる仕事のすべてであった。
「救援はこないのか」
「通信機器もまったく作動しません。こちらからアクセスをすることは無理のようです」
「このままでは、窒息死を待つだけか!」
 その時、地球からの連絡を知らせる着信音が狭い船内を走った。
「助かった、地球からのアクセスだ」
「船長の奥さんからです」
 操縦室のモニターに船長の妻の、人のよさそうな笑顔がアップになった。しかし、一難去ってまた一難である。音声がまったく聞こえないのだ。
 船員たちはできそこないの無声映画のような画面をにらんで、歯軋りするばかりだった。しかも、あまり感のよくない女性なのであろう。異変に気づくそぶりもない。
「一言でいいから、せめてこちらからのメッセージを送ることはできないのか」
「無線の出力がどんどん落ちてきています。しかし、消える前に、ただ一言なら、なんとかなりそうです」
「そうか、ではたのむ!」
「いきますよ、どうぞ」
「助けてくれ、もう空気がない!」
 次の瞬間、モニターの画面が一本の光の筋を残して、真っ暗になった。
「……切れたか…」
「いえ、向こうから切られたようです」
「なんだって!」

 宇宙船マーキュリー号の船長の妻は、癇癪をおこしてテレビ電話を切ってしまった。
「ママ、何を怒っているのよ。お父さんとけんかでもしたの?」
 一人娘が、表情を曇らせて、彼女の顔を見上げた。母親の怒りは静まらない。
「だって、ひどいじゃないの。今度の郵送船で、出来たてのピザを冷凍にして送るっていったのに、お父さんったら……」
「お父さん、なんていったの?」
「食う気がない……ですって!」
宇宙の空気漏れ のぼりん

Entry2
漫才台本『春』
小笠原寿夫

「どうも、フューチャーズです!よろしくお願いします!」
「なんやかんや言いまして、もう春ですよね。」
「来年ももう春かぁ~。」
「今年も春じゃ!何を言うてんねん、のっけから。お客さんにちゃんと挨拶しなさい。」
「ひだり回りが右!みぎ回りが左!」
「逆!逆!」
「家で売っとうのはね。」
「知らんがな、君、しかし怒られるでほんまに。」
「おいしい季節やね。」
「何が?」
「何がっちゅうたかて、たけのこ、白菜、春菊、にんじん、ぶどう。」
「何鍋やねん、それ!」
「甘い×エックス=甘い。」
「簡単な論理やがな。甘いもんに何かけても、甘いもんは甘い。」
「四角い×丸い=デパートの押し売り。」
「それちょっと難しいな。え、何々?四角い×丸いは?」
「ちょうどあのお客さんあたり。」
「なんや分からんけど、失礼や!ごめんなさいねぇ、ちょっとあのあたりのお客さん。」
「お古で。」
「はい。で、君は最近、面白いニュースはありましたか?」
「こないだねぇ、ちょっと聞いてくださいよ、お客さん。」
「おっ、あったんやね?」
「もしもし詐欺に会いましたよ。」
「もしもし?」
「もしもし。」
「もしもし?」
「まるで、二人っきりで電話してるみたいやな。」
「ニュースわい!」
「さぁ、それですよ。ハップンが起こりましたよ。」
「あぁあぁ、事件がね。八分みたいに言うな。」
「それは、私が、自転車を転がして坂を登っている最中での出来事!」
「普通に言え、普通に。」
「嗚呼、憧れの明日香先輩!」
「なんやねん。」
「草々。」
「締めくくるな!」
「は、春と言ったら、き、気になるのが、か、花粉症ですよね。」
「下手くそに話すり替えんな。まぁまぁ、今年は例年の30倍とかいうからね、花粉の量が。」
「コスモスの花粉の量も30倍らしいですね。」
「当たり前やん。すべての花粉の量が30倍ってことは、コスモスの花粉の量も30倍。」
「コスモスの花粉の量が30倍ということは、君、あれですよ。」
「なんやねん、いちいちもったいぶるな。」
「コスモスの花言葉『おとめの純情』も30倍ですよ。」
「…………いやいや、『おとめの純情』は例年通りですよ。」
「そうですか?『おとめの純情』は例年になく、舞い散るかもわかりませんよ?」
「そんなことあれへん。『おとめの純情』はいつも通り、『おとめの純情』ですよ。」
「はぐれ刑事純情派。」
「何なん?わからへん。」
「ふぁぐれけぇいじじゆうんじようはどぇす。」
「ゆっくり過ぎるわ!」
漫才台本『春』 小笠原寿夫

Entry3
冬の大三角
めだか

 教師の大黒は、黒板に向かい説明を始める。
「シャン角形のテェイ辺の長さと、二角の大きシャが決まると……」

 亮は、無意識にボソっと呟く。
「面シェキが求まる」
ハッと慌てて周りを視回すが、誰も聞いてなかったと知りホッとする。妙な節をつけた、大黒の活舌の悪さが気になって、授業に集中できない。数学はいつもそうだ。

 そんな話をしたからか、父親がフランス語の教科書を取り寄せてくれた。『フランスの数学は良いらしい』だとか、どこから仕入れてきたのか、いい加減な話しだ。

 それでも、長靴を履いた猫の挿絵が気に入って、辞書を引きながら読んでみると意外と面白い。数式は同じだし、正弦・余弦と呼ばないで、そのままsin、cosなんだと驚いた。もちろん意味なんか当て推量だが、案内役の猫が生きいきとしていて楽しい。『そこで悩むのは、赤い牛と格闘している感じだ』って、そこで諦めずに、頑張れということなのかな? こっちの方が面白いから、大黒の授業は適当に聴き流している。

 同じ猫が、彼女の下敷きに描かれているのに気がついた。
だから亮は、斜めまえの席にいる、霞のことが気になる。

 霞は、マイケルという名前を、下敷きの猫につけてあげた。春が近いのか乙女の悩みか、加藤さんちの隣の猫は、夜鳴きをしては困らせる。『僕が眠れないでしょ、マイケルくん。夜鳴きしちゃダメよ』と、そっと囁く。この子を代わりに嗜めはするけど、そんなこと口に出しては言えない。本人はどうあれ、おしとやかな娘で通っているのだから。

 一番まえの席にいる加藤君には……。

 加藤は、大黒先生の授業が好きだ。すこし話し方に癖はあるが、だけどそのほうが、人間味があっていい。だから、数学になると張り切ってしまう。そのぶん、教室のざわついた雰囲気や、不真面目な生徒が気になる。一番気に入らないのが、亮だ。中途半端に気障なところがあって、数学の時間は、なにやらこっそり、外国語の勉強をしているらしい。それに最近になって、時々、霞ちゃんのことを、目で追いかけている。放課後、亮を呼び出し決着をつけてやろう。

 教壇に立つと生徒のことがよくわかるなと、大黒は思っていた。
とくにこの三人なんか、授業お構いなしだから、つい皮肉っぽい口調になったのかも知れない。
「シャン角関係のことは、皆シャンの方がよくご存知でシュね」
はて、ここで笑いが起きないのは、私の授業テクニックのせいなのだろうか?
冬の大三角 めだか

Entry4
嚏(くしゃみ)
ながしろばんり

 ぶえっくしょい、と、勢いで鼻毛がみんな抜けそうなくしゃみであった。
 逢魔ヶ時、二階の書斎で机に向かっていて蛍光灯の残像一閃、真暗になって刹那短髪の後頭部が前のめりに倒れていくところから見なれたシャツの襟首で、ああこれは自分の身体なのだ、逆算して魂が抜け出たことにやっと気づく。肉体はむず痒さを伴って魂から剥がれていき、左の肩から横倒しになるかと思うと脇の本棚をずうん、と鳴らした。見れば、こめかみが棚の広辞苑の角に当たっており、きっと今戻っても痛い思いをするだろうな、と思うと少々気は焦ったが、いまだ抜け出ていない足で踏張ろうとして床を突き抜け、あれよあれよと云う間に崩れ落ちる己が身体は変な形に首を折り曲げて滑り落ち、頭はたこ足配線の上に落ち込んだので一安心という按配。
 机の上に放置かれたままの確定申告用の書類をあげてしまわねばならないが霊体の手ではいかんともしがたく、このままこの無様な格好を晒しておけば家人も見に来る。アラアンタ、ソンナトコロデネテタラダメジャナイノ、マッタク……ハレ、イキヲシテナイジャナイヨノサ! ダレカ! アーレー! キューキューシャー! なんて喚いて明け烏、妙な噂が竜田川。
 がしかし、おかしなもので、肉体は魂の牢獄といったのはどこの誰だったか、霊の体というのはなんとも爽快なもので、重圧や束縛からまろびでたふうでいい心持ち、伸びをして爽快、無様な肉体に後悔、半ば航海に立つ船のごと、だんだんと愉快になってくる。あひゃあ、これ、こーんなことしちゃったりして、机の脇、居並ぶ本棚に頭を突っ込んでみる。ずぶりと抜けた先、部屋の向こうの景色が見える。ウヒョホ、こいつは楽し。畳の縁に手をかけて、鉄棒に膝をかけて上半身をブラーン、そのまま階下の茶の間にばあ、と顔をだす。居合わせた猫のひょうろくがガバと身を起こしこちらを向く、あらま旦那、死んじゃったんですかい。死ぬわけがあるかよ、ちょっとはずれちまっただけだい。そんならいいンですが気ィつけてくださいよ、腑抜けの上に魂まで抜けちゃったら笑えませんぜ。五月蝿いな、一寸遊んでくらい。
 痛快。これだったらどこへでも往ける。カミさんは買い物に出かけているし、ちょっくら角の風呂屋でも覗くとするか。なんかもう、マンガみたいな夢みたいな、いいココロモチでふいらりふーらら出陣、と、臍から管が伸びていて玄関先から先に往けない。
 えー。
嚏(くしゃみ) ながしろばんり

Entry5

(本作品は掲載を終了しました)

Entry6
客待ち
榎生 東

 広縁の前に時代を経た夏の庭がゆったりと広がっている。庭木はあまり手入れがなされていない。風化した石造物の向こうに真新しい四つ目垣に囲われた数寄屋があり、今日の主客を待つ男たちの話が漏れていた。
「何業ですか」
 大野が太田垣に訪ねた。
「原子力発電所の計装会社だよ、あんたの会社も縁があるんじゃねえのか」
「原子力発電所の建設でお世話になっていると思いますが、存じませんでした」
「高速増殖炉の燃料要素破損検出器のテストを依頼されたと言っていたな」
「頭脳集団ですな、存じませんでした」
「存じません存じませんと仕事を頂く者の話じゃねえぞ、あんたのは」
初対面にも拘わらず太田垣は同時代の大野を若造扱した。
「恐れ入ります」
 建設業界を凌駕する鹿嶋工務店の代表取締役副社長大野泰三は一向に気にする様子もない。太田垣を所詮は企業ゴロと腹の中で見下している。
 初老とはいえ巨漢の太田垣は照りのある禿頭が如何にも精力的である。縮れた白髪の長いもみあげはトレードマークだ。
「私も何の会社か解らなかった」
「あそこの連中はお前さんところのデザイナーとは頭の中身が違うぞ」
 現代都市空間デザイン研究所の杉本敦所長も太田垣は頭ごなしにお前さん呼ばわりだ。
「畑が違いますからね」
 東洋美大の講師でもある杉本はプライドが高く憶するところがない。黒のティーシャツにモスグリーンの麻の背広を羽織っている。
「茶室にティーシャツで来る馬鹿がいるか」と、太田垣は杉本の俗っぽさが気に入らない。
 太田垣は純白の背広だ。肌が透ける極細綿の白シャツにボウタイを下げている。
 杉本の際どい俗感は芸大時代からでエレガンスでもあった。杉本には背広が晴れ着なのだ。
 太田垣に蔑まれても気にも留めず飄々としている。
「暑いですからな」大野が杉本を庇う。
 大野は濃紺の背広にきっちり身を包んでいた。織り縞の白シャツに鎖柄のネクタイを締めた痩せ我慢は、ダンディーの究極に見受けた。
「不勉強だ、君も億の仕事を狙うなら、少しは施主を理解する努力をしたまえ、犬猫じゃあるまいし餌を待っているだけじゃつまらんぞ」
 杉本は太田垣の人脈を頼って多くの仕事を受注していた。それを言われると頭が上がらない。
 料亭宇田川の茶懐石の亭主は東洋経済フォーラム代表太田垣龍治であり、主客は日本インスツルメントエンギニャリングの滝本社長だった。大野と杉本は滝本の面識を得るため馳せ参じていた。
客待ち 榎生 東

Entry7
ぎけーき
ごんぱち

 ひらり。
 牛若丸は、橋の欄干から欄干へ飛び移った。
「ぬぅ、小癪な!」
 巨大な長刀を振り上げて、武蔵坊弁慶は打ちかかる。
 すさまじい勢いで叩きつけられる長刀は、触れれば岩でも砕きそうな勢い。
 しかし、皮一枚触れようというところで。
 ひらり。
 牛若丸はまた飛び下がった。
「おのれえええ!」
 弁慶は幾度となく長刀で打ちかかるが、その全てを牛若丸はかわした。
「糞っ!」
 弁慶の息は上がりかけている。
「馬鹿野郎、ムダに動くんじゃねえ!」
 セコンドが怒鳴る。
「空振りは二倍疲労するんだ、当たらねえ攻撃はするな!」
「しかし、会長!」
「敵の動きをよく見ろ。お前ぇなら出来る!」
「動き……」
 弁慶はギョロリとした目を更に見開き、牛若丸を見つめる。
 だがその動きは縦横無尽で、目で追うことすら困難だった。
「見え、ません」
「諦めるのか! 手前ぇがあの時言ったんじゃねえか、千本の刀を持って、この五条大橋を反対に渡ろうって!」
「おっちゃん……」
 弁慶は血まみれの頭を引き上げ、ファイティングポーズを取る。
(あの時――)
 脳裏に、厳しいトレーニングの日々が浮かぶ。
 ふと。
 気が解けた。
 戦いの中にあって、戦いを忘れる。本来ならば、致命的な行為が、逆に弁慶の心から焦りを拭い去った。
 牛若丸は、欄干から飛び降りる勢いそのままに、左拳を繰り出す。
 そして、ほぼ同時に、弁慶の右拳も放たれていた。
 二人の拳が交差する。
 そして、膝から崩れ落ちたのは。
「ごぶぉっ!」
 弁慶だった。
「げほっ、がほっっっ!」
 口からマウスピースを吐き出し、のたうち回る。
「……終わった」
 牛若丸は呟いて、構えを解いた。
「クロスを読み切って、ボディーに右アッパーを入れるとは」
 セコンドが呆然と呟く。
「完敗だ……」
「そうでもない」
 牛若丸は袖をまくる。弁慶のクロスカウンターを受け流した左腕に、青い痣がくっきりと出来ていた。
「パワーとスピードは本物だ。これでテクニックがあったら、俺も勝てたかどうか」
 牛若丸は弁慶の傍らに膝をついた。
「貴様、見所がある」
「ぜぇ、ぜぇ……何を」
「一緒に平家を倒さないか」
「平……家」
 弁慶と牛若丸は、無言で見つめあった。

 セコンドは静かに五条大橋を立ち去る。
 拳を交えた男同士の間に、部外者が入り込める余地などない。
「ただの場違いな部外者、か」
 寂しげにセコンドは微笑う。
「弁慶……世界を目指せ」
 呟きは、夜空に溶けた。
ぎけーき ごんぱち

Entry8
夜道
たかぼ

 郊外の一本道に私は車を走らせていた。真っ暗な夜だった。ヘッドライトに照らし出されたアスファルトは、なめし革のように滑らかだった。道の両側には、鬱蒼と茂った灌木から我先に逃げ出すかのように細い枝が伸びていた。すれ違う車はなく、バックミラーに後続の灯りもない。私は右足をアクセルに乗せたまま、ハンドルを握った手をほとんど動かすこともなくぼんやりと前方を見つめていた。
 メーターは40キロ辺りを指していた。アスファルトの模様も、行き過ぎる林の景色も変化に乏しい。こうしてほとんど同じ速度で車を走らせていると、何だか止まっているような錯覚に陥る。それはふわふわとした落ち着かない感覚だ。どこまでも続く同じような風景。私は突然不安になってきた。「本当は止まっているのではないか」そんな考えが頭をよぎるのだった。
「アクセルをゆるめてみようか。本当に止まってみようか。そうしたらこんな馬鹿げた考えも消えるだろう」
 しかしできない。そんなことをしたら取り返しが付かないことになるような気がして、怖くなったのだ。
 そもそも私はどうして夜更けに車を走らせているのだろうか。そして一体どこへ行くつもりだったのか。
 私は記憶喪失だった。
 私は居ても立ってもおられず、誰かに助けを求めたい気分になってきた。丁度そのころ遠くに町の灯りが見えた。何となくほっとした。「止まっているのではない。あの灯りを目指して進めばいいのだ」そう呟くと、あの町が目的地のような気がしてくるから不思議だった。
 町へ続く道に向かって本線を逸れた。やがて行き交う車もちらほらあり、不安な気持ちも収まっていった。
 見慣れた風景のようだった。私はこの町を知っている、と思った。見えない紐で引っ張られるように私は複雑な道順を辿った。そして路地の突き当たりに灯りの点いた一軒の家が見えた。
 私の家だった。
 自然に笑いがこみ上げてきた。馬鹿げた話だ。私は単に帰宅しようとしていただけだったのだ。理由は分からないが一時的な記憶喪失になっていたのだろう。私は心底ほっとした。そして家の手前でブレーキを踏んだ。
 だが車は止まらなかった。私はパニックになった。ぶつかる、と思った。車はそのままのスピードで家に向かって突き進み、そして……通り抜けた。霧のように通り抜けながら私は愛しい人たちの前に横たわる自分の姿を見た。

 私はようやくどこに向かっているのかを思い出した。
夜道 たかぼ

Entry9
透明な蝶
早透 光

 日溜まりの窓の先、小さな芝生が黄金色に輝いて所々にクローバの緑が浮かんでいる。
 黒板を走るチョークの音が心地良い。
 斜め前の女の子が小さな声で隣の子とお喋りをして笑っている。
 私はノートに栗色の綺麗な髪の先生の後ろ姿を落書きしながら、透明な殻に閉じ籠る。そしてこの空間から姿を消し、別の世界からこの教室を見つめる。最近では溜息を吐く事も無い。もう馴れてしまったから。

 窓の外を見ると黄色い蝶が独りぽっちで舞っていた。私は鉛筆を止めると、自分はあの蝶みたいなんだろうな、と考える。しかし、蝶は自由で楽しそうだった。私は自由だが、楽しいと思う事は無い。

 チャイムが鳴り教室全体が玩具箱のようになると、私は現実の世界へと引き戻される。こっち世界は授業中よりも辛い。これから給食だと言うのに、私はいつも独りだからだ。
 透明人間の私にみんなは気付かない。誰も私には声を掛けない。もちろん、私の声も透明だからしょうがない。

『都会っ子になるんだね。奈緒ちゃん羨ましい』
『新しい友達が出来ても、私の事忘れないでよ』
『奈緒ちゃん、あっちに行っても手紙書いてね』

(引越してもう一年になるのに……)

 トレーを持って食事を受取る。
 みんな私に対して無表情で料理を差出す。まるでスケルトンのようにみんなが私を透してその向こうを見つめる。お腹が痛くなるようにキューっとした感じがして涙が出そうになる。でもいつものようにほんの少し我慢をすればその痛みも無くなってしまう。
 机に戻ると窓の外に目を向けた。独りぽっちだったはずの蝶が今度は二匹で楽しそうに斑な芝の上を舞っていた。お腹がまたキリキリしてきた。

「ここ座ってもいいか?」
 振り向くと背の高い杏美ちゃんが立っていた。杏美ちゃんは今年になって転校してきて、バスケットが上手くクラスの人気者だった。その杏美ちゃんが私に声を掛けた。透明な私の声が杏美ちゃんには聞えるのだろうか。
「う、うん」
 私は気の抜けた返事しか返せなかった。
「お前上手いんだな、絵」
 杏美ちゃんはいつものように大きな声でそう言ってさっき描いた先生の絵を見て何度も頷く。みんなも私の廻りに集まって来てその絵を見る。

「奈緒、一緒に食べようか」
 杏美ちゃんはそう言うと、私の席を後ろ向きにして自分の机とくっつけた。
 その瞬間、私は透明からビビットな色に変った。
 日溜まりの窓の先、さっきの蝶達はもういなくなっていた。
透明な蝶 早透 光

Entry10
ミッドナイトフライト
鬱宮時間

 前髪から垂れるシャワーの水を隔ててバスルームの曇った鏡を見ていた。
 水が流れる音は、今まで生きてきた中で感じたことがないくらいの安堵を与えてくれる。ここまで鮮明で繊細な音はないのだろうと思った。蛍光灯の人工的な光と、シャワーから出て体にあたり床に落ちるまでの水が作り出す規則的にも感じるランダムな音が、フラッシュバックを招いた。
 昔はこの音が色々な音に聞こえていた。僕の名前を呼ぶ声にも聞こえたし、深夜番組が終了した後のテレビの砂嵐の音や、車のマフラーから吹き出る排気音にも聞こえた。その頃の僕はまるで生きた屍のような存在だったせいか、今ではあまり当時の感覚を思い出せずにいた。
 汚い部屋とタバコのヤニでキャラメル色に変色した部屋の壁は覚えている。そこに僕がいて、キャラメル色に変色した本当は白いシーツのベッドで寝ていた。毎日同じことを繰り返していた。暗い部屋で様々な光が飛び交うテレビ画面をタバコの煙越しに見て、キャラメル色のカーテンの隙間から青白い光が浸食してくると夢に逃げた。目を閉じると視界には色のない世界が広がる。厳密に言えば闇しか存在しない空間に、無限の色が飛び交う。あまりの色の多さにやがて世界はパンクして真っ白になる。白くなった次の瞬間にはまた闇が訪れ、すぐに色が枝分かれに繁殖する。それを繰り返す。僕はこれに、色がない世界と名付けた。
 さっきまでステレオで聞いていたアースシェーカーという古いバンドの代表曲、ミッドナイトフライトが、鼓膜から半永久的にリピートされ流れ続けている。澄んだハイトーンボーカルにきれいなギターのアルペジオが氷のように溶ける。無意識を支配する重低音が足の指先から腹部に昇ってくる。バスドラムの音と同時に揺れる色のない世界が、目の前に急接近しては果てしなく遠ざかり、また迫りくる。この世界に地平線はない。夢を見るまでそれは続いた。
 鏡の水滴を手で振り払うと鏡の中の僕と目が合う。裸の鏡の中の僕の瞳には、裸の僕の体が映っているだろう。もっと瞳をよく見てみたいと思って鼻を鏡に付けてみる。鼻に冷たい感触が伝わると、鏡の中の僕とキスする寸前の僕の瞳には、鏡の中の僕の瞳が映し出される。
 何分間その状態でいたかはわからないが、久しぶりに色がない世界を旅行した。もう水が流れる音にしか聞こえないシャワーの水で、普段は三回も洗わないと清潔になった気がしない体を、一回だけ洗い流した。
ミッドナイトフライト 鬱宮時間

Entry11
母の恩返し
越冬こあら

「章太、驚かないで聞いとくれ。実は母ちゃん鶴なんだ」

 静かに目を閉じ、ゆっくりと片足で立つ。

「ほら『鶴の恩返し』っていうの『夕鶴』とかさあ、ああいう類なんだよ。昔、父ちゃんが北国の役場に勤めている頃、森で助けられてねえ、罠じゃないんだけど、なんか網みたいなものに引っ掛ってたとこを。そしたら、昔からのシキタリとかあるから『恩返ししといた方が良いぞ』って、爺ちゃんに言われて、その日のうちに化身して恩返しに駆けつけたんだけど、その頃、父ちゃん狭いアパートに暮らしてて、機織り機なんか無いし、反物も作れず、上手いこと恩返しが出来なくって困っちゃったのよ。まあ、章太の前だけど、そういう方面のサービスとかで十分恩返しになってたんだけど、あたしも若かったもんだから、そういうとこまで気が回らないじゃない。そうこうしているうちに章太のことを身篭っちゃって、父ちゃんの転勤もあったりで、バタバタしてねえ。そのまま籍だけ入れちゃったもんだから……今さら『鶴でした』もないだろうなんて、お笑い種だよねえ。そんで、それっきりになっちゃったんだ」

【タンチョウ】全長約百四十センチ。全体は白く、一部黒色、頭頂部のみ赤色。北海道東部で繁殖し……渡りをしない留鳥で……昭和二十七年特別天然記念物に指定され……生息個体数が減少し、絶滅が心配される。

「やっぱり環境ってことかねえ。何となく調子悪くて、でも、先生も今回は検査だけだからって、心配ないよ、ねえ」

 簡易型機織り機『おりひめ三号』組立説明書、はじめに大枠Aのホゾ部分にB及びCの……。

「あら、なによこれ。章太が買ったの。高かったでしょう。バイト代で、そう。ありがたいけど、使えるかなあ。嬉しいわよ。織ってみるわ。出来るって、ほら。見ててご覧なさいよ、なかなかでしょう。でもなんで……えっ、そんなこと、そりゃあもう一度大空を羽ばたきたいけど、帰って来れないんだよ。章太は、それでいいのかい」

 両手を広げ、全身に風を感じる。

「じゃあ、言うわよ。何だか決まり悪いねえ……絶対に覗かないで下さい」

 機織りの音が夜の街に響く。長く尾を引く優しい音色。初めてなのに懐かしい。

「だめだよ、やっぱりだめ、開けちゃいけないよ。見ないでおくれ。あああ、あんだよ、そう言ってんのに……この姿を見られたからには、もうここには……」

 ケーンと一声鳴いて、暁の空を何度も何度も旋回した後、北へ向かう。
母の恩返し 越冬こあら

Entry12
当たり前
日向さち

 季節のわりに大量だった今朝の雪のせいで、畑の土は泥と化していた。
 サンダルではあまりにも歩きづらいため、スニーカーを履くのだが、一足踏み出すごとに底が厚くなり、靴下へも泥が撥ねてしまう。かといって、田植え用の長靴を履くのは大袈裟すぎるように思うのだった。
 いい加減やめれば良いのだが、我が家では裏にある畑へ生ゴミを捨てている。子宮筋腫で母が入院している今、生ゴミは私が処理しなくてはならない。しかたなく、高校時代に履き潰したスニーカーと、高校時代の白さが鈍った靴下で、勝手口から出る。
 二匹の野良猫、雄と雌のきょうだいが、私の足元をうろついて歩きにくさが倍増する。一方、猫というのは、泥に苦戦する私とは違い、泥の上でも溶け残った雪の上でも、ごく自然に歩を進める。足の裏が汚れはするものの、泥の塊が付着する様子はない。
 捨てられたゴミを漁り始めるきょうだいを見て、雄のほうは巣立つ時期ではないのかと疑問に思う。既に大人の体つきだというのに、よそから来た雄と顔を合わせては萎縮しているばかりだ。
 洗濯も私に任されている。二層式を使っていた頃、靴下の汚れを洗濯層で揉み洗いして落としてからネットへ入れるようにしつけられた。だが今は、泥の塊を落とすのは当然としても、染み込んだ汚れは手で洗う必要があるだろうか。あるいは、つけ置きするべきかもしれない。
 ワイシャツの襟や袖口も、靴下と同じで煩わしい。父のものなので手を抜くのは気が引けて、揉み洗いをしてから、他の洗濯物とまとめて風呂の残り湯が入った中へ沈める。拭いた手を見ると、研磨剤によって指の皮膚の削れているところがあった。せめて、手洗いには固形石鹸を使うべきか。
 洗濯機を回しながら廊下の掃除をし、洗い終わった洗濯物は干し、夕飯の準備をしなくてはいけない。
 しなくてはいけない、のである。
 主婦が家事をするのは当たり前のように思い、育ってきたが、私には当たり前のようにこなせるだろうか。母が書いてくれた掃除のスケジュール表は、一日目から守られていなかった。
 西に面した廊下で洗濯物を干していると、野良猫のきょうだいが、じゃれあっている。家もなく、親もなく、餌の保障もないということを、自覚しているだろうか。雀でも捕まえてくれば良いものだが、そんな能力を備えているようには見えない。

 耕すのに適した土と、発芽に適した温度。当たり前に巡ってこない年もある。
当たり前 日向さち

Entry13
secrets of the beehive II
アナトー・シキソ

管理人が目の前の歩道を自転車で帰っていった。
俺は珈琲代を払うついでに煙草を買い、マンションに向かう。
そこは部外者御免のオートロックマンション。
だが、俺には会社が用意した合い鍵がある。
必要なものは全て会社が揃えてくれる。
俺はただ現場に行き仕事を片づけるだけだ。
7階。
エレベータは使わない。会社の規定だからだ。
いつもどおり非常階段を登る。
晩飯の匂いやテレビの音のする共有廊下を歩き703号室。
呼び鈴もノックも必要ない。
俺は鍵穴に鍵を差し込む。と同時に誰かが中からドアを開けた。
子供。
男だか女だかわからないくらいの子供だ。
上目遣いで俺を見る。
動揺している俺のことなどお構いなしに子供は言う。
「ママはいません」
そんなことは分かってる。
出直そう。もっと夜遅くなるまで待った方がいい。
そう思って、差したままだった鍵を抜く。
「でも、もうじき帰ります」
その言葉で俺は初めてこの子の正体に気付いた。
手帳を開けて確かめる。
やっぱりそうだ。
なるほど、実際にあることなんだな。
俺は子供に言って部屋の中で待たせてもらうことにした。
邪魔が入らないようにドアには鍵を掛ける。
子供は奥の居間で電気もつけず一人でテレビを見ていた。
昔のアニメの再放送だ。
俺は灰皿を見つけ、煙草に火をつける。
アニメを見ている子供の後ろで煙草を吹かしながら、一緒に「ママ」の帰りを待った。
二本目の煙草に火をつけた時、子供が突然振り返り、立ち上がった。
「ママ、おかえり!」
見ると、俺のすぐ後ろに女が一人立っていた。
「ずいぶん待たせるものなのね」
女は俺に言った。
「あんただけじゃないんだ」
俺は煙草を消し、ポケットからリングを取り出した。
いつ見ても、光るドーナツにしか見えない。
子供がその光を嬉しそうに眺める。
俺はリングを女の頭の上にそっと浮かべた。
「この子の分は?」
頭にリングを浮かべた女が不安げに訊く。
「さあね。この子は俺の管轄じゃないからな」
俺は子供見た。
子供はニッと笑うと隠し持っていた自分のリングを取り出した。
女は驚いて口に手を当てる。俺もちょっと驚いた。
子供は自分のリングを頭に載せると、女に駆け寄りその手を取った。
その瞬間、眩しい光が二人を包み込む。
会社の規定にサングラス着用があるのはこれが理由だ。
けど、光は現れたり現れなかったりする。
その違いが分からない。
今度、統括にでも訊いてみよう。
光の中に消えていく二人を見ながら、俺はそんなことを考える。
secrets of the beehive II アナトー・シキソ

Entry14
夕焼けサブウェイ
隠葉くぬぎ

 鼻をかんだら当たり前に血が出てきて、わたしはきっとどこか壊れ始めているのだろうと思った。

 息を切らせて滑り込んだ電車はがらがらで、わたしは制服を着た小学生の右、一つ席をあけて座った。紺の四角い帽子を律儀にかぶったそれは、異様な熱心さで爪をカチャカチャやっているのが耳につく。
 ふくらんだ化粧ポーチをおもむろに取り出す。わたしは、電車ががらがらだろうとなかろうと、するつもりでいた化粧を始める。マリークレールの黄色いコントロールカラーを頬にのせ、指に残ったそれをあごの下に丁寧にのばす。コンシーラーは二本で、口の周りや生え際に残るニキビ痕を消す。赤みの残る皮膚にのせた、色の境がなくなるまでたたき込む。おでこから鼻にかけてのTゾーンに、毛穴消し用の明るめのポイントファンデーションをひと塗り。これも十分なじませる。パルガントンのフェイスパウダーを全体にはたいて(残り少なくなってきている。詰め替えなければ。)ビューラーでまつげをつかむ。マスカラを目尻の方にポイントを置いて塗り、表情筋を笑顔の形に動かして一番高い位置にチークを置く。
 これから彼に会うのだから。
 はっきりさせたくなっている。彼女もいるのに、嘘でもいいからいい返事をもらいたくなっている。そしてその旨を伝えることさえかまわないと思っている。彼がそのわざとらしい嘘にだまされたふりをして、抱いてくれればいいと思っている。
 不意に地下鉄は地上に出て、赤い夕焼けの窓が、わたしをてらりと映し出す。気がつくと小学生は寝ていて、カチャカチャ鳴っているのは自分の耳飾りだとわかった。鏡に映った自分はやたら頬が赤い。暗かったのでチークを濃くしすぎたようだ。掌ではたいてのばして、どうにか見れる色にする。マスカラが乾いた頃合いを見計らって、もう一度ビューラーでまつげを押し上げる。電車が大きく揺れて、免税店で買ったランコムの限定春色のパレットがひざからずり落ちかける。パレットの真ん中、血合いみたいに赤い口紅を唇の中心あたりにのばしてから、全体には丁寧にグロスを塗る。スージーのピュアデュウリップス14、kiss。
 この電車は直通で彼の仕事先に行かない。乗り換えて、やっと、辿り着く。
 目を閉じる。ウインクがうまくできないわたしは、うまくシャドウを塗ることができない。震えるまぶたに緑のアイシャドウをのせながら、わたしはきっと、壊れているのだろうと思った。
夕焼けサブウェイ 隠葉くぬぎ

Entry15
ソング
るるるぶ☆どっぐちゃん

 あたし達は昔好きだった詩が何一つ思い出せなくなっていたことに気付いたので、取り敢えず自分達で何か一つ書いてやろう、ということになった。
 各自にペンと紙が渡される。
「ルーズリーフなんて随分久しぶりに触ったな」
「黒のペン無いの? なんで俺だけ青なんだよ」
「ねえ、辞書持ってきてよ辞書」
 あたしはソファの端に座り、ルーズリーフと油性の太いマジックペンを片手に考えた。
 部屋の真ん中で誰も観てないテレビがちかちかと光っている。あたしはリモコンに手を伸ばしテレビのスイッチを消す。それと同時に誰かがテーブルの上のグラスを倒し、中身をぶちまける。コーラかペプシか。どちらにせよそれは黒く濁って見えた。チャイムが鳴る。誰か玄関に向かう。大量のピザを抱いて戻って来る。どこの家でもピザを食べる時は絶対に食べ切れ無さそうな量を注文するな、とあたしは思う。コーラ、或いはペプシの跡にピザは置かれ、皆はコーラ、或いはペプシを片手にピザを食べる。
「詩、どう?」
 男の子があたしの隣りに座った。
「うん、そうね、なんだかあれよ」
 あたしは彼にルーズリーフを見せた。
「美しい、って言葉しか出てこないわ」
 彼はあたしが渡したルーズリーフをじっと見つめた。
「美しい、美しい、美しい」
「美しい世界へ」
 あたしは彼に合わせて呟いた。
「良いんじゃないかなこれ。なんだか」
「なんだか?」
「なんだか遺書みたいで良いよ」
 そう言って彼は立ち上がった。何処へ行くのかと尋ねると、帰る、と彼は言った。
「まだ終電があるからね」
「そう」
「まだ終電があるんだよ」
 彼はもう一度そう呟き、一瞬だけ笑って部屋を出た。
 誰かがもう飽きたのか、紙飛行機を作って飛ばした。じっとそれを見ていたがなかなか落ちて来ないのであたしは疲れてしまい目をつぶった。


 目を開けると皆はもう寝ていた。あの名前も知らない男の子以外は誰も帰っていないようだった。床で寝ている。
 あたしは立ち上がりカーテンを開けた。あたしの前に夜が広がった。
 まだ夜は明けていない。
 あたしはそのことにほっとし、そして同時になんでそんなことにほっとするのか、疑問に思った。
 プラスチックと光で出来た風景は夜空を圧倒し、今日も美しく瞬いている。
 あたしは不意に昔好きだった流行歌を思い出した。
(こんな歌が好きだったのか)
 あたしは笑い、そしてもう誰も覚えていない歌を口ずさみながら、夜が明けるのを待った。
ソング るるるぶ☆どっぐちゃん

Entry16
『翡翠の歌』
橘内 潤

 翡翠(かわせみ)と呼ばれた少女がいた。
 腰までの艶やかな黒髪が印象的で、触れれば手折れてしまいそうなほど華奢な少女だった。
 翡翠は山中の村で育った。親はいない――毛布に包まれて川べりに捨てられていたところを拾われたのだ。翡翠を拾った老夫婦は、目に入れても痛くないほどの可愛がりようで翡翠を育てた。

 翡翠は老夫婦のことを「おじい、おばあ」と呼んでいた。同年代の遊び仲間の両親を見ていれば、老夫婦のことをそう呼ぶのはとても自然なことだった。
「――ねえ、おじいとおばあは、お父さんとお母さんじゃないの? なんで?」
 ある晩、老夫婦と翡翠が三人で夕食の卓を囲んでいるとき、翡翠がそう言った。
 老夫婦はたがいに顔を見合わせて困った。
「翡翠、それはね……お爺もお婆も、年をとってるからなんだよ」
 老人がそう答えるが、翡翠は納得しない。
「じゃあ、かっちゃんのお父さんとお母さんも、年とったらおじいとおばあになるの? おじいとおばあも、昔はお父さんとお母さんだったの?」
 翡翠にじっと見つめられて、ふたりは困り果てた。まだ幼い少女に本当のことを話してもいいものかどうか――迷った挙句、老人はこう言った。
「翡翠……おまえのお父さんとお母さんはな、川の向こうの町に住んでいるんだ。理由があっていまは会えないけれど、翡翠がおおきくなったら会いにいくといい」
 村のそばを流れる川は流れが速くて幅も広い。子供たちは幼い頃から近づいてはいけないと言い聞かせられているので、そう言えば諦めてくれるとおもったのだ。
「そっか……うん、わかった」
 翡翠はこくりと頷いて、その場は終わった。

 あくる日、翡翠の姿は消えていた。川べりで翡翠の付けていた髪留めが見つかった。それからすぐ、翡翠をうしなった老夫婦は病に臥せり、ふたりそろって他界した。
 時が流れて、いつの頃からか川べりに一羽の小さな鳥が住まうようになる――青と緑の融けこんだ深く鮮やかな羽が、太陽をきらきらと映している。
 今も昔も流れつづける川のほとりで、美しい小鳥はじっと水面を見つめている。
 川はきらきら流れつづける。