晩酌しながらテレビを見ている途中、突然悲鳴を上げて、仰向けにぶっ倒れたオヤジ。母とふたりで、慌てて床に運んだが、荒い息をしていたのも僅かの間だった。息が少しずつか細くなっていき、断末魔、「柳生十兵衛」と叫んで逝った。 それが俺のオヤジの死に際だ。 しかし何とも唐突。何百年も前の剣豪の名がなぜオヤジの口から出てきたのか。 古い家でもない。家系も定かではない。今さら、柳生との繋がりなど探れる古文書の類が見つかるとは思えない。「ううん、不可解だなあ」 と、友人の探偵は唸った。「オヤジさんの死因は、一応心臓発作ということになっているね」「そうだ。柳生十兵衛、という言葉さえ聞かなければ、なんの問題もない死に方だよ。しかし、その謎の一言が、今では夢にまで出てくる始末だ」「君がノイローゼになってどうする? だが、そこには何か意味があるはずだ。柳生十兵衛……知っている限りでは、深作欣ニ監督の『柳生一族の陰謀』で千葉真一が演じていたな」「見たよ。傑作だったねえ、あの映画。俺、やっぱ十兵衛は千葉ちゃん以外に適役はいないと思う。『魔界転生』でも十兵衛やっててカッコよかった。あと柳生一族には成田三樹夫も出てたな〜個人的には東映ヤクザもので一番好きな俳優」「今や、日本映画界にはそういうアクの強い個性派がいなくなりつつあるよな。岸田森とか室田日出男とかさあ、俺、思い出しただけで涙が出そうになるよ」「確かにね〜映画は俳優だよ、俳優。今流行の特撮なんか映画の本筋じゃないね」「てか、話を本筋に戻そう」 と、友人の探偵が突然、醒めた声を出した。「オヤジさんが亡くなった時の様子を、もう一度詳しく聞こうか」 友人の探偵が、問題は解決した、と俺を訪ねてきたのは翌日のことだった。「オヤジさんの無念だな」 と、探偵は呟くように言った。「無念? オヤジが死んだのは、ひょっとして柳生一族の呪いか何かなのか?」「いや、そうじゃない」 不謹慎で申し訳ないが、と言い添えて探偵は笑った。「いいか、脳みそをかっぽじってよく聞けよ」 かっぽじるのは耳の穴じゃないか、という突っ込みも忘れて、俺は探偵の顔を見つめた。「オヤジさんが死に際見ていたテレビは、巨人対阪神戦。延長戦に入ったとき、放送が時間切れになった。タイミング悪くそこに心臓発作……」「オヤジは巨人ファンだった」「彼はそのとき、歯軋りしながらこう叫んだんだ」 野球中継!
─何か懐かしい響きやな。でも思い出されへんわ。きっとその時に素敵なことがあったんやで。─ 俺が出したメールの内容である。何に対して、そう書いたのかは覚えていない。相手先に改めて、話の内容を問いただすには時間が経ちすぎている。その場の雰囲気だけで物を言って、すぐに忘れてしまうのは俺の癖らしい。仕方なく、その日付のその相手先の受信メールを見ることにした。─クリオネって何やったっけ? ─ クリオネ。それはオホーツク海に流氷と共にやってくる、光り輝く透明の生き物。海の妖精の異名をとる、柔らかく神秘的で、見るものに恋を連想させる。 携帯電話をいじる親指が、ためらいなく送信ボタンに伸びる。─一緒になってくれへんか? ─ 以前から言おうとして、なかなか言えなかったことが、メールでは照れずに言える。しかし、いざ送信してみると、恥辱の念を通り越して、後悔の念が先に立つ。─安月給で何言うてんの。──あんたを男として見られへん。──もっと賢い男と結婚したい。─ 予想する答えは否定的なものばかりだった。しかし、五分後に返ってきたメールは予想を上回る意味深いものだった。─吉本入ったらどう? ─ 俺は思い悩んだ。ずっと憧れを抱いていた世界であることは事実である。しかし、俺に人を笑わせる才能があるのだろうか。ぬるま湯に浸かってきた俺には厳しい世界ではなかろうか。そもそも、彼女が俺に送ってきたメールは、冗談だったのかもしれなかった。 震える手で、俺は彼女に電話をかけた。電話に出た彼女は、眠そうな声で「はい。」と言った。「もしもし、俺、やっぱりダメもとで試験受けてみるわ。」「本気で言ってんの? 」「うん。もう近くまで来てんねん。」「何が? 」「とにかく何が何でも頑張るから。」「何言うてるかわからへん。プロポーズやったんちゃうの。」「計画的実行犯や。心臓打ち抜かれたで。」「あんたが打ち抜かれてどうすんの。ちょっともう電話切るで。」「ちょっと待って。ほんまにありがとう。」「もっと勉強しぃや。仕事も大事やけど。」「はい!すいません!ありがとうございます!お疲れ様でした!お先に失礼します!」「『おはようございます』が抜けてんで。じゃあもう電話切るから。」 それまで重たかった気持ちが急に軽くなったような気がした。よし、俺は芸能界のクリオネになろう。─流れ着き 冬本番と なりぬれば 人の心を 癒すクリオネ─
火曜日は、特別な日だ。 部活の後、いつものように後支度をはじめながらその時を待つ。 色とりどりの絵の具を洗い流し、ロッカーにまとめようとしたとき、 がらっと、戸が開いた。「あ、すみません。すぐ終わります」「なに、急ぐことはありませんよ」 そう言って、窓へと近づき、カーテンを閉められる。「ありがとうございます」 そのうちに、急いで荷物をまとめてしまって、「じゃあ」 と、促すと、「ええ」 と、頷かれて、共に廊下へと出る。 何時の頃からか、夜も遅いから女性の一人歩きはあぶないと、一緒に帰るようになった。 戸に鍵をかけ、手渡し、歩き出す。 もう、残っている生徒もいない。 非常灯だけが照らす廊下を、並んで歩く。 たわいもない話をするときもあるけど、今夜は、二人の足音だけが闇に沈んでいく。「では」 いつの間にか、昇降口についていた。「はい」 鍵を返しに行かれるので、別れ、合同玄関前で合流するのが常である。 外に出ると、身を切るような寒さ。 マフラーをしっかり巻いて、玄関を目指す。 もう、ついていらして、あわてて駆け寄る。 その白い息に、「急に、寒くなりましたね」 と、懐炉を一つ手渡してくださった。 夜の中を、二人、懐炉を揉みながら歩く。 ふと、気がつくと、一歩、先に踏み出すような形になった。 夜空を仰いでいらっしゃった。 上を向くと、満天の星空が広がっていた。「冬は、空気が薄いからか、綺麗に見えますね」「ええ、星も、月も……」 その言葉に、先週の授業を思い出す。――古来、日本人は、月に様々な思いを乗せてきました。 日本人ほど、月に思いを寄せてきた民族は少ないのではないでしょうか。 かぐや姫からはじまり、寂しさ、わびしさ、そして美しさの象徴ともなりました。 かの明治の文豪も、月にある想いを託しています。 知っておられるだろうか。 横目で、伺ってみる。 ただ、じっと夜空を仰いでいらっしゃったその顔が、ふと、こっちを向いた。 やさしげなその視線に、言ってもよいのだと思う。「月が……」 みっともないほど、声が掠れる。 少しだけ、息を吸い込んで、「月が、とても蒼いですね」 呆れるような、小さな声。 先生は、少しだけ目を見開いて。 そして、すっと目を細めてわらって、「そうですね」 と、おっしゃった。 また、二人、懐炉を揉みながら歩き出す。 懐炉だけじゃない、暖かなものを感じながら。
※作者付記: 引用:月がとても蒼いですね 夏目漱石
もう四十越えてるデブの妙子さん、自分のことを「たいちゃん」ってゆう。「タイチャン、オユウハン、タイ、タベタイ」 あたしが財布覗いて困ってたら、彼女、すばやく何か携帯電話に打った。ケータイから棒読みの機械音声が出る。「タイジャナイト、ダメ」 ったく、知的ってこういうとこが嫌なんだよな。金銭感覚ねーつーか、なんてゆうか、ある意味、自由。 あたしがホームヘルパーになって最初に受け持ったのが、たいちゃんこと夢枕妙子さんの介助で。もう本名からして推して知るべし。初めて交わした会話なんて、「こんにちは、夢枕さん。幾原由子です。今後ともよろしく…」「タイヘン、タイチャン、ヘイ!」 今なら、初対面のあたし見て、パニクッてたんだと分かる。でもまず彼女がホーキング博士みたいに機械の力、借りて喋ることに驚いた。彼女、自閉症で、知的障害もあって、言葉の発音ができない。車椅子なんかには乗ってないから、はためには普通に見える…。ちょっと服とか変だけど。 一度ダメって言い出したら聞きゃしない。妙子さんがついにキレた。うおおああ、とかそんな感じで叫んでる。でも簡単に引き下がったら彼女のタメになんないし。「お金足りないの、ダメなの!」「ヘイ!」 スーパーの中、大喧嘩です。ああ、人々の奇異の目が…。店員も驚いてこっち見てる。 妙子さん段々パニックひどくなって、店内の果物やら野菜やらを引っ掻き回して投げ始める。あたし、慌てて商品、拾うんだけど…。やばい。店長らしきオッサンが走り寄ってきた。あたしは彼女に体当たりして、転んだところを羽交い締めにしながら叫んだ。「何でもありません!」 我ながら苦しい…。店長と二人、力を合わせて、暴れる妙子さんを取り押さえたものの、すぐに裏事務所へ連れ込まれて説教された。彼女の障害を説明して、なんとか賠償責任の難を逃れる。 っていうか、ヘイ彼女。お礼の言葉もないのかよ。店長お前もな。 で、帰り道。暴れて気が済んだのか、妙子さんはしょぼんとしてる。あたしはかろうじて売ってもらえた買い物袋を手渡した。「ほら、タイじゃないけど魚だよ」 ビニール袋を受け取って、気がなさそうに中身を見ると、妙子さん、ゆっくりと携帯電話を操作した。「タイ、ハ、アリマセン」 彼女の表情がなんか申し訳なさそうだったから、あたし、他意はありません、ってゆうふうに聞こ…。「ヘイ!」 って、おい、走るなよ…。
「年賀状届いてたぞ」 トイレから戻って来た蒲田雅弘が、四谷京作に年賀状の束を渡す。「おぅ、すまねえ」 四谷はコタツからのそのそと這い出すと、テーブルの上の酒瓶やコンビニおせちを寄せて、スペースを作る。「どれどれ」「大して面白いもんもないぞ」 四谷は一枚づつ年賀状を見ていく。「うわー、出来合いの絵入り葉書ばっかし。人望ないな、お前」「やかましい! おっ、こいつは手描きだぞ」 ハガキには、袈裟を着た僧侶が二人描かれている。「……和尚が二人で、和尚がツー? 笑えねーー」「待て待て、そんな簡単に納得していいものか?」 四谷はまじまじとハガキを見つめる。「かねてから不思議に思っていたのだが、和尚がツーとは、本当に和尚が二人いれば良いものなのか?」「良い悪いなのかなぁ」「数学的に言うなら、2和尚だろう?」「小泉的に言うなら、和尚の二乗か?」「総理がどうかしたって?」「小泉と言ったら今日子だろう」「なるほど、キョンキョンか。そういう見方もあるな」「……ボケたんじゃなかったのかよ?」「そもそもだ」 酒瓶に残った日本酒を、四谷はコップにつぐ。「日本土着のものである仏教の和尚に、どうして英語の2を意味するツーがつく? おかしいだろう?」「仏教はインド発祥だよ」「むむ、インドか。だったら英語圏のイギリスの植民地だったから、納得が行くかも……」「いかねえよ。仏教伝来は飛鳥時代だ」「ふむ、やっぱりだ」「お前の説、真っ向否定されたとこじゃねえか」「いいや、ツーとは、2を意味しないって事が証明された訳だ」「じゃ、なんだってんだよ?」「ツーとはつまり、日本語だ」「日本語で2は『に』じゃねえか」「違う。別のツーだ。すなわち、ツーと言えばカーのツーだ」「妙なところに迷い込んで来たな」 蒲田は新しい日本酒の瓶の蓋を開ける。「お正月はどんちゃん騒ぎだろう。しかし、和尚は酒も呑めなきゃ、香りの強い料理も喰えない」「ああ、だから和尚がツーと言えば檀家がカーで、般若湯だの何だの言って、酒を出したり料理を出したりしたという、正月の無礼講さを示したものなんだな」「おい! 何て事をするんだ、オチを言っちゃまずいだろ! これじゃオチないよ! おい!」「大丈夫だって、ふぁふぁ、おれだってきちんと考えてあんだから」「本当かよ、ふぁああ、うーー、興奮したら回って来たーー、やばいよーー、ぐーーーー」「ほら、ぐーーー寝オチ……」
いざ結納となって初めて彼女の家に行くというのもどうかと思いつつ、この暑いのに背広を着込んで、古い家屋の並ぶ入り組んだ路地を彼女の手書きの地図を頼りに辿ってゆく。頭上では油蝉の大合唱が止まず焦りを誘っている。広告の裏に水性ペンで書かれた道順は汗ですっかり滲み、紙は湿って指の形を正確に辿る。迷いやすいから一緒に行こうという彼女に、一人で大丈夫と見栄を張ったことを僕は後悔していた。似たような景色を何度も曲がり、一際寂れた路地に辿り着くと、縁側に小汚い中年男が座り僕を見ている。彼は一言「あっち」と言って路地の奥を指差した。何故彼が僕の行く先を知っているのか。実に不可思議だがこれぞ運命の導きとやらに違いない。そう考えると心の奥底から澄みわたるようで、僕は目の前の中年男にそっと接吻した。さて男と別れ足早に歩んでいたが、すぐにまたぐるぐると同じ処を廻るようになり、いやこれは困ったと顎に伝う汗をぐいと拭った時、目の前にまたあの中年男が座っている。文句の一つも言わねばならんと詰め寄ったが、男は切ない瞳で僕を見上げ、垢染みたシャツの上から僕の腹を痩せた指でたどたどしく愛撫する。そのあまりの拙さに苛立った僕は彼の胸元に手を差し入れ、まだ手も触れない彼女に今度絶対してやろうと妄想していた技巧で彼を昂ぶらせ、彼の尻の穴を後ろからファックした。射精の開放感に浸る僅かな隙に、汗臭い痩せた肉に組み敷かれ、抵抗したが逃げられない。長い抽送の末彼が遂に僕のアナルに精を放った頃には見知らぬ景色はすっかり暮れており、肩に弛んだ腕を回した中年男の暑苦しい息を脇に聞きながら、これはいよいよ抜き差しならぬ処に来てしまったと覚悟するほか無かった。日を改め、引越しの挨拶にと地区の名家でもある彼女の家へ男を伴い訪問したが、案の定彼女も両親もご立腹で、二度と敷居を跨ぐこと罷りならぬと厳しく申し渡された。これが寄る辺なき慎ましい二人暮らしの始まりとなったのだが、三月も経たぬうちに今度は彼女が我が家を訪れた。男所帯の狭い一間に嫌そうに座ったかつての許婚者は中年男には目もくれず、貴方の子です認知なさいと、産着の男児を床に置き、さっさと出て行ってしまった。困惑しつつ抱き上げた赤子であったが、肌の熱さに我知らず愛おしさが滲み出る。それからも僕は毎朝仕事に出かけ、夕方になると中年男と幼子の待つ家に、どのようにしてか辿り着くのだ。
洗い物一つであれこれ言うつもりはないのだけれど、少しは手伝って欲しいと思う。からからにひび割れた指先が悲鳴をあげている気がして、私はぐちぐちと不満を漏らしてしまうのだった。 いつの頃だったか、まだ私が随分若い頃に二十余人分の大小様々な食事皿や箸、スプーン、フォーク、鍋などを洗い尽くした夜があった。大変、そんな一言で片付けられてはたまらないほど大変な量と苦労だった。一心不乱にスポンジに洗い物を押し当て、こすってはお湯ですすぎ、すすいではそれを逆さに向け、丁寧にカゴに収めていく。何度も同じ単純作業を繰り返していると不思議なもので、無の境地なんて格好いいものではないが、次第に顔から何からすうっと血の気が引いていくのがわかった。 至極冷静な私がそこにいる。水と洗剤の境界線や、すすいだ洗い物に反射する蛍光灯の光が、顕微鏡でズームアップしたみたいに瞳に映る。一畳ほどの世界で繰り広げられる流れ作業。ああ、私はこんな地味なことで得難いものを得られたのかな、と思うと奇妙な不平等を感じてしまう。誰も抗うことの出来ない奇妙な世界の不平等。一生費やしたって到達できないイタダキが、確かにそこにはあるのだ。 足元に擦り寄ってくる猫がノドをごろごろ鳴らしている。私は手を止めて、エプロンで拭った湿り気のある掌で猫の頬を撫でた。まじまじと私を見つめてくる猫の顔を見て、この子は受け入れていると思った。禍々しいバケモノのような世界。猫にもあるの、猫だって苦労するの、爪のひとつくらい立てたくなるわよ。 受け入れて、尚且つ敗者の様相を呈している茶と黒の斑な猫。痛々しい目脂。鋭い爪。 今の私はその時の私とは違う。量の違いはあれど、あんなふうに無我夢中に目の前の洗い物に集中できなくなった。向かいの居間では、息子と主人が人気バラエティを見ながら大笑いしている。その様子を背中で感じて、私に覆い被さろうとしている、価値を持たない黒ずんだ紫色のもやもや。あざ笑うオレンジ色の貧弱な換気扇。猫はもういない。 観念してそれを受け入れようと覚悟したが、ふいに気配が消えた。後ろを振り向くとそこに息子が立っている。「母さん、あとは俺が片付けるからいいよ」 息子が大きな体で不器用に水に触れ、側で硬直する私。「母さんどうしたの? もういいよ?」 無意識にひび割れた指先をエプロンのポケットにしまった私の顔は、きっと真っ赤だったと思う。
寒風の中、疾走する刑事カミヤマの背中には、汗が滲み始めていた。またひとつマメが潰れたようで、右足に激痛が走る。 両手を無理に大きく振り、呼吸を歩調に合わせる。長身の彼を支配しているものは、職務意識でも、正義感でもなく、溢れるエネルギーの躍動そのものだった。熱の塊となったカミヤマの全力疾走が続く。 去年から組んでいるヤマダ先輩は、年齢以上に体力が減退していたようで、駅前で発見したホシが商店街を抜ける頃には息が上がってしまい、「後は任せた。逃がすなよ」 と叫んで戦線を離脱した。その後は、彼とホシの一騎打ちとなった。 カミヤマが漲る活力に身を任せるに従って、目前のホシは、単なる被疑者や容疑者の枠を越えて、逃走者から探求の対象へ、そして今や崇高な哲学的目標と化していた。しかし、それは精神世界の話で、実際のところカミヤマは、昼下がりの住宅街をひた走るホシを追い続けた。「ホシは高校時代、陸上部に所属。全国大会の出場経験があり。優秀な成績を残したが、三年生になって、学校に来なくなり、暴行事件で補導され、停学の後、中退。上京し、今回の事件を……」 金銭の為に他人に危害を加える行為は、既に許しがたいが、無抵抗な相手に拳銃を向けたことが、カミヤマ個人の嫌悪感を煽った。彼は機械と化し、正確に走り続け、ホシを追い詰めていった。何かに取り憑かれたかのように。 実際、相手が逃げるから追い掛けるという単純な衝動だけで、都内三区を縦断する追跡劇を演じられるものではない。「ホシは他県で、警ら中の巡査を物陰から襲い、所持していた拳銃を強奪。襲われた巡査は腹部に銃弾を受け、意識不明の重体。その後、同県で一件、都内で二件の強盗を働き、その際、三発の銃弾を使用。弾装にはまだ一発残っていると思われる。充分注意して……」 遂にホシに追いついたカミヤマは右手を伸ばし、ホシの上着を掴んだ。それを力いっぱい引き寄せて、ホシを半回転させるやいなや、右足で相手の顎を思い切り蹴り上げた。渾身の一撃を受けたホシはアスファルトに崩れ、同時に蹴りを放ったカミヤマもバランスを失い倒れ込んだ。警告も威嚇もない、追跡の終結だった。 カミヤマは素早く上体を起こした。 パーン、乾いた銃声が響く。 弾丸はカミヤマの右頬を掠めた。それを待っていたかのように、カミヤマはホシに躍り掛かり、顔面を連打した。四発、五発、車道が赤黒く染まっていった。
南国の街に雪が降った。 驚天動地のこの事実に、街の人々は「この世の終わりが来たのか!」と口々に言いあった。 恐れおののく人々のなかでただ一人、その老人だけは確たる意志を秘めた目で街並みを白く染める雪を睨んでいた。「ついに、追っ手がここまで来たのか――」 南国の冬を知らない太陽は、分厚い雪雲のカーテンに閉じ込められて影も見えない。冷えこんだ街路に毛足の長い雪の絨毯が敷かれていき、コートどころか長袖の服すらもっていない住人は家に閉じこもって毛布を被り、舌が焼けるほど熱いスープを啜って震えていた。 いまや極寒の冬景色に支配された目抜き通りを、深い灰色のコートに全身をつつんだ男が歩いていた。もしも通りにでてきて彼を見つけた者がいたならば、街を覆った寒波が彼を中心にして放たれていることに気がついただろう――彼の周囲は、雪の結晶がきらきらと舞っているのが見て取れるほどの冷気で満ちていた。「……」 コートのそいつは時折立ち止まりながら、街の中心にある安宿へと近づいていった。 安宿の一室にもう何ヶ月も滞在していた老人は、急いで逃げる準備をしていた。「早く、急がなくては……ええい、鍵が閉まらん!」 老人は荷物を詰め込んだトランクケースの鍵と格闘していたが、ついには諦めて近づく冷気の源泉から逃げだすべく部屋から飛びだした。 ――しかし一足遅かった。「ようやく見つけましたよ、将軍」 コートの男は、氷よりも鋭い声で老人の行く手を阻んだ。古ぼけた宿の開け放たれた玄関を挟んで内と外で、男と老人は対峙した。 老人が呻き声をもらす。「今更、このおれに何の用があるというんだ?」「用などありません。強いて言えば、用済みになって頂きたい――というところでしょうか」「相変わらず冗談の下手なやつめ!」 忌々しげに吐き捨てた老人だったが、もはや逃げる術はなかった。「あなたは冗談が上手すぎたんです――将軍、これでさよならだ」 男の口許を彩った冷笑が、老人がこの世で見た最後の光景だった。 暖冬の予報が厳冬に書き換えられる数日前の出来事である。